両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第33回定例会レポート


両槻会主催講演会

相撲と槻(つきのき)にみる祓いと政


この色の文字はリンクしています。
散策資料
2012年7月7日


飛鳥京跡を行く

 前日の夜から近畿地方を襲った豪雨。定例会当日の7日の朝には、まだ飛鳥には警報が発令されたままでした。
 早めに飛鳥駅に集合したスタッフの頭上にひろがる曇天。雨は降っていないものの、こんな空模様の日に飛鳥を歩くなんて酔狂な人は居ないだろう・・・と。自由参加の事前散策に、皆さん参加くださるのか。「スタッフだけだったりしてね」なんて苦笑いをしながら話していると、定刻には参加者の方が順々に現れてくださいました。ホッ(笑)

 今回の事前散策では、飛鳥で相撲が行われたであろう場所を巡るのが目的です。歩き慣れた飛鳥京跡。ささっと歩けば小1時間で歩けてしまう距離ですが、この機会にゆっくりじっくり回ります。

事前散策ルート

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 予定時刻にバスに乗り込み、明日香観光会館前バス停で降車し、いよいよ散策の開始です。
まず最初に向かうのは、「エビノコ郭跡」。ここに向かうまでに、村内の路地をグルグル~っと歩きました。ほんの数分でしたが、σ(^^)は何処へ連れて行かれるんだろう?とスタッフのくせに情けないことを思っておりました。(^^ゞ


前日の豪雨を物語る

 エビノコ郭跡は、現在は舗装された駐車場になっています。ここに約30m×15mという飛鳥地域では最大で、飛鳥浄御原宮の大極殿と考えられる建物・エビノコ大殿が建っていたんだそうです。ここでは、エビノコ郭の説明と西にだけあったという門、そしてその西に広がっていたであろう広場の説明を聞きました。(資料:エビノコ郭と儀式の広場


エビノコ郭跡

 『日本書紀』の記述に見える「西門」はエビノコ郭の門を、「南門」は飛鳥浄御原宮内郭の門を言い、これらの2つの門と飛鳥川に挟まれて広がっていた三角形の土地が儀式の行われた広場として機能していたんではないかと考えられるようです。(資料: 『日本書紀』にみる飛鳥時代の儀式・儀礼の広場

 エビノコ郭跡から少し北へ進むと、明日香郵便局が見えてきます。郵便局の裏手へ回り込んで、いよいよ飛鳥浄御原宮の内郭跡地へと入っていきます。


前殿のあった田

 鉛色の空の下「あの辺りに南門があって、この辺りが前殿で・・」と、電信柱や青々とした早苗が戦ぐ田んぼを示して説明があります。
 飛鳥浄御原宮の内郭中心線が、現在も田の畦などにほぼ踏襲されていることなども事務局長から説明があり、配布資料の遺構図を見ながら、目の前の景色に浄御原宮の建物を重ね合わせていく作業に、皆さん一生懸命取り組んでおられました。

 前殿があった田んぼのすぐ横には、史跡公園があります。生垣で囲まれたここが何の跡だかご存知の方がどれぐらいいらっしゃるでしょうか。


 南北に長い建物が東西に二棟並列して建っていたと考えられるこの場所は、飛鳥浄御原宮の朝堂か?と言われている場所になります。行儀よく並んでいる丸太はベンチではなく柱位置が再現されたもの、生い茂る下草の中に隠れて見えにくいですが、柱列と平行に復元された石組溝も走っています。

 前殿と朝堂を経て、次は、内郭正殿跡へ向かいます。


内郭正殿跡付近

 正殿は、同規模の建物が南北に二棟並んでいたことから、南正殿・北正殿と呼ばれています。σ(^^)は、南正殿の現地説明会には参加することができましたので、この田を見ると今でも現地説明会でみた石敷きが浮かんでくるのですが、やはり目の前に広がる田んぼから、その姿を想像するのは難しいと思います。道の南側には南正殿、道から北に二枚目の田んぼに北正殿がありました。高床式で高さが2mにも及ぶという話に、「ほぉ~」という声とととも、上を見上げる方もいらっしゃいました。想像力が物を言うのが飛鳥の史跡めぐりかもしれませんね。(資料:飛鳥浄御原宮

