元号 |
西暦 |
月 |
事 項 |
応神16 |
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8 |
平群木莵宿禰・的戸田宿禰、弓月君率いる百二十県の民が渡来した。 |
20 |
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9 |
東漢直の先祖、阿智使主がその子都加使主、並びに十七県のともがらを率いてやって来た。 |
雄略 7 |
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東漢直掬に命じて、新漢である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。 |
12 |
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4 |
身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に遣わす。 |
14 |
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1 |
身狭村主青ら、呉の手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて住吉の津に泊まる。 |
3 |
臣連に命じて呉の使を迎えさせた。その呉人を檜隈野に住まわせた。それにより、呉原と名づけた。衣縫の兄媛を三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とし、漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。 |
欽明 7 |
538 |
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『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
百済・聖明王より、太子像・灌仏の器、幡・蓋の荘厳具、経が伝えられる。
(『日本書紀』では、欽明13年10月)
百済、首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移す。 |
宣化 4 |
539 |
10 |
宣化天皇崩御 |
欽明13 |
552 |
10 |
百済・聖明王より、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干が伝えられ、蘇我稲目が、百済・聖明王の仏像を貰い受け、小墾田の家に安置。
向原の家を清め寺とする。
後に疫病が流行り、物部連尾輿・中臣連鎌子の奏上により、仏像を難波の堀江に流し、寺に火を放つ。
『扶桑略記』
第廿七代継躰天皇即位十六年壬寅。大唐の漢人鞍部村主司馬達止。此年の春二月入朝す。即ち草堂を大和國高市郡坂田原に結び、本尊を安置し帰依礼拝す。
百済・漢城・平壌を捨て、新羅が漢城に入る。 |
14 |
553 |
5 |
溝辺直、茅渟の海より光り輝く樟木を得、天皇命じ画工に仏像ニ軀を造らす。 |
15 |
554 |
2 |
百済・聖明王戦死。 |
7 |
百済より、僧・曇慧らと五経・易・暦・医博士らが交替で派遣される。 |
18 |
557 |
3 |
百済の王子・余昌即位。(威徳王)・・・554年即位説あり。 |
23 |
562 |
1 |
任那滅亡。新羅に吸収される。 |
31 |
570 |
3 |
蘇我稲目没す。 |
32 |
571 |
4 |
天皇崩御。 |
敏達 6 |
577 |
5 |
大別王・小黒吉士、宰として百済に遣わす。 |
11 |
百済より、経論若干・律師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工などが伝えられる。
これを難波の大別王の寺に配置する。 |
8 |
579 |
10 |
新羅から仏像が伝えられる。 |
13 |
584 |
9 |
馬子、鹿深臣・佐伯連の請来品の石の弥勒像と仏像を貰い受ける。
馬子、邸宅の東方に仏殿を建て、石の弥勒像を安置する。
また、石川の家に仏殿を造る。
鞍部司馬達等・池辺直氷田を遣わし、仏法の師として、播磨の還俗僧・恵便を探し出す。
善信尼(司馬達等の娘)らが出家する。
司馬達等、法会の際に舎利を発見。 |
14 |
585 |
2 |
蘇我馬子が大野丘の北に塔を立てる。先に(敏達13年9月)司馬達等が得た舎利を柱頭に納める。
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
止由等佐岐に刹柱を立てる |
3 |
物部守屋らが、塔を倒して仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てる。善信尼らを海石榴市で鞭打つ。
物部守屋、三人の尼を馬子に返還する。 |
用明 2 |
587 |
4 |
天皇病臥。三宝(仏・法・僧)への帰依を群臣にはかる。 |
