両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第20回定例会資料集


新緑の高取城址


―日本一の山城から奥飛鳥への道―


ルートマップ タイムテーブル 雨天用タイムテーブル 壺阪寺 壺阪霊験記 壺阪峠
五百羅漢 高取城 転用石材 高取の猿石 キトラ古墳 檜前遺跡群
檜隈寺跡 越智氏関連年表 南北朝・越智氏関連地図 定例会レポート

この色の文字はリンクしています。
2010年 5月 8日  

 第20回定例会ルートマップ



山道の部分に関しては、正確ではありません。概略図ですのでご注意ください。

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 タイムテーブル
第20回定例会ウォーキングタイムテーブル

10時15分 壺阪山駅バス停出発 (*)
10時30分 壺阪寺前出発ウォーキング開始
10時50分 五百羅漢 5〜10分見学
11時20分 史跡高取城址の碑
11時50分 高取城址二の丸
12時00分 本丸
        昼食休憩 1時間 (昼食・本丸付近見学・トイレ)
13時00分 本丸出発 (*)
13時20分 国見櫓 10分展望
13時35分 二の門跡・猿石
14時00分 岡口門跡 
14時15分 女綱方面分岐
14時30分 女綱方面第二分岐  
14時45分 三連池堤 (10分休憩)
15時10分 キトラ古墳への分岐
15時25分 檜前・大根田分岐
15時30分 於美阿志神社 20分 (見学・アンケート記入・トイレ休憩)
16時10分 飛鳥駅前到着・解散 (*)

最終到着時間が守れますように、皆さんのご協力をお願いいたします。
(*) 印の時間を厳守したいと思っております。

16時25分 飛鳥駅発 阿部野橋行急行
16時34分 飛鳥駅発 吉野行急行

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 雨天用タイムテーブル

前日降雨・当日小雨の場合のタイムスケジュール

前日大雨または当日小雨の場合
 
山道の状況により、以下のように登山道・下山道を変更します。
路面状況 良い → 悪い
 登り : 山道 → 車道 → 五百羅漢の見学をカット。
       城址内  壺阪口門ルート → 七つ井戸ルート
 下り : 大根田ルート → 栢森ルート → 大手筋ルート → 車道

食事に関して (雨天でも弁当を持参してください)
コース上には、高取城址二の丸の東屋以外に屋根のある建物が在りません。それも小さな建物ですので、30名を超える参加者が一度に使用することが出来ません。参加者を2班に分け、二の丸・天守閣見学と食事を交互に行うことに致します。二の丸到着後1時間程度を見込んでいますので、食事・トイレに30分、見学30分とさせていただきます。

晴天・小雨の場合は、壺阪寺の拝観は致しません。


大雨予定

壺阪山駅 10:15 → 10:26 壺阪寺前 バス乗車(310円・各自負担)

壺阪寺拝観(三重塔<重文>の初層内陣公開(無料)・壺阪観音の特別拝観中<別料金>)
       拝観団体料金400円(各自負担) 2010年5月時点

壺阪寺前 12:00 → 12:11 壺阪山駅 バス(310円・各自負担)
壺阪山駅 12:22 → 12:25 飛鳥駅  電車
徒歩    12:25 → 12:40 高松塚歴史公園館休憩所食事(壁画館見学はありません)
高松塚   13:15 → 13:38 飛鳥資料館

飛鳥資料館見学(平成22年度 春期特別展「キトラ古墳壁画四神」<入館無料>・キトラ古墳四神壁画の展示はありません。)

資料館   14:45 → 15:15 甘樫丘北麓休憩所(懇親会) バス(180円・各自負担)
甘樫丘   16:15 → 16:23 橿原神宮駅東口 バス(240円・各自負担)

お天気の回復状況を見て、バス乗車予定を徒歩に変更します。

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 壺阪寺
 正式な名称は、壺阪山平等王院南法華寺といい、現在は真言宗豊山派の寺院で、西国三十三ヶ所の第六番札所になります。  本尊十一面観音は眼病に霊験があるといわれ、お里・沢市の夫婦愛をうたった人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の舞台としても有名です。


