飛鳥咲読
第6回定例会
飛鳥古墳めぐりと男綱勧請綱掛け神事
Vol.3(07.12.21.発行)~Vol.5((08.1.4.発行)に掲載
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【1】 「小谷古墳」 (07.12.21.発行 Vol.3に掲載)
第六回定例会のコースには、終末期の古墳が幾つか在ります。その中でも小谷古墳は一般的にあまり知られていない存在のようです。飛鳥に頻繁に来られる方でも、飛鳥中心部からは離れますので、足を伸ばされる方も少ないかもしれません。
小谷古墳は、径30m前後の円墳もしくは方墳ではないかとされています。終末期の古墳としては大きな古墳の部類に入るように思います。墳丘は盛土がほとんど失われており、石室入口付近では、巨石が剥き出しになっています。天井石は一枚の巨石で、石舞台の物を凌駕するとも言われます。
墳丘周辺には柵が取り囲んでいますので、内部を観察することが出来ませんが、巨大な切石を用いた両袖式の横穴式石室があります。
玄室には、蓋が開いた状態の刳り抜き式の家形石棺が残されています。写真などで見ますと、石室にはさらに空間があり、もう一つあるいは二つの石棺が置かれていても不思議ではないようにも思えます。
この古墳は、江戸時代には斉明天皇の御陵と比定されていたこともあったようです。その真偽は別にしても、被葬者は、皇族や時代の中心で活躍した豪族クラスの人物が考えられます。
益田岩船・牽牛子塚古墳・岩屋山古墳などと比べても見劣りのする古墳ではありませんので、どうぞ定例会でもお楽しみにしてください。 (風人)
【2】 「塚本古墳」 (07.12.28.発行 Vol.4に掲載)
塚本古墳は、稲渕の棚田の中央付近(棚田の中央を通る農免道路のカーブミラー付近上方)に存在しますが、石室も破壊され墳丘も削られているために、訪れる人もあまりありません。
第四回定例会の時に、希望者のみご案内をしました。特に説明もしませんでしたが、今回はメインの目的物の一つとして再訪したいと思います。
古墳の規模は、周辺の発掘調査から、南北39.5m・東西39mの方墳であったと考えられています。墳丘は二段以上に築成されていたようです。
築造時期は、石室構造からみて七世紀前半であるとされ、石舞台古墳に近い時期と構造を持っていたと考えられています。
石室の規模は、全長12.5m以上、玄室長は、東側壁で4.35m、西側壁で4.60m、玄室幅は奥壁で2.25m、玄室高は奥壁で2.80mだそうです。
安置されていた石棺は、六突起の刳抜式家形石棺でしたが、玄門から羨道にかけて蓋のみが放置されていました。これは玄室の棺台から移動させられたもので、棺身は持ち去られたのでしょう。 副葬品は、盗掘のためか全く残っていなかったそうです。
現在、石室の奥壁と東壁の一部が露出しており、実際に目にすることが出来ます。棚田百選にも選ばれる稲渕の棚田の中に、このような大きな方墳が在ったとは驚かされます。ガイドブックには載っていない塚本古墳を覗いてみるのも楽しみの一つにしてください。 (風人)
【3】 「益田岩船」 (08.1.4.発行 Vol.5に掲載)
益田岩船は有名ですので、すでに訪ねられた方も多いと思います。丘の頂上付近にある巨大な石は、見る者を圧倒する迫力を持っています。東西11m、南北8m、高さ5mを測ります。その巨石の上面には、1.6m角で、深さ1.3mの方形の穴が二ヶ所穿たれています。推定の重量は160tとも言われています。
この巨大な石造物が何であるのか、古くから色々な説がありました。益田池の碑文、星占台、物見台、火葬墓、拝火教の祭壇、鳥葬台、漏刻台、横口式石槨などと諸説入り乱れて伝えられます。近年では、横口式石槨説が有力なようですが、未だ決定的な説は無いようです。
岩船の謎を解くために、一つのヒントになるかも知れない事実があります。それは、岩船の岩はひびが入っているということです。上部の四角く穿たれた穴には、いつも雨水が溜まっているのですが、そこから漏水を起こしています。岩船をよく観察すると、岩の中央部を横に一周するように亀裂が入り、水が漏れていることを確かめることが出来ます。
このことは、岩が割れてしまったために、石造物として完成することなく、打ち捨てられた可能性を示しているようにも思えます。
牽牛子塚古墳の石槨 |
岩船の後で訪れる牽牛子塚古墳の石槨と見比べて見るのも楽しいと思います。ここから先は妄想になりますが、横口式石槨を作ろうとして失敗し、代わりに造られたのが牽牛子塚古墳であるのかも知れません・・・。 (風人)
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