両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪
岡の遺跡
飛鳥宮
発掘調査が進む以前には、井戸遺構を中心にして伝飛鳥板蓋宮跡と呼ばれていました。現在では、時期の異なる宮殿遺構が重なって存在することがわかっており、飛鳥京または飛鳥宮と呼ばれることが増えてきています。
この飛鳥宮遺跡群は、時期区分として3層の遺構に分かれているとされています。 最上層の遺構は前半と後半に分けて考える説が有力です。
1期は舒明天皇の飛鳥岡本宮、2期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮、3期A(前半)は斉明天皇の後飛鳥岡本宮、3期B(後半)を天武天皇の飛鳥浄御原宮と考えられます。
最上層の3期は、内郭とエビノコ郭と外郭と呼ばれる宮域から構成されるのですが、内郭だけで構成されていた時期区分を3期A(前半)と呼び、後飛鳥岡本宮とし、また内郭を継承しながらエビノコ郭と外郭を造営した時期区分を3期B(後半)、飛鳥浄御原宮だと考える説が有力です。
1期の舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられる遺構からは、日本書紀の記載と合致する火災焼失の痕跡と思われる焼けた柱や炭や焼土痕などが検出されています。 2期の飛鳥板蓋宮も655年に火災に遭っていますが、同様の痕跡が見つかっています。
飛鳥時代全般の宮の変遷については、下図を参照下さい。
第3期の内郭は、南北約197m、東西152〜158mの逆台形をしており、周囲を屋根付きの掘立柱塀で囲んでいます。
内郭は、東西の三重構造の掘立柱塀によって、南北に性格の異なる二つの区画に分けられているようです。
南の区画には、南門と前殿があり、全体にこぶし大の礫が敷き詰められていました。前殿の東には、2列の南北の掘立柱塀で隔てられた南北建物跡があり、これを朝堂院とする説もあるようですが、確定されていないのが現状です。
北区画には、内郭中心線上に乗る位置に、東西八間、南北四間の大型建物が検出されています。この建物の東西には、小殿風の建物が配置され、廊状の建物によって繋がっています。 西の建物は、ある時期に撤去されて池に作りかえられていました。
また、この建物の四隅には、より建物を荘厳に見せるためにか、幡竿を立てる施設がありました。 建物の前面には、人頭大の石が敷詰められた広い広場が存在しました。 建物の規模や宮内での位置関係などから、この建物が内郭の正殿であると考えられています。 その後、類似した建物が、すぐ北からも検出され、内郭南正殿・北正殿と呼ばれています。
上図は、西の小殿が池に造りかえられた時点での南正殿の想像図です。 北正殿と南正殿の間には、内郭域では一番広い石敷き遺構が検出されています。
この正殿と呼ばれる建物は、切妻建物であること、建物規模が八間と偶数間であることなど、建物の性格を考える上で、まだ解明されていない問題もあるように思われます。
日本書紀の記述を拾ってみると、飛鳥浄御原宮には、内裏(おおうち)・後宮(きさきのみや)・朝堂(ちょうどう)が存在し、大極殿(だいごくでん)・大安殿(おおあんどの)・外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)・御窟殿(みむろのとの)・西庁(にしのまつりごとどの)・南門・西門・南庭・東庭・などの名前を見ることが出来ます。
これらの名前を持つ建物が、検出されたどの建物に当て嵌まるのかは、現時点では確定的なことは言えませんが、第3期の後半に、内郭がより私的な空間に変わって言ったことが想像されます。 南正殿の西の小殿が、池に造りかえられたのもそのような事情の中でのことはないかと思われます。
飛鳥資料館ロビー模型 (奈良文化財研究所蔵) 許可を得て掲載しています。