2010年2月14日撮影 壺阪寺

 壺阪寺創建の経緯には不明な点も多く、異説もあるそうですが、寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3(703)年に元興寺の弁基上人により開かれたとされるようです。南法華寺と言われる由来は、平城京の法華寺に対する名称として、あるいは京都の清水寺が北法華寺呼ばれるに対しての名称であるともされ、どちらが本当なのかは分かりませんでした。通称壺阪観音として知られ、古く「枕草子」などにもその名を残し、長谷寺などと共に平安時代からの観音霊場として知られた存在であったようです。

 本尊を納める八角円堂は、発掘調査も行われており、基壇石が確認され創建時から本堂の位置は変わっていないとされているようですが、発掘調査の詳細は分かりませんでした。また、壺阪寺のHPには、「そこから出土している瓦は白鳳時代の瓦であり、専門家によるとこの瓦は白鳳時代、藤原京の本薬師寺で使われていた瓦と同じであるという。」と記されています。また、とある資料には、単弁の軒丸瓦と書かれているのですが、こちらも詳細は分かりませんでした。本薬師寺には、外縁部が鋸歯文と連珠文の単弁の瓦がありましたので、その同笵の瓦なのかも知れません。また、現存する塔(重要文化財)の四天柱礎石には、白鳳時代の塔心礎が使われているようです。これらのことは、創建を大宝3年とするに大きな間違いはないことを示しているように思われます。


2010年4月18日撮影 八角円堂と二上山

 今回の定例会用に作成しました咲読でも紹介してきました南北朝以降の時代を考えると、壺阪寺も当然越智氏との関係を考えずにはおれません。お寺が軍事拠点になることは、珍しいことではありません。幾つかの記録には、越智氏が壺阪寺を拠点の一つとしていたことが記録されています。一例を挙げると「大乗院雑記事」明応6(1497)年11月18日条には、「越智未有壺阪寺」と書かれた記事があるようです。やがて、越智氏の滅亡と共に壺阪寺も衰退したそうですが、高取城主となった本多氏や植村氏によって復興を遂げているようです。

 両槻会でもよく取り上げる本居宣長の菅笠日記にも、壺阪寺に詣でたことが書かれており、宣長はその後飛鳥へと向かっています。江戸時代には、充分な伽藍の修築が行われたことが伺えます。

参照  : 奈良女子大学附属図書館 > 菅笠日記
     : 本居宣長記念館 > 菅笠日記

 注:壺阪の表記に関して。「壷阪・壷坂・壺阪・壺坂」などの書き方が並存しています。近鉄の駅名は「壺阪山駅」、奈良交通のバス停は「壷阪山駅」、お寺のサイトには「壷阪寺」「壷坂」と書かれています。資料などによれば、江戸時代までは「坂」の字を当てていたとも書かれていますが、かえって分かりにくくなりますので、この資料では、「壺阪」の表記に統一して書くことにしました。ただ「壺坂霊験記」など書籍名には、それぞれの字を当てはめています。



 壺坂霊験記
 この物語は、平安時代前期の弘仁年間(810〜823)、盲目の沙弥(修行中の僧)が壺阪観音を信仰して開眼治癒したという「日本感霊録」(9世紀半ばに元興寺の義昭によって編纂された仏教説話集)にある説話が原形となっているようですが、物語のモデルとしては、寛文年間(1661〜1673)、壺阪寺の麓、高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻の里の夫婦愛をテーマにした『観音霊場記』があり、それを明治の初め、2代目豊沢団平(文楽義太夫三味線方)が浄瑠璃「壺坂観音霊験記」として作曲したものだそうです。「三つ違いの兄さんと」や「たとへ火の中水の底、未来までも夫婦じゃと」、また浪曲として「妻は夫をいたわりつ、夫は妻を慕いつつ」などという名台詞は、今尚、知る人も多いのではないかと思います。

