両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第39回定例会

両槻会主催講演会

渡来系の寺を考える

-檜隈寺跡を題材に-



事前散策資料

作製:両槻会事務局
2013年7月13日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
古代檜隈の範囲 東漢氏・倭漢氏 人頭石 子嶋寺と観覚寺
観覚寺遺跡 坂ノ山4号墳・稲村山古墳 檜前大田遺跡 檜隈寺跡
檜隈寺の瓦 於美阿志神社 呉原寺跡 坂上氏
関連年表 菅笠日記 檜隈関連史料 呉原関連史料
基壇 大壁建物 オンドルとL字カマド 輻線文縁軒丸瓦出土地
瓦積基壇検出地の分布
講師:網伸也先生 
       寄稿ページ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 第39回定例会 事前散策 を表示


この色の文字はリンクしています。

古代檜隈の範囲


 飛鳥には、「檜隈大内陵(天武・持統陵)」「檜隈坂合陵(欽明天皇陵)」「檜隈安古岡上陵(文武天皇陵)」と、「檜隈」を冠して呼ばれる天皇陵が3基あります。これらの御陵は、古代に檜隈と呼ばれた地域に築かれたゆえの陵墓名と考えられます。
これら3基の御陵を現在比定されている場所だと考えれば、古代檜隈の北端は、天武・持統陵(野口王墓古墳)と欽明天皇陵(梅山古墳)を結ぶ丘陵付近と考えられそうです。そして、東端は天武・持統陵(野口王墓古墳)付近を、西端は佐田や真弓がそのさらに西方に広がっている高取川付近が想定されます。南端は、渡来系の建築遺構である大壁遺構が検出されている高取町清水谷遺跡付近が考えられます。

 『続日本紀』宝亀3(772)年4月19日条の「…先祖阿智使主、軽嶋豊明宮馭宇天皇の御世に十七県の人夫を率ゐて化に帰せり。詔して高市郡檜前村を賜ひて居せしむ。凡そ高市郡の内は檜前忌寸及び十七県の人夫地に満ちて居し、他姓の者は十にして一、二なり。」との坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の父)の奏上から、檜隈地域は、渡来して以後変わることなく彼ら東漢氏の地盤であったことが伺えます。


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東漢氏・倭漢氏(やまとのあやうじ・やまとのあやし)

 『日本書紀』応神20年9月に渡来したとされる阿智使主を祖とする渡来系氏族とされます。同族・血族関係にない幾つもの小氏族で構成された複合氏族だと考えられ、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったものだとされています。しかし、祖となる阿智使主は実在性に乏しく、韓半島南部の安羅を本拠とする者達だとされていますが、異説もあるようです。同様に渡来し、河内を本拠地とした人々を西漢氏(かわちのあやうじ・かわちのあやし)と言います。

 『日本書紀』によると、雄略16年に「直(あたい)」、天武11(682)年5月に「連(むらじ)」、天武14(685)年6月に「忌寸(いみき)」の姓(かばね)が授けられたとあります。

 東漢氏は、渡来以後、各王権の下で外交・財政面の実務・軍事などに携わるうち、大臣となった蘇我稲目と結びつき、飛鳥時代前半には主に蘇我氏の下でその実力を発揮したと考えられます。
しかし、645年の蘇我本宗家の滅亡(乙巳の変)の際には、高向臣国押の「誰のためにむなしく戦って皆が処刑されるのか」の言葉により蘇我氏のために戦おうとしてあげた剣を捨て、一族として生き残る道を選びます。天武6(677)年6月には天武天皇から代々に渡る七つの大罪による叱責を受けたとあり、東漢氏にとって生き難い時代ではあったようです。
 
 崇峻天皇を暗殺した東漢直駒や蝦夷・入鹿邸の警護を担っていたとされることから、東漢氏は蘇我氏お抱えの武人のイメージが強いですが、推古16(608)年の遣隋使に留学生として派遣された倭漢直福因などの文人も輩出しています。

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人頭石(顏石)


 近鉄壺阪山駅近くの光永寺の敷地内(左手の建物の庭)に置かれています。飛鳥石(花崗岩)製で高さは約1mになります。鷲鼻で日本人離れした面立ちは、石神遺跡から出土した石人像にも通じるものがあるように思います。

 『大和名勝志』という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あり、そのうちの1体を土佐の大円寺に移したとされています。これが、この人頭石(顔石)ではないかと考えられます。石の右側には彫刻はなく、頂部に円形の窪みを持ちます。

