両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第29回定例会レポート



飛鳥と東アジアの情勢



この色の文字はリンクしています。
散策資料
2011年11月12日
レポート担当:サポートスタッフ yukaさん



石神から北方を望む

前日までの雨模様から一転、絶好の行楽日和となった11月12日土曜日、第29回定例会を実施しました。
メインはアジク先生による講演会ですが、それに先立って、事前散策および飛鳥資料館見学を自由参加で行いました。 午前10時前、事前散策から参加の20名程が、橿原神宮前駅東口に集合。豊浦駐車場までバスで向かい、古宮遺跡からウォーキングをスタートしました。

コースは、この日観覧予定の飛鳥資料館秋期特別展「飛鳥遺珍―のこされた至宝たち―」に関連する場所を巡るというもの。 そしてそれらのルーツは中国や朝鮮にあることから、この後の講演テーマである東アジアにも思いを馳せることができました。


古宮遺跡

推古天皇の小墾田宮に比定されてきた古宮遺跡は、現在では発掘調査により蘇我氏関連の遺構という説が有力であること、また、明治11(1878)年にこの地の水田下から発見された金銅製四環壺が「飛鳥遺珍」で展示されていることなどについて、事務局長から説明がありました。 今回のウォーキングでは立ち寄りませんでしたが、現在小墾田宮跡とされている雷丘東方遺跡出土の井戸枠と小治田宮墨書土器も、同展に出品されています。


推古天皇 豊浦宮跡碑 と 豊浦寺塔心礎

次に訪れた豊浦寺跡(現向原寺)は、百済から日本に伝えられた仏像を初めて祀ったという由緒を持つ場所。 また、堂宇には星組や新羅系の瓦が使用されていたことも、東アジアと飛鳥との関わりを意識させられます。


豊浦隧道

ここから甘樫丘に向かう道筋に、和田池への用水路である豊浦隧道がひっそりと通っています。
飛鳥を知り尽くした事務局長でさえうっかり見落としてしまうほどの目立たない隧道ですが、この天井石の中に、文様の施されたものがあるそうです。

これに似た石は他にもあり、いずれも元来の用途は不明で、飛鳥の謎の石造物に数えられていますが、豊浦隧道の天井石は、それが転用された一例なのだそうです。類似した文様石の一つが、先ほどの向原寺境内に安置されていますので、興味のある方は見学されてみてはどうでしょうか。

甘樫丘展望台へ登る途中にある芝生の広場が、豊浦寺と同笵の瓦が出土している平吉(ひきち)遺跡。
このように一般的にはあまり知られていない遺跡を紹介するのも、両槻会ならではです。
豊浦寺の工房だったとすれば、東アジアから伝来した最先端の技術や工人たちが集う、国際的な場だったのかもしれませんね。


頂上の展望台に着くと、色づき始めた桜の葉が目に飛び込んできました。 皆それぞれに、よく晴れた晩秋の飛鳥の風景を眺めたり、写真に収めたりして楽しんでいました。

甘樫丘を下り、石神遺跡を通って飛鳥寺西方遺跡へと進みます。


水落から石神へ

石神遺跡から出土した具注暦木簡は、「飛鳥遺珍」で期間中のうち11日間だけ実資料が展示されており、この日は運よく見ることができました。 中国から百済を通じて我が国に齎された暦。 ここでも背景に大陸や半島の存在を感じました。


飛鳥寺西方遺跡にて

「槻の木の広場」があったとされる飛鳥寺西方遺跡は、ただいま絶賛調査中のHOTな遺跡です。 飛鳥寺西門横を南北に通る土管暗渠がこのあたりで屈曲しており、また南門前の石敷遺構と西門前の石敷遺構が交わる重要な場であったことが想像されます。


