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飛鳥・藤原の考古学


 あい坊



舒明朝の王宮と寺院
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皇極朝の王宮と政変
         10

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「舒明朝の王宮と寺院」

【1】舒明天皇の時代  (12.8.17.発行 Vol.140に掲載)

 飛鳥時代の最初の天皇であった推古天皇が崩御して、次に即位したのは、敏達天皇の孫、押坂彦人大兄王の子である田村皇子(舒明天皇)です。この舒明天皇の時代の遺跡はそう多くはありません。舒明天皇が王宮とした飛鳥岡本宮も、その推定地の一部で遺構が見つかっているにすぎず、その後に遷った百済大宮はその位置すら確認されていません。このように推古天皇と皇極天皇に挟まれて、舒明朝はこれまであまり大きく論じられることはありませんでした。しかし、桜井市吉備で見つかった吉備池廃寺は百済大寺とみられ、その並外れた規模は、舒明朝の歴史的意義を一新するものになりました。『日本書紀』の記録と考古学の成果を中心に、今回はこの舒明朝の王宮と大寺に焦点をあてて、舒明天皇の時代についてみていきたいと思います。

舒明天皇の宮と寺
 舒明元年(629)正月に即位した舒明天皇は、翌2年(630)には飛鳥岡のほとりの王宮に遷ります。「飛鳥岡本宮」です。飛鳥岡の麓に造営されたその王宮は、飛鳥寺の南方に造られた最初の王宮でもありました。以降、この飛鳥には、歴代の王宮が代々営まれることになります。

 しかし、舒明8年(636)6月、飛鳥岡本宮は火災で焼失します。火災の原因は記されていませんが、この時期に蘇我蝦夷との関係が悪化していることから、放火の可能性も考えられるでしょうか。そこで舒明天皇は、田中宮を仮の宮として遷りました。そして、舒明11年(639)7月には百済川のほとりに百済大宮と百済大寺の造営を開始します。その造営にあたっては、西国の民は百済大宮、東国の民は百済大寺の造営に動員されました。その造営体制の規模から、かなり大規模な宮と寺と思われます。12月には、百済大寺の九重塔の建設も始まっています。舒明天皇は伊豫行幸からの帰路、厩坂宮に入っています。まだ、百済大宮が完成していなかったからでしょう。実際に、百済大宮に遷宮したのは、舒明12年(640)10月のことです。しかし、翌13年(641)10月、舒明天皇は百済宮で崩御し、宮の北に殯宮を設けました。これは「百済の大殯」と呼ばれました。

舒明朝の内政
 『日本書紀』をみても、舒明朝の政治についてはほとんど記されていません。舒明紀の多くは、舒明天皇の即位事情について記されていました。推古天皇が亡くなる直前、田村皇子(後の舒明天皇)は、病床の推古天皇を見舞っていました。この時の内容をめぐって、蘇我蝦夷が推す田村皇子と、境部摩理勢らが推す聖徳太子の子である山背皇子の二人が皇位を争うことになります。最終的には、推古崩御後9ケ月を経て、田村皇子が即位して舒明天皇となりました。つまり、舒明天皇は蘇我蝦夷の後盾を得て即位したのです。飛鳥岡本に王宮を構えたのも、このような理由が伺えます。しかし、舒明8年(636)7月、群卿・百寮が朝廷への出仕を怠けているので、午前6時から10時までを勤務時間として、鐘で合図をしようと提案しましたが、蘇我蝦夷はこれに賛同しませんでした。さらに翌年には、蝦夷は入朝しなかったことから、この頃から舒明天皇と蘇我蝦夷との間に確執が生じていたことがわかり、百済大宮への遷宮の背景ともなっていると考えられます。

舒明朝の外交
 推古朝は初めて遣隋使を派遣し、東アジアの中華世界へと参入していきました。この路線は、次の舒明朝にも受け継がれています。しかし、東アジアでは大きな変化が起きていました。巨大な隋帝国が大唐帝国に変わっていたのです。舒明2年(630)には、最初の遣唐使を派遣します。これによって唐との関係を継続しているのです。また、高句麗・百済は朝廷に朝貢してきており、表玄関であった難波の大郡と三韓の館を改修して、外交儀礼を強化しています。さらに、推古朝には強硬路線を堅持していた新羅との国交も回復し、新羅も朝貢国となっています。僧旻や南淵請安・高向玄理など多くの学問僧などもこの頃に帰国し、そこで得た知識は、その後の国家形成に重要な働きをしたのです。

 このように舒明朝の内政については史料がなく、その動向は明らかではありませんが、舒明8年頃を境に、舒明天皇と蘇我蝦夷との関係に変化がみられたことが伺われます。このことは、舒明朝後半の独自性として現れているようです。一方、外交面では東アジア世界の動向に敏感に反応し、その後の国作りの牽引力となったのは、学問僧などが持ち帰った最新の知識でした。




飛鳥岡本宮の実像  (12.9.28.発行 Vol.144に掲載)

 舒明天皇は、即位した翌年の舒明2年(630)に飛鳥岡本宮を王宮としました。この王宮は、いわゆる「飛鳥」に営まれた最初の王宮です。その後、飛鳥時代の歴代天皇がここを王宮とすることから、飛鳥岡本宮の位置づけは重要といえます。しかし、この岡本宮については、史料にもわずかしか現れず、発掘の成果も、まだわずかです。ここでは史料にみられる宮と、その発掘成果についてみていくことにしましょう。

飛鳥岡本宮の歴史
 飛鳥岡本宮についての記録は、『日本書紀』にわずか二度しか現れません。舒明2年(630)10月12日「天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。是を岡本宮と謂ふ」と、舒明8年(636)6月「岡本宮に災けり」です。このことから飛鳥岡本宮については、その構造などは史料から伺うことはできません。この岡本宮の位置については、諸説がありました。旧来、飛鳥岡本宮そして後飛鳥岡本宮は、大官大寺の南あたりに推定されていました。その根拠は、飛鳥岡が雷丘や奥山の丘陵と推定されていたこと。そして、飛鳥浄御原宮が石神遺跡周辺に考えられていたことでした。しかし、和田萃氏は、飛鳥岡が飛鳥坐神社から岡寺にかけての丘陵として、岡本宮を伝飛鳥板蓋宮跡あたりと考えました。その頃、発掘調査が進んでいた飛鳥宮跡の成果もそれを裏付けています。現在は、舒明天皇の飛鳥岡本宮は伝飛鳥板蓋宮跡周辺に所在していたとするのが一般的です。この飛鳥岡本宮の位置は、蘇我本宗家によって天皇家のために用意されていた場所と考えられます。舒明天皇の即位事情や、飛鳥寺が飛鳥盆地の入口に立地することも、それを裏付けています。

 しかし、この王宮は舒明8年の火災によって焼失しました。舒明天皇は、この王宮に5年すこししか居住しなかったのです。その後、一時的に田中宮に遷ることになりました。火災原因については、この当時、舒明天皇と蘇我本宗家の関係が悪化していたことと関係があるのかもしれません。

飛鳥岡本宮の発掘成果
 これまでの発掘調査や研究によって、伝飛鳥板蓋宮跡では、大きく3時期の宮殿遺構が重なっていることが判ってきました。下層からⅠ~Ⅲ期と呼んでいます。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮、Ⅲ期は斉明天皇の後飛鳥岡本宮から天武天皇の飛鳥浄御原宮と考えられています。つまり飛鳥○○宮と呼ばれる王宮は、すべて「飛鳥」と呼ばれるほぼ同じ場所に推定されるのです。

 では、飛鳥岡本宮と推定されるⅠ期遺構はどのようなものでしょうか。残念ながらⅠ期遺構については、よくわかっていません。というのも、Ⅰ期遺構の解明のためには、上層にあるⅡ期・Ⅲ期遺構を保護しながら実施しなければならず、極めて断片的な調査になってしまうからです。それでもいくつかの遺構が確認されています。

 Ⅰ期遺構の確認されているのは、Ⅲ期遺構の内郭地区とエビノコ郭地区です。これは内郭の東方にあたる外郭地区では、調査箇所が少ないということによると考えられます。内郭地区では掘立柱建物や塀跡が部分的に確認されています。これらの遺構の最大の特色は、その方位が北から20度ほど西に振れる方位をもつことです、エビノコ郭地区の石列も同様です。これはこの地域の地形が、南東から北西に向けて、緩やかに傾斜しており、地形に合わせた方位と考えられています。つまり大規模な土地造成を行わずに王宮を造営したことになります。さらに掘立柱遺構は、掘形の一辺が1.2mもあるのに対して、深さが30cmしかないことです。つまりII期遺構造営にあたって、大規模に土地が削平されているのです。

 このように、飛鳥宮の下層にあたるI期遺構が舒明天皇の飛鳥岡本宮と推定され、この王宮が「飛鳥」にはじめて造られた王宮であること、その造営方位は地形に合わせて大きく西に振れることが考えられています。これらのことから、この時代はまだ、飛鳥の都市計画は乏しかったと考えられています。




百済大寺の実像  (12.11.16.発行 Vol.147に掲載)

 平成9年2月、新聞に桜井市吉備で、巨大な寺院の建物が見つかったと報道されました。新たに発見されたこの寺院は、「吉備池廃寺」と命名され、舒明朝に発願された「百済大寺」と考えられました。発掘の契機になったのは、「吉備池」と呼ばれる近世溜池の護岸改修のための事前調査でした。この周辺では以前から瓦が散布することから、瓦窯が推定されていたところです。しかし、吉備池の南東の張り出し(堤の高まり)を調査すると、そこに巨大な金堂基壇を発見したのです。このようにみると、吉備池の南西にも同様の張り出しがあり、翌年に調査をしてみると、今度は巨大な塔基壇が現れました。個々の建物が巨大なだけでなく、伽藍も並外れた規模を有する寺院であることがわかったのです。この寺院に匹敵する規模をもつ飛鳥時代の寺院は、百済大寺の法灯を受け継ぐ、大官大寺だけです。

百済大寺の歴史
 百済大寺の創建については『日本書紀』にその記事が残されていますが、『大安寺資財帳』によると、寺の草創は、聖徳太子が建てた平群郡の熊凝村の道場に遡ると記されています。太子が病床の時に、天皇は田村皇子を遣わして、望みを聞いたところ、熊凝道場を大寺としてほしいと伝えられました。しかし、推古朝にはその願いは果たせず、舒明朝になって開始されたのです。舒明11年(639)7月には「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」「則ち百済川の側を以て宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。便に書直縣を以て大匠とす」とあり、王宮と大寺の造営を開始したことがわかります。さらに12月には「百済川の側に、九重の塔を建つ」と記されています。しかし、着工からわずか3ヶ月で塔が完成したとは考えがたく、塔の造営に着手したことを示す記事であろうと考えられます。しかし百済大寺も舒明天皇の存命中には完成をしていなかったとみえて、舒明天皇の皇后であった宝皇女、つまり皇極天皇は、皇極元年(642)9月3日に蘇我蝦夷に対して、「朕、大寺を起し造らむと思欲ふ。近江と越との丁を発せ」と命じています。その後の百済大寺の造営経過は、明確ではありませんが、孝徳朝までには主要伽藍が完成し、仏像も作られたことが知られています。しかし、百済大寺も天武2年(673)年には、造高市大寺司が任命され、『大安寺資材帳』に「百済の地から高市の地に移す」と記されていることから、天武天皇によって百済大寺は移転させられ、「高市大寺」と呼ばれるようになりました。さらに天武6年(677)には「改高市大寺、号大官大寺」と改名します。この天武朝には天武14年の「飛鳥三大寺」のひとつにもあげられています。その後、文武朝大官大寺、さらには平城京大安寺にその法灯を繋いでいきました。

百済大寺の発掘成果
 このような百済大寺ですが、これまでその所在地すら不明でした。しかし平成9年、桜井市吉備にある溜め池「吉備池」の地で巨大な伽藍が発見されたのです。

 吉備池廃寺は回廊の中に、東に金堂、西に塔を配置している、所謂、法隆寺式伽藍配置をしています。最初に確認された金堂は、深さ1m程の掘込事業を施し、さらに2m以上の高さの基壇をもちます。基壇土は版築によって構築されていました。平面の大きさは東西37m、南北25m、南辺が少し凸形に突出することから、ここまで測ると28mほどになります。面積にすると、約1000㎡にもなります。同時代の飛鳥寺中金堂や山田寺金堂が、東西21m、南北18m前後であることと比較すると、破格の規模であるといえます。これを越える金堂は、後の大官大寺くらいしかありません。吉備池廃寺の金堂には、残念ながら礎石や据え付けの跡は残っていません。よって柱の配置は明確ではありません。また、基壇外装も石材の痕跡がまったく残っていないことから、板材を用いた木製基壇であったとも考えられます。