 昭和50年代の調査では7世紀頃の作だとされたようですが、飛鳥にみられる他の石造物同様、由来や用途は不明です。


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子嶋寺と観覚寺


 現在は、真言宗高野派金剛山寺の末寺になり、寺号を報恩山千寿院、山号を子嶋山といいます。

 飛行曼荼羅として有名な国宝「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」は、現在は奈良国立博物館に寄託され、約4分の1に復元された銅版のレプリカが本堂に納められています。また、表門は、高取城の二の門が移築されたもので、現存する高取城の数少ない建築物となります。

 寺伝によれば天平勝宝4(752)年孝謙天皇の勅願により僧・報恩が建立したとされます。
子嶋寺の山号である「子嶋山」を寺名とする「子嶋山寺」の伝承が様々な史料にみられることから、創建当初の子嶋寺は山間部にあったとする説があります。現在、高取町上子島の丘陵上に所在し「子嶋山南清水寺」の山号を持つ観音院が創建当初の子嶋寺の位置を踏襲しているとも言われます。

 報恩の跡を継ぎ二代目となった延鎮が、坂上田村麻呂とともに京都・清水寺を建立したことから、清水寺は子嶋寺の支坊・末寺として「北観音寺」と呼ばれました。それに対し本寺である子嶋寺は「南観音寺」と呼ばれることになります。

 平安時代中頃、衰退していた子嶋寺に興福寺の僧・真興が子院・観覚院を営みます。真興の興した真言宗子嶋流が隆盛し道場として栄えるようになった子嶋寺は、やがて観覚寺と呼ばれるようになります。最盛期には「西北は平田真弓檜前阿部山村に疆(境)し、東南は高取壺坂吉備木辻に至る」と言われる寺域に、21にも及ぶ堂宇を誇ったとされています。

 室町時代には打ち続く戦乱で荒廃するも、江戸時代初期には、初代高取藩主・本多利久により再興されます。江戸時代には、南都一乗院(興福寺の塔頭)の支配下で、本堂・庫裡・聖天堂・開山堂・竜王道・表門・宝蔵などが再建され、現在の本堂は、江戸時代末に壺阪寺の僧・賢応によって建立されたものです。明治の廃仏毀釈ののち、有志により元高取城の二の門を表門に移築するなどして復興され、「子嶋山千寿院」が「子嶋寺」と復称されました。

 現在の子嶋寺周辺の字名である観覚寺は、中世の寺院・観覚寺に由来します。


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観覚寺遺跡

 近鉄壺阪山駅の東、高取町大字観覚寺に広がる遺跡になります。字名・観覚寺は、平安中期から室町時代頃、この地で栄えた寺院名に由来します。

 1991年に子嶋寺南で行われた発掘調査では、奈良時代から室町時代にかけての集落や寺院関連の遺構・遺物が多く検出され、中世に栄えた観覚寺との関連が想定されています。

 また、下層から韓式系の土器が採取され、周辺に古墳時代から飛鳥時代に遡る遺構の存在も想定されています。周辺は、古代檜隈の一部であったと考えられます。


 2004年から行われた町道観覚寺線の開通に伴う発掘調査では、韓半島に起源を持つ大壁建物やオンドル状遺構、石組の方形池などが検出されています。大壁建物は、遺構の重複関係から5世紀後半から7世紀にかけて数度の建て替えがあったとされています。なかでも、調査地西端(9次調査)で検出された大壁遺構は、出土遺物から8世紀後半以降に築かれたものだと推定されたことにより、坂上田村麻呂と関連付ける報道もあり注目を浴びました。



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坂ノ山4号墳

 高取町大字観覚寺にある坂ノ山古墳群の中の一基になりますが、現在は消滅しています。
 周濠を伴う直径約10mの円墳で、出土した鉄釘の状況から2基の木棺が埋葬されていたとされています。遺物は、銅芯銀張製や金銅製の釵子3点、また、墳丘からはU字型鍬先や鎌の刃などのミニチュア農耕具がありました。釵子は、渡来系の墳墓に見られる遺物とされることから、被葬者は周辺に居住した渡来系の人々と考えられるようです。



