飛鳥咲読
第56回定例会
飛鳥北部の寺院と宮殿
Vol.238(16.3.18.発行)~Vol.242(16.5.13.発行)に掲載
|
【1】 (16.3.18.発行 Vol.238に掲載) 風人
今回より、第56回定例会に向けての咲読を始めます。定例会担当は風人が務めさせていただきますが、咲読にはスタッフも登場するかもしれません。また、出来れば学生も登場してもらおうと思っていますが、こちらは協議中です。(笑) 楽しみにお待ちください。
第56回定例会は、恒例となりました帝塚山大学文学部日本文化学科清水ゼミとの共催イベントになります。昨年は飛鳥の南側の古墳を中心としたウォーキング(蘇我氏の奥津城-蘇我四代の墓を考える―)を実施しましたが、今年は北部の寺院跡や重要な遺跡を中心に巡る予定です。
立ち寄るポイントは、山田寺跡、飛鳥資料館、石神遺跡、水落遺跡、豊浦寺跡、甘樫丘豊浦展望台、甘樫丘東麓遺跡、川原寺跡、飛鳥宮跡、飛鳥宮跡苑池遺跡、飛鳥寺西方遺跡、飛鳥寺跡を予定しています。これらのポイントひとつに学生1人が資料作りと現地解説を担当してくれることになります。また、飛鳥資料館第2展示室での解説は清水先生、甘樫丘、甘樫丘東麓遺跡は風人が担当することになっています。私も久しぶりの明日香村内での説明になります。たぶん、1年ぶりの説明になるでしょうか。緊張しそう!(笑)でも、正直、学生の緊張が移るのか、昨年は声が上ずった。(^^ゞ立場上、とちれないといった緊張感でしょうかね。
今回は、桜井駅から山田道をバスで移動し、山田寺跡からウォーキングを開始する予定です。時間配分や巡る順序などは、検討の余地を残しますので発表はもう少しお待ちください。ウォーキング距離は、約7.33km(マップ上の計測)になります。7.33kmまで書いておいて、「約」ってのも変ですけど。(笑) 実際には、もう少し距離が延びるものと思われます。
両槻会では、この清水ゼミとの共催イベントに力を入れています。歴史・考古に興味を持った若い学生に、是非、飛鳥を好きになっていただきたいと願っているからです。飛鳥の面白さは、少し勉強しないと分かりません。このイベントを、その機会にしてもらえればと思っているのです。そして、何より彼らに人前で話す経験を積んでもらう希少な機会を提供できればと願っているからです。どうぞ、皆さんもお力をお貸しください。参加して飛鳥を楽しむ一方で、若い人たちを温かく見守ってやっていただければ幸いです。
若い人たちの吸収力は、目を見張ります。今回は、昨年のウォーキング
で説明をしてくれた学生たちが、再び説明に立ってくれる予定になってい
ます。きっと、一層の成長ぶりを見せてくれることでしょう。
皆さんには見てもらうことが出来ませんが、このイベントでは、学生たちと事務局スタッフによる現地下見(リハーサル)を実施しています。そのリハーサルと定例会当日だけでも、人が変わったように説明できる学生も居るのです。下々見までしてくれる学生も居ますので、少なくとも当日までに2回は飛鳥を訪れ現地を学んでくれています。
このイベントでは、参加者も妙な緊張感に包まれています。説明が終わった学生に温かな拍手と笑顔を送っていただいく一方、ホッとされる様子を見受けます。まるで孫の発表会か何かのような、何とも言えない優しさがあふれる光景になります。その様子を眺めていると、このイベントを仕掛けたスタッフも思わず笑顔になるのです。さて、今年はどうでしょうか。皆さんに参加していただけ、満足していただけるように、当日までに学生たちをビシバシと鍛えたいと思います。学生には迷惑な事でしょうね!(笑)
既にご存知だと思いますが、今回も解説補佐を務めてくださいます清水昭博教授(同大学考古学研究所所長・博物館館長)は瓦・古代寺院の研究者として両槻会でも度々お世話になっている先生です。また、飛鳥での発掘調査にも数多く携わっておられ、説得力があり、ユーモアも交えての解説ぶりに定評のある先生です。最近では、大和郡山城の金箔瓦の復元に尽力され、マスコミでも大きく報じられました。万が一、学生が誤った解説をしてしまったり、足りない事柄があった場合は的確なフォローをしてくださいますので、ご参加の方はご安心ください。(^^)
春真っ盛りの飛鳥を、ご一緒に歩きましょう!
