一つ目は、何故飛鳥では瓦積基壇が作られなかったのかということでした。
瓦積基壇は弱い基壇であったためとする説もあるようですが、先生は、飛鳥は斉明天皇に象徴されるように、石作りの都であり、異質な瓦積基壇を都から排除したのではないかとされました。そのため飛鳥京以外の地域では、瓦積基壇による造営が受け入れられたのです。 |
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二つ目は、そのような飛鳥の地域で、何故東漢氏は、檜隈寺にあえて瓦積基壇をつくったのかということでした。これについて先生は、押さえ込まれていた東漢氏が、渡来系氏族としてのアイデンティティーを示したのだとされました。『日本書紀』天武天皇6年(677年)6月に東漢氏は天皇から代々に渡る七つの不敬を指摘されて戒められているのですが、そのような情勢下で造営した檜隈寺に、東漢氏は渡来人としての思いを込めたようです。
第3は、檜隈寺の瓦からの考察でした。これについても二つのポイントが示されました。
一つ目のポイントは、現在までの発掘調査に基づいて復元された檜隈寺伽藍で使用された瓦です。
二つ目のポイントは、檜隈寺跡から出土した天武朝以前の瓦です。
素弁十一葉蓮華文軒丸瓦 |
火炎文入り単弁八葉蓮華文軒丸瓦 |
先に二つ目のポイントから説明します。
檜隈寺跡からは、7世紀前半のものと推定される素弁十一葉蓮華文軒丸瓦や7世紀中頃以降の成立と考えられる火炎文入り単弁八葉蓮華文軒丸瓦が出土しています。火炎文入りの同笵品は安芸で出土しているのですが、これは『日本書紀』白雉元年是歳条の記事にあるように、造船のために倭漢直縣らが安芸に遣わされたことが契機で、安芸における造寺にも影響を与えたようです。また、7世紀中頃に百済大寺や百済大宮の大匠に書直縣が、難波宮の将作大匠に荒田井直比羅夫が、それぞれ造営官として活躍していました。
檜隈寺跡から天武朝以前の瓦が出土するのは、造寺や造船を司っていた東漢氏によって、7世紀中頃には檜隈寺が、既に寺院として機能していた可能性が高い事を示しています。発掘調査では下層伽藍が発見されていないため、元々の伽藍はいまだわからず、そこには隠された伽藍があるのではないかと先生はおっしゃっていました。
輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦 |
では一つ目のポイントです。
現在の発掘調査で判明した檜隈寺伽藍の創建瓦は、寺造営の初期に手がけられた金堂跡などから多く出土している輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦のセット(ⅡA型式)です。これは670年代の瓦とみられており、近江朝の瓦の影響をうけたようです。後に整備された講堂や塔から多く出土しているのは、天武朝の藤原宮式と呼ばれている軒丸瓦と軒平瓦(ⅢA型式)です。これは680年代、壬申の乱後に近江朝から飛鳥に還都した時期の瓦で、食封をうけた時期と一致しているのです。壬申の乱後に飛鳥が再整備された際に檜隈寺も整備されたのです。
東漢氏は、乙巳の変で入鹿の屍が蝦夷に渡されたとき、一族を結集させて鎧をまとい、武器を手にして軍陣を設置しようとしました。しかし、高向臣国押の「誰のために空しく戦い、ことごとく刑されるのか。」ということばに影響されてこれを留まりました。東漢氏は蘇我氏という後ろ盾を失いましたが、一族として生き延びることを選んだのです。
677年に東漢氏は、天皇から七つの不敬を指摘されるもののこれを許され、686年には食封を賜り、一族再起の道が与えられたのです。国家的プロジェクトとして食封をうけたこの時期に、東漢氏は檜隈寺の最後の仕上げとして講堂をつくったのです。そして、飛鳥に造営した寺に、あえて渡来系氏族の証である瓦積基壇を取り入れたのです。
この日の講演に先生が準備されたパワーポイントが使えなかったというハプニングや、質問の時間で先生から院生の方に逆質問されたサプライズなど、参加者一同驚いたり躊躇ったり、はたまた和んだりと色々ありましたが、先生から示された東漢氏の独自性とその謎の多さを改めて認識させていただきました。
みなさんも今回の網先生のお話から色々な事を学ばれたでしょうが、私の心に残った疑問は、檜隈寺の伽藍配置でした。
仏像ではなく塔、つまり心身舎利を中心とした伽藍配置、そして北面する金堂はなにを意味しているのでしょうか。
東漢氏は、檜隈寺に瓦積基壇によって渡来系氏族のアイデンティティーを示しました。また、東漢氏は、仏教公伝以前に、韓半島からいち早くこの国に仏教や仏像をもたらしています。
では、東漢氏の信仰していた仏経思想はどのようなものだったのでしょうか。
今回の網先生のお話から、改めて仏教とは何か、仏像とは何かを考える切っ掛けを頂きました。