両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第13回定例会

天空の里を訪ねる


両槻会第13回定例会 当日配布資料編
2009年 3月 7日

この色の文字は、リンクしています。

  目次
第13回定例会概略図
  談山神社

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  冬野
  良助法親王冬野墓
  藤花山威徳院
  気都倭既神社
  細川谷古墳群
  菅笠日記
  藤原家伝
  定例会レポート


談山神社
 談山神社は、藤原(中臣)鎌足(天智8年(669)藤原姓を賜る)の死後、長男の定恵が唐より帰国した後に、父の墓を摂津の安威山から移し、十三重塔を建立したのが創建由来とされます。
 談山神社は、藤原鎌足を祭神としています。645年5月、中大兄皇子と中臣鎌足は、多武峰の山中に入って「大化改新」の相談をしたと伝えられ、神社名は、その故事に由来する「談山(かたらいやま)」から名づけられたとされています。

 しかし、創建には異伝・異説も多く、このままの歴史が展開されたと鵜呑みにすることは出来ないように思われます。

 談山神社創建に関連する資料としては、「多武峯縁起」と「多武峯略記」や「藤氏家伝」の他、「大鏡」・「平家物語」などにも関連の記事を見つけることが出来ますが、「日本書紀」の記事も含め相矛盾する記事があります。なかでも「藤氏家伝」によれば、定恵は唐からの帰国後僅か3ヶ月後に飛鳥藤原第(明日香村大字小原 大原神社付近)で亡くなっています。(百済人による毒殺)幼少より聡明であったという定恵。父鎌足の期待を背負っての唐留学であったのでしょうが、その父に先立つこと4年の短い人生を終えたことになります。この記述を取り上げますと、多武峰妙楽寺創建は天武8年ですので、定恵が関われるはずも無いことになってしまいます。
 また、創建者と伝えられる定恵の出生にも疑点が見受けられます。大化改新の頃の誕生とされるのですが、孝徳天皇のご落胤説・天智天皇のご落胤説なども書かれ、父母共に疑問を挟む余地があるとされています。真相は闇の中という以外にありません。

 多武峰北麓にある聖林寺も、妙楽寺(多武峰)の支院の一つであり、定恵を開基としています。

 談山神社境内には、本殿・拝殿・十三重塔を初めとする重要文化財に指定された朱塗りの社殿が配されています。本殿には祭神の鎌足像が祀られており、建物は日光東照宮の手本になったとも言われるそうです。
 当初は妙楽寺と称しました。平安時代には、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げますが、天台僧である増賀上人を迎えたことから、同じ藤原氏縁の寺院でありながら宗派の違う興福寺とは争乱が絶えず引き起こされました。豊臣秀吉により本尊が移される危機もありましたが帰山が許され、後に徳川家康により復興されます。近世の朱印領は3000石余であったそうです。

 明治2年(1869)廃仏毀釈により多武峰寺は廃され、談山神社と改称されました。現境内は、仏教寺院としての伽藍が残り、建物も寺院建築がそのまま使われていることから、一種独特の雰囲気を醸し出しているように思えます。

 拝殿内では、藤原鎌足の伝記を主体として描かれた「多武峯縁起絵巻」(複製)が展示されています。乙巳の変の折、蘇我入鹿の首が切られて宙を飛ぶ様が描かれている絵として知る方も多いと思います。入鹿の首飛翔伝説は、様々なバリエーションを持って語り継がれることになります。後に訪ねる、明日香村大字上の気都倭既神社に伝わる話もその一つです。

 権殿横から山道を登ると、「談所ヶ森 ご相談所の碑」があります。大化改新の密談をした場所だとされ、さらに山道を登ると御破裂山頂の鎌足公墓所にたどり着きます。607メートルの高さにあり、墓所の裏からは大和盆地を一望にすることが出来ます。御破裂山の鎌足公の墓所は、阿武山古墳から長男の定恵が分骨して納めたものだとされています。見た感じでは、小ぶりな円墳のように見えます。