飛鳥寺西方遺跡 現況(2011.11.12.)
飛鳥寺西方遺跡 位置図
クリックで拡大します。

飛鳥寺は、伽藍配置のプランや大仏の黄金は高句麗から、技術や仏舎利は百済から得たといいます。
いわば、高句麗・百済・日本の合作。 まさに、東アジア諸国との交流の成果が花開いた場所といえますね。 飛鳥の全体像に関わってくるであろう調査成果は、11月末の報告会・見学会で聴くことができそうです。


西方遺跡から石敷きの広場を通って飛鳥池遺跡へ

さらに東へ進み、万葉文化館の庭にある飛鳥池遺跡を見学しました。 大陸や半島から伝えられた最先端の技術を用いて、様々な製品が作られた生産工房跡です。それだけに出土品も、金属、ガラス、鋳型、釘、砥石、様(ためし…木製見本)、土器、瓦、木簡、富本銭等、多岐にわたります。 これらの多くも、「飛鳥遺珍」で展示されています。 中でも注目は「天皇木簡」。先の「具注暦木簡」と同様、期間限定展示の実資料が見学できました。


飛鳥池遺跡(万葉文化館裏庭)

事前散策の目的地である飛鳥資料館に着き、前庭で昼食をとった後、特別展示を観覧しました。

遺跡全体の性格は出土遺物から判断されること、また、飛鳥池遺跡は渡来人を通じて外国の技術を取り込んでいる段階のものであることなど、学芸員の先生ならではのギャラリートークを聞くことができました。


特に石神遺跡の出土品は、新羅と関わりの深い獣脚硯や土器、洛陽や慶州で類似品が出土している緑釉陶器片など、国際的な遺物が多彩でした。 散策時に解説のあった古宮遺跡出土の金銅製四環壺は、本来なら国宝、最低でも重要文化財クラスに値するそうで、それに相応しい存在感を放っており、皆さん熱心に鑑賞していました。

充分な時間がなく駆け足見学でしたが、今まで歩いて見てきた場所で作られたり発掘されたりしたものを目の前にして、参加された皆さんは、古代東アジアをより身近に感じることができたのではないでしょうか。


再びバスで橿原神宮前駅に戻り、講演会場へ。
いつもの飛鳥資料館講堂が特別展示会場となっているため、今回は橿原市商工経済会館の一室を借りての講演となりました。


講師は、飛鳥遊訪マガジンで「飛高百新」を執筆してくださっているアジク先生。 テーマは「飛鳥と東アジアの情勢」です。

古代の中国・朝鮮諸国は、日本にとって”文物の摂取”というメリットを齎す存在である一方、その不安定な情勢は、独立国家としての我が国の存続を脅かす脅威でもありました。 韓国の考古学や都城研究でも成果を上げておられる先生から、どのようなことをお話いただけるのか、期待が高まります。

講演は、近年盛んにTV放映されている韓国の古代史ドラマの話から始まりました。 「朱蒙(チュモン)」「近肖古王(クンチョゴワン)」「金首露(キム・スロ)」「薯童謠(ソドンヨ)」「善徳女王(ソンドクヨワン)」「淵蓋蘇文」「大祚榮」と、時代順に紹介されました。 全部見れば、楽しみながら朝鮮半島全体の歴史の流れが把握できそうですね。


ただ、これらの時代の風俗を示すものがほとんど残っていないため、装束などは一部を除いてほぼ想像で作られているそうで、時代考証についてはあまり深く追求せずに見るのがいいようです(笑)。

そして本題に入っていきますが、レジュメの年表やパワーポイントの画像が豊富で、とても分かりやすいお話でした。

まずは、飛鳥時代以前の日本(倭)と東アジアの関係のおさらいから。
倭が初めて記録に現れるのは『後漢書』の「倭伝」。 西暦57年、「漢倭奴国王」が貢物を奉り朝賀し、大夫を自称、印綬を与えられます。 「金印」でよく知られていますね。 そして、西暦239年に卑弥呼が魏に遣いを送った「魏志倭人伝」の記事は有名ですが、このとき、卑弥呼は「親魏倭王」の金印紫綬を与えられています。 ちなみに「魏志倭人伝」というのは正式名称ではなく、正しくは『三国志』「魏書東夷伝倭人条」に、この記事は書かれているのだそうです。

