両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第31回定例会

両槻会主催 ウォーキング

飛鳥展望散歩 2



事務局作製事策用資料

2012年3月3日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
談山神社十三重石塔 談山神社摩尼輪塔 談山神社
鎌足公御廟所 阿武山古墳 念誦崛不動尊
念誦崛 藤本山万葉展望台 八釣マキト遺跡と酒船石遺跡向イ山地区
酒船石遺跡 両槻宮関連記事 参考系図 1
参考系図 2 蘇我氏 参考系図 3 藤原氏 飛鳥宮重層関係図
多武峰関連略年表 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。






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談山神社十三重石塔

 藤原不比等(淡海公)の墓とされますが、井(伊)派の石大工である井行元が永仁6(1298)年に造ったもので、高さ4m50cmを測ります。

 この井(伊)氏というのは、東大寺の重源が治承の乱(治承4<1180>年から元暦2<1185>年)で焼けた東大寺大仏殿再興工事にあたって宋から招いた石工を祖とすると伝えられるようです。その石工の流れをくむ者の集団が井派工人と呼ばれるようになり、五輪塔などにその名を残しています。

 十三重石塔基礎石の二面に、「永仁六年戊戌三 勧進六八願衆」「大工井行元」の刻銘があります。


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談山神社摩尼輪塔


 談山神社参道脇に建てられており、長い塔身の上部に大円盤形を刻み出しためずらしい形の塔で、「妙覚究竟摩尼輪」の刻銘から摩尼輪塔と呼ばれています。

 また、乾元2(1303)年癸卯五月日立之の刻銘があり、鎌倉時代後期に建立されたことが分かります。

 摩尼輪塔は、一ノ鳥居から五十二基の町石の最終町石になります。


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談山神社


 寺伝(鎌倉時代作)によると、藤原鎌足の死後の天武7(678)年、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和の多武峰に移し、十三重塔を造立したのが発祥となります。
天武天皇9(680)年に講堂(神廟拝所)が建立され、妙楽寺と称しました。また、大宝元(701)年、妙楽寺の境内に鎌足の神像を安置する神殿が建立されました。
 談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされます。
 平安時代には藤原高光(多武峰少将入道・三十六歌仙の一人)が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げましたが、天台宗との繋がりが強くなるにつけ、律宗の興福寺とは険悪な状況が続き、度々紛争が引き起こされることになりました。


 かくばかり 経がたく見ゆる 世の中に うらやましくも 澄める月かな
藤原高光
 天慶2(939)年 - 正暦5(994)年
 平安時代中期の歌人。
 藤原北家、右大臣・藤原師輔の八男。


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鎌足公御廟所

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 御破裂山頂(標高618m)には、御廟所とされる円墳状の塚があります。大和平野に立つと、この御廟所の自然植生によって木々が鶏冠のように見え、遠くからでも良く見分けがつきます。

 『日本書紀』によれば、天智天皇8(669)年10月、鎌足が病に倒れました。天智天皇は鎌足の家に行幸し、親しく病を見舞っています。その月の15日には、皇太弟の大海人皇子を鎌足の家に遣わして、大織冠と内大臣の冠位を授け、藤原の姓を賜っています。翌16日、鎌足は亡くなりました。僧道顕の著『日本世記』による引用として『日本書紀』には「内大臣は、春秋五十にして私第に薨じた。遺体を山の南に移して殯をした。」とありますが、墓所は明確に書いておらず、様々な説が有ります。


 『日本三代実録』天安2(858)年条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中頃の作とみられる『多武峯略記』などには「最初は摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説があります。また一方、『藤氏家伝』の記述に基づき、鎌足の墓は京都市山科区のどこかに存在するという説もあるようです。


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阿武山古墳

 鎌足の墓所として有力な阿武山古墳は、大阪府茨木市と高槻市の境にある阿武山(標高218.1m)の山腹にあります。阿武山は安威川と芥川の間にある丘陵で、別名「貴人墓」としても知られています。
1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことからこの古墳が偶然に発見されました。この古墳には墳丘をなす盛り土がなく、浅い溝で直径82mの円形の墓域を造っていました。

