両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第48回定例会
運ばれた塩
―飛鳥地域の製塩土器から探る―


Vol.202(14.11.28.発行)~Vol.206(15.1.9.発行)に掲載





【1】 (14.11.28.発行 Vol.202に掲載)     もも

 今号から第48回定例会の咲読を始めます。全部で4回を風人と半分こして二回目までを もも が担当することになりました。よろしくお願いします。m(__)mペコッ

 第48回定例会は、年が明けた2015年1月17日に、帝塚山大学大学院 人文科学研究科 研究生の河村卓先生をお招きして、「運ばれた塩―飛鳥地域の製塩土器から探る―」と題した講演会を開催します。

 河村先生は、製塩土器を研究されているそうで、先日の打合せでも興味深い話をお聞きしながら楽しい時間を過ごさせていただきました。製塩土器というからには、塩作りに使われる土器であることは、容易に想像できます が、運ぶための容器でもあったようですね。

 飛鳥に運ばれた製塩土器は、海に面した地域から持たされたものなのかもしれません。製塩土器の破片を追いかけて行くことで、飛鳥の人々の生活を支えた塩が運ばれた道(シルクロードならぬ列島内のソルトロード?)や他地域との繋がりが見えてくるのかもしれません。第48回定例会の講演で、是非皆さんも、河村先生の熱い思いを感じていただければと思います。(^^)

 そうそう、お知らせや情報枠でもご紹介していますが、同じく製塩土器に関する河村先生の講演会「奈良時代の塩を考える―平城京出土製塩土器より―」が12月13日(土)に帝塚山大学の市民大学講座であります。こちらは、奈良時代のお話。両槻会主催講演会では、飛鳥のお話をして頂くので、飛鳥・奈良と時代を繋げて理解するいい機会だと思います。ご都合のつく方は(いやいや、無理に都合をつけてでも(笑))、是非是非第48回定例会と合わせてご参加ください。(^^)

 さて、話は唐突に変わりますが(笑)、皆さんのおうちの台所に塩はありますよね?最近では、お店にも色々な種類の塩が並んでいますから、何種類かを使い分けているお宅も多いかもしれませんね。随分前になりますが、σ(^^)も岩塩の小さなカタマリを買ったことがあります。何処の国のものか忘れましたが、綺麗な半透明のピンク色でした。でも、結局うまく使いこなせず・・・調味料は、見た目で買っちゃいけませんね。(^^ゞ

 塩は、人が生きていくうえには欠かせないものです。もうすっかり寒くなりましたが、夏場の熱中症対策に塩分摂取が煩く言われたことが耳に残っている方も多いと思います。こういうことが話題になるまで、σ(^^)は、塩ってわざわざ意識して取らないといけないものだとは思っていませんでした。

 ただ、取り過ぎもいけないようですね。厚生労働省が定めた「日本人の食事摂取基準」で勧められている1日の塩分摂取量は、2005年には成人男性10g未満、成人女性8g未満とされていたものが、2010年には男性で9g未満、女性で7.5g未満とされ、さらに、WHO(世界保健機関)からは、成人は1日5g未満にすべきと提唱されているようです。5gっていうと小さじ一杯。塩分は調味料以外の食材にも含まれているそうですから、これを実際どうすればいいのか、σ(^^)には皆目見当もつきません。必要だけど取り過ぎてもダメな厄介な塩。過ぎたるはなお及ばざるが如し・・・か?

 和食の味付けの基本といわれる「調味料のさ・し・す・せ・そ」は、皆さんご存知だと思います。大抵の煮物などは、この順番で加えると良いとも言われます。これらの調味料のうち、砂糖以外は、古代にもほぼ同じようなものがあったようです。(塩・酢・醤【ひしお・醤油のようなもの】・未醤【みそ・味噌のようなもの】があり、砂糖は、奈良時代には伝来していたとされるようですが、薬用とされた高価な物。江戸時代には薩摩で製造が始まったとされますが、一般に調味料として普及した歴史は、比較的新しいようです。)

 古代の調味料の中では、塩だけが醸造や発酵などの過程が無いものになります。食用の塩は、塩化ナトリウム(NaCl)を主成分としているものの、それオンリーでは無いそうなんです。σ(^^)は小学生の時に、理科の実験室にあったNaClと書かれた白い粉を「塩や」と、ペロッと舐めて酷い目に遭ったことがあります。良い子は真似しないように・・・^^;近頃のσ(^^)は、売り場で塩を見掛けると、つい手に取って原材料の欄を確かめるのが癖になりつつあります。一種の定例会病かも(笑)。