稲村山古墳


稲村山古墳のあった小丘

 高取町大字観覚寺にあった古墳ですが、昭和初期の果樹園の開墾時に破壊され現在は消滅しています。遺物から推定される築造年代は6世紀前半頃とされています。
 
 遺物の中に、銀釧4個、銀匙1本、金環1対、玉類にミニチュア炊飯具の甑(コシキ)などがあることから、被葬者は、渡来系の人々であったと考えられています。

 また、南東にあるカイワラ1・2号墳からも、渡来系の遺物であるミニチュア炊飯具や銀釧などが出土したことにより、従来、渡来系氏族の墓域とされていた貝吹山南麓や細川谷古墳群よりも早い時期に、周辺に渡来系氏族の墓が築かれていたことが分かりました。


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檜前大田遺跡

 2007年度より明日香村教育委員会によって行われているキトラ古墳の歴史公園化に伴う事前調査において、檜隈寺跡と谷を挟んだ南の丘陵上から、床束や間仕切、庇を持つものを含む多数の掘立柱建物、掘立柱塀、大壁遺構など、7世紀中頃から7世紀後半を中心とする遺構が多数検出されました。


檜前大田遺跡 遠望

 「檜前大田遺跡」と名付けられたこの遺跡の中心は、格の高い庇付建物が存在する遺跡の中で比較的平坦面の確保できる2009年の調査地(②)付近だと考えられるようです。一帯から寺院関連の遺物の出土が少なく檜隈寺とも谷を隔てていることから、直接寺にかかわる施設とは考えにくいとされています。しかし、掘立柱建物群は、7世紀中頃から後半にかけて2度から3度の建て替えが推定されており、立地や遺構の展開時期を考えると、檜隈寺造営と時期を同じくした東漢氏に関わる施設であった可能性が高いとされています。7世紀後半には見晴らしの良い尾根上に十数棟の建物が整然と並び立つ風景が広がっていたと考えられます。

檜前大田遺跡 遺構概略図

 この檜前大田遺跡と北西にある檜前上山遺跡とは、古代において同一丘陵上だったとされており、周辺の御園アリイ遺跡・檜前門田遺跡などからは、方位を同じくする掘立柱建物跡なども検出されています。これらのことから、周辺一帯は檜隈寺の造営に合わせて東漢氏による土地整備が行われたと考えられます。

檜前大田遺跡(現地説明会時の名称は檜前遺跡群) 大壁遺構

 檜前大田遺跡で検出された大壁遺構は、7世紀後半には掘立柱建物へと建て替えられており、これは檜隈寺の伽藍整備に合わせて行われた土地開発の一端だと考えられるようです。

 大壁遺構の出現と廃絶という檜隈における居住空間の変遷から、7世紀中頃以降に東漢氏の置かれた立場を窺い知ることが出来るように思います。本拠地である檜隈の氏寺造営に本腰を入れるとともに、周辺の整備にも着手した彼らの心中とは、いかなるものだったのでしょう。

 大壁遺構(大壁建物)はこれまでにも、観覚寺遺跡、森カシ谷遺跡、薩摩遺跡、羽内遺跡、ホラント遺跡、清水谷遺跡などでも検出されており、これらは、おおまかに北から順に廃絶したと想定できるようです。


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檜隈寺跡

 檜隈寺は、東漢氏の中でも有力氏族であった檜隈氏の氏寺だとされています。
 しかし、『日本書紀』朱鳥元(686)年の条に「檜隈寺・軽寺・大窪寺に、それぞれ食封百戸を三十年に限って賜った。」という記事以外には正史に登場せず、史料だけではその詳細はほとんどわかりません。

 奈良文化財研究所や奈良県教育委員会の数次にわたる発掘調査により、金堂・講堂・西門・回廊が検出され、西に門を開け回廊内の東寄りに塔を配置する特異な伽藍配置が判明しました。高取山から派生する尾根の末端近くに築造されていることから、伽藍配置はその地形に影響されたものとする説が有力です。
 十三重石塔の解体修理に伴う発掘調査で、塔跡からは半地下式心礎と四天柱礎4個、礎石10個が確認され、塔の規模は一辺約7.5mと推定されました。心礎は、排水孔を持つ巨大なもので、その上面からは内径約1.8mの瓦積が検出されています。また、石塔の台座下部から、入子状になった四耳壺・青白磁製小壺・硝子容器が発見され、硝子容器は創建当初の舎利容器であった可能性があるようです。     

 金堂は、伽藍の南にあたることから従来は中門跡と考えられていた場所になります。調査の結果、桁行5間・梁裄4間(17.95m×15.5m)と推定されたことにより、金堂の可能性が高いとされました。周囲には平らな川原石が約1m・高さ15㎝程度で敷き詰められており、これは下成基壇と考えられるようです。上成基壇の外装の痕跡は認められなかったようですが、全体の高さは約1.3mと推定されています。
 また、身舎と庇とでは礎石の柱座の大きさが異なることから、身舎に太い柱が使用されたと考えられ、身舎と庇とでは柱の高さも異なっていたとも考えられるようです。

