両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第55回定例会
早春の外鎌山から忍坂の里を歩く

Vol.234(16.1.22.発行)~Vol.237(16.3.4.発行)に掲載





【1】 (16.1.22.発行 Vol.234に掲載)     らいちさん

 暖冬といわれたこの冬も、さすがに2月を前に底冷えのする毎日が続き、春が待ち遠しいこの頃です。第54回の定例会も参加者皆様のおかげで無事終了し、早くも今号からは次の定例会に向けての咲読がはじまります。第55回定例会は忍坂富士とも呼ばれる秀麗な山容を持つ外鎌山に登り、段ノ塚古墳(舒明天皇陵)のある桜井市「忍坂」をめぐるウォーキングになります。案内は地元に住む私らいちが担当させていただきます。

 第1回目の咲読はコース全体の簡単な説明となります。次回からの第2~4回目咲読は書き手を替えてそれぞれ趣向を凝らしてお送りしたいと思います。

 予定コース
 近鉄朝倉駅→素盞鳴神社→古墳公園→外鎌山→大伴皇女押坂内墓→鏡女王押坂墓→段ノ塚古墳→石位寺(昼食)→玉津島明神→忍坂坐生根神社→押坂山口坐神社→宗像神社→外山不動院→報恩寺→桜井茶臼山古墳→魚市場跡→近鉄・JR桜井駅

 今回訪れる桜井市「忍坂」は、神武東征の道として古事記にも登場し、また、隅田八幡宮人物画像鏡に書かれた金石文の中に「意柴沙加宮―おしさかのみやー」とあることから、最も古い地名のひとつとして知られています。現行の市町村名では「忍阪」と表記しますが、古代には「忍坂」や「押坂」「意柴沙加」の文字が使われています。読みは「おしさか」ですが、地元ではもっぱら「おっさか」と呼ばれています。

 昨年発掘されて話題になり、第50回定例会でも行った明日香村の小山田遺跡が「舒明天皇初葬墓」との説がクローズアップされ、忍阪にある段ノ塚古墳(舒明天皇陵)もがぜん注目されるようになりました。今回のウォーキングを企画したきっかけでもあります。舒明天皇は、百済大寺という初の官寺を建てたり、第1回目の遣唐使を派遣し、百済や新羅とも関係を深めるという外交にも力を入れた天皇でした。また、その後何代も続く八角墳の陵に最初に葬られた天皇でもあります。万葉集では天香具山で詠んだ国見の歌が雄略天皇に次いで2番目に載せられています。

 両槻会では第50回と第52回と蘇我氏をテーマにした定例会を開催してきましたが、今回は蘇我の血をひかない非蘇我系の天皇としても知られる舒明天皇のお墓を訪れることになります。

 では、コースのポイントを順番に書いていきます。

 最初の『素盞鳴神社』は今回のテーマにはかかわらない神社ですが、集合場所の朝倉駅からいくらも離れていないので、巨大な磐座を御神体する古い神社の姿は、両槻会に参加される皆様のお好みに合うのではないかと思いましたので、ご紹介がてら訪れたいと思いました。

 次に行く『古墳公園』には朝倉台の宅地造成時に出土した古墳のいくつかが移築保存されています。2009年にも特別会で忍阪にある古墳を巡っていますが、この辺りの古墳の特徴は板状の石を煉瓦状に磚積みした、いわゆる磚槨墳(せんかくふん)と呼ばれる石室が多いことです。小山田遺跡でも磚積みされた榛原石(室生安山岩)が見つかり、それが段ノ塚古墳と共通しているということが、舒明天皇初葬墓説の根拠のひとつであるようです。
 状態はあまりよいものではありませんが、天皇陵の石室の中は見ることはできませんので、ここで板状の榛原石を使った磚積みの様子を見学してもらえると思います。特に忍坂8号墳は国内では他に例のない珍しい六角形の石室を持っています。

 古墳公園からは朝倉台の住宅街を抜け『外鎌山(とかまやま)』の山頂をめざします。五合目くらいの所に石垣が見えるのは南北朝時代に築かれた外鎌山城の名残です。山頂には南朝方として果敢に戦って敗れた大和武士『(三輪)西阿』の供養碑もあります。

