両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第30回定例会

両槻会主催講演会

仏教伝来の頃の飛鳥


事務局作製事策用資料

 
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
坂田寺跡 発掘調査遺構概略図 坂田寺遺構説明 坂田寺の瓦
仏教公伝 朝鮮三国の仏教受容と我国への伝播 飛鳥寺以前の仏教建築物の記録
古代初期寺院に関する創建記録や伝承 史料にみる鞍作氏 語句解説
語句解説参考図 関連年表 関連系図
蘇我氏系図 伽藍配置比較図 坂田寺跡周辺小字名
坂田寺跡現況(クリッカブルマップ) 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。


 坂田寺は、鞍作氏の氏寺として建立された、飛鳥寺と並ぶ最古級の寺院と考えられています。
創建に関しては『扶桑略記』によると、継体16(522)年に渡来した司馬達等が造った高市郡坂田原の草堂に由来するとされます。また『日本書紀』によれば、用明天皇2(587)年に鞍作多須奈が天皇の為に発願した丈六仏と寺や、推古天皇14(606)年に鞍作鳥(止利仏師)が近江国坂田郡の水田20町をもって建てた金剛寺が坂田寺とされるなど、創建の経緯には諸説があります。
『日本書紀』朱鳥元(686)年には、天武天皇の為の無遮大会を坂田寺で行ったことが記されており、五大寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)の一つに数えられています。
 しかし、現在発見されている遺構は奈良時代のもので、創建期の伽藍は未だ発見されていません。




坂田寺跡 発掘調査遺構概略図
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坂田寺遺構説明

伽藍方位が、北に対して西に約15度振れる。(以降、方位に関してはこの振れを省略。)

仏堂
 ● 南北5間、東西2間の身舎の四面に廂が付く。
 ● 西を正面とする南北棟建物。
 ● 南北長24.7m、東西長13.1m。
 ● 身舎の柱間は13尺(3.86m)の等間隔
 ● 廂の出、9尺(2.68m)。
 ● 柱材径約55cm、地覆材一辺約20cmの角材。(腐食した状態で遺存)
 ● 壁厚約15cm、木舞に黄白色の壁土を塗り、白土で仕上げ。
 ● 礎石建ち基壇建物。
 ● 檜皮葺。
 ● 礎石、円形柱座を造り出した花崗岩製。
 ● 基壇東辺、南辺は、花崗岩自然石を積み上げた二重基壇。
 ● 下成基壇規模、南北29.5m、東西17.9m、高さ0.6m。
 ● 他の二重基壇(飛鳥寺・法隆寺・檜隈寺)と異なり、上成基壇より下成基壇が高い。
 ● 閼伽棚と思われる礎石2個が、建物南東部外側に遺存。

 須弥壇
 ● 身舎の中央三間に須弥壇が設けられている。
 ● 格狭間を施した凝灰岩切石の縁石で区画される。
 ● 鎮壇具
    瑞雲双鸞八花鏡・金箔・心葉形水晶玉・琥珀玉・瑠璃玉・銅銭・刀子・金銅製挟子
    灰釉小型双耳瓶・絹糸など10種40数点。
    ☆銅銭
       和同開珎・萬年通寶・神功開寶
       <神功開寶発行 天平神護元(765)年> (建設時期の推定)
       須弥壇上から和同開珎の銀銭
 ● 菩薩像とみられる脱活乾漆像断片が大量出土。

回廊
 ● 仏堂西側の廂の両側に取り付く。
 ● 規模、南北約56m、東西約63mに推定。
 ● 梁間1間の礎石建ち。(花崗岩自然石の礎石が遺存。)
 ● 桁行・梁行ともに10尺(3m)。
 ● 回廊基壇幅、約4.8m。高さ20cm。
 ● 石組の雨落溝を伴う。
 ● 回廊東南部から、連子窓・大斗・小斗・柱・頭貫・蟇股・檜皮などの建築部材・用材が倒壊したままの状態で出土。
 ● 檜皮葺 (瓦の出土が少数)
 ● 腰壁束と推測される角柱列が礎石間に存在。(南面回廊で確認)
 ● 雨落溝より小型の海獣葡萄鏡出土。

 北面回廊造成状況
 ● 厚さ2mの盛土。
 ● 高さ2.5mの大型花崗岩積みの石垣。
 ● 石垣は、中央部分で途切れ斜道が存在する。
 ● 斜道北側に旧道があることから、中門の存在が想定される。(北向き伽藍)

回廊内建物
 ● 中央部・南西部に2棟の基壇建物が存在。
 ● 凝灰岩切石の基壇外装を伴う礎石建物。
 ● 羽目石が立った状態で出土。上面に葛石が確認された。
 ● 川原石を敷き詰めた犬走りが存在。
 ● 幅約50㎝の雨落溝を伴う。
 ● 建物の詳細は不明。

回廊外建物
 西面回廊外
 ● 回廊と同方位。
 ● 低い基壇上に建つ掘立柱の南北棟大型建物。
 ● 梁行2間の身舎の東西に庇が付く。
 ● 桁行6間以上。
 ● 柱間は、全て9尺。
 ● 板敷建物。(床束の検出)
 ● 基壇裾に自然石の縁石。
 ●外側に素掘の雨落溝。
 ● 遺物
    ☆9c~10c後半の土器・唐三彩の陶枕・金銅仏光背片。

