両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥・藤原の考古学


 あい坊



大阪で生まれて、大阪育ちの根からの関西人です。
考古学なる学問を少しかじり、
難波宮や大坂城、そして平城京の発掘調査にも参加しました。
私の考古学研究は難波宮から始まり、
現在は飛鳥・奈良時代の考古学を勉強中です。


イントロダクション
藤原宮の造営運河
    
新益京(藤原京)の運河
    
飛鳥の運河
    
飛鳥・藤原京の橋
  
推古朝のふたつの王宮
         10
最新の飛鳥藤原の考古学はこちら♪

あい坊による旬の話題♪
飛鳥・藤原の考古学・番外編は、こちら♪


 「イントロダクション」  (08.10.30.発行 Vol.34に掲載)

 今回から飛鳥や藤原京地域の遺跡について、最近考えていることを紹介したいと思います。題して「飛鳥・藤原の考古学」です。

 この頃、飛鳥・藤原地域の発掘成果は、新聞紙上を賑わせています。最近も檜前遺跡群の建物群や藤原宮朝庭部の運河の発表が行われたところです。このような新しい発見は、つねに日本歴史の中で位置づけられます。また、先日大阪で開催された「明日香村まごと博物館フォーラム」では、中尾芳治・積山洋・里中満智子・相原嘉之・西光慎治の各先生方によって、飛鳥と難波をテーマに講演が行われました。飛鳥・藤原の遺跡だけを研究するのではなく、難波地域と比較することによって、飛鳥の実像がより鮮明に浮かび上がってくることがよくわかった講演会でした。

 「飛鳥・藤原の考古学」は少し離れたところから、飛鳥・藤原地域の遺跡についてみていきたいと思います。新たな発掘成果はどのような意義があるのか。どのような課題が残されているのか。自由な視点で、いろいろと考えてみたいと思います。

 さて、「飛鳥・藤原の考古学」が目指すメインテーマは「日本誕生」です。この時代に「日本」という国家が誕生しました。時間の観念が確立し、役所の機構ができ、税制度も始まりました。もちろん戸籍や住所表示も決まり、「日本」と国際的に名乗ったのもこの時代です。私たちの生活様式が、ここから始まったと言っても過言ではありません。これから紹介していく遺跡群は、いずれも「日本誕生」を物語る遺跡です。このことを少しでも理解していただくことができれば、「飛鳥・藤原の考古学」の目的は達成です。





「藤原宮の造営運河

【1】 「造営運河の時期を考える」  (08.12.5.発行 Vol.37に掲載)

 奈良文化財研究所は、藤原宮の大極殿院の南側に広がる朝廷部分の発掘調査で、藤原宮造営時に資材を運んだ運河が見つかったと発表しました。幅約4m、深さ約2mの大規模な溝です。今回は7m分だけが調査されましたが、これまでに大極殿院南門や大極殿の北方、さらに藤原宮北面中門でも確認されており、藤原宮のほぼ中心線を南北500m以上貫いていたことがわかりました。

 大極殿北方の調査では先行条坊よりも新しく、一時期併存しています。このことから、最近の調査研究によると、先行条坊の施工時期は『日本書紀』天武5(676)年まで遡るとされています。そうすると運河の造営時期は天武5年以降であることがわかります。一方、埋没時期は天武末年の木簡や土器が出土すること、大極殿や大極殿院南門、藤原宮の北面中門である宮城門の造営前に埋め戻されています。普通に考えると、持統8(694)年の藤原宮遷都以前と考えられますが、記録による大極殿の初出は文武2(698)年、朝堂の初出は大宝元年(701)年で、遷都時にはまだ大極殿・朝堂院は完成していなかったと考えられます。

 実際、朝堂院の東南隅の調査では、大宝3(703)年の段階でも、朝堂院は完成していなかったことがわかっています。このことから遅くとも大極殿が記録に現れる文武2(698)年までには埋められていることが確実です。

 ただし、大極殿院の北側には、天皇の住居である内裏とその正殿があります。未調査ではあるが遷都当時、大極殿は未完成だとしても、内裏はある程度利用可能なまで完成していた可能性は高いはずです(宮内の別の場所に仮宮を作った可能性もありますが)。すると、運河の埋め戻し時期は、やはり藤原宮遷都の持統8(694)年以前とするべきでしょう。このことは出土木簡のもっとも新しいものが天武末年のものであることは、これを補強しています。

 いずれにしても、今回の運河は天武5年以降、持統8年以前のうちの短期間に使用されていたことがわかります。



【2】 「造営運河の時期を考える」  (09.1.16.発行 Vol.41に掲載)

 藤原宮の造営運河は、今回の朝廷部分の調査がもっとも南端にあたり、他にはすぐ北側の大極殿院南門、大極殿のすぐ北方、醍醐池の南岸、北面中門の5カ所です。その距離約500m一直線につながっていたことがわかっています。ではさらに下流の北方はどうなっていたのでしょうか。


藤原宮運河イラスト地図

 北面中門では後に造営された北面外濠と接続し、さらに藤原京の時代にも北へと延びています。南北大路(玄武大路)に沿って、北へと伸びます。さらに北方には耳成山があり、ここまでは少なくとも直線では伸びません。そこで推定されるのは米川です。現在の米川は途中で中の川と合流し、横大路沿いに西に流れ、耳成山を東から北へと迂回しています。しかし、本来は耳成山の南を北西に流れていました。よって北面中門からさらに500m程直線に伸び、米川に接続していたと考えられます。
 一方、南側はどうでしょうか。南側にも直線で伸びている可能性が考えられます。しかし藤原宮の南側には日高山の丘陵があり、ここまで続いていないことは確実です。さらに朱雀門の調査でも下層で運河跡は確認されておらず、ここにもなかった可能性が高い。朝堂東第六堂の調査では、調査区西端が運河推定位置にあたりますが、微妙な位置で、これをもって、ここまで伸びてなかったとは言い切れません。そこで注目されるのは、現在奈良文化財研究所調査部の建物下で見つかっている最大幅11.8mの東西大溝です。これは中の川から水を引き、西へと流れています。この大溝が途中で北へ曲がり、今回の運河に水を供給していた可能性があります。
 つまり、藤原宮造営運河は香具山西麓の中の川から分岐し、耳成山南麓の米川に接続する約2km以上と考えられます。そして、藤原宮の造営過程において、宮内になる部分は埋め戻され、外濠に接続して、運河の一部は藤原京の時代も機能していたのです。



【3】 「造営運河の性格を考える」  (09.4.3.発行 Vol.48に掲載)

 藤原宮の中央に掘削された運河は、造営資材運搬用の運河と推定されています。確かに運河からは建築部材や削り屑、馬・牛・大型犬の骨などが出土していることや、運河の使用時期からみて、藤原宮の造営用の運河であることは間違いありません。
 藤原宮の造営には地形造成の他にも、礎石や基壇化粧などの石材、柱などの木材、瓦などが大量に必要です。礎石は飛鳥産石英閃緑岩(飛鳥石)で、細川谷を中心に陸路か中の川(狂心渠)を水運で運んだと推定されます。基壇化粧は二上山の凝灰岩で、横大路を陸路で運んできたのでしょう。柱等の木材は、大垣だけでも約1200本、宮全体では数万本は必要であったはずです。『万葉集』の有名な「藤原宮の役民の作る歌」によると、琵琶湖の南の田上山で伐採され、筏にして運ばれたと考えられます。宇治川・木津川を遡り、平城山は陸路で越え、さらに佐保川・大和川・米川を遡り、今回の運河で宮中枢まで運んだのでしょう。瓦は少なく見積もっても150万枚以上必要です。瓦窯は、奈良県内では橿原市・五條市・大和郡山市、さらに大阪府堺市などにあります。これらは官道を通るほかに、河川を利用することもできます。さらに遠方では淡路島・徳島県などからも藤原宮の瓦を運んでいます。これらは大和川を水運で遡ってきたのでしょう。

2008.9.27.現地説明会にて(クリックで拡大)

 今回発見された運河は、その状況から見て大極殿・朝堂院・北面中門の造営前に埋められています。つまり、運河は直接中枢施設の建築には関係がなかったとも考えられます。しかし、石材・建築部材・瓦が、最も必要なのは、掘立柱建築の官衙ではなく、礎石瓦葺建築の大極殿院・朝堂院と宮城門・垣です。このことを考えると、やはり大極殿院と朝堂院の建築部材を搬入、現場にストックして、運河埋め戻し後に整地と基壇造成・建築を行ったと考えるべきでしょう。大垣の資材搬入には隣接する飛鳥川や中の川も利用されたのでしょう。その意味でも、宮の中枢に掘られた運河は大極殿院・朝堂院造営のための運河としか考えられません。





「新 益 京(藤原京)の 運 河」

【1】 「藤原宮外濠の機能を考える」  (09.5.15.発行 Vol.51に掲載)

 藤原宮の大極殿院から北面中門にかけて見つかっている造営運河ですが、この運河は藤原宮遷都時の持統8(694)年には埋められていたと考えられます。この運河が埋められる頃には藤原宮の大垣外周には、幅5mの外濠が掘削されていました。中の川からの東西運河や北面大垣から米川までの南北運河は、この外濠に繋がっていたことになります。同じように宮南西隅は飛鳥川に最も近く、北西隅からは外濠の水がさらに北西に排水されています。つまり、飛鳥川の水の一部は西辺外濠を通っていたことになります。


参考図:藤原宮運河

 藤原宮の外郭施設は掘立柱大垣と幅2.1mの内濠、幅5.3mの外濠、さらに外側に幅30mの空間地からなります。外濠の機能は宮と京を区分する施設であり防御施設、そして宮内や京内の排水処理をする機能も持っていました。さらにもうひとつの機能としては、大垣などの造営資材を運んだり、宮完成後にも物資の輸送に使用されたことが推定されます。
 宮の造営には膨大な資材が必要となります。この中でも瓦葺礎石建築であるのは大極殿院・朝堂院の中枢施設、宮城門と大垣である外郭施設です。中枢施設は先の運河によって資材の運搬が可能ですが、外郭施設はむしろ外濠を利用した方が位置的にも利便性が高いと考えられます。すでに幹線道路や条坊道路網はできており、陸路で運搬したものも多いが、水運も多く活用されていたのでしょう。その意味でも、外濠の造営運河としての機能は無視出来ません。このように考えると、外濠の内外にある空間地は大垣の建築スペースとして有効に利用できます。また、造営が一段落した後にも、一般の物資を運搬するのに、河川からつながる外濠の重要性は変わりません。藤原宮外濠の新たな機能の一端です。