 次は、内郭の東限に沿って北に向かい、伝飛鳥板蓋宮跡へと向かいます。


 整備された井戸遺構の脇で飛鳥浄御原宮の宮域の話、史跡公園の説明板辺りが飛鳥板蓋宮の中心付近にあたるのではないかとの説明がありました。
 石敷きの井戸跡脇から北を見渡しては宮の広がりを、伝飛鳥板蓋宮跡の説明板を読みながらは、3層4期にわたる宮の位置関係を皆さんと一緒に確認できたんではないかと思います。


飛鳥板蓋宮内郭跡 付近

 次は、槻の樹の広場か?と言われる飛鳥寺西方遺跡を目指します。
 その前に、一昨年の改修工事で大きな柱穴が出土したことで話題にもなった吉野川分水を横断します。このことは、あい坊先生が、「飛鳥宮の大型建物を考える」として、飛鳥遊訪マガジン上で皇后宮の可能性を書いてくださっています。

 吉野川分水の左右には、舗装された小道が続いています。水路に沿って歩けるようになってるんでしょうか?


吉野川分水路上の掲示板に群がる人々(笑)

 水路上には、飛鳥京の遺構図や内郭正殿の石敷き遺構の写真などが掲示されていました。ここまでの復習とばかりに掲示板前に群がる参加者と、それを懸命に説明する事務局長。実際の遺構の写真の威力は凄いですね。(笑)


飛鳥苑池遺跡付近

 水路を横断しきった先の道の少し後方(南西)には、飛鳥苑池遺跡があります。史跡整備に向けての次の調査待ちなんでしょうか。枯野に重機がポツンと取り残されていました。


飛鳥寺西方遺跡を行く(左:砂利敷きの検出された田)

 飛鳥寺西方遺跡では、配布資料の遺構図を開きながら、これまた遺構の位置確認-現在の田んぼの形や道にその名残りを探して少しづつ進みます。飛鳥寺南の石敷き遺構は、今の道にその角度が現れています。現在の地図で見ても、この道だけ東へ行くほど南に振っていることが確認できると思います。
 飛鳥寺の西門跡で、礎石と案内板を見学しました。槻の根っこが出れば良いのにね・・・なんていう話をしながら。


西の槻の樹の広場?
 
飛鳥寺の西、飛鳥川までのこの辺り一帯の西側が槻の樹の広場であったと考えられるようです。
(資料:飛鳥寺西の槻の樹の広場


字 土木の田

 ここまで、約1時間半。本当にゆっくりと飛鳥京内を歩きました。
 両槻会では、第17回定例会「飛鳥の諸宮をめぐる」の折りに、飛鳥京跡内を隈なく歩いたことがあります。講師の山田隆文先生からは、飛鳥宮内の石敷きに使われる石の大きさによる道の格や、地表面に残る段差などからさまざまなことが読み取れることを教えて頂きました。そして、今回もまた事務局長から、それらの説明が要所要所で繰り返して説明されました。参加者の方からは、配布資料の遺構図に現在の道が記されてあるのが、位置確認の際に分かり易いとの声も頂きました。埋め戻されてしまうと、何処に何があったか分かり難い飛鳥の遺跡を少し分かって頂けたようで良かったです。(^^)

 少し早めの昼食を取るために、ルートを西に外れ甘樫丘の北麓にある休憩所へと急ぎます。昼食後は、石神遺跡や小墾田宮跡推定地を巡る予定ですが、講演会場である資料館へ準備のための先行班となっているσ(^^)は、よっぱさん と らいちさん と一緒にここで事前散策班から離脱です。


微高地の確認(小墾田宮推定地)古山田道を北から写す。
―田んぼからの高さにより、道路が傾斜していることが分かる。―

 石神遺跡では須弥山と饗応施設や謎の瓦葺き建物の話に小墾田宮の可能性など、現在の山田道を歩きながらは、その北方にあった遺跡の可能性や小治田寺やこちらも小墾田宮推定地の話などもあったのかな?などと思いつつ、皆さんが散策している間、資料館内でバタバタと右往左往していました。(^^ゞ

(当日は、古山田道の微高地を確認していただくために、予定していたルートを外れ古山田道と重なる竹田道を東へ向かい、飛鳥城横を通ったそうです。)(資料:石神遺跡小墾田宮