 また、振り塩・立て塩・化粧塩 ・敷き塩 ・尺塩など料理に使われる言葉や、手塩にかける・青菜に塩・敵に塩を送る・盛り塩など、ことわざなどにも多くの塩を使った言葉がみられます。

 周囲を海に囲まれた島国の日本では、古来海水から塩を作っていたようで、その様子は、万葉集からも少し窺うことができます。次回は、万葉集に因む塩のお話にしようかな・・・と思っています。











【2】 (14.12.12.発行 Vol.203に掲載)   もも

 第48回定例会の咲読2回目も、ももの担当になります。今回は、万葉集に登場する「塩」について少しご紹介できればと思っています。

 万葉集歌の中で「塩」と詠み込まれたものは、20首ほどあります。そのなかで「塩焼く(焼き)」「焼く塩の」「塩焼衣」など、塩の前後に「焼く(焼き)」を伴ったものが多く目に付きます。塩は焼くもの?何のために?これは、海水から塩を取るための作業だとされています。

 万葉集には、塩焼きをしている女性の姿が詠みこまれたものがあります。

   志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに(3-278)
   (藻を刈ったり塩を焼いたり忙しくて櫛を取ってみることもない)」
   須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず(3-413)
   (須磨の海女の塩焼き衣の藤衣のように間が空きすぎてはなかなか馴染まない)

  塩焼きをする女性は髪を梳く暇もないとか、身に着けている服が粗末な
 衣(藤衣)であることが喩えとして登場します。なんだかなぁ~・・・っ
 ていう言われようですよね。(=_=)
名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみてたもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ(6-935)
 この歌は、笠金村が神亀3年(726)に聖武天皇の播磨行幸の際に詠んだ歌とされています。藻塩は、大きくは、藻(海藻)を用いて採取される塩と言う意味のようです。同じ名前の塩を、スーパーで見かけることもありますので、少し身近に感じるかもしれませんね。

 また、塩焼きにより煙が立っている様子が詠われたものを何首か見ることができます。

  志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく(7-1246)

 塩は、海辺で焼かれたのでしょうか。
 笠金村の歌にある「朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ」から、塩作りに従事していた人々の生活が垣間見られるとされています。朝に藻を刈り、夕凪に藻塩を焼く・・・ほぼ一日中製塩の業務に携わって、海辺にいたということなんでしょうか。それとも、日中はまた別の農作業などのお仕事もしていたのかもしれません。それはそれで、また苛酷だ・・・。

 ただ、「藻塩」という言葉がでてくるのは、この一首だけで、塩は登場しませんが、塩作りを表しているとされる歌があります。

  志賀の海人の磯に刈り干す名告藻の名は告りてしを何か逢ひかたき (12-3177)

 「名告藻」は、「なのりそ」と読み「名乗る」との語呂合わせのような歌ですね。(^^ゞ

 最初の三句「志賀の海人の磯に刈り干す名告藻の」までは、次の「名は告りて」を呼び出すための序のようなものなんだそうです。名告藻(なのりそ)は、海藻のホンダワラとも言われ、「磯に刈り干」されている名告藻は、塩作りに利用されたと言う説があります。

 さて、ここまででみた万葉歌には、それぞれ「志賀」「須磨」「松帆の浦」などの地名が登場しますが、塩の詠み込まれた20首近い万葉歌の中には、この他にも塩津山・塩津など塩と付く地名と思われるものや「浦」や「浜」など海辺を連想する地名が登場します。


 海水から作られた塩。塩が海辺で作られたのなら、これらの地名はその生産地を教えてくれているのでしょうか。

 今回は、「塩」と一緒に「焼く」「煙」「海藻」などのキーワードを万葉集歌から拾い集めてみました。これだけをみると、海藻を集めて干して焼けば塩が出来ると受け取れますが、これがそのまま古代の塩作りを素直にあらわしているとも言い切れないようです。この辺りが難しいところで、歌は何処まで行っても歌でしかなく、三十一文字の中に現実を丸ごと忠実に落とし込んでいるとは言えません。あくまで、思い描く縁のひとつとして・・・ということなんでしょう。

 咲読は、次号から風人の担当になります。お楽しみに。













【3】 (14.12.26.発行 Vol.204に掲載)   風人

 第48回定例会に向けての咲読も、3回目になりました。今号は、風人
が担当します。年末の慌ただしい日々の中ですが、お読みいただければ幸いです。

 去る12月13日、帝塚山大学市民大学講座が開催され、第48回定例会の講師であります河村卓先生が講演をされました。定例会の予習になればと、事務局スタッフや定例会の常連の方々と一緒に聴講してきました。講演テーマは「奈良時代の塩を考える-平城京出土製塩土器より-」で、両槻会定例会の講演内容と深く関わる内容でした。