 日本書紀によると、天智8年(669)10月、藤原鎌足は病に倒れ、天皇自らの見舞いを受けています。その5日後、東宮大皇弟(大海人皇子)の訪問を受け、大織冠と大臣の位を授けられます。その翌日、鎌足は薨去しました。
 多武峰略記によると、鎌足は摂津国安威山に埋葬されたと伝えられ、それが高槻市と茨木市の境付近にある阿武山古墳(貴人塚)だとするのが有力となっています。

 この阿武山古墳は、盛土が無く、尾根の小高いところを幅2.5mの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82mの墓域を区画しています。中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きタイルを組み上げ、内側を漆喰で塗った墓室があり、夾紵棺が安置されていました。
 棺内には、銀線で青と緑のガラス玉を連ねた玉枕があり、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体がありました。発掘当時撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽が添えられていたことがわかっています。これらのことから、阿武山古墳は、鎌足の墓であるとするのが有力です。

 御破裂山の名は、古来、天下に事変が起ころうとするとき、神像が破裂し山上から鳴動が起こるという伝承によるものです。山の東から鳴動する時は、朝廷に異変が起こり、南から鳴動する時は幕府に、北からすれば藤原氏一門に、西からすれば万民に、山の中央が鳴動すれば多武峰の寺に異変が起こると言われているそうです。
 「多武峯大織冠尊像御破裂目録」という書には、平安時代から江戸時代にかけて36回の鳴動があったことが記録されているそうです。

参考ページ
談い山 大化改新散歩」  

奈良女子大付属図書館サイト内 絹本 多武峯縁起絵巻 (上下巻 4巻)




冬野
 いわゆる冬野越として、明治末期までは多武峰から吉野への最短ルートとして知られていたようです。大峰山に向かう参詣人や修験者の往還が絶えず、4軒の旅館と伊勢屋という屋号の茶屋があったそうですが、現在は数軒の民家が在るだけの静かな山村となっています。

 江戸時代の明和9年(1772)、本居宣長は吉野・飛鳥を旅しており、その見聞を「菅笠日記」に記録しています。宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下ります。
 『吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの國中見えわたる所也。なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのの山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつかづみつけたる。いとうれし。』「菅笠日記」の多武峰西門から竜在峠下の雲井茶屋付近までの描写です。
(現在は植林された樹木のために、ほとんど遠望は利きません。)
  
 松尾芭蕉も「笈の小文」の旅の中で、多武峰から細峠をへて竜門滝へと向かいますが、芭蕉が冬野を通るルートを採ったかどうかは確証がありません。

 冬野集落の一番高い所に、波多神社という延喜式内社が鎮座しています。祭神は事代主命、あるいは波多祝の祖神 高皇産霊神、または波多臣の祖 八多八代宿禰との伝えもあるようですが詳細は分かりません。西方の畑集落の名からも、波多・秦氏との関連に興味深いものがあります。高取町にも波多庄があり、現在も大字羽内に波多ミカ井神社があります。

 日本書紀推古20年(622)5月5日、「薬猟をもよおした。人々は羽田に集まり、列をなして天皇のもとに参上した。」との記事があります。これは高取町の波多庄のことであろうとされますが、冬野の波多神社にも、詳細は不明ですが薬の製法に関わる伝があるとも聞きます。「大同類聚方」 (平安時代初期 大同3年(808)に編纂された古医方の医学書・最古の国定薬局方)に、志路木薬を新羅国鎮明之伝法、大和国高市郡波多神社所伝として記しているそうです。
 また、明日香村大字畑の集落は、当帰・地黄が産物であったようなので、あながち薬と関係が無いとも言えないかも知れません。

 冬野には、この他に多武峰の別院である「冬野寺」や中世越智氏の築いた山城があったとされています。
 また、皇極元年(642)12月21日、舒明天皇を滑谷岡(なめはざまのおか)に葬ったとの記事があり、その場所を冬野とする説があります。(皇極2年9月に押坂陵に改葬)


良助法親王冬野墓
 鎌倉時代の第90代亀山天皇の第七皇子(続明日香村史による)である良助法親王の冬野墓があります。良助法親王は、幼少から仏門に入り京都青蓮院尊助法親王の弟子となった後、天台宗延暦寺第百世の座主になった方です。後に多武峰清浄院に住まわれ、文保2年(1318)親王の遺志によりこの地に埋葬されたと伝えられています。
 墓域には、五輪塔が残されており、様式から親王没後の南北朝末期に作られたものだとされています。