 墓室は、墓域中心の地表のすぐ下にあって切石で組まれており、内側を漆喰で塗り固められていました。上は瓦で覆われ、地表と同じ高さになるように埋め戻されていたそうです。内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺が置かれていました。
 棺の中には、60歳前後の男性の肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骸がほぼ完全に残っており、鏡や剣、玉などは副葬されていなかったのですが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺骸が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面・頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられています。

 1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかり、分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、また、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明しました。
 鎌足ほどの権力者の墓であることは間違いの無いところですが、まだ異説もあるようです。


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念誦崛不動尊


 案内標識から数百メートル下ると磨崖仏があります。この磨崖仏の左には、「延文三年戊戌正月 宣快」と陰刻されているようです。延文3年は西暦の1358年に当たります。
 増賀上人は経典の知識だけではなく修法にも勝れ、不動法を修して自ら不動形を現したとされているのですが、念誦崛不動尊はそうした増賀上人にまつわる伝承との関連もあるのでしょうか。ともかく、不動尊は天台宗や山岳信仰との関わりも深いとされるようです。
 念誦崛不動尊の周辺には、おもちゃの刀が供えられ、不思議な空間を演出しているのですが、これは、不動尊が右手に持つ煩悩を断ち切る智慧の利剣と関わる民間伝承が有るのだと思われます。残念ながら、詳細は未詳です。
 この不動尊には、ある人の夢枕に立って「土に埋まっている自分を掘り起こしてくれたら首から上の病を治してやろう」と云われたので、お不動さんの云われたように土から掘り出すと、頭痛が治ったという伝説もあるそうです。


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念誦崛


 念誦崛は、増賀上人のお墓だとされ、妙楽寺の末寺のひとつ紫蓋寺跡に所在しています。往時には、「多武峰末寺念誦窟 紫蓋寺 天台宗 増賀上人霊堂 一宇 釈迦堂 一宇 坊中 六宇 往古十三坊之所」(談山神社社家舟橋家文書)とあり、また西国三十三所名所図会にはその様子が描かれています。

 桜井市により調査が行われており(多武峰城塞跡念誦崛地区第1次調査)、増賀上人墓の方形基壇部及び周囲を囲む石柵の補修に伴うものでした。

 現在の増賀上人墓は方形二重石壇上に二重石積円形塚が築かれ、塚の頂上には「慶長七年(1602)」銘が印刻された五輪塔地輪が置かれています。

 調査では、石積みは江戸時代中期以降の石割技法による石材を使用しており、17世紀の『増賀上人行業記絵巻』に見られるような建物に関わる礎石と思われる方形の平石が、方形石壇の四隅とその間に見られました。石積み最下段は石材が異なり、頂部に設置された五輪塔の建立年も合致しないことから、複数回にわたって補修を行っているようです。

増賀上人は、長保5(1003)年の6月、弟子達に向かって「私が西方の浄土に赴くのに良い機会になったようだ。それほど遠くない時期になるだろう」と告げました。87歳の時のことです。天には雷が鳴り響き、紫の雲が多武峰にたなびいたと言います。

 増賀上人は亡くなる前に、「私が死んでも荼毘に付してはならない。ただ、3年経ったら大きな穴を作ってそこに入れて欲しい。その方法はこの文書を見るが良い」と遺言したそうです。亡くなった後の3年間、増賀上人の身体は全く腐ることもなく、ただ衣服だけが朽ち果てていき、これを見て弟子達は、常に礼拝賛嘆し約束通り3年経って大きな棺桶を作って、その坐禅した格好のまま寺の土地の一角に掘った穴の中に埋めました。それが念誦崛です。