【2】 「藤原京の堀川と市を考える」   (09.6.19.発行 Vol.54に掲載)

 藤原宮の造営運河は、中の川から分岐し、米川に接続しています。この「中の川」は藤原京時代の堀川と考えられます。次の平城京や平安京にも堀川があり、東市や西市への物資の輸送に利用されていました。このことからみても、藤原京にも堀川があった可能性があり、それが中の川と考えられます。中の川は香具山の西側を直線的に北流して横大路ちかくで東西に流れる米川に合流します。この旧流路跡が奈良文化財研究所調査部の敷地で見つかっており、東三坊大路に沿って、幅10m、深さ2mで、ほぼ直線的に流れています。川沿いには「堀川」の地名も残っており、その掘削は7世紀中頃まで遡るようです。奈良時代にも大和国の「香山正倉」がここにあり、やはり水運利用の要所であったことがわかります。つまり藤原京の堀川としても、機能していたことが伺えます。

 中の川が流れ込む米川も横大路に沿って西流しており、その後は下ツ道に沿って北上しています。このことから、旧河川を改修したり、藤原京の条坊道路や幹線道路に沿うように、流路が規制された可能性が考えられます。


参考図:藤原宮運河と市

 これらの水運を利用した藤原京の市の場所については、よくわかっていません。しかし、北面中門ちかくの調査で木簡が出土しており、宮から市に行くのに、北面中門あるいは北面東門を通行していたことがわかりました。つまり藤原京の市は宮の北側にあったことがわかります。平安京の東市には守護神として市杵島姫を祭っています。藤原京域においても市杵島神社が存在します。横大路と中ツ道との交差点付近、下ツ道と横大路の交差点の北方です。前者は中の川と米川の合流地点にちかく、後者は下ツ道と米川の合流地点にちかいことから、水運の利便性も考えられ、藤原京の市の有力な想定地といえます。

 このように藤原京の運河は、物資の輸送に利用されていました。これを最も象徴しているのが、市の位置であるといえます。



【3】 「条坊道路と下ツ道を考える」  (09.7.31.発行 Vol.58に掲載)

 新益京には縦横の碁盤目状に条坊道路が施工されています。この道路の両側には幅1.7mの側溝が併設されています。基本的に、この側溝は雨水・汚水の排水処理用の溝です。このなかでも下ツ道の両側の側溝は幅8~12m、深さ80㎝と一般の道路側溝よりも規模が大きく、単に排水用だけの側溝ではなく、運河としての機能があったことが推測されます。下ツ道は奈良盆地を南北にはしる幹線道路で、さらに東には中ツ道・上ツ道が平行してはしっています。後に下ツ道の北端に平城京がつくられ、同じ位置に朱雀大路が作られます。一方南方は紀路になり、和歌山へ伸びていきます。

 下ツ道はこれまで平城京内とその南の稗田遺跡(大和郡山市)、そして藤原京地域でしか発掘調査では確認されていません。藤原京地域では2カ所で大きな調査がされています。一つはスーパー・オオクワのある場所で下ツ道と六条大路の交差点です。もうひとつは万葉ホールの場所です。万葉ホールの北側では飛鳥川が斜めに横切っており、下ツ道の側溝が飛鳥川へと繋がっていたことは確実です。さらに下ツ道と六条大路の交差点では、下ツ道東側溝と六条大路南側溝に併走する幅4mの東西大溝があり、藤原宮南西隅の飛鳥川まで続いていたと考えられます。このように藤原京へは北の奈良や南の紀路から下ツ道を通って、人々や物資が往来し、さらに京内や宮へ運河を通って物を運ぶことができます。なお、下ツ道と飛鳥川をつなぐ大溝は十一条でも幅7m、深さ1.8mの東西溝が確認されており、これも運河あるいは、下ツ道への導水としての機能が考えられます。

 このように藤原京では河川や下ツ道の大型側溝、両者をつなぐ東西大溝、さらに藤原宮外濠によって、運河網が形成されていました。まだ未発見の運河もありますが、藤原京の水運利用については、これからも検討が必要となってきます。





「飛 鳥 の 運 河」

【1】 「日本書紀』の記録から考える」  (09.9.4.発行 Vol.61に掲載)
 
 飛鳥時代の飛鳥にも運河が存在していました。それは『日本書紀』斉明2(656)年是歳条の記録から知ることができます。
 「田身嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此をば大務と云ふ。復、嶺の上の両つの槻の樹の邊に、観を起つ。號けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。時に興事を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、『狂心の渠。功夫を損し費すこと、三萬余。垣造る功夫を費し損すこと、七萬余。宮材爛れ、山椒埋れたり』といふ。又、謗りて曰はく、『石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ』といふ。若しは未だ成らざる時に據りて、此の謗を作せるか」
 これによると①多武峰に垣を巡らした両槻宮を建設したこと、②香具山の西から石上山まで狂心渠(たぶれごころのみぞ)を掘削したこと、③この運河を使って宮東山に石垣を建設したこと、④これら一連の土木工事に対する中傷、が記されています。これらの記事については、「狂心渠」と考えられる大溝が飛鳥東垣内遺跡で確認され、「宮東山の石垣」が酒船石遺跡であることが発掘調査でわかりました。「両槻宮」は多武峰山系で未だ未発見の遺跡と考えられます。この中で、「狂心渠」は香具山の西から石上山まで運河を掘って船200艘で石上山石を積んで、運河を引っ張って、宮東山に石垣を積んだとされています。そして、この運河を掘削するのに3万人もの人夫が動員されたと記されています。
 つまり、石垣を運ぶために香具山の西から石上山まで長大な運河を建設したのです。問題は「石上山」をどことするのかですが、二つの考え方ができます。「石上山の石」を採石できる山という理解と、石上山の石を積み上げた石垣の山(酒船石遺跡)という理解です。ただし、記録からはこの結論はまだ解明できていません。



【2】 「発掘成果から経路を考える」  (09.10.30.発行 Vol.65に掲載)

 「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と推定される大溝が、飛鳥坐神社の前にあたる飛鳥東垣内遺跡で確認されています。

狂心渠推定ラインイラスト

 ここでは、飛鳥寺の東面大垣に沿って、南北の大溝が流れています。もともと小さな小川が流れていたところですが、7世紀中頃に掘削され、幅10m、深さ1.3mの大溝を造っています。その後、7世紀後半には西肩に杭を打ち、石積みの護岸を設けています。この石積みの中には天理市で採石される砂岩(石上山石)も含まれていました。これによって幅8.5m、深さ80㎝の溝になっています。さらに奈良時代になると、幅6m、深さ60㎝と小さくなっていますが、現在でも隣接地に水路が流れており、今にいたるまで利用されていることがわかります。

 では、この運河はどこからどこへと流れていたのでしょうか。これまでの調査では飛鳥東垣内遺跡よりも上流では、酒船石遺跡の東の谷、飛鳥池東方遺跡で大溝が部分的に確認されています。一方、下流部ではすぐ北の飛鳥宮ノ下遺跡、飛鳥寺北方、奥山廃寺西方などで数カ所ずつ確認されています。この経路は現在の「中の川」に重なる経路で、大官大寺の南から西に回り込み、香具山西側にある奈良文化財研究所調査部敷地の下にある南北溝に繋がると考えられます。つまり、石上山の石垣を積んだ「宮東山(酒船石遺跡)」の東から、飛鳥寺の東から北へと回り、奥山廃寺の西方を通り、大官大寺の南から西を通過、香具山の西をさらに北上して米川に繋がると考えられます。現在の中の川は狂心渠を踏襲した河川といえます。

狂心渠推定ラインイラスト2

 しかし、米川から天理市の石上までの経路は明確ではありません。米川・寺川を下り、そこから布留川を遡れば、天理石上方面へと河川で行くことができます。しかし、これでは非常に遠回りになるので、米川と寺川を繋ぐバイパス運河を掘った可能性もあります。このように河川と河川の間をバイパスで繋げば、最短距離で石上まで結ぶことができます。いずれにしても現状では、「狂心渠」とは宮東山から米川まで4.5㎞の小川を改修した運河であったと考えられます。
                         (参考イラストは、事務局が作成しました。)



【3】  「宮東山と狂心渠の造営工を考える」  (09.12.25.発行 Vol.69に掲載)

 『日本書紀』斉明紀の信憑性は、発掘調査によって裏付けられています。それは「後飛鳥岡本宮」の飛鳥宮跡、「漏刻台」の水落遺跡をはじめ、「宮東山の石垣」が酒船石遺跡、「狂心渠」が飛鳥東垣内遺跡として確認されてきました。しかし「宮東山」や「狂心渠」の記事は、斉明紀の中でも空前の規模の土木工事であることがわかります。そこでその土木量の大きさについて考えてみたいと思います。

 「宮東山」の造営にあたっては、以下の工程が考えられます。丘陵の削平→版築造成→石垣掘形の削りだし→基礎石の設置→砂岩切石の設置→裏込の転圧→化粧土の保護となり、この他に石材の採取・運搬・加工、運河の建設などが同時並行で施工される必要があります。さらに下段の列石や盛土も必要です。石垣に使用されている砂岩切石だけでも40,000個が必要となり、基礎石(飛鳥石)も1,200個以上必要です。丘陵上部の削平や運搬・版築盛土の土量もそれぞれ12,000立方メートル以上にも及びます。

 上部の石垣にかかわる人員を試算しただけでも57,000人以上の人夫が必要となり、『日本書紀』にある「垣造る功夫を費し損すこと、七萬余」と遜色ない人数となります。ただし、宮東山全体でみると、150,0000人以上の人夫が必要となり、膨大な土木量の工事であったことがわかります。

 一方、狂心渠の造営を考えると、運河の掘削には幅10m、深さ1.3mで、酒船石の東から米川までの4.5km.を掘削したとすると、585,000立方メートルの掘削土量がでます。一人1日に2立方メートル掘削したとすると、29,250人が必要になります。この数字は『日本書紀』の「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三萬余」と極めて近い数字であるといえます。