藤花山威徳院
 尾曽の集落に入ると立派なお寺があります。真言宗豊山派のお寺で、藤花山威徳院と言います。真言宗豊山派と言う事ですので長谷寺の末寺ということになりますが、江戸時代の末より毘沙門天を祀り、毘沙門信仰で知られているようです。また、古くは飛鳥時代に聖徳太子の師僧としても知られる日羅上人が、紫の雲をまとった毘沙門天を本尊として建立されたお寺がその始まりだとする伝えもあるようですが、未詳の伝説である ようです。




気都倭既神社

 「気都和既神社」と通常書いていますが、明日香村教委によれば「気都倭既神社」と表記するのが正式な神社庁への登録名称だそうです。
明日香村大字上字茂古森(大字かむら字もうこの森)にあります。祭神は気津別命で、延喜式内社に比定されています。現在は、尾曽・細川の春日神社を合祀していることから、天児屋根命を合わせてお祀りしています。
 
 この茂古森(もうこの森)には、乙巳の変に関わる伝承が伝えられています。飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首に追われ、藤原鎌足がこの森まで逃げてきたと言うのです。ここまで逃げれば「もう来ぬだろう」と言ったとか。境内には、鎌足が腰掛けたという石があります。

 皆さんは、入鹿の首が飛翔したお話に、どのくらいの種類があると思われますか。よくご存知なのは、飛鳥寺西の入鹿首塚まで飛んで行った話です。そして供養の五輪塔が建てられたとされています。
 もう一つは、首が三重県との境に聳える高見山まで飛んで行ったとされる伝承があります。三重県側の麓の舟戸という集落には、入鹿の首塚と伝承される五輪塔や妻と娘が住んだと言う庵跡(能化庵)まであります。
 そして、橿原市曽我町付近に飛んで行って落ちたと言う話も伝わります。蘇我氏を恐れる気持ちが、そのような伝承を生んだのでしょうか。多武峯縁起絵巻が、その引き金となったのでしょうか。皆さんは、どのようにお感じになるでしょう。

  参考ページ  
 「入鹿の首塚考 -五輪塚五輪塔の謎-」 
 「もう一つの入鹿の首塚考」        

 また、この話のバリエーションとして、このような話も伝わります。ずっと昔、蘇我入鹿と藤原鎌足が喧嘩をし、入鹿は、かむら(明日香村上)のもうこの森と呼ばれるところまで逃げてきた。そして大きな石に腰を掛けて、「もうここまできたら鎌足もよう追いかけては来ないだろう」と言って休んだ。と言うものです。入鹿と鎌足の立場が入れ替わっています。

 さらにもう一つは、全く違った伝承が残っています。「飛鳥古跡考」には、「鎮守。モウコノ森といふ。守屋、太子を此森迄追たりしに、此所にてやみぬ。されはしかいふと申伝ふ。然らは古き書物に最不来とみゆ」。ここでは、入鹿と鎌足の関係が、物部守屋と聖徳太子に置き換えられています。
 権力闘争に敗れた者の妄執がこの細川の谷奥に吹き溜まるのでしょうか。茂古森の藤蔦は、その怨念を象徴するかのごとく、不気味にのた打ち回っているかのように見えます。

 気都倭既神社は、実は物部氏に関連があります。祭神の気津別命は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)から派生する物部氏の祖先の系統に入る神様だとされているからです。つまり、物部氏の祖先神をお祀りしているのです。伝承とは異なって、聖徳太子は「もう来ぬだろう」などと悠長なことは言っておれないのです。敵の本拠地のようなところに来てしまったのですから。(笑)
 しかしながら、「上」には別の伝承も存在しています。聖徳太子の御産湯のために掘らせたという井戸があるというのです。「春井・千歳井・赤染井」の三つがあったが、江戸時代には春井のみが残っており、霊水と呼ばれていたとの事です。(飛鳥古跡考)