【2】 (16.4.1.発行 Vol.239に掲載) もも
第56回定例会の咲読2回目は、ももが担当させて貰います。今回の説明や資料作成は、帝塚山大の学生さんが頑張ってくれます(あ、事務局長もね(笑))。説明に立たなくて良いというのは、物凄く気楽で良いのですが、担当のないσ(^^)は、何を書いたものかと思案しております。
帝塚山大学の学生さんとのコラボ定例会は、前々回は宮都飛鳥と題して飛鳥の宮関連の史跡を、前回は飛鳥の古墳を巡るなど飛鳥の王道と言われ るコースを巡っています。飛鳥好きの方なら、少なくとも一度は訪れたことがあるだろう史跡ばかりなのです。そういうところに、現役学生の説明を聞きに参加して下さる方がいるのかと、正直毎回不安で一杯でした。
ところが!!です。心配性のσ(^^)の意には反して、毎年多くの方がご参加下さっています。ホント、有難うございます。m(__)m
歴史は、調査や研究で通説だとされていたことが覆ることもあれば、新たに見出されたことで事柄が増えていくこともあります。一度やれば終りではないのが、歴史の面白いところかもしれません。現在進行形で考古学を学ぶ現役の学生さんと一緒にというコンセプトが皆さんの琴線に触れるのかもしれませんね。
巡る史跡は同じでも、「何か違う視点を」と、いつも考えています。ま、考えるのは、主に事務局長なんですが(笑)。今回の定例会では、近鉄桜井駅を集合場所にしています。如何に効率よく回るかを検討した結果、集合は桜井駅が良いだろうということになったのですが、これはかなりお勧めです。桜井駅からは、バスで現在の阿倍山田道を通り、山田寺跡や飛鳥資料館を経て明日香村に入っていくことになります。前回の第55回定例会では、桜井の忍坂を巡りましたので、ご参加くださった皆さんは、外鎌山山頂からや忍坂辺りの風景を思い出しつつ、歴史の舞台が桜井から飛鳥へと動いて行く様を車窓からの風景に重ねてみるのも良いんじゃないでしょうか。ま、歴史が動いたルートを辿るとまでは、行きませんけども。(^^ゞ
山田寺跡は、飛鳥の中心部から少し離れているので、足を運ばれる方は意外と少ないんじゃないでしょうか。この春で設立10年目に入った両槻会でさえ、2回行ったか?という程度です。かの飛鳥資料館は、山田寺の出土品を展示するために開館したという話ですし、第二展示室を解説付きで観覧することは、あまりないように思いますので、ご同行下さる清水昭博先生の第二展示室での解説も楽しみにしていてください♪
訪問地は、山田寺跡だけじゃありません。その後、飛鳥京跡や京に絡む主な遺跡である石神遺跡や水落遺跡に飛鳥京苑池遺跡、寺院跡では豊浦寺跡や飛鳥寺跡へも足を向けます。蘇我氏の邸宅跡か?と言われ続けて早何年?の甘樫丘東麓遺跡や、毎年発掘調査成果が報告されている飛鳥寺西方遺跡も訪れる予定にしています。
皆さんも学生気分に戻って一緒に新緑の飛鳥を歩きませんか?飛鳥を好きになって興味を持ち始めた頃の思いや、今では当たり前だと素通りしそうになっている事柄をもう一度思い起こさせてくれる良い機会になると思います。
次号の咲読には、学生が登場してくれることになっていますので、こちらもお楽しみに♪
【3】 (16.4.15.発行 Vol.240に掲載) 帝塚山大学大学院 寺農織苑くん
「石人像と須弥山石」
初めましての方は初めまして。帝塚山大学・大学院生の寺農織苑と申します。両槻会では3年ほど前に飛鳥寺を発表させていただきました。今回は2回目で石神遺跡を担当させていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
早速ですが、石人像と須弥山石についてちょっとお話させていただきたいと思います。石神遺跡といえば石人像や須弥山石が有名だと思われます。石人像は明治36年(1903)に発掘調査により出土しました。
石人像(画:寺農) |
異国風の顔立ち、服装をまとい、男女が寄り添うように見える石造物です。しかし、ただの石造ではなく噴水として利用されていました。男性の足に開いた穴は、男性と女性の口に通じており、口から水を出すように出来ています。直径3cmほどの穴からはかなりの勢いで水が噴出したと思われます。
現在の石人像は男性が口にする杯が欠けており、枝分かれした穴を実際に確認することが出来ます。像の高さは1.7mほどで、7世紀の製作とされています。現在は飛鳥資料館で展示されています。