 北面回廊外
 ● 井戸屋形を持つ井戸。
 ● 出土遺物、「坂田寺」「厨」「南客」と書かれた墨書土器。
 ● 井戸に接続して、伽藍方位に一致する数条の石組溝。
 ● 小規模掘立柱建物
 ● 素掘溝(造営過程で炭が混入するもの2条)
 ● 掘立柱塀
 ● 幢竿支柱と思われる掘立柱遺構。
 ● 石組護岸の方形池。(7世紀中頃) 南辺・東辺の一部検出。東西6m・南北10m以上、深さ1m以上の方形。
   埋土から7c中の土器・瓦出土。
● 出土遺物
    ☆瓦、奈良時代墨書土器(「金」・「知」・「知識」・「知識□□」)
     仏具とされる銅製品、和同開珎、木簡「醤四斗不乃理五斗」

 南面回廊外
 ● 南に位置する丘陵上に瓦葺建物の存在が推測される。(丘陵の崩落土から遺物。)
    ☆瓦(大量)・土製小仏像・金箔を押した漆製品断片・ガラス玉など

 東面回廊外/仏堂東側
 ● 鎮壇具埋納土坑 (径約2m、深さ0.3m)
 ● 埋納鎮壇具
    ☆銅銭 (291枚)、佐波理碗、灰釉陶器、須恵器、土師器、琥珀玉、ガラス玉、金箔、金銅製筒形金具、
     C字形金具、銅鈴などが、絹布に包まれ、あるいは紐でくくられた状態で埋納。
    ☆銅銭は、和同開珎、萬年通寶、神功開寶、開元通寶の4種。(仏堂とほぼ同時期の埋納)
 ● 講堂または食堂などの基壇建物が推測される。


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坂田寺の瓦

 坂田寺には、奈良時代以前の軒瓦が30種以上、そのうち創建期のものと思われる軒瓦が約12種あるようです。
7世紀初頭のもので、飛鳥寺の創建に使用された素弁蓮華文軒丸瓦(星組・花組)に、よく似た瓦があります。飛鳥寺などとの同笵関係がなく、坂田寺用に作製された可能性が考えられるようですが、僅かながら飛鳥寺の技術の一端が垣間見えるそうです。

 7世紀前半には、坂田寺独自と言われる素弁蓮華文軒丸瓦があらわれます。ポッテリした蓮弁と少し尖った感じの弁端を持つこの軒丸瓦は、明らかにこの時期飛鳥で用いられた他の寺院の瓦当文様とは形態が異なっています。また組合う軒平瓦の文様も若葉を思わせる三葉の唐草を手彫りで表現するもので、これが飛鳥地域における初の軒平瓦となります。

坂田寺出土品
飛鳥資料館収蔵品(転載・転用禁止

若草伽藍出土品
天理参考館収蔵品(転載・転用禁止)

 手彫りの軒平瓦といえば、斑鳩の若草伽藍出土の手彫忍冬文軒平瓦が有名です。坂田寺出土の軒平瓦とは、フリーハンドによる施文の他、製作技術にも幾つかの共通点が見られるそうで、時期としては、ほぼ同時、もしくは坂田寺のものが若干後発で、7世紀前半だと考えられています。

 「坂田寺式軒丸瓦」と言われる単弁八葉蓮華文軒丸瓦は、かなり肉厚の蓮弁を持っています。単弁蓮華文といえば、両槻会でも数度訪れている吉備池廃寺や山田寺の所用瓦と同じ名になりますが、坂田寺のものは、蓮弁周囲に線による縁取りがなく、肉厚感や蓮弁内の子葉の占める割合の大きさ、重圏文を持たないことなどから、吉備池廃寺式よりも若干先行し、7世紀中頃までの草案だと考えられています。


吉備池廃寺式軒丸瓦
泉南市古代史博物館収蔵品(転載・転用禁止

 山田寺式軒丸瓦
飛鳥資料館収蔵品(転載・転用禁止) 

 7世紀中頃を過ぎると、山田寺式、善正寺式と呼ばれる河内を主体に展開している軒瓦や藤原宮式などが採用されています。(写真は、撮影許可・使用許可をいただいた物です。転用・転載は禁じます。)


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仏教公伝


 仏教公伝の年次については、一般的に538年とされていますが、有力な説として552年説が有ります。

552年説
 『日本書紀』では、欽明天皇13(552)年10月に百済の聖明王が使者を遣わし、仏像や経典を献上したと記されています。

538年説
 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあります。しかし書紀での欽明天皇治世(540年~571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年、書紀によれば宣化天皇3年が有力だと考えられます。


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朝鮮三国の仏教受容と我国への伝播

高句麗
  372年、小獣林王の時代に前秦から伝播。
  375年、肖門寺・伊弗蘭寺などが建立。

百済
  384年、枕流王が東晋から高僧摩羅難陀を招来
  392年、阿莘王(阿華王)が仏教信仰を国内に布告。
        本格的に仏教が普及するのは6世紀初頭。

