両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



若葉マークの飛鳥雑記


若葉



飛鳥が好き♪
というだけだった私が、飛鳥を知るにつけ思った事や、
両槻会でいろんな体験をしたり知った事など、
何でもごちゃごちゃ書いて行きたいと思います。


1
きっかけは・・
草薙剣盗難事件
飛鳥検定 裏話 1
飛鳥検定 裏話 2



【1】 「きっかけは・・・」  (07.12.21.発行 Vol.3に掲載 )

  その山がそんなに有名だと知らずに眺めていました。小学校の東の方向は少し低くなっており、遠くまで田んぼが広がっていましたので、とても遠いはずですがお天気の具合で見える事もあったのだと思います。その形はらくだの背のようで、子供にもすぐ見つけることが出来印象に残ったのでしょう。
 ずずっと年月がたったある日、私は子供が通う耳鼻科に置いてあった歴史雑誌を見ていました。飛鳥特集の中のその黒いシルエットの写真は、「私の山だ!」と、驚きの再開をさせてくれるに十分でした。そして、それは歴史好きであった私を懐かしい風景の残る飛鳥によりいっそう憧れさせるという出来事でした。
 現地説明会はその切り取られた隙間から遠い昔を本物の古代を垣間見る事が出来るチャンスです。とってもわくわく嬉しい時です。地名などで古代の名前がそのまま現在も使われていたり、歌で読まれた同じ自然を見たり感じたりすると、千数百年も前の人々が身近に思われてきて、ほんの少しの時間が流れただけで今も続いているんだ、と当たり前ですがそう気付きます。


 そんな私が時折思うのは、あのクラス替えの5年生の春、話す人のいなかった休み時間に2階の渡り廊下から見えた二上山が、今ではどんな風に見えるのか、はたしてまだ見えるのか確かめてみたいなぁという思いに駆られるのです。



【2】 「草薙剣盗難事件」  (08.11.7.発行 Vol.35に掲載)

 今年の「飛鳥検定」問題を作るにあたり、何かないかと探しておりました時に、気になった文がありましたので、ちょっと調べてみました。

 『日本書紀』の朱鳥元年(686)に、「天皇の病を卜うに草薙剣に祟れり。即日に尾張国の熱田社に送り置く」という記事があります。この「草薙剣」とは、あの八岐大蛇の尻尾から取り出された「天叢雲(あめのむらくも)剣」の事で、伊勢神宮の倭媛から東征する日本武尊に渡され、尊が亡くなった後、宮簀媛(ミヤズヒメ)により熱田の地に祀られた剣です。

 天智天皇7年(668)にも、剣に関する記事があります。「沙門 道行、草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあいて荒迷いて帰る」 という盗難の記事ですが、大切に保管されているはずの神剣がなぜ盗み出せたのでしょう。道行は熱田社に出入りをしていた僧で内情に詳しかったのでしょうか。『尾張国熱田太神宮縁起』にも「追跡を恐れた道行が剣を棄て逃げようとするが、身から離れず自首し斬刑に処せられた」という記載があるそうです。(参考資料『熱田神宮』熱田神宮宮司 篠田康雄)

 大阪市鶴見区放出に、延喜式内の阿遅速雄(アヂハヤオ)神社があり、アヂスキタカヒコネ神と共に、草薙御神剣御神霊がお祀りされている事がわかったので、仕事帰りにお参りに行きました。
 学研都市線の放出駅から東に向かって数分の所で、もう暗くなっていた為横の小口だけ戸が開いていて、社務所も閉まっていたので、同じ建物のお宅の方へ声をお掛けし、由緒書きを頂きました。駅に近く通りからすぐの所ですが、誰もいない境内で本堂の御神灯を頼りのお参りはちょっと怖かったです。その頂いた由緒書きには、「神剣を盗んだ道行が新羅へ逃げる途中嵐が激しくなり、神罰を恐れて剣を大和川河口だったこの辺りの河中に放り出し、後に里人が拾い上げこの社に合祀された。数ヶ年後に天武天皇の皇居 飛鳥 浄見原宮(飛鳥浄御原宮)に移され、この社にはご分霊が祀られるようになった」とあります。この辺に道行が逃げて来たんだなあ‥と、真っ暗な境内で様子を思い描いていた私はちょっと怪しかったかもしれません。(この剣を河中に放り出したのが放出(はなてん)の地名の由来だそうです。)

 また、愛知県知多市八幡にある法海寺は道行が開いたと伝わるお寺で、由緒には「捕らえられた道行が高僧である事が認められ、天智天皇の病を加持法で治し、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎とした」と伝わり、山門前の石柱には「天智天皇勅願所」と書かれてあります。この地は何度も発掘調査されていて、弥生式土器などの他、白鳳時代と見られる素弁蓮華文の軒丸瓦なども出土し、寺域が間口・奥行き共、約八十間の方形と考えられ、周囲には濠がめぐっているという事ですので、とても立派なお寺のようです。(参考資料 『知多市文化財報告15集・31集』知多市教育委員会)