 当メルマガでも関連講座としてご案内をしていましたが、講演は製塩土器だけにとどまらず、「塩」その物の話、塩の生産方法、都への搬入方法、そして生産地など、塩というキーワードから様々な事柄が見えてくることを教えていただきました。

 河村先生は、聞き取りやすい話口調です。若い先生ですが、話の組み立てなども巧みで、講演内容がスムーズに頭に入ってきました。“掴み”や“くすぐり”なども入り、ベテランの先生かと思わせるような話しの展開を聞かせてくださいました。両槻会定例会でも、きっと楽しませていただけると思います。是非、ご参加ください。

  さて、河村先生の講演を聴講して、私は塩について様々な興味が出てき
 ました。今回の咲読では、それについて書いてみたいと思います。

 最初に思ったのが、塩の流通でした。飛鳥や藤原京の時代になると、少なくとも数万人が都の近隣に住んでいたと思うのですが、製塩土器だけが塩の運搬に使われたのなら、もっと出土していても良いのではないかと思いました。

 今まで、塩の生産の最終過程で使われる製塩土器が運搬容器としても使われ、使用時に割って塩を取り出すと単純に考えていたのです。飛鳥は、天皇がおられるところであり、巨大なお寺が建ち並ぶ場所ですので、出土例が少ないだろうことは想像できるのですが、人の住む地域には、かなり多くの製塩土器が出土するはずです。

 今日、1日の塩の摂取量は成人男性で10g以下が良いとされますが、4人家族で1日40g。スーパーで買ってくる塩は、1kgの袋詰めで、一袋は25日分になります。年間では15kgの塩を摂取することになります。製塩土器の大きさにもよりますが、かなりの数量が使われた計算になりますね。

 麻袋など、他の容器での運搬はどうだったのでしょうか。土器だから後世に残り、麻などの植物繊維だから残らなかったということも考えられますが、その辺りをもう少し勉強したいと思いました。

 奈良時代になりますが、平城宮から出土した木簡には、「飯五斗」と「塩一百顆」を女官の「真浜女」に支給したことが記された物が有ります。「飯五斗」は、約30kg。「顆」は片塩(堅塩)の単位だそうで、一顆は五合、一升五合、三升などの例があるそうですが、最小の五合(小升)として、一百顆は約13リットルほどになります。塩の比重などを換算すると、20kgほどになり、市販の塩の袋詰20個分になります。この計算には、すべて最小の数字を当てはめていますので、最大値はもっと大きな数字になります。やはり、市場には大量の塩が流通していなければなりません。果たして、製塩土器だけで流通を賄えたのか私には疑問に思えました。

 次に、各地に見える「塩」の付く地名が気になりました。日本各地には、塩沢・塩田・塩野・塩尻・塩原・塩浜・塩屋・塩釜・・・など、塩に関連する地名が存在し、約600ヶ所を数えるそうです。また、その所在地は、長野や山梨・岐阜県など、内陸県にも多く存在するようです。

 一般的には、塩の道を通って搬入された塩の集積地や中継ポイントなどに名付けられたのだとされているようです。ただ、「シオ」の名前には、地形に由来するものがあるそうで、すべてが「塩」を意味しないそうです。

 地名を調べていて頻繁に出てくる話が、「敵に塩を送る」という話です。永禄11年(1568)、甲斐の武田信玄と対峙する今川、北条両氏は、図りあって武田領(甲斐・信濃)への塩の商いを禁止しました。その結果、内陸にある甲斐・信濃の人々は大変難渋したとされます。その時、武田信玄のライバルである越後の上杉謙信は、「戦いは兵をもってするものだ」といって自領はもとより、他領の商人に対して、値段を上げることなく塩を送ることを命じました。この故事から、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとされています。ただ、この事変を裏付けるような資料は無いそうです。(^^ゞ 

 この越後から信濃に運び込まれたルートの千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道とも呼ばれる)は、新潟県糸魚川から長野県大町、松本、塩尻に至ります。また、封鎖された方の太平洋側のルートは、三州街道(愛知県岡崎から長野県飯田、塩尻に至るルート)や、秋葉街道(静岡県御前崎から長野県飯田、塩尻)があったようです。

 さて、ここで面白い話が出てきます。長野県松本市では、定例会の前週に当たる1月の第2土、日曜日に「松本あめ市」というお祭りが行われます。本来は、1月11日に行われていたそうで、その日は、謙信が送った塩が松本に到着した日だとするのです。このお祭りは、元は「塩市」と呼ばれたそうですが、江戸時代に当地は飴の生産量が全国で1番多かったことから、飴売りの屋台がたくさん出ていたそうです。そのようなことから、何時しか「あめ市」と呼ばれるようになったそうです。