続いて須弥山石についてですが、こちらは石人像が発掘された場所と同じところから発掘されました。須弥山石は石人像が発掘された前年に出土しました。須弥山とは仏教において世界の中心にそびえる山のことです。
須弥山石(画:寺農) |
現在の須弥山石は三段構成で高さは2.3mほどでありますが、それでは石の外表に刻まれた文様がつながらないため、最も下の石と真ん中の石の間にもう1つ石があったと考えられています。四段構成にした際の高さは3.4mほどだと思われます。石人像と同様にこちらも7世紀の製作とされています。
さらに、須弥山石も噴水としての機能があり、全ての石の真ん中が空洞になっており、空洞に水を貯める構造になっています。そして最も下の石の山の形をした文様の隙間にある穴から水を噴出す構造になっています。石人像と須弥山石の水は、石神遺跡の南にある水落遺跡に建つ漏刻台の2階から伸びる小銅管によって給水されていたとも考えられています。
中に貯水するためには、石と石の間に隙間があってはいけません。別々の石を4つ重ね、隙間ができないようにする必要があります。これには相当な技術が必要だと思われます。
石神遺跡が最も活用されていた時代は斉明天皇の時代(655~661)だといわれています。巨大な建物で囲まれた長方形区画が東西に2つ並び、大規模は掘立柱建物や石組池(方形池)がつくられていました。『日本書紀』に記す「飛鳥寺西」にあたる場所だと考えられ、蝦夷を筆頭に辺境の民族や朝鮮半島の外国使節に対する饗宴の場として利用されたのではないかと考えられています。
饗宴の場と言っても飲んで歌うような宴会ではないといわれています。この宴は、言語や習俗の異なる異国から訪れた人々と、同じものを食べることによって、お互いの意思を通じ合わせることを目的とした儀礼の1つであったと考えられています。さらに、共食もしくは共飲は、誓約の儀式として行われることもあったとされています。
蝦夷から石神を訪れた民たちは、石人像の手にのる杯から溢れる水を口に運び、朝廷への服属を誓います。噴水の涸れた後、石人像の杯に水を注ぎ返します。注がれた水は、石人像の体内へと流れ落ち、神との共飲の儀式は完結します。石人像はただの噴水ではなく、このように、神と杯をかさねるための儀式の場としても利用されていたと考えるのも面白いかもしれません。
今回は咲読ということで短い説明ですが、当日はもう少し内容を深く掘り下げていきたいと思っています。よろしければ、どうぞおこしくださいませ。
【4】 (16.4.29.発行 Vol.241に掲載) 風人
またまた風人に順番が回ってきました。お付き合いください。m(__)m
第56回定例会は、桜井駅を集合場所に選びました。えっ!と思われた方も多いのではないでしょうか。飛鳥を歩くのだから、橿原神宮前駅か飛鳥駅に集合するのが普通です。参加される方は、気をつけてくださいね! 前回はうっかり集合場所を間違えた方も居られましたので、今回もうっかり飛鳥駅に行ってしまったという方がありませんように。
桜井駅南口からは、石舞台行のバスが運行されています。便数が少ないのですが、赤カメバスとはルートが違いますので意外と便利な使い方があります。今回のように山田寺からスタートする場合や万葉文化館に直接向かう時などには、使い勝手が良いのです。
また、一番便利なのが岡寺に参詣する場合です。あの急坂を半分以下で済ませられるのです。(笑) この場合、治田神社というバス停で下車するのですが、覚えておくと楽が出来ます。ただし、平日の運行便数が極めて疎らになりますので、使われる時にはご注意ください。
このようにしてバスを降り、最初に訪れる山田寺ですが、飛鳥の中心部から離れていますので、観光シーズンでもあまり訪れる方はいません。よく耳にするのは、何もないから行かなくても!です。これは、残念な発言ですね。飛鳥時代の大きな寺院の規模を感じるには、良いチャンスになるのです。整備も行き届いていますから、ここが南の門で、中門をくぐって塔、金堂が一直線に並んでいた様子や距離感が分かります。そして、最古の建造物である山田寺の東回廊の位置を確かめ、飛鳥資料館で保存されている現物を確認する楽しみを皆さんには分かっていただきたいと思っています。
山田寺跡(南から) |
飛鳥遊訪マガジンを購読していただいている方なら、そんなこと言われなくても知っているよ!という飛鳥通の方も多いと思いますが、これは、どうでしょう?
