両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第8回定例会
新緑の奥飛鳥探訪
―奥飛鳥の神秘「女淵」を訪ね、皇極天皇雨乞いの謎に迫る!―

(Vol.14(08.3.21.)~Vol.20(08.5.2.)に掲載)
雨乞いの記事
女淵
加夜奈留美命神社
女綱
飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社
南淵請安先生の墓
竜福寺
飛び石
男綱
10 朝風・栗原・檜隈野
11 檜隈寺跡
12 奥飛鳥探訪まとめ



【1】   (08.3.21.発行 Vol.14に掲載)

 第八回定例会に関連する資料などを掲載して行きます。第一回目は、日本書紀皇極天皇条 雨乞い(天候)に関連する抜粋記事です。(風人)

皇極元年 (642年)
3月 3日 雲がないのに雨が降った。この月に、霖雨(ながあめ)があった。
4月 この月にも、霖雨があった。
6月16日 わずかに雨が降った。この月はたいへんな旱であった。
7月 9日 客星(まろうとほし)が月に入った。
7月25日 群臣が、「村々の祝部(はふりべ)が教えたとおりに、牛や馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(かわのかみ)に祈祷したりしたが、(中国風の雨乞いの行事)さっぱり雨が降らない」と相談すると、蘇我大臣は、「寺々で大乗経典を転読するのがよい。仏の説きたまうとおりに悔過(けか)をし、うやうやしく雨を祈ることとしよう」と答えた。
  27日 大寺(百済大寺?)の南の広場に、仏菩薩の像と四天王の像を安置し、多くの僧をまねいて「大雲経」(だいうんきょう)などを読ませた。蘇我大臣は手に香鑪をとり、香をたいて発願した。
  28日 わずかに雨が降った。
  29日 ついに雨を祈ることが出来ず、経を読むことをやめた。
8月  1日 天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。そこで国中の百姓は、みなともによろこび、「すぐれた徳をおもちの天皇だ」と申し上げた。



【8-2】  「女淵」  (08.3.27.発行 Vol.15に掲載)


女淵
 第八回定例会に関連するお話の第二回目は、女淵をご紹介します。

 奥飛鳥の神秘「女淵」を訪ねるには、栢森集落までは明日香循環バス(金かめバス)があり、村外の者もこれを利用することが出来ます。
 栢森バス停で下車し、川沿いに在る集落の中を進みます。昨年からは、皐月の空の下に鯉幟が泳ぐようになりました。鄙びた里の長閑な風景です。集落の集会所の辺りで左に曲がると、式内社加夜奈留美命神社があります。由緒ある神社ですが、一先ず女淵への行程を急ぐことにします。
 参考ページ  「奥飛鳥の春を訪ねる

 集落を抜けると、芋峠に続く小峠道と大字入谷へと道は分かれます。左の入谷方向へと曲がりますと、少し先からは近年遊歩道が出来、間伐材のチップを利用したふかふかの道を歩くことが出来ます。「飛鳥川の原風景を取り戻す仲間の会」の方々による、ボランティア活動の成果であるようです。

 しばらくその道を進むと、周りの雰囲気が変わってきます。渓流が近づき、瀬音が聞こえてきます。木々の梢が空を隠す頃からは、足場も川石で作られた沢道となり、その奥まったところに女淵があります。ナゴトの滝が造るこの淵は深く、竜宮に届くとか竜の棲む淵との伝承もあり、雨乞いの儀式も行われたと言われます。また、この女淵に木の葉を入れて、農作物の吉凶を委ねたとの伝承もあるようです。先の伝承ともあわせて推測すると、竜=水神信仰という図式が、見えてくるような気がします。
 参考ページ 「飛鳥暮秋 奥飛鳥編

 そこで思い出されるのが、前回書きました日本書紀の皇極天皇の雨乞いの記事です。
 「天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。」

 女淵は、この記事に書かれる「南淵の川上」の一つの候補地になるのではないかとも思われます。もちろん確証のある話ではありません。しかし、この淵の佇まいを見ていますと、そのような想像が自ずと浮かんできます。この淵は、飛鳥の水源の一つでもある飛鳥川支流細谷川に在ります。石と水の都とも称される飛鳥京の水源は、細々とした川に支えられています。干天が続くと、その影響は深刻であったことでしょう。

