両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第7回定例会
道長が見た飛鳥

Vol.7(08.1.23.発行)~Vol.14(08.3.21.)発行に掲載
藤原道長
この世をば・・
飛鳥寺
橘寺
山田寺




【1】 「藤原道長」  (08.1.23.発行 Vol.7に掲載)

 第七回定例会は、飛鳥から平安へと時代を移していますので、今回主人公となる道長のプロフィールなどを簡単にご紹介したいと思います。

   『この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば』

 「思いのままのこの世は我が世」と、人臣の頂点を極めて、傲慢ともとれる歌を詠んだ事で知られる道長の人生は、決して生まれながらに約束されたものではありませんでした。

 鎌足から始まる藤原家は、不比等の子の時代に四家(南家・北家・式家・京家)に分かれ、11代目を数える道長の頃には、そこからまた分派し○○流と言われる呼び名等も加わってそれこそ分家だらけとなり、「藤原家」と一括りに考えることは出来なくなっています。

 道長の父・兼家は、藤原家主流の北家の出ですが、三男坊でした。父から長兄、次兄へと流れた実権は、一筋縄では兼家の懐には飛び込んではきませんでした。次兄は、自分の死に際にわざわざ兼家を降格させると言う仕打ちにまで出るのです。しかしその次兄の死後、ちょっとしたお情けと策略によって、兼家は念願の摂政の地位を手に入れます。

 そして、兼家の五男であった道長もまた父同様に、長兄次兄の相次ぐ死と政敵であった甥・伊周の失脚を契機に左大臣となり、「満月」への切符を手に入れる事になります。勿論それには当然、天皇への娘の入内に加え次期天皇と成り得る孫の誕生と言う強運が欠かせないのですが。(道長は、天皇と年齢差のある娘を強引に入内させると言う手段にまで出ています。)

 また、五男坊であった道長を引き上げたのは、姉であった一条天皇の生母 ・詮子であったとも言われてます。

 長女・彰子所生の後一条天皇即位の際に摂政となった道長は、自分が経験したような後継争いを避けるべく、翌年長男・頼通に摂政の座を譲り、そのまた翌年には出家してしまいます。

 道長は、別名「御堂関白」とも言われますが、実際「関白」職には就かなかったとされています。  (もも)



【2】 「この世をば・・」  (08.2.1.発行 VOL.8に掲載)

 道長の「この世をば・・」の歌の周辺を少しご紹介したいと思います。この歌は、道長の日記「御堂関白記」ではなく「小右記」と言う藤原実資の日記に書き残されています。

 娘三人を次々と中宮に立て(一条天皇中宮・彰子、三条天皇中宮・妍子、後一条天皇中宮・威子)一家三后を果たした後の宴で、わざわざ「即興だから」と、断りを入れて詠んだとあります。

 「小右記」を残した実資は、道長とはマタイトコの関係になり、祖父の代に起きた兄弟間の形勢逆転のせいで、藤原北家嫡流でありながら権力の中枢からは少し離れた処に居ました。いつも凛とした良識人として時代の長・道長に対峙していたと言われ、この「小右記」にはそう言う道長の逸話が沢山残るそうです。
 実際、この宴の時にも「続けて歌を詠め(返歌しろ)」と言う道長の求めに対しても「皆(同席者)で唱和する」と言う形を取り、自らこの歌に応える事を避けたのだそうです。

 この他、道長の逸話を色々と今に知ることが出来るのは、飛鳥時代には薄かった文字による文化の発達があるからでしょう。
 実資に限らず公卿達は記録の為に毎朝日記を書いたそうですし、紫式部・清少納言・和泉式部といった女流作家と言われる人々も道長の周辺にはいました。(特に彼女達それぞれの立場から見た道長像の違いは面白いかもしれません。)

 今回、定例会のお話の要になる「扶桑略記」は、平安時代末に成立した歴史書になるのだそうです。(詳しくは、定例会当日の先生のお話で。^^)

