両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第39回定例会
渡来系の寺を考える
-檜隈寺跡を題材に-

Vol.161(13.5.17.発行)~Vol.165(13.7.12.発行)に掲載





【1】 (13.5.17.発行 Vol.161に掲載)     もも

 第39回定例会は、近畿大学文芸学部准教授の網伸也先生に「渡来系の寺を考える―檜隈寺跡を題材に―」と題してご講演頂けることになりました。「あら?網伸也先生って、京都埋文の方じゃなかった?」と思われた方は、両槻会の予定をよく知って下さっている方です♪有難うございます。(^^)
 確かに、網先生は昨年度まで京都市埋蔵文化財研究所で主に平安京の調査に携わっていらっしゃったのですが、この春、近畿大学文芸学部文化・歴史学科の准教授になられました。

 「じゃあ、京都?平安京?飛鳥と関係ないじゃん」って思われる方もいらっしゃるでしょうね。両槻会の詰めはそんなに甘くないですよ(笑) お勤め先でのお仕事だけが、先生方の研究対象なわけではないんですよね。網先生は、学生時代に四天王寺や山田寺の発掘にも参加されたそうで、その経緯で古代寺院の研究もなさってます。古代寺院と言えば、飛鳥時代!!これはもう、興味深い楽しいお話がお聞きできると今から楽しみです。(^^)

 第39回の咲読は、「渡来」と「寺」ということで もも が担当させていただきます。よろしくお願いいたします。m(__)m

 さて咲読の一回目は、「渡来系の寺を考える」前に、渡来人のことを考えてみたいと思います。

 皆さんは「渡来」と聞いて何を思い浮かべますか?「渡来」とは、そのまま読んで字のごとく「渡り来た」でいいようです。古代日本に大陸や半島から渡り来たものは、本当にたくさんあって、すべて大陸や半島からの風に乗って~♪・・・のはずはなく、やはり携えてきたのは“人”、いわゆる渡来人と呼ばれる人々になります。『日本書紀』を捲るだけでも、かなり早くから彼らのことは書かれています。そんな中から本定例会の題材になる檜隈寺を創建したと言われる東漢氏に関係するものを挙げてみます。

 1.『日本書紀』応神20年9月
  東漢直の先祖、阿智使主(あちのおみ)がその子都加使主、並びに十七県のともがらを率いてやって来た。
 2.『日本書紀』雄略7年
  東漢直掬に命じて、新漢(いまきのあや)である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。
 3.『日本書紀』雄略14年
  身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛ら・・(中略)・・呉人らを檜隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
 4.『続日本紀』宝亀3(772)年4月20日
  先祖阿智使主が応神天皇の御世に・・(中略)・・高市郡檜前村の地を賜り居を定めた・・・

 まず、1と4の記事から、阿智使主らの一行は渡来後の居住地として、檜前をあてがわれたことが分かります。檜前周辺は、農耕に適さない乾燥地であったため彼らの持つ土木や農耕の技術により開発が可能になったとも言われています。

 2と3の記事からは、新たな渡来人の移住に際して、先に渡来していた東漢氏が関わっていることや、渡来人の居住地が檜前以外にも広がったことが分かります。これらの記事に名前のあがっている人々は、その名からそれぞれ須恵器(陶部)・馬具(鞍作)・画(画部)・織物(錦部)・通訳(訳語)・機織(衣縫)などの技術を持った人々だと考えられています。

 「新(いまき)」は「今来」とも書かれ、彼らは今来手伎(いまきのてひと)とも呼ばれます。これ以前に渡来してきた人々は、「今来」に対して「古渡・こわたり」とも言われるようです。

 東漢氏の話ではありませんが、時代が少し下った『日本書紀』の敏達(572)年に渡来人の間で起こったエピソードが載っています。

 王辰爾という人物が、史(ふびと)たちが三日掛けても解読できなかった高句麗からの国書をすらっと読み解いて天皇から褒められています。そして、国書を読み解けなかった大和と河内の史たちは、天皇に叱責されたんだそうです。史は、文書などの役人とされていますので、彼らも王辰爾と同じ渡来人かその子孫だと考えられます。

