両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第39回定例会レポート

両槻会主催講演会

渡来系の寺を考える

-檜隈寺跡を題材に-


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第39回定例会資料
2013年7月13日


檜隈寺跡北から 北西の丘陵を望む
 
 猛暑日が続く中、7月13日に開催された第39回定例会には、講師の網先生を始め、ほとんどの方が事前散策から参加されました。午前9時45分、近鉄壺阪山駅前での出発式を終え、一行は案内役の事務局長を先頭に、観覚寺・檜前への散策に向かいました。


 古い町並みが残る土佐街道を進み、街道沿いにある光永寺から小径を東に進んで子嶋寺へ、そして子嶋寺から南方にある観覚寺遺跡へと一行は進みました。


光永寺

 光永寺では庭の片隅におかれている人頭石を見学させていただきました。私たちが到着した時、庭の門は閉ざされていたのですが、住職さん?がわざわざ表に出てきてくださって門を開け、私たちを中に入れて下さいました。


子嶋寺

 子嶋寺では、寺の由来や納められている「飛行曼陀羅」についての説明、高取城から移設された表門や最近橿原市内で発見された高取城の大砲櫓の説明がありました。


観覚寺遺跡にて

 観覚寺遺跡では、大壁建物、L字型カマドや方形池の出土状況、南方に位置する稲村山古墳について説明がありました。また、現在観覚寺遺跡の上に住んでおられるご夫婦が、事務局長からこの日私たちが見学にくることを聞いておられ、炎天下にもかかわらず「一言ご挨拶を」と私たちのために出てきてくださいました。


檜前大田遺跡 丘陵西端

 その後、一行は檜前地区へと入っていったのですが、この付近は公園化が進められ、キトラ古墳の周辺や檜前大田遺跡の丘陵とその南北の谷は造成の真っ最中であり、一部の谷は埋められ、地形が変えられたところもありました。

 この日に配布された資料の表紙には、数年前にスタッフが撮影した檜隈寺跡南側の谷の写真が掲載されていたので、一行はその写真と現在の様子を見比べてみました。同行された網先生も20数年ぶりに訪れたこの地の変わり様にびっくりされていました。


於美阿志神社

 この日のメインテーマである檜隈寺跡では、事務局長から於美阿志神社の由来の説明、檜隈寺跡の各基壇、塔礎石、寺北西の丘陵の案内や説明を受けました。そして網先生ご自身が、午後からの講演に先立って、伽藍配置についての説明をして下さったり、金堂の基壇跡に上がって基壇の形状などについて、現地で説明して下さいました。
 

金堂基壇上にて

 その後一行は、檜前門田遺跡、呉原寺跡、栗原地蔵を経て、昼食場所の文武天皇陵の北側にある休憩所に向かいました。その途中、足を止めて東側丘陵から檜隈野と呼ばれたこの地域を遠望したのですが、事務局長からの「ここから見えるこの景色は、当時も同じだったのではないでしょうか。」という問いかけに、私も思わず頷いてしまいました。


檜前地域を東方から望む

 昼食後は、高松塚古墳、高松塚歴史公園を経て高松塚バス停に向かいました。
 この日は帝塚山大学の清水先生の薦めで大学院生の方も数名参加されていたのですが、院生のガッキーさんやキノコヘルメットさんが、事務局長からの突然の振りにもかかわらず、高松塚古墳や中尾山古墳について説明してくれました。


院生の解説に耳を傾ける

 事前散策は、午後0時40分、予定通りに高松塚バス停に到着しました。午前9時45分の出発時はやや曇り空、その後は晴れたり曇ったり、時折小雨がぱらついたり風が吹いたりとこの時期にしては散策に適した気候でした。ところが、バス停でバスの到着を待つわずか数分の間に、それこそバケツをひっくり返したような土砂降りの雨となり、バスの運転手さんもバスを止めるや前後のドアを開放して私たちを手招きしてくれ、一行はバスに駆け込んで講演会場の飛鳥資料館に向かいました。バスの中でスタッフ達は、「水神の異名をとるN先生が資料館に到着したせいかもしれない。」と噂していたのですが、資料館前にバスが到着すると地面は乾いており、雨が降ったような形跡はまったくありませんでした。