 伽藍規模比較図
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 次に、西側にある塔をみてみましょう。金堂同様に版築によって高さ2.3m程残されています。ただし掘込事業は施されていません。平面の大きさは一辺約32mの方形に復元できます。基壇上面の中央には巨大な穴があけられていました。心礎の抜き取り穴と考えられます。この抜き取り穴からは7世紀後半の土器が出土したことから、この頃に心礎が抜き取られたことがわかります。しかし、この他の礎石据え付け痕跡は残っていません。よって、柱の配置はわかりませんが、飛鳥寺や山田寺の塔基壇が12m前後なので、吉備池廃寺の塔がいかに大きいかがわかると思います。大官大寺の塔基壇も23m程度なので、飛鳥時代の塔としては最大規模となり、九重塔であった可能性が極めて高いと思われます。

 これらの建物を囲む回廊は、東・西・南面が確認されています。回廊は両側に石組みの雨落溝を有する構造で、その幅は6.5mほどしかありません。当時は単廊であったと考えられ、金堂や塔基壇に比べると、極めて小規模な構造です。南面に開く中門は中軸線上にはありません。金堂のすぐ南に、やはり小規模な門が確認されています。その配置からは塔のすぐ南にも中門があった可能性もありますが、確認はできていません。回廊の東西規模は153mであることがわかっています。回廊の構造そのものは小規模ですが、伽藍の東西幅は、やはり破格の規模で、これに匹敵するのは大官大寺しかありません。
 この他には、中門の南で南大門と考えられる遺構や、伽藍北方で僧坊と考えられる建物が確認されています。

 吉備池廃寺から出土する瓦を観察すると、山田寺の造営よりもわずかに古いものであることがわかります。よって、7世紀第II四半期頃と推定されます。しかし、これだけの大寺院にもかかわらず、瓦の出土は極めて少ないことは特徴的です。さらに礎石も残っていないことは、この寺院の資材が、別の所に運ばれたことを推測させます。そして、その時期は、7世紀後半頃ということも、出土土器からわかります。つまり、伽藍規模や建物規模、そして、遺構の変遷は、史料にみえる百済大寺を裏付けるものといえます。さらにその存在は東アジアを視野に入れた位置づけがなされるのです。




百済大宮の実像  (13.1.11.発行 Vol.152に掲載)

 百済大寺と同時に造営が開始されたのが、百済大宮です。これまでその宮の位置は明確ではありませんでしたが、吉備池廃寺が確認されたことにより、その位置と規模について、想定が可能となりました。今回はこの百済大宮について考えてみたいと思います。

百済大宮の歴史
 舒明8年(636)6月、飛鳥岡本宮が焼失します。このため舒明天皇は、田中宮に遷りました。この田中宮の位置はわかっていませんが、現在の橿原市田中町付近に推定され、既存施設を一時的な仮宮としたものと考えられます。その後、百済大宮がはじめて史料に現れるのは、舒明11年(639)7月の「今年、大宮及び大寺を造作らしむ」「則ち百済川の側を以て宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る。便に書直縣を以て大匠とす」とある記事です。この史料から、639年に百済大宮と百済大寺の造営を開始したことがわかります。その後、舒明天皇は伊豫へ行幸しますが、戻ってきた時には、厩坂宮に入ります。この宮は橿原市大軽の丈六交差点付近とされますが、確認はできていません。実際に、百済大宮に遷宮したのは舒明12年(640)10月です。つまり、伊豫から帰宮した時には、まだ百済大宮は完成していなかったと考えられます。しかし、この百済大宮での生活も長くは続きませんでした。舒明天皇はその13年(641)10月9日に崩御、18日に殯を行いました。宮の北方で行われたこの殯は「百済の大殯」と呼ばれています。

百済大宮の規模と位置
 この百済大宮については、史料からいくつかの点を指摘できます。一般的に、王宮の名称に「大宮」と付けることはありません。しかし、舒明11年7月の記事に「宮」ではなく、「大宮」と記されていることは、この宮が従来の王宮に比べて、大規模であったことを推定させます。この「大宮」の表現については、百済大寺と対で表現されているためとも考えられますが、吉備池廃寺の規模を考えると、やはり百済大宮も、それまでの王宮とは異なる規模であろうと思われます。さらに「西の民は宮を造り、東の民は寺を作る」の記事から、西国の労働力が王宮造営に、東国の労働力が大寺の造営に動員されたことがわかります。これは後の仕丁に通じる労働力にあたります。その意味でも、百済大宮造営が大規模であったことを裏付けています。さらに、その造営期間は16ヶ月に及びます。労働力の多さと造営期間からも、当時としては大宮にふさわしい規模であったと推定されます。

 では、百済大宮はどこにあったのでしょうか。舒明11年(639)7月の「則ち百済川の側を以て宮処とす。是を以て、西の民は宮を造り、東の民は寺を作る」とあり、百済川の側に王宮があったことになります。吉備池廃寺の発見を受けて、「百済川」は、現在の「米川」であったことがわかります。この近くに百済大宮があったことになります。先の「西の民、東の民」の記事が、王宮と大寺の位置関係も表しているとすれば、吉備池廃寺の西方に百済大宮があったことになります。そこで大宮の立地を微高地に求めると、吉備池から北西へ延びる丘陵地がその候補地となります。

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 現在の吉備の集落は、この微高地上にあります。東西にのびる微高地上にある吉備集落は、東地区、中央地区、西地区と連なっています。東地区(A)の地形をみると、東西100m、南北150mの方形の範囲が平坦面ととらえることができます。この微高地のなかではもっともまとまった平坦地で、百済大宮の第一候補地と考えられます。一方、中央地区(B)は北半の薬師寺の境内が周囲よりも一段高く、平坦面としてはこの薬師寺の高台よりも南側の東西130m、南北80mがあります。ただし、王宮を建設するには、少し狭いと考えられます。西地区(C)は明高寺のある地区で、現在もその西半は旧地形が残されています。東西180m、南北150mの範囲ですが、西に向かって狭くなる歪な形をしています。この点は王宮建設地としてはやや難があります。また、直ぐ南側に米川が流れており、河川に近すぎることも考慮すべき点です。このように考えれば、東地区がもっとも王宮建設地としてふさわしい立地・地形といえます。

 舒明13年(641)10月18日の殯は「百済の大殯」と呼ばれ、大規模に行われたことがわかります。その場所は王宮の北方でした。一般的に、殯は王宮の南庭で行われることが多いのですが、ここでは北方に作られていました。これにはいくつかの理由が考えられます。まず、この殯が「百済大殯」と呼ばれるように、従来の殯よりも大規模であったこと。百済大宮の南方には米川が迫っており、安定的な大規模な空間が確保できなかったこと。吉備池廃寺から北へ400mには横大路が通過しており、百済大殯が横大路の南に近接してあったことなどが、その理由として考えられます。

 いずれにしても、百済大宮は、それまでの王宮とは異なる規模であった可能性が高く吉備集落と重なるようにあったと考えます。今後の発掘調査で、王宮の遺構が確認されることが望まれます。




磐余とその周辺  (13.4.19.発行 Vol.159に掲載)

 平成23年12月、香久山山麓の北側で古代の池の堤が見つかりました。「磐余池」と考えられています。この池が「磐余池」であるとすると、その歴史的な位置づけや、香久山北方の空間構成を考える重要な指標になります。しかし、ここを「磐余池」とするには、まだ課題も多いと考えられます。特に、すぐ東北方には百済大寺と考えられている吉備池廃寺があり、そのあたりは「百済」と呼ばれていたと考えられることなどが指摘できます。今回は磐余地域と、磐余周辺の地名について考えてみたいと思います。

磐余周辺マップ
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 磐余の諸宮
 「磐余池」の検討過程においての磐余の諸宮の比定をし、磐余の範囲を検討したのは和田萃氏です。詳細は『明日香風123号』に記されていますが、ここでは要点だけを紹介しておきましょう。

 磐余地域にあった諸宮としては、神功皇后はともかく、履中天皇が磐余稚桜宮(わかざくらのみや)で即位し、翌2年には、磐余池が造られました。清寧天皇の宮は、磐余甕栗宮(みかくりのみや)です。その推定場所は、『帝王編年記』によると桜井市白河あたりとしていますが、その根拠は記されていません。一方、『大和志』では橿原市東池尻町の御厨子観音ちかくに想定されています。継体天皇は河内の樟葉宮で即位しましたが、継体20年に磐余玉穂宮に遷ります。この磐余玉穂宮は桜井市池之内周辺とされていますが明確ではありません。敏達天皇は百済大井宮を営み、敏達4年には譯語田(おさだ)幸玉宮(さきたまのみや)に遷りました。百済大井宮はかつて広陵町百済あたりとされていましたが、吉備池廃寺の発見を受けて、桜井市吉備周辺に推定されるようになりました。譯語田幸玉宮は、桜井市戒重の小字「和佐田」が明治以前は「他田(おさだ)」であることや、寺川と粟原川の合流地点に「幸玉橋」が架かっていることなどから、このあたりを譯語田幸玉宮としました。大津皇子の訳語田(おさだ)舎も近辺に推定されます。用明天皇は磐余池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)を造営します。この池辺が磐余池の辺りに造営されたことが推測されます。

 これらの検討を踏まえて、和田氏は「磐余」の範囲は、寺川左岸の香久山東北麓としています。より具体的には、倉橋あたりから東光寺山、戒重の幸玉橋、耳成山、香久山を結んだ広範囲に考えられているようです。

 磐余地域の再検討
 今回、発掘調査で確認された池跡は、「磐余池」と考えられています。しかし、本当にそうでしょうか。ここを「磐余池」とするためには、このあたりの地域名称が「磐余」でなければなりません。しかし、この池の北東700mには、「百済大寺」と考えられる吉備池廃寺があります。つまり池跡の北方は「百済」と呼ばれていたことになります。さらに「磐余池」に臨んで造られた用明天皇の磐余池辺雙槻宮の南に、厩戸皇子の上宮があったとされていますが、この池跡の南は香久山山麓となり、上宮の立地が難しくなります。これらのことから、池跡の名称とこの地域の地域名称の再検討が必要となります。また、磐余の諸宮の比定地についても『帝王編年記』などの史料で推定地が示されているものもありますが、ほとんどその根拠を示さず、その場所は明確ではありません。唯一、磐余池が池ノ内の池跡ということをたよりに推定されているだけです。

 すでに「磐余」の地域については、千田稔氏が別の指摘をしています。桜井市の安倍山という丘陵の北端に、式内社の石寸(いわれ)山口神社が鎮座しており、ここが「石寸山」ということになり、磐余がこの地域となります。さらにこの東にある丘陵には東光寺があり、その山号は「磐余山」と呼ばれています。もうひとつ「磐余」を推定する材料に稚櫻神社があります。今回の池跡のすぐ東に「稚櫻神社」があります。これが、履中天皇は磐余稚桜宮にかかわるものとされていますが、実は「若櫻神社」はさらに東方の桜井市谷にもあります。ここは『延喜式』にあるように城上郡に属している可能性があります。ちなみに池ノ内にある稚櫻神社は十市郡に属することは間違いありません。

 このことから、「磐余」とは、和田氏が想定するような広範囲ではなく、安倍山・東光寺山周辺の地名と考えられます。さらに言えば、上ツ道の東、横大路の南、寺川の西に限定できると考えられます。このように「磐余」の範囲を推定すると、磐余の諸宮も場所は限定できませんが、この範囲内にあったと考えられます。そして、用明天皇の磐余池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)の南にあったとされる厩戸皇子の「上宮(かみつみや)」が、まさに上宮遺跡として浮かびあがってきます。

 では、磐余の周辺はどのような地域名称だったのでしょうか。横大路の南側地域では、磐余の東、寺川対岸には鳥見山があり、「鳥見」と推定できます。一方、磐余の西側には、上ツ道を挟んで、「阿部」「百済」「膳夫」と並んでいます。各地名の境界は明確ではありませんが、百済と膳夫の境界は米川の可能性があります。しかし、阿部と百済の境界は、今のところ明確な境界施設がみられません。まだ謎です。一方、横大路の北側地域では、上ツ道の西側、寺川の南側が「訳語田」と考えられます。