 講堂は、桁行7間・梁裄4間(21.2m×35.3m)で、法隆寺西院伽藍の講堂とほぼ似通った大きさになります。現位置を保っていた礎石の大半は凝灰岩の自然石ですが、北側の1個(北東隅から2個目)だけは石棺式石室の底石が転用されたものになります。基壇外装は、瓦積で主に平瓦を半裁したものが使用され7世紀前半代の瓦も混入していたようです。また、付近からは塼の出土があり、基壇上面は塼敷きであった可能性もあるようです。


石室の底石が転用された講堂礎石

 西門は、礎石が2個残存し、桁裄・梁裄ともに3間と推定されています。西側で玉石列が検出されたことから、玉石積基壇であった可能性があるようです。
 回廊は、塔跡の東で礎石が2個検出され、桁裄3.7m・梁裄3.6mの単廊とされています。


 近年、キトラ古墳周辺の公園化に伴う事前調査による発掘で、寺院造営や周辺の土地利用に際し行われた大規模な造成がおよそ6期に分けられることが判明しました。

 Ⅰ期(7世紀前半)の遺構として、寺跡の北西に竪穴建物とそれに付随する石組L字型カマドが検出されています。これらは檜隈寺の前身伽藍と併存していた可能性があるようです。
また、檜前大田遺跡で検出された大壁遺構もこれらの遺構と同時期に存在していたと考えられます。

 Ⅱ期とⅢ期(7世紀後半~8世紀前葉)は、檜隈寺の伽藍造営が本格化した時期にあたると考えられます。

 丘陵東方の中枢伽藍よりも低い平坦面から、掘立柱建物や塀・溝などが検出されています。塀や溝は、丘陵裾付近をめぐると想定されることから、東側の寺域を区画する施設と考えられます。また、焼土やフイゴ・羽口などが検出されて工房跡と推定された北にある遺構もこの時期に当てはまると考えられます。

 寺跡の北西からは、金銅製光背飛天像の一部や小金銅仏片が出土し、檜隈寺に伴う遺物と推定されています。大陸や韓半島の技術を髣髴とさせる製作技術や意匠から、飛天像片は6世紀代、金銅仏片は7~8世紀頃のものとされており、東漢氏の大陸・韓半島との繋がり、最新の渡来の技術や仏教文化の導入など、飛鳥時代における彼らの活躍の一端を物語る遺物と言えそうです。
 Ⅳ期(8世紀後半~9世紀初頭)は、坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が活躍する時期に相当しますので、何らかの整備が行われたと考えられます。

 Ⅴ期(10世紀後半~11世紀前半)には、瓦などの寺院関連の遺物も極少なくなり、Ⅵ期(11世紀半ば~12世紀前半)は、講堂の瓦積基壇が玉石積基壇に改修され、倒壊した塔の跡に現在跡地に残る十三重石塔が建立された時期になります。

 また、2011年に金堂跡の約50m南方で、直径約70cmの巨大な柱根が2基検出され、幢竿支柱と推定された遺構も、この時期に該当すると考えられます。

 東漢氏は、推古28(620)年10月に、氏別に競った柱建ての儀式で一番高く太い柱を建て「大柱直(おおはしらのあたい)」の異名を取ったと『日本書紀』には記されています。検出された幢竿支柱とは時代にかなり隔たりがあるものの、彼らの土木技術の高さが連綿と受け継がれていたことが伺える事例だと思います。

 この後、檜隈寺は衰退期に入り、中世には倒壊した講堂跡の礎石を利用して北側に三間四方の小仏堂(東西9m・南北7.2m)が建てられます。

 文献には「檜前の道興寺」との名がみえるようですが、明和9(1772)年の本居宣長の『菅笠日記』には、十三重石塔を残すだけの跡地には古瓦が多く残り、法師や里人に尋ねて漸く名残と思える小さな庵の名が「だうくわうじ・道光寺」だと知るに至る経緯が書かれています。


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檜隈寺の瓦

 檜隈寺跡からは、7世紀前半から平安時代までの瓦が出土しています。


奈文研藤原宮資料室展示品
 左の素弁十一葉蓮華文軒丸瓦(花組・弁端切込)は、飛鳥寺出土品とよく似た文様と技術が伺えることから、7世紀前半代のものと推定されています。

