飛鳥咲読
第52回定例会
蘇我を歩く
―発祥の地から終焉の地へ
Vol.223(15.9.4.発行)~Vol.225(15.10.2.発行)に掲載
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【1】 (15.9.4.発行 Vol.223に掲載) 風人
今回より第52回定例会(2015年10月3日実施)の咲読を始めます。担当は、相も変わらず、風人ですが、どうぞよろしくお願いします。
さて、10月定例会は、歩きには適したシーズンに入ってきますので、ウォーキングにしました。徒歩の距離は、おおよそ10km弱と思っていただければ良いかと思います。
近鉄真菅駅から入鹿首塚をゴールにしたコースで、出来るだけ蘇我氏に所縁を持つ地を経由しながらウォーキングを楽しもうと思っています。
立ち寄るところは、バラエティーに富んだコースになります。中には、第51回定例会の関連資料で取り上げました今井町の古民家にも立ち寄ることになっていますし、横大路を歩くコースにもなります。また、大和盆地の南部を潤す曽我川・飛鳥川を遡行するコースでもあります。
実際に歩かれた方は少ないのではと思うのですが、飛鳥時代を考える上では欠くことのできない蘇我氏をテーマに現地を踏んでみるのも興味深いのではないでしょうか。蘇我氏の発祥の地には様々な説があると思うのですが、今回は橿原市曽我町周辺説を採ってのウォーキングになります。
第52回定例会は、蘇我氏所縁の地を巡る「蘇我を歩く―発祥の地から終焉の地へ―」と題したウォーキングテーマにしました。
近鉄真菅駅 → 宗我都比古神社 → 横大路 → 入鹿神社 → 今井町 → 鷺栖神社 → 田中廃寺跡 → 法満寺 → 和田廃寺塔基壇跡 → 古宮遺跡 → 豊浦寺跡 → 甘樫丘 → 入鹿首塚 →(バス)→橿原神宮前駅(歩行距離:約9.5km)
真菅駅は、橿原市曽我町に所在します。集合場所から、いきなり蘇我氏の香りがする地名になっているのですが、駅を降りると直ぐに宗我都比古神社があります。
縁起では、推古天皇の時代に当地を拠点とする蘇我馬子が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿祢夫妻を祀ったことを起源としています。『延喜式神名帳』では大社(官幣大社)に列し、朝廷からの崇敬を受けていました。蘇我氏悪人説というのは、いつから起こったことなのでしょうか。ルート中には、入鹿神社も在ります。所縁の地とは言え、不思議な感じもしますね。
神社からは南下して、曽我川堤防にも上がってみたいと思っています。西には視界が広がり、二上山や葛城の山々が意外に近い距離に見えます。自分たちは、葛城氏から出たのだという蘇我氏の発言も、この景色を見ているとなんとなくそんな気もしてきます。(笑)
この辺りから、東へと進むことになりますが、横大路の名残の街道を進むことになります。
一部分ですが、道路幅に比べて交通量の多い所が有りますので、注意して歩かねばなりません。入鹿神社は、横大路から若干北に入った所に鎮座しています。入鹿を祀る神社は、全国にこの1社しかないそうです。悪人とされる入鹿を祀ってこられたのには、様々な困難も有ったのでしょうね。特に明治政府にとっては、天皇に仇なす大悪人であったわけですから、社名を変えるように圧力も掛かったようです。
さて、ここからは、再度南下が続きます。今井町を通り抜けるのですが、今回は今井町探訪が目的ではありませんので、町並みを楽しんでいただきますが1軒の民家(旧米谷家)だけを訪ねることにしました。第51回の資料も参考にしていただければ良いかと考えています。
今井町の町並みを抜けると、飛鳥川が直ぐ近くを流れています。ここからは、飛鳥川に沿って、南東方向に進むことになります。しばらく進むと甘樫丘や飛鳥の山々が見えてきますので、蘇我発祥の地とされる橿原市曽我町から飛鳥まで、意外と近いと思われる方も多いのではないかと思います。歩くだけでしたら、健脚の方なら2時間で曽我から飛鳥の中心部にたどり着けるのです。蘇我氏は何を思って、飛鳥を目指したのでしょう。その辺りを考えながら、私達は飛鳥川沿いに造られた河川公園で昼食にしたいと思っています。
次号では、コースの後半をご案内します。
【2】 (15.9.18.発行 Vol.224に掲載) 風人
