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伏見の飛鳥やぶにらみ


 伏 見



 少し離れた場所から飛鳥を覗いてみます。
基本的には、平安時代の資料を通して見ていこうと思います。
見当違いや脱線などなど、焦点の合わない、まさしく「やぶにらみ」。
とりとめもない雑談で終わるか、新たな視点を提供するか、本人にも分かりませんが、お付き合い下さい。

平安時代の万葉集 1
平安時代の万葉集 2
平安時代の万葉集 3
平安時代の万葉集 4
平安時代の万葉集 5
歌語 山した風
3号から85号までの伏見の飛鳥やぶにらみは、こちら♪

 「平安時代の万葉集
【1】 (10.9.17.発行 Vol.89に掲載)

 だんだんネタが尽きてきた、伏見の飛鳥やぶにらみですが、今回からしばらく平安時代の『万葉集』のお話をしたいと思います。

 『万葉集』はいつできたのか。
 この問題は、現在でも盛んに議論されるものです。教科書的な知識としては、大伴家持が最終的にまとめたもの、ということになります。しかし、この説も明確な証拠があるわけではありません。何しろ、『万葉集』には編纂事情を記した序文などがありませんので、詳細は不明なのです。ですから様々な議論があります。

 そこで重要になってくるのが、平安時代に『万葉集』に言及した文献です。『新撰万葉集』序文、『古今和歌集』序文は、『万葉集』の成立に関わる資料としてよく知られたものですが、かなり難解で複雑な問題をはらんでいます。次回以後、取り上げようと思います(予定は未定ですので、あまり期待なさらずに)。

 今回は、『古今和歌集』に入っている次の歌を取り上げましょう。

  貞観の御時、万葉集はいつばかり作れるぞ、と問はせ給ひければ、よみて奉りける
                          文室有季

 神無月時雨降りおけるならの葉の名に負ふ宮のふるごとぞこれ(雑下・997)

 「貞観」は清和天皇の年号で、859年~877年。清和、10歳~28歳の期間です。「貞観御時」で、清和天皇の御代ということになります。この清和が、万葉集はいつ頃作られたのか、と尋ねたので、文室有季が詠んだのが、この歌ということになります。

 文室有季については、事績は全く伝わっていません。天皇から『万葉集』について尋ねられたのですから、和歌の知識があったのは確かでしょう。六歌仙の一人、文室康秀と関係があるのかも知れません。この有季、資料に全く現れないということは、かなり身分が低いことになります。当然、天皇の御前にあがれるわけがありません。この問答がどのような情況で行われたのか、興味が引かれるところですが……それは今回は関係ありませんので、先に行きます。

 有季の歌は、「神無月の時雨が降り置いている楢(なら)の葉、その奈良という名前を持っている都の古い言葉です、これは」という内容です。楢と奈良を掛けているところに技巧がありますが、それ程凝った歌ではありません。
 この歌、『万葉集』については、奈良の都=平城京に都が置かれた時代のものだと詠んでいるわけで、奈良時代に『万葉集』が成立したと答えているわけです。この辺は、特に我々の常識とは離れていません。

 ところで、ある注釈書を読んでいたら、この歌の「なら」の「宮」について、「奈良の宮廷。特に平城天皇の御代のそれを指す」と書いてあるものがありました(新日本古典文学大系・岩波書店)。
 平城天皇は、平安京二代目の天皇で、位を弟の嵯峨天皇に譲った後、平城還都を目論むものの失敗し、以後平城京で過ごした天皇です。この解釈に従えば、『万葉集』は、平城天皇の時代にできたことになり、つまり、平安時代になって成立したことになるわけです。
 確かに平城は、平城(なら)を都としようとした天皇(上皇)ですが、結局は失敗したわけですから、この歌の「宮」を「平城天皇の御代のそれを指す」と解釈するのは無理があると思います。

 しかし、このような解釈が出てくる要因というのが、実はあるのです。それが、『万葉集』成立とも関わっているもので、『古今和歌集』序文なのです。
 次回は、これを取り上げます。



【2】  (10.11.26.発行 Vol.94に掲載)