新羅
  6世紀初頭 法興王の時代に公認、国家主導の仏教振興策。


 4世紀後半頃から、高句麗・百済・新羅は互いに連携や抗争を繰り返していました。6世紀前半即位した百済の聖明王は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していましたが、次第に新羅の圧迫を受け、538年には都を熊津から泗沘へ移すなど逼迫した状況にありました。百済は、新羅に対抗するために盛んに我国に支援を求めることになります。そのような状況の下で、百済が仏教を伝えたのは、先進文化を伝えることの見返りに我国の援助を得ようとする外交施策でありました。また一方、東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁の武帝の歓心を買うことなど、外交を有利に展開させるための方策でもあったのでしょう。このことは前回(第29回)定例会で学びました。

 しかし、この仏教公伝とは別に、渡来人による私的崇拝は古くから行われていたと思われます。渡来人の多くは朝鮮半島の出身者であり、我国への定住には氏族としてグループ化がなされ、その氏族内での私的信仰として仏教が持ち込まれたものと考えられます。522年に来朝したとされる司馬達等は、その好例だと考えて良いでしょう。



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飛鳥寺(588年)以前の仏教建築物の記録

『日本書紀』
 蘇我稲目、小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を清めて寺とする。欽明13(552)年
 蘇我馬子の仏殿(軽の槻曲宅の東) 敏達13(584)年
 蘇我馬子の大野丘塔          敏達14(585)年2月
   (「乙巳年二月一五日、止由良佐岐刹柱立、作大会」 元興寺縁起)
   和田廃寺説・・・・豊浦寺西0.7km 搭跡の土壇・・・・7C中頃の瓦出土

『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
 止由等佐岐に刹柱を立て…刹を立てし処は、宝欄の東の仏門の処  敏達14(585)年 


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古代初期寺院に関する創建記録や伝承

坂田寺(金剛寺)
『扶桑略記』
 継体16(522)年 司馬達等が大和国高市郡坂田原に草堂を営む。
『日本書紀』
 用明2(587)年  天皇の為に寺を造る(鞍作多須奈)
 推古14(606)年 鞍作鳥近江国坂田郡水田二十町賜る。金剛寺造営。
 朱鳥元(686)年  五大寺のひとつに数えられる。

飛鳥寺
『日本書紀』
 崇峻元(588)年 整地と着工
             飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して造る。
             善信尼ら受戒を受け百済へ発つ。
 崇峻3(590)年  用材の調達。善信尼ら帰国、桜井寺に居住。   
 崇峻5(592)年  金堂・歩廊を着工。
 推古元(593)年  塔心礎に仏舎利を納める。心柱を建てる。
 推古3(595)年  高句麗僧・恵慈帰化。百済僧・恵聡来朝。
 推古4(596)年  飛鳥寺落成。馬子長子善徳臣寺司に任ず。高句麗僧・恵慈・百済僧・恵聡が住す。
 推古13(605)年 高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両
 推古14(606)年 金銅丈六釈迦仏・繍丈六仏を安置。(紀)(元興寺縁起は、609年)

豊浦寺
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
 敏達14(585)年 止由等佐岐に刹柱を立て…刹を立てし処は、宝欄の東の仏門の処。
 推古元(593)年  等由等の宮を寺と成す。故に等由等寺と名づく。
『日本書紀』
 推古11(603)年 宮を小墾田宮に遷す。
             善信尼が住す桜井寺に小墾田宮遷都に伴い推古帝より豊浦の地を施入される。
 朱鳥元(686)年12月 天皇の為、無遮大会が五ヶ寺(大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺・坂田寺)で営まれる。
『聖徳太子伝暦』
 舒明6(634)年 春正月十五日、豊浦寺心柱を建てる。

法隆寺(若草伽藍)
『日本書紀』
 推古9(601))年2月 斑鳩に宮室を営む。
 推古13(605)年  太子、斑鳩宮にうつる。
 推古14(606)年  勝鬘経・法華経を講じ播磨国水田百町を斑鳩寺(法隆寺)に納める。
 天智9(670)年   焼亡。
『釈迦三尊像光背銘』
 推古15(607)年 金銅薬師如来像完成。
 推古31(623)年 釈迦三尊像完成。 

四天王寺
『日本書紀』
 崇峻即位前紀(587)年 乱過ぎて後、摂津の国に四天王寺を造る。
 推古元(593)年 この歳、始めて四天王寺を難波荒陵に造る。
『上宮聖徳太子伝補闕記』
 玉造の東岸上に営み、四天王寺とす。後に荒墓村に遷す。


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史料にみる鞍作氏

司馬達等
 6世紀に渡来した鞍作氏。(南梁の人ともされるが不詳)按師首達等、案部村主司馬達止などとも書く。子に多須奈、善信尼(嶋)、孫に止利仏師が居る。
扶桑略記 欽明天皇13(552)年10月13日条「日吉山藥恒法師法華驗記云。延暦寺僧禪岑記云。第廿七代継躰天皇即位十六年壬寅。大漢人案部村主司馬達止。此年春二月入朝。即結草堂於大和國高市郡坂田原。安置本尊。歸依礼拝。擧世皆云。是大唐神之。」