第52回定例会に向けての咲読、2回目になります。前回は、ウォーキングの前半、今井町を出て飛鳥川河川敷公園での昼食まででした。今回は、明日香村の入口までをご案内します。
国道24号線を渡り、飛鳥川の堤防沿いを南東方向に進みます。ここから暫く飛鳥川の両側は桜並木となり、春には桜のトンネルの中を飛鳥川が流れることになります。近隣では「そんぼの桜」として知られている桜の名所です。桜のシーズンに、是非お越しください。
暫く進むと、鷺巣神社が在ります。社は飛鳥川の氾濫などで移っていると思うのですが、『延喜式』に記される古社です。未詳ですが、中臣氏の氏神として飛鳥で祀られていたようですが、藤原京遷都の折に日高山に遷座され藤原京の守り神とされたとも言われるようです。
さらに進むと南東から流れる飛鳥川と別れ、真南に向かうことになります。甘樫丘から北西の方角を見て、田んぼの中に見える大きな白い建物を記憶しておられる方も多いと思うのですが、ウォーキングの次のポイントは、その建物の近くになります。建物は橿原リハビリテーション病院と言います。
地名は、橿原市田中町です。舒明天皇の田中宮や田中廃寺の所在地と考えられている場所になります。集落の中には「弁天の森」、「天皇藪」と言われる土壇が在り、大型建物の基壇跡ではないかと言われています。写真をご覧ください。
土壇 |
写真の建物の手前にブランコや滑り台が在る辺りが、壇状になっているのが分かりますでしょうか。また、病院東側の発掘調査では四面庇の建物や塀などが検出されており、田中廃寺の関連施設ではないかとされました。弁天の森土壇辺りに、田中廃寺の中心伽藍建物が想定できるかも知れませんね。
田中廃寺は、蘇我氏の支族田中臣の氏寺ではないかとされています。周辺には、他の蘇我氏の支族の領地と考えられる土地や創建の寺院が建ち並び、まるで飛鳥への道筋を示しているようにも思えます。
また、田中廃寺の一帯は、舒明天皇が飛鳥岡本宮の焼失後に厩坂宮に遷るまでの間の仮宮とした田中宮が在ったと考えられています。田中廃寺は、宮があった地に後に造られた寺院と考えられるようです。
私たちは集落内を縫うように進み、「天皇藪」や法満寺に残る礎石を見学して、東南方向に進むことにします。
暫く、のんびりと田んぼの中を進むのですが、住宅地に近づいたところに和田廃寺塔基壇が見えてきます。遠くからは、大きな土団子のように見えるだけなのですが、周辺を含めて発掘調査が行われています。周辺からは、鴟尾が出土しています。土壇は、和田廃寺の塔跡の西半分だとされており、よく見ると土壇の上には礎石の一部や石材が残存しているのが見えています。周辺には、トウノアト・堂の前といった小字名が残っており、古代寺院が在ったことを伝えています。
現在、他の中心堂宇は発見されておらず、寺名も確定していませんので、幻の寺と言えるのかも知れません。ただ、寺名に関しては、聖徳太子建立7寺に挙げられる葛城尼寺とする考えが有力なようです。『上宮聖徳法王帝説』には「葛木寺、葛木臣に賜う」と記している一文があります。『聖徳太子伝暦』にも、同じ内容で蘇我葛木臣に賜ったと記されているのですが、実際には、その逆で蘇我葛城臣が氏寺として建立したものではないかと考えられるようです。蘇我葛城臣は、蘇我氏の同族と考えられます。
ここからは、西に方向を転じます。いよいよ明日香村に入ってきました。まずは、豊浦での蘇我の痕跡を見て行くことになるのですが、字数制限が迫ってきましたので、続きは次号とさせていただきます。次号では、ゴール地点の入鹿首塚までと、総まとめの蘇我の話で締めたいと思います。
【3】 (15.10.2.発行 Vol.225に掲載) 風人
第52回定例会に向かっての咲読も、早くも最終回を迎えました。今年は、不定期の定例会になっていますので、もう明日は定例会の実施日です。
和田廃寺塔跡から東に向かい、豊浦駐車場までやってきました。田んぼの中のこんもりとした土壇の上に、一本の木が立っています。古宮土壇として知られるものですが、周辺を含めて古宮遺跡と呼ばれます。この古宮遺跡ですが、以前は小墾田宮跡ではないかと言われてきました。
ところが、1987年に行われた雷丘東方遺跡の発掘調査により、奈良時代から平安時代にかけての井戸跡が検出され、底から「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器が出土しました。このことから、小墾田宮は古宮土壇から飛鳥川を東に越えた雷丘東麓に所在したとする説が有力となりました。ただし、確認されたのは、奈良時代以降の小墾田宮ではあるのですが。
