大官大寺遺構概要図 |
『日本書紀』や『大安寺縁起』などから、古代日本初の天皇勅願の寺として、舒明11(639)年に百済宮とともに造営が開始された百済大寺の後身だとされています。金堂の南東で確認された塔の基壇は、一辺約35mと巨大で、九重塔に相応しい規模を持ちます。
百済大寺は、天武2(673)年には高市大寺、天武6(677)年には大官大寺に寺名が変更され、平城遷都の際には、さらに改称され大安寺として新都に移転したとされていますが、『扶桑略記』には、和銅4(711)年に藤原宮とともに、焼亡したと記されています。
発掘調査により、金堂の周囲や中門付近から焼土や焼け落ちて地面に突き刺さった屋根の部材などが検出され、中門や塔、回廊は、造営途中で火災にあったことが判明し、前述の『扶桑略記』の記載と年代がほぼ一致することがわかりました。結果、明日香村大字小山にあるこの跡地は、文武朝の大官大寺であったと考えられます。 |