日本書紀 敏達天皇13(584)年9月条「遣難波吉士木蓮子、使於新羅。遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣、有彌勒石像一軀。佐伯連、有佛像一軀。
是歳、蘇我馬子宿禰、請其佛像二軀、乃遣鞍部村主司馬達等・池邊直氷田、使於四方、訪覓修行者。於是、唯於播磨國、得僧還俗者。名高麗惠便。大臣乃以爲師。令度司馬達等女嶋。曰善信尼。年十一歳。又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜菩之女豐女、名曰禪藏尼。其二、錦織壼之女石女、名曰惠善尼。馬子獨依佛法、崇敬三尼。乃以三尼、付氷田直與達等、令供衣食。經營佛殿於宅東方、安置彌勒石像。屈請三尼、大會設齋。此時、達等得佛舍利於齋食上。卽以舍利、獻於馬子宿禰。馬子宿禰、試以舍利、置鐵質中、振鐵鎚打。其質與鎚、悉被摧壤。而舍利不可摧毀。又投舍利於水、舍利隨心所願、浮沈於水。由是、馬子宿禰・池邊氷田・司馬達等、深信佛法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅、修治佛殿。佛法之初、自茲而作。」
(要約)

「鹿深臣と佐伯臣が、弥勒の石像2体を携えて百済から帰国した。蘇我馬子は、槻曲の宅に仏殿を作って、2体の石像を祀るとともに、鞍部村主司馬達等と池辺直氷田とを各地に使わし修行者を求めた。高麗の還俗僧恵便を探し出し、また司馬達等の娘の嶋を得度し善信尼とした。さらに、その弟子として禅蔵尼・恵善尼として出家させ、仏の法のままに敬い、馬子の命により氷田と共に三尼の衣食を供した。
また邸宅の東の仏殿に招き、法会を行った。その折り、司馬達等の食事の上に舎利が現れたので、馬子に奉った。 馬子が試みに舎利を鉄質中に置き鉄槌を振って打つと、質と槌はことごとく砕け壊されたが、舎利は毀れなかった。 また舎利を水中に投ずると、心の願うままに浮沈した。これによって、馬子、氷田、達等は深く仏法を信じて修行を怠らなかった。翌14(585)年の2月に、大野丘の北に塔を建て、法会を催すとともに、先の舎利を塔の柱の先端に納めた。同じ頃、馬子は石川の宅にも仏殿を設けた。」

鞍作多須奈
 達等の子、止利の父。
日本書紀 用明2(587)年4月条「天皇之瘡転盛。将欲終時。鞍部多須奈司馬達等子也。進而奏曰。臣奉為天皇出家修道。又奉造丈六仏像及寺。天皇為之悲慟。今南淵坂田寺木丈六仏像。挟侍菩薩是也。」

「天皇の病状がいよいよ重く、まさに崩ぜんとした時、多須奈は、天皇の為に出家修道し、また丈六仏像および寺を造り奉らんことを奏上した。南淵坂田寺の木丈六仏像、挾侍菩薩がこれである。」

日本書紀 崇峻3(590)年冬10月条「入山取寺材。是歳、度尼、大伴狭手彦女善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光、又漢人善聰・善通・妙徳・法定照・善智聰・善智恵・善光等。鞍部司馬達等子多須奈、同時出家。名日徳斎法師。」

「山に入って寺(法興寺=飛鳥寺)の用材を採った。この歳、尼を得度させた。大伴狭手彦女善徳・大伴狛夫人・新羅媛善妙・百済媛妙光、又漢人善聰・善通・妙徳・法定照・善智聰・善智恵・善光らである。また、鞍部司馬達等の子多須奈も同時に出家した。その名を徳斎法師という。」

善信尼
 名は嶋。司馬達等の娘。敏達天皇13年に出家。我が国最初の尼僧の一人。
日本書紀 敏達天皇13(584)年9月条「・・・令度司馬達等女嶋。日善信尼。(年十一歳)。又度善信尼出来二人。其一、漢人夜菩之女豊女、名曰禅蔵尼。其二、錦織壺之女石女、名日恵善尼。馬子独依仏法、崇敬三尼。付永田直興達等、令供衣食。経営仏殿於宅東方、安置弥勒石像。屈請三尼、大会設斎。」

「また司馬達等の女嶋を得度させ、善信尼といった(年11歳)。さらに善信尼の弟子二人を得度させた。その第一は漢人夜菩の女豊女で、名づけて禅蔵尼といい、第二は錦織壺の女石女で、名づけて恵善尼といった。馬子は仏の法のままに三人の尼をうやまい、三人の尼を迎えて大会の設斎を行った。」

日本書紀 敏達14(585)年3月条「物部弓削守屋大連、・・・喚馬子宿禰所供善信等尼。由是、馬子宿禰、不敢違命、惻愴啼泣、喚出尼等、付於御室。有司便奪尼等三衣、禁錮、楚撻海石榴市亭。」

「物部弓削大連は、・・・馬子宿祢が世話をしている善信らの尼たちを召喚した。このため馬子宿祢は、あえてその命にそむかず、泣き悲しみながら尼たちをよび出し、御室に引き渡した。官人はすぐさま尼たちの法衣をはぎとり、その身を縛って、海石榴市の亭で鞭うった。」

日本書紀 敏達14(585)年条「天皇、・・・乃以三尼、還付馬子宿禰。馬子宿禰、受而歡悅。嘆未曾有、頂禮三尼。新營精舍、迎入供養。」
「天皇は、・・・三人の尼を馬子宿祢にお返しになった。馬子宿祢はこれを受けて大変喜び、未曾有のことだと嘆じて三人の尼を礼拝し、新しく寺を造営し、迎え入れた。