 当時飲水病と言われた糖尿病を持っていたとされる道長ですが、出家し寺を建て高野山参詣をしたのも、平安と言う時代の生んだ一種の流行病なのかもしれません。出家後に法成寺という豪勢な寺を建てることに勢力を傾けたとも言われています。(平安宮豊楽殿の鉛製の鴟尾を降ろさせ、瓦に施す釉薬の原料にしようとしたらしいと言う話も、これまた「小右記」には残っています。)

 2007年12月に高野山で平安期の参道か?と言う遺構(幅約3.5m、側溝有り)が発見されています。高野詣を貴族や天皇など貴人に広めたのは道長だとも言われ、この遺構はそれらを裏付ける事になるのかもしれません。  (もも)



【3】 「飛鳥寺」


 第七回定例会に関連して、今回は飛鳥寺をご紹介したいと思います。

 道長が飛鳥の寺院を訪れたのは11世紀の初め。我が国初の本格古代寺院である飛鳥寺は、その時既に、創建から400年を経過していました。

 創建氏族である蘇我本宗家が滅亡した後も、引き続き官寺並みの扱いを受けていた飛鳥寺は、平城遷都から8年を経た718年、奈良の地へと移築されます。そして、やがては壮大な伽藍を誇る一大寺院「元興寺」としての歴史を刻み始めることになります。

 一方飛鳥の地に残された飛鳥寺はと言うと、「本元興寺」(もしくは、法興寺)と呼ばれ、元興寺の管轄下に置かれることになってしまいます。(言わば、末寺のようなものでしょうか)この為、古京・飛鳥の飛鳥寺(本元興寺・法興寺)は、一切の伽藍を元興寺に移され、見る影もない無残な姿を晒していたとつい思われがちです。確かに、現在の奈良・元興寺極楽坊には、創建飛鳥寺のものと思われる瓦や部材の一部が残されてはいます。けれど、これらの部材が何時どれだけの規模で元興寺へと動いたのかは今の所不明なのだそうで、飛鳥寺から運ばれたのは、解体・移送しやすい僧坊などの一部建物の部材だったのではないかとも言われています。

 平安時代初期の飛鳥寺(本元興寺・法興寺)は、大般若経の転読を命じられたり(837年)、万灯会・万花会などに際して、官からの援助を受ける(843年)などの記録もあり、一つの寺院としてかなりの力を持っていた可能性もあります。
 887年の焼亡の記録や「護国寺本・諸寺縁起集(鎌倉期成立)」に見える金堂・講堂・北僧坊・五重塔及び安置仏などの記載は、平城京移築後も、飛鳥寺が古京・飛鳥の地で本元興寺として、衰えることなく存続していたと考えるに充分な材料だと思われます。

 しかし、道長の来訪から約一世紀半後、雷により伽藍の殆どを焼失してしまいますがその復興はならず、江戸時代に仮の堂宇が建立されるまで、草庵一房のまま飛鳥大仏は半野ざらし状態であったとも言われています。そして、この江戸期の仮堂が現在の安居院へと繋がることになります。 (もも)     (08.2.15.発行 Vol.10に掲載)



【4】 「橘寺」   (08.3.7.発行 Vol.12に掲載)


 第七回定例会関連して今回は、橘寺をご紹介したいと思います。

 橘寺がある飛鳥川左岸の地域名を「橘」と言います。この地名は、垂仁天皇の勅命により不老長寿の薬を求めて常世国(トコヨノクニ)に旅立った田道間守が蜜柑の原種かと言われる「非時果実(トキジクノカグノコノミ)」を持ち帰り、この地に植えたことが由来とされています。(枝に刺を持つ原種に近い橘の木は、現在も橘寺で見ることが出来ます。)

 聖徳太子が、勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を期に建てられた寺であると伝えられる橘寺ですが、創建年代などの詳細は考古学的には不明とされています。日本書紀・天武9年条に「橘寺尼房失火、以焚十房」とある事から、この頃までにある程度の伽藍は完成しており、当初橘寺は尼寺であったと考えられます。

 現在、橘寺入山の際に潜る門は、東門・西門のどちらかになります。通常寺の正面とされる南側には仏塔山が控え、北は道を挟んで川原寺跡が望めます。奈良時代には、川原寺南門と対応するように橘寺には北門が設置され、僧寺・川原寺に対して、尼寺・橘寺が整備されたと考えられています。