 「磐余」の範囲が限定され、その周辺の地域名称が復元できると、歴史がより身近なものとしてとらえることができます。この地域が飛鳥時代以前の歴史の主舞台となったのは、その立地に重要な鍵があったと考えられます。横大路と上ツ道の交差点付近です。この衢を中心として、飛鳥前史が展開されていたのです。




香久山山麓の池と磐余池 
                        (13.5.31.発行 Vol.162に掲載)

 香久山北麓の古代の池跡は、「磐余池」と考えられています。しかし、前回にも検討したように、この池周辺は「磐余」ではありません。今回は、この磐余池を再検討したいと思います。

「磐余池」の調査
 今回の池跡は「磐余池推定地」としてよく知られていたところです。橿原市教育委員会は、ここが藤原京の範囲内に含まれていることから、「大藤原京左京五条八坊」や「中嶋遺跡」と呼称しています。

 発掘調査では、谷を人工の堤で築堤した池跡が確認されました。池は6世紀後半以前には造られていたと考えられ、その堤の上には数時期の掘立柱建物や大壁建物が確認されています。建物の中で最も古いのは大壁建物で、渡来系集団に関わるものです。池の築造にあたって、渡来人が関与したことを示すものとなりました。その後、掘立柱建物に建て替えられますが、この建物が廃絶する時期は、7世紀前半で、磐余から飛鳥へ歴史空間が遷ることと対応していることは興味深いことです。
 橿原市発掘調査情報のページ

 発掘された古代池跡
 今回の池跡は、発掘される40年も前に、文献史料の検討と、現地での踏査の結果を踏まえて、「磐余池」と和田萃氏が推定していました。しかし、和田氏はこの池の他にもうひとつ池ノ内の稚櫻神社の東側にも池跡を推定しています。このことから、香久山北麓には谷をせき止めた複数の池が想定されます。

 磐余池は履中2年11月に「磐余池を作る」とあります。また、履中3年11月には、両枝船を磐余市磯池に浮かべ、遊宴したことが記されており、杯に桜の花びらが入ったことから、宮の名称を磐余稚桜宮(わかざくらのみや)としたとあります。この「磐余池」と「磐余市磯池」が同一の池なのか別の池なのかはわかりませんが、記事の隣接からみて、同一の池であったと考えられています。さらに用明天皇は磐余池辺雙槻宮(いけべのなみつきのみや)を造営します。この池辺が磐余池にあたり、この近くに宮を造営したことが推測されます。

 また、大津皇子の有名な辞世の歌に「磐余池」がでてきます。大津皇子の訳語田(おさだ)舎は戒重あたりに推定されており、飛鳥浄御原宮から訳語田舎に連行される間に、磐余池を通ったと考えられています。そうすれば、磐余池は訳語田舎から遠くない、飛鳥からの道の途中にあったと考えられます。

 このことから、香久山北麓の池跡が「磐余池」と考えられてきたのです。しかし、発掘調査では、6世紀後半以前の池跡であることは判明しましたが、池の名称までは特定できませんでした。さらに、今回の池跡は前回検討したように「磐余」ではなく、「百済」や「膳夫」にあった可能性もあります。その意味では「磐余池」ではありえないのです。

 では、今回の池跡が「磐余池」でないとすれば、何と呼ばれていたのでしょうか。応神朝には「百済池」と呼ばれる池名が記されています。百済にある池ということでは、ひとつの有力な候補となるでしょうが、池跡はさらに複数あったと考えられ、池の位置は、地域境界の微妙な場所にあることから、現段階では池の名称までは特定できません。

 磐余池の再検討
 前回に検討したように、磐余の範囲は上ツ道の東、横大路の南、寺川の西にあたる安倍山・東光寺山を中心とした地域と考えられます。

磐余周辺マップ
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 千田稔氏は磐余池を、横大路の南側で上ツ道の西側(現在の阿部の交差点)あたりに想定しています。このあたりは、地形がやや低くなっており、「ミドロ」などの小字も残されていますが、私は磐余の範囲を上記のように考えているので、磐余池は上ツ道の東にあったと考えています。

磐余周辺マップ2
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 ここで注目されるのは安倍山(磐余山)のすぐ北西にある地域です。ここは横大路から100m程南に位置しますが、上ツ道に東接する場所(現在のヤマトー桜井南店あたり)です。ここに「西池田」「東池田」「南池田」という小字名が約200m四方の条里地割の中に残されています(ここではこれらの小字を総称して「イケダ」と呼んでおきましょう)。残念ながら周辺はすでに宅地開発が進んでおり、池跡を示す地形は残されていませんが、これだけ広範囲に池を伺わせる小字が残されているのは重要です。さらにこの区画の南東部には小字「君殿」とあり、宮や建物の存在を伺わせます。これが磐余池と磐余池辺雙槻宮の位置関係と重なります。

 この「イケダ」への水はどこからくるのでしょうか。興味深いのは、東光寺山の東側で寺川に井関があり、ここから引いた水が水路を使い、今回の「イケダ」の北に接して西行することです。また、上ツ道に併走する水路(上ツ道の側溝を兼ねていた)が、やはり「イケダ」の西に接して北上し、合流します。現在これらの水路の水は、大福集落方向へと流れていきますが、寺川との間の狭い範囲に水を供給している井関です。しかし、「イケダ」に池を推定すると、必ずしも水田への供給のためだけに造られた井関ではなく、池への供給も兼ねていたと考えられます。

 このように推定すると、「磐余」の中にある池として「イケダ」が有力な候補となります。そして、それは山麓の谷を堤によって造った池ではなく、平地に造られた池だったと考えられます。




飛鳥時代王宮の造営  (13.7.12.発行 Vol.165に掲載)

 舒明天皇の王宮は、飛鳥岡本宮と百済大宮です。このうち百済大宮は、それまでの王宮よりも大きな宮であったことが、史料から伺われます。今回は、この飛鳥時代の王宮の造営についてみていきたいと思います。ここで注目する視点は、王宮の造営期間と造営体制です。

 飛鳥の王宮の造営期間と体制
 崇峻5年(592)11月3日に崇峻天皇が暗殺され、同年12月8日に、推古天皇は豊浦宮で即位しました。この間わずか1ヶ月で即位したことになります。このことから、豊浦宮は新造の王宮ではなく、既存施設を利用・改修した王宮であったと考えられます。そして、その造営方位も、豊浦寺下層の調査成果からみて、地形に合わせた斜方位であったと考えられています。

 そして天皇は、推古11年(603)10月4日に小墾田宮へ遷宮しました。その造営開始を記す史料はありません。小墾田宮造営の背景には西暦600年の第一回遣隋使がありました。仮に推古9年(601)5月の耳梨行宮行幸が小墾田宮造営の準備と関係するとすれば、最長で2年5ヶ月かかっていることになりますが、この行幸と小墾田宮の造営との関係は明確ではありません。ただし小墾田宮は、豊浦宮とは比べものにならないもので、隋を意識した王宮で、正方位を指向していたことは明らかです。

 続いて舒明天皇は、舒明元年(629)1月4日に即位をしましたが、飛鳥岡本宮に遷宮したのは舒明2年(630)10月12日です。この間、舒明天皇がどこに居住していたのかは明確ではなく、造営の開始時期も記されていません。即位直後から造営が開始されたとすれば、最長で1年9ヶ月間が飛鳥岡本宮の造営期間と理解できます。そして、舒明天皇の即位事情からみて、蘇我氏が王宮造営に関与した可能性が高いと考えられます。

  次の百済大宮の造営開始の詔は舒明11年(639)7月です。そして、百済大宮への遷宮は舒明12年(640)10月であることから、造営期間は1年4ヶ月とみられます。さらに大宮造営のために西国の民を仕丁にあてるなど、それまでにない大規模な造営体制をとっていたことは注目されます。

 皇極天皇は、皇極元年(642)1月15日に即位しました。飛鳥板蓋宮の造営は皇極元年(642)9月19日に開始しています。その造営にあたっては、遠江から安芸国までの広範囲の仕丁を動員しています。その遷宮は、皇極2年(643)4月28日で、約7ヶ月の造営期間で完成させています。わずか半年で王宮を造営していますが、造営体制は百済大宮よりも広範囲から仕丁を動員していることからみて、少なくとも百済大宮と同程度か、それ以上の大規模な王宮であったことが推測されます。このことは、飛鳥宮跡II期遺構の規模をみても頷けます。

 孝徳天皇は王宮を飛鳥から難波へ遷しました。難波長柄豊碕宮です。この王宮の造営過程は複雑ですが、近年の研究では、味経宮の正式名称が難波長柄豊碕宮と考えられています。つまり白雉元年(650)1月1日の味経宮への行幸時には、王宮中枢部の造成が終わっていたとみて、その前年の大化5年(649)には造営が開始されたものと考えられています。そして、白雉3年(652)9月に完成し、「宮殿の様子は、悉く論ずべからず」と荘厳であったと記されています。実際、確認されている前期難波宮跡は藤原宮に匹敵する規模・構造を有していることが判っています。その造営期間は、2年9ヶ月以上にも及ぶことになりますが、それにふさわしい王宮が前期難波宮でした。

 しかし、中大兄皇子らは、孝徳天皇を難波に置いて、飛鳥に戻ります。孝徳天皇崩御後、皇極太上天皇は旧宮である飛鳥板蓋宮で即位し、斉明天皇となりました。この飛鳥板蓋宮は斉明元年(655)冬に火災にあいます。次の後飛鳥岡本宮に遷宮したのは、斉明2年(656)です。残念ながら月日の記載がないので、明確ではありませんが、板蓋宮火災直後から造営を開始したとすれば、最大で1年3ヶ月の造営期間が見込まれます。王宮の造営体制については、記されていませんが、この時期には吉野宮や宮東山の石垣、両槻宮などの造営が相次いでおり、王宮の造営にあたっても、かなりの動員があったことが予測されます。

 天智天皇は天智6年(667)3月19日に都を近江大津宮に遷しました。しかし、大津宮の造営を開始する記録は残されていません。そこで興味深いのは、天智5年(666)冬「京都の鼠、近江に向きて移る」という記事です。少なくともこの頃には遷都の動きがあり、大津宮の造営が始まっていたと推定されます。すると、造営期間は少なくとも3ヶ月から6ヶ月以上あったと考えられます。また、その造営には近江の渡来人の力が大きく働いていたことが考えられます。

 天武天皇は後飛鳥岡本宮を改修して飛鳥浄御原宮としています。壬申の乱に勝利した後、天武元年(672)9月12日に嶋宮に入り、3日後の9月15日に後飛鳥岡本宮に遷宮しました。そして、その冬に宮を増築しています。つまり、天武天皇は母である斉明天皇の後飛鳥岡本宮に入り、そこを改造したことになるのです。

 藤原宮の造営は、天武末年には始まっていました。もっとも条坊区画の造営はそれよりも早く天武5年(676)には造営を開始していましたが、王宮と王都を一体として造営する大規模なものとなっています。

 王宮造営の画期
 ここまで飛鳥時代の王宮の造営期間と体制についてみてきました。しかし、藤原宮の例をみるまでもなく、新しい王宮に遷宮したからといって、王宮全体が完成したとは言い切れません。少なくとも天皇の居住に支障のないところまでは完成したとみて、遷宮後も造営は続いていたと考えられます。しかし、飛鳥時代の王宮の多くは、天皇の居住空間が中心で、公的空間はまだ小さかったと考えられます。藤原宮でも遷都時には、内裏はある程度で完成していたのでしょうが、大極殿・朝堂院は完成していませんでした(飛鳥遊訪マガジン84号参照)。

 参照:「儀式の広場が語るもの- 藤原宮朝堂院朝庭の調査から -

 このことから難波宮と藤原宮を除いては、おおよそ王宮は造営期間内に完成していたとみても問題はありません。

  そこで王宮の造営期間をみてきたのですが、造営期間の大小だけが、王宮の構造・規模が表せるとはいえず、造営の動員体制や王宮の質的構造など、考慮すべき点は数多くあります。
 王宮の造営期間をみると、造営の開始から遷宮までの時期が明確なものは少ないのですが、ほぼ1年以上かかっています。これに対して、短いのは豊浦宮と飛鳥板蓋宮・大津宮です。豊浦宮はすでにみたように、既存施設を改修した可能性が高いと思われます。一方、板蓋宮はわずか半年ですが、造営体制は極めて大規模なもので、その期間を縮めたのでしょう。大津宮は造営開始をどこまで遡るかによって、期間が延びますが、白村江の後の緊急時なだけに、近江遷都には特殊な状況があったと考えられます。一方、期間が長いのは難波宮ですが、これは宮殿中枢部だけでなく、新天地における王宮全体の造営が必要となり、官衙群も充実していました。