 さて、これらの伝承の真相はどうだったのでしょう。飛鳥時代の有名人が登場する伝承は、歴史の別の側面を見せているようで興味深く思われます。

 ここで、乙巳の変についてみておきましょう。
 一般的には、中臣鎌足(藤原鎌足)は、蘇我氏による政治専横に憤り、天皇家へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(孝徳天皇)と接触するのですが、その器量ではないと諦めます。
 そこで、飛鳥寺西の槻の木の広場で行われた蹴鞠の会をきっかけとし、鎌足は中大兄皇子(天智天皇)に接近します。二人は、唐から帰国した南淵請安に先進の学問を学び、その行き帰りの道々に蘇我氏打倒の計画を練ることになります。
 蘇我氏の力を分散させるために、中大兄皇子は蘇我氏分家の蘇我倉山田石川麻呂の娘を娶り、石川麻呂を味方に引き入れます。事変の実行者として、佐伯子麻呂、葛城稚犬養連網田らも仲間とし、皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮にて蘇我入鹿を暗殺、翌日には蘇我蝦夷が自らの家に火を放ち自害します。こうして蘇我本宗家は滅びました。

 蘇我氏は果たして皇位簒奪を目論んでいたのか、本当に専横であったかのか、乙巳の変は中臣鎌足が主導したのか、中大兄皇子が主導したのかなどなど、一概に通説とされる話には頷けない部分もたくさんあります。どちらにも光と影の部分があるようにも思えますし、日本書紀の記述が記録した側に立っているだろうことも、注意しておかなければならないように思います。
 ただ、この事変のみを大化改新と呼ぶのは、間違いだと思います。これは、その年の干支にちなんで「乙巳の変」と呼ぶのが良いように思います。なぜならば、大化改新はこの後に発布された改新之詔に基づく政治改革をも含めなければならないからです。蘇我氏などの豪族を中心とした古来の政治から、天皇を中心にした中央集権政治を目指したものであったはずです。
 改新の詔の主な内容は、公地公民、班田収受、国郡制度、租・庸・調の税制度の導入などとなっています。つまりは、人民や土地は全て天皇のものであるとして、戸籍を作り改めて土地を貸し与えることになりました。その貸し与える代償として、税や労役を負担させる制度を導入することになります。また豪族の支配を通さず、国や郡などと言う地方行政単位に分割して直接に統治することになりました。

 この詔が、はたして当時、実効性のあるものであったのか、また後世の修正が含まれているのではないかなど、書記の記述をそのまま信用することは出来ませんが、中央集権を目指した改革が始められようとしたことは、確かなことのように思います。日本国家誕生までの、確かな一歩を刻み始めたのかもしれませんね。



細川谷古墳群
 冬野川を挟む両岸の尾根上には、総数約200基と言われる古墳が存在しています。その多くは直径8〜15m程度の円墳で、横穴式石室を持っているようです。東は、大字上・尾曽から始まり、西の石舞台によって破壊された古墳までをその範囲とします。分布を見てみると、冬野川右岸尾根上に最も密度が濃く築造されています。
 ほとんどの古墳は発掘調査が行われておらず詳細は分かりませんが、6世紀後半から7世紀初頭にかけての古墳群であるようです。
 僅かな発掘調査例ではありますが、細川谷の右岸と左岸では、石棺の石材に違いがあるようです。右岸では凝灰岩、左岸では結晶片岩が使用されていることから、被葬者の階層性を知る手掛かりになるとの見解もあるようです。

 細川谷古墳群の特徴は、窮窿状(ドーム状の持ち送り式)の横穴式石室を持つことや、ミニチュア土器が出土することなど、渡来系の氏族の墳墓であることを示しているように思われます。日本書紀雄略7年(463)、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語など「新漢人」の技術者集団(今来才伎=いまきのてひと)を、飛鳥の上桃原、下桃原、真神原に移住させたとの記事が思い起こされます。古墳群の築造は、この時代では在りませんが、彼等の子孫である渡来系の人々の墳墓であることは、想像出来るのではないかと思われます。
 また、石舞台古墳築造に際し、細川谷古墳群の西端に位置する幾つかの古墳が破壊されていることや、渡来系の人々を支配していたのが蘇我氏であることを考え合わせると、石舞台の被葬者が蘇我馬子であり、細川谷古墳群の全てではないかも知れませんが、それが渡来系の人々の墳墓であることは、ほぼ間違いがないように思われます。