 壺坂霊験記あらすじ

 壺阪寺の近くに、目の不自由な沢市という男がいました。その妻のお里は大変な美人でした。 お里は、沢市を深く愛しており、なんとかして、夫の眼病を治そうと壺阪寺の観音に夜毎お参りするのでした。それを知らない沢市は、夜な夜なお里が家を離れるので、不倫でもしているに違いないと邪推します。
 ある夜、沢市はお里の後をつけていきます。すると不倫どころか、お里は壺阪詣でをしているではありませんか。なんという愚かなことをしてしまったのかと、沢市は近くの谷に身を投げてしまいます。
 お里も悲しんで後を追って身を投げます。この夫婦愛に感じた観音が二人の命を助け、沢市の目も開くのでした。

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 壺阪峠
 壺阪寺の東約500m、標高370mの地点にあります。
 両槻会定例会でも取り上げたことがありますが、「御堂関白記」寛弘4(1007)年8月6日条に、藤原道長が金峯山参詣の際に、壺阪寺に宿泊したとする記録があります。軽寺から子島寺・壺阪寺を経て吉野に向かっているのですが、その際、道長は壺阪峠を越えたものと思われます。

 峠から吉野へは南へ下り、世尊寺を経て、吉野川の渡しで有名な六田周辺に出ることが出来ます。大淀古道と呼ばれている道筋になります。明治時代、吉野と大和盆地を繋ぐ車道としても、最も早く開削されたようで、この峠道が重要なルートであったことが伺えます。

2006年11月11日 大淀古道

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 五百羅漢
 正式には、五百羅漢も含めて「香高山磨崖仏群」というのが良いと思います。壺阪寺の奥院ともいわれ、壺阪寺東方山中にあり、露出する岩肌に沢山の磨崖仏が彫り出されています。小さな磨崖仏が密集する五百羅漢、釈迦、十一面観音、五社明神などとそれぞれに呼ばれ、また両界曼荼羅を彫刻するものもあります。
 壺阪寺に残る文書には、「慶長年間(1596〜1614)因州ノ刺史藤利朝公仏像ニ修営ヲ加ヘ奥ノ院ト鑚仰ス」とあるようで、室町時代には造られていたと考えられているようです。
五百羅漢の直ぐ近くにある石灯籠は、慶長12(1607)年の作とされています。


2010年4月3日撮影 五百羅漢

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 高取城
 別名を芙蓉城と言います。標高538mの高取山上に築かれた壮大な城は、天守の外壁が白漆喰総塗籠であり、山城でありながら平城の如く天守や櫓が聳え立つことから、姫路城に似た外観を呈していたとされています。城下から望むその姿は、「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と歌われたそうです。
 しかし、人里離れた立地のためか、天険が今も遮るためか、この地に日本一の山城が存在していることを知る人は少ないかも知れません。


2010年2月14日撮影 十五間多門櫓から天守方向

 高取城は、曲輪 (「くるわ」とは、城郭内にある一定区画を分かつ区域のこと。郭とも書く。江戸時代以降は丸ともいう。)の連なった連郭式(本丸と二の丸を並列に配置する縄張)の山城で、城内(二ノ門から内側)の面積は約10,000u、周囲は約3km、城郭全域(城を形成している全範囲)の総面積約60,000u、周囲約30kmに及ぶとされています。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられます。

 参照 : 高取町観光ボランティアガイドの会HP > 高取城之図PDF

 植村家が藩主となった時代には、三重の天守(本丸の北西に位置し、天守台には穴蔵が設けられている)と小天守をはじめ、二十二基の櫓、五基の多門櫓、三十三棟の門が存在し、2,900mの土塀、3,600mの石垣、九つの橋梁、五つの堀切から構成されていたそうです。
 本丸部分の大きさは東西75m×南北60m、高さは約8mの石垣に囲まれ、南西には三重三階の「小天守」があり、大きさは東西12m×南北13mであるようです。また東側には二重三階の「硝煙御櫓」があり、虎口付近に「具足櫓」、対面には平櫓の「鉛御櫓」があり、それらが多門櫓で連結された連立式天守を形成していました。
 これら五基の櫓で囲まれた本丸部分には、「本丸大広間」という場所に礎石が数ヶ所あり、御殿が建てられていたと考えられています。