 女淵に佇み、皇極天皇の雨乞いの儀式を思い描くのは、たやすい事のように思われます。しかし、これから引き返すように通って行く飛鳥川には、幾つかの雨乞い伝承や淵が存在し、それぞれにそれらしい様相を見せています。
 皆さんは、どのような想像をめぐらされるでしょうか。

 女淵のさらに上流1.5キロには、男淵が存在しています。  (風人)




【3】 「加夜奈留美命神社」  (08.4.4.発行 Vol.16に掲載)

 第八回定例会に関連するお話の第三回目は、加夜奈留美命神社をご紹介します。

 女淵から栢森に戻ります。先ほど通過した加夜奈留美命(カヤナルミ)神社に立ち寄ります。この神社を簡単に説明することは、きわめて難しいことです。説明すればするほど分けがわからなくなって、頭が痛くなります。全く不詳の神社と言う他ありません。しかし、それでは説明になりませんので、少しお付き合いください。

加夜奈留美命神社

 この神社のご祭神は、加夜奈留美命とされています。この神様は、古事記にも日本書紀にも登場しない神様です。ところが、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)という祝詞に登場します。大穴持命(オオナモチノミコト)が国土を天孫に譲って出雲へ去るのですが、その時、自らの和魂(にぎたま)と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とします。その中に「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とあり、これがこの神社の始まりとされています。

 さて、問題が出てきました。加夜奈留美命をお祀りしたのは、飛鳥の神奈備(かんなび)です。古代には栢森が飛鳥の神奈備であったのでしょうか。『日本紀略』には天長6年(829)「高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、神の託言によって同郷の鳥形山に移した」という記録があります。鳥形山というのは、飛鳥坐神社の在る小さな山であるとされています。

 では、その元の場所である高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社はどこに在ったのでしょう。やはり栢森なのでしょうか。南淵山や藤本山なのでしょうか。雷丘や甘樫丘なのでしょうか。
 今日それを特定することは出来ませんが、岸俊男先生のミハ山説が有力なようです。ミハ山は、祝戸の飛鳥川左岸に在る祝戸公園東展望所やその付近だと思われ、磐座と思しき石などが散見されます。飛鳥の小さな盆地の南端にあるこの山は、まことにそれらしくも思われます。

 そうすると、栢森のこの神社は何だったのでしょう。江戸時代まではこの神社は、葛(九頭)神を祀っていたとされているそうです。(今は末社として、祀られている小さな祠が葛神社だとされているようです。)九頭神は、オカミ神を祭神としており、九頭竜を崇める水神信仰だと考えられるようです。女淵との関連性や飛鳥川源流となる細谷川と寺谷川の合流地点に立地する点などから考えると、栢森に鎮まるこのお社は本来水神信仰の葛(九頭)神をお祀りする神社であったと言えるかも知れません。

 ところが、明治時代に入って、富岡鉄斎が当地に来て、土地柄からしてここが飛鳥の神奈備だとし、加夜奈留美命神社として復興・顕彰したのだそうです。またカヤノモリとカヤナルミの音が似ているため、『大和志』では「延喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」をこの社にあて、それ以来、式内社として現社名で呼ばれるようになったのだそうです。

 ところで、式内社「滝本神社」という神社も、飛鳥川の上流に在ったとされ、さらに複雑な様相を呈してきます。他にも異説はたくさんあるようで、明日香村史も全く不詳の神社であると記しています。 (風人) 



【4】 「女綱」  (08.4.14.発行 Vol.17に掲載)

 加夜奈留美命神社から広い道路を下って行きますと、道と飛鳥川に掛け渡すように女綱が見えてきます。勧請綱とも呼ばれ、大字稲渕の男綱と対を成すものだと思われます。毎年1月11日に掛替えられ、勧請綱掛と呼ばれています。勧請とは、神仏の来臨を請うこと。また、神仏の分霊をに移し祀ることとされます。