 このように極めて粗い試算ですが、『日本書紀』「斉明2(656)年是歳」にある記事は、石垣の造営の人員、運河掘削の人員など、かなり正確に記していることがわかります。そして「宮東山」全体の造営量をみた場合、さらに膨大な数字となり、斉明朝の土木工事の大きさに驚愕させられます。





「飛鳥・藤原京の橋」

【1】  「飛鳥時代の橋とその構造」     (10.4.16.発行 Vol.78に掲載)

 この「飛鳥遊訪マガジン」でも昨年、飛鳥の橋についての紹介がありました。そこで今回は飛鳥地域の橋について考えてみたいと思います。地域と地域を結びつけるのが道路です。この道路を通って、人が行き交い、物資の移動が行われます。しかし、この道路が延びていくと、途中に河川や溝などが横断しており、道が分断されます。そこに「橋」が必要となるのです。その構造や規模は様々ですが、飛鳥にも多くの「橋」があったことが推定されます。一方、範囲を広げて畿内にみられる橋には勢多橋(瀬田川)、宇治橋(宇治川)、泉橋(木津川)など、河川に架かる大型橋が記録に残されています。この中でも勢多橋は発掘調査によってその構造が判明しています。

 まず、史料から伺うことのできる飛鳥の橋についてみてみましょう。
 『日本書紀』天武元年七月の壬申の乱に関わる記事に「即ち赤麻呂・忌部首子人を遣して、古京を戌らしむ。是に、赤麻呂等、古京に詣りて、道路の橋の板を解ち取りて、楯に作りて、京の邊の街に竪てて守る。…(略)…是に、果安、追ひて八口に至りて、登りて京を視るに街毎に竪つ。伏兵有らむことを疑ひて、乃ち稍に引きて還る。」とあります。この記事から香具山南方の飛鳥中心部で、道路に架かる橋板を外して、街ごとに立てて、伏兵の楯に見せかけたことがわかります。この記事から飛鳥の道路には、規模の大小は別にしても、橋が多数あったことがわかります。そしてこの橋は石橋ではなく、板を使用した橋と考えられます。おそらく小さな溝に架けられた橋ではないかと思います。

 例えば、古代道路の基本的な構造は、路面の両側に幅1mあまりの側溝があります。つまり「橋」は道路を分断する小溝や河川にだけに架けられるのではなく、道路からこの側溝を跨いで宅地などの外側に渡るためにも「橋」が必要です。ただし、この場合は幅1m程度の溝を跨ぐだけなので、特別な構造は必要なく、板を架け渡すだけで十分です。だから、楯にする多くの橋板は、決して大規模な木造橋の橋板でなくても、このような小規模な橋であった可能性が高いと思います。これを街(交差点)ごとに立て並べていたのでしょう。

 一方、『万葉集』には飛鳥川に架かる橋についての歌があります。このなかの巻2-196に「飛鳥の 明日香の河の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける……(後略)」という歌が詠まれています。この歌の解釈にはいろいろとありますが、これによって飛鳥川には、川の浅瀬に石を幾つか並べ置く「石橋」と、深く川幅の広い場所で杭を打って橋桁を渡して、橋板を張る「打橋」の2種類があったことかかります。石橋は現在でも稲渕に残されています。さらに興味深いのは「上つ瀬に 石橋渡し」「下つ瀬に 打橋渡す」という記載から、飛鳥川の上流部に石橋、下流部に打橋があったことがわかります。この種類の違いは両者の機能上の違いが考えられます。「石橋」はその設置位置や構造上、道路から川底まで一度下り、石橋を飛び越えながら、また川岸まで登らなければなりません。さらに、増水時には石橋が水没してしまい、通行ができなくなることもあります。つまり「石橋」は少人数の徒歩による通行を背景としており、生活に密接に関わった「橋」と考えられます。これに対して、「打橋」は川底には降りず、川の両岸のレベルで渡ることができ、増水時にも対応できます。つまり「打橋」は大人数の徒歩や車両(荷車など)の通行を背景としているので、生活道路であると同時に、公道としての機能を大きく持っていると考えられます。これは官道の設置とも関わっています。そして、飛鳥の都市景観からみても、下流域の都市部の官道には「打橋」、上流域の生活道には「石橋」ということが、大勢としていえるかもしれません。
 次回は、考古学的に推定される飛鳥の橋についてみてみたい。



【2】 「飛鳥時代の道路と橋」    (10.8.20.発行 Vol.87に掲載)

 『日本書紀』や『万葉集』からみた橋の構造はわかりましたが、実際に発掘調査の成果からはいかがであろうか。平城京では南端に近い東堀河に架かる橋が見つかっています。幅9mの運河には溝中に杭を打ち込み掘立柱の橋脚としています。橋の上部構造は欄干などはなかったと復原されますが、平城宮に近い二条大路では瓦製擬宝珠が出土していることから、欄干を持った立派な木造橋であったことがわかります。さらに滋賀県の川幅100mを超える瀬田川に架かる勢多橋は、上部構造は不明なものの、丸太を並べた上に長六角形に組んだ角材を河の流れと並行して組み、これらの上に橋脚を建てています。基礎部分は浮力や河の流れによって流れないように、大量の山石によって覆われていました。このような特殊な橋脚基礎構造は我が国には例がなく、新羅慶州の月精橋に類例がみられます。新羅との技術的な関係が注目されます。

 これに対して、飛鳥地域での橋の発掘例はほとんどありません。唯一、山田寺南門から参道へとわたる橋がある程度で、これも溝に杭を打ち、板を架け渡した小規模なものです。

 では、飛鳥の橋はどこに架けられていたのでしょうか?そこで橋の推定される位置を検討するためには、まず飛鳥地域の道路網を復原しなければなりません。詳細は別にゆずるが、飛鳥周辺には下ツ道・山田道、さらに下ツ道から川原寺前を通過して飛鳥宮へと入る東西道を中心に、寺院周辺などに道路網が復原されます。特に飛鳥川を跨ぐ道路がいくつかあり、そこに橋が推定されます。

 (1)雷丘西方の山田道との交差点。
 (2)飛鳥寺南西の甘樫丘東麓への交差点。
 (3)川原寺と橘寺の間の東西道路との交差点。
 (4)エビノコ郭南側の唯称寺川北岸との交差点。
 (5)飛鳥宮東外郭塀の南延長部との交差点です。
  この他にも狂心渠と山田道との交差点なども推定されます。

 (1)~(3)については、現在でも近辺に橋が架けられています。この中でも(3)の橋は記録にも残されています。『日本書紀』持統元年八月条の天武天皇崩御に際して「京城の耆老男女、皆臨みて橋の西に慟哭る。」とあり、この橋こそ(3)の橋と推定され、飛鳥宮の対岸にあたる橋の袂で人々が泣いていたことがわかります。いずれにしても、飛鳥川に架かる橋が、この地域では最も大きな橋と考えられますが、遺構としては、まだ確認されていません。また、小さな溝を横断する橋は、前回推定した『日本書紀』天武元年七月条にある楯に転用できる橋板程度であろうと考えられます。

 では、飛鳥の北方に広がる新益京(藤原京)の橋はいかなるものであろうか?新益京は条坊制都城である人工的な計画都市、つまりニュータウンです。その条坊構造は「碁盤の目のような道路」と表現されます。道路の両側には側溝があり、雨水や宅地の汚水を河川へと流さなければなりません。そのために条坊交差点では路面を横断して側溝を貫かなければなりません。そこに橋が必要となります。

 これらの道路や側溝の管理は、時代が少し新しくなりますが、『養老令』によると、道路や橋の管理は京職が、重要な道路や橋の修理は木工寮が、街路の日常的な維持・清掃は周辺住民が行うことが記されています。
 これまで条坊交差点で考古学的に確認される橋の構造は、いずれも側溝の際、あるいは溝中に杭を打った痕跡で、この上に板を架けたと考えられます。橋の必要な交差点を横断する溝に何の痕跡もないものも多くあり、単に板を架け渡しただけの同様な構造だったと考えられます。

 今のところ、新益京では大規模な橋は確認されていません。これは藤原宮周囲の外濠でも同様に杭を打った痕跡しかみつかっていません。しかし、新益京内には飛鳥川をはじめいくつかの大型河川が流れており、道路と河川の交差点には橋が想定されますが、今後の考古学的な調査の進展が望まれます。

 このように橋は、道路と河川や溝などが交差する部分に設置されます。さらに道路から寺院や宅地に入る通路も同様で、通行にあたって必要なものであり、人や物の移動だけでなく、情報の伝達にも利用される道路にとって重要な要素です。





「推古朝のふたつの王宮」

【1】推古天皇の時代      (10.10.29.発行 Vol.92に掲載)

 飛鳥の歴史は、飛鳥寺の建立から始まります。そして、593年に推古天皇が豊浦宮で即位してから約100年間、飛鳥地域に歴代の王宮が次々と営まれ、多くの寺院や関連施設群、そして奥津城である古墳が築造されました。このことは『日本書紀』の記録だけでなく、発掘調査によっても明らかになっています。しかし、これまでの発掘調査で解明されているのは、飛鳥時代でも中頃から後半にかけて、つまり斉明朝から天武・持統朝が中心です。近年でこそ蘇我蝦夷・入鹿と同時代の遺跡も解明されつつありますが、推古天皇の時代はまだ謎が多い。今回は推古天皇の二つの王宮である豊浦宮・小墾田宮の意義について考えてみることにします。まず、その背景となる推古天皇の時代がどのような時代であったかをみてみたいと思います。