 これらを踏まえて、王宮造営変遷の画期を読み取ると、まず、小墾田宮に最初の画期を見いだせます。おそらく豊浦宮までは前時代(古墳時代)的な王宮であったのが、東アジアを意識した正方位の王宮へと変化しました。次の飛鳥岡本宮も同様です。この岡本宮までは蘇我一族の力によって王宮の造営もなされたとみて問題はありません。
 次の画期は百済大宮です。その造営にあたっては、有力氏族ではなく、広く畿内周辺に仕丁を求めている点です。飛鳥板蓋宮では、その労働力の徴発範囲をより広範囲にひろげています。
 そして、難波長柄長柄豊碕宮です。その造営期間は非常に長期にわたります。その理由は、新天地における大規模な造成と、宮殿だけでなく官衙、さらには京も視野に入れたことにあるといえます。これは前期難波宮の発掘成果からもわかり、大化改新を象徴する王宮といえます。しかし、王宮の発展は、ここで停滞します。王宮構造からみても、難波宮の構造は藤原宮にちかく、発展系列からみると突出していました。続く後飛鳥岡本宮の王宮は、その流れからは、やや後退をしています。私はこれを「振り子現象」と呼んでいます。そして、最後の画期は藤原宮です。条坊制を伴う王宮・王都を一体ととして造営していきます。

 このように王宮の造営期間や造営体制は、王宮の規模・構造や質的な変化の一端を現しているのです。
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再び、飛鳥岡本宮を考える  (13.8.23.発行 Vol.168に掲載)

 舒明天皇の最初の王宮は、飛鳥岡本宮でした。その歴史や遺跡については、すでに紹介してきたところです。しかし、ここまでの話を続けてくるなかで、いくつかの疑問が浮かんできます。それは飛鳥岡本宮の造営方位と規模です。飛鳥岡本宮は飛鳥宮跡の下層、I期遺構と推定されていますが、ここに推定されている斜方向の遺構群は、本当に飛鳥岡本宮そのものの遺構であろうか?飛鳥岡本宮は正方位の王宮ではないのか?という点です。今回はこの飛鳥岡本宮について再考をしてみたいと思います。

 飛鳥岡本宮の遺構
 すでに紹介しましたが、飛鳥宮Ⅰ期遺構について、その特色を整理しておきます。
  ・王宮造営にあたって土地の大規模な造成は行っていない。
  ・地形に合わせた北で20度西へ振れる斜方位の遺構で構成される。
  ・その範囲はⅢ期の内郭からエビノコ郭まで広がる。
  ・掘立柱遺構が確認されているのはⅢ期の内郭地区だけである。

  これらの特色が飛鳥宮Ⅰ期遺構の発掘調査でわかっています。

 飛鳥岡本宮の再検討
 飛鳥地域の王宮について、これまでの研究では、飛鳥板蓋宮以降の王宮は南北方位を重視した正方位の王宮と考えられています。これは7世紀前半の遺構群の多くが斜方位をとることと、飛鳥板蓋宮とされる飛鳥宮Ⅱ期遺構が、正方位であることが確認されているからです。

 しかし、私は、推古朝の小墾田宮の位置を飛鳥寺に北接する石神遺跡の東方に推定しました。そして、その遺構方位が正方位をしていることから、推古朝の小墾田宮は正方位をしていると考えています。さらに、舒明朝の百済大宮も吉備池廃寺との関係や、造営体制や期間から大規模な王宮と考えられ、正方位の可能性が高いと考えています。このふたつの王宮と、時期的に挟まれた飛鳥岡本宮も正方位とは考えられないでしょうか。つまり、飛鳥岡本宮も、いま一度、正方位の王宮の可能性を考えてみたいと思います。

 まず、前回も検討した造営期間ですが、舒明天皇は、舒明元年(629)1月4日に即位をしましたが、飛鳥岡本宮に遷宮したのは舒明2年(630)10月12日です。即位直後から造営が開始されたとすれば、最長で1年9ヶ月間が飛鳥岡本宮の造営期間と考えられます。造営体制については明記されておらず、明確ではありませんが、蘇我蝦夷の後盾で即位した事情や、「飛鳥」に営まれた最初の王宮であったことから、蘇我氏が王宮造営に関与したことは容易に推察されます。その後見人の大きさと1年9ヶ月(以内)という期間を考えると、小規模な王宮とは考えられず、少なくとも小墾田宮に並ぶ規模・構造の王宮と考えられます。小墾田宮の場合、王宮設置可能範囲は東西140m、南北170mの微高地ですが、その内郭は100m四方程度でしょう。飛鳥岡本宮もこの規模クラスと考えられます。しかし、飛鳥宮Ⅰ期遺構群が展開する範囲は、Ⅲ期の内郭からエビノコ郭の範囲に広がっています。これまでの調査では、飛鳥宮跡のⅢ期遺構は南の一段高い場所に内郭・エビノコ郭という中心施設が配置され、その北の一段低い場所に官衙群や苑池が展開しています。つまり立地の良いのは、南の高台ということになります。内郭の北方域、つまり飛鳥寺までの間では、確実にⅠ期に遡る遺構は確認されていません。そして、Ⅲ期になって低地を造成していることもわかっています(128号参照)。飛鳥岡本宮もこれまでの推定通り、内郭やエビノコ郭のある高台に展開していたと考えられます。

 では、これまで確認されている斜方位の掘立柱遺構は、飛鳥岡本宮そのものの遺構なのでしょうか。確かに柱掘形は1mを越えるものがあり、宮殿クラスの柱穴とみても問題はありません。しかも、その深さは30cm程しかなく、Ⅱ期遺構の造営に際して大きく削平されていることがわかります。この高台の中でもっとも立地の良いのは、山側、つまりⅢ期内郭の東側です。Ⅱ期遺構もⅢ期遺構よりも山側に寄っていることからもわかります。内郭の東側は調査が少ないこともあり、Ⅰ期遺構は確認されていません。高台である立地から、Ⅱ期遺構造営にあたり、完全に削平されてしまった可能性も考えられます。また、従来Ⅱ期と推定されている遺構の中にも、Ⅰ期に属するものがあるかもしれません。よって、このあたりに正方位をもつ王宮中枢部を想定することも可能かと思われます。

 発掘遺構によって、確認されていることではないので、現状では憶測の域をでませんが、飛鳥岡本宮のこれまでの認識を再検討することは必要と思います。その成果は小墾田宮や百済大宮、そして飛鳥の開発における位置づけなど、波及する問題は非常に大きいので、今後の調査視点のひとつとして、考えておくべきでしょう。





舒明天皇陵の実像  (13.10.18.発行 Vol.172に掲載)

 舒明天皇は、舒明13年(641)10月3日に百済大宮で崩御し、百済大宮の北で殯をしました。翌年12月、滑谷岡に葬られました。その場所は明日香村冬野ともいわれていますが、該当する古墳もなく不明です。そして、皇極2年(643)9月には、押坂陵に改葬されました。今回はこの押坂陵についてみてみたいと思います。

 押坂陵
 『延喜式』によると、舒明天皇陵は「押坂内陵 高市崗本宮御字舒明天皇。在大和国城上郡。兆域東西九町。南北六町。陵戸三烟」とあります。元禄9年(1696)の『前王廟陵記』では、その場所は特定されていませんが、桜井市忍阪あたりを想定しています。翌年の南都奉行所が地元に照会し、報告された覚書『山陵取締之件』では、桜井市忍阪にある段ノ塚について、いろいろと報告されてきました。それによると、地元には伝承はないものの、段ノ塚はその形がおよそ四角であること、その南斜面に大石があり、その隙間から覗くと広い奥行きの空間があることが報告されています。また、文久年間(1861~64)の『山陵記』には、石室の中に2基の石棺があり、奥の棺は横向けに、手前の石棺は縦向けに置かれていたことが記されています。これをもとに南都奉行所は段ノ塚を舒明天皇陵としたことがわかります。その後も、この考え方が踏襲され、明治8年(1875)に宮内省は段ノ塚古墳を舒明天皇陵に比定しました。

 段ノ塚古墳の内容
 桜井市忍阪にある段ノ塚古墳は、西側に開く谷の奥ちかくの北側(南斜面)に築かれています。測量図からみると、三段になった段の上に、円丘が乗っています。段は南斜面に築造されていることから、古墳の南側はエプロンのように扇形に広がっています。墳丘は円墳とされていましたが、詳細な観察から、八角形墳であることがわかりました。八角形墳はその後、斉明・天智・天武・文武と続く墳形の最初の事例です。墳丘には、榛原石の加工磚が葺かれていたようで、築造当初は、正面からみると、段の上に築かれた八角をした石のピラミットのように見えたことでしょう。石室は明確ではありませんが、『山陵取締之件』や『山陵記』の記録から、横口式石槨ではなく、石棺を二つ安置できる横穴式石室であることがわかります。

 舒明天皇陵の実像
 段ノ塚古墳は、忍阪地域にある大規模な古墳で、墳形が八角形をしていることから、舒明天皇陵とみて間違いないものと思われます。さらに『延喜式』には田村皇女の墓が舒明天皇陵内、大伴皇女の墓が押坂陵域内、皇女の墓が押坂陵域内東南にあると記されており、大伴皇女・鏡皇女の墓とされる古墳が、押坂陵の東方にあります。そして、舒明天皇と合葬された田村皇女の石棺が、石室内の手前の棺と考えられます。

 ここで最も大きな課題となるのは、八角形墳が舒明天皇陵からはじまることです。それまでの天皇陵は、敏達天皇陵までは前方後円墳、そして推古天皇陵までは方墳でした。ここで新たに八角形墳を採用する意味を考えなければなりません。つまり、天皇が他の豪族とは違う存在であることを、古墳においても誇示する必要がありました。そこで、中国の思想などを取り入れた、それまでの我が国にはなかった独自の墳丘形式を採用したのです。ただ、舒明天皇陵が舒明天皇の意思において八角形を採用したのか、あるいは舒明陵の築造を主導した皇極天皇によって発案されたのかは、今後、舒明朝の評価を考える時に、大きなポイントとなります。




10舒明朝の意義と課題  (14.1.10.発行 Vol.179に掲載)

 『古事記』編纂1300年を迎え、舒明朝が見直されています。それは遺跡の側面からも伺うことができるものです。これまで舒明朝の事跡は『日本書紀』にあまり記されていませんでした。故に舒明天皇は影の薄い存在だったのです。しかし、百済大寺の発見や、百済大宮の存在、さらに八角形墳の創出など、舒明朝の遺跡が明らかになると、その規模や独創性などから、舒明朝の再検討がなされたのです。最後にこのような点を整理し、舒明朝の意義と課題についてみてみましょう。

 『古事記』にみる「今」
  『古事記』は神代の時代から推古朝までのことを記す「ふることのふみ」です。その序文には「上古の時」とあり、編纂対象が「上古の時」であり、編纂対象以降が「今」と位置づけています。つまり飛鳥・奈良時代の人々にとって、推古朝以前が「上古」であり、舒明朝以降が「今」ということになります。「推古」の名称も「いにしえ(古代)を推す」という意味で、『古事記』の幕引きを務めた推古天皇にふさわしい漢風諡号といえます。『古事記』の編纂状況をみると、ここに推古朝と舒明朝の間に画期があったことが伺えます。

 舒明の国見歌と香久山
  『万葉集』巻1-2に「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は」とあり、舒明天皇が香具山で望国した時の制歌とされています。国見とは、単に国中を眺めたというだけではなく、最も生命力の旺盛な春先に眺望の良い高地に昇り、四周を遠望して、支配下の国土を誉め、国土繁栄と長命を祈る予祝の儀礼です。まさに、「今」の時代の最初の天皇にふさわしい歌であり、新しい時代を象徴する儀礼でもありました。

 飛鳥でのはじめての王宮
  飛鳥岡本宮は、飛鳥寺の南方に位置し、「飛鳥」においてはじめて営ま
 れた王宮です。これ以降約60年間にわたり、この「飛鳥」に王宮が建て
 続けられました。その意味でも舒明朝が、飛鳥宮の時代の始まりといえま
 す。この王宮は、地形に合わせた方位をもつ、小規模なものと考えられて
 きましたが、推古朝の王宮や百済大宮の存在を考えると、正方位であった
 可能性も模索すべきです。