 前回から平安時代の万葉集についての話を始めましたが、今回は(恐らくは次回も)、古今和歌集の序文に書かれた万葉集についてお話しします。

 古今和歌集には、二つの序文が残されています。ひらがなで書かれた「仮名序」と漢文で書かれた「真名序」です。これら二つは、ほぼ同じ内容となっています。肝心なところが異なっているのですが、その点は、また次回以降、お話しすることもあると思います。

 そもそも、一つの書物に、ほぼ同じ内容の序文が二つあるということは、あまり考えにくいことで、当初は一つであったと考えられています。

 それでは、どちらが最初につけられていた序文か、といえば、真名序であると推測されます。

 古今和歌集は、醍醐天皇の勅命によって編纂された勅撰和歌集です。当時の公文書は、すべて漢文ですから、やはり勅命による編纂書である古今集の序文も、漢文で書かれたと想定されます。

 それでは仮名序はいつ書かれたのか。これにも議論はありますが、古今和歌集は、勅撰集ですから、完成後は、天皇に献上されます。献上された本のことを、奏覧本といいますが、奏覧本の古今集は宮中に留められ、基本的には門外不出です。ですから、貴族たちが読む古今集は、奏覧本ではなく、その下書本を写したものだと考えられます。

 そして、おおむね和歌集を読むのは、女性ですから、漢文の序よりも、それを大和言葉にやわらげた文章が必要で、そのために仮名序が書かれた、と考えられています。

 現在刊行されている、文庫本等の古今集を見ると、冒頭に仮名序、巻末に真名序が置かれています。これは、中世の写本の形式なのですが、古今集の写本の多くは、冒頭に仮名序が置かれているだけで、真名序はありません。いくつかの写本に、巻末に真名序が加えられているのですが、これは恐らく、書写者が、参考資料的に真名序を追加したのだと考えられています。和歌の世界ですから、真名序よりも、仮名序が重視されていたともいえます。

 以上のような仮名序と真名序の位置づけを念頭に置いて、万葉集の編纂が書かれた部分を読んでみましょう。まず、仮名序から見ていきます。

 いにしへより、かく伝はるうちにも、ならの御時よりぞ広まりにける。かのおほむ世や歌の心を知ろしめしたりけむ。かのおほむ時に正三位(おほきみつのくらゐ)柿本人麻呂なむ歌のひじりなりける。これは君も人も身を合はせたりといふなるべし。秋の夕べ、竜田河に流るる紅葉をば、帝のおほむ目に錦と見給ひ、春のあした、吉野の山の桜は人麻呂が心には雲かとのみなむおぼえける。又山辺赤人といふ人ありけり。歌にあやしくたへなりけり。人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける<ならの帝の御歌、たつた河もみぢみだれてながるめりわたらばにしきなかやたえなむ。人麻呂、梅花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば。ほのぼのとあかしのうらのあさぎりに島がくれ行く舟をしぞ思ふ。赤人、春ののにすみれつみにとこし我ぞのをなつかしみひと夜ねにける。わかの浦にしほみちくればかたをなみあしべをさしてたづなきわたる>。この人々をおきて又すぐれたる人も、くれ竹の世々に聞こえ、片糸のよりよりに絶えずぞありける。これより先の歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。

 この引用文中<>で括った部分は、古注、あるいは小注と呼ばれるもので、仮名序が書かれた時にはなかったものの、かなり早い段階で(恐らく平安中期には)つけられたものです。現在の仮名序の写本のほぼすべてに残っていますので、一緒に上げておきました。飛ばして読んでいただい構いません。

 内容を概観すれば、次のようになります。

 昔から和歌が伝わって来た中でも、「ならの御時」に和歌は広まったのだ。その御時には、歌の心をご存じだったのだろう。その御時に、正三位柿本人麻呂が、歌の聖であった。人麻呂は、帝と一体となって歌を詠んだといえよう。秋の夕べに、竜田川に流れる紅葉は、帝の目には錦とご覧になり、春の朝、吉野山の桜は、人麻呂の心には、雲ではないかと思われたのである。また、山辺赤人という人がいた。歌に不思議なほどに抜きんでていた。人麻呂は赤人の上に立つことが難しく、赤人は人麻呂の下に立つことが難しく、ともに並び立つ存在であった(古注略)。この人々を別において他にすぐれた人も、世々評判となり(「くれ竹の」は「よ」の枕詞)、その時々に和歌は絶えることがなかったのだ(「片糸の」は「より」を導く序詞)。これ以前の歌を集めて、万葉集と名付けられたのである。