 栢森の女綱は、女性の陰物を形作ったものを綱の中央に付けています。
 これらは、栢森の男性が総出して作る事になっているそうです。綱が完成すると、加夜奈留美命神社のお隣に在る竜福寺の住職を先頭にして、小字カンジョまで運ばれます。そこには、福石と呼ばれる石があり、一旦この石に巻きつけるように綱を掛けます。栢森の綱掛は、仏式の作法で執り行われるのですが、供物を供え、読経が始まります。その後、対岸に綱を渡し、勧請綱掛は終わります。
    綱掛の行事進行参考ページ 「飛鳥綱掛け神事女綱編

 奈良には、綱掛を行う神事や綱を蛇に見立てての信仰行事を所々で見かけます。ノガミ信仰などと呼ばれることもあるようですが、この女綱勧請綱掛けも、あるいは同じ根源を持つ民間信仰と考えることも出来そうです。福石に綱を巻きつける点など、蛇と見立てているようにも思われます。
 蛇は、水神の使いなどとも言われますし、龍・蛇・水神という図式がここにも見て取れます。
 この水神に対して、一年間の豊作と子孫の繁栄を祈願し、併せて、「道切り」などと言われる、集落への疫病や悪霊の侵入を防ぐ意味もあるものと思われます。


 日本書紀には、次のような記事があります。天武天皇5年(676)5月の条、「勅して、南淵山・細川山で草や薪をとることを禁じる。・・」。水利や水害対策を意識してのことだと思われますが、これらのことも、水源地を神聖化する意識と無縁ではないようにも思われます。
 さあ、下っていきましょう。 (風人)




【5】 「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社」  (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 女綱から少し下った曲がり角の崖の上に、小さな祠が見えます。どのようにして据え付けたのかと思えるような場所です。さすがに登ってお参りすることは出来ないようで、道路脇に参拝所のような場所があります。よく見ると、清水が湧いていると思われるところもあり、また道路の反対側は、今は堰のようになっていて、小さな淵を作っています。この祠が何であるのかを確かめたわけではありませんが、やはり水神をお祀りしているように思えます。


 さらに緩やかに下っていくと、「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社」があります。見上げると、参拝を躊躇いたくなるような急な石段が続いています。神社の名前も長いですが、石段も長く続きます。登りにくい200段ほどの石段を登りきると、立派な社殿が見えてきます。この神社は大神神社と同様に、後背の山を拝する古い形式を取っています。ですから本殿は無く、遥拝造りという拝殿のみがあります。
 また、拝殿には平安時代前期の作と推定される、男女各二体の神像が祀られているとも聞き及びます。

 祭神は宇須多岐比売命・神功皇后・応神天皇となっているようです。神社の謂れが薄れた頃、ウスという音からウサが連想されたのかも知れません。宇佐八幡宮と呼ばれていた時代も長く、現在も明日香村のお年寄りは、ウサさん・ウサの宮さん(宇佐宮)と呼び習わしているようです。
 ところで、宇須多岐比売命のウスタキは、臼滝を連想させます。この神社下の飛鳥川は、淵となっていて、この名前が肯ける様相を見せています。当然、ここは皇極天皇の雨乞いが連想される重要な場所となります。神社に登る前に、飛鳥川の淵に下りてみましょう。四方を拝したと言う皇極天皇の雨乞いの様子が見えてくるかも知れません。


 この神社では、明治頃まで雨乞いの「なもで踊り」(南無手踊り)が行われていたようです。なもで踊りは、奈良県内で広く行われていた請雨祈願の行事で、その様子は各地の大絵馬に描かれて残されています。この神社にも、嘉永6年(1853)銘の絵馬が所蔵されているようです。
 この神社で行われた「なもで踊り」は、「本なもで」と称し、その後は内宮(稲渕、南淵請安墓に残る談山神社)において「かりなもで」が行われたとされます。


参考写真 : 高取町小嶋神社所蔵 なもで踊り絵馬

 皇極天皇の雨乞いが、このような形として継承されたのでしょうか。雨乞いが行われた聖地を神社としたのでしょうか。想像の翼を広げる以外にはなさそうです。

 さて、急峻な階段は危険ですので、横の坂道から降りることにしましょう。 (風人)