 古いものが新しいものに取って変わられるのは、ある程度仕方のないことかもしれませんが、こういう事態を頻繁に引き起こさずに、無事に異国で生き残って行くためにも、先に渡来してきた人々は、最新の知識・技術を人材ごと吸収しようとしたんじゃないでしょうか。その為にも、新しく渡来してきた人々の面倒を見た・・・。

 σ(^^)は、血の繋がりを持たない東漢氏が一族として存続できた理由の一つがこのあたりにあるような気がします。モノは壊れてなくなるけど、身に付いたものは、消えて無くなりませんものね。そう言えば、「手に職を持ちなさい」と、子供のころから口が酸っぱくなるほど言われた記憶がσ(^^)にもあります。何も持たずにこの年まで来ちゃいましたが。(^_^;)

 渡来人の記述を少し追いかけるだけで、咲読の一話分が終わっちゃいました。次回は、もう少し定例会のテーマに近づこう思います。(^^ゞ






【2】 (13.5.31.発行 Vol.162に掲載)     もも

 第39回定例会の咲読2回目です。今号では、飛鳥で渡来系と言われる寺の話を・・・やっと定例会のテーマに近づきました。(笑)

 飛鳥地域では、檜隈寺・坂田寺・定林寺・軽寺・大窪寺・呉原寺などが、渡来系の寺院だろうとされています。


 これらの寺の中で記録や伝承が比較的残っているのは、第30回定例会でも取り上げた坂田寺ぐらいかもしれません(坂田寺については、第30回定例会資料をご覧ください)。

 檜隈寺は、『日本書紀』朱鳥元(686)年8月に「檜隈寺・軽寺・大窪寺に、それぞれ食封百戸を三十年に限って賜った。」との記録があるのみで、場所が東漢一族の本拠地だとされる檜前地域にあること、現在跡地にある於美阿志神社が彼らの祖先である「阿知使主」を祀っていることなどから、渡来系の寺院だとされています。軽寺や大窪寺は、檜隈寺と同じ『日本書紀』の朱鳥元年の記事に名を連ねていることや、寺と同じ名を持つ軽氏や大窪氏が東漢一族に含まれていることから、渡来系の寺院だと推測されているようです。

 呉原寺は、『日本書紀』雄略14年3月の「呉人を檜隈野に安置らしむ。因りて呉原と名く。」と思われる地にある以外には、『続日本紀』文武4(700)年に僧道昭が火葬された場所が栗原であったと見えるぐらいです。定林寺に至っては、聖徳太子建立46カ寺に数えるという伝承があるだけです。

 飛鳥寺以後、8世紀中頃までには全国で建立された寺院は、大小合わせて700を数えたそうですから、小さな氏寺などは記録がある方が珍しいのかもしれませんね。

 檜隈寺・軽寺・大窪寺が名を連ねている『日本書紀』朱鳥元年の食封の記事が、σ(^^)は少し気になります。すぐ二日後の8月23日に、巨勢寺にも封戸が与えられたことが『日本書紀』には書かれています。朱鳥元年と言えば、天武末年。この頃、藤原京の造営が始まっていたのだとしたら、藤原宮から南に向かう下ツ道や紀路沿いの既存の寺に対し整備のための補助をした、と考えるのも面白いと思うんです。これって、第38回定例会「藤原京体感ツアー」をまだ引きずっているってことなんでしょうか?(^^ゞ

 少し時代は下がりますが、軽寺は、藤原道長が吉野参詣の際に宿として利用した記録が『御堂関白記』に残っていて、平安時代までは寺として存続していたことが史料から伺えます。こういうことを考え始めると、渡来系と言われる寺がただ各々の氏寺としての存在だったとも思えなくなってくるんですよね。
 