 熱田社では、突然の神剣の還座に大喜びの様子が神事として伝わるそうです。毎年5月4日の夜7時に境内の灯りを全て消し、古来より見る事を禁られている神面を狩衣の袖に隠し、先導役の笑いを合図に、祭員が一斉に大声で笑うという「酔笑人(えようど)神事」です。思いがけず長年の大願だった宝剣が還される事で、この喜びの表現になったのでしょうね。それとも、長年耐え忍んできた熱田側がこのチャンスを利用しようと画策し成功した結果の笑い‥というのは疑い過ぎでしょうか。 
 翌日の5月5日に行われる「神輿渡御(しんよとぎょ)神事」は、“京都の地を離れるが(飛鳥の浄御原宮)、ながく皇居を鎮護する”という神託により西門の鎮皇門跡で行われている神事です。かつてその鎮皇門には天武天皇の勅額が掲げられてあったそうです。(参考資料『熱田神宮』熱田神宮宮司 篠田康雄)

 いくら高僧だとしても、神剣を盗んだ僧が天皇の病を治したご褒美で、お寺まで開く事が出来たのでしょうか。(『書紀』では、天智10年(671)12月3日に亡くなる前の9月に初めて病の記事がみえます。) ましてや発掘調査でわかったように、その地は弥生時代から集落ができるほどの立地条件の良い場所です。天智天皇が草薙剣を熱田社から取り返す為に道行を使ったとしたら、事件後何年も経っていない時に、知多という熱田から遠くない場所に寺を持てる事も納得出来ます。しかし阿遅速雄神社の由緒書きにあるように、大事な神剣が河中から里人によって拾われた事や、数年後に浄見原宮(飛鳥浄御原宮)に移されたという話が合わなくなってきます。やはり道行が新羅に持ち帰る為に盗んだのでしょうか‥お寺は大きく整って行ったようですが、道行の記録はそれ以降見つかりませんでした。
 今回、『書紀』の記事に書かれる事のなかった出来事と、その後を知る事が出来ました。忘れない為という意味もあるのでしょうね、長年にわたり伝えられている熱田神宮の神事や、道行創建の法海寺が現在も法灯を受け継いでおられる事など、守り続けてこられた方々の信仰心に深く感じ入る事が出来た記事となりました。

 (文中の「アヂスキタカヒコネ神」は、文字化けの可能性がある為、あえてカタカナ表記にしてあります。)



【3】 「飛鳥検定作製 裏話 1」   (09.5.1.発行 Vol.50に掲載)

 飛鳥の現地説明会に通い出した頃、今よりもっとよく解らないまま、他の人達に紛れてお話をお聞きし、配布資料を頂き喜んでいました。説明会の後、近くを散策しその風景の中にいる事に満足していた私が、両槻会に参加させてもらう事で、こんなふうにも飛鳥が見れるんだよーとか、こういう所もあるんだよーと、知らなかった楽しみ方をたくさん教えて頂きました。
 講演に来て頂いた先生方は勿論、物知りのスタッフからも多くのお話を伺う事が出来ます。(覚えているかは別として‥) 
 行った事のない場所にも、たっぷりの資料を用意して案内してくれるという事も嬉しく、休まずせっせと参加していましたら、「サブスタッフとしてお手伝いしてくれませんか」と、お誘いを受けました。大変光栄に思い嬉しかったので、「私でお手伝い出来る事でしたら」と、お引き受けさせて頂きました。そんな私がメルマガの記事を書くというのは、ホントとてもとても‥という気持ちで一杯です。ですが、折角頂いた機会なので、何とかチャレンジして行きたいと思いました。皆さんどうぞよろしくお願いします。

 去年、9月の定例会行事に、前年に続き「飛鳥検定」を行う事が決まりました。そして、私にも問題を作らせてもらえるというのです。(初め面白そうだなぁと思いましたが、進むにしたがい大変さに気が付いて行きました。)
 「さてさて、どんな問題にしようかな~、普通の問題で、ささっと解かれても愛想ないし~、これは知らんやろ~と思うものだと自分も知らない事で思い入れもないし~」と、本を流し読みして自分が興味を持てるものはないかと探しました。

 やっと決まった担当問題は「第二回 飛鳥検定」の、問85・86・87です。(「第二回 飛鳥検定」では、定例会でお世話になった講師の先生方にも問題作りにご協力頂きました。両槻会のネット上でも検定が出来ますので、まだお試しでない方はぜひ挑戦してみて下さいね。)

 飛鳥検定ネット版

 他のスタッフは問題数も多かったりするのに、どんどん出来上がって行きます。
 問題が決まれば、次は解説集を作って行きます。どれ位の解説を用意すれば良いのか、よく解っていなかった私はごく簡単な解説を用意したのですが、次第にそうではイカンという事に(やっと)気が付いて来たのです。(遅!)解説内容を詳しく加えてもらったり、下手な文を大いに直してもらったりと随分お世話を掛けてしまいました。(これがスタートでしたが‥)