 ・推古天皇の宮と寺
 この時代の幕開けは飛鳥寺で始まります。飛鳥地域で最初に建てられた巨大な建築物は、宮殿ではなく、崇峻元年(588)に発願された飛鳥寺でした。この段階では、天皇はまだ飛鳥に王宮を営んではおらず、現在の桜井方面にいました。飛鳥寺は蘇我氏が建立した我が国初めての七堂伽藍を備えた寺院でした。おそらく蘇我氏は自分の支配する範囲に巨大な寺院を建立し、そこに天皇を呼び込もうと計画したと思われます。実際、崇峻天皇が暗殺された後、推古元年(593)に推古天皇は豊浦宮で即位しています。ここに初めて天皇家が飛鳥へと進出してきたのです。推古9年(601)には推古天皇を蘇我馬子と共に支え、補佐してきた厩戸皇子(聖徳太子)が、飛鳥から離れた斑鳩に宮と寺を建立します。斑鳩宮と斑鳩寺(法隆寺前身寺院)です。推古13年(605)には上宮王家は斑鳩へと移り住んでいます。厩戸皇子が斑鳩に宮と寺の造営を始めた同じ年、推古天皇も耳梨行宮に遷ります。この遷宮の理由は明らかではありませんが、一説には小墾田宮への遷宮に向けての準備ではないかとも言われています。そして、推古11年(603)には小墾田宮へと遷っていきました。なおこの頃、飛鳥寺の他に豊浦寺・奥山廃寺・和田廃寺・橘寺などでも小規模な堂があったか、すでに本格的な造営が始まっていたことも、発掘調査で出土する瓦の文様から伺えます。

 ・推古朝の内政
 このような王宮では、どのような政治が行われていたのでしょうか。ここではいくつかの政策について紹介します。推古天皇は即位してすぐ、推古2年(594)に三宝興隆の詔をだします。飛鳥寺をはじめとして、寺院・僧侶そして仏法の振興を唱えたもので、推古32年(624)には少なくとも46の寺院が建立されていたことがわかります。さらに推古11年(603)には中下級官人を対象とした冠位十二階の身分制度を制定します。これによって、人民の序列化がはじまり、翌推古12年(604)には憲法十七条を発布し朝礼制度を改定して、法治国家への道を歩みはじめます。そして推古28年(620)には、『天皇記』『国記』などの史書編纂を開始します。これらの史書は乙巳の変に際して、蘇我蝦夷が自宅の『天皇記』などを焼くという記事があることから、蘇我氏の邸宅に保管されていたことがわかります。

 ・推古朝の外交
 では、当時の国際関係はどうでしょうか。推古朝には5世紀の倭の五王の時代から、久しぶりに公式な国使が派遣されました。遣隋使です。推古朝には数え方にもよりますが、4回の遣隋使が派遣されています。このうち推古8年(600)の第1回遣隋使は、日本側の記録にはなく、『隋書』倭国伝に記されているだけです。この時、隋の文帝に日本の政治の様子を聞かれた国使は「天を以て兄となし、日を以て弟となす」と答え、「大いに義理なし」として改めるように言われたとされます。おそらく、日本側にとってはあまり良くない内容だったために、日本側の記録から抜けたのかもしれません。続く推古15年(607)の第2回遣隋使は、小野妹子を派遣しました。ここで有名な「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す」という国書を携えていきます。この「日出づる所の天子、日没する所の天子」の国書について、隋の煬帝は激怒したとされますが、近年の研究では、「日出づる処……日没する処……」という表現に怒ったのではなく、当時の隋は中華思想によって、皇帝が最高位であるので、周辺国の大王はその臣下であるという意識がありました。つまり「天子」というのが、隋の他にあってはならないという点にこだわったものと考えられています。推古16年(608)の遣隋使は、小野妹子と共に来日した斐世清を送るためにだされたもので、この中には、後の大化改新にあたって活躍をすることになる僧旻、さらには南淵請安なども留学生として派遣されています。そして隋に対して礼をとる内容になっていることから、東アジアの中華世界へと参入していきます。

 このように推古朝の内政は、遣隋使という外交と密接にリンクしながら、東アジア世界の中で発展していくことがわかります。



【2】豊浦宮の実像     (11.4.15.発行 Vol.105に掲載)

 推古天皇は、推古元年(593)に豊浦宮を王宮とし、そこで即位しました。この豊浦宮、そして豊浦寺の場所は明日香村豊浦にある向原寺の場所と考えられています。しかし、この豊浦宮については、史料にもわずかしか現れず、発掘の成果からも、まだその構造を明らかにできてはいません。そこで、豊浦宮の跡地に建立されたとされる豊浦寺の歴史をみることによって、豊浦宮の歴史についてもみていくことにしましょう。

 ・豊浦宮・豊浦寺の歴史
 豊浦寺の創建の経緯について記したものには、次の二つがあります。『日本書紀』によると、欽明13年(552)に聖明王が献上した金銅仏を蘇我稲目が小墾田家に安置しました。その後、これを向原の家に移して寺(豊浦寺)としたとします。さらに敏達14年(586)に物部守屋らが頭注を倒して仏殿を焼き、仏像を難波の堀江に捨てたとします。一方、『元興寺伽藍縁起並流記資材帳』によると、538年に牟久原殿に仏殿が設けられ、これが敏達11年(582)には、桜井道場と呼ばれ、同15年には桜井寺と改称し、等由羅寺に発展したと記しています。また、豊浦宮を豊浦寺に改めたとも記しています。

 豊浦寺の創建については、これら二つの記事によって、おおよその経緯は伺えますが、年代的には問題があります。一方、『日本書紀』などの正史に豊浦寺が記載されるのは、推古36年(628)まで下ります。推古36年(628)に山背大兄王が蘇我蝦夷の病の見舞いに来たときに、豊浦寺に滞在した記事があります。この頃には山背大兄王が滞在できる堂がすでにあったことがわかります。おそらく、金堂だったのでしょう。そして舒明6年(634)には豊浦寺の塔の心柱を立てた記事があり、塔の建立がこの頃であったことになります。朱鳥元年(686)には、天武天皇の追福のため、飛鳥五大寺のひとつである豊浦寺でも無遮大会が行われていました。

 ・豊浦宮・豊浦寺の発掘成果
 これまで、豊浦宮と豊浦寺の歴史を見てきました。豊浦宮が豊浦寺の前身施設であったことはわかります。しかし、豊浦宮についての実態はわかりません。ここでは豊浦寺の発掘成果と、それに付随して断片的にわかってきた下層遺構、つまり豊浦宮の発掘成果について紹介しましょう。

 まず最も古い遺構は6世紀後半頃のものです。現在の向原寺(豊浦寺)境内で、古代寺院の基壇(講堂)がみつかりました。さらにこの下層、つまり講堂建築以前の地層で、6世紀後半の掘立柱建物がみつかっています。建物の周囲には石敷が広がっていました。建物の周囲を石敷舗装するのは、飛鳥の宮殿の特徴であり、豊浦寺の下層から見つかったことから、豊浦宮の有力な候補地といえます。また、これと同じ時期の石組溝が甘樫坐神社境内でも見つかっています。

 これらを壊して、寺院が建立されました。豊浦寺の伽藍配置はやや特殊で、解明されていない点もたくさんあります。基本的に主軸は正南北からわずかに西に振れます。これは豊浦の現在の集落方位や地形に符合するものです。堂塔は南から、塔、金堂、講堂と並びます。しかし、塔については、発掘調査が古いこともあって、金堂からやや離れ、方位も少し異なっています。今後の再調査が望まれます。また、回廊はまだ確認されていません。甘樫坐神社境内で確認された建物が、回廊の可能性も有りますが、講堂のさらに北まで延びることから、尼房と考えられています。このように、伽藍配置の詳細は、今後解明していかなければなりません。

 豊浦寺の堂塔の中で、最初に建てられたのは7世紀初頭の金堂です。向原寺境内の南側(現在の集会所)の場所で、東西17m、南北15mの規模です。周囲には犬走の石敷もありました。金堂が造営された時期は、出土瓦からみて、ちょうど推古天皇が豊浦宮から小墾田宮へ遷った時期と一致します。7世紀前半には塔が建てられました。現在も塔心礎が集落内の民家の横に据えられています。史料では舒明6年(634)に心柱の立柱記事があり、符合します。講堂と尼房の建立も7世紀前半で、塔の建立からそう遠くない時期です。朱鳥元年(686)の五大寺での無遮大会の時には、豊浦寺主要伽藍は完成していたと考えられます。その後、奈良時代には金堂周辺に瓦を敷いたり、講堂の雨落溝を改修したりしています。

 このように豊浦寺については、史料や発掘成果から、その様子が徐々に判ってきましたが、推古の最初の王宮である豊浦宮については断片的な情報しかありません。その規模も、地形からみて、最大でも南北150m、東西80m以内の範囲と考えられます。



【3】小墾田宮の実像      (11.5.27.発行 Vol.108に掲載)

 推古11年(603)、推古天皇は小墾田宮へと王宮を遷しました。この小墾田宮の位置については、長らく豊浦寺の北方にある古宮土壇周辺(古宮遺跡)と推定されてきました。しかし、昭和62年に、雷丘の南東で奈良時代の井戸が発見され、その中から「小治田宮」と記された土器が多数出土しました。これによって、奈良時代の小治田宮については雷丘東方一帯にあることが判明したのです。さらに遡って推古朝の小墾田宮も雷丘周辺に推定されることになりました。なお、小墾田宮の名称は飛鳥時代の『日本書紀』には「小墾田宮」、奈良時代以降の『続日本紀』には「小治田宮」と記されています。共に、同じ宮を指していることから、ここでは飛鳥時代を「小墾田宮」、奈良時代は「小治田宮」を使用することにします。

 ・小墾田宮の歴史
 小墾田宮は、推古11年(603)に遷した王宮です。その宮の構造は、隋使である裴世清の入京の『日本書紀』の記事などから、岸俊男先生によって復元されています。南に門があり、そこを入ると庭が広がっています。そして、その庭には庁と呼ばれる建物が東西に配置され、正面にはまた門があります。その門を潜ると、天皇の居住していた大殿があるという構造です。これは後の内裏・大極殿・朝堂院の祖型になると考えられています。その後、小墾田宮は皇極元年(642)に、一時的に遷ったという記載があっ
 たり、大化5年(649)には蘇我倉山田石川麻呂の子である興志が小墾田宮を焼こうとした記事があることから、何らかの形で宮は存続したものと考えられます。斉明元年(655)には小墾田に瓦葺の宮殿を造ろうとしています。宮殿に瓦が葺かれるようになるのは藤原宮からで、まだ、瓦葺の宮殿の造営は早すぎたかもしれません。結局、これも断念しました。また、壬申の乱の時には、小墾田に兵庫、つまり武器庫があったことが記されていますが、これが宮の中の武器庫なのか、小墾田地域にあった武器庫なのかは、わかりません。