 登山口から2~30分で外鎌山山頂に着きます。わずか292.5mの標高ですが、天気が良ければここからは二上山や大和三山など大和平野を一望する事が出来ます。向かいの三輪山との間には初瀬川が流れ、狭い渓谷に国道165号線と近鉄線が並んで通っているのが見えます。飛鳥ファンの皆さんには特に、泊瀬・伊勢街道と呼ばれた大和から東国への道がどんな風に通っていたか、ここから見て感じて頂きたいスポットです。
 
 外鎌山からは南にある忍坂側に下山します。舒明天皇陵はじめ、万葉歌人鏡女王の墓や大伴皇女の押坂内墓がある場所です。『段ノ塚古墳(舒明陵)』は今回の例会のメインですので、じっくり時間をかけて墳丘の回りもぐるっと一周したいと思います。八角形の角が見てとれるかどうかは分かりませんが、上八角下方墳の墳丘を十分観察してもらえると思います。

 この後は、「日本で最も美しい石仏」といわれる三尊石仏のある『石位寺』でお昼休憩となります。午後からは古街道の風情を残した忍坂の町並みを歩いて、衣通姫の産湯の井戸がある『玉津島明神』や延喜式に名を連ねる『忍坂坐生根神社』と『押坂山口坐神社』、二つの古社を訪ねます。生根神社は本殿を持たず後ろの宮山を拝む古い神祀りの形式を今に残す神社です。山口神社では大クスノキが目を引くことでしょう。先代のクスノキは金閣寺の天井板に持って行かれたという伝承が残っています。

 ここから国道と交錯しながら北へ進むと宇陀が辻で伊勢街道と交わります。この先は忍坂からはなれ、外山(とび)という地域に入ります。街道から一旦離れ国道の下をくぐる地下道を抜けると『宗像神社』に到着します。ここは、天武天皇ゆかりの神社で九州海人族の大和における拠点だったのではという説もあり、青木廃寺出土の文字瓦に書かれた高階氏が代々宮司を務めた神社です。

 桜井市内には明治の廃仏毀釈で散逸した多武峰ゆかりの仏像や古代寺院粟原寺にあったとされる仏像が、寺という形がなくなってからも売られることも壊されることもなく、地元住民の手によって大切に集会所などで密やかに守られてきたという例がたくさんあります。『外山不動院』の不動明王と『報恩寺』の阿弥陀仏もそういう仏様で、由来のはっきりする書き付けでもあれば国宝級か?ともいわれていて、奈良国立博物館で展示されたこともあり、遠くからわざわざ見に来られる方もおられるそうです。普段は扉が閉まっているのですが、例会の日にはお願いして特別に拝観させてもらう予定です。

 街道から南に小山のように見えるのは、2009年に60年ぶりに水銀朱で彩られた石室が公開され、たくさんの見学者が訪れた桜井茶臼山古墳です。橿考研の調査で多量の銅鏡が副葬されていたことが分かり、そのことでも話題になりました。今回のテーマからは外れるのですが、せっかく前を通りますので体力が残っていればぜひ墳丘にも登りたいと思っています。(もしかしたら外鎌山登山よりきついかも知れません)

 所々古い街道の町並みを楽しみながら伊勢街道を進みます。途中にはかつて賑わいのあった魚市場跡や天誅組終焉の舞台となった来迎寺など近代の歴史もかいま見ながらゴールの桜井駅を目指します。

 今回はコース全体のかいつまんだ説明になりましたが、次回からは、テーマとポイントを絞った読み応えのある咲読になる予定ですので、乞うご期待下さい。








【2】 (16.2.5.発行 Vol.235に掲載)   よっぱさん

 第55回定例会は、「早春の外鎌山から忍坂の里を歩く」と題して、桜井市の「忍坂」の地を訪れます。この地は、継体天皇、敏達天皇などの非蘇我系王族ゆかりの地であり、息長氏の勢力拠点の一つであったとされています。