 話は、少し逸れますが。
 崇峻元(588)年の飛鳥寺造営の際に、真神原に住んでいた飛鳥衣縫造の祖である樹葉の家が取り壊されます。「此処に住め!と言っといて、追い出すのかよ!」と、思わなくもないですが、わざわざ書き残されているのって、何か勘ぐりたくなりません?(笑)

 飛鳥衣縫は、『日本書紀』雄略14年に身狭村主青が連れてきた「漢織・呉織(あやはとり・くれはとり)」が先祖だとされています。この記事は、飛鳥寺を建立した蘇我氏と渡来系の人々との繋がりの強さを示すという考え方も出来るんだそうです。

 ここで、第一回目の咲読に書いた飛鳥で渡来系の人々が住んだとされる地域を思い出してみると。
 彼らが最初に与えられた地域は檜前でした。その後、上桃原・下桃原・真神原と居住範囲が広がり、檜前の中に呉原と言うまた別の名が付いたりもしましたよね。上桃原・下桃原は石舞台周辺、真神原は飛鳥寺周辺をさしますから、当初は飛鳥の中心部にも渡来系の人々が住んでいたことになります。また、先にも書いた「身狭村主青」の「身狭」が地名だとすれば、現在の橿原市見瀬町付近にも渡来系の人々が住んでいたと考えられます。こんな風に飛鳥では、長い年月を掛けて、各所に渡来人のコロニーが出来上がっていったはずです。それなのに突然、「寺を建てるから、そこ退いて」と蘇我氏からお達しが・・・(泣)。飛鳥寺の後には、付近に宮も作られますから、最終的に立退きを迫られたのは、樹葉だけじゃないでしょうね。寺や宮がポンと飛鳥の真ん中に来たために、渡来系の人々の居住地は、周囲へと散らばっていったのかもしれません。渡来人コロニーのドーナツ化現象とでも呼びましょうか。(笑)

 とすれば、飛鳥で渡来系寺院が、縁辺部に点在している理由がこれか?と。(やっと、寺へ話が戻せました。(^_^;))

 蘇我氏は立退かせた渡来系の人々を意図的に飛鳥周辺に配置し直した、と考えれば、要所となる軽の一部を彼らに任せるというのもあり得ると思います。だいたい軽寺って、他の渡来系の寺よりも場所が良すぎるような気がしませんか?軽ですよ!軽!衢と言われ市のあった軽。蘇我稲目も「軽曲殿」っておうちを持っていたようですから、自分の家の近くと言うのは、充分考えられると思うんですが。(^^ゞ

 話が逸れすぎました。m(__)m ので、戻します。(^^ゞ

 数少ない史料と立地や寺名だけでは、ここから先を妄想するにも限度があるので、ここから先は、σ(^^)の大好きな出土遺物や遺構の登場となります。
 長くなりましたので、続きは次回。(^^ゞ







【3】 (13.6.14.発行 Vol.163に掲載)    もも

 3回目の咲読は、両槻会主催講演会の恒例行事である事前散策のお話を。今回の事前散策では、咲読の1回目でご紹介した東漢氏の面影を追いかけて檜前地域を回ろうと考えています。

 と、その前に「ひのくま」の漢字表記について少しご説明を。「ひのくま」は現在地名では「檜前」になります。古代地名・寺院名称は「檜隈」を用いていますが、史料などに「檜前」とあった場合はそのまま引用しています。σ(^^)もそこまで厳密に使い分けられているかアヤシイですので、どちらも「ひのくま」と読むんだと思って下さい。(^^ゞ

 さて、古代に檜隈と呼ばれた地域は・・・と言っても、古代の地図なんて残っていないので、現在残されている地名や検出された遺構・遺物などから推定することになります。

 飛鳥には「檜隈」と付く天皇陵が3つあります。天武・持統陵の「檜隈大内陵」、欽明天皇陵の「檜隈坂合陵」、文武天皇陵の「檜隈安古岡上陵」。これらの陵墓名は、檜隈に築かれたからこそ付けられた名前でしょうから、3つの御陵の墓域は当然古代の檜隈にあるはずです。