 また2011年には、檜隈寺跡の南方で、飛鳥寺と同笵品の素弁十一葉蓮華文軒丸瓦(星組・弁端点珠)が1点出土しています。檜隈寺における飛鳥寺との同笵品の出土は、それぞれの寺の創建氏族である東漢氏と蘇我氏の繋がりをより強く裏付けるものになると思われます。

奈文研藤原宮資料室展示品
 
また、左の火炎文入り単弁八葉蓮華文軒丸瓦は、山田寺式軒瓦の系統を受け継ぐとされ、7世紀中頃以降に成立したと考えられます。
 この瓦は、安芸の横見廃寺や明官地廃寺と同笵になります。檜隈寺の安芸との関係は、『日本書紀』白雉元(650)年の「倭漢直縣・白髪部連鐙・難波吉士胡坐を安芸国に遣わして百済船二隻を造らせた」とある倭漢直縣の安芸行きが関係するとされています。

 これら7世紀前半から中頃の瓦に対応する建物の検出はありませんが、少なくともこの頃には瓦葺きの前身伽藍が存在したと考えられています。


奈文研藤原宮資料室展示品

 上は、「檜隈寺式軒瓦」とも呼ばれる輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重弧文軒平瓦になります。檜隈寺では、この軒瓦を使用して西門と金堂が造営されています。中房内の蓮子に圏線が巡ることや、蓮弁の形態などから川原寺式の流れを汲むと考えられ、成立年代としては7世紀末以降が推定されます。

 輻線文の「輻」は、「車輪の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた数多くの細長い棒」、つまり自転車のスポークのような形状をさすようです。「輻線」とは外区の文様が中心から放射状に伸びるように均等に割り付けられていることからつけられた名だと考えられます。

 また、輻線文縁軒丸瓦の裏面に「呉」と刻書された瓦が3点、発掘調査で出土しています。
2008年明日香村発掘調査報告会撮影

 講堂周辺からは、藤原宮式の瓦が一番多く出土しています。塔にも藤原宮式の瓦が使用されたと推定されていることから、藤原宮造営後に伽藍造営に本腰が入れられたとする説もあります。また、奈良時代には、平城宮・東大寺式の瓦が補修用として使用されたと考えられおり、これには東漢氏の末裔である坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が関わってくるようにも思えます。




於美阿志神社 (おみあしじんじゃ)


 延喜式内小社で、阿智使主夫妻を祭神とします。『日本書紀』応神20年9月条、「東漢直の先祖、阿智使主がその子都加使主、並びに十七県のともがらを率いてやって来た。」という記事があることから、東漢氏によって創建されたと考えられています。

 社名の於美阿志(おみあし)は、阿智使主が転化したものと思われます。

 江戸時代に編纂された『大和志』には、檜隈村に所在し、その祭祀は大根田村とともに行っていたと書かれています。もとは西方の低地にあったようですが、明治40年7月26日に高台の現在地(檜隈寺跡)に移転しています。鳥居をくぐって直ぐ右に、第28代宣化天皇の檜隈廬入野宮(ひのくまいほりののみや)跡の碑が立っています。また、素戔嗚尊を祭神とする八坂神社が合祀されていますが、灯籠には、春日大明神・稲荷大明神・金毘羅大明神・蔵王大権現などの銘文があり、多くの摂社があったことがわかります。


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呉原寺跡(栗原寺跡)

 『日本書紀』雄略天皇14年春正月に「呉人を檜隈野に置いた。そこで呉原と名付けた。」と書かれています。この記事から、呉原は古代の檜隈に存在したと考えられます。『続日本紀』文武4(700)年に「天下の火葬此れより始まれり」と記された僧・道昭の火葬の地が、呉原であったとされることから、呉原寺は、道昭火葬の地に建立されたとする説もあります。『大和国竹林寺解案(東大寺文書)』に「呉原寺西大門」の地名が残ることから、往時は西に大きな門を構えていたと考えられます。また、『大和国竹林寺別当譲状』には「崇峻天皇辛亥年に坂上大値駒子が建立した」、『清水寺縁起』に「先祖従三位駒子卿が敏達天皇のために建立した」と由来を坂上氏によるものとする記載が残されています。


 呉原寺跡は、檜前の東の端、大字栗原と稲渕とを分ける丘陵の西麓(大字栗原の集落の一つ北の谷筋)、東西に緩やかな棚田状の地にあります。付近には「西大門」、「八クワン堂(八観堂?)」などと建物の存在を連想させるような字名も残ります。


