両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第33回定例会

両槻会主催 講演会

相撲と槻(つきのき)にみる祓いと政




散策用資料

作製:両槻会事務局
2012年7月7日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
事前散策ルート 飛鳥宮跡 飛鳥浄御原宮
エビノコ郭と儀式の広場 『書紀』にみる飛鳥時代の儀式・儀礼の広場 飛鳥寺西の槻の樹の広場
『書紀』にみる「槻」と「槻の樹の広場」 須弥山石 石神遺跡
小墾田宮 史料にみる相撲の記録 考古資料にみえる相撲
万葉集にみえる槻 古道と関連史跡地図 当日レポート
飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。






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事前散策ルート


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飛鳥宮跡

 現在、飛鳥宮跡は3層4期に区分されて考えられます。最上層のⅢ期は更に二つに区分され、Ⅲ期AまたはBと表記されます。
 I期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643~655)、Ⅲ期Aは斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656~667)、Ⅲ期Bは天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)に該当すると推定されています。
 Ⅲ期A・Bの区分は、Aが内郭だけであったのに対して、Bはエビノコ郭や外郭を持つ点にあります。その新設に伴う変更が、内郭でも若干行われたようです。現在、目にすることが出来る井戸遺構や建物跡は、Ⅲ期の遺構ということになります。

飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図Ⅰ


飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図Ⅱ

飛鳥京跡 遺構重層関係 模式図Ⅲ




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飛鳥浄御原宮

 飛鳥宮跡Ⅲ期Bに該当する建物群で、内郭の中心線上の最も南には、南門があります。東西5間、南北2間で、両側に掘立柱塀が続きます。南門の南には、儀式の場としての石敷広場の存在も想定されます。


 南門の北には、前殿と呼ばれる建物が存在しました。東西7間、南北4間で、4面に庇を持っています。建物の周辺には石敷きが巡り、南では更にバラス敷の空間が広がっていました。また、北には幅3mの石敷通路が伸びています。天皇が儀式のために前殿に向かうための石敷通路とも考えられています。

 前殿の東には、二重の掘立柱塀を挟んで、2棟の掘立柱建物があります。床束なども検出されているために、床張りの建物だとされています。規模は、南北10間、東西2間です。
前殿の北には三重の東西掘立柱塀があり、内郭の南北を分けています。公的な空間と私的な空間を分けるものだと考えられます。

 その塀の北側では、二つの同規模の大型建物が検出されています。東西8間、南北4間の規模で、南北に配置され、南北に庇を持つ切妻の建物に復元されるようです。
 調査では階段の跡も検出されており、床の高さは約2mと推定され、高床建物であったことがわかっています。


 2棟の大型建物には、それぞれに東西3間、南北4間の建物が東西両側に配置され、南北2間の廊状の建物で繋がっていました。Ⅲ期Bに入って、南の建物の西の小殿が廃され、池に改作されています。

飛鳥浄御原宮 遺構図


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エビノコ郭と儀式の広場

 飛鳥宮Ⅲ期Bには、内郭の東南に新たに造営された区画があります。その区画は、小字名をとって「エビノコ郭」、そこに建てられた大規模な建物は「エビノコ大殿」と呼ばれています。これは、『日本書紀』天武元(672)年条に書かれる「この年、宮殿を岡本宮の南に造り、その冬、移り住まわれた」にあたると考えられています。


エビノコ郭 復元模型(飛鳥資料館 ロビー)
画像掲載許可申請済(転載・転用禁止)

 エビノコ郭は、周囲を塀で区画した東西約94m・南北約55mの空間で、区画の南側には門が無く、西側にのみ門が造られた空間になっています。
 中央には、この区画の正殿である「エビノコ大殿」がありました。その規模は、9間(29.2m)×5間(15.2m)の飛鳥地域では最大とされる大型建物でありました。建物の周辺には、石敷きが施されていました。また、この建物は四面庇付の高床建物で、入母屋造に復元されます。これらのことから、この建物は『日本書紀』天武天皇10(681)年条にみえる「大極殿」の可能性が高いと考えられています。


飛鳥浄御原宮 復元模型(飛鳥資料館 ロビー)
画像掲載許可申請済(転載・転用禁止)


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『日本書紀』にみる飛鳥時代の儀式・儀礼の広場(除く、饗応・饗宴)


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飛鳥寺西の槻の樹の広場

 「槻」とは欅(ケヤキ)の古名です。巨木になること、木目が綺麗であることなどが特徴で、神聖な樹木と考えられたことから、現在でもしめ縄の巻かれた欅が多くあります。また、神社の建築材や和太鼓の素材としても利用されているようです。
 斎槻(ゆつき)とは、神聖な槻の樹のことを意味します。まさに、槻の樹の広場の槻の大木は、斎槻であったのでしょう。槻の木の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。