 それぞれの御陵を現在比定されている場所で考えると、古代に檜隈と呼ばれた地域の北は、天武・持統陵(野口王墓古墳)と欽明天皇陵(梅山古墳)を結ぶ丘陵付近に想定できると思います。
 また東は、天武・持統陵(野口王墓古墳)付近を想定すると、文武天皇陵が宮内庁指定の栗原塚穴古墳でも、中尾山古墳でも含まれますので、この辺りが妥当じゃないかと思います。
 西は、西方に佐田や真弓が広がる高取川付近で、南は、韓半島に起源を持つとされる大壁遺構が検出されている高取町の清水谷遺跡付近が想定できると思います。

 事前散策で、この範囲をすべて巡るのは不可能ですので、近鉄壺坂山駅から飛鳥へ向けて北上する5kmほどのコースを設定しています。


より大きな地図で 第39回定例会 事前散策 を表示

 まずは、壺阪山駅を東へ向かうのですが、この辺りは高取町大字観覚寺になります。いかにもお寺!というこの地名は、平安中期に子嶋寺に開かれた観覚院と言う子院が隆盛を極めるようになり、元の子嶋寺も含めて観覚寺と呼ばれたことに由来するようです。観覚寺は、最盛期には現在の明日香村から高取町の南の方に及ぶ寺域に21の堂宇を誇っていたそうです。

 高取町大字観覚寺のおよそ東半分は、古墳時代から飛鳥寺時代・平安時代から江戸時代の複合遺跡として観覚寺遺跡と呼ばれています。今回立ち寄る人頭石のある光永寺や子嶋寺も観覚寺遺跡内に所在します。

 「人頭石(顔石)」は、ご存じの方も多いと思いますが、元は飛鳥にあった石造物のひとつじゃないかとも言われています。異国情緒漂う顔立ちは、石人像に通じるように思います。

 飛行曼荼羅(紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図)で有名な子嶋寺は、寺伝によると孝謙天皇の勅願で天平勝宝4(752)年の創建とされています。「子嶋山寺」と言う名が様々な史料にみられることから、創建当初の子嶋寺は山間部にあったという説もあるようです。現在は小さなお寺ですが、京都の清水寺を末寺とする時代もあったようです。子嶋寺の由緒は、結構ややこしいので咲読ではあまり深入りしないでおこうと思います。(^^ゞ

 子嶋寺の南300mほどのところでは、渡来系の人々の住居跡が検出されています。韓半島に起源を持つと言われるこの建物は、細長く掘られた溝に並べ立てた柱ごと土壁で覆ってしまうことから「大壁建物(大壁遺構)」と呼ばれています。

 近江では以前からよく知られていたこの建物は、飛鳥近隣では清水谷遺跡やホラント遺跡、森カシ谷遺跡、薩摩遺跡、羽内遺跡、檜前大田遺跡(檜隈寺のひとつ南側の尾根)などでも検出されています。飛鳥近隣で検出されたこれら大壁遺構の年代は、およそ5世紀後半から7世紀前半におさまるとされています。中には8世紀後半以降とされる遺構もあるようで、これが坂上田村麻呂の活躍した時代と一致することから「田村麻呂の邸宅か?」と、ニュースになったのをご記憶の方もいらっしゃると思います。

 坂上田村麻呂は、渡来系の人なんだそうで、それも系図を辿って行くと東漢氏に繋がり、壬申の乱に登場する坂上直老と言う人物が4代前(高祖父)になるようです。以前、ニュースを右から左に聞き流していたσ(^^)は、今回自分で調べてみてなるほど・・・と思いました。(^^ゞ