呉原寺跡付近

 数度の発掘調査が行われましたが、建物などの明確な遺構は検出されていません。しかし、人工的な整地・造成の痕跡と、瓦をはじめとする礎石や凝灰岩製切石、鉄鉢型土器など寺院関連の遺物が出土したことから、西向きの伽藍で、丘陵上にも建物(僧房・食堂など)があったと想定されています。また、檜隈寺と同笵の火炎文入り単弁蓮華文軒丸瓦が出土していることや、先に檜隈寺のところであげた「呉」の刻書瓦の存在から、7世紀中頃の両寺の繋がりも浮かび上がってくるように思います。

 出土瓦からは、少なくとも7世紀中頃には瓦葺きの小堂は建立されていたと考えられますので、先にあげた道昭火葬の地に建立されたという説は、成り立たなくなります。道昭は、東漢氏と同じ渡来系氏族で、河内を本拠とする西漢氏(かわちのあやし)の船氏出身とされています。晩年は飛鳥寺東南禅院に住まいしたとされていますから、河内と飛鳥と本拠地の違いはあれ、同じ渡来系の人々の住む地・檜隈や呉原に寄せる思いがあったのかもしれません。

 先にあげた『清水寺縁起』や『大和国竹林寺別当譲状案』によれば、呉原寺は坂上氏により創建・管理されていたことになりますが、本来は同じ東漢氏の枝族である呉原氏による創建であったろうと考えられています。これら中世の史料には、奈良時代から平安時代に活躍した坂上苅田麻呂・田村麻呂親子の存在が影響を与えていると思われます。ただ、呉原寺からは藤原京や平城京に似た独自の瓦も出土しており、奈良時代後半までは造営が続けられたと推定されていますので、この頃坂上氏から呉原氏に対して、何らかの援助があったと考えることもできそうです。

 呉原寺における坂上氏の伝承や逸話の数々は、東漢一族内の同族意識が、時代ごとに力を持った枝族(奈良・平安時代で言えば坂上氏)が、族長として一族を率いる役目を担い生き残りを図ってきた証と考えられるかもしれません。


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坂上氏

 後漢霊帝の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿知使主)を祖とすると伝わるが、実際にそれを示す一次資料は全く存在しない。後漢の最後の皇帝、献帝の子といわれる石秋王の子が阿智王(阿智使主)であるとする説である。その後、「高尊王―都賀直―阿多倍王」と続き、阿多倍王の孫が、坂上氏初代の志努であるという(別説では「阿智使主―都加使主」の子ともされる)が、これは後に権威付けで用いられた可能性が高い。坂上志努には志多、刀禰、鳥、駒子らの子があった。その子孫が、坂上田村麻呂である。

 坂上氏で著名な田村麻呂は、中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦いで大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。また、弟麻呂の後任として初の征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
 坂上氏は、田村麻呂の祖父の犬養、父の苅田麻呂ともに武をもって知られ、子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。(Wikipediaより抜粋・追記)

 『日本書紀』には、檜隈陵の改修の際に倭漢坂上直が「大柱直」と呼ばれたこと、坂上老と坂上国麻呂(老の兄弟?)や熊毛が壬申の乱において大海人皇子方に付いたこと、また『続日本紀』には、犬養・苅田麻呂・田村麻呂の記載がみられます。