【6】  「南淵請安先生の墓」(南渕請安) (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社から下ってくると、稲渕の集落が見えてきます。その南端の小高い丘の上に南淵請安の墓とされる明神塚が在ります。住宅の路地から丘に登ると、傾いた石の鳥居が見えます。桜の時期には、桜花のドームとなるのですが、折れたご神木と小さな祠が一層雰囲気をかもし出しています。


 この小さな祠は、藤原鎌足を祭神とする談山神社で(現在は宇須多岐比売命神社に合祀されている)、お墓はその反対側の南を正面としています。うっかりすると、見落としてしまうかもしれません。南面には、南淵先生之墓と書かれた石碑が建てられています。

 南淵請安は、大化改新のブレーンの一人としてご存知の方も多いと思います。推古天皇の16年(608)4月、第一回遣隋使が隋使裴世清を伴って帰国します。同年9月、裴世清が帰国するにあたって、小野妹子を大使として第二回の遣隋使が同行することになります。この時に派遣された学生に、高向漢人玄理や学問僧の新漢人日文(僧旻)や南淵漢人請安らの名前が見えます。
 彼らは、隋から唐へという大きな時代の流れをつぶさに見取り、最新の学問を身に着け、舒明天皇の12年(640)、32年間の留学を終えて、新羅経由で帰国しました。

 日本書紀皇極天皇の2年の条に、大化改新の序曲として次のような記事があります。『 二人(中臣鎌足と中大兄皇子)、がしきりと接触することを他人が疑うのをおそれ、ともに書物を手にして、周孔の教え(儒教)を南淵先生(南淵請安)のもとで学んだ。そして、往復の路上で肩を並べてひそかに計画を立てたが、二人の意見はことごとく一致した。』
 しかし、この後の請安の消息は、書紀には見当たりません。遣隋使として同時に派遣された僧旻と高向玄理が国博士となっているのですが、請安は大化改新政府の要職には就いておらず、あるいはその時期までに亡くなっていたのかも知れないと私は思っています。

 享保19(1734年)に完成した「大和志」や宝暦元年(1751)に書かれた「飛鳥古跡考」等の記述を見ると、この明神塚は、1731年に大和志の著者が請安墓としてより後のことであり、口碑ではあるが、請安の墓はもとアサカヂ(朝風)にあってセイサン塚と呼んでいたともされています。

 請安先生のお墓の伝承が途切れたとき、鎌足の師であったことに所縁して、鎌足をお祀りする談山神社の近くに、改めてその塚を求めたのかもしれませんね。 (風人)



【7】 「竜福寺」   (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 南淵請安先生の墓から集落に下りてくると、すぐ近くに竜福寺があります。栢森に同名のお寺が在るのでややこしいのですが、どちらも浄土宗のお寺だそうです。飛鳥川沿いは、竜=淵というキーワードがどこまでも続くような気がします。

 境内には、「竹野王の石塔」の名前で有名な竜福寺層塔が在ります。この層塔は、在銘石造層塔としては、日本最古のものだとされています。「天平勝宝3年(751年)」


 層塔は凝灰岩製で、現存する高さは1.8m、当初は五層であったと考えられ、現在は三層までと四層の軸部が残っています。一層目の四方に銘文が刻まれているのですが、現状ではほとんど判読することは出来ません。

 「昔阿育王」・「朝風南葬談武之峯」・「天平勝宝三年歳次辛卯四月二十四日丙子従ニ位竹野王」とその一部が判読されています。層塔の撰文が竹野王によることから、竹野王の石塔と呼ばれているのですが、天平勝宝3年(751)に従ニ位であった竹野王という人物に関しては、はっきりとは分かっていません。天平宝字2年(758)に正三位になった竹野王、また天平勝宝三年に従ニ位になった竹野女王などの人物が、候補者とされています。平城京からは、竹野王と書かれた木簡が出土しており、関連が注目されました。

 竹野王の石塔という名前から、竹野王のお墓と思われがちですが、竹野王が造立した層塔と考える方が妥当だと思われます。

 「朝風南葬談武之峯」という一文が気がかりになりますが、誰を葬ったかについては、まったく分かっていません。 (風人)