6 |
鞍部多須奈、天皇の為に出家。丈六仏と寺を造る。・・・今南淵の坂田寺の木造の丈六仏・脇時菩薩がこれである。
善信尼が戒律習得のために、百済留学を願い出る。 |
7 |
物部守屋との戦いに際し、廐戸皇子、四天王像を彫り戦勝を祈願。馬子、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓願。
物部守屋滅ぶ。(崇排仏戦争、蘇我氏勝利) |
崇峻元 |
588 |
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百済より ・僧恵総・令斤・恵寔(ショク)が遣わされ舎利を献上する。
同時に、僧6名、寺院建築工2名、露盤博士、瓦博士4名、画工が渡来。
善信尼らが受戒を受けに百済へ発つ。
(飛鳥寺の)整地と着工。飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して作る。 |
3 |
590 |
3 |
善信尼らが帰国し、桜井寺に住む。 |
10 |
山に入って寺(飛鳥寺)の用材を伐った。 |
5 |
592 |
10 |
崇峻天皇暗殺される。
(飛鳥寺の)仏堂と歩廊の工を起こした。 |
12 |
皇后(推古天皇)豊浦宮にて即位。 |
推古元 |
593 |
1 |
(飛鳥寺の)仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。
この年、難波・荒陵に四天王寺を造り始める。
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
止由等の宮を寺と為す、故に止由等寺と名づく |
2 |
594 |
2 |
皇太子(聖徳太子)と大臣に詔し、三宝の興隆を図る。
多くの臣・連たちは、きそって仏舎を造る。 |
3 |
595 |
5 |
高麗(高句麗)僧・慧慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となる。
この年、百済僧・慧聡が来朝する。 |
4 |
596 |
11 |
飛鳥寺、落成。馬子の長子・善徳臣が寺司に。慧慈、慧聡が飛鳥寺に住まう。 |
10 |
602 |
10 |
百済僧・観勒が来朝する。
暦の本、天文地理の本、遁甲術の本を持参する。
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閏10 |
高麗(高句麗)僧・僧隆、雲聡が来朝・帰化する。 |
11 |
603 |
10 |
推古天皇、小墾田宮に遷居。 |
11 |
皇太子(聖徳太子)所持の仏像を貰い受け、秦河勝が蜂岡寺を造る。 |
12 |
604 |
4 |
十七条憲法発布
「二にいう。篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。 ・・・」 |
13 |
605 |
4 |
銅と繍との一丈六尺の仏像を各一躯造り始める。
鞍作鳥が造仏工に任じられる。
高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両が伝えられる。 |
14 |
606 |
4 |
(飛鳥寺の)金銅と繍の丈六釈迦仏を安置。
(『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』では、推古17年) |
5 |
鞍作鳥、祖父・司馬達等、父・多須奈の功、及び、飛鳥寺への丈六仏安置の功により、大仁の位と近江国坂田郡水田二十町を賜る。金剛寺造営。 |
7 |
皇太子(聖徳太子)、勝鬘経・法華経を講じ、播磨国水田百町を賜り、これを斑鳩寺に納む。
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
この年、(飛鳥寺の)金人(金銅の仏像)を造らせる。 |
17 |
609 |
5 |
百済からの修道者11人、上表し許され飛鳥寺へ居住する。
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
(飛鳥寺に)丈六仏を安置。 |
18 |
610 |
3 |
僧・曇徴、法定らが渡来する。 |
23 |
615 |
11 |
僧・慧慈が帰国する。 |
24 |
616 |
7 |
新羅から仏像が伝えられる。 |
29 |
621 |
2 |
聖徳太子没す。 |
31 |
623 |
7 |
新羅・任那から仏像一体、金塔、舎利などが伝えられる。
それらのうち、仏像を葛野の蜂岡寺、その他を四天王寺に納める。 |
32 |
624 |
4 |
僧正・僧都などを任命し、寺院・僧尼の統一を図る。
観勒を僧正、鞍部徳積を僧都、阿曇連を法頭に任ず。 |
9 |
寺及び僧尼を調査し、各寺の縁起などを記録する。
このとき、寺は46ヶ寺、僧816人、尼569人。 |
33 |
625 |
1 |
高句麗僧・恵灌が渡来し、僧正に任じられる。 |
34 |
626 |
5 |
蘇我馬子没す。 |
36 |
628 |
3 |
天皇崩御。 |