 和歌が「ならの御時」に広まり、その時代には、人麻呂と赤人が並び称せられ、この時代以前の歌を集めて万葉集ができたというのです。すなわち、万葉集は、「ならの御時」にできたことになります。

 ここには議論が集中しているのですが、問題となるのは、次の二点でしょう。

  ・「ならの御時」とはいつか
  ・人麻呂は「正三位」であったのか。

 この点について、次回以降に検討していきたいと思います。



【3】  (11.4.1.発行 Vol.104に掲載)

 前回は、古今和歌集仮名序を取りあげ、「ならの御時」に正三位・柿本人麻呂や山辺赤人がおり、この時代に万葉集が編纂されたという記述を介しました。

 この「ならの御時」がいつか、というのが、先ず問題となります。「御時」は天皇の治世をいいますので、「ならの御時」とは、某天皇の治世ということになります。どの天皇に当たるかについては、平安末期から様々な説があります。例えば、聖武天皇など、やはり奈良時代の天皇が当てられます。これらは「なら」を平城京と考え、平城京の時代の天皇と理解したからだと思われます。

 しかし、「なら」の天皇を平城京時代の天皇と解釈すると、複数が候補に挙がってしまい、曖昧な表現だということになります。そもそも「~御時」という表記は、天皇の治世を具体的に示します。例えば、以前にもあげた、万葉集に関わる歌(古今集・雜下・997)では、「貞観の御時」と出てきましたが、これは「貞観」という年号から、清和天皇を指すことになります。古今集では、宇多天皇の治世を「寛平の御時」(寛平は宇多年号)というなど、年号で示すことが多くあります。しかし、「なら」という年号はありません。また、「田村の御時」とは、文徳天皇を指しますが、これは、文徳の陵が「田邑陵」であったことに由来します。しかし、「なら」を地名として考えると、天皇陵としても候補が多すぎます。とすると、この「なら」は年号でも天皇陵でもないことになります。古代中世の学者が、平城京として考えたのも無理のないことかも知れません。

 しかし、「なら」のヒントは、この序文自体にあります。万葉集の編纂の述べたあとに次のような文章があります。

  かの御時よりこの方、年は百年あまり、代(よ)は十継(つぎ)になむ、なりにける。

 「かの御時」(=あの治世)とは、直前に語られる「ならの御時」を指します。あの治世から今まで、年は百年あまり、代(=天皇の治世)は十代になった、といいます。
 「この方」=今、とは、古今集が編纂された醍醐天皇の時代を指します。
 そして、古今集の勅撰は延喜五(905)年です。ここから百年前といえば、800年代初頭になります。そして、醍醐天皇で十代ですから、遡りますと…醍醐→宇多→光孝→陽成→清和→文徳→仁明→淳和→嵯峨→平城…つまり、平城天皇となります。平城天皇については、以前古今集春下・90の歌を取りあげたときに紹介しましたが、平城の治世は、大同元(806)年~同四(809)年で、正しく醍醐の時代から百年前です。そして、以前取りあげた古今集90は、作者平城天皇のことを「ならのみかど」と表現していました。つまり、「なら」とは、平城天皇の「平城」を指していたのです。

 これで、明らかになります。「ならの御時」とは、平城天皇の治世なのです。
 とすると、古今和歌集序文では、万葉集の編纂は、平城天皇の時代に行われたことになるわけです。ちなみに、古今集のもう一つの序文・真名序には、「昔平城天子、詔侍臣令撰万葉集」(昔平城天子、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ)とあり、平城天皇であることが、仮名序以上に明確です。

 万葉集は、平安時代に入って、平城天皇の時代に編纂されたというのが、古今集仮名序の主張するところとなるわけです。

 そうすると、またまた疑問が出てきます。「ならの御時」には、人麻と赤人が活躍していたと記されていました。しかし、我々の常識では、人麻呂、赤人は、平安時代の人物ではありません。
 これはどういうことでしょうか。この辺は、「正三位」人麻呂の問題と絡めて、次回にお話しします。



【4】  (11.6.24.発行 Vol.110に掲載)