日本書紀 用明天皇2(587)年6月21日条「善信阿尼等、謂大臣曰、出家之途、以戒爲本。願向百濟、學受戒法。是月、百濟調使來朝。大臣謂使人曰、率此尼等、將渡汝國、令學戒法。了時發遣。使人答曰、臣等歸蕃、先噵國主。而後發遣、亦不遲也。

「善信尼たちは、大臣に『出家の道は、戒を基本としております。百済に渡り、戒法を学び受けたいと思います』といった。この月に百済の調使が来朝したので、大臣は使人に、『この尼たちをつれておまえの国に渡り、戒法を学ばせてやってほしい。学び終わったら送り返してほしい』といったが、使人は、『国に帰ってまず国主に申しあげましょう。それから出発させても遅くはありますまい』と答えた。

日本書紀 崇峻天皇元(588)年条「蘇我馬子宿禰、請百濟僧等、問受戒之法。以善信尼等、付百濟國使恩率首信等、發遣學問。」

「蘇我馬子宿祢は、百済の僧らを請じて受戒の法をたずね、また善信尼たちを百済国の使恩率首信らに託し、学問のために遣わした。

日本書紀 崇峻天皇3(590)年春3月条「學問尼善信等、自百濟還、住櫻井寺。」

「学問尼善信らが百済から帰り、桜井寺に住した。」

鞍作鳥
 飛鳥時代の仏師。止利仏師ともいわれる。鞍部多須奈の子。子供に、福利・人足・真枝がいたとする系図がある。代表作、法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像や安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)。(別の仏師によるとする説もある。)杏仁形の眼・アルカイックスマイルや衣文・服制など、止利様式と呼ばれる特徴を示す。

日本書紀 推古天皇13(605)年夏4月条「天皇詔皇太子大臣及諸王諸臣、共同發誓願、以始造銅繡丈六佛像、各一軀。乃命鞍作鳥、爲造佛之工。」

「天皇は、皇太子・大臣および諸王・諸臣に詔して、ともに請願を発し、銅および繍の丈六の仏像各一軀を造りはじめられた。そこで、鞍作鳥に命じて、仏像を造る工とした。」

日本書紀 推古天皇14(606)年夏4月8日条「銅繡丈六佛像並造竟。是日也、丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像、高於金堂戸、以不得納堂。於是、諸工人等議曰、破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工、不壤戸得入堂。」

「銅および繡の丈六の仏像がともに完成したので、丈六の銅像を元興寺の金堂に安置しようとした。このとき、仏像が金堂の戸より高く、堂に納めることができなかった。工人たちは『金堂の戸を壊して中に入れよう』と相談したが、さすがに鞍作鳥はすぐれた工で、戸を壊さず堂に入れることができた。」

日本書紀 推古天皇14(606)年5月5日条「勅鞍作鳥曰、朕欲興隆內典。方將建佛刹、肇求舍利。時汝祖父司馬達等、便獻舍利。又於國無僧尼。於是、汝父多須那、爲橘豐日天皇出家、恭敬佛法。又汝姨嶋女、初出家、爲諸尼導者、以修行釋教。今朕爲造丈六佛、以求好佛像。汝之所獻佛本、則合朕心。又造佛像既訖、不得入堂。諸工人不能計、以將破堂戸。然汝不破戸而得入。此皆汝之功也。則賜大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥以此田、爲天皇作金剛寺。是今謂南淵坂田尼寺。」

「鞍作鳥に勅して、『自分が仏教の興隆を願い、仏寺を建てるためまず舎利を得たいと思ったとき、おまえの祖父の司馬達等は、すぐに舎利を献上してくれました。また、国内の僧尼がいなかったが、お前の父の多須那が、橘豊日天皇のために出家して、仏法を敬いました。さらにお前の伯母の嶋女は、最初に出家をとげ、尼たちの指導者として仏道を修行しました。いままた私が丈六の仏像を造るために、すぐれた仏の図像を求めていると、おまえが献上した仏の図像が私の心にぴったりのものでした。また仏像が完成して、堂に入れることができなかったおり、工人たちは手のつけようがなく、堂の戸を壊そうとしたのに、おまえは戸を壊さずに入れることができました。これらはみなおまえのてがらです。』と言われ、大仁の位を賜り、また近江国の坂田郡の水田20町を賜った。鳥はこの田を財源に、天皇のおんために金剛寺を造った。いまこれを、南淵の坂田尼寺という。」

法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月廿二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月廿一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐発未年三月中
如願敬造釋迦尊像并侠待及荘厳
具竟乗斯微福信通知識現在安穏
出生入死随奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

「法興の元三十一年歳次辛巳十二月、鬼前大后崩りましぬ。明年正月廿二日、上宮法皇枕病して悆(たのし)まず。干食王后仍りて労疾を以って、並びに床に著きましぬ。時に王后王子等及び諸臣と、深く愁毒を懐き、共に相発願し、仰ぎて三宝に依り、まさに釈像尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙りて、病を転じ寿を延べ、世間に安住したまわん。若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇りたまわんことを。二月廿一日癸酉王后即世、翌日法皇登遐す。癸未の年三月中、願の如く敬しみて釈迦の尊像并びに挟侍、及び荘厳具を造ること竟ぬ。(中略)司馬鞍首止利仏師をして造らしむ」