【8】 「飛び石」  (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 竜福寺門前の急坂を下り、飛鳥川下流に向かいます。少し進むと、飛鳥川へと下りていく細い道があり、下りきると飛び石が在ります。万葉集に詠われる石橋(いははし)は、このように飛鳥川にポンポンと置かれた石を指しており、表面が平らな石を並べ、据え付けているようです。以前には、5~6ヶ所の飛び石が在ったとされていますが、現在、その痕跡を僅かに残すところは在るものの、実際に渡れるものは、男綱近くの一つだけになっているようです。


「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」(巻11-2701)
「飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋わたし  ・・・・」(巻2-196)

 また、飛び石は能の世界にも登場します。謡曲「飛鳥川」では、飛び石を舞台とした母子の再会が謡われています。吉野金峯山寺参詣の帰り、芋峠を越え飛鳥に差し掛かった子供が、飛び石近くで田仕事をする離れ離れになっていた母親との再会を果たします。

 飛び石は、人の出会いと別れを象徴する場所であったのでしょうか。時に飛鳥川が増水すると、飛び石は水没してしまいます。それもまた人生模様なのかも知れませんね。先の謡曲にも、渡れぬ飛び石の下りがあります。
 

 飛び石を実際にわたって、対岸から男綱に向かいましょう。(風人)



【9】 「男綱」  (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 男綱が見えてきました。第六回定例会では、この男綱の勧請綱掛神事に参加しました。伝統行事に参加した楽しい思い出も、まだ記憶に新しいところです。

 男綱の神事も、先に見た女綱同様に、作物の豊穣と子孫繁栄を祈願し、疫病・悪霊の侵入を阻止する祈りの行事です。

 稲渕の男綱は、各家から藁を48株ずつ持ち寄り、神所橋近くで綱を綯う作業から始まります。昔は、談山神社(内宮=現南淵請安墓)境内で行われていたそうです。綱は、普通の綯い方とは逆向きに綯われるのだそうです。こうして綯われた男綱は、全長約70m、直径約5cmになります。
 綱の中央に吊るされる男性の陽物は、直径が20cmぐらい、長さが1mぐらいです。普通の年は12本、うるう年は13本の紐で括ってあります。今年は、閏年ですから、13本の紐を付けられていました。


 昔は、全長100m、直径10cmほどもある綱が掛けられ、陽物も一回り大きかったそうです。

 朝7時頃から始められた綱作りは2時半頃に終わり、飛鳥川に掛け渡されることになります。綱の西側は小高い丘の上の柿の木に、東側は対岸の樫の木に結ばれるのですが、この時には、誰でもお手伝いをすることが出来、ほんの少し伝統行事に参加した気分を味わうことが出来ます。毎年、カメラマンや伝統行事を見学される俄か村人が、綱を引いています。第六回定例会では、私達もその仲間に入りました。

 掛け終わると、神所橋に白米一升・御神酒一升・串刺し蜜柑を供え、神事が営まれます。白米・御神酒は、飛鳥川に三度に分けて流されます。これは、悪霊や悪疫に供物を与え、村へ入ってこないようにするためだとされています。串刺しの蜜柑は、参加者に配られ、風邪避けになると言われます。


 男綱の神事も、いつ頃から始まったのかは分からないようですが、大正初期に一度取り止めたことがあったのだそうです。その年には病気が流行って、稲渕の集落でも亡くなられた人まであったとか。それ以降は、絶えることなく続けられてきました。
 参考ページ : 男綱勧請綱掛神事

 栢森・女綱
  開催日時:1月11日
   綱作り お昼から・綱掛 午後4時前後から
   場所:稲渕の男綱より約2km上流

 稲渕の男綱
  開催日時:成人の日
   綱作り 午前7時から・綱掛 午後2時半頃から
   場所:稲渕集落神所橋

 案山子ロードを朝風峠に向かいましょう。(風人)



【10】 「朝風・栗原・檜隈野」  (08.4.25.発行 Vol.19に掲載)

 案山子ロードを登りきったところが朝風峠になります。いつ頃から朝風峠と言う名前になったのかは、分かりません。しばらく前には、平田峠と国土地理院の地形図には書かれていました。ただ、この辺りは古代から朝風と呼ばれる集落が在ったとされています。南淵請安先生の家や墓も、元はこちらに在ったともされているようです。長屋王木簡には旦風(あさかぜ)、竹野王の石塔には朝風の文字も見え、この地との関連も指摘されています。ともあれ、良い地名です。