 『日本書紀』に見える「忍坂」に関する人物に、允恭天皇の皇后、忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと:応神天皇の孫)がいます。皇后となった允恭天皇2年に、皇后のために忍坂部(刑部)が設けられたとされています。

 継体天皇とのつながりで有名なのは、和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡の銘文です。その銘文には、「癸未(みずのとひつじ)の年の8月10日、大王と男弟王(おほどのきみ:後の継体天皇)が意柴沙加(おしさか)の宮におられるとき、・・(中略)・・、この鏡を作る」と書かれていて、継体天皇が即位前に忍坂の地にいたとされます。継体天皇は、大伴氏などに擁立された天皇ですが、皇子である欽明天皇の母は、仁賢天皇の皇女の手白香皇女、次の敏達天皇の母は、宣化天皇の皇女の石姫で蘇我氏とのつながりはありません。その後に蘇我氏が台頭すると、即位したのは、用明天皇(父:欽明天皇、母:蘇我稲目の娘、堅塩媛)、崇峻天皇(父:欽明天皇、母:蘇我稲目の娘、小姉君)、推古天皇(父:欽明天皇、母:蘇我稲目の娘、堅塩媛)で、いずれも蘇我氏と姻戚関係のある天皇が即位しているのです。


参考系図

 しかし、次に皇位を継承したのは、舒明天皇でした。舒明天皇は、敏達天皇の孫にあたります。父は押坂彦人大兄皇子で、敏達天皇と息長真手王の娘の広姫との間に生まれています。母は敏達天皇の皇女、糠手姫皇女です。舒明天皇は、祖父、父とともに非蘇我系の天皇です。父の押坂彦人大兄皇子は、非蘇我系の有力な皇位継承者として、忍坂部(刑部)・丸子部などの独立した財産基盤を有し、水派宮(みまたのみや、現在の奈良県北葛城郡河合町付近)を営んでいたとされ、第35回定例会「片岡山辺をあるく」で訪れた牧野古墳に葬られたとされています。忍坂部・丸子部などの押坂彦人大兄皇子の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、孫の中大兄皇子まで引き継がれ、乙巳の変の後の大化2年(646)3月20日に中大兄皇子から天皇家に献上されたと『日本書紀』は記しています。古くは允恭天皇のころに設けられ、以後中大兄皇子まで引き継がれたこの財産基盤によって、非蘇我系の天皇が即位し、そして乙巳の変、大化改新が実現したとさえ言われています。

 この財産基盤を支えたのが、息長氏だと言われているのです。息長氏はもともと北近江を基盤とした氏族です。応神天皇の孫で、継体天皇の曽祖父にあたる意富富杼王(おおほどのおおきみ)を始祖としていて、その妹が允恭天皇に嫁いだ忍坂大中姫命とされています。説話の真実性は別としても古くからの氏族であったということなのでしょう。その後に「息長」に関する人物として登場するのが、舒明天皇です。和風諡号が、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)です。祖母である広姫が息長氏の娘ですし、『日本書紀』の皇極天皇元年(642)12月14日条には、舒明天皇の喪に際して、息長山田公という人物が天皇の即位の次第をしのびごとしたと記されています。息長氏は天武天皇13年(684)10月1日の八色の姓(やくさのかばね)で最高位の「真人」の姓を賜っています。

 定例会では、舒明天皇陵に比定されている段ノ塚古墳を訪れますが、この古墳は八角墳です。八角墳は、非蘇我系の斉明天皇、天智天皇、天武・持統天皇、天武の皇子の草壁皇子、そしてその皇子の文武天皇まで引き継がれていきました。八角墳は、非蘇我系の象徴として造営されたようです。非蘇我系の代表であり、乙巳の変を起こし、その理由を「蘇我氏が大王家に取って代わろうとしているから」と皇極天皇に述べた中大兄皇子は、舒明天皇の殯のとき、16歳にしてしのびごとしたと『日本書紀』は記しています。

 「忍坂」の地は、蘇我氏が台頭した飛鳥時代に非蘇我系の氏族、王族がいた地です。飛鳥時代に蘇我氏の勢力が及ばなかった地で、また違った飛鳥をお楽しみください。









【3】 (16.2.19.発行 Vol.236に掲載)   もも

 飛鳥好きの方で、額田王をご存じない方はいらっしゃらないと思います。第55回定例会では、彼女の念持仏という伝承を持つ「伝 薬師三尊石仏」を石位寺で拝観させて頂く予定になっています。