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関連年表

元号 西暦 事  項
応神15   8 百済王が阿直岐を遣わし良馬2匹を賜った。大和の軽の坂の上の厩で飼わせた(厩坂)。阿直岐は阿直岐史の先祖。
上毛野君の先祖の荒田別・巫別を百済に遣わして、王仁を召された。
応神16    2 王仁がきた。・・・王仁は書首(フミノオビト)らの先祖である。
8 平群木莵宿禰・的戸田宿禰、弓月君率いる百二十県の民が渡来した。
応神20   9 東漢直の祖、阿智使主がその子都加使主、並びに十七県のともがらとやって来た。
雄略 7     東漢直掬に命じて、新漢である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。
雄略12   4 身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に遣わす。
雄略14   3 臣連に命じて呉の使を迎えさせた。その呉人を檜隈野に住まわせ、呉原と名づけた。
雄略15     秦氏の率いていた民を臣連らに分散し・・・詔して秦の民を集め秦酒公に賜った。公は各種多数の村主を率いるようになり・・・姓を賜って“うつまさ”といった。
雄略16   10 「漢氏の部民を集めてその管理者を決めよ。」その姓を直と賜った。
欽明元 540 8 秦人・漢人らの近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍に入れた。秦人の戸数は、全部で7513戸、大蔵掾を秦伴造とされた。
欽明14 555   蘇我大臣稲目宿禰が勅を承って、王辰爾を遣わし船の税の記録をさせた。
敏達元 572   王辰爾、烏の羽に書いた国書を読み解く。
崇峻元 588   百済より、舎利が献上され、僧・寺院建築工・露盤博士・瓦博士・画工が渡来。
(飛鳥寺の)整地と着工。飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して作る。
推古11 603 11 皇太子(聖徳太子)所持の仏像を貰い受け、秦河勝が蜂岡寺を造る。
推古28 620 10 檜隈の陵(欽明天皇・堅塩媛合葬墓)に敷石を敷き、域外に山を築き、各氏に大柱を建てさせた。倭漢坂上直の建てた柱がずば抜けて高く、名づけて大柱の直といった。
推古31 623 7 新羅・任那から仏像一体、金塔、舎利などが伝えられる。それらのうち、仏像を葛野の蜂岡寺、その他を四天王寺に納める。
舒明11 639 7 書直県を百済大寺の大匠とした。
皇極3 644 11 漢直らは、蝦夷・入鹿両家の宮門を警護した。蝦夷大臣は、長直に命じ大丹穂山に桙削寺を建てさせた。
白雉元 650 10 将作大匠荒田井直比羅夫を遣わして、宮地(豊埼宮か?)の境界標を立てさせた。
  倭漢直県らを安芸国に遣わして、百済船二隻を造らせられた。
天武元 672 6 坂上直国麻呂ら、高市皇子の近江京脱出に付き従う。大伴吹負、坂上熊毛と謀り、漢直(倭漢直)らと、倭京の指揮権を奪取。坂上直老ら、倭京から不破宮への使者となる。
天武6 677 6 東漢直らに勅して「お前たちの仲間はいままでに七つの良からぬことを行なった。・・・漢直を絶やそうというのではない。大恩を持って許す。・・・」
朱鳥元 686 8 檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封す。三十年を限る。
宝亀3 772 4 坂上大忌寸苅田麻呂らの言上「…先祖阿智使主が応神天皇も御世に十七県の人民を率いて帰化し、高市郡檜前村に地を賜り居を定めたこと・・・」



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『菅笠日記』

・・・・檜隈は此わたりと。かねてきゝしかば。たづねてゆく。この土佐のまちをはなるゝ所より。右へ三町ばかり細道をゆきて。かの里也。例の翁たづねいでゝ。いにしへの事共とへど。さだかにはしらず。都のあとゝは聞つたふるよし。又御陵どもは。この近き平田野口などいふ里にあなる。いにしへはそのわたりかけて。ひのくまとなんいひしとかたる。さて里の神の社也とて。
森のあるつゞきなる所に。高さ二丈ばかりなる。十三重の石の塔の。いとふるきが立る。めぐりを見れば。いと大きなる石ずゑありて。塔などの跡と見ゆ。ちかきころ。この石をおのが庭にすゑんとて。あるものゝほらせつれど。あまりに大きにて。ほりかねてやみぬる。程もなくやみふして死にけるは。このたゝりにて有けりとなんいふなる。そのまへにかりそめなるいほりのある。あるじのほうしに。この塔の事たづねしかば。宣化天皇の都のあとに【檜隈廬入野宮宣化天皇の都】寺たてられて。いみしき伽藍の有つるが。やけたりし跡也。このあたりにその瓦ども。今もかけのこりて多くあり。とをしふるにつきて見れば。げに此庵のまへも。道のほとりにも。すべてふる瓦のかけたる。数もしらず。つちにまじりてあるを。一ッ二ッひろひとりて見れば。いづれも布目などつきて。古代のものと見えたり。此庵は。やがてかのがらんのなごりといへば。そも今は何寺と申すぞとゝへば。だうくわうじといふよしこたふ。もじはいかにかき侍ると又とへば。此ほうしかしらうちふりて。なにがし物かゝねば。そのもじまではしり侍らずといふにぞ。なほとはまほしき事も。ゆかしささめつるこゝちして。とはずなりぬ。わがすむ寺の名のもじだにしらぬほうしも。よには有物也けり。むげに物かゝずとも。こればかりは。しかじかと人にきゝおきてもしりをれかし。さばかりのあはつけさには。いかで古の事をしも。ほのぼのきゝおきてかたりけむとをかし。後にこと里人にきけば。道の光とかくよし也。されどそれもいかゞあらん。しらずかし。大かた此にきよ。たゞ物の心もしらぬ里人などのいふを。きけるまゝにしるせる事し多ければ。かたりひがめたる事もありぬべし。又きゝたがへたるふしなども有べければ。ひがことゞもゝまじりたらんを。後によくかむかへたゞさむことも。物うくうるさくて。さておきつるを。後みん人。みだり也となあやしみそ。これはかならずこゝにいふべき事にもあらねど。思ひ出つるまゝになん。檜隈川といふべき川は見えざれば。
  聞わたるひのくま川はたえぬともしばしたづねよあとをだに見ん。【古今集に「さゝのくまひのくま川に駒とめてしばし水かへ影をだに見ん】人々もろ共に。こゝかしことあづねありきけるに。たゞいさゝかなる流れは。一ッ二ッ見ゆれど。これなんそれとたしかには。里人もしらずなん有ける。
 