 塩について、思いつくままに興味を書き綴りました。次号では、講演でも出てくるかもしれませんが、「調塩」、「庸塩」について、少し考えてみたいと思います。














【4】 (15.1.9.発行 Vol.206に掲載)    風人

 第48回定例会に向けての咲読最終回です。定例会まで、もう僅かですね。直前まで受付ていますので、是非、お申し込みください。

 さて、今回までは、製塩土器その物には触れなかったのですが、少しだけ書いてみることにします。皆さんは、製塩土器なるものをご覧になったことが有るでしょうか。まずは、この写真をご覧ください。


製塩土器と塩

 土器内に見えるのは、河村先生が作られた塩なのですが、このように塩作りの体験が出来る施設があるようです。そのお話も講演の中で聞かせていただけることでしょう。

 まず、私は製塩土器が綺麗な形をしているのが、とても印象的でした。それで、製塩土器の形を少しですが調べてみることにしました。


各地の製塩土器のシルエット

 まるで、ワイングラスやビアマグのように見えます。製塩土器には、塩の産地によって形に特徴があるようです。それを追いかければ、例えば飛鳥地域に搬入された塩の生産地が分かってくるということになります。

 しかし、なぜこのような形状になったのでしょう。多くは、不安定な形をしているように見えます。平らな所に置いたり、運搬には不向きな形ではないかと思いました。ですが、調べて行くうちに気づいたことが有ります。この製塩土器は、製造過程には適した形だったのではないかと。そこで、塩の生産工程を考えてみました。古代においては、塩は海水を濃くして行き、煮詰めて水分を飛ばします。最終的には、野焼きになります。

 あっ! 野焼きに立て掛けやすい形なのだ!

 と、私は思いました。下が広い形より、木や藁などの火床や砂に突き刺すのに都合が良いからなのではないかと。運搬時には、塩は堅く焼き固まっていますから、逆さになってもこぼれることはありません。どうでしょうか?これは私の思い付きです。他に何らかの理由があるのかは分かりませんでした。定例会で、ぜひ河村先生のご見解を聞いてみたいと思っています。

 話は変わりますが、先日聴講しました河村先生の講演の中で、漢字が直ぐに頭に描けなかった言葉が有りました。それは「ちょうえん」という言葉でした。私の一番身近な「ちょうえん」は、母が入院した時の原因となった「腸炎」でした。(笑) そんなことはないでしょうから、一生懸命考えた末「調塩」に思い至ったのです。講演の中で使われる言葉が漢字に変換できないことがしばしばありますよね。普段使わない言葉は、難しいですね。PCで平仮名を使って検索してみると、ずらっと並ぶのは「腸炎」でした。(^^ゞ 歴史の用語は難し!

 さて、「調塩」ですが、もちろん租庸調の調として納められる塩のことです。租庸調は、律令制度の中の税制と考えると良いと思います。

 少しおさらいをしますと、租は、口分田に課せられる地税(田税)、庸は年20日の労役、調は諸国の産物を納めるもので、塩を調として納めた地域も多かったようです。「調塩」とは、税として納めた塩のことになりますね。

  奈良時代の塩に関する木簡の中に、若狭からの塩の輸送を示す荷札が多くあります。

  「三方郡弥美郷中村里<別君大人三斗>」

 この木簡には、調塩の量と思われる単位「三斗」が書かれています。成人一人当たり3斗(54リットル)の塩を納めていたことが分かります。塩の比重は、結晶としては「2.16」だそうなのですが、我々が通常手にする食塩は、1.29から 1.37とされるようです。ですので、重量にすると3斗は54リットルですので、69.66kgから73.98kgということになります。

 普段、私達がスーパーで買う袋詰めの70個から74個分ということになりますね。これが、生産者にどの程度の負担になるのかは分かりませんが、他の調として納められている物の量と比較すれば、平城京の物価なども分かってくるかも知れません。

 また、「庸塩」というものも有ったようです。これは、労役の代わりに納められた塩のことだそうです。

 人には、絶対必要な塩。身近に有ったからこそ、様々な情報を得られる可能性が有ります。河村先生の講演からも、たくさんのことを楽しく学べることでしょうし、そこからまた各人の興味が生まれてくるのではないかと思っています。

 次回からは、第49回定例会(3月定例会)、ウォーキング「吉野山から宮滝へ」の咲読を開始します。



 


















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