 私たちがよく目にする石仏は、大きさの大小にかかわらず風を受け雨に晒され石は摩耗していて、輪郭を確認するのが精一杯という状態のものが多いのですが、石位寺の三尊石仏は、はっきりと彫刻面が残っています。大正5年(1916)に関野貞氏によって白鳳期のものだと鑑定され、石位寺を訪れた谷崎純一郎は、「ほのぼのとして暖かいものがある、美少女といったかんじであろうか」と評したそうです。

 三尊石仏は、縦が約1.2m横が約1.3mで、厚さは約34cmと比較的大きなものになります。丸みを帯びた三角形のおにぎり型の砂岩に、椅子に座る中尊と立位で合掌する脇侍を半肉彫りされ、その姿は、川原寺などに見られる三尊セン仏とほぼ同じになります。片方は石でもう片方は粘土と材質に違いがありますので、勿論細かい描写は異なりますけど。

 さらに、幼子のような顔立ちは、素材である硬い石との対比から見る者により表情の柔らかさを強く訴え、うっすら確認できる口元や衣の彩色が神秘さを増すのかもしれません。

 この三尊石仏は、もともと粟原寺(おおばらでら)にあったとの伝承があります。粟原寺は石位寺の南東約2kmほどの山間にあり、談山神社に残る「三重塔露盤伏鉢」の銘文から大よその創建次第が判明している寺院で、今は礎石だけが残る跡地となっています。

 銘文には、中臣朝臣大嶋が持統天皇3年(689)に草壁皇子の菩提を弔うために発願し、大嶋の没後は、比売朝臣額田が22年を掛け和銅8年(715)に伽藍を完成させたと記されています。この銘文に登場する「比売朝臣額田」を額田王とする説があり、それが三尊石仏を額田王の念持仏とする説と繋がるのでしょうね。勿論、これにも異説はあります。

 同じように粟原寺所蔵の由来を持つ仏像は「粟原流れ」と呼ばれ、桜井市内に数体存在しているようです。今回定例会の後半に訪れる報恩寺では「粟原流れ」と言われる阿弥陀如来坐像を本尊としています。

 「流れ」というと、川を想像してしまいますが、川の氾濫によって仏像が、「どんぶらこ♪どんぶらこ♪」と、桃さながらに流されたとは考えにくいですよね。

 三尊石仏には、銘も何も記されていませんので、由来などは全て伝承の域をでないようですが、何時の時代に誰が作ったかという事実より、無住にも関わらず地域の人たちの努力で石仏が今も守り伝えられていることの方が何倍も尊いように思います。

 ちなみに額田王は、『日本書紀』では「額田姫王(ぬかたのひめみこ)」と書かれ、鏡王の女(むすめ)で、大海人皇子に召されて十市皇女を生んだと記されているだけで、額田姫王を万葉歌人の額田王と同一人物だと考えない説や、鏡女王と姉妹ではないとする説もあります。

 今回の定例会では、鏡女王墓も訪れる予定にしています。彼女も額田王と同じく『日本書紀』には「鏡姫王」と記され、死の前日に彼女の家を天武天皇が自ら病気見舞いのために訪れたことが書かれています。藤原鎌足に嫁したとされる彼女の墓が、なぜ舒明天皇陵の陵域内に存在するのか・・・なんて言うのを考えてみるのも面白いかもしれません。















【4】 (16.3.4.発行 Vol.237に掲載)   風人

 第55回定例会に向けての咲読も、最終回になりました。風人が担当させていただきますが、このコーナーでは久しぶりの登場になります。よろしくお願いいたします。

 さて、今回私は、外鎌山を担当することになっています。ウォーキングでは、メインになる山ですので、山の様子も含めて書いてゆくことにします。まずは、写真をご覧ください。