 現在、子嶋寺の南東の上子島にある観音院には、子嶋寺の後身とする伝承とともに、坂上田村麻呂が檜前の邸を寄付した話も残っているようです。また、子嶋寺の末寺とされた京都・清水寺の創建に尽力したのも坂上田村麻呂とされています。

 こういった周辺の寺院に残る伝承や検出された遺構から、5世紀後半以降移り変わる時代の中にあっても、東漢と言われる渡来系の人々とこの地との縁が深かったことが伺えると思います。

 残念ながら、検出された遺構は埋め戻されて現在住宅や道路になっていますので見ることは叶いません。散策では、この後に檜前大田遺跡・檜隈寺跡へと向かいますので、立地や檜前地域までの距離などを感じて頂ければと思います。

 と言うことで、次号は檜前大田遺跡の話から始めさせてもらう予定ですが、檜隈寺跡については、今号に講師の網伸也先生が特別寄稿をお書きくださっていますので、是非そちらをじっくりお読みください。(^^)







【4】 (13.6.28.発行 Vol.164に掲載)    もも

 今号は檜前大田遺跡のお話から、と前号の最後に書きました。でも、この「檜前大田遺跡」という名前にピンと来られる方は少ないんじゃないでしょうか。

 この遺跡は、檜隈寺跡の一つ南側の尾根、前回の咲読でご紹介した「大壁遺構」が検出されて、明日香村教育委員会の現地見学会時には「檜前遺跡群」と呼ばれていた場所になります。ちなみに、この「檜前遺跡群」という名称は、檜前地域にある沢山の遺跡をまとめて表現する時のものなんだそうです。檜前大田遺跡と名前が付いたのは、顕著な遺構が検出されたことによるようです。

 檜前大田遺跡からは、大壁遺構の他、床束という床を支える構造材も持つものや庇のあるものなど沢山の掘立柱建物が見つかっています。調査は、大壁遺構が検出された2009年以降も継続され、尾根の先端近くでも飛鳥時代の掘立柱建物が数棟検出されています。檜隈寺とは、間に谷を挟んで直線距離にして200mほどしか離れていないうえに、寺もまた細長い尾根上に建てられていますので、寺の主要堂宇以外の付属施設が、ここ檜前大田遺跡にあったんじゃないかという想像がかきたてられます。でも、残念なことに明らかに寺院に関連すると思われる遺物などは、見つからなかったようです。建物は7世紀中頃から後半を中心とする時期で、数回の建て替えがあったと推定されています。

 さて7世紀後半といえば、檜隈寺の造営に際して大規模な整地が行われた時期にあたります。つまり、檜前大田遺跡は寺院の付属施設ではないものの、7世紀後半に寺と一緒に整備された可能性があります。また、周辺の檜前上山遺跡・檜前門田遺跡などの遺跡でも、同じような時期の掘立柱建物や塀が確認されているんだそうです。檜前上山遺跡に至っては、もともと檜前大田遺跡とおなじ尾根上に存在したとも言われています。

 7世紀後半に周辺一帯で行なわれた土地の改変と整備。これが、歴史的事象のどの辺りに当てはまるのかはわかりませんが、この頃に檜隈寺の金堂で使用された瓦(輻線文縁複弁八葉軒丸瓦・三重弧文軒平瓦)を考えると、670年代を遡ることはなさそうです。ということは、この辺りの整備が着手されたのは、天武朝に入ってからと考えることができそうです。

 天武朝の東漢氏といえば、天武6(677)年に、「今までに犯した七つの罪により今後の動向次第では処罰するが今のところは許す」と天武天皇から叱責を受けています。これは、脅迫を込めた戒めになるんでしょうね。^^;