 奈良時代末になると、光明皇后による仏像施入などの記録も見え、太子信仰はこの頃に始まったのではないかと言われています。また、寺住の尼僧・善心の存在も重要であったと言われています。
 また、平安初期(795年・延暦14)の伽藍焼失の際には、官から稲束二千束の施入を受け復興するなど、橘寺は奈良から平安へと移り変わる時代の中で、太子信仰を軸に飛鳥の地で繁栄を続けていたと思われます。
 これらの史料に呼応するように、発掘調査結果でも七世紀中頃から奈良時代にかけて伽藍が整えられたであろう事が分かっています。

 1148年落雷の為に五重塔を焼失し、60年後に三重塔として再建されますが、1506年には多武峰の兵によって、伽藍の殆どを焼かれてしまいます。江戸時代には僧坊一つを残すだけの無残な姿だったそうです。
 現在の堂宇は、江戸末期に再建されたものです。本堂(太子堂)は2007年秋までに修理され、、2008年春に落慶法要が行われました。 (もも)



【5】 「山田寺」  (08.3.21.発行 Vol.14に掲載)


 第七回定例会の事前散歩で一番先に訪れる予定にしてます山田寺をご紹介したいと思います。

 641年に建立の始まった山田寺は、発願者であり改新政府の右大臣でもあった蘇我倉山田石川麻呂の謀反の疑とその死によって一時中断され、造営が再開されたのは663年(天智2)、完成は発願から約40年後の685年頃になります。
 山田寺は「上宮聖徳法皇帝説」の裏面にその造営次第が書き残されており、発掘調査結果もこれを指示する方向にあります。山田寺造営に関しては、史料と考古の双方がほぼ合致する良い事例だと言えるのかもしれません。

 創建以来、四大寺・五大寺などに名を連ねることのなかった山田寺ですが、造営再開の際には、石川麻呂の娘婿である天智、孫の持統とその婿である天武などの助力があったとも考えられています。天武朝の頃には官寺並みの扱いを受けたようで、その後も699年(文武3)には封戸の施入、703年には持統天皇四十九日法要などが行われたとの記録も見えます。が、官の援助の途絶えた奈良時代後半頃から衰退が始まるようです。
 その後は、蘇我氏の後裔である石川氏の氏寺として小規模の整備などは行われるものの、奈良末から平安初期に掛けての山田寺は、時勢とは少し離れたところにいたようです。

 道長は、来訪時に山田寺を宿として利用しています。宿泊に堪える堂宇がまだこの時残っていた証と見ることも出来ますが、道長が訪れるまでの約300年の間山田寺は記録にも殆ど名が登場するはなく、唯一道長が語ったと言う「奇偉荘厳」と言う言葉を残すのみです。

 その後、11世紀前半に土砂崩れによる東回廊の倒壊、そして11世紀末には、多武峰の僧兵に鐘を持ち去られてしまいます(代りに多武峰浄土堂の鐘があてがわれたようですが)。1187年には、興福寺東金堂の僧によって講堂の薬師三尊像が略奪されるなど、かなりの苦渋を舐める事になります。1180年の南都焼き討ちによって伽藍一切を焼失した興福寺は、再建後の仏像選定に際し山田寺講堂の三尊に目をつけたのかもしれません。山田寺の金堂・塔はこの頃に焼亡しており、興福寺によって焼き討ちにあったと言う可能性も否定できないようです。

 幸か不幸か、山田寺講堂の本尊であったとされる仏像は、興福寺での災害を幾度も潜り抜けた頭部だけが、現在興福寺国宝館で展示されています。また、東金堂安置の日光月光がその脇侍であったとも言われ、九条兼実が「玉葉」に「事はなはだ相応、誠に機縁の然らしむ事か(山田寺三尊像が興福寺の東金堂に本当に相応しく、これも何かの縁なのかもしれない)」と書き残しているそうです。(山田寺の主な出土品は、飛鳥資料館の第二展示室で見ることが出来ます。)  (もも)



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