ところで、この「親魏倭王」の金印は残っていないのか?と疑問に思われたことがあるかもしれません。
実は金印というのは中国の皇帝から「貸与」されたもので、君主が替わるごとに返納し、新たに任命してもらって授けられるため、そのルールに則れば、「漢倭奴国王」のように金印が日本に残っていることはありえないのだそうです。


時代は降り、5世紀代、いわゆる倭の五王は、中国に対して形式上の主従関係である冊封を求めて朝貢します。
朝鮮諸国もそれぞれ独自の外交を築き中国からの冊封を受けますが、常に中国と領土を接し影響を受けていた高句麗、南朝から冊封を受け続けた百済、高句麗や百済を介しての通交から次第に中国への直接ルートを手に入れて自立的外交を達成した新羅、という具合に、その領土や力関係は複雑な様相を呈していたようです。

やがて、倭の対隋・唐外交は、冊封から対等外交へと方針を転換していきます。 それとともに、東アジア全体の構図も「倭・百済・高句麗VS新羅・唐」という枠組みになっていきます。 このあたりの各国間の使節派遣状況や戦闘情勢は、先生が見やすい一覧と年表に整理してくださったので理解しやすく、また、そこから新たに気づくこともあったのではないでしょうか。

朝鮮三国でもそれぞれに内乱や外交政策の転換があった中で、ともに日本へは頻繁に使節派遣を行っていることがこの表から読み取れ、とにかく日本と手を結んでおきたいという意図があったことが窺えます。

しかし、それまで頻繁に使節が往来していた新羅からは、656年を最後に日本への遣使が途絶えています。 660年の百済滅亡、663年の白村江の戦いへと時代情勢が向かっていることもこの表は示しています。 新羅は百済・高句麗からの圧迫を契機に、唐の衣冠制度や年号を導入するなどして冊封関係を強化した結果、百済・高句麗を滅亡に追い込み、日本にも打撃を与えます。この経緯が、各国の情勢とともに説明されました。

一方、これまで東アジア諸国の争乱にいっさい手を貸すことのなかった日本が、遂に白村江の戦いに出兵し、大敗を喫します。 ここにおいて初めて危機感をもった日本は、翌年から立て続けに烽火の設置、水城の築造を開始し、さらに長門城・大野城・基肄城・高安城・屋島城・金田城等を築城して防備に努めます。 屋島や長門は、後に源平合戦の舞台ともなりますが、時代を超えて重要な地であったことを物語っているようですね。

対馬から伝わってきた烽火は、飛鳥時代には「難波→高安→大和(飛鳥)」というルートを通っていましたが、平城遷都後は、高安の烽火は矢田丘陵に隠れて見えなくなるため、高見(生駒山)を通り現在の飛火野の地へと伝えられました。

古代山城は、例として大野城の俯瞰図を見せていただいたのですが、尾根の稜線に城壁を廻らせているところに特徴があります。 パワーポイントで示された金田城や基肄城などの画像からも、城壁や石垣が中世の城と異なっているのがわかりました。 その中で、基底部だけ石で作った城壁の名残で、神籠石(こうごいし)と呼ばれるものがあります。 奈良時代の鎮護国家思想に基づいて、山城には四天王が祀られることが多く、それと同時に神社を祀る城もあり、その神域を囲む石ということでこの呼び名がついたようです。

ちなみに、飛鳥からもよく見える高安城については、城壁の場所がはっきりわかっておらず、多くの復元案が出されているそうです。

主に7世紀代に築造された日本の古代山城は、文献に記録のある12箇所のうち、6箇所が発見されています。逆に文献にない場所から発見されているものも16箇所あり、北九州・対馬~瀬戸内海沿岸に分布しているようです。 しかしながら、これらの山城は、先の神籠石の例が示すように、城壁の構造や規模などから ”本当に都を守るために作られたのだろうか”という疑問を抱かざるをえないものも多いそうです.
当時の国際情勢の中で、朝廷がどこまで危機意識を持っていたのか―そういったことを考える材料にもなりそうですね。