 百済大寺の革新性
  大官大寺の前身であった百済大寺は、その位置を含めてまったく不明でした。しかし、吉備池廃寺の発掘によって、並外れた規模の堂塔と伽藍が確認されました。それまでの寺院とは比べものにならない大規模なもので、後の大官大寺に匹敵するものです。このことから、吉備池廃寺は百済大寺と推定されたのです。そして、その塔は九重塔でした。当時、東アジア各国では、国家のシンボルとして九重大塔を建立していました。百済大寺の塔も、まさに東アジアのスタンダードとしての位置付けができ、我が国の東アジア世界での位置を確かなものとするものでした。

 新しい墳墓スタイルの創造
  舒明天皇陵は、その墳形にはじめて八角形を採用します。これはその後の飛鳥時代天皇陵のスタンダード・モデルとして位置づけられます。この独創的な墳形は、天皇の地位が、他の豪族よりも上位にあることを示すもので、国土の隅々まで治めるという思想的背景がありました。

 舒明朝の意義と課題
  このように、近年の調査研究は、それまでの舒明像を大きく塗り替えるものとなっています。『日本書紀』には明確に記されてはいませんが、王宮や大寺、そして墳墓にその思想が含まれています。そして、それは東アジア世界を見据えたものであったこともわかってきました。しかし、舒明朝の評価が完全に再認識されたかというと、まだ課題も残されています。舒明朝がひとつの画期であったことは間違いありません。当時の蘇我氏と舒明天皇とは、舒明8年頃を境に距離があいたようにみえます。この距離感がどのようなものであったのか。遺跡でみると八角形をした墳墓の創出が舒明天皇の意思であったのか、そして帰国した学問僧の存在など、もう少し検討が必要です。その内容の如何によっては、舒明朝の評価、さらに次の皇極朝の評価へと影響するのです。







『皇極朝の王宮と政変』

皇極天皇の時代  (14.2.21.発行 Vol.182に掲載)

 舒明天皇は、舒明13年(641)10月に崩御しました。そして翌年1月には、皇后であった宝皇女が即位し、皇極天皇となりました。皇極天皇は、敏達天皇の曾孫で、押坂彦人大兄皇子の孫、茅渟王と吉備姫王の娘です。この時期は、国内外において、激動の時代でした。蘇我氏の力が強大となり、上宮王家が滅ぼされ、その力は天皇をも凌ぐ勢いとなったのです。そこに現れたのが、中大兄皇子と中臣鎌足でした。そして、大化改新のきっかけともなった乙巳の変が起こったのです。この時期の遺跡はあまり多くありませんが、ここで紹介する遺跡は、まさに皇極朝の歴史と意義を語りかけているのです。しかし、これまで皇極朝についてはあまり大きな評価はみられませんでした。それは乙巳の変という歴史的な事件と斉明朝の開発とに対比されたからでしょう。今回は、皇極朝の王宮と蘇我氏の動向を中心に、皇極天皇の時代についてみていきたいと思います。

 皇極天皇の王宮
 皇極天皇は642年1月15日に即位します。この即位した時点での宮は明らかではありません。当時は天皇と皇后は別の居住地でした。舒明天皇は百済大宮に居を構えていましたが、皇后である宝皇女の宮は不明です。天皇に即位してからも百済大宮に居を構えたとは考えられず、飛鳥板蓋宮の完成もまだ先です。9月には百済大寺の造営を継続するために近江国と越国の人夫を動員するように命じており、王宮である飛鳥板蓋宮の造営にあたっては、遠江から安芸までの国の人夫の動員を指示しています。年末の12月21日には、舒明天皇を滑谷岡に葬り、その日に小墾田宮に遷ります。小墾田宮の位置については、飛鳥寺に北接する場所と考えていますが、天皇の葬儀が終わったことをうけて、小墾田宮に遷ったのでしょう。その意味で、小墾田宮の存在意味が重要となります。そして、皇極2年(643)4月には小墾田宮から、新造された飛鳥板蓋宮に遷ります。
 
 皇極朝の内政
  『日本書紀』には、皇極朝の政治・政策についてほとんど記されていません。皇極朝がわずか4年しかなかったこともありますが、多くが蘇我氏の暴権と乙巳の変へ至る経緯について記されているからです。皇極天皇の性格を伺わせるエピソードに雨乞いがあります。南渕の川上で、四方を拝して天を仰いで祈ると、大雨が降ったということがあります。このことは、天皇の徳を示すとともに、シャーマニズム的な性格を表しています。

 蘇我蝦夷は舒明朝同様に大臣に就任しています。しかし、皇極朝からは実質上、子供の入鹿が実権を握っていました。そして蘇我氏は、上宮王家を滅ぼしています。山背大兄皇子(上宮王家)は、舒明即位にあたって田村皇子と対立しており、蘇我本宗家にとっては、当時もっとも大きな反対勢力でした。この上宮王家を倒すことにより、蘇我本宗家の権力を押さえるものはなくなったといえます。そして、この勢力に反旗を翻したのが、中大兄皇子・中臣鎌足で、乙巳の変を迎えるのです。

 皇極朝の外交
 皇極朝には、国内だけでなく、朝鮮半島でも百済と高句麗で政変がありました。特に642年という年は重要です。618年の唐の成立以来、しばらく小康状態を保っていた朝鮮半島情勢の画期となった年で、その後の新羅による半島統一に繋がるのです。百済では、義慈王(扶余義慈)が武王の崩御後の641年に即位しました。そして、百済が新羅に対し侵攻をくりひろげ、旧加耶地域の領土を奪還しました。さらに高句麗と結託して、かつての首都漢城の故地の奪還をめざし、侵攻を開始しています。一方の高句麗でも641年に栄留王の弟(弟王子)が亡くなり、栄留王も淵蓋蘇文により暗殺されました。そして、642年に宝蔵王が即位しました。いずれも百済・高句麗の最後の王となりました。このように642年頃を契機として、百済・高句麗は国政や軍事の強化をはかり、時には百済と高麗は結託して、新羅侵攻を企てたのです。このため、643年に新羅は遣唐使を派遣し、百済・高句麗の攻撃を訴え、救援を求めました。結果的に、これが唐の半島への介入を招くことになり、後の統一新羅へと着地するのです。

 このように朝鮮半島では、この時期に政変が相次いでいました。この情報は、『日本書紀』にも断片的に記されており、我が国にももたらされていたのです。皇極朝はこのような激動の国際情勢の中で、国内政治も無関係ではいられず、我が国の立ち位置を決める決断の時でもあったのです。そして、乙巳の変が起きたのです。





飛鳥板蓋宮の実像  (14.4.4.発行 Vol.185に掲載)


 舒明天皇は、飛鳥岡本宮を王宮としていました。この王宮は、「飛鳥」に営まれた最初の王宮で、その後、飛鳥時代の歴代天皇はここに王宮を継続的に造ります。皇極天皇もここに飛鳥板蓋宮を造営しました。

 飛鳥板蓋宮の造営まで
 皇極天皇は皇極元年(642)1月15日に即位します。当時、天皇と皇后は別の宮に居住しているのが通例です。そのため、皇后であった宝皇女時代の宮はよくわかりません。舒明の百済大宮には同居していなかったと考えられます。当然、皇極天皇として即位してからも、先代天皇宮である百済大宮には住んでいません。皇極元年12月21日には、小墾田宮に遷ります。この日は、舒明天皇を滑谷岡に埋葬した日であり、小墾田宮の遷宮は、夫の葬儀に一段落がついたことを契機にしたと考えられます。その後、飛鳥板蓋宮への遷宮は翌年の4月ですから、小墾田宮は皇極天皇の正宮として造営されたものではありません。しかし、ここで小墾田宮に一時的に遷っていたことは、小墾田宮の重要性を暗示しています。この小墾田宮は、石神遺跡の東隣接地であったと考えています。
飛鳥板蓋宮の造営
 『日本書紀』によると、飛鳥板蓋宮の造営開始は皇極元年9月19日です。この半月前には、百済大寺の造営を指示しています。百済大寺は、桜井市吉備にある吉備池廃寺であることが確実視されており、香具山北方の寺院造営は継続し、宮は飛鳥の地に造営することになります。その造営体制は、遠江から安芸までの国の人夫を大規模に動員しています。実際に完成して、遷ったのは皇極2年4月28日ですから、造営期間は7ケ月になります。造営体制と期間から考えて、大規模な王宮であったことが考えられますが、飛鳥の中心に王宮を造ったことは、蘇我本宗家の影響力が大きいと思われます。

 飛鳥宮跡Ⅱ期遺構
 飛鳥板蓋宮は、これまでの調査・研究の成果によると、飛鳥宮跡Ⅱ期遺構と推定されています。Ⅲ期遺構の内郭と重なるものの、その中心は少し北東にずれているようです。これまでの調査で、断片的ながら正方位の塀や溝が見つかっており、復原すると東西約190m、南北198m以上の区画になります。この区画の中には建物はまだ確認されておらず、詳細については、今後の調査を待つことになりますが、藤原宮などのように、内裏の南に朝堂院を配置する構造ではなく、飛鳥宮Ⅲ-A期のように内郭とそれを囲む外郭によって構成されていることが推定されます。従来、飛鳥岡本宮とされる飛鳥宮跡I期遺構が、地形に即して斜方位をすることと比べると、その造営の理念や規模ががうかがい知れます。ただし、岡本宮については、現在確認されている飛鳥宮I期の斜方位の遺構が、本当に王宮中心部の遺構かという点については私は疑問をもっています。

 いずれにしても、飛鳥板蓋宮はかなり大規模な王宮であり正方位に造営されていたことは想像でき、発掘調査でもこれを裏付けています。しかし、飛鳥宮跡Ⅱ期の重要性はそれだけではなく、飛鳥岡本宮と同じ場所に王宮を造ったことにあります。それまで、天皇は代々王宮の位置を変えてきました。それが「飛鳥」と呼ばれる地に、継続して建てられるようになったのです。すでに指摘していたように、自然地形や飛鳥寺によって、王宮建設予定地として確保されていました。そして、飛鳥岡本宮や飛鳥板蓋宮、さらに後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮へと続くのです。このことは、継続的な王宮への一歩でもありました。





上宮王家の宮と寺  (14.6.27.発行 Vol.191に掲載)

 推古元年(593)に聖徳太子、つまり厩戸皇子は摂政となり、蘇我馬子と共に、様々な政策を行ってきました。この厩戸皇子は幼少の頃、磐余の地域に居を構えていました。その宮殿名は「上宮(かみつみや)」と言います。このことから、厩戸皇子一族が上宮王家と呼ばれることになります。今回は、厩戸皇子をはじめ上宮王家の宮と寺についてみていきたいと思います。

 上宮(うえのみや)
 用明元年(586)正月に「是の皇子、初め上宮に居しき。後に斑鳩に移りたまふ。」、推古元年(593)4月に「父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を称えて、上宮厩戸豊聰耳太子と謂す」と『日本書紀』に記されています。この用明天皇の宮は、磐余池辺雙槻宮であり、その南に上宮があることがわかります。磐余の位置はすでにみたように、磐余山(安倍山)を中心とした地域にあったと考えています。

 ここで上宮の有力な候補地としてあがるのが桜井市の上宮遺跡です。この上宮遺跡は寺川の西側にあたり、磐余山の南部に位置しています。これはまさに用明天皇の磐余池辺雙槻宮の南にあったとされる厩戸皇子の上宮の位置に重なります。この上宮遺跡では5時期の変遷がありますが、このうち6世紀後半から7世紀初頭の時期には、四面庇の正殿とこれを囲む塀、そして石敷遺構や園池遺構があります。まさに、皇子の宮としてふさわしいものです。この宮で、厩戸皇子は推古13年(605)まで、過ごすことになりました。

 斑鳩宮
 厩戸皇子は、推古9年(601)2月に斑鳩宮の造営に着手し、斑鳩に遷るのは、推古13年(605)10月です。実に4年以上の年月を要しています。これは宮だけを造営するには長すぎる期間なので、斑鳩宮と斑鳩寺、さらに斑鳩の都市計画まであったのではないかとも考えられています。斑鳩宮は厩戸皇子が推古22年(622)に亡くなった後は、山背大兄王に伝領されたと考えられます。そして、皇極2年(643)、蘇我入鹿によって上宮王家が滅ぼされた時に、灰燼にきしたとされます。