 「渡来系の寺を考える-檜隈寺跡を題材に-」と題した近畿大学の網伸也先生の講演は、午後1時30分、残る2名の参加者も合流して定刻に始まりました。


檜隈寺跡 遠望

 まずはじめに先生から示されたのは、檜隈寺の文献史料での初見である『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月21日の記事です。渡来系の寺院である檜隈寺・軽寺・大窪寺の3寺院が当時の政府から100戸の食封を賜り、それが30年という期限付きであったとする記事です。つまり、檜隈寺に100戸分の税金が30年という期限付きで与えられたのですが、それは東漢氏に与えられた寺院造営のための政府のバックアップだったのです。政府のバックアップを受けて東漢氏は檜隈寺をどのように造営していったのか、食封を賜った時期が檜隈寺の何を解き明かすのかがポイントであり、先生はそれを順次示してくださいました。

 第1は、その伽藍構成でした。
 檜隈寺跡は、於美阿志神社境内の十三重石塔を中心として、南北に基壇のような高まりがあり、発掘調査前は、四天王寺式の伽藍で、南の基壇は中門、北の基壇は金堂と考えられていたそうです。そのため、まず最初に発掘調査したのは、南側基壇のさらに南側で、南門を探そうとしたようですが何も発見することが出来ず、次ぎに中門と考えていた南側基壇を調査したところ、これが石敷きの二重基壇の金堂跡であり、石敷きの切れ具合などから金堂には回廊が取り付いていたことが分かったそうです。南側基壇が金堂跡と判明したことから北側基壇を調査したところ、これが瓦積基壇の講堂であることが判明、さらに西側にある基壇が西門跡であり、塔の東側からは回廊の一部も発見されました。


西門跡

 これらの発掘調査により、この寺の伽藍は、西門から入った境内の正面に塔があり、その南に金堂、北に講堂という特異な伽藍配置であることがわかったのです。さらに、その造営順は、西門と金堂が先であり、造営当初から金堂は北面を前提として作られたようです。このような寺は、現在、百済や新羅であった地でも発見されていないのですが、京都の樫原廃寺(かたぎはらはいじ)や高句麗の地であった陵寺に同種伽藍を求めることは出来るようです。


檜隈寺伽藍配置図

瓦積基壇(案内版より)

 第2は、渡来系寺院に代表される瓦積基壇でした。
 渡来系氏族は、山背、近江、近つ飛鳥、難波、北河内などの地域に住んでいたことが分かっていて、その地域の寺跡からは瓦積基壇が発掘されています。しかし、飛鳥では瓦積基壇は檜隈寺跡だけなのです。そこで先生から二つのポイントが示されました。

 一つ目は、何故飛鳥では瓦積基壇が作られなかったのかということでした。
 瓦積基壇は弱い基壇であったためとする説もあるようですが、先生は、飛鳥は斉明天皇に象徴されるように、石作りの都であり、異質な瓦積基壇を都から排除したのではないかとされました。そのため飛鳥京以外の地域では、瓦積基壇による造営が受け入れられたのです。
 二つ目は、そのような飛鳥の地域で、何故東漢氏は、檜隈寺にあえて瓦積基壇をつくったのかということでした。これについて先生は、押さえ込まれていた東漢氏が、渡来系氏族としてのアイデンティティーを示したのだとされました。『日本書紀』天武天皇6年(677年)6月に東漢氏は天皇から代々に渡る七つの不敬を指摘されて戒められているのですが、そのような情勢下で造営した檜隈寺に、東漢氏は渡来人としての思いを込めたようです。