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檜隈関連史料

『日本書紀』

応神20年9月
東漢直の先祖、阿智使主がその子都加使主、並びに十七県のともがらを率いてやって来た。

雄略7年    
東漢直掬(ヤマトノヤノアタイツカ)に命じて、新漢(イマキノアヤ)である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。

雄略14年3月
臣連に命せて呉の使を迎む。即ち呉人を檜隈野に安置らしむ。因りて呉原と名く。

朱鳥元(686)年8月
檜隈寺・軽寺・大窪寺に、各百戸を封す。三十年を限る。

『続日本紀』
宝亀3(772)年4月
先祖阿智使主、軽嶋豊明宮馭宇天皇の御世に十七県の人夫を率ゐて化に帰せり。詔して高市郡檜前村を賜ひて居せしむ。凡そ高市郡の内は檜前忌寸及び十七県の人夫地に満ちて居し、他姓の者は十にして一、二なり。

『清水寺縁起』
道興寺。
宇□□寺と云々。右大和國高市郡檜前郷
件の所は、先祖阿智王入朝の時、恩給する地なり。仍って寺を建立すと云々。

『万葉集』
 さ檜隈檜隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも 7-1109
 さ檜隈檜隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む   12-3097


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呉原関連史料

『日本書紀』

雄略14年1月 
身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。

雄略14年 3月 
臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。



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基壇

 建物の土台。外面が石材などで化粧されます。これを基壇外装と言います。
 
 基壇が二重になっているものを二重基壇と言い、上部を上成基壇、下部を下成基壇と呼び分けます。

 外装の種類には、瓦・玉石(自然石)・切石などがあり、それぞれを、瓦積基壇・玉石積基壇(乱石積基壇)・切石積基壇(壇上積基壇)と呼びます。


瓦積基壇(檜隈寺講堂)
案内版より

玉石積基壇(乱石積基壇)
史跡海会寺跡 復元塔跡

切石積基壇(壇上積基壇)
法隆寺 金堂


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大壁建物(大壁遺構)

 細長く掘られた(布掘り)溝に並べ立てた柱ごと壁土で塗り込めた建物や遺構をいいます。韓半島に起源を持つことから、渡来系集団の建物遺構だとされます。


大壁建物模式図


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オンドルとL字カマド

 燃焼部からの熱を床下の煙道を通して暖を取る床暖房施設になります。韓半島に起源を持つことから、大壁建物と同様に渡来系の技術によるとされます。


オンドル模式図

 オンドルと同様の設備にL字カマドがありますが、燃焼部や煙道が床下にあるオンドルに対し、L字カマドは床上にそれらを持つことから区別されています。通常のカマドは、すぐに屋外へと煙が排出されるのに対し、L字カマドは比較的長いL字形の煙道が屋内に設けられます。オンドルに近い暖房機能を持つとも考えられます。


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輻線文縁軒丸瓦出土地・瓦積基壇検出地の分布




  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
古代檜隈の範囲 東漢氏・倭漢氏 人頭石 子嶋寺と観覚寺
観覚寺遺跡 坂ノ山4号墳・稲村山古墳 檜前大田遺跡 檜隈寺跡
檜隈寺の瓦 於美阿志神社 呉原寺跡 坂上氏
関連年表 菅笠日記 檜隈関連史料 呉原関連史料
基壇 大壁建物 オンドルとL字カマド 輻線文縁軒丸瓦出土地
瓦積基壇検出地の分布
講師:網伸也先生 
       寄稿ページ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会



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