槻の樹広場 復元模型(飛鳥資料館 ロビー)
画像掲載許可申請済(転載・転用禁止)

飛鳥寺西方遺跡 遺構図




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『日本書紀』にみる「槻」と「槻の樹の広場」 飛鳥時代



『日本書紀』『古事記』にみる「槻」と「槻の樹の広場」飛鳥時代以前




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須弥山石

 石人像と共に明日香村小字石神から発見された石造物です。全体の形や山形の浮彫があるところから須弥山石と名付けられたようです。これは、庭園にともなう噴水施設と考えられています。
 須弥山石は、3段が現存しますが、本来は4段に積まれていたと考えられています。また、組み立てが可能で、移動させて使われた可能性も指摘されています。下の表も、その点を考慮して参照してください。


『日本書紀』にみる「須弥山」



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石神遺跡

 石神遺跡は、飛鳥時代に何度も造成・建て替えを行いながら、土地利用が続けられたと考えられています。


石神遺跡 復元模型(飛鳥資料館 ロビー)
画像掲載許可申請済(転載・転用禁止)

 A期は、7世紀前半~中頃に相当する時期区分です。斉明天皇の饗宴施設だとされる時代を含んでいます。これまで、その斉明期である7世紀中頃に石神遺跡の活発な土地利用が始まったと考えられてきましたが、21次調査によって、それに先行する瓦葺の建物があった可能性が高まりました。これによって未解明のA期前半の様相にも新たな興味が持たれます。

 B期は、7世紀後半です。天武天皇の時代になり、A期の建物は撤去され造成された後、飛鳥浄御原宮の官衙的な性格を帯びた南北棟建物群が遺構全体にわたって造られたと考えられているようです。北に広がる沼沢地は埋められ、南北溝・東西溝が造られました。この時期に大きな土地利用の変革があったようです。

 C期は、7世紀末~8世紀初頭の藤原京が存在した時代区分になります。B期の建物を解体した後、塀で区画された藤原京の官衙群と同じ建物配置を持つ建物群が造られます。藤原京の役所の一部がこの地に置かれたと推測されています。

 石神遺跡から出土する大量の木簡や様々な木製品などは、B・C期の物が多く、これらの時期の建物遺構が官衙的な性格のものであったことを裏付けているように思います。
石像物をはじめとして石神遺跡からの出土遺物を見てみると、極めて重要な木簡類が大量に出土しています。また、ノコギリや扇や定規も出土しています。鉄製の鏃、新羅式の土器や東北地方独特の特徴を持つ黒色土器の出土もありました。
 さらに、21次調査でも話題になりましたが、3次・4次調査などでも出土例がある奧山廃寺式の瓦群があります。
石神遺跡21次調査では、瓦を使った建物が存在した可能性が新たに出てきました。それは、斉明天皇の饗宴施設に先行する仏教関連施設であった可能性が高いとされています。
 また、石神遺跡=中大兄皇子邸宅説や、天武天皇の時代の建物群は小墾田兵庫ではないかという相原嘉之先生のご指摘もあります。


石神遺跡 A期遺構図


石神遺跡 B期遺構図

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小墾田宮

 『日本書紀』によると推古11(603)年、豊浦宮で即位した推古天皇の正宮として小墾田宮が造営されました。
以降、推古天皇が崩御するまでの間、蘇我馬子、聖徳太子らを中心として、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要な政策が、この宮で実施されました。


奈良時代の小治田宮の復元模型(飛鳥資料館 ロビー)
画像掲載許可申請済(転載・転用禁止)

 長らく明日香村豊浦の古宮が比定地となっていましたが、近年は雷丘東方遺跡付近から「小治田宮」などと書かれた墨書土器が出土したことから、奈良時代の小治田宮(淳仁・称徳天皇の行宮)が在ったとされています。
これによって、飛鳥時代の小墾田宮も周辺に存在した可能性が高いと考えられています。

小墾田宮推定地図
(推定地A~Gの説明はこちらをお読み下さい)
クリックで拡大します。




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史料にみる相撲の記録

(出典:記=古事記・紀=日本書紀・続=続日本紀・万=万葉集)

