両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第9回定例会
木簡から見た飛鳥
-近年出土の木簡を中心に-

Vol.23(08.6.6.)~Vol.25(08.7.4.)に掲載
石神遺跡
飛鳥京苑池遺跡
飛鳥池遺跡



【1】 「石神遺跡」  (08.6.6.発行 Vol.23に掲載)

 石神遺跡は、飛鳥川東岸の水落遺跡の北、飛鳥寺寺域北限とされる道の北西に位置します。遺跡名は、明治時代に須弥山石・石人像などが発見された遺跡南東端の田圃の小字名を取って付けられました。
 1981年からの奈良文化財研究所による継続的な発掘調査が2007年末で第20次を数え、現在までに遺跡の南・北・東の限りが明らかになっています。石神遺跡と一つ名で呼ばれる広範囲のこの遺跡は、遺跡の丁度北から三分の一ほどの地点(北限施設)を境にして、南北で遺構の様子が異なっています。

 古墳時代から平安時代までの遺構がみられるそうですが、3期に分かれる主要遺構は7世紀前半~中頃・7世紀後半・7世紀末~8世紀に大別でき、最も整備されたのは7世紀中頃になり、それぞれの遺構時期は、おおよそ斉明期・天武期・藤原期に当てはめて考える事ができるようです。

 7世紀中頃の遺構では、水落遺跡との間に遺跡の南限を示すと思われる低い基壇を持つ東西掘立柱塀跡が発見されています。また、この東西塀より北に180mの地点で北限施設と考えられる2条の東西方向の石組溝と掘立柱塀跡が発見され、石神遺跡の主要な遺構の範囲がおよそ南北180m、東西130mであることが分かりました。
 遺跡西側は、外周規模が東西70.8m・南北106mと推定される廓状建物で囲まれた空間、東側は、南に東西50m以上・南北40mに及ぶ石敷き広場、これより北に井戸と東西建物、そのまた北にはロの字型に配置された四棟の細長い建物とその中に正殿・前殿と考えられる建物が整然と配置されていたそうです。北限施設付近は総柱建物跡が検出され、倉庫群の可能性が指摘されています。

 その後、7世紀後半にも遺跡の南北限は変わらないものの、北側で建物の取り壊しや建替え、溝の付け替えなどが行われたようです。
 また、遺跡の南西端では、7世紀末から藤原宮期にかけての掘立柱塀による方形区画があり、藤原宮内裏東官衙施設との類似から官衙的な施設があったのではないかと推定されています。

 7世紀以前には沼沢地であったと思われる北限施設よりも北では、幅6mの東西溝や最大幅16mの南北溝など、7世紀後半の遺構が確認されています。この北側の地域からは、大量の木簡が発見され、有名なものでは16次調査出土の元嘉暦による持統3年(689年)3月と4月の暦日を記した最古の「具注暦木簡」とよばれるもの(二次加工により円形)、18次調査出土の「己卯年八月十七日」(天武8年・679年)と記載のある観音経木簡、「評 五十戸」木簡を始め、文書木簡や習書木簡、仕丁関連のものだと思える木簡など多数出土しています。また、木製品では文書に罫線を割り付けるために用いられただろう定規や鋸なども出土しています。

 須弥山石の出土や広場と思える石敷きなどから、7世紀中頃・斉明朝には饗宴施設であり、その後天武期には、南にある飛鳥浄御原宮との関連や出土する遺構や遺物(特に木簡の種類)などから官衙的な役割を持った区画へと施設の性格が変わっていったとも考えられます。

 日本書紀では斉明朝に三度、須弥山石の記事があらわれます。
 「3年秋7月15日、須弥山をかたどったものを、飛鳥寺の西に作った」「5年3月17日、甘樫丘の東の川原に須弥山を造って陸奥と越の国の蝦夷を饗応された」「6年5月、また石上池の辺りに須弥山を造った」

 書紀に登場する「飛鳥寺の西」「甘樫丘の東の川原」「石上池の辺り」が、この石神遺跡を指すのか、それぞれの須弥山が須弥山石と名付けられた出土した石造物をさすのか・・・。
 今後の継続調査も含めて、まだまだ謎が多く興味をそそられる遺跡ではあります。今後の展開を楽しみに見守りましょう。            (もも)
  参考ページ
 「第二回定例会資料 飛鳥の遺跡 石神遺跡



【2】 「飛鳥京苑池遺跡」   (08.6.20.発行 Vol.24に掲載)

 飛鳥京苑池遺跡は、飛鳥京の北西、飛鳥川対岸南西に川原寺や橘寺を望む場所にあります。
 1999年からの橿原考古学研究所による4次に渡る発掘調査により、渡堤で区切られた南北2つの池の存在が明らかになりました。遺構規模は、周辺の地形などを考慮に入れると、南北230m東西100mに及ぶと推定されるようです。

