両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

  
  豊浦・雷の遺跡

 エビス谷

 エビス谷は、遺跡ではありません。 甘樫丘豊浦展望台の東麓にある小字名です。 

 一昨年より、甘樫丘東麓遺跡の発掘調査地が蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと注目を浴びました。 小字エビス谷は、その地点より北方にある小さな谷ですが、蘇我蝦夷(エミシ)を連想させることから、この地の近くに蘇我蝦夷邸が存在したのではないかとの期待が持てます。 丘を越えた反対側にもよく似た小字名のエベス谷という場所があるのも注目されます。


 飛鳥川氾濫原跡

 飛鳥川は、飛鳥時代には水量も多く、小規模な水運・交通にも利用される川であったようです。 しかし河床が現在よりも高い位置を流れ、川底が浅いなどの理由によって、度々の出水、氾濫が起こり、天武天皇五年には、流域の南淵山、細川山の伐採禁止令が出されるほどでした。

 また、氾濫してはその度に流路を変えていたために、飛鳥川は後世、淵瀬の定まらない無常の世の例えに用いられることになります。
「 世の中は何か常なるあすか川 昨日の淵ぞ今日は瀬となる 」 古今集 読み人知らず


 雷丘東方遺跡

 雷丘東方遺跡は雷丘を含んで、その東方に広がる遺跡です。これまでの調査で、計画的に配置された奈良時代の倉庫群の一部や礎石建物、平城京や難波宮と同じ瓦が出土することから役所あるいは宮殿の可能性が指摘されていました。 
 さらに、「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器(明日香村埋蔵文化財展示室にあります。)のまとまった量の出土は、奈良時代の小治田宮の可能性を高め、他にも飛鳥時代の遺構があることなどから、遡って推古天皇の小墾田宮も同地にあった可能性が高くなったと言えます。 

 また奈良時代の井戸枠が発見されているのですが、木材の年代を測定した結果、758年に伐採された木材であることが判明しました。
 続日本書紀には、天平宝字四年(760年)淳仁天皇が「小治田宮」に行幸したことが書かれており、井戸や周辺の建物跡は、この時に合わせて整備された宮の付帯施設であると推測されているようです。

 この発掘成果によって、従来は豊浦にある古宮土壇を小墾田宮としていたのですが、この雷丘東方遺跡を小墾田宮とする説が最有力となりました。
 しかしながら、古代の幹線道路の山田道との位置関係など、不明な点も多く残ります。 
次ページの図は、小墾田宮を雷東方遺跡の中に納めて考えてみた想像図です。



 推古天皇が宮とした小墾田宮は、日本書紀の記述から、大まかな構造を知ることが出来ます。 南に門があって、大殿と政庁があり、朝廷と思われる庭と大門があることが、唐や新羅の来客を迎える様子から読み取ることが出来ます。
 天皇の邸宅を宮と言った時代からは、宮の概念が変わってきたように見受けられます。




 雷丘

 雷丘は高さ約20メートルの丘です。 平安時代初期の説話集「日本霊異記」に、雄略天皇の侍者である小子部栖軽に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、その雷神を捕らえたとあり、また栖軽の死後に墓を建てたとの記述もあります。

 2005年に発掘調査が行われ、雷丘西斜面から雷神伝承と同時期となる5世紀後半の円筒埴輪片数百個が出土しています。 また7世紀の小型石室も出土したと報道もされたのですが、この石室発見は確証のあるものではなさそうです。 発掘調査図面では、方形石組または階段状石組と表現されています。 神聖な丘ともされ、小墾田宮の近辺でもある丘の斜面に7世紀の石室があったとは考えにくいことです。

 「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に いほりせるかも」と読んだ柿本人麻呂の万葉歌にある庵の検出も期待されたのですけど、 庵の痕跡や建物の遺構などは全く見つかりませんでした。

 丘の上には、15世紀頃の中世城郭跡が見つかっており、名前だけが知られていた雷城の構造が分かりました。 飛鳥時代の遺構は、この中世城郭が造られた時の削平によって破壊されたものと思われます。 


 雷内畑遺跡

 この遺跡は、雷丘の二つのピーク(城山と上ノ山)の間にある遺跡です。 7世紀中頃の小さな池の護岸が検出されており、池は、その後に石積みと石敷広場に作り替えられているようです。 遺跡の時代推定から、皇極天皇の小墾田宮に係わる苑池の一画と考えられています。

 雷丘は、北の「城山」と南の「上ノ山」という二つの丘に分かれています。丘の切通の部分は、自然地形の鞍部を人工的に開削したように見えます。想定される山田道が、この間を通るとする説もあるのですが、この雷内畑遺跡の存在が、その説を否定するように思われます。 
山田道と小墾田宮の位置関係は、天武天皇の時代以前の山田道が発見されていないため、まだ多くの謎が残ります。


 雷丘北方遺跡

 発掘調査によって、四面に庇がついた東西五間、南北四間の東西建物を中心として、その東西と南に長大な建物が検出されました。 これらの建物は、7世紀前半、7世紀後半、8世紀後半の三時期に分かれ、長期にわたって土地が利用されていたことがわかります。
不明な点も多くあるのですが、遺跡の性格は、正殿と脇殿と考えられ、配置なども考慮すると官衙や宮などであった可能性が高まります。

 雷丘付近に邸宅があったとされる忍壁皇子の邸宅とする説も有りました。



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