2010年2月14日撮影 天守閣より南東方向

 天守台の石垣は、「打込み接(は)ぎ」と言われる石組みで、隅部は「算木積み」と呼ばれる反りのない工法が用いられています。
 石垣は、野面積み・打ち込み接ぎ・切り込み接ぎの三つの加工法に分けられます。「接(は)ぎ」とは、つなぎ合わせるという意味だそうです。打込み接ぎというのは、表面に出る石の角や面をたたき、平らにして石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法です。自然石を積み上げる「野面積み」より高く、急な勾配の石垣の建設が可能になります。
 また、算木積みというのは、石垣の隅石の積み方で、長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増す建設方法だそうです。

2010年2月14日撮影 天守石垣

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 転用石材

 転用石材とは他の用途のために加工された石材が、異なった目的に使用されているものを言います。この資料の場合には、石垣に使用された石材についてということになります。もちろん高取城に限ったわけではなく、他のお城にも見受けられます。例えばお地蔵様や平城京の礎石が埋め込まれた郡山城、古墳の石棺を使った姫路城などの例が知られます。大量の石材を必要とした城郭の石垣に多く転用石が見られることは、肯ける話であります。


2010年4月3日撮影 天守閣石垣南西角面

 高取城の本丸や新櫓付近には、大量の転用石が使われています。転用石は、一目瞭然です。高取城の場合、本丸石垣の角の積み石は、ほとんどが転用石と言っても過言ではないと思われます。なぜ転用石と見分けがつくのかというと、石垣の石には不必要な加工が施されているからです。石と石の接点だけではなく意味も無く表面を綺麗に磨かれた石、無用な鉤型の切れ込みのある石、面取りされた石、表に出ない場所が加工されている物まであります。また、確認は出来ませんでしたが漆喰の付着する石もあるとの事です。
 これらは、切石造りの古墳石室から持ち出された側壁や天井石が、割られて使われたものだと考えられています。


2010年4月3日撮影 転用石 
左上:天守閣北東角  右上:新櫓南東角  
左下:天守閣南西角面  右下:具足櫓石垣  

 いったいどの程度の量が持ち込まれているのでしょうか。河上邦彦先生の試算によれば、転用石は約300個近いとされています。古墳の規模にもよるでしょうが、数基では足りないのではなかったでしょう。相当数の切石の石室を持つ古墳が破壊されたのかも知れません。
 場所柄、これらの石材は飛鳥地域にあった古墳の石室に用いられていた物ではないかと考えられます。転用石には同じ様な幅の矢跡(石を割るときに用いる「セリ矢」という道具を差し込んだ跡)が残っています。石材を割る時に付くものですが、皆さんもきっと思い出だされることだろうと思います。鬼の俎板や酒船石の矢跡を。そこから先は、妄想でしかありませんが、これらも石垣の石材として持ち出されようとしたのかも知れません。


2008年6月11日撮影 酒船石の矢跡

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 高取の猿石


2010年2月14日撮影 高取の猿石

 高取城二の門跡近くに置かれ、高取城の結界だとも言われます。ちょうどこの二の門が、場内外を分けるためだと思うわれるのですが、猿石を見ていると、飛鳥の謎の石像物の一つ吉備姫王墓に置かれた4体の猿石との類似を強く感じます。