 両槻会主催第33回定例会は、帝塚山大学考古学研究所特別研究員の甲斐弓子先生にお越しいただき、「相撲と槻にみる祓いと政」と題してお話を伺いました。

 散策班も資料館に到着し、無事定刻通りに講演会を始めることができました。

 甲斐先生が、今回の講演会に際してご用意してくださったレジュメは、資料編と合わせると8枚。レジュメに書かれた項目を眺めているだけで、これから始まるお話が幅広く展開していくことが想像できました。楽しみであるとともに、レポート担当としては「どこまで付いていける?」と、ちょっと冷や汗も出ます。(^_^;)

 さて、甲斐先生のお話は、今回の講演会タイトル決定に至るお話‐7月7日実施ということで、「相撲」と「槻」の内容でと即断された時のお話‐をしてくださいました。日程をご連絡した時に、目を輝かせて講演の概要をお話くださった時の先生のご様子が今でも目に浮かんできます。(笑)

 7月7日は、奈良時代頃から始まった「相撲の節会(すまいのせちえ)」の日。
 お話は節会と節句から始まったのですが、これは咲読にσ(^^)も書かせて頂いたので端折ります。レジュメにこれらの文字を見つけたとき「良かったぁ~」と、まず心の中で叫んだのは内緒です。(笑)

 7月7日には「索餅(さくべい)」と言う揚げ菓子を食べたことをご紹介くださいました。索餅は、瘧除け(マラリア除け)として、食べられたんだそうです。節目の日に供(ぐ)することから、これらのものを「節供(せつぐ)」と言い、これにもまた厄除けや祓いの意味合いがあるんだそうです。

 そして、相撲が祓えだと考えられるのは、やはりその所作によるもので、「四股」は悪鬼を追い払い地を鎮める、手を打ち鳴らすのは空を響かせて清めるという意味があるのだそうです。取り組み以前に行なわれる所作が天と地を祓い鎮めることになるんですね。四天王像が邪鬼を踏みつけているのも、悪鬼祓いの所作で、相撲の四股に通じるものがあるんだそうです。

 これら祓いの相撲が行なわれた場所には、衢(ちまた)や勿論神社などがあげられるようです。神社で祓えと言うのは、当たり前なような気がしますが、この当たり前の感覚になるまでの過程が色々とあったんでしょうね。


 今、季節的には丁度「夏越しの祓え」と言って、神社では茅の輪くぐりが行なわれている頃です。この茅の輪に使われる「茅(ちがや)」の葉は刃物のように鋭利なため、輪をくぐりその葉(刃)で自身の穢れをそぎ落とすのだそうです。そしてこの茅の輪くぐりも、元々は衢で行なわれていたんだとか。
 衢は、道が交差する所を言いますから、人や物だけではなく沢山の邪悪なものも寄り集ってくるんでしょうね。だから、祓えをするには最も適した所ということになるのかもしれません。

 面白いことに、その衢での相撲が切っ掛けで、スカウトされて官人となった人が奈良時代の末にいるんだそうです。
 『続日本紀』に記録されているその人の名は、肖奈副信。祖父の代に高句麗からやってきて武蔵国に住んでいたそうですが、その後もドンドンと出世していったそうですから、まさに、芸は身を助く。

 が、反対に相撲の力士に選ばれて、都へ向かう道中で客死してしまった若者の話が万葉集に残っていたりもします。奈良時代に抜出司(ぬきでのつかさ)が設置され、公に強い力士が求められ集められるようになって起った悲劇かもしれません。

 そうそう、相撲で出世したといえば、野見宿禰を忘れてはいけませんね。出雲から出てきて、當麻蹴速を蹴り殺し(おい)、その後は垂仁天皇に仕えています。皇后日葉酢媛の陵墓造営の際には、殉死を取りやめ代わりに埴輪を作ることを提案した功績で土師の姓を賜っています。

 祓えの儀式としての相撲は、後世にも行なわれていたそうです。江戸時代では、『丁中漫録(春日若宮祭礼記)』という書物に詳細な様子が記されているんだそうですし、幕末には悪鬼退散のために相撲を執り行う事を陳情した記録などもあるそうです。また、神事芸能としての相撲は、夜支布山口神社などでは今も行なわれているそうですから、祓えとしての相撲本来の姿を留めているのは、神社や地域の祭りなのかもしれませんね。