鞍部堅貴
 鞍作三代との繋がりは不明。
日本書紀 雄略天皇7(463)年条「天皇詔大伴連室屋、命東漢直掬 以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・書部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等 遷居于上桃原・下桃原・真神原三所」

「天皇は、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に、命じ、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・書部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等を、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に居住させた。」

鞍作福利
 鞍作三代との繋がりは不明。遣隋使通事。推古15年・16年に隋にわたるが、帰国せず。
日本書紀 推古天皇15(607)年秋7月条「大禮小野臣妹子遣於大唐。以鞍作福利爲通事。」

「大礼小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利を通事とした。」

日本書紀 推古天皇16(608)年9月条「饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世淸罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。吉士雄成爲小使。福利爲逸事。」

「5日、客人たちを難波の大郡で饗応した。11日に、唐の客人裴世清は帰途についた。よって再び小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とし、福利を通事として、唐の客に随行させた。

日本書紀 推古天皇17(609)年9月条「小野臣妹子等、至自大唐。唯通事福利不來。」

「小野臣妹子らが帰国した。ただし、通事の福利だけは帰って来なかった。」

鞍作徳積
 鞍作三代との繋がりは不明。
日本書紀 推古天皇32(624)年夏4月条「詔曰、夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後、任僧正僧都、仍應檢校僧尼。壬戌、以觀勒僧爲僧正。以鞍部德積爲僧都。卽日、以阿曇連闕名。爲法頭。」

「13日、天皇は詔して、『出家者が法を犯すようでは、どうやって俗人を教え導くことができましょう。今後は僧正・僧都を任命し、僧尼を監督させることとします。』と言われた。17日に、観勒僧を僧正とし、鞍作徳積を僧都とした。」

鞍作得志
 鞍作三代との繋がりは不明。
日本書紀 皇極天皇4(645)年夏4月条「夏四月戊戌朔、高麗學問僧等言、同學鞍作得志、以虎爲友、學取其術。或使枯山變爲青山。或使黃地變爲白水。種々奇術、不可殫究。又虎授其針曰、愼矣愼矣、勿令人知。以此治之、病無不愈。果如所言、治無不差。得志、恆以其針隱置柱中。於後、虎折其柱、取針走去。高麗國、知得志欲歸之意、與毒殺之。」

「4月1日に、高麗に遣わされていた学問僧らが、「同学の鞍作得志は、虎を友達にし、その忍術を学び取りました。枯山を青山に変えたり、黄色い土を白い水に変えたりなどの奇術は、数えきれないほどです。また虎は、針を得志に授けて、『決して人に知られないようにしろよ。これで治療すればなおらない病気はないのだ。』と言いましたが、ほんとうに、どんな病気でもきっとなおりました。得志はいつもその針を柱のなかにかくしておいたのですが、やがて虎は、その柱を折って、針をとって逃げてしまいました。高麗国では、得志が帰国したいと思っていることを知って、毒をもって殺してしまいました。」と報告した。

鞍作人足 ・ 恵枝
 鞍作三代との繋がりは不明。鈴木真年『百家系図稿』巻9、鞍作村主(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年) による系図に、鞍作鳥の子供として書かれるようだが、詳細不明。

鞍部首加羅爾
 鞍作三代との繋がりは不明。
元興寺伽藍縁起并流記資材帳「丙辰年十一月既 爾時使作金人等意奴弥首名辰星也 阿沙都麻首名未沙也鞍部首名加羅爾也 山西首名都鬼也 以四部首為将 諸手使作奉也」

鞍作村主益人
 鞍作三代との繋がりは不明。
  万葉集 巻3-311
   「梓弓 引き豊国の 鏡山 見ず久ならば 恋しけむかも 」
  万葉集 巻6-1004
   「おもほえず 来ましし君を 佐保川の 河蝦聞かせず 還しつるかも」

蘇我鞍作臣 (入鹿)
 乳母が鞍作氏か。
日本書紀 皇極天皇4(645)年6月条「倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡、而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。」

「倉山田石川麻呂臣は、上表文を読みあげるのがもう終わりに近づいたのに、子麻呂らが出てこないことを心配して、流れ出る汗でびっしょりになり、手がわなないた。鞍作臣は不審に思い、「どうしてそんなにふるえているのだ」と尋ねた。

「中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗、將傾日位。豈以天孫代鞍作乎。蘇我臣入鹿、更名鞍作。」

「中大兄は、地にひれ伏して、『鞍作は皇族を滅ぼしつくし、皇位を絶とうとしております。鞍作のために天孫が滅びるということがあってよいものでしょうか』と申し上げた。(蘇我臣入鹿は、またの名を鞍作といった。