 発掘された南北両池は、ともに数段の石組み護岸をもちます。
 南池は平石によって水平に造られた池底で水深は浅く、池中央に中島や島状石積みなどを持ちます。遺構南端からは、二つの石造物も出土し、これらは大正15年に偶然発見された石造物(通称:出水の酒船石)と直線状に並ぶ事から、南側から水を流して最終的には噴水のように池へ流水させる装置だったと推定されています。南池は苑池と呼ぶに相応しい様相を呈していたと思われます。
 (出水の酒船石のレプリカは、飛鳥資料館の前庭でご覧になれます。)

 一方、北池は擂鉢状で水深も深く、北側には水路、南池との間の渡堤には北に向けて下がる木樋が通されるなど、南池とは異なる性格を担っていたようです。

 北の水路からは、130点余りの木簡が出土しています。丙寅年(666)戌寅年(678)など紀年銘木簡が4点、「松羅」という生薬名や「西州続命湯」と呼ばれた生薬の処方に関わる木簡(これらの生薬は、現在も漢方薬として処方されているようです)、「造酒司・・」など酒の醸造に関するものなど、幾つかのまとまりを持った内容になっているようです。

 また、検出された種子や種・花粉などからナシ・ウメ・モモ・スモモなどが栽培されていたことも判明しています。遺跡の全体像として、観賞用のエンのみではなく、本来的なエン(薬草園・果樹園など)の機能もはたしていたと考えられます。

 問題の遺構時期ですが、これより古い遺構も周辺からは発見されていないようで、苑池遺跡自体の時期は、飛鳥京第3期遺構とほぼ対応する7世紀中頃に築造されたと推定されるようです。そして、7世紀末ぐらいには改修もされ、藤原・平城遷都後も存続したものの9世紀頃には廃絶、13世紀に完全に埋没してしまったそうです。

 飛鳥苑池遺跡は、『日本書紀』天武14年11月条の「白錦後苑(シラニシキノミソノ)」であろうとの見方もされています。噴水設備などのある池を宮地の背後に配置すること(後苑)は、中国などにも見られる都城制のあり方のひとつなのだそうです。  (もも)



【3】 「飛鳥池遺跡」   (08.7.4.発行 Vol.25に掲載)

 飛鳥池遺跡は、飛鳥寺寺域の東南隅から南、酒船石遺跡のある丘陵と飛鳥寺瓦窯のある丘陵との間の「入」の形をした谷にあります。
 1991年に飛鳥池埋立の為の試掘調査、1997年から1999年までは、万葉文化館建設に伴う事前調査が、奈良文化財研究所によって行われました。つまり、現万葉文化館が建っている所=飛鳥池遺跡ということになります。

 遺跡は、東西の丘陵の間が最も狭まったところに設けられた掘立柱塀によって、南北に分けて考えられています。
 日本初の鋳造貨幣として注目された富本銭以外にも、金属・玉・漆・瓦など実に様々な製品が、主に南区の丘陵斜面に設けられた雛壇状の工房で製造されていました。また、東の谷の底部には、7個の水溜が設けられ、先の雛壇工房から出る廃棄物の沈殿浄化槽としての役割を担っていたようです。南区最北端の水溜からの水は、北区との境である掘立柱塀の下の暗渠を通って北区へと入り、北区のほぼ中心を走る南北溝から石組方形池へ、そして最終的には、遺跡外の東にある大溝へと流れ込んでいたと考えられています。

 飛鳥池遺跡では、7500点にも及ぶ木簡をはじめ、金属・鉱石・木製品など、多数の貴重な遺物が出土しています。

 北区では、「庚午年」(670・天智9)、「丙子年」(676・天武5)「丁丑年」(677・天武6)などの紀年銘木簡、天皇号成立で話題となった天皇木簡や新嘗祭に関わる次米木簡などの他、寺名や僧名入り・経典の貸借に関する木簡や瓦など、北にある道昭創建とされる飛鳥寺東南禅院関連と推測されるものが出土しています。
 南区では、工房での製造に関わる金や銀をはじめとする金属類、ガラス製造に関わる坩堝や原料(長石・石英)、「舎人皇子」「百七十」など発注元や数量などが墨書きされた発注指示書を兼ね備えた製品見本の「様(タメシ)」と呼ばれる木製品なども出土してます。

 これら遺物から南区の工房は、7世紀後半の天武期に本格的な稼動が開始され、奈良時代頃には終焉を迎えたと推定されています。また、北区は上層遺構(7世紀末~藤原宮期)保護の為にそれ以前の遺構の詳細は不明です。

  掘立柱塀で遮蔽され、北は飛鳥寺付随施設・南は官営工房跡と区別されて考えられる飛鳥池遺跡ですが、上記のような一連の排水の行方を追ってみると、違った側面が見えるてくるようにも思えます。また、不明とされる北区の遺構下には、川原寺北限遺跡のように、寺院の専属工房が眠っていると言う可能性を妄想してみるのも楽しいかもしれません。

 一部の復元遺構は、遺跡上部に建設された万葉文化館敷地内で見学することが出来ます。北区の井戸や排水溝・石敷き井戸などは裏庭で(ここは無料で入れます♪)、また南区の工房は、一階の渡り廊下から見下ろせ、近くで見学する事も可能だったと思います(こちらは、入館料が要りますが)。機会があればご覧になってみてください。
                                         (もも)



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