 前回(104号)は、古今和歌集仮名序に記された、万葉集編纂についてお話ししました。仮名序では、平城天皇の時代に、「正三位」柿本人麻呂と山辺赤人が活躍しており、この時代に、万葉集が編纂されたと述べられていたのでした。

 しかし、人麻呂と赤人は、平安時代の人物ではありませんし、この二人自身、同時期に活躍した歌人でもありません。それとともに、人麻呂が「正三位」であると記されていることが問題です。今一度、その部分を確認しましょう。

  かのおほむ時(=平城天皇の時代)に正三位(おほきみつのくらゐ)柿本人麻呂なむ歌のひじりなりける。…又山辺赤人といふ人ありけり。

 今回は、この「正三位」について考えていきます。
 三位は、令制において「貴」と称され、公卿と呼ばれる地位です。しかし、人麻呂が三位であった史実はなく、そもそも三位であれば、日本書紀、続日本紀に登場するでしょうが、それもありません。
 人麻呂が石見国で死に臨んで詠んだ歌があります(万葉集223)。その題詞は次のように記されています。

  柿本朝臣人麿在石見国臨死時自傷作歌一首

 この題詞で、人麻呂の死は「死」と記されており、「「死」という律令用語(喪葬令)で書かれた彼の身分は、官人としては六位以下であったらしい」(新日本古典文学大系)という理解が一般的であると思われます。喪葬令によれば、親王及び三位以上は、「薨」、五位以上及び皇親は「卒」六位以下庶人は、「死」ですので、「六位以下」であったろうという理解は当然です。

 ですから、仮名序の「正三位」には疑問が残ることになります。仮名序では「おほきみつのくらゐ」と表記されていますが、古今集の他の写本で、これを「おほきみゝつのくらゐ」とするものがありますが、これは「正六位」を意味します。三位ではおかしいと考えたのでしょう。また、近年でも「おほきむつのくらゐ」(正六位)の誤写とする説もあります。しかし、「正六位」程度であれば、赤人と同じように、位など記さなければよいのであって、ここは「正三位」であることが重要なのだと考えられます。
 そもそも、古今集の撰者は、人麻呂を、三位のような高位の人物と考えていたのでしょうか。撰者の一人・壬生忠岑に次のような長歌があります。長いので、必要部分だけ引用しておきます。

   ふる歌に加へて奉れる長歌      壬生忠岑
 くれ竹の 世々のふること なかりせば いかほのぬまの いかにして 思ふ心を のばへまし あはれむかしべ ありきてふ 人麻呂こそは うれしけれ 身は下ながら 言の葉を 天(あま)つ空まで 聞こえあげ 末の世までの あととなし …(古今集1003)

 古今集の編纂とも関わって重要な長歌ですが、ここにも人麻呂が出てきます。人麻呂について「身は下ながら」と詠んでおり、地位が低いことを示していると考えられます。つまり、撰者・忠岑も、人麻呂が高位ではなかったことを知っていたということになります。そして、それは他の撰者でも同様であったと思われます。
 であれば、仮名序の「正三位」という表現は、意図的に史実を改変したものと考えられるのではないでしょうか。

 人麻呂、赤人が登場する部分は、平城天皇の時代に、和歌の理想的時代があったことを描いており、その時代には、天皇が和歌についてもよく理解し、「正三位」という高位の人麻呂も和歌を詠み、人麻呂だけではなく、赤人という「歌のひじり」もいた、というのです。
 仮名序には、万葉集編纂に続いて、「ここに、いにしへのことをも、歌の心をも知れる人、わづかに一人二人なりき」と記されています。「ここ」というのは、古今集が編纂される現在を指します。つまり、平城朝という和歌の理想的時代以後、現在まで、「歌の心」を知っている人がわずかになり、和歌の地位が下がったと述べているわけです。古今集という勅撰集は、いわば、和歌の理想時代を再興するために編纂されたというのが、序文の書き方ですが、実際、古今集が編纂される当時、和歌の社会的地位は低いものでした。それを、勅撰集という形にするためには、「いにしへ」の和歌は、社会的地位が高いものであった。だから、それを再興するのが、古今集編纂という事業なのだ、という理屈が必要で、それには、「いにしへ」の和歌の理想的時代が必要となるということです。