 その後、都が藤原京・平城京へと遷ったこともあり、しばらくは記録に小墾田宮は現れません。次に記録にでるのは、天平宝字4年(760)の淳仁天皇の時です。このとき播磨・備前・備中・讃岐からの糒3000を小治田宮に収め、天皇も5ケ月にわたって、小治田宮に滞在していました。ちょうどこの時期、平城宮の改造を行っていた時期なので、これに関連した行幸だと思われます。この記事から奈良時代の小治田宮は天皇が長期にわたって滞在でき、その間の政治を行える諸施設があったことになります。さらにたくさんの物を収納する倉庫の存在も伺えます。また、天平神護元年(756)には称徳天皇が紀伊国への途中に小治田宮で二泊しています。

 このように記録からみるかぎり、小墾田宮は推古天皇の王宮として作られ、飛鳥・奈良時代を通して、離宮などとして改修しながらも存続していたことがわかります。

 ・小墾田宮の発掘成果
 最初にみたように、小墾田宮の候補地は2カ所あります。古宮遺跡と雷丘東方遺跡です。まず、古宮遺跡の発掘成果をみてみましょう。

 古宮遺跡は豊浦寺の北方、阿倍山田道の北側にあります。有名なのは古宮土壇で、これが宮殿にかかわる遺構と考えられていました。さらにこの周辺からは、現在宮内庁が所蔵している金銅製四環壺が出土したという伝承もあります。ここでは大きく7世紀前半・後半・藤原京の頃の遺跡が見つかっています。7世紀前半の遺跡は石組小池や石組小溝を中心とした苑池の遺跡です。多くのものが、正方位から振れた方位をしており、旧来の地形に即した配置です。これに対して7世紀後半になると正方位の建物や塀・溝が現れます。さらに藤原京の時代にも建物などが建てられていますが、長くは続きません。なお、古宮土壇は調査の結果、平安時代の土壇であることがわかりました。

 このように古宮遺跡では、推古天皇の時代の庭園の遺跡が見つかったり、7世紀後半の遺跡はありますが、宮殿の中心部分は未確認で、さらに奈良時代の小治田宮の時期の遺跡も確認されていません。

 このような中、雷丘の南東で「小治田宮」墨書土器が見つかり、にわかに注目されるようになりました。雷丘東方遺跡では、まず、7世紀前半の池や溝が見つかっています。池と考えられるのは貼石のごく一部だけしか確認されていませんが、苑池にかかわるものと思われます。また、溝は雷丘北東で見つかったもので、南東から北東へと斜行して流れる堀割状の溝です。7世紀中頃になると、雷丘のすぐ南で苑池の小池と石敷きが見つかっています。そして、7世紀後半には南北に長い建物などが散在するようになります。8世紀後半には「小治田宮」墨書土器を出土した井戸をはじめ多くの建物が見つかっており。その中には礎石建ちの倉庫も複数含まれています。

 このように、雷丘東方遺跡では推古朝から奈良時代までの遺跡が継続して営まれており、この中には「小治田宮」と記した墨書土器までありました。この土器の年代は8世紀末のものですが、井戸枠の材木を伐採した年代は、近年急速に発達した年輪年代法によると758+α年ということがわかっています。このαを2年とすると、760年となり、まさに淳仁天皇が小治田宮へ行幸するために作られた井戸ということになります。そして、奈良時代の小治田宮の範囲は雷丘を取り込んで、飛鳥川までの300m四方と考えられます。これらは現在の水田地割り、つまり条里地割りに則って作られていたことはわかります(飛鳥時代の小墾田宮はわかりません)。

 いずれにせよ、小墾田宮は雷丘周辺に推古朝以来、奈良時代まで継続してあった可能性が極めて高くなったといえます。



【4】推古朝の宮殿をめぐる諸問題・小墾田宮の構造 
                  (11.7.22.発行 Vol.112に掲載)

 これまで、推古天皇の王宮である豊浦宮と小墾田宮について紹介し、前者は豊浦寺の下層にほぼ推定できましたが、後者では古宮遺跡と雷丘東方遺跡の二カ所にその候補地があることをみてきました。特に、雷丘東方遺跡が有力ですが、まだ課題もあり、特定するまでには至っていません。これらの諸問題について若干の検討をしたいと思います。

・従来の小墾田宮の構造復元案
 推古朝小墾田宮の宮殿構造については、発掘調査によってはまだ判っていません。しかし、すでに岸俊男氏によって『日本書紀』の記事の検討から、復元案が提示されていました。この復元案がこれまでの定説となっていたのです。まずこの案について紹介したいと思います。『日本書紀』の記事から小墾田宮の構造を考える記事は、推古16年8月12日条、推古18年10月9日条、そして舒明即位前紀の3カ所にみられます。
 推古16年の記事は遣隋使と共に裴世清が来日し、小墾田宮で国書を献上した記事です。ここでは、隋からの裴世清らを朝庭に呼んで、庭中に隋からの贈り物を置き、使いの主旨を述べ、国書を阿倍鳥臣に渡しています。さらに阿倍鳥臣から大伴連に国書を渡し、大伴連は大門の前の机に置き、門に向って、その内容を述べるという儀礼が行われていました。この記事から、南に「朝廷」と呼ばれる空間(広場)があり、北に「大門」があることがわかります。さらにその内容からみて、大門の奥に推古天皇が居たことが容易に想像できます。

 次に推古18年の記事は、新羅・任那の使いが勅旨を奏上した記事です。ここではまず、朝庭で礼をし、秦造河勝らに導かれて南門から入って、庭中に立ちます。そして、ここで秦造河勝ら使いの主旨を述べ、河勝らはそれを「庁」と呼ばれる建物の前に立つ蘇我蝦夷大臣らに伝えるという儀式が行われていました。この記事から、「南門」を入ると「庭」があり、その庭には「庁」と呼ばれる建物があることがわかります。

 最後は舒明即位前紀の記事で、山背大兄王が病の推古天皇を小墾田宮に訪ねる記事です。山背大兄王は小墾田宮の門の外まで駆け参じます。そこで中臣連が禁省より出てきて、天皇の許可がでたので、閤門から中に入れ、采女が中庭に迎えにでて、大殿に引き入れていました。この記事からは「閤門」と呼ばれる門の奥には、天皇の寝起きしている「大殿」があり、その前には小さな「中庭」があることが判ります。

 岸俊男氏はこれらの記事がすべて小墾田宮構造を示す記事と考え、さらに当時発掘調査で判明していた藤原宮や難波宮の構造と対比して、図(史料にみる小墾田宮と飛鳥板蓋宮復元案の左)のような構造が復元されました。それによると、「南門」を入ると「朝庭・庭」があり、この庭に「庁」という建物があり、さらに奥に「閤門・大門」という門があり、この内側が「禁省」で、天皇の居住する「大殿」や「中庭」がありました。そして、これが後の宮殿配置の原型になったと考えられていました。


・新しい小墾田宮の構造復元
 このような岸俊男氏の小墾田宮復元案は定説として考えられてきました。しかし、この復元案も断片的な史料からの解釈で、別の解釈も成り立つことが幾人かの研究者によって指摘されています。さらに飛鳥宮の発掘が進むにつれて、宮殿の殿舎配置の変遷からの検討も進んでいます。そこで宮殿配置の成果を基に、史料を読み直してみると、ひとつの点が注目されます。推古16年の記事は大門の奥に天皇が推定され、儀式の主催者が天皇であったことがわかるのに対して、推古18年の記事では、天皇が現れず、庁の前にいる大臣が主催者であったことです。推古16年と18年の記事は、同じ宮殿中心部で行われたものではない可能性があります。二つの記事は別の場所の可能性があるのです。そして、舒明即位前紀の記事は天皇が病で寝込んでいることから、天皇の居所であることがわかります。よって、推古16年と舒明即位前紀の記事は小墾田宮の中心部の構造を示すものの、推古18年の記事は小墾田宮の中心部ではないと解釈することも可能となります。そこで、推古16年と舒明即位前紀の二つの記事から小墾田宮の構造を復元すると、まず「南門」を入ると儀礼を行う「庭」があります。その正面に「閤門」と呼ばれる門があり、この奥が「禁省」と呼ばれる天皇のプライベート空間です。ここに天皇の居住している「大殿」とその前庭である「中庭」があったと考えられます(宮中枢部の変遷模式図の左上)。


 つまり、後の朝堂院に該当する施設はまだなく、天皇の居所である内裏に相当する施設しかないのです。そして、これは皇極天皇の飛鳥板蓋宮や斉明天皇の後飛鳥岡本宮の基本構造とも共通するものです。

 このように小墾田宮の構造は、まだ発掘で確認されていないものの、飛鳥宮や難波宮・藤原宮の成果と、史料から伺うことのできる構造を基に復元することが可能となります。



【5】推古朝の宮殿をめぐる諸問題・「小治田宮」墨書土器出土の意義
                  (11.9.16.発行 Vol.116に掲載)

 前回まで、すでにみたように、奈良時代小治田宮が雷丘周辺に推定されるようになりました。それは整然とした建物群や礎石倉庫群をはじめ、平城宮や難波宮と同じ型式の瓦が出土していたことから推測されました。さらにこれを決定づけたのが「小治田宮」と墨書された多数の土器の出土です。しかし、「小治田宮」と書かれた土器が出土したからといって、確実にここが小治田宮と言えるでしょうか。例えば、小治田宮からこの地に土器が運ばれてきた可能性や、ここから小治田宮へ運び出される可能性。さらには、この地が別にある小治田宮を支える重要な施設であった可能性など、まだ多くの可能性が残されています。そこでこの墨書土器の出土した意義と、ここが小治田宮であった可能性を検証しておきましょう。