では、古宮遺跡は何だったのでしょう。周辺は、1970年に発掘調査が行われています。土壇の南側からは、7世紀初頭を中心に、7世紀前半にかけての遺構が検出されています。石組の小さな池と、そこから流れ出るS字状をした25m以上続く石組溝や、その周辺を囲む石敷きを含む庭園遺構が確認されました。これらの庭園遺構は、規模や様式からみて、宮や豪族の邸宅に相応しいものだと思われます。時期的にも、これらの遺構は推古天皇の時代と矛盾するところはなさそうです。最近では古宮土壇を含むこの遺跡は、地理的に豊浦と隣接することや出土瓦の検討などからも、蘇我氏邸宅の苑池跡ではないかとする見方が有力となってきました。
古宮遺跡が庭園遺構だとするならば、古宮土壇は何なのでしょうか。庭園には、あの土壇は不似合いのようにも思われます。
この土壇も発掘査が行われており、築造時期は12世紀末ごろと判明しているそうです。平安時代末から鎌倉時代初期ということになります。土壇の周辺からは、1879年に金銅製四環壺が掘り出されています。現物は宮内庁が収蔵しているようですが、7・8世紀に作られた火葬蔵骨器と推定されるそうです。
山田道を南にわたると、豊浦寺跡に着きます。現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられており、境内の発掘調査から、下層に古代寺院の存在が明らかになっています。境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に存在したことがほぼ明らかにされています。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置的に塔と確定するには疑問も残ります。これらのことにより、豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、塔の位置などから、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。
豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13年(552)10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としました。
推古11年(603)冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。また、6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されており、これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が大きいものと推測できます。
ウォーキングも終盤を迎えたのですが、甘樫丘に登ります。そろそろ足に疲労が出てくる方も居られるかも知れません。しかし、蘇我氏終焉の地になりますので、是非頑張って登りましょう。今回は、東麓遺跡には寄りませんが、これまでの道筋を丘の上から辿ってみましょう。出発地点辺りは、見えるでしょうか。
最後は、入鹿首塚と呼ばれる五輪塔に向かいます。ウォーキングを締めくくるには適した場所ではないでしょうか。歩いてきた蘇我の痕跡に思いを馳せて、本宗家最後の入鹿を偲びましょう。
さて、このようにコースを案内してきましたが、蘇我氏の発祥の地を橿原市曽我町に求めるとする大前提があります。河内飛鳥やまた違った地にそれを求める説も有るようです。また蘇我氏渡来説も有ります。皆さんは、どのように思われたでしょうか。
私は、飛鳥川、曽我川というこの地の水系を考えてみました。今回訪れませんが、畝傍・軽・石川にも蘇我の痕跡があり、やはり同じ水系を辿ることが出来ます。
今回のウォーキングコースを企画した時に、実は、飛鳥からの水を辿ると曽我町に着くことを発見したのです。今回、その水の流れは追えないのですが、いつかまた水の旅をテーマに歩いてみるのも面白いのではないかと考えています。
では、参加者の皆さん、明日はたっぷり楽しみましょう♪
次号から、第53回定例会「うみにあうてら―海会寺―」の咲読が始まります。ももが担当します。お楽しみに。(^^)
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