 『法隆寺東院縁起』によると、東院は斑鳩宮の跡地に建てられたとされています。このことを示すように、東院地区の下層では、掘立柱建物や石敷、さらに焼けた壁土や瓦が見つかっています。ここで見つかった建物群は、小規模な建物で構成されるA期、整然と配置された大型建物群のB期があります。さらにこれを区画する溝も確認されており、その敷地は最低でも2町四方の大きさがあったと推定されます。この東院下層で見つかった建物群は、敷地の南東隅に位置することになります。

 斑鳩寺
 創建時の斑鳩寺は、若草伽藍と呼ばれており、法隆寺西院伽藍の南東にあたります。ここでは、北から西に約20度振れる方位をもつ伽藍があり、南に塔、北に金堂が並ぶ配置がわかっています。これまでの調査・研究によって、若草伽藍の金堂は607~610年には完成していたと考えられています。その南に塔が建てられるのは、620年代の厩戸皇子が亡くなってからでした。おそらく山背大兄王が造営を引き継いだのでしょう。皇極2年(643)には上宮王家は蘇我本宗家によって滅ぼされますが、若草伽藍は存続していました。しかし、『日本書紀』には天智9年(670)に「災法隆寺、一屋無餘」という記事があり、若草伽藍は焼失しました。発掘調査でも火災の痕跡がみられます。

 この斑鳩寺が再建されたのが、法隆寺西院伽藍です。若草伽藍の北西に建て替えられました。東に金堂、西に塔を配置し、中門から連結した回廊が取り囲む伽藍をもちます。西院伽藍の金堂の建築が始まるのは670年代で、若草伽藍の焼失直後から建築が始まり、680年には完成していたと考えられます。塔の建築もほどなくして開始されましたが、完成は700年代までくだります。そして、690年代~700年代に中門・回廊が造られ、和銅4年(711)に仁王像の設置をもって、一応の完成を迎えました。

 厩戸皇子と飛鳥
 このように上宮王家の宮は磐余から斑鳩へと遷り、その斑鳩では宮とセットとなす寺院の建立もされていたことがわかります。しかし、厩戸皇子は飛鳥で数々の政策を行ってきましたが、史料上は飛鳥に宮を構えたとは記されていません。厩戸皇子が斑鳩に拠点を造った理由は、交通の要所ということもありますが、やはり蘇我本宗家との確執が生じたのが大きな理由のひとつであったのでしょう。

 では、厩戸皇子の飛鳥での拠点は本当になかったのでしょうか。唯一可能性が考えられるのは、橘寺の場所です。ここでは寺造営以前の掘立柱建物の一部が確認されていることと、橘寺が厩戸皇子誕生の地としての伝承があることから、皇子と関係深い地であることがわかります。このような厩戸皇子の飛鳥での拠点の可能性も、今後は模索する必要があるでしょう。





斑鳩諸宮・斑鳩諸寺  (14.10.3.発行 Vol.198に掲載)

 斑鳩には上宮王家の斑鳩宮を含めて、史料上4カ所の宮があったとされています。また、斑鳩の寺院も、宮の跡地に建てられたものも含めて、4寺院があります。今回は、これらの宮と寺院を紹介したいと思います。

 斑鳩諸宮
 斑鳩には前回も紹介した厩戸皇子・山背大兄王の斑鳩宮があります。それは現在の法隆寺東院下層で見つかった建物群です。ここが斑鳩宮の南東隅と考えられている所です。

 『日本書紀』によると、厩戸皇子は斑鳩宮で亡くなったと記されていますが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には、田村皇子が厩戸皇子の病気見舞いに飽波葦墻宮(あくなみあしがきのみや)に行った記事や、『聖徳太子伝私記』には飽波葦墻宮で亡くなったことが記されています。この宮は厩戸皇子の妃で、膳臣傾子の娘である菩岐々美郎女の宮でもあったとされており、その子である長谷王がここを伝領したとも考えられています。現在、その場所は成福寺周辺の上宮(かみや)遺跡とよばれ、公園整備に伴って、奈良時代の建物群が見つかっています。この建物群は称徳天皇が利用した行宮である飽波宮ではないかとされました。この時の調査では飛鳥時代の建物は確認されていないものの、7世紀前半の土器が比較的多く見つかっていました。その後、成福寺の西側の調査で、7世紀前半の井戸が見つかり、やはり飽波葦墻宮はこのあたりに推定できるようになっています。

 岡本宮は、『日本書紀』によると推古14年(606)に厩戸皇子が法華経を講じた宮と記されています。一説には、これは飛鳥にある岡本宮ではないかという説もありますが、『日本霊異記』には、岡本尼寺が厩戸皇子の宮を改めたものとされています。「法起寺塔露盤銘」によると厩戸皇子が亡くなるときに、山背大兄王に岡本宮を寺にするように遺言したと記されています。山背大兄王の母は蘇我馬子の娘である刀自古郎女であることから、岡本宮は刀自古郎女の宮であったと考えられています。そして、その場所は、斑鳩町岡本にある法起寺の場所です。法起寺の下層からは北で西へ約20度振れる溝や建物・井戸がみつかっており、法起寺創建以前の620~630年代の瓦もあることから、岡本宮には小規模な仏殿があったとも推定されています。

 中宮(なかみや)は中宮寺跡の下層に推定されています。現在の中宮寺から東500mの地が創建当初の中宮寺跡です。ここは厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女の宮を寺としたと『聖徳太子伝暦』に記されています。この名称は、中宮=皇后から付けられたと考えられます。または、中宮が斑鳩宮と飽波葦墻宮と岡本宮の中央に位置することから、名付けられたとも考えられます。この中宮寺跡の下層で、掘立柱建物や塀がいくつか確認されていますが、これが中宮に関わる遺跡なのかもしれません。

 斑鳩諸寺
 斑鳩寺は斑鳩宮の西に接して、塔・金堂と南北に並ぶ伽藍です。斑鳩宮と対置するのは興味深い点で、いずれもほぼ同じ振れをもつことから、同一設計のもとで計画されたと考えられます。しかし、この伽藍も天智9年(670)に焼失し、現在の法隆寺西院伽藍として再建されました。そして、斑鳩宮跡地に奈良時代に東院が創建されましたが、後に法隆寺に含まれることになります。

 中宮寺も、南に塔、北に金堂を配置する四天王寺式の伽藍配置です。ただし、回廊は確認されず、なかったと考えられます。金堂は、当初は凝灰岩の基壇であったものを、瓦積基壇に改修されたと考えられています。塔には巨大な心礎が埋め込まれており、金環やガラス玉などが見つかっています。これらの伽藍は、出土した瓦からみて、創建時期は620~630年代と考えられます。

 法起寺は岡本寺や池後寺とも呼ばれていました。相輪の下にある覆鉢と呼ぶ部分には露盤があり、ここに寺の創建理由や造営過程が記されています。現在は、創建時の建物は塔しか残っていませんが、塔の西側には金堂がありました。中門と講堂を回廊によってつなぐ、法起寺式伽藍配置です。金堂は638年に建てられ、塔は685年に造営着手し、706年に露盤をあげて完成したと考えられます。現在ある塔は創建当初のものです。

 法輪寺は三井寺とも呼ばれますが、法隆寺と同じ伽藍配置をしています。その創建には二つの説があります。ひとつは推古30年(622)に厩戸皇子が病気平癒を願い山背大兄王に造らせたとする説です。もうひとつは斑鳩寺焼失後に、寺地が定まらなかったために法輪寺をつくったとする説です。塔周辺からは7世紀後半の瓦が出土することから、塔はこの頃の建立と考えられます。ただし、基壇土の中からは7世紀前半の瓦が出土することから、前者の説が創建時期にちかいと考えられ、金堂がまず建てられたのでしょう。

 このように斑鳩には上宮王家にかかわる人々の宮や寺院が数多く建てられていました。このような景観は、飛鳥にも匹敵する景観であり、斑鳩は飛鳥と並ぶ重要な地域であったことがわかります。





斑鳩の都市的景観の実態  (14.12.12.発行 Vol.203に掲載)

 斑鳩には、4つの宮と4つの寺院があったことがわかっています。これだけ施設が集中すると、都市計画の基に配置されていても良さそうで、実際にそのように考える説もあります。その基準となるのは龍田道と、発掘調査で確認された斑鳩寺若草伽藍と斑鳩宮でした。今回は、斑鳩地域の都市的な景観について考えてみたいと思います。

 斑鳩の偏向地割
 斑鳩地域の地割をみると、ほぼ正方位の大和国統一条里に混じって、北で西に20度振れる地割と、北で西に8度振れる地割が断片的にみられます。前者は斑鳩寺や斑鳩宮とほぼ同じ方位を示しており、7世紀前半のもの。後者は現在の法隆寺と同じ方位を示しており、7世紀後半の地割と考えられています。つまり、20度西偏→8度西偏→正方位と変化したと推定されています。特に、20度西偏する地割は、龍田道と並行することや遺存地割が多く残されていることから、斑鳩寺・斑鳩宮を中心に、聖徳太子の都市計画により、方格の地割があったのではないかという説が有力になっています。そして、この地割こそ、後の法隆寺の所領の水田区画とされています。

 このように斑鳩地域には、後の条坊や条里に繋がるような方格の地割があったと考えられていますが、7世紀前半段階の飛鳥にも確認されていない地割が斑鳩にあったとは考えられません。そこで、この地域の景観についてみていきましょう。


斑鳩マップ

 龍田道・太子道と斑鳩大道
 龍田道は、大和盆地から斑鳩南方を通過し龍田川を越え、龍田関・亀の瀬へ向かう道です。富雄川・大和川・龍田川と矢田丘陵に挟まれた場所が、斑鳩の中心部ですが、龍田道はここを東西に横断する形で通過しています。この区間の龍田道は近世奈良街道として、現在も道が残されており、古代龍田道もほぼ同じ場所を通過していたものと考えられます。この龍田道は、法隆寺南方を境に東半は20度西偏、西半は8度西偏と「く」字形に微妙に方位を変えています。富雄川を渡った東側では、太子道と直交していたと考えられますが、北の横大路(正東西道路)とは、富雄川右岸あるいは左岸に沿って道路があったのでしょう。一方、西方の龍田川を渡たる場所には現在も竜田大橋が架かっています。

 太子道は飛鳥から斑鳩を結ぶ斜行する道路です。現地に残る道路や畦の痕跡から、ほぼ直線で結ばれていますが、ところどころで「く」字形に屈曲します。斑鳩周辺では富雄川の東を北西に通過して、高安集落で富雄川を横断、法起寺あたりまで延びていたのでしょう。北端では矢田丘陵を北東へとめぐる自然道に接続するのかもしれません。

 これが斑鳩地域の幹線道路ですが、もうひとつ龍田道の北4町のところに、20度西偏する地割があります。これが斑鳩寺や斑鳩宮とほぼ同じ方位を示し、斑鳩寺の南辺にもあたります。この地割痕跡は斑鳩宮から中宮寺跡にかけては明瞭で、さらに西方にも断片的に地割痕跡が読み取れます。この路線の西端は龍田川の手前で、龍田道に接続し、また東方へは太子道と交差して、富雄川を越えると北の横大路に接続することにります。このことから、このルートは龍田道のバイパス的な道と考えられます。特に斑鳩寺・斑鳩宮に面することから、ここでは「斑鳩大道」と仮に呼んでおきましょう。

 遺跡の方位
 これまでの研究では、斑鳩地域には20度西偏する地割があったとされ、これをもとに方格地割が形成されていたと推定されてきました。しかし、若草伽藍の報告書での再検討では、若草伽藍と法起寺下層遺構はほぼ20~26度の振れに収まりますが、同時期とされる斑鳩宮(東院下層遺構)は15~18度の振れで、約2~8度の違いがみられます。これは斑鳩寺と斑鳩宮という隣接地で、ほぼ同時期でも微妙に方位が異なることを意味しています。さらに中宮寺下層やその他の遺跡も異なる方位をもつことから、一概にすべてが20度の地割で統一されていたとはいえないことになります。

 斑鳩の空間構成
 これらをもとに、斑鳩地域の空間構成をみてみましょう。7世紀前半には斑鳩大道が基準となっていたと考えられます。これは竜田道東半に並行するものですが、両者の間には遺跡は確認されておらず、地割痕跡も残されていないことから、あまり開発されていなかったと考えられます。そして斑鳩大道の北に接するように、北方からのびる尾根の微高地に斑鳩宮、隣接する尾根に斑鳩寺を建設したのです。そして、このあたりには方格の地割はなく、斑鳩大道に(ほぼ)直行する区画や道路が断片的にあったのではないかと考えています。また、斑鳩大道も大局的には直線ですが、小さな丘陵や湿地があると、これを迂回していたのでしょう。この様相は、推古朝飛鳥の古山田道とも共通する点です。