 中世には、念誦崛の北側の尾根上に多武峰寺の西の守りとして念誦崛城砦が造られたようです。


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藤本山万葉展望台


 標高470mの展望台は、御破裂山から西に張り出した尾根上にあり、特に西側の展望に優れ、おおよそ180度の絶景が楽しめます。

 展望台は、平坦な場所を持っているのですが、これは展望台を造るために削られたものではなく、古い時代に人の手が入っているのではないかと思われます。奈良県の遺跡情報地図には、多武峰城塞跡岡道地区として登録された中世の城砦群があり、郭、堀切、竪堀などの遺構が確認されているようです。
藤本山の西側下方には、もう一つピークが有り、それと連携した多武峰の西の防衛拠点であったことが想像されます。


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八釣マキト遺跡と酒船石遺跡向イ山地区


 八釣マキト遺跡と酒船石遺跡向イ山地区は、標高140m前後の尾根の稜線部に掘立柱塀が並ぶ遺跡です。尾根筋の方位に合わせて直線的ではあるが「く」の字に曲がっている検出状況から、小さな範囲を囲うものではなく、稜線に沿って続いていたものと想定されています。掘立柱塀の作られた時期は特定できませんが、7世紀前半のマキト古墳の墳丘上からも検出されることから、7世紀の中頃から後半に築かれたものと推定されています。

 両遺跡の柱間は8尺、1m~1.7mの柱穴掘形で、柱穴の径は24cm~30cmを測ります。向イ山では15基、八釣マキトでは16基が確認されています。
 この塀跡の延長線を辿ると、東方山手のピークに藤本山があります。また、向イ山地区の塀を延長すると、藤本山の西下のピークに行き当たります。
 さらに、これらの想定防衛ラインを延長してゆくと、飛鳥宮を中心とした施設・古代寺院、また川・丘などの自然地形を利用した羅城的防衛ラインを描くことが出来るようにも思えます。



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酒船石遺跡

 酒船石遺跡は、両槻宮であるか、またはその一部であるとする説が近年盛んに唱えられました。亀形石造物や酒船石の存在など、いかにもそれらしい謎の石造物がある事も一層の拍車をかけたように思います。


酒船遺跡復元模型
飛鳥資料館ロビー模型より
奈良文化財研究所の撮影および掲載許可取得済み。

 酒船石遺跡は、亀形石造物や酒船石のみならず、酒舟丘陵を標高130mで2m以上の高さを持って取り囲む切石の壁が注目されます。丘の西側は、4段に区切られた切石積みの壁が囲み、見上げるとまるで石の山の様に見えたのではないかと推測されます。

 酒舟丘陵は、いったん地山が削り取られ版築が施されています。その上に飛鳥石の基礎石を並べ、さらに切り石を積み重ねるといった半人工の丘であることが分かっています。

 その石材を運ぶ運河を掘るために3万人が動員され、この丘を築くために7万人が必要とされたと『日本書紀』には書かれています。全長700m以上になるという丘陵を巡る石垣を考えると、それも肯ける規模となります。

 亀形石造物は、現状では竹薮の下に明るい広場のようになっていますが、施設のある谷底のような窪地に立つと、前面は切り立った石の丘に見えていたはずです。当時は丘が両側から包み込むように迫っていたようで、閉鎖的で密室のような空間であったように思われ、特別な人のみが立ち入りを許された極めて特殊な施設であったように想像されます。
 亀形石造物を含めたこの一連の施設が何であるのかは、現状ではまだ確定していませんが、水を使った何らかの祭祀に関連する施設であることは間違いないと思われます。湧水施設からの水を舟形の水槽にいったん溜めて、その上水を亀形石造物に流している点など、大量の水ではなく、綺麗な少量の水を必要にしていたように見えます。
 酒舟丘陵との関連は明確ではありませんが、階段も設置されていたことなどから、その丘陵上にある施設に向かう導入部分ではないかと考えられ、例えば祭祀を執り行う祭壇に向かうための手水所(禊の場)なのかと想像を巡らせることも出来るようにも思われます。