 峠を越えると、景色が一変します。葛城の山々が連なり、手前には佐田・真弓の丘陵が眼下に一望できます。北には畝傍山や生駒の山々も見え、気持ちの良い景色が広がります。
 参考ページ:佐田・真弓の丘

 果樹園の急坂を下り、農免道路をさらに下ると、檜隈・栗原の景色が広がります。ヒノクマとは、日の隈だとする説もあるようですが、それでは日陰の谷間のように解釈されます。しかし、目前に広がるこの景色を眺めていると、とてもそのようには思えません。原風景を見ないと一概には言えませんが、別の意味を考えても良いのではと思えます。


檜隈野

 檜隈の地域は、現状の地割りだけではなく、広域な地名であったと思われます。この地には、5世紀末から6世紀に掛けて、半島からの渡来人が大挙して移り住みました。渡来系の人々がこの地に定着することによって、先進の技術を伴った組織的な飛鳥開拓が始まることになります。鉄の農機具類は、檜隈の原野を瞬く間に豊かな農地に変えていったのかもしれません。それは大きな力となり、彼らを総称した名前である東漢人氏は、栄えていったのでしょう。その渡来系の人達と密接な関係を持ち、管理・指揮していた氏族が蘇我氏だとすれば、この時期に蘇我氏が急速に朝廷内に勢力を伸ばした原因も肯けるような気もします。そのような前提で考えると、飛鳥という時代は、この地から生まれていったと考えることも出来るかも知れません。

 飛鳥時代の創建だとされる栗原寺(呉原寺)や檜隈寺などもこの地に建立され、また子島寺なども同じ檜隈地域の至近の距離に在ります。これらのお寺は、東漢人氏に属する氏族の氏寺と考えられています。

 また、栗原は、我が国最初の火葬が行われた地としても知られます。文武天皇の4年3月、高僧であった道昭が亡くなり、弟子たちがその遺言に従って栗原で火葬した。天下の火葬、此に従しめ始れり。という記事が、続日本紀に見えます。


 この檜隈の地に、愛らしい石仏があります。旧道の傍らに在り、場所を知っていても見落としてしまうような小さなお地蔵様です。右おか寺と書かれており、岡寺への道しるべでもあったのでしょう。飛鳥遊訪マガジンでも、ご紹介していますので、ご記憶の方もいらっしゃるでしょう。皆さんも、一度「こんにちは♪」と声を掛けにお立ち寄りください。きっと笑顔で迎えてくださるでしょう。
  さて、檜隈野を歩いて、檜隈寺跡に向かいましょう。   (風人)



【11】 「檜隈寺跡」  (08.5.2.発行 Vol.20に掲載)

 檜隈寺跡は、栗原の石仏辺りから西を見ると、こんもりと茂った森がその位置を示してくれます。現在は、その境内跡に於美阿志神社が建てられています。 


檜隈寺跡

 於美阿志神社は、東漢氏の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神としています。『日本書紀』には、応神天皇20年に阿智使主がその子・都加使主(つかのおみ)、および自分の党類十七県を率いて渡来したとの記事があります。(「おみ・あし」と「あち・おみ」、音が似ているように思います。於美阿志神社の名は、あるいは転訛によるものなのかも知れません。)

 これらの渡来系の人々は、朝鮮半島の南にあった「安羅」出身であったとも言われます。(東漢の解釈については、諸説有ります。)彼らは、当初それぞれの氏族名を名乗っていたのでしょう。しかし、大和に住む安羅出身者であることを示す東漢を集団の総称として用いることで団結し、共通の祖先神として阿智使主を祀るようになったのかも知れません。
 於美阿志神社は、江戸時代までは現在地の西にあったようですが、明治40年に遷座したようです。