 しかし、斑鳩宮が焼失し、さらに斑鳩寺も焼失すると、この地域の中核施設がなくなってしまいます。現法隆寺は斑鳩寺の西の丘を削って建立します。斑鳩寺の寺域をも含みこむ広大な敷地をつくるためです。そして、その方位も8度西偏とそれまでとは異なる振れをしています。これは尾根がのびる方向と基本的に合致することから、地形に影響された方位であると共に、龍田道西半の方位ともほぼ合致します。このように法隆寺の地割は西院伽藍を中心とした範囲にとどまり、参道を通して、竜田道に接続していたのでしょう。

 これらが現段階での、斑鳩の空間配置の素描ですが、さらなる検討による検証が必要となります。いずれにしても斑鳩地域は、飛鳥と並んで興味深い地域であることは間違いありません。





南淵と朝風  (15.2.6.発行 Vol.208に掲載)

 中大兄皇子と中臣鎌足は、南淵にある請安先生のもとに通いながら、蘇我本宗家打倒の策を練っていたとされています。南淵請安は僧旻と共に、推古16年(608)に遣隋使で隋に渡り、隋帝国の滅亡と、大唐帝国の興隆という大転換点をその身で感じていました。そして、隋唐の政治体系や宗教など、国際性の高い思想を得て、舒明12年(640)に日本へと帰ってきたのです。残念ながら南淵請安は乙巳の変直前に亡くなりますが、僧旻は難波での新政権の中核となった人物です。

 南淵
 南淵請安の名前の由来となっている「南淵」は古代の地域名称です。残念ながら、今は南淵という地名は残っていません。現在の「稲渕」がその遺称地であると考えられています。しかし、古代南淵の範囲は、もう少し広かったと考えられます。『日本書紀』用明2年(587)に鞍部多須奈が天皇のために出家し丈六仏と寺院を建立したと記されています。坂田寺です。同様の記事が推古14年(606)にもあり、南淵の坂田尼寺とあります。年代はともかく、坂田寺跡が「南淵」にあることがわかります。また、皇極元年(642)には、天皇が「南淵の河上」で四方を拝んで、雨乞いをしたと記されています。その場所は諸説があって確定していませんが、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社前の直下にある「宇須瀧」や「ハチマンダブ」とよばれる地、あるいは、さらに奧の女淵とも伝えられています。さらに天武5年(676)5月には「南淵山・細川山」の伐採を禁止する記事があります。このことから冬野川の南及び北の山が「南淵山」「細川山」と考えられます。

 これらのことから「南淵」というのは、かなり広範囲に広がるものと推定され、厳密にその境界は提示できませんが、冬野川の南で、飛鳥川沿いの両岸地域。そして、南方は栢森あたりまで含むものと推定されます。

 朝風
 この地域に南淵請安が居住していたと推定されますが、その場所はまだわかりません。ここで重要なのは「朝風」と呼ばれる地域です。平城京長屋王邸で出土した長屋王家木簡に「旦風」や「竹野王」を記すものがいくつかあります。そして竹野王の山寺があったことも記されています。この「旦風」は「あさかぜ」と読み「朝風」のことです。現在でも稲渕と平田の境にある丘陵の峠を「朝風峠」と呼んでいます。つまり「朝風」とは、この丘陵の稲渕側、棚田で有名な地域周辺です。現在は山林と水田が広がる風光明媚な土地となっています。ここに奈良時代には少なくとも竹野王ゆかりの山寺「仮称・朝風廃寺」があったことになります。さらに中世まで「朝風千軒」と伝承される集落があったことがわかります。現在の稲渕集落は室町時代頃に突然形成されたもので、朝風から稲渕へと集落が遷ったと考えられます。これらのことから南淵請安の居住地は、朝風にあったと考えられます。

 南淵請安の墓
 南淵請安先生の墓は、稲渕龍福寺に隣接する、飛鳥川の蛇行する尾根の先端にあります。ここには談山神社が鎮座しており、明神塚と呼ばれる塚があります。この神社の創建年代は明らかではありませんが、1736年の『大和志』に記録があることから、この頃までには墓もここにあったことがわかります。ただし、この場所は墓(古墳)を築造するのにふさわしい立地ではありません。特に、時代的にみて南淵請安の墓は、7世紀中頃の終末期古墳と考えられることから、この墓が現在地に移されたのは確実です。稲渕龍福寺にある天平勝宝3年(751)の石塔には「竹野王」の銘文が刻まれており、本来は「旦風」の地にあったことが記されています。よって、朝風の地から稲渕へ、室町時代以降に移されたことがわかります。このことからみて南淵請安の墓も朝風にあったと考えられます。そして、朝風の地に小字「セイサン」「アサカゼ」が残されていることは注目されます。いずれにしても、朝風に未発見の終末期古墳が眠っている可能性が高いと考えられます。あるいは塚本古墳の推定年代がもう少し新しくなれば、候補地のひとつになるのかもしれません。

 いずれにしても、この時代の南淵は乙巳の変直前の歴史の転換点の舞台として現れ、まだ未解明な集落や古墳が、棚田の下に眠っているのです。





蘇我本宗家の邸宅と甘樫丘  (15.3.20.発行 Vol.211に掲載)

 蘇我氏が最初に居住した邸宅は、現在の曽我町とされています。ここには今も蘇我馬子が創立したという伝承をもつ宗我坐宗我都比古神社が鎮座していますが、未だ邸宅に関わるような遺跡は見つかっていません。その後、蘇我氏は畝傍山から飛鳥方面へと勢力範囲を東方に広げていきます。

 蘇我稲目の邸宅
 稲目に関わる邸宅には、「小墾田の家」「向原の家」「軽の曲殿」があります。小墾田の家は『日本書紀』欽明13年(552)の記事に、欽明天皇から拝領した仏像を最初に安置した邸宅です。おそらく小墾田地域、つまり飛鳥寺の北方にあったと考えられます。一方、向原の家は、先の記事に続けて、向原の家を浄めて寺としたとされ、現在の豊浦寺ともされています。飛鳥川の左岸の豊浦の地です。

 蘇我馬子の邸宅
 馬子の時代になると、「石川の宅」「槻曲の家」「嶋の家」などが記録に現れます。石川の宅は、敏達天皇13年(584)に記載され、そこに仏殿を建てたとされます。その推定地は現在の石川町とされ、仏殿を石川精舎に当てています。槻曲の家は用明天皇2年(587)、大伴比羅夫連が馬子を警護する時に記されています。この推定地には諸説があり、西池尻町軽古にある軽樹坐神社付近という説もありますが、あるいは稲目時代の「軽の曲殿」と同じ場所ともみられています。そうすると、橿原市大軽町から見瀬町あたりと考えられています。そして、推古34年(626)の記事に「飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小なる池を開れり。仍りて小なる嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と曰ふ。」とあることから、飛鳥側沿いに庭園をもつ邸宅を設けていたことがわかり、石舞台古墳ちかくの島庄遺跡と考えられています。

 蘇我蝦夷の邸宅
 蘇我馬子が「嶋大臣」と呼ばれたのに対して、蘇我蝦夷は「蘇我豊浦蝦夷臣」「豊浦大臣」と呼ばれていました。このことから蝦夷の邸宅が豊浦にあったことがわかります。豊浦にはすでに稲目の時代に「向原の家」がありました。さらに、この地域には旧来、小墾田宮の有力な推定地であった古宮遺跡があります。奈良時代の小治田宮はその後の調査で飛鳥川の東に広がる雷丘東方遺跡であることが確定しましたが、飛鳥時代の小墾田宮についてはまだ確定していません。私は石神東方遺跡ではないかと考えています。古宮遺跡の調査では宮殿の中心部は確認できず、7世紀前半の庭園が見つかりました。これは蘇我蝦夷の邸宅に付随する庭園ではないかと考えています。

 甘樫丘
 蘇我入鹿の時代、蝦夷・入鹿は甘樫丘に邸宅を建てました。皇極3年(644)には蝦夷の邸宅を「上の宮門」、入鹿の邸宅を「谷の宮門」と呼んだと記されています。この有力な候補地として、甘樫丘東麓遺跡が注目されています。ここでは乙巳の変前後の数時期の遺構が確認されています。特に、焼けた壁土や建築部材の出土は、蝦夷が「天皇記・国記・珍宝」を焼いたという記事との関連で注目されました。しかし、残念ながら倉庫や小規模な建物群しかなく、邸宅の中心部ではありませんでした。甘樫丘全体をみると、これまでに発掘調査されているのはごく一部で、甘樫丘全体に様々な遺跡があるようです。ここで遺跡の時代や瓦に注目してみると、甘樫丘東麓遺跡と平吉遺跡・豊浦寺・古宮遺跡に同笵・同形の瓦があり、互いに有機的に密接な関係にあることがわかります。つまり、この時代には甘樫丘全体が蘇我本宗家の支配下にあったのです。

 では、その中心になる蝦夷・入鹿の邸宅本体はどこにあったのでしょうか。残念ながら発掘調査では、その場所は特定できていません。ただ注目する点は、展望台のある場所から東の飛鳥川に向けての小さな谷に、小字「エベス谷」という地名が残されていることです。現在の展望台は、甘樫丘の眺望点でもあり、当時から一等地でした。まさに蝦夷の邸宅「上の宮門」にふさわしい立地と名称です。

 蘇我本宗家の邸宅群
 このようにみると、蘇我本宗家の邸宅群は下ツ道と山田道の交差点である「軽のチマタ」付近から山田道沿線上を東へと移ってきたことが読み取れます。これは蘇我系の寺院が山田道沿いにあることとも一致します。そして、馬子の晩年には島庄に、入鹿の時代には甘樫丘全体を支配下に収め、本拠としたのです。

 蘇我氏の飛鳥への進出過程が、邸宅の変遷と分布からも伺うことができるのです。甘樫丘に邸宅を構えたことは、蘇我氏の到達点であったと共に、天皇家を越えたことを誇示したことを示しているのです。





乙巳の変を考える  (15.6.12.発行 Vol.217に掲載)

 皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮での三韓進調の儀式の最中、蘇我入鹿が殺害されました。翌日には、蘇我蝦夷が甘樫丘の邸宅で自害します。世にいう「乙巳の変」です。その後、新しい政権が難波に王宮を造り、大化改新を実行することになるのです。なぜ、蘇我本宗家は滅ぼされなければならなかったのでしょうか?そもそも蘇我氏とは悪人だったのでしょうか?蘇我氏悪人説・善人説は多くの議論があるところです。乙巳の変に至るまでの蘇我本宗家の活躍・行動をみることによって、なぜ乙巳の変が起こったのかを考えてみたいと思います。

 蘇我稲目の時代
 蘇我氏が歴史上に現れるのは宣化元年(536)に、蘇我稲目が大臣に任命された時です。ここで蘇我氏は突然に表舞台に現れます。つまり、蘇我氏の素性は謎に包まれており、伝承によると武内宿禰を祖として、石川宿禰→満智→韓子→高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿と続くとされています。このうち高麗以前については、実在が疑問視されており、その名前が異国風であることから、蘇我氏渡来人説も囁かれているところです。近年、発掘調査で話題となった都塚古墳は、蘇我稲目の墓という見解も示されていますが、蘇我氏が飛鳥島庄へ進出するようになるのは馬子の時代からです。そして稲目の墓としては五条野丸山古墳が立地や時代からみて、ふさわしいと私は考えており、都塚古墳は、稲目あるいは馬子が、自分たちの出自を明確にするために、高麗を改葬した可能性もあるのではないでしょうか。

 この稲目の時代の出来事として注目されるのは、仏教の導入です。これは決して、蘇我氏が独断で行ったものではなく、欽明天皇から授かった仏像を安置することから始まっており、まさに天皇家公認の施策だったのです。しかし、当時、神国であった倭では反対勢力も多くいました。その代表格が物部氏です。この仏教をめぐる争いは次の馬子の時代まで続きますが、単に崇仏・排仏ということだけではなく、これを理由とした蘇我・物部の権力争いでもあったのです。蘇我氏は渡来系氏族である東漢氏を配下にすることにより、その知識や技術をもとに力を蓄え、天皇家と血縁関係を形成することによって、その地位を確立していったのです。