山田寺跡には、雪冤碑という物が有るのをご存知でしょうか。
雪冤碑 |
なんや!檻やんか!と思われたでしょ。この中に、創建者である蘇我倉山田石川麻呂の子孫の方が建立した碑が有るのです。見ることも難しいような柵になっているのは悲しいことですが、聞くところによると拓本避けなのだそうです。揮毫した方が、幕末の三筆と言われる書道の世界では著名な方(貫名菘翁<ぬきな すうおう>海屋とも)で、実は、そちらの方で雪冤碑は知られる存在だそうです。
さて、雪冤碑とは、どのような物なのでしょう。辞書によると、「雪冤(せつえん):無実の罪をすすぎ、潔白であることを明らかにすること。」とされています。碑文によると、建立は天保12年(1841)、建立者は、越前粟田部 山田重貞と書かれています。
雪冤碑2 |
石川麻呂の一族の多くは、謀反の罪に連座して刑死していますが、末子の清彦は幼少のため乳母の嘆願で越前国味真野郷の粟田部に流罪となったとされているようです。その子孫は、60代にもおよび現在にも繋がっているとされています。建立者の重貞は、53代目として幕末を生きた方です。山田家は江戸時代には薬商を営み、風邪薬の販売で知られていたのだそうです。
蘇我倉山田石川麻呂は謀反の罪により追いつめられ、山田寺金堂の前で自ら命を絶ちました。後に、天智天皇は自らの間違いを悔いたとされますが、その罪が法的に許されたわけではなかったようです。平家物語には、石川麻呂が叛賊として蘇我入鹿や平将門と並んで名を挙げられていることなどから考えると、悪人のイメージが付きまとっていたのかも知れません。子孫である山田重貞は、悔しい思いを胸にこの碑文を建立したのでしょう。今回の定例会では、重貞の思いにも心を傾けてみたいと思っています。
【5】 (16.5.13.発行 Vol.242に掲載) 風人
第56回定例会に向けての咲読も最終回になりました。実施日を1週間後に控えて、今回は総まとめの記事となります。
帝塚山大学考古学研究所との共催となった第56回定例会は、両槻会では過去最大の参加者(学生を含め50人以上)となることが予想されます。事務局では綿密な計画を立てて準備を進めています。この人数になりますと、バスに乗車することも定員という大きな壁が待ち受けています。スタッフとしては、その対策に頭を痛めることになりましたが、今回はなんとかその課題をクリアし、実施日を迎えることが出来そうです。
とは言え、今回は学生スタッフが当日の全てを取り仕切ることになりましたので、如何にスムーズに進行できるかなど、バックアップする私たちにも多くの課題が残っています。これらの課題と向き合って、楽しい定例会になるように頑張りたいと思っています。
さて、今回、久しぶりに訪れることになる甘樫丘東麓遺跡の話をしたいと思います。2013年に行われた調査から暫くニュースを聞かなくなりましたが、遺跡の重要性は変わっていません。飛鳥時代に権力の頂点に立った蘇我氏の邸宅が置かれた甘樫丘に所在する遺跡ですから、注目度が高いのは当然のことですね。私は、早く調査を再開して欲しいと願っています。
甘樫丘東麓遺跡の調査は、1994年に始まりました。現在、東麓の駐車場になっている場所が、発掘されました。(この調査以前にも小さな調査があったのですが、遺構は確認できなかったようです。)
1994年の調査区は、谷の入口にあたる位置になるのですが、火を受けた土器類が多量に出土したこと、大きな規模での2度の整地が行われていることが分かりました。土器の製作時以外に、一時に火を受けている点など、蘇我邸(蝦夷邸)炎上のイメージに合うことから、注目を集めていくことになります。
蝦夷邸および入鹿邸が炎上したという直接的な記録は『日本書紀』には無いのですが、「蘇我臣蝦夷等、誅されむとして、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く」。と書かれており、邸宅に火をかけたと考えるのも間違いではないように思えます。そうすると、火を受けた土器群の存在も頷けるものと思われました。
2013年の飛鳥藤原第177次調査まで、大小の調査がありましたが、未だ蘇我邸の主要建物は発見されていません。幾つかの掘立柱建物や総柱建物、溝や塀、また石垣が検出されますが、蘇我邸正殿であることの決定打は打てずに過ぎてきました。
蘇我邸正殿は、何処に在るのでしょう!
私は、入鹿邸は小字南山、蝦夷邸は豊浦展望台に在ったと考えました。証拠など何も有りませんので、妄想と言えばその通りでしょう。でも、飛鳥を見下ろす地形や逆に言うと飛鳥中心部から良く見えることも、上の宮門に相応しく思われます。また、小字南山は甘樫丘の中で一番間口の広い谷になりますので、谷の宮門のスペースも十分に確保できるのではないでしょうか。ここは谷地形というものの、飛鳥盆地への視界は広く開け放たれています。絶好の地形ではないかと思うのですが、皆さんはどのようにお考えでしょう。
さて、第56回定例会の咲読では、各ポイントのお話をあまりできませんでした。もちろん、飛鳥京跡苑池遺構や飛鳥寺西方遺跡など、現在も継続的な調査が行われている“動いている遺跡”も巡る予定になっており、出来るだけ直近の資料も配布資料には盛り込みたいと思っています。ただ、資料も学生スタッフが作成しますので、どこまで謎解きに挑戦できるか、私達スタッフも楽しみにしています。
定例会では、若い力を吸収して若返るでしょうか? 学生に吸い取られて枯れ果てるか!(笑) それもまた楽しみですね。スタッフは、後者かも知れません。(笑)
|