第3期後半の外郭について、若干触れてみることにします。 日本書紀の記述から行政機関と思われるものを抜書きしてみますと、大学寮(ふみやつかさ)、陰陽寮(おんようのつかさ)、外薬寮(とのくすりのつかさ)、大弁官(おおともいのつかさ)、民部(省)(かきべのつかさ)、膳職(かしわでのつかさ)、大政官(おおまつりごとのつかさ)、法官(のりのつかさ=後の式部省)、理官(おさむるつかさ=後の治部省)、刑部(省)(うたえのつかさ)などなどを見つけることが出来ます。
また、日本書紀の天武4年5日の条には、「占星台を建てた。」という記事があります。陰陽寮に属するのでしょうか、または独自の役所が存在したのでしょうか。 上の写真では宮域の右上に想定されています。
律令制度の導入を目指して我が国最初の法律である飛鳥浄御原令を編纂した天武政権には、外郭もすぐに手狭となったことでしょう。
石神遺跡の天武朝期の出土遺物や木簡などから、石神遺跡を迎賓館的性格から改装して政務の行政機関の一部を置いたことが伺えます。また雷丘近くに在ったと思われる忍壁皇子邸の火災が民部省に延焼した記事があることなども、外郭を越えて飛鳥の各地に行政機関が置かれていたことを示しています。
エビノコ郭
エビノコ郭は、第3期後半に増設された新たな区画です。南北に55.2m、東西に92〜94mの区画になり、内郭と同じように屋根のついた掘立柱塀が取り囲んでいます。
エビノコ郭の中心には、宮域の発掘調査の中では最大規模の建物が見つかっています。東西9間、南北5間、桁行方向の柱間も宮域の他の柱よりひとまわり大きな寸法になっています。建物は、土間式の四面庇付建物のようで、飛鳥浄御原宮における「大極殿」とみて間違いはなさそうです。
エビノコ郭正殿の建設は、いつ頃であったのかは明確には記されていません。最初に大極殿の名が見えるのは、天武10年(681年)2月25日の記事の中です。「天皇と皇后とは、ともども大極殿におでましになった。」
区画の東南に、南北に長い建物跡は検出されていますが、対称となる西南には検出されておらず、この建物を朝堂院と考えるのは、難しいとする説もあります。
エビノコ郭の正殿(大極殿)は南に向いて建てられているのですが、この区画の門は南側には無く、西側にあります。 日本書紀には、天武天皇の時代に、「西門の庭」で、儀式が行われた記述が何度も書かれており、エビノコ郭の西門付近の空間がそれに当て嵌まるのかも知れません。
飛鳥宮苑池遺跡
飛鳥浄御原宮内郭西北方にあたる小字出水とゴミ田で庭園遺構が検出されました。飛鳥宮第3期B(前半)に造営されたものとされました。 ここからは出水の酒船石とよばれる石造物が、大正五年に発見された場所です。 (飛鳥資料館前庭にレプリカが展示されている。)
発掘調査の結果、池中で石造物2点(橿原考古学研究所研究棟ロビーに展示されている。)と島状の石積みや、池を南北に仕切る東西方向の渡堤が検出されています。そしてこの渡堤を境として池が北と南に分かれ、それぞれの様相が異なることがわかりました。
池の規模は、南北約280m、東西約100mの大きなもので、飛鳥時代の石組護岸を持ち、さらに北へ伸びる水路などが検出さています。
南池は、東西と南北共に約60m、深さ約1.5mで、南の端に石製の噴水施設などがあり、池中央には中島が設けられていることから、観賞用の池と考えられます。
北池は南北約55m、東西約35m、深さ約4mで、北には幅約10mの水路が約80m伸びており、飛鳥川に排水する用途を持つようです。
日本書紀天武十四年十一月六日の条に、「白錦後苑(しらにしきのみその)」におでましになった。」とあり、この苑池がそれに当たるものだと考えられています。
出土物としては、この池の通水部から木簡が約50点出土しています。木簡には苑池に関わる職名「嶋官」、薬園の存在を思わせる「委佐俾」、天智天皇5年(666年)にあたる「丙寅年」などの記載がありました。
この苑池は、都が飛鳥から藤原京、平城京へ移ってからも管理され続け、平安時代になって機能が失われました。
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