 檜隈寺の伽藍東側では約2m、西側では約4mにも及ぶ整地土層があったそうです。これって、平屋の家が埋まってしまうぐらいの高さですよね。そして、北の方もかなり造成されているとか。こんな大規模な工事をしてまでこの地に拘ったのは、勿論ここが渡来以来の本貫地であったからだと思います。時の流れに取り残されてはいけない!その為には、一族の結束を図るべく本拠地の整備だ!という流れって、分かり易くていいと思いませんか?(^^ゞ ただ、それを可能にしたのは、彼ら東漢氏が持っていた様々な技術があってこそ。加えて財力。そして、それら力を一番怖れていたのが天武天皇だったんじゃないでしょうか。

 こんなことを考えていると、氏寺の造営と周辺一帯の整備は、やはりこの頃だろうなぁ~と思ってしまいます。

 氏寺があることを考えれば、この辺りが古代檜隈の中枢部として機能していたと考えられそうです。そして、北西に向けて枝別れする2つの尾根のもうひとつのに建物群。寺のすぐ近くにあることから、一族にとって重要な建物があったのかもしれません。とすれば、東漢氏の中でも中心的立場にあった人達が、この二つの尾根を闊歩していた・・・。そう思うだけで、ワクワクするのはσ(^^)だけでしょうか。(^^ゞ

 この7世紀後半の大規模な造成のせいで、それ以前の檜隈寺の伽藍の様子は分からなくなってしまっています。ただ、寺跡の北方からは、小金銅仏片や飛天像片など寺院関連の貴重な遺物が出土していますので、これらを繋ぎあわせていくことで、少しずつ7世紀中頃までの檜隈寺の姿も明らかになっていくかもしれません。

 檜隈寺に関しては、前号の網先生のご寄稿を是非再読してください。
 「渡来系の寺を考える―檜隈寺跡を題材に―

 また、手前味噌で申し訳ないですが、σ(^^)のサイトにも檜隈寺跡の概略を書いたページがありますので、良ければご覧頂ければと思います。
 「檜隈寺跡(ひとしひとひら)

 それぞれの周辺の発掘調査に関しては、飛鳥遊訪マガジンにあい坊先生とゆき先生が、以前ご寄稿下さっていますので、そちらを再読頂ければと思います。
 「飛鳥の渡来人と古代檜隈 -檜前遺跡群の調査成果から-/あい坊先生
 「7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-(1)(2)/ゆき先生







【5】 (13.7.12.発行 Vol.165に掲載)    もも

 第39回定例会もいよいよ明日に迫りました。定例会を明日に控えたこ
の土壇場で申し訳ないですが、今号では、本定例会のキーワードとなるだろう「瓦積基壇」と「輻線文縁軒丸瓦」のお話をさせて頂こうと思います。

 まず、一つ目のキーワードとなる「瓦積基壇」ですが、その前に、基壇のお話をしておいた方がいいかもしれませんね。 

 基壇がお寺の土台部分だと言うのは、皆さんも御存じだと思います。重い瓦をはじめ柱などの構造物を支えるためには、これはしっかりしたものでないと困ります。そのため土台は、種類の違う土を交互に幾層も突き固める工法(版築)で、地盤沈下などを起こさないよう固く造られます。こういう風に造られた古代寺院の土台の名残は、今も飛鳥で目にすることができます。農地の真ん中にポコンと盛り上がった大官大寺跡、池の堤にせり出して残る吉備池廃寺跡などが良く知られていると思います。これらは、頑丈すぎて崩せずに残った土台の痕跡です。でも、幾ら強固に造られても所詮は土。風雨に曝されると土が流れ出し、外側から崩れてしまいます。大官大寺の塔跡も風雨の浸食を受けて、土壇の肩がなだらかになっていますよね。こんな風に崩れてしまっては土台の意味がありません。そこで、崩れないよう基壇の外側が保護されます。これが「基壇外装」や「基壇化粧」と呼ばれます。外装には、石や瓦などが用いられ、「瓦で外側を化粧した基壇」が「瓦積基壇」ということになります。