 第3は、檜隈寺の瓦からの考察でした。これについても二つのポイントが示されました。
 一つ目のポイントは、現在までの発掘調査に基づいて復元された檜隈寺伽藍で使用された瓦です。
 二つ目のポイントは、檜隈寺跡から出土した天武朝以前の瓦です。


素弁十一葉蓮華文軒丸瓦

火炎文入り単弁八葉蓮華文軒丸瓦

 先に二つ目のポイントから説明します。
 檜隈寺跡からは、7世紀前半のものと推定される素弁十一葉蓮華文軒丸瓦や7世紀中頃以降の成立と考えられる火炎文入り単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しています。火炎文入りの同笵品は安芸で出土しているのですが、これは『日本書紀』白雉元年是歳条の記事にあるように、造船のために倭漢直縣らが安芸に遣わされたことが契機で、安芸における造寺にも影響を与えたようです。また、7世紀中頃に百済大寺や百済大宮の大匠に書直縣が、難波宮の将作大匠に荒田井直比羅夫が、それぞれ造営官として活躍していました。
 檜隈寺跡から天武朝以前の瓦が出土するのは、造寺や造船を司っていた東漢氏によって、7世紀中頃には檜隈寺が、既に寺院として機能していた可能性が高い事を示しています。発掘調査では下層伽藍が発見されていないため、元々の伽藍はいまだわからず、そこには隠された伽藍があるのではないかと先生はおっしゃっていました。


輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦

 では一つ目のポイントです。
 現在の発掘調査で判明した檜隈寺伽藍の創建瓦は、寺造営の初期に手がけられた金堂跡などから多く出土している輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦のセット(ⅡA型式)です。これは670年代の瓦とみられており、近江朝の瓦の影響をうけたようです。後に整備された講堂や塔から多く出土しているのは、天武朝の藤原宮式と呼ばれている軒丸瓦と軒平瓦(ⅢA型式)です。これは680年代、壬申の乱後に近江朝から飛鳥に還都した時期の瓦で、食封をうけた時期と一致しているのです。壬申の乱後に飛鳥が再整備された際に檜隈寺も整備されたのです。

 東漢氏は、乙巳の変で入鹿の屍が蝦夷に渡されたとき、一族を結集させて鎧をまとい、武器を手にして軍陣を設置しようとしました。しかし、高向臣国押の「誰のために空しく戦い、ことごとく刑されるのか。」ということばに影響されてこれを留まりました。東漢氏は蘇我氏という後ろ盾を失いましたが、一族として生き延びることを選んだのです。
 677年に東漢氏は、天皇から七つの不敬を指摘されるもののこれを許され、686年には食封を賜り、一族再起の道が与えられたのです。国家的プロジェクトとして食封をうけたこの時期に、東漢氏は檜隈寺の最後の仕上げとして講堂をつくったのです。そして、飛鳥に造営した寺に、あえて渡来系氏族の証である瓦積基壇を取り入れたのです。


 この日の講演に先生が準備されたパワーポイントが使えなかったというハプニングや、質問の時間で先生から院生の方に逆質問されたサプライズなど、参加者一同驚いたり躊躇ったり、はたまた和んだりと色々ありましたが、先生から示された東漢氏の独自性とその謎の多さを改めて認識させていただきました。

 みなさんも今回の網先生のお話から色々な事を学ばれたでしょうが、私の心に残った疑問は、檜隈寺の伽藍配置でした。
 仏像ではなく塔、つまり心身舎利を中心とした伽藍配置、そして北面する金堂はなにを意味しているのでしょうか。
 東漢氏は、檜隈寺に瓦積基壇によって渡来系氏族のアイデンティティーを示しました。また、東漢氏は、仏教公伝以前に、韓半島からいち早くこの国に仏教や仏像をもたらしています。
 では、東漢氏の信仰していた仏経思想はどのようなものだったのでしょうか。
 今回の網先生のお話から、改めて仏教とは何か、仏像とは何かを考える切っ掛けを頂きました。

レポート担当:よっぱさん  

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