井戸の概要と出土状況
 雷丘東方遺跡の概要はすでにみました。この遺跡の南部、ちょうど「上山」丘陵(雷丘のすぐ南にある丘)の東裾あたりに「小治田宮」墨書土器を出土した井戸があります。この井戸は南北4.8m、東西4.5m、深さ2.6mの穴に、長さ1.8~1.9m、幅25~30cm、厚み5cm程度の桧板材を組んで、内寸1.68mの井戸枠としています。井戸底には玉石を10cm程敷き詰めていました。井戸枠の周囲には、四隅に柱を建てた穴があり、覆屋が架けられていたこともわかります。この大きさの井戸は、平城京でもあまりみられず、規模の大きな部類、つまり重要な儀式に使われたか、この井戸水の使用する人物が高貴な人物であったことを伺わせています。
 この井戸の堆積土は大きく、下層・中層・上層・最上層と分かれています。下層は井戸の使用時に堆積した土、中層は井戸を廃絶する時に一気に埋めた土、上層・最上層は廃絶後のくぼみに入れた土と考えられています。
 墨書土器の多くは、石敷直上と下層堆積土から出土しており、完全な形のものが多い(破損していても完形に復元できるものが多い)。つまり、井戸の使用中に、壊れた土器を投棄したのではなく、井戸廃絶直前に、使用しなくなった完形の墨書土器をまとめて投棄したことがわかります。

土器と墨書
 では墨書土器そのものをみてみましょう。「小治田宮」墨書土器は、これまでの研究により、8世紀末頃、ちょうど都が長岡京にあった頃のものです。さらに下層堆積土から出土した土器は9世紀前半頃のものまで含まれていたことから、この頃まで使用されていたことがわかります。ただ、残念なことに井戸の作られた時期は、土器からはわかりません。しかし、近年急速に進歩した年輪年代法による測定によると、この井戸枠材の伐採年代は758年という数字が出ており、樹皮が残されていなかったことから、もう数年の+αが考えられます。つまり760年頃の築造といえます。この数字は後に重要な意味をもってくるのです。

 さて、この井戸から出土した墨書をみると、23点の墨書土器があります。このうち文字の判明するものは、「小治田宮」「小治宮」「副」「福嗣」「宮」「城下」などと記されていました。「小治田宮」「小治宮」は下層からの出土に限られますが、他の文字は上層からも出土しています。つまり、井戸の開削・使用時と廃絶時には同じ性格の施設が一貫してあったことがわかります。

 続いて、文字そのものについて見ていきましょう。墨書を詳細に観察すると、文字の大きさや書風によって、4種類に分けることができます。これらのうち、文字の大きさの違いは筆の違い、つまり筆の太さが影響します。同じ人物であっても筆が代われば、文字の大きさが変わります。これに対して、書風の違いは書き手の違いを示しています。今回の分類では、文字の大きさと書風はほぼ一致しており、4種類の分類は筆及び書き手の違いとみられます。

墨書分類図
クリックで拡大します。

 ここでさらに重要なのは、墨書の分類が、器種や土器の産地を越えてみられることです。つまり、産地と墨書の分類が対応していれば、各生産地で墨書され、小治田宮へ運ぶ目印とされていたことも考えられますが、少なくとも各産地から集められた土器に、出土地で墨書をしたことがわかるのです。つまり、この遺跡で「小治田宮」と墨書する必要があったわけです。では、土器に墨書をする必要性とは何でしょうか。とくに、都や宮殿で土器に墨書するのは、ある組織集団内での土器管理に関する情報の伝達手段と考えられています。つまり、雷丘東方遺跡で「小治田宮」と墨書された土器が出土したことは、様々な検討を踏まえて、その他の可能性を排除でき、ここが奈良時代の「小治田宮」であったことを示しているのです。このことは「日本霊異記」に、「雷丘は古京小治田宮の北にあり」という記載からも裏付けられます。そして、奈良時代の淳仁天皇が小治田宮に行幸したのは760年、つまりこの井戸は、天皇行幸のために作られた井戸といえるのです。




【6】推古朝の宮殿をめぐる諸問題・石神遺跡B期の位置づけ
                  (11.11.25.発行 Vol.120に掲載)

 小墾田宮が雷丘周辺に推定されるようになると、その南東にある石神遺跡の性格がにわかに注目されてきます。この遺跡は斉明朝の迎賓館として有名ですが、『日本書紀』の壬申の乱の記事に「小墾田兵庫」という施設が記されており、石神遺跡との関連も注目されるのです。

 石神遺跡の概要石神遺跡は飛鳥寺の北西、水落遺跡の北に広がる遺跡です。明治35・36年には、遺跡南端の小字「石神」の水田から須弥山石や石人像と呼ばれる噴水石造物が見つかっています。これまでの発掘調査により、A~C期の3時期に区分されています。A期は斉明天皇の時代で、多くの建物が計画的に配置され、水路網や石組池、そして先の石造物もこの遺跡を飾るオブジェであったと考えられています。さらにここから東北産の土器や韓国新羅産の壺・硯などが出土しており、『日本書紀』に幾度となく記載される、蝦夷らを饗宴した場であると考えられています。なお、水落遺跡もこの時期に含まれます。B期は天武天皇の時代を中心として、A期の施設や水時計を撤去し、新たに全域を整地して建物を建てています。建物は総柱建物や南北に長い建物が多く、いずれも倉庫など収納施設と考えられます。また、北部地区では多くの木簡が出土しており、また南部では鉄鏃などの武器が出土しています。C期になると、さらに建物を建て替え、藤原京時代の役所と考えられています。

石神遺跡B期の性格
 この遺跡のA期は、これまで斉明朝の迎賓館と考えられていました。では、A期を全面的に撤去して作られたB期はどのような性格であったのでしょうか。ここで注目されるのは『日本書紀』壬申紀にある「小墾田兵庫」です。石神遺跡の南半での調査では多くの鉄鏃が出土しています。特に、第4次調査では100本以上の出土があり、その出土遺構はC期の整地層や土坑からです。よって、この鉄鏃の本来の帰属時期はA期あるいはB期と考えられます。そしてB期の造営に伴う整地層などからは出土していないことを考えると、B期に限定できそうです。この時期の建物は総柱建物、つまり倉庫です。また側柱建物も、南北に長い建物ばかりで、一般的な建物ではなく、やはり収納施設としていた可能性が高いと考えられます。そうすると鉄鏃を収納していた施設が建ち並んでいた可能性が考えられるのです。つまり「小墾田兵庫」であった可能性が高いのです。しかし、ここを「小墾田兵庫」とするためには、まだ二つの課題を克服しなければなりません。それは石神遺跡B期の造営時期の特定と小墾田の地域の範囲の問題です。今回は造営時期の問題を考えてみましょう。

石神遺跡B期の造営時期
  石神遺跡はA期が斉明朝、B期が天武朝、C期が藤原京期と一般に考えられています。これは発掘成果からも大きく変更されることはありません。しかし、先にみたように、石神遺跡B期を壬申紀にあらわれる「小墾田兵庫」とするためには、672年がB期に含まれる必要があります。B期が天武朝を含む時代であることは間違いありませんが、その造営時期がどこまでさかのぼるかが問題となります。これまで、B期の造営年代について特定した研究はありません。また、特定できる材料もないのです。そこで南にある水落遺跡の廃絶時期からB期の造営時期の上限を考えてみたいと思います。

 石神遺跡のA-3期は水落遺跡A期(漏刻)と一連となって機能していました。漏刻の設置時期は斉明6年(660)年です。この遺跡は発掘調査で出土した土器からみて、極めて短期間だけ使用されていたことがわかっており、漏刻そのものも、地下構造を残して、上部は撤去されていました。この遺跡から北にある石神遺跡A-3期は一連で造営されており、廃絶も一体的です。漏刻の廃絶の下限は、天智天皇が大津宮に漏刻を設置した天智10年(671)となります。この漏刻は飛鳥から移した可能性が高いと考えられているからです。しかし、漏刻を近江遷都後も飛鳥に残して、大津へ一定期間運ばなかったとも考えられず、とすれば、近江遷都の天智6年(667)3月が漏刻機能停止の下限と考えられます。このことは石神遺跡A期の井戸の廃絶年代が、出土土器から660年代後半とすることとも一致しておりB期の造営をもっとも古く見た場合、この時期まで遡る可能性があります。

 このように考えてよければ、672年の壬申の乱の時には、石神遺跡はB期に含まれており、「小墾田兵庫」の年代的な課題は解決することになります。




【7】推古朝の宮殿をめぐる諸問題・小墾田と飛鳥
                  (12.1.20.発行 Vol.125に掲載)

 石神遺跡B期が史料にみる「小墾田兵庫」とすると、石神遺跡が古代の「小墾田」にあったとしなければなりません。今回はこの問題を考えてみましょう。

飛鳥地域の地域名称
 現在「飛鳥」と言えば、一般的に明日香村を中心として、橿原市・桜井市・高取町のそれぞれの一部を含む範囲と考えられています。これは広い意味で飛鳥を指す場合は正しいのですが、厳密な意味で飛鳥時代に「飛鳥」と呼ばれていたのは、飛鳥寺と飛鳥宮のある地域だけでした。その周辺には様々な地域名称があったのです。例えば、「豊浦」「川原」「橘」などです。これらは現在にも残る地名もありますが、「小墾田」など現在には伝わらない地名もあります。

 この古代地域名称を考える材料は、史料にあらわれる宮殿名や寺院名、そして御陵名、万葉集の地名が参考になります。まず「飛鳥」には飛鳥岡本宮や飛鳥板蓋宮、飛鳥寺があります。その西側には川原宮や川原寺のある「川原」、橘寺のある「橘」、飛鳥の南方の奥飛鳥方面には嶋宮のある「嶋」、坂田寺のある「坂田」や「南淵」、飛鳥の北東には『万葉集』でも詠まれている「大原」「八釣」、山田道沿いには山田寺のある「山田」、豊浦宮や豊浦寺のある「豊浦」、山田道と下ツ道の交差点である「軽」があります。一方、飛鳥の南西方向をみると「檜隈」という地名があります。
 ここには東漢氏の氏寺である檜隈寺や欽明・天武持統・文武天皇陵である檜隈坂合陵・檜隈大内陵・檜隈安古岡上陵などがあります。下ツ道の西側には、見狭(見瀬)・越智・佐田などの地名があり、多くの古墳が築造されました。