『古事記』上巻
故尓問其大国主神。今汝子事代主神。如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神。千引石捧手末而来言誰来我国而。忍々如此物言。 然欲為力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者。即取成立氷。亦取成釼刃。故尓懼而退居。尓欲取其建御名方神之手。乞帰而取者。如取若葦。扼批而投離者。 即逃去。故追往而。迫到科野国之州羽海。将殺時。建御名方神白。恐。莫殺我。 除此地者。不行他処。亦不違我父。大国主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中国者。随天神御子之命献。
《大意》
葦原中国を治めようとする天照大神の命を受け、建御雷神は、そこを治める大国主命とその子八重言代主命に意向を問う。二人は従う姿勢をみせるが、大国主のもう一人の子・建御名方神は、建御雷神に力くらべで決着をつけようと挑む。建御名方神は、千人でようやく動かせるくらいの岩を手の先で軽々と持てるほど、怪力の持ち主であった。ところが、建御雷神は、自分の手を建御名方神に掴ませると、その手はたちまち氷柱となった。今度は、建御雷神が建御名方神の手を掴むと、簡単に掴み潰して投げてしまった。敗れた建御名方は逃げ去った。科野国須羽で追っ手に捕まり殺されそうになるが、そこで降伏し服従を誓った。


『日本書紀』巻六 垂仁天皇
七年秋七月己巳朔乙亥。左右奏言。当麻邑有勇悍士。曰当麻蹶速。其為人也。強力以能毀角申鈎。 恒語衆中曰。於四方求之。豈有比我力者乎。何遇強力者。而不期死生。頓得争力焉。天皇聞之。詔群卿曰。朕聞。当麻蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言。臣聞。出雲国有勇士。 曰野見宿禰。試召是人。欲当于蹶速。即日遣倭直祖長尾市喚野見宿禰。於是。野見宿禰自出雲至。則当麻蹶速与野見宿禰令捔力。二人相対立。各挙足相蹶。則蹶折当麻蹶速之脇骨。 亦蹈折其腰而殺之。故奪当麻蹶速之地。悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之縁也。野見宿禰乃留仕焉。
《大意》
垂仁天皇7年7月7日、側近が次のように奏上した。「当麻邑に当麻蹶速という勇ましく荒々しい者がいます。力が強く、堅い角を手で割り、鈎状の武器を手で伸ばすことができます。常々、周囲に『この世で私の力に匹敵するものはいないだろう。どうにかして力の強い者に遭って、生死を考えずひたすら力比べをしたいものだ』と語っているそうです」
天皇は、その相手となり得る者はいないかと群卿に尋ねると、一人の臣が「出雲国の野見宿禰という勇者を召して蹶速と取り組ませてみます」と申し上げた。
こうして二人は力比べをすることになった。
向かい合って立ち、足を上げて蹴りあった結果、野見宿禰は当麻蹶速の肋骨を折り、腰を踏み折って殺してしまった。そこで、蹶速の土地を宿禰に賜った。その邑に腰折田がある由縁である。野見宿禰はそのまま留まって、朝廷に仕えた。


『日本書紀』巻十四 雄略天皇 
十三年秋九月。木工猪名部真根以石為質揮斧斲材。終日斲之不誤傷刃。天皇遊詣其所。 而怪問曰。恒不誤中石耶。真根答曰。竟不誤矣。乃喚集采女。使脱衣裙而著犢鼻露所相撲。於是。真根暫停。仰視而斲。不覚手誤傷刃。 (後略)
《大意》
木工猪名部真根は、石を台にして斧で木材を削っていた。一日中削っても、誤って刃を傷つけることはなかった。天皇がそこへお出かけになり、「誤って石に当てることはないのか」と尋ねると、真根は「決して誤りません」と答えた。そこで、采女を召集して衣服を脱がせ褌を着けさせ、よく見える場所で相撲をとらせた。真根は、しばしの間手を止めて相撲を見ながら削っていたので、不覚にも誤って刃を傷つけてしまった。〈以下略〉


『日本書紀』巻二十四 皇極天皇元年
乙亥。饗百済使人大佐平智積等於朝。或本云。百済使人大佐平智積及児達率。闕名。恩率軍善。乃命健児相撲於翹岐前。智積等宴畢。而退拝翹岐門。
《大意》
7月22日、百済の使者・大佐平智積等を朝廷で饗応した(ある本には、百済の使者大佐平智積とその子達率、名が欠落している、及び恩率軍善という)。健児(力の優れた者)に命じて、翹岐(ぎょうき=百済の大使)の前で相撲をとらせた。


『日本書紀』巻二十九 天武天皇十一年
秋七月壬辰朔甲午。隼人多来貢方物。是日。大隅隼人与阿多隼人相撲於朝廷。大隅隼人勝之。
《大意》
7月3日、隼人が大勢来朝して、地方からの貢物を献上した。この日、大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲をとり、大隅隼人が勝った。