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語句解説
閼伽棚 あかだな 仏に供える水や花などを置く棚。閼伽は、仏前に供える水。また、それを入れる容器。
犬走り いぬばしり 建物の外周に石や砂利を敷き詰めた部分。
蟇股 かえるまた 上下の横木の間に設けられ、上に斗(マス)をのせた装飾性に富んだ構造材。
頭貫 かしらぬき 柱頭に掘り込まれた溝に落とし込まれた横木。柱と柱を繋ぐ役目を負う。
葛石 かつらいし(かずらいし) 基壇外装のために基壇最上部に並べられる切石。
基壇 きだん 建物部分より一回り大きな建物などの基礎部分。瓦積基壇・乱石積基壇・壇上積基壇などがあり、二段になっているものを二重基壇といい、上が上成基壇・下が下成基壇。
けた 柱の上で梁や垂木を受ける横材。
桁行 けたゆき 建物の桁の通っている(大棟と平行)方向の長さ。概ね建物の長辺。
格狭間 こうざま 須弥壇や台座・露盤などの側面に掘り込まれた装飾。上部は花頭曲線、下部は椀形の曲線から成る。牙象(げしょう)。
腰壁束 こしかべつか 連子窓の下などに設けられた低い位置の壁面に入れられた縦の材。
木舞 こまい 屋根や壁の下地。竹などを格子状に組んだもの。
須弥壇 しゅみだん・すみだん 仏像・厨子などを安置する台。
小斗 しょうと(こます) 大斗以外のその他の斗(巻斗・方斗など)をさす。
地覆 じふく 地に接する場所。建物の横木で最も下に位置するもののこと。
神功開寶 じんぐうかいほう 765(天平神護元)年発行。皇朝十二銭の3番目。
大斗 だいと 斗栱(ときょう)の中で最も下に位置し、斗栱全体を受ける最大の斗(ます)。
脱活乾漆像 だっかつかんしつぞう 木と粘土で作った概形に、麻布を張り漆を塗り重ね固め盛り上げて像を形作る方法。完成後に目立たない部分を切開し粘土を掻き出し、内部に補強の木枠を組む。(例:阿修羅像)
鎮壇具 ちんだんぐ 地鎮・祀りのために埋められる埋納物。
斗栱 ときょう 主に柱上にあって軒を支える木組。斗(ます)と肘木(栱・ひじき)からなる。
幢竿支柱 どうかんしちゅう 幢をあげるための竿を固定する支柱。
柱座 はしらざ 柱を立てやすいよう礎石上面に平坦に作り出された部分。
柱間 はしらま 柱と柱の間。
羽目石 はめいし 基壇外装のために側面に並べられる切石。
はり 建物の柱や壁と直角に交わる水平材。桁と直角。
梁行 はりゆき 建物の梁の通っている(大棟と直角)方向の長さ。概ね建物の短辺。
ひさし 身舎の外周の室。
墨書土器 ぼくしょどき 墨で文字や絵の書かれた土器。
万年通寶 まんねんつうほう 760(天平宝字4)年発行。皇朝十二銭の2番目
身舎 もや 建物の主幹部。
床束 ゆかづか 床板を支えるために石や木で作られた垂直の部材。
連子窓 れんじまど 断面方形または菱型の細長い部材(連子子・れんじこ)を縦、もしくは横に並べた窓。
和同開珎 わどうかいちん 708(和銅元)年5月銀銭発行。同年8月銅銭発行。皇朝十二銭の1番目。


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語句解説参考図

建築部材名称






蟇股






木舞(こまい)説明図






切石積基壇 各部名称図






二重基壇説明図






身舎と廂の説明図



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関連年表
元号 西暦 事 項
応神16    8 平群木莵宿禰・的戸田宿禰、弓月君率いる百二十県の民が渡来した。
20    9 東漢直の先祖、阿智使主がその子都加使主、並びに十七県のともがらを率いてやって来た。
雄略 7     東漢直掬に命じて、新漢である陶部高貴・鞍作堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを、上桃原・下桃原・真神原の三ヶ所に移し侍らせた。
12   4 身狭村主青・檜隈民使博徳を呉に遣わす。
14   1 身狭村主青ら、呉の手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて住吉の津に泊まる。
3 臣連に命じて呉の使を迎えさせた。その呉人を檜隈野に住まわせた。それにより、呉原と名づけた。衣縫の兄媛を三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とし、漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。
欽明 7 538   『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
  百済・聖明王より、太子像・灌仏の器、幡・蓋の荘厳具、経が伝えられる。
  (『日本書紀』では、欽明13年10月)

百済、首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移す。
宣化 4 539 10 宣化天皇崩御
欽明13 552 10 百済・聖明王より、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干が伝えられ、蘇我稲目が、百済・聖明王の仏像を貰い受け、小墾田の家に安置。
向原の家を清め寺とする。
後に疫病が流行り、物部連尾輿・中臣連鎌子の奏上により、仏像を難波の堀江に流し、寺に火を放つ。

『扶桑略記』
第廿七代継躰天皇即位十六年壬寅。大唐の漢人鞍部村主司馬達止。此年の春二月入朝す。即ち草堂を大和國高市郡坂田原に結び、本尊を安置し帰依礼拝す。

百済・漢城・平壌を捨て、新羅が漢城に入る。
14 553 5 溝辺直、茅渟の海より光り輝く樟木を得、天皇命じ画工に仏像ニ軀を造らす。
15 554 2 百済・聖明王戦死。
7 百済より、僧・曇慧らと五経・易・暦・医博士らが交替で派遣される。
18 557 3 百済の王子・余昌即位。(威徳王)・・・554年即位説あり。
23 562 1 任那滅亡。新羅に吸収される。
31 570 3 蘇我稲目没す。
32 571 4 天皇崩御。
敏達 6 577 5 大別王・小黒吉士、宰として百済に遣わす。
11 百済より、経論若干・律師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工などが伝えられる。
これを難波の大別王の寺に配置する。
8 579 10 新羅から仏像が伝えられる。
13 584 9 馬子、鹿深臣・佐伯連の請来品の石の弥勒像と仏像を貰い受ける。
馬子、邸宅の東方に仏殿を建て、石の弥勒像を安置する。
また、石川の家に仏殿を造る。
鞍部司馬達等・池辺直氷田を遣わし、仏法の師として、播磨の還俗僧・恵便を探し出す。
善信尼(司馬達等の娘)らが出家する。
司馬達等、法会の際に舎利を発見。
14 585 2 蘇我馬子が大野丘の北に塔を立てる。先に(敏達13年9月)司馬達等が得た舎利を柱頭に納める。