 すなわち、撰者達は、和歌の理想的時代を、平城朝におき(平城天皇自身が和歌を残していたことも無関係ではないでしょう)、人麻呂を正三位という高い位として、理想的時代を描いたといえましょう(人麻呂にのみ「正三位」とあって、赤人に位がつかないのは、和歌史上の重要性の違いと捉えることができると思います)。そして、その時代には万葉集が編纂されており、古今集はそれを継ぐものだ、というのです。これは、古今集勅撰を正当化するための、虚構の和歌史ということができます。そして、虚構と考えることができれば、平城朝に万葉集が成立したというのも、真に受けてはいけないのではないか、ということになります。

 古今集に限らないことですが、書物の序文というものは、その書物の正当性を主張するために書かれるもので、そこに書かれた内容を史実と認めてよいかには、慎重な検証が必要です(現在でも、研究書などに序文が付けられます。著者以外の研究者が執筆する場合が多いのですが、当の研究書がいかに有効か、いかにすぐれているかを主張することが一般的です。その研究書の価値を高めるため、出版を正当化するためといえるのですが、実際の内容が、そこまで高い価値があるか、といえば……口をつぐまざるをえないような研究書も結構あります)。

 以上のように見てきますと、万葉集の成立が平城朝である、というのは、古今集撰者の虚構であると考えられます。あるいは、撰者以前にそのような伝承があった可能性もありますが、平城朝に万葉集が成立したという根拠が、古今集の「序文」である以上、ある程度割り引いて考える必要があるのです。



【5】  (11.9.16.発行 Vol.116に掲載)

 さて、前回までは、古今和歌集仮名序に記された、万葉集の編纂についてお話ししましたが、古今集には、漢字で書かれた真名序もあります。今回は、真名序の万葉集について説明します。

 古今和歌集に真名序と仮名序の二つが何故あるのか、という点については、以前お話ししましたので、ここでは省略します。

 真名序には、万葉集の編纂について、次のように書かれています(原漢文)。

 昔平城天子、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ。爾(そ)れ自(よ)り来(このかた)、時は十代を歴、数は百年を過ぐ。其の後和歌棄てて採られず。

 明らかに平城天子=平城天皇が万葉集を編纂させたとあります。「時は十代」「数は百年を過ぐ」とあるのは、仮名序と同じで、平城の時代から今=醍醐天皇の時代まで、天皇は十代、年数は百年ほどを過ぎたというのです。
 ところでこの部分、仮名序とは随分と異なります。仮名序の該当部分を古注を省いて確認してみましょう。

 かく伝はるうちにも、ならの御時よりぞ広まりにける。かのおほむ世や歌の心を知ろしめしたりけむ。かのおほむ時に正三位柿本人麻呂なむ歌のひじりなりける。これは君も人も身を合はせたりといふなるべし。秋の夕べ、竜田河に流るる紅葉をば、帝のおほむ目に錦と見給ひ、春のあした、吉野の山の桜は人麻呂が心には雲かとのみなむおぼえける。又山辺赤人といふ人ありけり。歌にあやしくたへなりけり。人麻呂は赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける<古注略>。この人々をおきて又すぐれたる人も、くれ竹の世々に聞こえ、片糸のよりよりに絶えずぞありける。これより先の歌を集めてなむ、万葉集と名づけられたりける。

  前々回に引用した部分ですが、「ならの御時」=平城天皇の御代に人麻
 呂と赤人がおり、ともに優れた歌人で、これ以前の人々の歌を集めて、万
 葉集が編纂されたというのでした。
 平城朝に人麻呂、赤人がいるというのは、史実としては誤りだということも既にお話ししましたが、この記述は、いわば虚構の和歌史で、古今集勅撰を正当化する文章であるのです。
 この記述と先の真名序とを比較すると、人麻呂、赤人の名が見えません。しかし、真名序に二人の名前がないかといえば、そうではありません。万葉集編纂の記述の前に次のような文章があります。

 古の天子、良辰美景ある毎に、侍臣に詔して、宴莚に預る者をして、和歌を献ぜしむ。君臣の情、斯れ由り見るべく、賢愚の性、是に於て相ひ分つ。所以に民の欲に随ひて、士の才を択ぶ也。大津皇子の初めて詩賦を作りし自り、詞人才子、風を慕ひ塵を継ぎ、彼の漢家の字を移し、我が日域の俗を化す。民業一たび改り、和歌漸く衰ふ。然れども猶先師柿本の大夫といふ者有り。高く神妙の思を振り、独り古今の間を歩く。山辺の赤人といふ者有り。並びに和歌の仙也。其余の和歌を業とする者、綿綿として絶えず。