 飛鳥の猿石は、梅山古墳(欽明天皇陵)付近にある字イケダの田んぼから掘り出されて古墳の周濠南堤に置かれていたようですが、明治初年に現在の場所に移されたようです。それらは、「女」「山王権」「法師」「男」と呼ばれるのですが、背面にも顔らしきものが彫られ、法師の背面にある肋骨様のものも含めて、全て二面石になっています。
 高取の猿石の背面にも僅かに模様らしきものが見え、その点からも、元々は同じ場所にあったものではないかと考えられます。
 高取の猿石は平らな台石に漆喰で止められているのですが、台石にも模様があるように見え、あるいは台石も転用されたものであるのかも知れません。

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 キトラ古墳
 貴重な壁画を守るために、キトラ古墳墳丘南側に「仮設保護施設」が建設されています。また、墳丘はシートなどで覆われており、古墳そのものを見学することは出来ません。
 石室内に描かれていた四神と天文図などの壁画は劣化が進み、2004年8月〜2008年11月にはぎ取られて保存処置が施されています。また、余白部分の漆喰は、2009年から剥ぎ取り作業が行われており、現在(2010年5月)も側壁部の漆喰の剥ぎ取り作業が進んでいます。
 修復作業が終わった四神は、5月15日〜6月13日、飛鳥資料館で一般公開されます。また、両槻会では第21回定例会として、「キトラ古墳の壁画について(仮題)」と題する主催講演会を実施いたします。(7月31日(土)予定)


2010年4月3日撮影 キトラ古墳仮設保護施設

 キトラ古墳
 二段築成の円墳で、墳丘は丘陵の南斜面に位置しています。上段が直径9.4m、高さ2.4m、下段が直径13.8m、高さ90cm。
 石槨は、凝灰岩の切石を組み合わせて作られ、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。内壁・天井には漆喰が塗られ、壁画が描かれています。
 築造時期は、7世紀末から8世紀初め頃と見られており、高松塚古墳よりも若干古いと考えられるようです。

壁画
 東西南北の四壁の中央には、四神の青龍・白虎・朱雀・玄武が描かれ、それぞれの下に、三体ずつ十二支の獣頭人身像が描かれていると想定されています。しかし現在、北壁・玄武の「子」、東壁・青龍の「寅」、西壁・白虎の「戌」、南壁・朱雀の「午」など六体のみが確認されています。
 天井には本格的な天文図があり、太陽・月・星座・赤道・黄道などが描かれており、現存する天文図のなかでは世界最古ではないかと注目されています。



(明日香村埋蔵文化財展示室キトラ古墳石室模型の四神を撮影し、繋いだものです。)
確認の上、撮影・掲載していますので、無断転用・転載は禁止します。



(明日香村埋蔵文化財展示室キトラ古墳石室模型の天文図を撮影したものです。)
確認の上、撮影・掲載していますので、無断転用・転載は禁止します。

出土遺物
  • 漆塗木棺
    • 黒漆を塗り重ねた断片が多数出土していますが、一部には水銀朱が塗られているものもあるため、黒漆塗りの棺の内面を朱塗りしていたと思われます。
  • 金銅・銅製棺金具 
  • 金象眼帯執金具
  • 刀装具
    • 両槻会第15回定例会にて復元品「銀装黒漆塗大刀」を見学
  • 鉄製大刀
  • 琥珀・ガラス玉
  • 人骨
    • 約15点出土しており、左右の上顎骨・右頬骨や犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯などがありました。熟年男性の可能性が高いとされています。

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 檜前遺跡群
 檜隈寺跡付近からキトラ古墳周辺までに広がる遺跡群を檜前遺跡群といいます。
明日香村教育委員会によって調査された檜隈寺跡の南方にある尾根からは、掘立柱建物跡12棟、塀跡3条、床束建物跡2棟・間仕切り付建物跡2棟・庇付き建物跡・大壁遺構などが検出されています。


2009年11月3日 檜前遺跡現地見学会

 これらの遺構は、おおよそ7世紀前半から8世紀初前半までで、南方の堀立柱建物は数度の立て替えがされたと考えられています。また比較的広い平坦面を確保できる尾根の先端部分にはこの地区の中心的建物があったと考えられ、大壁遺構から掘立柱建物へと世代交代などによる建替えがされたではないかということです。