 法隆寺に行かれたら金堂や塔を拝観する時に階段をのぼりますよね。その階段の高さ部分が「基壇」になります。法隆寺の場合は表面が綺麗に加工された切石が用いられていますので「切石積基壇(壇上積基壇)」になります。今見られる寺院の殆どがこの形なんじゃないでしょうか。一見するとコンクリートか?と思ってしまいますが(笑)。この他にも、自然石を積み上げた「玉石積基壇(乱石積基壇)」というのもあります。

 また、基壇が二段になっていることから、二重基壇と呼ばれるものもあり、これは檜隈寺の金堂でも採用されています。これまた法隆寺を例にあげると、金堂や塔の基壇は二重基壇になっています。

 基壇外装の種類や、基壇が一段か二段かの差は、時代は勿論ですが建物の格によって異なると考えられています。格なんて言われても、なんのこっちゃ?って話ですが、法隆寺でも講堂の方が金堂や塔より基壇が低くなっていますよね。本尊を安置する金堂や舎利を埋納する塔と、僧が勉強のために集まったとされる講堂とでは、建物の重要性が違うとされたようです。同じ寺院内でも格の高い建物は基壇が高い・・・どれだけ仰ぎ見るかってことなんだろうとσ(^^)は捉えています。(^^ゞ

 二つ目のキーワードである「輻線文縁軒丸瓦」は「ふくせんもん・えん・のきまる・かわら」と読みます。


輻線文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦

 あまり聞き慣れない言葉ですが、「輻」は「や」とも読み「車輪の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた数多くの細長い棒」のことを言うんだそうです。自転車のスポークを思い浮かべて貰えばわかりやすいかもしれませんね。画像を見て頂くと、瓦の外周に放射状に並んだ線が確認できると思います。両槻会スタッフの間では、十円玉の外周にあるギザギザに似ているので「ギザ十文」と呼んでいます。(笑)

 瓦繋がりで、檜隈寺から出土している珍しい瓦をもう一つご紹介しておきます。


火炎文入り単弁蓮華文軒丸瓦

 これは、ちょっと変わっていて、蓮弁(花弁)の中に文様があるんです。子葉の先から外側に向けて、ツンツンと線状のものが見えると思います。これが「火炎文」と呼ばれています。仏像の光背などにみられる文様の影響を受けていると言う説があって、炎と考えられたようです。実際、これが炎に見えるか?と言われるとちょっと困りますが(笑)。

 先にあげた輻線文縁にしてもこの火炎文入りにしても、飛鳥ではあまり見られないタイプの文様になりますので、判別も付きやすいと思います。是非この機会に覚えて下さると嬉しいです♪

 咲読は、今号で最終回になります。長らく もも の咲読にお付き合い下さり有難うございました。m(__)m
 思い起こせば、本定例会のタイトルを「“渡来系の寺を考える―檜隈寺を題材に―”にしましょう」と講師の網先生からお聞きした時は、「やった渡来だ!寺だ!檜隈だ!」と、思わず叫びそうになりました。実はσ(^^)、「渡来系の寺」に嵌って檜隈寺跡を筆頭に飛鳥近隣の渡来系の寺跡だと言われるところを網羅したいと思っていた頃がありました。迷子名人のくせに、一人で河内まで足を延ばしてしっかり迷子になったり、高麗寺で現説があると聞けば地図片手に参加したり・・・どうして渡来系の寺に嵌ったのか、今ではもう覚えていないんですけど、今でも好きです♪ 定例会では、檜隈寺を例に取り飛鳥時代の渡来のお話がお聞き出来るのをとても楽しみにしています。

 第39回定例会にお申込下さった皆さんは、集合時間や場所を間違えないようにお集まり下さいね。暑い時期になりますが、事前散策から参加して現地を見て頂くとより一層楽しいと思います。では、明日集合場所でお待ちしております。(^^)
 残念ながら、今回ご参加頂けない皆さんは、定例会後の報告を楽しみにお待ち下さい。これを機に皆さんにも渡来に興味を持っていただければ嬉しいです♪








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