 このように現在の地名などにその名称が残されている地域もありますが、現在は明確な地名として残されていないが、おおよそ推定できる地域もあります。「小墾田」もそのひとつです。小墾田宮が雷丘周辺に推定されたことから、「小墾田」は飛鳥の北側に推定できるようになりました。また、稲淵では長屋王家木簡や龍福寺竹野王石塔などから、平田峠の東側に「朝風」、橿原市植山古墳が推古天皇と竹田皇子の合葬陵の可能性が指摘されていることから甘樫丘(特に西半)が大野、桜井市の吉備池廃寺が百済大寺と考えられることから、「百済」が香久山北東に推定できます。

 このような地域名称が少しずつですが、復元できるようになると、歴史の理解も空間的な理解が可能となります。よりビジュアルな歴史復元が可能となるのです。

地域名称の境界
 では、地域名称の境界はどのように決められていたのでしょうか。古来、地域の境界は、山や川、そして谷などでおおまかに決まっていました。しかし、飛鳥時代になると、少なくとも7世紀中頃以降になると、直線道路が敷設され、この道路が地域の境として位置づけられていたことが考えられます。例えば、川原寺と橘寺の境には東西の直線道路があります。この道路の北が「川原」、南が「橘」であったことがわかります。さらにこの東西道路の西への延長をみると、道の南側に「檜隈」が広がっていたことがわかります。その意味では、檜隈坂合陵と呼ばれた欽明天皇陵は、橿原市の丸山古墳ではなく、梅山古墳であることがわかります。また、下ツ道・紀路を境に西側に、身狭や越智や佐田の地名が広がっているのです。つまり7世紀中頃以降は、少なくとも道路が地域名称の境界であったと考えられます。

小墾田の範囲
 そこで、「小墾田」の範囲を考えてみたいと思います。しかし、残念ながら範囲を明確にする材料はありません。ただ奥山廃寺からは「少墾田寺」と読める墨書土器が出土していることから、このあたりは「小墾田」の範囲内であると考えられます。問題は「小墾田」と「飛鳥」の境界です。これが石神遺跡の理解に大きくかかわってくるのです。古道ということでは山田道が境界であった可能性が考えられます。現在確認されている山田道は、雷丘と飛鳥資料館を結ぶ県道と同じ場所です。しかし、奈良時代の小治田宮は、この山田道の北と南に展開しており、おそらく、小治田宮の東門に取り付いていたと考えられます。つまり、この山田道を境に地域名称(少なくとも飛鳥と小墾田)が区別されていたことは考えられません。そこで注意しなければいけないのは、この山田道は7世紀中頃に築道されたものであるということです。つまり推古天皇の時代の山田道は、別のところを通過していたのです。その有力な候補は、飛鳥寺北面大垣の場所です。
 大垣の沿っては東西道路が想定されますが、現在も道路(竹田道)があり、その道は八釣の集落まで伸びていました。この道路が推古朝山田道であった可能性は高いと考えられます。このことは飛鳥遊訪マガジン35・38号で近江俊秀氏も指摘しています。

 このように考えると、「小墾田」と「飛鳥」の境界はこの道であった可能性が高く、石神遺跡は「小墾田」地域に含まれることになります。




【8】推古朝の宮殿をめぐる諸問題・古宮遺跡の性格
                  (12.4.27.発行 Vol.132に掲載)

 これまでの検討から、小墾田宮が雷丘周辺に推定できるようになると、これまで小墾田宮の推定地とされていた豊浦の古宮遺跡はどのような性格だったのでしょうか。

  古宮遺跡は7世紀前半の庭園を中心とした遺跡です。この時代、庭園をもつ遺跡というと、宮殿や豪族の邸宅の一部と考えられます。そこで注目されるのは、蘇我蝦夷が「豊浦大臣」と呼ばれたことです。今回は甘樫丘の遺跡群を踏まえて考えてみることにします。

甘樫丘東麓遺跡
  広大な甘樫丘において発掘調査がなされている場所はそう多くはありません。これまで比較的広く発掘調査がなされているのは、蘇我氏との関連で注目された甘樫丘東麓遺跡と、丘の北麓にあたる平吉遺跡です。

 そこで甘樫丘東麓遺跡をみてみましょう。ここは平成6年の調査で、焼けた建築部材や壁土、炭などが大量に出土しました。同時に出土した土器から7世紀中頃、ちょうど乙巳の変の頃とわかります。甘樫丘の一角で7世紀中頃の焼けた建築部材が出土したことから、『日本書紀』の蘇我蝦夷が「天皇記・国記・珍宝を焼く」という記事にある蘇我蝦夷・入鹿の邸宅ではないかとにわかに注目されました。その後、遺跡のあるこの小さな谷部を平成17年以降継続的な調査を実施すると、多くの建物や塀、さらには石垣などがみつかり、7世紀前半から末まで、数時期の変遷があることもわかってきました。時代的には蘇我本宗家が滅んだ時期を前後する頃です。しかし、見つかった建物をみると、邸宅の中心になるような規模の大きな、庇のある建物はなく、小規模な建物や倉庫風の建物などで、どうも邸宅の中心部分ではなさそうです。

甘樫丘の遺跡群では、この遺跡をどのように位置づけていけばよいのでしょうか。7世紀中頃に焼失した建築部材などが出土し、『日本書紀』の記述と重なるとはいっても、文字史料が出土していないので、決定打には欠けます。甘樫丘は広大な面積を有する割に、これまで調査されている面積はごくわずかです。この甘樫丘東麓遺跡と鋳造工房などの見つかっている平吉遺跡だけです。丘陵上には未調査地が数多く存在し、今後、他の地点で同時代の遺跡がみつかる可能性は高いと考えられます。さらに、現在の展望台から東斜面にかけてには、「エベス谷」という地名も残されており、蝦夷の邸宅の有力な候補地と考えています。

 ここで注目される遺物が甘樫丘東麓遺跡から出土した軒丸瓦・垂木先瓦です。これらは豊浦寺や古宮遺跡と同笵のもので、さらに平吉遺跡からは豊浦寺の瓦が大量に出土していることを考えると、甘樫丘にあるこれらの遺跡は、いずれも蘇我氏との関連の強い遺跡であるといえます。つまり、甘樫丘そのものが当時は蘇我氏の支配下にあったことが考えられ、邸宅中心部はまだ未調査の場所にあると考えられます。

古宮遺跡の性格
 このように甘樫丘の遺跡を理解すると、古宮遺跡の性格も見えてきます。軒瓦の同笵関係からは、甘樫丘や豊浦寺との関係が強く、蘇我氏に関わる遺跡であることがわかります。さらに山田道に沿って、蘇我氏の邸宅や寺院が並んでいることからも裏付けられます。
 そこで、蘇我蝦夷が豊浦大臣と呼ばれていたことが注目されるのです。豊浦の近辺に7世紀前半の庭園をもつ邸宅。庭園をもつことから、かなりランクの高い人物であったことが推定でき、その有力な候補として蘇我蝦夷がいるのです。




【9】 推古朝の宮の意義
                  (12.5.11.発行 Vol.133に掲載)

 推古天皇はふたつの王宮を造りました。豊浦宮と小墾田宮です。しかし、これまでの研究から、このふたつの王宮の間には、大きな違いがあったことがわかります。そこでそれぞれの王宮のもつ意味を考えてみましょう。

豊浦宮の意味
 推古元(593)年、推古天皇は豊浦宮で即位します。飛鳥地域で、はじめての天皇の王宮です。豊浦宮は現在の向原寺(豊浦寺)周辺に推定されています。しかし、まだその遺構と考えられるものは、ごく一部しか確認されておらず、豊浦寺跡の下層で石敷を伴う掘立柱建物が見つかっているだけです。その主軸は正方位ではなく、地形に合わせて振れた方位をもっています。その王宮の範囲は、現地形からみて、最大でも南北150m、東西80m以内の範囲しかとれません。実際には、王宮そのものは、もっと狭かったと考えられます。

 推古天皇は、崇峻天皇暗殺の後に即位したという事情をもっています。わずか1ヶ月目の飛鳥での即位もあって、豊浦宮が最初から本格的な王宮であったとは考えられません。また、飛鳥を含めて、豊浦の地は蘇我氏の拠点のひとつであり、推古天皇を飛鳥で即位させたのは蘇我馬子にほかならなかったのです。豊浦宮は蘇我氏の邸宅を譲り受け、そこを改修して王宮とした可能性が高いと考えられます。その意味で、豊浦宮は王宮としては不十分であったと考えられます。古墳時代の前時代的な王宮であったといえるかもしれません。しかし、推古天皇は最終的に推古11(603)年までの10年間、ここを居所としていたのです。

小墾田宮の意味
  推古11(603)年、推古天皇は、豊浦宮から小墾田宮へと王宮を遷します。推古朝の小墾田宮の所在地は特定されていませんが、奈良時代の小治田宮については雷丘の東方に判明しています。推古朝の小墾田宮も同位置か、その周辺に推定されますが、その構造は明らかではありません。10年間居住した豊浦宮から小墾田宮への遷宮については、大きな契機がありました。それは遣隋使の派遣です。我が国の史料には残されていませんが、『隋書』倭国伝には文帝との面会が記されています。おそらく隋の都や宮殿、政治システムをこの時はじめて目の当たりにしたことでしょう。これを裏付けるように、小墾田宮の造営と遷宮、そして冠位十二階の制定、憲法十七条の発布など、政治体制の整備を次々と進めています。新たな王宮と法整備を行い、推古15(607)年に再び遣隋使を派遣したのです。

 このようにみると小墾田宮造営は、遣隋使を通してみた、隋帝国の政治理念の反映に他ならないように思えます。その政治理念を、この小墾田宮の段階でどこまで吸収・反映できたのかはわかりません。その解決の鍵を握るのは、推古朝小墾田宮の解明に他ならないのです。その構造や造営方位、規模や建物配置などがわかれば、推古天皇の目指した政治理念を伺うことができるのです。

推古朝の意義
 推古朝には、ふたつの王宮がありました。しかし、豊浦宮と小墾田宮をみるとき、遣隋使派遣という画期を経て、両者には大きな違いがあります。前時代的な王宮から、東アジア的な王宮への変化です。飛鳥豊浦宮への進出は、まだ日本という中での出来事でしかなかったのです。それは蘇我氏の計画の一環でもあったのです。