 また、大壁遺構と檜隈寺北方で検出されたL字カマドが、韓半島由来であること、また遺構の時期が檜隈寺創建時とほぼ同じとされることから、この辺り一帯や檜隈寺が渡来系氏族と関連のあったという裏づけともなるようです。


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 檜隈寺跡 (於美阿志神社)
 檜隈寺跡のある於美阿志神社は、東漢の祖・阿智使主(あちのおみ)を祭神とし、社務所西方の低地にあったものが、明治40年7月に現在地に移されています。
 檜隈寺は、阿智使主から続く東漢氏の一端をになう檜隈氏の氏寺だとされていますが、朱鳥元年の書紀の記事以外には正史にも登場せず、詳細は不明です。


2008年2月24日撮影 於美阿志神社

 特異な伽藍配置は、地形の制約を受けたものだという説もあり、7世紀後半に金堂、7世紀末に塔と講堂が建てられたことが出土遺物から推定されています。また、飛鳥寺と酷似する瓦の出土もあり、それ以前の前身建物の存在も推測されます。
 檜隈寺跡の北方からは、今までにも小金銅仏の掌や飛天など仏教関連の遺物も出土しています。また、最近では、韓半島に起源を持つオンドルによく似たL字カマドや、7世紀後半の金属工房跡と思われる遺構、講堂跡北東には伽藍中軸線と方位を同じくした掘立柱建物跡なども発見され、檜隈寺の造営前後の様相が少し分かってきています。

檜隈寺伽藍配置図


2009年11月3日撮影 塔心礎レプリカ

 発掘調査からは、12世紀には金堂が廃絶、15世紀頃には講堂が廃絶し基壇上に小さな仏堂が建てられたと推定できるようです。本居宣長の「菅笠日記」には、十三重の石塔と仏堂の名残りと思しき「いほり」の「あるじのほうし」の話が出てきます。