 さて、肝心の天武・持統朝に行なわれた相撲や槻の樹広場で行なわれた儀式ですが、これは服属儀礼だと考えられるのが一般的のようです。が、甲斐先生は、天武朝以降には、この服属儀礼自体がそれ以前のものと姿を変えているだろうと仰っておられました。

服属と言うのは、下にあるものを従属させるという考えで、飛鳥時代に遠隔地に住んでいた人々が、必ずしも大和より精神的・技術的に劣っていたとは言えないと、比羅夫の蝦夷討伐などを例に取って詳しくお話くださいました。
 天武は、多数による武力だけで政は行なえない、人の心を掌握することが大事だと考えていたのではないかと。
 確か「政の要は軍事なり」って言ったのは天武ですよね?でも、少数精鋭で壬申の乱で勝利したのもまた事実。このお話は、天武のまた違う一面を見るような気がしました。

 また、西の槻の下で蝦夷などの饗宴を催したのも、この場が飛鳥寺の西に存在することも重要で、西に槻の樹広場があるから飛鳥寺の西門が大きく作られたんじゃないかと仰っておられました。饗宴中に不測の事態が起こった場合、天皇を飛鳥寺へと非難させ大垣で囲まれた飛鳥寺がそのまま天皇を守る要塞となったのではないかとのことです。もちろん、槻の樹の広場が儀式に使われた理由は、それだけではなく、樹の持つ呪術性や樹下思想と言うものがあるんだそうです。先に槻の樹ありき・・・なのかもしれません。

 当日は、甲斐先生が30cmはあるケヤキの樹皮を一枚お持ちくださいました。ケヤキの樹皮は鱗状になっていて、年を経るごとにその一枚が大きくなるんだそうです。高く聳えるケヤキを下から見上げると、龍が天に登っていくようにも見えたのじゃないかと。

 「相撲と槻にみる祓いと政」という演題でお話を伺ったのですが、もも には、今回の講演のキーワードは、下の2つではないかと思いました。

「日本は神祇の国」
「祓いに始まり祓いに終わる」

 お話の中で、甲斐先生はこの言葉を何度か口にされました。

 仏教が伝わり仏像が入ってくるまで、古代日本に偶像崇拝はありませんでした。つまり神には姿形がなかったわけです。人には見えないところに居るのが神。ちょっと妙な感じにも聞こえますけど、天や地や樹や風や、いわゆる身の回りにある全てのものに神が宿っているということなんだと思います。そう言えば、小さい頃によく「神様が見てるよ!」と言って叱られては、「神様って何処に居るん?」と口ごたえをして、「神様は見えないの!」と重ねてきつく叱られた記憶があります。決して「仏様が見てるよ!」とは叱られませんでした。(笑)

 穢れを祓うという意識は、目に見えないものを信じて畏れることから始まるようにも思います。神祇の国であった古代日本には、極当たり前の感覚で、それが時代を経るごとに少しずつ形を変え残り今に至り、私たちも無意識のうちに「祓え」を行なっているのかもしれません。

 講演終了後には、休憩を挟んで、質疑応答という形でさらに1時間もお話頂くことが出来ました。
 参加者もお話を通じて相撲や槻に様々な観点から興味を持たれたようで、皆さんの質問や甲斐先生のお答えを、「ほぉ♪」と感嘆符入りで伺っているのが精一杯の もも でした。(^^ゞ

 甲斐先生には、要所要所でホワイトボードに絵や漢字を書いて下さりながら、沢山の興味深いお話をしていただきました。質疑応答も含め長時間、有難うございました。m(__)m

 その後は恒例の懇親会を行い、先日出版されたばかりの甲斐先生の著書(森郁夫先生との共著)、両槻会がお世話になっている先生方の書籍のご紹介と、今後の定例会予定などの報告をさせていただきました。

 また、この日は、七夕でしたので、会場の飛鳥資料館前に設えられた七夕飾りに付けるべく、皆さんにも短冊に願い事を書いていただきました。皆さんの願いが叶いますように(^人^)


レジュメと一緒に甲斐先生より参加者全員に配られたクッキー♪
有難うございました。(^^)



レポート担当: もも 

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