 蘇我馬子の時代
 蘇我馬子の時代になると、ついに物部氏を滅ぼし、蘇我氏は名実ともに、トップの豪族になりました。この時、共に勝利に導いたのは聖徳太子(厩戸皇子)でした。彼は天皇家と蘇我氏両方の血筋を受け継ぐ人物でもあります。飛鳥寺の建立が始まったのもこの頃です。寺院とは単なる宗教・文化センターではなく、先祖のため、天皇のために建立するものです。飛鳥寺は、氏寺ですが官寺でもあるのです。この時代は、推古天皇を蘇我馬子と聖徳太子が補佐する形で政治を行っていました。遣隋使の派遣・屯倉の整備や治水・官道整備・憲法十七条制定など、東アジア世界へ仲間入りを始めました。蘇我氏と天皇家は良好な関係を築いていたのです。

 蘇我蝦夷の時代
 しかし、蘇我蝦夷の時代になると、推古天皇の後任として、田村皇子派と山背大兄皇子派に分かれます。結果的には、蝦夷の推す田村皇子が舒明天皇となりましたが、上宮王家との亀裂は大きなものになりました。さらに舒明天皇が百済大宮へ遷るなど、天皇家との関係にも雲行きがあやしくなってきていたのです。

 蘇我入鹿の時代
 次の蘇我入鹿の時代になると、その横暴ぶりは激しくなります。蘇我氏ゆかりの地ともされる葛城に祖廟を造営したり、天皇家だけに許されたヤツラの舞を演じたり、上宮王家の乳部の民を動員して蝦夷・入鹿の墓「大陵・小陵」を造営したりしています。そして、ついには山背大兄皇子をはじめとする上宮王家を滅ぼすことになります。さらに邸宅を甘樫丘に建て、視覚的にも見える形で、天皇宮殿を見下ろすことになるのです。蘇我氏が天皇家を越えたことを誇示するかのようでした。

 このような歴史の流れを見ていくと、蘇我氏に対する認識は、蘇我氏は最初から悪ではなく、最後まで善でもなかった、と私は思うのです。

 そして、乙巳の変へ
 蘇我入鹿の振る舞いに、危機感をもったのが中大兄皇子でした。そして、中臣鎌足でした。エスカレートしていく蘇我本宗家の横暴ぶりは、ついに上宮王家を滅ぼし、倭国の法治国家としての発展に大きな危惧を抱いたのでしょう。少なくとも天皇家を中心とした国家形成に、蘇我氏は大きな役割を果たしてきたのですが、入鹿の時代になると、天皇家を脅かす存在となっていたのです。天皇を頂点とする国家を作り直すためには、新しい時代へと大きな飛躍が必要だったのです。そして、乙巳の変が起こり、新しい国づくりの歩みをはじめたのです。




乙巳の変・その日  (15.9.4.発行 Vol.223に掲載)

 西暦645年6月12日、王権の中枢である飛鳥板蓋宮を舞台に、古代史史上最大のクーデターが起こりました。乙巳の変です。蘇我本宗家が滅んだ両日にわたる経過を『日本書紀』をもとに、みていくことにしましょう。

 三韓の調
 中大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂に、三韓の調が進上される日に、表文を読み上げてもらう役を告げました。そして、その時に蘇我入鹿を斬殺する計画を打ち明けます。「三韓の調」とは、朝鮮三国、つまり高句麗・百済・新羅がそろって、天皇に朝貢する儀式です。『家伝』ではこの儀式は偽の儀式であったと記されています。

 蘇我入鹿が斬殺されたのは、「大極殿」前とされており、天皇が「大極殿」に出御したときに、傍らには古人大兄皇子がいたと記されています。「大極殿」とは、天皇が出御して政務や儀式を執り行う建物で、藤原宮あるいは飛鳥浄御原宮以降にできる宮殿の正殿です。飛鳥板蓋宮の段階では、「大極殿」という名称やその性格を有する建物は、まだありませんでした。おそらく宮殿の一番重要な建物を『日本書紀』編者が「大極殿」と記した
のでしょう。この正殿の前で斬殺されたのです。

 入鹿斬殺
 三韓の調がはじまりました。そして、石川麻呂が表文の読み上げが終わろうとするのに、佐伯子麻呂たちが飛び出してくる様子がありません。石川麻呂は緊張とあせりで、汗が流れ出し、手が震え、声も上ずりだしてきました。これを怪しく思った入鹿が、その理由を尋ねると、石川麻呂は、とっさに「天皇の前にいるから恐れ多くて、汗が止まらないのです」と言ったその時、中大兄皇子と子麻呂が飛び出し、入鹿を斬りつけたのです。入鹿は、転がるように玉座にいた皇極天皇に訴えかけます。「王位を継ぐのは皇子です。私が何をしたというのでしょ?」と。天皇は中大兄皇子に「これは何ごとか?」と問います。「入鹿は天皇一族を滅ぼし、皇位をねらっています」。皇極天皇がそのまま大殿に入ると、子麻呂と葛城稚犬養網田が、入鹿にとどめを刺しました。この日、雨が降って庭には水が溢れ、入鹿の亡骸は席障子で覆われたといいます。

 飛鳥寺占拠
 古人大兄皇子は入鹿が殺されるのを見ると、自分の宮に逃げ帰ってしまいます。そして、中大兄皇子は、直ぐに飛鳥寺を占拠し、守備を固めました。多くの皇族・豪族は中大兄皇子側に従い、蘇我蝦夷は完全に孤立してしまったのです。そして入鹿の屍骸を甘樫丘の蝦夷邸に送ったのです。

 中大兄皇子がまず飛鳥寺を占拠したのは、いくつかの理由があります。飛鳥寺は蘇我本宗家の氏寺です。当時、寺院は高い塀に囲まれた瓦葺の建物でした。つまり、堅固な防御施設をもち、火災に強い瓦葺など、本陣としては最適な構造です。逆に、ここに蝦夷に籠もられると、なかなか陥落するのが難しいといえます。もうひとつの理由は、飛鳥寺の立地です。飛鳥寺は飛鳥川を挟んで、蝦夷の邸宅に対峙できる場所にあります。まさに頂上決戦を行う両者には、もっともふさわしい場所といえます。

 蝦夷の最後
 一方の蘇我蝦夷邸には、武装した東漢氏一族が次々と集結し始めていました。これに対して、東漢氏への説得を成功させたのは、巨勢徳陀臣と高向国押です。東漢氏を説き伏せ、武装解除させたのです。これによって、蝦夷には勝利の目算は完全に絶たれたといってもよいでしょう。

 そして、翌日13日、蝦夷は死期を悟って、『天皇記』『国記』や珍宝を焼き払ったと記しています。このうち『国記』のみ、船恵尺により救出され、中大兄皇子に献上されたといいます。『家伝』では蝦夷は自殺したと記されていますが、『日本書紀』には記されていません。ここで注目したいのは、蝦夷は『天皇記』などは焼いたと記していますが、邸宅に火をかけたとは記されていないことです。『多武峰縁起絵巻』などでは、火に包まれる蝦夷邸が描かれていますが、蝦夷の邸宅は本当に火災にあったのでしょうか?甘樫丘東麓遺跡の焼けた建築部材などを、この記事や『縁起』に結びつけていますが、記録には放火の記載はないのです。その後、古人大兄皇子は飛鳥寺の金堂と塔の間で出家しました。『日本書紀』では14日としますが、この出家の様子を蝦夷に見せるためと考え、蝦夷の存命中であったと考える説もあります。

 勝者の得たもの
 このクーデターの大儀は蘇我本宗家の横暴を止め、法治国家を形成することです。しかし、この勝者が得たものは、大儀以外にも多くあります。

 この乙巳の変に直接関わった人物をみてみると、皇極天皇はこの変の直後に譲位します。生前譲位のはじめての事例です。そして、横にいた古人大兄皇子は、すでに出家しました。彼は事件時に天皇の傍らにいたことからも、次期天皇とされていました。舒明天皇と蘇我馬子の子である法提郎媛との間に生まれた皇子で、蘇我本宗家が推していた人物でもあります。ここで、即位への道が絶たれ、替わって孝徳天皇として即位したのは軽皇子です。彼は皇極天皇の兄弟であり、その妻には蘇我倉山田石川麻呂の子である乳娘が嫁いでいます。石川麻呂は次期天皇の義父となると同時に、新政権では左大臣につき、さらに蘇我本宗家が滅んだことにより、蘇我氏の族長になります。中大兄皇子は、この時はまだ若く、皇太子ではあるものの即位には早すぎます。結果的にもまだ即位はしませんでしたが、新政権を実質的に動かしていたのは中大兄皇子とその参謀となる中臣鎌足でした。

 このように、乙巳の変は、大きな大儀と共に、様々な利害関係が個々人にもあったのです。蘇我本宗家の滅亡の理由は単純ではないのです。




10皇極朝の評価  (15.10.16.発行 Vol.226に掲載)

 『日本書紀』には、皇極朝の内政について、あまり記されていません。この時期に記されているのは、韓半島での政変や蘇我氏の横暴に関わること、そして乙巳の変についてです。その中でも、皇極天皇の性格を明瞭に表す出来事があります。

 シャーマン皇極
 皇極天皇が行った事跡としては、雨乞いがあります。南淵川の河上で行ったというその場所は、特定されてはいません。栢森の女淵とも、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の八幡だぶとも言われていますが、明確ではありません。いずれにしても、奥飛鳥地域であることは間違いなく、八十万神々が今も鎮座している幽玄な空間でした。古来、女性には、神々や神仏と共感する力があったとされており、女帝は政治力と祭祀力を併せ持つと考えられます。「政(まつりごと)」とは政治と祭祀であり、古代においては、共に重要な点でした。その意味でも、皇極女帝は、シャーマン的な要素をもつ天皇であったといえます。

 激動の国際情勢
 この時代、我が国を取り巻く国際環境は非常に厳しいものでした。百済・新羅・高句麗三国は、互いに牽制をしながら、国内的にも国際的にも緊迫した関係を保っていたのです。推古朝以来、我が国も東アジアの国際情勢には、敏感に反応しなければなりませんでした。後に起こる乙巳の変も、これらの国際情勢と無関係ではありません。我が国も重要な転換期を迎えていたのです。

 皇極朝の王宮
 皇極天皇の王宮である飛鳥板蓋宮は、舒明天皇の飛鳥岡本宮と同じ地域に建てられました。これにより、それまでの歴代遷宮の慣習から大きな飛躍を遂げたのです。しかし、ここは蘇我氏によって王宮予定地とされていた場所でもあり、その意味で蘇我氏によって樹立された天皇であるともいえます。この王宮は、名前にも採用されているように、板葺の宮殿でした。当時、板材は加工が難しく、非常に貴重な建築資材でした。つまり、王宮造営にあたり、新たな建築技術が導入されたのです。さらに王宮の規模も大きく、推古・舒明の王宮よりも、整然としたものであったと考えられます。

 甘樫丘遺跡群
 甘樫丘には、蘇我蝦夷・入鹿の邸宅が建てられたと『日本書紀』には記されています。従来、蘇我氏の邸宅かともされていた甘樫丘東麓遺跡は、この時代に重なる遺跡ですが、邸宅中心部にみられる大型建物などは確認されておらず、邸宅は別の場所にあったと考えられます。この時期、甘樫丘全体が蘇我本宗家の支配下にあり、邸宅からは、飛鳥板蓋宮が見下ろされたと考えられます。つまり、蘇我氏が天皇を超える力を持つことを、視覚的にも周知させたといえます。このことが、乙巳の変へとつながりました。

 乙巳の変
 中大兄皇子と中臣鎌足は、飛鳥板蓋宮で、蘇我入鹿を倒します。そして、まず飛鳥寺に入り、甘樫丘に居する蝦夷と対峙しました。寺院は高い大垣に囲まれており、蝦夷がここに籠もると戦いにくくなることから、先手を打って、飛鳥寺を占拠したのです。それを甘樫丘から見た蝦夷は自害し、蘇我本宗家は滅亡しました。このことは、豪族の時代の終わりを告げており、律令国家への大きな飛躍に結びつきました。蘇我本宗家滅亡の意義はここにあります。飛鳥時代前半は蘇我氏の時代だったともいえるのです。そして、蘇我本宗家の滅亡は律令国家体制へ向けての重要な転換点と位置づけられるのです。

 皇極朝の意義
 このような激動の時代に、歴史的な変換点を体験した皇極天皇は、斉明天皇として再び即位をした時に、強力なリーダーシップを発揮します。皇極時代は、蘇我氏が力をもっており、天皇の権力は、十分には発揮できなかったのです。しかし、乙巳の変と大化の改新を経験したことにより、より強力な国家が必要であると感じたのでしょう。皇極朝は、斉明朝の政策への布石でもあったのです。



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