檜隈伽藍配置図
 さて、檜隈寺ですが、東漢氏の一端を担う檜隈氏の氏寺であると言われています。地形的には、南東方向から延びた尾根の一つに在ります。伽藍もその地形に影響されているためか、正方位を向いていません。また、伽藍配置も珍しい様式となっています。
 中門は地形に沿って西方向に開き(3×3間)、その正面に塔があります(3×3間)、中門から延びた回廊は、南の金堂と北の講堂に取り付き、塔の後ろを巡って結びます。
塔を中心にして、金堂と講堂が向き合うような伽藍配置と言えば分かりやすいでしょうか。

 塔跡の基壇の上には、平安時代後期に造られた十三重石塔(重要文化財・現在十一重)が建ちます。また旧塔の礎石を見ることが出来ます。発掘調査からは、塔の建物は、一辺7.5mに復元出来るようです。石塔の解体修理に伴う調査によって、地下から旧塔心礎と石塔の埋納物(ガラス製小壺・青白磁合子・蓋付須恵器四耳壺)が発見され、国の重要文化財に指定されています。現在は奈良国立博物館に収蔵されていますが、心礎の複製は塔跡すぐ南に設置されており、往時を偲ぶことが出来ます。また、埋納物のガラス製小壺は、創建当時の舎利容器である可能性が指摘されています。


塔心礎

 金堂は、建物全体としては、正面が13.92m、奥行きが11.38mに復元されるようです。現在も礎石の一部が露出しており、基壇の一部も目で確かめられます。その基壇の周囲は、川原石を約1m幅に敷き詰めていたようです。講堂の基壇外装は瓦積として知られますが、金堂の基壇外装は不明なのだそうです。

 講堂は、7間×4間の四面庇の大きな建物であったことが分かっています。正面29.4m×奥行15.3mの建物として復元されます。現在、講堂跡は整備され、残存していた礎石と復元された礎石が置かれ、講堂の規模を実感できます。基壇は、先にも書きましたように瓦積基壇と言われる様式を採用していました。

 檜隈寺は、日本書紀朱鳥元年(686)の条に「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。」という記事に登場するのですが、それ以外の記録は無く、創建やその後の推移も分かっていません。発掘調査の成果(出土瓦の変遷など)によれば、金堂が7世紀の後半に建立され、塔と講堂が遅れて7世紀末に建てられたと考えられているようです。しかしながら、調査では7世紀前半の瓦も出土しているようですから、伽藍寺院が出来る前に、その前身となるお寺の存在も想定されます。

 付近からは、奈良時代の瓦も出土するようですので、ある程度の規模を維持しながら存続していた物と思われますが、石塔の建つ平安末期には、おそらくは倒壊に近い様相となっていたのではないかと思われます。講堂跡には、講堂礎石の一部をそのまま利用した仏堂が建てられ、そのお寺が寺籍を継いでいたのかも知れません。本居宣長の菅笠日記に登場する道光寺が、檜隈寺であるとされますが、あるいはこの講堂跡の堂を指すのかもしれません。     (風人)



【12】 「奥飛鳥探訪まとめ」  (08.5.2.発行 Vol.20に掲載)

 奥飛鳥女淵から飛鳥駅まで、約10kmのハイキングをしてきました。前半の奥飛鳥では、皇極天皇を中心にした飛鳥時代に想いを馳せました。稲渕では、南淵請安を通して飛鳥の激動期を思い描きました。そして最後の檜前では、東漢氏を中心にした渡来系の人達の痕跡を追ってみました。
 飛鳥のメイン観光地からは外れますが、だからこそ残っている物もあったように感じます。皆さんは、どのように思われたことでしょう。長い奥飛鳥案内にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

  第八回定例会は、30人近い参加者の方々と楽しく歩いてきました。今回はご参加いただけなかった皆さんも、少しでもご興味を持っていただけましたら、是非一度奥飛鳥へ足を向けてみてください。下の地図は、今回のコース案内用に描きました。ご参考になさってください。   (風人)


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 註: 現在地名としては「檜前」と書きますが、古代地名を示す場合「檜隈」と表記しました。「女淵」「南淵請安」等の表記は、旧字を使いましたが、「稲渕」に関しては、現在の表記が一般的だと考え、「渕」の字を使っています。また「竜福寺」も「龍福寺」とはせず、案内板などの表記で書きました。ご了承ください。


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