 ここは古の天子について語られているのですが、昔は、天皇が侍臣に歌を詠ませて、「君臣の情」を知り、臣下の「賢愚の性」を判断したが、大津皇子以来、和歌に代わって漢詩文が隆盛し(「民業一たび改り」)、和歌が段々衰えていったと記されます。

 しかし、「先師柿本大夫」や「山辺赤人」がおり、二人は「和歌の仙」と呼ばれ、衰えたと雖も、和歌の業は綿々と絶えなかったというのです。真名序は、この後、さらに和歌が「好色の家」「乞食の客」のものとなり、「大夫の前」に進めがたい、すなわち、公的には出せない存在となったことを述べ、そして、六歌仙の登場を語って、先の万葉集編纂へと繋げていきます。

 人麻呂、赤人のことは、平城天皇の時代のこととしては語られておらず、古の「和歌の仙」として紹介されており、しかも、特段同時代の人物として描かれているわけでもありません。仮名序と比べれば、史実としては正確な表現になっているともいえます。ところで、真名序では、大津皇子以来漢詩文が盛んになったといいますが、このことは『日本書紀』持統即位前紀朱鳥元年十月三日条に「詩賦の興り、大津自(よ)り始まる也」とあることを踏まえており、これも史実通りです。

 つまり、仮名序と真名序を比較すれば、平城朝に万葉集が編纂されたことについては同じですが、同時代に人麻呂、赤人がいたというのは仮名序にあるだけで、真名序にはない。その点は、真名序の方が史実に則っているといえます。
 基本的に、漢文は公的な文書に使われますから、和歌史以外の側面は、できる限り史実に即した描写をしたといえましょう。

 もっとも、平城朝に万葉集が編纂されたことに疑問があるということは、前回お話しした通りですし、古の天皇が、和歌によって臣下の「賢愚の性」を判断したというのも、虚構です(この部分仮名序にも「さかしおろかなりと知ろしめしけむ」とあります)。

 また、人麻呂を「柿本大夫」と記すことも、虚構でしょう。「大夫」は、養老令・公式令に「三位以上は大夫と称せよ」とあるのを踏まえれば、人麻呂が三位以上であることを意味しています。仮名序で人麻呂を「正三位」とするのも、この真名序を記述を承けていることになります。そして、前回お話ししたように、人麻呂が三位であった史実はなく、和歌の権威化の一環として捉えることができるわけです。

 和歌史関係について史実を枉げてまでも和歌勅撰の正当性を記すという点においては仮名序と同様でも、それ以外はなるべく史実に即した内容である、というのが、真名序の記述だ、ということになりましょう。

 以上で、古今集仮名序・真名序に記された万葉集についての紹介は終わります。万葉集の編纂を含め、両序に記された和歌史は、和歌の勅撰を正当化するための虚構であり、その意味で、内容を真に受けてはいけないというのが、私が考えていることです。



【6】 「山した風」  (11.11.25.発行 Vol.120に掲載)

 平安時代の『万葉集』について、しばらくお話ししてきましたが、今回は少し視点を変えて、ある歌語についてお話しします。

 古今和歌集の撰者の一人、紀貫之に次のような歌があります。

 しら雪のふりしく時はみよしのの山した風に花ぞちりける(貫之集2)

 白雪がしきりに降るときは、吉野の山下ろしの風に花が散っていることだ、というような内容の歌です。
 何故、白雪が降るときには、花が散るのか、といえば、雪を花に見立てているわけです。吉野については以前もお話ししましたが、雪の吉野として春が遠い、なかなか来ない場所だったのですが、その吉野も、山下ろしの風のために雪がしきりと降っているときには、その雪が花と見えて、花が散っているというのです。

 雪が降るときには花が散るというところが、なかなかおもしろい表現です。貫之には、例えば、

 霞立ち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける(古今集・春上・9)