『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
 止由等佐岐に刹柱を立てる
3 物部守屋らが、塔を倒して仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てる。善信尼らを海石榴市で鞭打つ。
物部守屋、三人の尼を馬子に返還する。
用明 2 587 4 天皇病臥。三宝(仏・法・僧)への帰依を群臣にはかる。
6 鞍部多須奈、天皇の為に出家。丈六仏と寺を造る。・・・今南淵の坂田寺の木造の丈六仏・脇時菩薩がこれである。
善信尼が戒律習得のために、百済留学を願い出る。
7 物部守屋との戦いに際し、廐戸皇子、四天王像を彫り戦勝を祈願。馬子、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓願。
物部守屋滅ぶ。(崇排仏戦争、蘇我氏勝利)
崇峻元 588     百済より ・僧恵総・令斤・恵寔(ショク)が遣わされ舎利を献上する。
同時に、僧6名、寺院建築工2名、露盤博士、瓦博士4名、画工が渡来。
善信尼らが受戒を受けに百済へ発つ。
(飛鳥寺の)整地と着工。飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して作る。
3 590 3 善信尼らが帰国し、桜井寺に住む。
10 山に入って寺(飛鳥寺)の用材を伐った。
5 592 10 崇峻天皇暗殺される。
(飛鳥寺の)仏堂と歩廊の工を起こした。
12 皇后(推古天皇)豊浦宮にて即位。
推古元 593 1 (飛鳥寺の)仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。
この年、難波・荒陵に四天王寺を造り始める。
『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
止由等の宮を寺と為す、故に止由等寺と名づく
2 594 2 皇太子(聖徳太子)と大臣に詔し、三宝の興隆を図る。
多くの臣・連たちは、きそって仏舎を造る。
3 595 5 高麗(高句麗)僧・慧慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となる。
この年、百済僧・慧聡が来朝する。
4 596 11 飛鳥寺、落成。馬子の長子・善徳臣が寺司に。慧慈、慧聡が飛鳥寺に住まう。
10 602 10 百済僧・観勒が来朝する。
暦の本、天文地理の本、遁甲術の本を持参する。
閏10 高麗(高句麗)僧・僧隆、雲聡が来朝・帰化する。
11 603 10 推古天皇、小墾田宮に遷居。
11 皇太子(聖徳太子)所持の仏像を貰い受け、秦河勝が蜂岡寺を造る。
12 604 4 十七条憲法発布
「二にいう。篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。 ・・・」
13 605 4 銅と繍との一丈六尺の仏像を各一躯造り始める。
鞍作鳥が造仏工に任じられる。
高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両が伝えられる。
14 606 4 (飛鳥寺の)金銅と繍の丈六釈迦仏を安置。
(『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』では、推古17年)
5 鞍作鳥、祖父・司馬達等、父・多須奈の功、及び、飛鳥寺への丈六仏安置の功により、大仁の位と近江国坂田郡水田二十町を賜る。金剛寺造営。
7 皇太子(聖徳太子)、勝鬘経・法華経を講じ、播磨国水田百町を賜り、これを斑鳩寺に納む。

『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
 この年、(飛鳥寺の)金人(金銅の仏像)を造らせる。
17 609 5 百済からの修道者11人、上表し許され飛鳥寺へ居住する。

『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』
(飛鳥寺に)丈六仏を安置。
18 610 3 僧・曇徴、法定らが渡来する。
23 615 11 僧・慧慈が帰国する。
24 616 7 新羅から仏像が伝えられる。
29 621 2 聖徳太子没す。
31 623 7 新羅・任那から仏像一体、金塔、舎利などが伝えられる。
それらのうち、仏像を葛野の蜂岡寺、その他を四天王寺に納める。
32 624 4 僧正・僧都などを任命し、寺院・僧尼の統一を図る。
観勒を僧正、鞍部徳積を僧都、阿曇連を法頭に任ず。
9 寺及び僧尼を調査し、各寺の縁起などを記録する。
 このとき、寺は46ヶ寺、僧816人、尼569人。
33 625 1 高句麗僧・恵灌が渡来し、僧正に任じられる。
34 626 5 蘇我馬子没す。
36 628 3 天皇崩御。

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関連系図




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伽藍配置比較図



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坂田寺跡周辺小字名



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坂田寺跡現況
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古代初期寺院に関する創建記録や伝承 史料にみる鞍作氏 語句解説
語句解説参考図 関連年表 関連系図
蘇我氏系図 伽藍配置比較図 坂田寺跡周辺小字名
坂田寺跡現況(クリッカブルマップ) 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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