外鎌山山頂より

 外鎌山頂上から、西を向いて撮っています。中央奥に二上山が、手前に耳成山が分かるでしょうか。耳成山の左(南)には畝傍山、その手前に香久山が見えています。大和三山が同時に視界に入る場所は、実際にはあまりないのですが、ここは大和三山を綺麗に見ることが出来ます。東から西を見ていますので、香久山がはっきり分かりますね。西から見ると、背後の山に埋まって識別が難しくなりますので、大和三山は東から見るのが良いように思います。また、目を右(北)に転じれば、大和盆地の南半分以上を捉えることが出来ます。写真では切れてしまっていますが、生駒山やその手前に矢田丘陵を見晴るかすことが出来ます。

 外鎌山は、「とかまやま」と読みます。別名は多く、高間山・忍坂山・小倉山などとも呼ばれているようですし、また朝倉富士の愛称でも親しまれています。

 標高は、約292.4mを測ります。定例会で歩くコースとしましては、近鉄朝倉駅南口からの標高差は約200mになります。朝倉富士と言われる山容ですので、急峻な坂道が待っています。

 Googleマップで山容や視界を確認していただけるマップを作ってみました。拡大縮小や回転も出来ますので、お確かめください。


*マップが見られない方は、こちらをどうぞ(固定画像)

 どうでしょうか? 登ってみたくなりませんか?(笑)

 先日、下見として実際に登ってみましたが、正直に書きますと予想したより厳しい登りでした。途中に、この山の登山道などの整備をしてくださっているボランティアさんが掲示されている標識があるのですが、「あと半分!」 「あと150m」と見るたびに心が折れるかと思うほど、ずっと続く登りは、厳しいと思いました。けど、山頂からの景色を見たとたんに、その苦労は忘れていました。きっと、皆さんも同じです。足へのダメージは、さほどではありませんでした。距離的には短いからだと思います。山頂では、ベンチがありますのでゆっくり休むことが出来ますし、その時間も十分に見ています。ご安心ください。汗を流した人だけが見られる絶景だと思えば、苦労や疲れも汗と共に流れ去ります。もう一度、写真を見てください。ほら!もう、行きたいという思いを止められないでしょ!

 山頂の様子は後ほど書くことにし、まずは下りコースを書いておきます。下りは、忍坂に向かって下ります。富士山形の特徴ですが、どちらからも山の形はあまり変わりません。つまり、急です! 滑るのではないかと思う所もあり、しゃがんで通過しました。また、馬の背状の尾根道となるところもあり、細い山道は注意しないといけません。何ヶ所かの難所がありますので、スタッフの指示に従っていただき慎重に下ることにします。時間的には、登りと同じくらい? それ以上の時間が必要になると思われます。

 既に一週間前なのですが、どうぞ、履きなれたウォーキングシューズかそれ以上の靴をご用意ください。私の意見としては、硬めの靴が良いかと思いました。

 さて、下った所は、忍坂の奥の谷間です。長閑な景色が、待っていてくれます。この谷筋には、忍坂三墓と呼ばれる古墳があります。また、お昼ご飯も間近となっていることでしょう。たくさん歩いた後の昼食をゆっくりいただくことにしましょう。(^^)

 さて、飛ばしました外鎌山の山頂について触れておきます。ここには、南北朝(1336年<延元元年/建武3年>に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年<元中9年/明徳3年>に皇室が合一するまでの時代)に南朝側に加担した大和武士である西阿という人の城砦がありました。登りの途中に石垣をお示ししますが、それが防御施設の一部であると考えられています。

 西阿という方は、この山頂の城で奮戦空しく戦塵に散りますが、彼の慰霊碑が建立されています。


慰霊碑

 この西阿公に関しては、字数制限を大きく超えてしまいますので、配布資料の方でお読みいただければと思います。

 このように、第55回定例会は、飛鳥時代だけではなく、神話時代、奈良平安、さらに南北朝までの時代が登場します。どの時代に焦点を当てる かによって、見えて来るものが違うと思いますが、それがこの忍坂という 地の魅力ではないでしょうか。まだまだお伝えしきれないものが多く残りましたが、今回の定例会を踏み台にして、ここから忍坂の魅力を探っていただければ幸いに思います。






















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