『日本書紀』巻三十 持統天皇九年
五月丁未朔己未。饗隼人大隅。
丁卯。観隼人相撲於西槻下。
『続日本紀』養老三年
秋七月辛卯。初置抜出司。

『続日本紀』神亀五年
辛卯。勅曰。如聞。諸国郡司等。部下有騎射相撲及膂力者。輙給王公卿相之宅。有詔捜索。無人可進。自今以後。不得更然。若有違者。国司追奪位記。仍解見任。郡司先加決罰准勅解却。其誂求者。以違勅罪罪之。 但先充帳内資人者。不在此限。凡如此色人等。国郡預知。存意簡点。臨勅至日。即時貢進。宜告内外咸使知聞。

『続日本紀』天平六年
秋七月丙寅 天皇観相撲戯 是夕徒御南苑命文人賦七夕之 賜禄有差

『万葉集』巻5‐864[題詞]
宜啓 伏奉四月六日賜書 跪開封函 拜讀芳藻 心神開朗 似懐泰初之月 鄙懐除去 若披樂廣之天 至若羈旅邊城 懐古舊而傷志 年矢不停 憶平生而落涙 但達人安排 君子無悶 伏冀 朝宜懐雉之化 暮存放龜之術 架張趙於百代 追松喬於千齡耳 兼奉垂示 梅苑芳席 群英述藻 松浦玉潭 仙媛贈答 類否壇各言之作 疑衡皐税駕之篇 耽讀吟 戚謝歡怡 宜戀主之誠 誠逾犬馬 仰徳之心 心同葵カク(=草冠に霍) 而碧海分地 白雲隔天 徒積傾延 何慰勞緒 孟秋膺節 伏願萬祐日新 今因相撲部領使 謹付片紙 宜謹啓 不次 
5‐867[左注]
天平二年七月十日
《大意》
4月6日付けで受け取った書状への返信。
(略)…今日はちょうど初秋7月の節句に当たります。願わくば、日に日にご多幸であることを。
今、相撲の部領使に頼んで、謹んで短文を言付けます。
(この間に歌4首。最後の867番の後ろに7月10日の日付)
節会相撲が終わり、帰途につく部領使に手紙を託していることがわかる。


『万葉集』巻5‐886[序]
大伴君熊凝者 肥後國益城郡人也 年十八歳 以天平三年六月十七日為相撲使某國司官位姓名従人 参向京都 (後略)
《大意》
大伴君熊凝は、肥後国益城郡の人である。年は18歳、天平3(731)年6月17日に、相撲の部領使の国司の従者となって、奈良の都に向かった。



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考古資料にみえる相撲

 壁画
  • ベニ・ハッサン壁画 (エジプト・BC3000年ごろ)
  • 捔抵塚古墳壁画 (高句麗・集安 4世紀)

 力士埴輪 
 いずれの埴輪も、手を高らかに挙げ土俵入りのような格好をしており、四股を踏む様子を表現しているように思われます。
 「四股」は、土地の邪気を払う儀式で、古墳を造る際には力士の四股が重要な役割を果たしていたと考えられています。

 墨書土器
  • 「右相撲□」墨書土器   (平城京左京三条一坊一坪出土)
  • 「相撲」墨書土器      (平城京左京二条二坊十二坪出土)
 
墨書土器出土位置


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万葉集にみえる槻

2-210  
うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我がふたり見し 走出の 堤に立てる の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

2-213
うつそみと 思ひし時に たづさはり 我がふたり見し 出立の 百枝の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 妹にはあれど 世間を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 汝が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にてませば

3-277
早来ても 見てましものを 山背の 高の群 散りにけるかも

7-1087(原文“槻”)
穴師川 川波立ちぬ 巻向の 弓月が岳に 雲居立てるらし

7-1276
池の辺の 小の下の 小竹な刈りそね それをだに 君が形見に 見つつ偲はむ

11-2353
泊瀬の 斎が下に 我が隠せる 妻あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも

11-2656
天飛ぶや 軽の社の 斎ひ 幾代まであらむ 隠り妻ぞも

13-3223
かむとけの 日香空の 九月の しぐれの降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ 神なびの 清き御田屋の 垣つ田の 池の堤の 百足らず 槻の枝に 瑞枝さす 秋の黄葉 まき持てる 小鈴もゆらに 手弱女に 我れはあれども 引き攀ぢて 枝もとををに ふさ手折り 我は持ちて行く 君がかざしに

13-3224
かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども

17-4024(原文“都奇”)
立山の 雪し消らしも 延の 川の渡り瀬 鐙漬かすも




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古道と関連史跡・遺跡地図

 



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事前散策ルート 飛鳥宮跡 飛鳥浄御原宮
エビノコ郭と儀式の広場 『書紀』にみる飛鳥時代の儀式・儀礼の広場 飛鳥寺西の槻の樹の広場
『書紀』にみる「槻」と「槻の樹の広場」 須弥山石 石神遺跡
小墾田宮 史料にみる相撲の記録 考古資料にみえる相撲
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