 参照 : 奈良女子大学附属図書館 > 菅笠日記
     : 本居宣長記念館 > 菅笠日記

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越智氏関連年表
年号 越智氏 南朝 北朝・幕府
1315 - - 鎌倉幕府、北条高時十四代執権就任
1316 越智邦永、幕府に対し叛乱、楠木正成これを制す - -
1318 - 後醍醐天皇即位 -
1324 - 正中の変 -
1331 - 元弘の変、後醍醐天皇挙兵 光厳天皇即位
1332 越智邦澄、高取城築城 後醍醐天皇隠岐配流、大塔宮吉野にて挙兵、楠木正成挙兵 -
1333 - - 鎌倉幕府滅亡
1334 - 建武の新政 -
1336 - 湊川の戦、楠木正成討死、後醍醐天皇吉野へ遷幸 光明天皇即位
1338 - - 足利尊氏征夷大将軍就任
1339 - 後醍醐天皇薨去、後村上天皇即位 -
1346 越智邦澄、興雲寺(現・光雲寺)建立 - -
1348 - 四条畷の戦、楠木正行討死、高師直吉野攻め、後村上天皇賀名生へ遷幸 崇光天皇即位
1350 越智邦澄、直義の降伏を南朝へ仲介 - 観応の擾乱、足利直義南朝へ降伏
1352 - - 足利直義死去(尊氏による毒殺説あり)、後光厳天皇即位
1358 - - 足利尊氏死去、足利義詮二代将軍就任
1367 - - 管領に細川頼之就任
1368 - 後村上天皇薨去、長慶天皇即位 足利義詮死去、足利義満三代将軍就任
1369 - 楠木正儀北朝へ降伏 -
1371 - - 後円融天皇即位
1379 - - 管領細川頼之失脚
1382 - 楠木正儀南朝へ復帰 -
1383 - 長慶天皇薨去、後亀山天皇即位 後小松天皇即位
1392 - 南北朝合一 -
1394 - - 足利義持四代将軍就任
1408 - - 足利義満死去
1412 - - 称光天皇即位
1414 大和国人衆、幕府に恭順 北畠満雅、北朝天皇即位に反抗して挙兵 -
1423 - - 足利義量五代将軍就任
1424 - 後亀山院薨去 -
1425 - - 足利義量死去、跡継ぎ問題が起きる
1428 越智維通挙兵 北畠満雅挙兵・敗死 後花園天皇即位
1429 大和永享の乱、幕府軍越智氏を攻める - 足利義教六代将軍就任
1431 高取城落城 - -
1432 越智維通、筒井氏を破る 観世元雅死去(暗殺説あり) -
1433 高取城奪回 - -
1434 越智維通、再び筒井氏に大勝 - -
1435 幕府による越智氏討伐決定 - -
1437 - 後南朝討伐 将軍弟、大覚寺義昭出奔、南朝に通じる
1438 高取城落城、越智維通脱出 - -
1439 越智維通討死、大和永享の乱終結 - -
1441 越智家栄、畠山氏の後援により当主になる - 将軍義教暗殺、嘉吉の乱
1443 - 禁闕の変、三種の神器強奪 -
1447 越智氏後援により、越智観世十郎大夫、元服能興行 - -
1445 畠山氏の内紛に介入 - 畠山氏内紛
1449 - - 足利義政八代将軍就任
1457 - 長禄の変、自天王・忠義王殺害 -
1467 越智家栄、西軍に味方する - 応仁の乱
1471 - 西陣南帝擁立 -
1473 - - 山名宗全、細川勝元相次いで死去
1477 - - 応仁の乱終息
1478〜 越智家栄、引き続き畠山義就に同心、筒井氏との抗争続く -
1490 - 足利義政死去
1493 越智家栄上洛 明応の政変、将軍足利義材が廃され、義澄が十一代将軍になる
1497 十市氏に敗れ、吉野へ逃れる -
1498 高取城奪回 -
1500 越智家栄死去 -
1505 大和国人一揆成立 -
1506 多武峰の戦い 赤沢朝経大和へ侵攻
1507 越智家令討死? 管領細川政元暗殺、赤沢朝経撤退
1508 大和国人一揆崩壊 足利義材将軍復帰、名を義伊と改める
1516 筒井城攻囲 -
1517 越智家教死去 -
1520 筒井氏と和睦 -
1532 一向宗の高取城攻め、筒井氏来援 天文一揆
1543 越智・筒井同盟敗れる 鉄砲伝来
1546 貝吹山城落城 -
1559 - 松永久秀大和へ侵攻
1560 - 桶狭間の戦い
1565 - 十四代将軍足利義輝暗殺
1566 貝吹山城、越智氏の手に戻る -
1567 - 松永久秀、東大寺焼き討ち
1568 - 織田信長上洛、松永久秀の大和支配を認める
1569 松永久秀の貝吹山城攻め、撃退するも開城 -
1571 越智家高暗殺、叔父の家増(益)が当主になる 松永久秀、信長に背く
1573 - 室町幕府滅亡
1574 布施氏より家秀を養子に迎え、家督を継がせる -
1576 - 筒井氏の大和一国支配が認められる
1577 - 松永久秀、再び信長に背き滅亡
1580 信長の命令により、貝吹山城・高取城ともに破却 -
1582 - 本能寺の変
1583 越智家秀暗殺、越智氏滅亡 賤ヶ岳の戦い

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 南北朝・越智氏関連広域地図  
 (金剛山の西「千早城址」、東に「高取城」「多武峰」「芋峠」「吉野」の地形・位置関係を示します。
   各位置を確認の上ズームアウトすると、より地形が分かるように思います。お試しください。


大きな地図で見る
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越智氏関連年表作成 sachiさん
ページ作成 両槻会事務局 風人・もも

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