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日本書紀・続日本紀に書かれる両槻宮関連記事

日本書紀
斉明天皇2年(656年)条

 田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以ってす。 (田身は山の名なり。此をば大務と云う。) また、嶺の上の両つの槻の樹の辺りに、観を起つ。号けて両槻宮とす。亦は天宮と日ふ。
 時に興事を好む。すなわち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流れの順に控引き、宮の東の山の石を塁ねて垣とす。時の人謗りて曰く、「狂心の渠。功夫を損し費やすこと、三万余。垣を造る功夫を費やし損すること、七万余。宮材爛れ、山椒埋もれたり」といふ。又、謗りて曰く「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。

斉明4年(658年)11月3日条
 留守官蘇我赤兄臣、有馬皇子に語りて日はく「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ。という。」

持統 7(693)年9月5日条  「幸多武嶺。」
同年         9月6日条   「車駕還宮。」
持統10(696)年3月3日条  「幸二槻宮。」

続日本紀
大宝2(702)年3月17日条
  「令大倭国繕治二槻離宮。」


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参考系図 1

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参考系図 2 蘇我氏
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参考系図 3 藤原氏

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飛鳥宮重層関係図



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多武峰関連略年表


656 斉明 2 9. 斉明天皇、田身嶺に両槻宮をつくる。
678 天武 7   定慧和尚、藤原鎌足の遺骸を多武峯に改葬し、十三重塔を営む。
898 昌泰 元   多武峯尊像破裂する、以後35回に及ぶという(多武峯破裂記)。
963 応和 3   増賀上人、多武峯に登る。
970 天禄 元   多武峯権殿を創建する。
1183 寿永 2 7. 9. 多武峯・金峰山の僧徒,蜂起して源氏に応ずる(吉記)。
1351 観応 2 11. 9. 多武峯一山の伽藍坊舎焼ける。
1429 正長 2 5. 3. 観世・宝生、多武峯芸能(猿楽)を演じる。
1435 永享 7   永享 10南朝の遺臣、多武峯に拠る(十津川記)。
1438 永享 10 8.28. 多武峯、畠山持国(管領)の大軍をうけ堂舎焼かれる。大織冠御影、橘寺に難を避ける(大乗院日記目録)。
1451 宝徳 3 3.11. 多武峯船(八号船)明と貿易のため出航する。多武峯の大織冠は12年間長谷寺に移座する。 
1453 享徳  2 3.30. 長谷寺・多武峯は天竜寺などと幕府に請い、対 明貿易をおこなう。
長谷寺と多武峯は楠葉西忍が宰領司、翌年7月に帰国した。
6. 9. 大和四座、多武峯芸能(猿楽)を演ずる。
1466 文正 元 10. 1. 多武峯僧徒、越智家宗を攻める(大乗院寺社雑事記)。
1481 文明 13 3. 多武峯衆徒と越智党の争いおこり、衆徒戒重を攻め多数討死する(大乗院寺社雑事記)。
1506 永正 3 7. 赤沢朝経の大和侵入に対し、大和国衆は連判状をもって盟約し、箸尾・十市は多武峯にこもる。
9. 5. 沢宗益多武峯を攻略、一山焼かれる(大乗院寺社雑事記)。
1532 天文 元 6. 多武峯十三重塔を建造する。大和に一揆おこり、高取城を攻め、多武峯を攻め損じる。  
1559 永禄 2   十市遠勝、多武峯に拠り松永久秀を攻める。
1585 天正 13 閏 8.25. 多武峯に刀狩りがおこなわれる。
1588 天正 16 3.26. 多武峯大織冠、郡山に遷座の綸旨がでる。
1590 天正 18 12.28. 豊臣秀吉の病気平癒のため大織冠郡山から多武峯に帰座する。
1687 貞享 4   松尾芭蕉、伊賀から初瀬、三輪、多武峯を歴訪する。





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