別名を芙蓉城と言います。標高538mの高取山上に築かれた壮大な城は、天守の外壁が白漆喰総塗籠であり、山城でありながら平城の如く天守や櫓が聳え立つことから、姫路城に似た外観を呈していたとされています。城下から望むその姿は、「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と歌われたそうです。
しかし、人里離れた立地のためか、天険が今も遮るためか、この地に日本一の山城が存在していることを知る人は少ないかも知れません。
2010年2月14日撮影 十五間多門櫓から天守方向 |
高取城は、曲輪 (「くるわ」とは、城郭内にある一定区画を分かつ区域のこと。郭とも書く。江戸時代以降は丸ともいう。)の連なった連郭式(本丸と二の丸を並列に配置する縄張)の山城で、城内(二ノ門から内側)の面積は約10,000u、周囲は約3km、城郭全域(城を形成している全範囲)の総面積約60,000u、周囲約30kmに及ぶとされています。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられます。
参照 : 高取町観光ボランティアガイドの会HP > 高取城之図PDF
植村家が藩主となった時代には、三重の天守(本丸の北西に位置し、天守台には穴蔵が設けられている)と小天守をはじめ、二十二基の櫓、五基の多門櫓、三十三棟の門が存在し、2,900mの土塀、3,600mの石垣、九つの橋梁、五つの堀切から構成されていたそうです。
本丸部分の大きさは東西75m×南北60m、高さは約8mの石垣に囲まれ、南西には三重三階の「小天守」があり、大きさは東西12m×南北13mであるようです。また東側には二重三階の「硝煙御櫓」があり、虎口付近に「具足櫓」、対面には平櫓の「鉛御櫓」があり、それらが多門櫓で連結された連立式天守を形成していました。
これら五基の櫓で囲まれた本丸部分には、「本丸大広間」という場所に礎石が数ヶ所あり、御殿が建てられていたと考えられています。
2010年2月14日撮影 天守閣より南東方向 |
天守台の石垣は、「打込み接(は)ぎ」と言われる石組みで、隅部は「算木積み」と呼ばれる反りのない工法が用いられています。
石垣は、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの三つの加工法に分けられます。「接(は)ぎ」とは、つなぎ合わせるという意味だそうです。打込み接ぎというのは、表面に出る石の角や面をたたき、平らにして石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法です。自然石を積み上げる「野面積み」より高く、急な勾配の石垣の建設が可能になります。
また、算木積みというのは、石垣の隅石の積み方で、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増す建設方法だそうです。 |
2010年2月14日撮影 天守石垣 |
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転用石材
転用石材とは他の用途のために加工された石材が、異なった目的に使用されているものを言います。この資料の場合には、石垣に使用された石材についてということになります。もちろん高取城に限ったわけではなく、他のお城にも見受けられます。例えばお地蔵様や平城京の礎石が埋め込まれた郡山城、古墳の石棺を使った姫路城などの例が知られます。大量の石材を必要とした城郭の石垣に多く転用石が見られることは、肯ける話であります。
2010年4月3日撮影 天守閣石垣南西角面 |
高取城の本丸や新櫓付近には、大量の転用石が使われています。転用石は、一目瞭然です。高取城の場合、本丸石垣の角の積み石は、ほとんどが転用石と言っても過言ではないと思われます。なぜ転用石と見分けがつくのかというと、石垣の石には不必要な加工が施されているからです。石と石の接点だけではなく意味も無く表面を綺麗に磨かれた石、無用な鉤型の切れ込みのある石、面取りされた石、表に出ない場所が加工されている物まであります。また、確認は出来ませんでしたが漆喰の付着する石もあるとの事です。
これらは、切石造りの古墳石室から持ち出された側壁や天井石が、割られて使われたものだと考えられています。
2010年4月3日撮影 転用石
左上:天守閣北東角 |
右上:新櫓南東角 |
左下:天守閣南西角面 |
右下:具足櫓石垣 |
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いったいどの程度の量が持ち込まれているのでしょうか。河上邦彦先生の試算によれば、転用石は約300個近いとされています。古墳の規模にもよるでしょうが、数基では足りないのではなかったでしょう。相当数の切石の石室を持つ古墳が破壊されたのかも知れません。
場所柄、これらの石材は飛鳥地域にあった古墳の石室に用いられていた物ではないかと考えられます。転用石には同じ様な幅の矢跡(石を割るときに用いる「セリ矢」という道具を差し込んだ跡)が残っています。石材を割る時に付くものですが、皆さんもきっと思い出だされることだろうと思います。鬼の俎板や酒船石の矢跡を。そこから先は、妄想でしかありませんが、これらも石垣の石材として持ち出されようとしたのかも知れません。
2008年6月11日撮影 酒船石の矢跡 |
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