 という歌があります。霞が立って木の芽も「はる」=<張る>(ふくらむ)=<春>の雪が降るので、花がない里にも花が散るのだ、というのですが、これも、雪が降るから花が散るという理屈を、花と雪の見立てによって表現した歌です。

 さて、今回問題にするのは、このような見立てではありません。最初の歌の「山した風」という歌語です。
 この言葉、山下ろしの意味であることは、文字面からも明らかですが、貫之以後、歌に使われるようになります。

 貫之と同時代の女流歌人・伊勢の家集『伊勢集』には次のような歌があります。

 み吉野の山した風ぞ寒からし妹背の川の波高く見ゆ(伊勢集426)

 吉野の山下ろしの風が冷たいようだ、妹背川に波が高く立つのが見える、という歌です。妹背川とは、妹山、背山の間を流れる川で、吉野川の下流です。そして、この「妹背」は単なる地名ではなく、恋人(夫婦)の意が重ねられていて、この歌は、二人の間に波が立ち、穏やかではない情況を詠んでいるわけです。波を立てる要因として「山下ろしの風」があるわけです。

 また、平安後期の歌人、俊恵には次のような歌があります。

 み吉野の山した風や払ふらむ梢にかへる花のしら雪(千載集・春下・93)

 吉野の山下ろしの風が払うのだろうか、雪のような花が梢に帰って、再び雪が降ったようだ、というような歌です。吉野・山した風・花と雪の見立て(貫之とは逆ですが)など、いかにも貫之の歌を踏まえた表現です。

  このように「山した風」という歌語が詠まれているのです。俊恵の歌な
 ど、いかにも貫之歌を踏まえています。では、この「山した風」という歌
 語は、貫之の創造になるものなのでしょうか?

 そうではありません。この言葉は、万葉集に出てくるものなのです。
 しかし、例えばネット上にある万葉集データベースで検索しても出てきません。それは現在の万葉集に存在しないというのではなく、万葉歌の訓読に関わってくるのです。

 万葉集に次のような歌があります。

   大行天皇幸于吉野宮時歌
 み吉野の山の嵐の寒けくにはたや今宵も我がひとり寝む(巻一・74)

 この歌は、文武天皇が吉野宮に行幸したときの作です。「吉野」も出てきますし、「寒けく」という言葉など、『伊勢集』の歌と重なります。では「山した風」は・・・というと、この歌の「山の嵐」の部分が問題とるのです。

 この部分、原文では「山下風」と表記されています。それを現在は、「やまのあらし」と訓んでいるのですが、実は、このように訓むのは新しく、古くは「やましたかぜ」と訓まれ、江戸時代に流布した寛永版本でも同様でした(「山下風」は、他に1437、2350にも見えますが同じく「やましたかぜ」と訓まれていました)。

 実はこの歌、三番目の勅撰和歌集『拾遺和歌集』に次のような形で入っています。

   題しらず     よみ人しらず
 あしひきの山した風もさむけきにこよひも又やわがひとりねん(拾遺集・恋三・777)

 作者未詳の恋歌として入集していおり、初句が異なりますが、明らかに文武の歌です。そして、「山した風」と訓まれているのです。
 万葉集の歌としては、「やまのあらし」が本来の訓みであることは現在では確定しています。ですから「やましたかぜ」という訓みは、誤読ということになります。つまり、その誤読から「山した風」という歌語が誕生し、貫之が歌に詠み、後代に影響を与えていく、ということになります。

 万葉集の平安時代における受容ということになりますが、現在の万葉集を読むだけでは、見えてこない部分です。

 貫之には次のような歌があります。

 桜ちる木(こ)のした風はさむからで空にしられぬ雪ぞふりける(拾遺集・春・44)

 直訳すれば、桜が散る木の下に吹く風は冷たくなく、空に知られない雪が降っている、とでもなる歌ですが、桜が散る光景を詠んだ歌で、散る桜を、空に知られていない雪と表現したところが勘所でしょう。雪が降る冬ではないのですから、木の下の風も冷たくはないわけです。

 この歌は貫之の名歌として喧伝されていますが、「木のした風」という言葉、これは、「山した風」という歌語を応用したものでしょう。貫之は他にも「木のした風」を使った歌を詠んでおり(貫之集150、483)、大分気に入った表現であったようですが、これも、「山下風」が「山した風」と誤読されていたところから生み出されたものなのです。





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