 ほとんどの古墳は調査が行われておらず、詳細が分かる古墳は僅かなようです。その幾つかを紹介します。

堂の前塚古墳(消滅)
 大字尾曽の威徳院北側に在ったようですが、現在は消滅しています。およそ100年前に発掘されているのですが、それによれば全長7mの南に開口する両袖式横穴式石室であったようです。石室内には、6枚の石を組合せた箱式石棺がありました。他にも鉄釘が出土していることから、木棺が存在していたようです。副葬品としては、土師器(ミニチュア土器)・須恵器・馬具・鉄鈴・鉄刀・石突などが出土しており、現在、明日香村埋蔵文化財展示室に展示されています。

七曲塚(上廻塚)古墳 (半壊)
 大字上の北東尾根上にあります。墳丘は半壊状態であるためか、数値的には確認できませんでした。埋葬施設は南に開口する横穴式石室です。大正5年頃には、玄室内から凝灰岩の組合せ式石棺の石材と鉄剣一振りが検出されています。剣は、鞘口・金銅獅噛透・鞘漆塗・蛇腹柄纏銀線付の優れた物であったようで、東京国立博物館に所蔵されているようです。

上5号墳 (消滅)
大字上の集落の東に在り、七曲塚古墳の南に位置します。調査前に墳丘の盛土は流失し、石室が露出していたようです。直径約15mの円墳と推測されています。(17mほどとする資料もあります。)石室は、右片袖式の横穴式石室で、若干東に振れるようですが南に開口しています。玄室内から木棺の痕跡が三棺分検出されているようです。出土遺物としては、土師器(ミニチュア土器)・須恵器・馬具・鉄刀・刀装具・鉄鈴・花形飾金具・指輪・耳環・玉類などがあったようです。

上居49号墳 (消滅)
 上居の丘陵の頂上部に近い傾斜地に在ったようです。埋葬施設は南に開口する横穴式石室ですが、奥壁の一石が残っていただけなので、詳細については不明です。推定される石室の全長は12m程度とされています。玄室内からは、凝灰岩製の刳り貫き式家型石棺の綱掛突起一個が残っていたそうで、6世紀末〜7世紀初め頃の古墳と推測されているようです。

石舞台古墳築造に際して破壊された7基の古墳 (消滅)
 石舞台古墳の外堤西から南西にかけて、密集する7基の古墳が確認されています。これらの古墳は、石舞台古墳の築造に際して上面を削られ、整地土の下に下部のみが残っていました。石舞台古墳の下層には、なお多くの古墳が存在しているかもしれません。
 検出された古墳は、1基(4号墳)が1辺10mの方墳である以外は円墳だったようです。その4号墳からは、緑泥片岩の板石による組合せ箱式石棺が検出されているようです。それぞれの古墳からは、ほとんど副葬品は無く、6世紀後半から末にかけての土器が若干出土しているだけのようです。古墳を破壊するときに、改葬などが行われたと推測出来そうです。

戒成組田古墳 (半壊)
 大字阪田字戒成にあります。直径約15m、高さ2mの南に開口する横穴式石室がありました。玄室には長さ約1.9mの結晶片岩の板石が見つかっていることから、箱式石棺が置かれていたことが推測されています。

打上古墳
 大字細川の急峻な尾根の南斜面にあります。墳丘は削られているようですが、本来は直径30m程度の円墳であったとされます。築造年代は7世紀前半から中頃と考えられます。発掘調査は行われていませんが、現在も南に開口しているため石室内も見学できます。
 石室は両袖式の横穴式石室で、玄室長5.1m、幅2.45m、高さ2.7m、羨道長3m以上、幅2.1mを測ります。玄室は、奥壁・両側壁共に巨石の二段積みで、羨道は一段になっています。見た感じは切石も使われており、岩屋山古墳に似た印象を受けますが、岩屋山古墳石室のような精緻な作りではありません。
石室はかなりの土砂が流入しているようで、真弓鑵子塚古墳のように調査が行われると新たな発見があるかも知れません。
 打上古墳は、細川谷古墳群を形成する他の古墳とは規模や築造時期に関しても違いがあるため、細川谷古墳群に含めない考えもあるようです。