 解説作りの過程においては、スタッフ間の頻繁な打ち合わせがあり、内容の事で現地に確かめに行ったり、また、解説集には載らなかったいろんな情報や知識が飛び交い、私などはもう一冊資料集が出来るのじゃあないかと思ったほどでした。
 誤字はないか、内容に間違いはないかなどなど、何度も何度も‥‥繰り返して皆で見直した結果、と~ってもお得感満載で、たっぷりの内容の解説集が出来上がりました。本当に皆良い物を作る為なら労力を惜しまない事がよく解りました。
 「わ~い! よかった~♪」 (少ない働きの私が何ですが)と、喜んだのも束の間!当日の検定が終わった後に、1人づつ担当問題を取り上げ、参加の方の前で解説をするという事になったんです。 ひぇ~ぇ~ 
 私の場合は最短の4分という時間が与えられました。が、4分て結構長いですよっ。私は図書館へ通う事になりました。



【4】 「飛鳥検定作製 裏話 2」  (09.7.4.発行 Vol.56に掲載)

 前回の『第二回 飛鳥検定』の問題・解説作成時のお話の続きです。

 やっと完成!と、喜んだのも束の間、検定終了後に自分の担当した問題の内、(私の場合)1つを取り上げ皆さんの前で発表解説するというのです!すでに一問づつ解説を書きましたよぉ‥それ以上を調べねばならんという事ですかぁ‥

 私の住む市の図書館には伎楽に関する本は余りありませんでしたので、仕事帰りに大阪市立図書館に行く事にしました。さすがに蔵書数が違います。伎楽に関するものをお願いすると、「沢山ありますが、どういった内容のものをお探しですか?」なーんて嬉しい事を聞いて下さいます♪
 何冊か目を通し書き写したりして、選んだ本をわくわく抱きかかえて持ち帰りました。(重かった~)
 当日の持ち時間4分を無駄なく使えるよう文章にまとめたのですが、あれもこれもと書き込んで行くと、かなりのタイムオーバーとなるので簡潔化に努めました。伎楽を全く知らない方にもイメージを掴んでもらえるよう伎楽面の写真を用意し、簡単なシルクロードの地図も当日資料に付ける事にしました。

 東京国立博物館にある法隆寺宝物館の、光を必要最小限に落とした広い第2室『金銅仏 光背 押出仏』の奥に、第3室『伎楽面』展示室があります。数年前、初めて訪れた時「これが面?」と、自分のイメージする面の形とは随分違うなぁと思いました。その大きさに驚き、着色が剥げ、毛も抜けたりなど傷みの激しさから怖さ倍増であるのに、その個性的な面達の顔の造りや表情が面白く、「すごくいいなぁ!好きだわ!」と思い、じ~っくり一つひとつ見て行ったのを覚えています。(伎楽面展示の第3室は保存上、年3回約1ヶ月づつの展示となっています。)

 正倉院に残る伎楽面達の中には、もとの目の孔が更に大きく削り拡げられているものが多くあり、その殆どが面の内の墨書きから、752年の東大寺大仏開眼法要に使われたという事が解るそうです。
 その削り方は無造作で、左右が不同であったり歪みが生じているそうです。直前まで役者とのサイズ合わせが出来なかったんでしょうか?

 役者達がそれぞれの担当の伎楽面を何度も被り直し、視界を確かめ急いで工人が調整してゆきます。開眼法要の直前、もしかしたらその作業は当日の朝までかかってたりして‥ 準備の人々が忙しく行き交うすぐ近くで、膝大きな面を挟んで座り作業する者、手伝いの者に指示を出す人など大急ぎで目の孔を削り拡げていたのでしょうか。「これで見やすくなりましたか」なんて聞きながら‥ 無造作に拡げられた孔から、その時の慌しさや、散らばる削りくずの中で働く工人の真剣な眼差し、周りのざわめきや砂埃などまでも見えてきそうです。(どんどん広がる妄想‥)

 法要当日、面を被った役者は拡げられた小さい穴から、美しく荘厳された大仏殿や大勢の僧侶達の姿がどのように見えたのでしょうか‥

 と、こんな所でしゃべり足りなかった伎楽話ばかりとなってしまいました。
肝心の発表当日ですが、他の事務局員が落ち着いて慣れた話振りの中、ドキドキして声も小さめで、ほぼ書いた文をそのまま読むという(その予定だったんですが‥)反省点の多いものでした。人前で解説などと恐縮です。

 この検定後の発表内容は、両槻会のサイトの『飛鳥路アーカイブ』の『第二回飛鳥検定解説発表レポート集』にUPされていますので、まだ読まれていない方、どんなのだったっけ?とお忘れのあなた!もう一度ご覧になって下さいね。
 すっかり伎楽面を被りたくなっている若葉の『伎楽について』は、ちょと文が変だゾなんて所もあるかと思いますが、(広いお心で)お読み下さったら嬉しいな♪なんて思います。   第二回飛鳥検定解説レポート発表集 ーそれぞれの飛鳥ー





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