 しかし、推古8(600)年に第1回遣隋使を派遣します。我が国が東アジア文化圏に参画しようとした瞬間です。ここで巨大な隋帝国に接するに及び、我が国は、ソフト、ハード共に急速に整備する必要性を痛感したのです。前者は身分制度の確立と法治国家の確立です。そして、後者は王宮・王都の整備です。

 推古朝はまさに、律令国家への歩みをはじめた時代といえます。その後の国作りは単純ではありませんが、大化の改新や白村江の戦い、壬申の乱などを経て、我が国は形づくられていったのです。推古朝は、日本国誕生への序章の時代といえます。




【10】推古朝の小墾田宮についての覚書
                  (12.6.22.発行 Vol.136に掲載)

 推古朝のふたつの王宮の意義について、これまで考えてきました。豊浦宮と小墾田宮の間には、歴史上あるいは政治上大きな飛躍があったと思われます。今回はこれまで触れてこなかった最大の謎、推古天皇の小墾田宮の位置について考えてみたいと思います。

小墾田宮推定の条件
  まず、これまでに小墾田宮に関わっていくつかの点が判明してきました。これを整理すると、

 ・推古朝の山田道(古山田道)は飛鳥寺北面大垣に沿ってある。
 ・7世紀中頃以降、山田道は現在の県道に移設される。
 ・「小墾田」は古山田道の北側に広がる地域名称である。
 ・奈良時代の小治田宮は雷丘を中心とした地域にある。
 ・小墾田宮は推古朝から奈良時代まで何等かの形で存続している。
 ・奥山廃寺は小墾田寺と考えられる。
 ・小墾田宮は正方位をしている。
 ・王宮は内郭と外郭構造をとり、朝堂院型式ではない。
 ・王宮の規模は、内郭については100m四方以下である。

 これらの条件をみたす王宮の設置可能な場所は複数存在します。そこでそれぞれの候補地について検討をしてみたいと思います。

小墾田宮の位置についての検討

クリックで拡大

 奈良時代の小治田宮の位置については、雷丘を中心とした約300m四方であることがすに判明しています。一般的に、同名の宮殿は、規模の変化はあるかもしれませんが、同じ場所にあると考えるのが自然です。現在、奈良時代の小治田宮内において、推古朝の遺構は、池の貼石と堀割状の遺構しかありません。しかも宮殿中枢部である内郭(後の内裏)を占地可能な場所は、上山(雷丘の南の丘)の東の段(A)と城山(雷丘)の東側(B)しか空間的にはありません。しかし、いずれも大規模な内郭は設定できず、しかも、丘陵がすぐ西側にまで迫っており、豊浦宮の規模・立地と変わらないことになります。さらに推古朝の山田道(古山田道)が飛鳥寺北面大垣の位置に推定されることから、この道に面していないことも考慮すると、いずれの候補地も可能性は低いと考えられます。すると、推古朝の小墾田宮は奈良時代の小治田宮とは場所が異なると考えなければなりません。そこで改めて小墾田宮の記録をみてみると、推古朝の小墾田宮が603~628年まで存続していたことは史料にみられます。その後、642年には皇極天皇が飛鳥板蓋宮造営中に一時的に遷っており、649年には蘇我興志によって、小墾田宮が焼かれようとしたという記事がみられます。さらに655年には小墾田宮に瓦葺建物を造営しようとしたが断念したとあります。これ以降、672年壬申の乱に際して小墾田兵庫の名前が見えますが、奈良時代の760年まで小治田宮の名は現れません。つまり約100年間、小墾田宮は記録から消えているのです。飛鳥時代の小墾田宮と奈良時代の小治田宮との間に、大きな断絶があった可能性が伺えます。さらにこの期間中、飛鳥寺北方地域では2度の土地区画整理が行われていました。藤原京の条坊地割と奈良時代の条里地割です。この地割変更によって、宮の断絶と位置変更が行われた可能性は十分に考えられます。奈良時代の小治田宮の範囲が条里地割に規制されていることもこれを裏付けており、飛鳥時代の小墾田宮は現在みられる条里地割には規制されていないと考えられます。

 では、より広大な敷地を確保できる新山田道以北に推古朝の小墾田宮は推定できるでしょうか。石神遺跡北方から北西にかけては湿地が広がっていました。この湿地を整地によって埋め立てたのは、640年頃と考えられています。山田道の移設もこの頃です。ですから、
新山田道の北方では、奥山廃寺とは中の川を隔てた西側にしか、推古朝には施設を建設する場所(C)はありません。この辺りは未調査地域で、遺跡の様子はまったく判っていませんが、小墾田寺と考えられている奥山廃寺と並列した位置になります。つまり宮と寺のセットとなるとも考えられ非常に興味深い場所です。ただし、奥山廃寺の創建は620~630年代と考えられており、推古朝後半には、まだ金堂しか建築されていません。つまり小墾田宮に遷宮した603年にはまだ寺の建築まで20年ほどの時間差があるのです。さらに古山田道から、かなり遠くなり、古道との関係からは、やや難があるといえます。

 では、新山田道の南方ではどうでしょうか。先にもみたように、石神遺跡の北方には湿地があります。宮の建設できる場所は、この湿地の西(D)と東(E)にあります。D地区は、奈良時代小墾田宮の隣接地にあたりますが、これまで調査は行われていません。ただし、宮の設置可能な範囲は最大でも南北80m、東西100mしかありません。宮の内郭だげであれば可能ですが、やはり古山田道から離れており、南に位置する石神遺跡が空間地であったことは理解が難しい点です。同様にE地区も古山田道からの距離は遠い。しかも新山田道上の調査では、西に振れた小規模な建物が見つかっており、7世紀前半のものと考えられています。これらの建物が、宮に関わるものとすると、小墾田宮は正方位ではないことになります。

 一方、古山田道に北接するF地区、G地区はどうでしょうか。F地区は石神遺跡の場所です。石神遺跡は斉明朝の迎賓館として有名ですが、これまでの調査でA期(皇極~斉明)、B期(天武朝)、C期(藤原京期)と変遷することがわかっています。さらにA期には瓦葺建物を建てる620~630年代のものも一部で確認されていますが、ここではA以前2期と仮称しておきましょう。さらに南北方位から大きく振れる遺構などを、A以前1期としておきます。ここでは推古朝と推定されるA以前1期には、北から振れる方位をもつ石列などは確認されていますが、建物等は未確認です。またA以前2期には瓦葺建物が一部見つかっていますが、王宮の中心施設は確認されていません。ただし古山田道に面している点は大きな利点です。7世紀中頃以降の造営で、宮の遺構が削られてしまった可能性も否定はできませんが、現状では何とも言えないと思われます。これに対して、G地区は石神遺跡の東側です。ここでは石神東方遺跡と仮称しておきましょう。ここは周辺よりも、東西140、南北170mの範囲が少し高い微高地になっています(中の川は条里地割に則って直角に北上しているが、本来はもう少し東側を斜めに流れていたと考えられる)。遺跡の立地としては最適といえます。特に、石神第21次調査区を北西隅とする微高地は不自然で、本来の地形に加えて、整地によって成形されていることが考えられます。それは第21次調査でも最初の整地上に瓦葺建物(620~630年代)が建てられていることから、この整地が推古朝に遡るのは間違いないようです。さらにこの建物が正方位をしているのも重要です。残念ながら未調査地が多く、中心部分は不明ですが、これまでの候補地の中では、最も可能性の高い場所と考えています。

 では、小墾田宮の歴史的な変遷と遺構の変遷との関係はどうでしょうか。史料によると小墾田宮は推古朝にはじまり、皇極・斉明朝までは宮として存続していたと考えられますが、壬申の乱では小墾田兵庫とあるだけです。その後は奈良時代まで記録にありません。これらの記事との関係で興味深いのは石神21次調査です。推古朝後半~舒明朝については、瓦葺建物があるだけで、その西方の石神遺跡の中心部では、同時代の瓦の出土はあるものの、顕著な遺構がありません。このことから石神東方の微高地に遺構の中心があることが推測されます。皇極~斉明朝になると、石神遺跡の東限塀が確認されており、16m離れて再び南北塀があります。二つの塀の間が通路となっており、東側の塀は、石神東方遺跡の西限塀であったことになります。つまり石神A期の段階には、迎賓館施設の東に別の施設が並列していることになります。しかし、石神遺跡も天武朝のB期になると、東に拡大しており、石神東方遺跡も一体の施設に変化しています。記録に小墾田宮が消える時期と一致しており、小墾田兵庫は石神遺跡の中に設けられています。このように、史料にみる小墾田宮の変遷と遺跡の変遷とは、概ね一致しているといえます。

推古朝の小墾田宮について憶測
 これまでの検討から、仮称石神東方遺跡が推古朝の小墾田宮の最有力候補地と考えられます。その範囲は石神1・2・21次調査区を西辺に含む東西140m、南北170mと考えられ、この範囲の内側に王宮の中心区画である内郭があったと思います。それは古山田道の北側に広がっており、石神21次調査の瓦葺建物が正方位をすることから、推古朝小墾田宮も正方位をした王宮であったと考えられます。これらのことはすでに小墾田宮の意義にみたことにも合致し、まさに東アジア的な王宮へと変化しはじめているといえます。瓦葺建物は石神21次調査区で確認されていますが、瓦の出土状況からは石神3・4次からも多く出土しており、古山田道沿いにも瓦葺施設があったことがわかります。この瓦葺建物は仏教施設の可能性も指摘されていますが、私は迎賓館的施設であった可能性も考えています。それは遣隋使だけでなく、7世紀前半の新羅土器の存在から新羅の使節も来ていた可能性もあるのではないでしょうか。これらの施設が小墾田宮の隣接地の古山田道沿いにあり、さらに王宮の南に広がる飛鳥寺も荘厳のための施設と考えられます。また、小墾田宮の庭に須弥山が立てられたと『日本書紀』推古20年(612)に記されています。現在見つかっている石造物が推古朝のものであるかは明確ではありませんが、その出土位置は、推定される王宮の南西隅にあたります。

 いずれにしても推古朝の小墾田宮が仮称石神東方遺跡にあった可能性を指摘して、「推古朝のふたつの王宮」についての話を終わりにしたいと思います。
 


遊訪文庫TOPへ戻る 両槻会TOPへ戻る



カウンター