菅笠日記

 菅笠日記は、本居宣長が43歳の時に、大和を旅した記録です。明和9年(1772)3月5日松阪を出立し、3月14日に帰着する10日間の旅を綴っています。その3日目(3月7日)、多武峰から竜在峠を越えています。この日の行程は萩原の宿(榛原付近)出発→西峠→角柄→吉隠→化粧坂→喜天神→長谷寺→出雲→黒崎→脇本→慈恩寺→忍坂→倉橋→崇峻天皇陵→多武峰→竜在峠→滝畑→千股宿となっています。かなりの健脚です。


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 椋橋下居神とあるも。此里にこそおはすらめ。かの土橋を渡りては。くら橋川を左になして。ながれにそひつゝのぼりゆく。此川は。たむの峯よりいでて。くらはしの里中を。北へながれ行川也。此道に。櫻井のかたよりはじまりて。たむのみね迄。瓔珞經の五十二位といふ事を。一町ごとにわかちて。ゑりしるしたる石ぶみ立たり。すべてかゝるものは。こしかたゆくさきのほどはかられて。道ゆくたよりとなるわざ也。なほ同じ川ぎしを。やうやうにのぼりもてゆくまゝに。いと木ぶかき谷陰になりて。ひだり右より。谷川のおちあふ所にいたる。瀧津瀬のけしき。いとおもしろし。そこの橋をわたれば。すなはち茶屋あり。こゝははや多武の峯の口也とぞいふ。さて二三町がほど。家たちつゞきて。又うるはしき橋あるを渡り。すこしゆきて。惣門にいる。左右に僧坊共こゝらなみたてり。御廟の御前は。やゝうちはれて。山のはらに。南むきにたち給へる。
 いといかめしく。きらきらしくつくりみがゝれたる有様。めもかゞやくばかり也。十三重の塔。又惣社など申すも。西の方に立給へり。すべて此所。みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら。道のくまぐままで。さる山中に。おち葉のひとつだになく。いといときらゝかに。はききよめたる事。又たぐひあらじと見ゆ。櫻は今をさかりにて。こゝもかしこも白たへに咲みちたる花の梢。ところからはましておもしろき事。いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん。一やうならず。くさぐさ見ゆ。そも此山に。かばかり花のおほかること。かねてはきかざりきかし。

 谷ふかく分いるたむの山ざくらかひあるはなのいろを見るかな。鳥居のたてるまへを。西ざまにゆきこして。あなたにも又惣門あり。そのまへをたゞさまにくだりゆけば。飛鳥の岡へ五十町の道とかや。その道なからばかりに。細川といふ里の有ときくは。南淵の細川山とよめる所にやあらん。又そこに。此たむの山よりながれゆく川もあるにや。(萬葉九に うちたをりたむの山霧しげきかも細川の瀬に浪のさわげる)たづねみまほしけれど。えゆかず。吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの國中見えわたる所也。なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのの山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつかづみつけたる。いとうれし。さてくだりゆく谷かげ。いはゞしる山川のけしき。世ばなれていさぎよし。たむのみねより一里半といふに。瀧の畑といふ山里あり。まことに瀧川のほとり也。又山ひとつこえての谷陰にて。岡より上市へこゆる道とゆきあふ。けふは吉野までいきつべく思ひまうけしかど。とかくせしほどに。春の日もいととく暮ぬれば。千俣といふところなる里にとまりぬ。こよひは。
 ふる里に通ふ夢路やたどらましちまたの里に旅寝しつれば。此宿にて。龍門のたきのあないたづねしに。あるじのかたりけるは。こゝより上市へたゞにゆけば。一里なるを。かしこへめぐりては。二里あまりぞ侍ん。そはまづ此さとより。かしこへ一里あまり有て。又上市へは一里侍ればといふ。此瀧かねて見まほしく思ひしゆゑ。けふの多武の峯より物せんと思ひしを。道しるべせし者の。さてはいたく遠くて。道もけはしきよしいひしかば。えまからざりしを。今きくが如くは。かしこより物せんには。ましてさばかりとほくもあらじ物をと。いとくちをし。されどよしのの花。さかり過ぬなどいふをきくに。いとゞ心のいそがるれば。明日ゆきて見んといふ人もなし。そもこのりう門といふところは。いせより高見山こえて。吉野へも木の國へも物する道なる。瀧は道より八丁ばかり入ところに有となん。いとあやしきたきにて。日のいみしうてるをり。雨をこふわざするに。かならずしるし有て。むなぎののぼれば。やがて雨はふる也とぞ。




藤氏家伝

 「藤氏家伝」は、天平宝字4年(760)頃、当時の朝庭の首班である藤原仲麻呂によって始祖顕彰を目的に編纂されました。現在残っているのは「大織冠伝(鎌足伝)」「貞慧伝」「武智麻呂伝」で、仲麻呂に至る血脈の正統性を主張する「恵美家」(仲麻呂は淳仁天皇から「恵美押勝」の名を賜り、藤原氏から独立して新たな家を興します)の家伝と位置付けられます。
不比等の伝が存在したかどうかについては議論が分かれるところです。

::::::::::: 藤氏家伝 貞慧伝 原文冒頭 ::::::::::

貞慧性聡明好學 大臣異之 以爲雖有堅鐵 而非鍛冶 何得干將之利 雖有勁箭而非羽括 成會稽之美 仍割膝下之恩 遙求席上之珍 故以白鳳五年歳次甲寅 隨聘唐使到于長安 住懐コ坊慧日道場 依~泰法師作和上 則唐主永徽四年 時年十有一歳矣

始鑽聖道 日夜不怠 従師遊學十有餘年 既通内經 亦解外典 文章則可觀 藁隷則可法 以白鳳十六年歳次乙丑秋九月 經自百濟來京師也 其在百濟之日 誦詩一韻 其辞曰 帝郷千里隔 邊城四望秋 此句警絶 當時才人不得續末 百濟士人 竊妬其能毒之 則以其年十二月廿三日 終於大原之第 春秋廿三 道俗揮涕 朝野傷心

 貞慧(じょうえ)、性は聡明にして學を好む。 大臣、これを異とし、以爲(おもえら)く、「堅鐵(けんてつ)有りと雖(いえど)も、鍛冶(たんや)するに非(あら)ずは、何ぞ干將(かんしょう)の利を得ん。勁箭(けいせん)有りと雖も、羽括(うかつ)するに非ずは、□(なん)ぞ會稽(かいけい)の美を成さん」と。 仍(より)て膝下の恩を割(さ)き、遙か席上(せきしょう)の珍(たから)を求む。 故、白鳳五年、歳(とし)は甲寅(きのえ・とら)に次(やど)りしときを以って聘唐使(しょうとうし)に隨い長安に到り、懐コ坊(かいとくぼう)慧日(えにち)の道場に住み、~泰法師(じんたいほうし)を和上(わじょう)と作(な)すに依(よ)る。 則ち唐主の永徽四年、時に年十有一歳。

 始めて聖(ひじり)の道を鑽(うが)ちて日夜怠らず。 師に従い遊學すること十有餘年、既に内經に通じ、また外典を解す。 文章は則ち觀るべく、藁隷(こうれい)則ち法(のりと)るべし。 以って白鳳十六年、歳は乙丑(きのと・うし)に次りしときの秋九月、百濟より經て京師に來たる。 その百濟に在りし日に、詩一韻を誦み、その辞に曰く、「帝郷千里隔り、邊城四望の秋」と。 この句警絶にして、當時の才人末を續くを得ず。 百濟の士人、竊(ひそか)にその能を妬(ねた)みこれを毒す。 則ち、その年の十二月廿三日を以って、大原の第に終る。 春秋廿三。 道俗涕(なみだ)を揮(ぬぐ)い、朝野心を傷む。




第13回定例会概略図




資料作成 両槻会事務局 風人
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