一方、朝鮮半島の城についても画像を見せていただきました。

高句麗の城は、絶対に登れないだろう!というような断崖絶壁にもご丁寧に石垣を作っていたり、百済の扶余の城は、高さ5m程の羅城を築いているものの、結局は逆に唐がその城壁を利用して百済を攻め滅ぼすことになった…等、面白いエピソードも紹介されました。 新羅の城は、断面も中身も総石造の立派な城壁ですが、中には作るのに3年かかったということで「三年山城」と呼ばれているものもあるそうです。

話は東アジア情勢に戻って、百済・高句麗・日本の勢力を一掃した後、唐の羈縻政策をめぐって唐と新羅の関係が悪化、遂に670年には唐が朝鮮半島を撤退し、新羅の半島統一に至ります。 その間、日本は669年の遣唐使派遣を最後に、702年に再開するまで遣唐使を一時中断します。

それに対して、半島統一後の新羅とは外交が活発化し、遣唐使中断中だけでも、遣新羅使は14回、新羅使は25回にも上ったそうです。

この遣唐使中断と676年に始まった藤原京造営はセットで考察されることが多く、新羅の影響を受けているという説と、『周礼』を参考にしたという説が主に論じられています。 遣唐使の派遣がなかったことに加え、藤原宮の位置が京域の北詰ではないことからそう言われているわけですが、新羅の都城に関して詳細に研究し、復元案も出されているアジク先生によれば、新羅金京は既存施設の制約を受けて北に王宮を作ることができなかっただけで、あくまでも理念上は北闕型なのだそうです。 また、両者の構造を比較していくと、金京が藤原京に影響を及ぼした可能性は低いだろうとのことでした。 そうするとやはり『周礼』説が正しいのか?といえば、簡単にそうとも言い切れないようです。 新城の造営開始は676年ですが、宮については690年に高市皇子の視察に基づいて造営が始まります。 この記録だけでは、新城計画段階で宮の場所が定まっていたとは断定できません。

一方で、北闕型を採用しなかったのは遣唐使派遣中断のため、という見方もありますが、第7次(669年)までに派遣された遣唐使は長安を実見しているはずなので、その構造を知らなかったはずはありません。

私はここで、以前の定例会で、高松塚・キトラ古墳の壁画について講演を聴いた際、両者の特徴の相違は、再開後の第8次遣唐使の帰国(704年)が基準となる…というお話があったことを思い出しました。

書物や伝聞で得た情報をもとに描かれたキトラ古墳壁画と比べて、唐で実際に見てきた情報に基づいて描かれた高松塚古墳の壁画は、当時の唐壁画の影響をダイレクトに反映している、という内容でした。 それを思うと、個人的には、藤原京造営に関しても、長安を見てきた刺激が多分に影響していたのではないかという気がするのですが…皆さんはどう思われるでしょうか?

…結局、結論を出すのはなかなか難しいようですが、藤原京の造営理念は、「長安城の北闕型を知っていながらそれを採用せず、『周礼』考工記に記載された中央宮闕型のプランをモデルにした」という説が、現在のところ有力視されているようです。 いずれにしても、その背景には当時の日本の外交的な立場・スタンスがあったことは無視できず、そこに重要な鍵がありそうです。


今回の講演では、新しく知った事柄、より興味が深まった点、逆に疑問に思ったこと等々、皆さんそれぞれに何かが得られたことでしょう。 その知識をもとに、飛鳥との関わりを広げたり深めていくことができたらよいですね。

私も、飛鳥の遺跡や藤原宮跡を訪れる際には、この講演で聴いたことを思い出しながら、グローバルな視点で古代日本に思いを廻らせてみたいと感じました。

2時間を超える長時間にわたり、複雑な古代東アジア情勢を楽しくわかりやすくお話しくださったアジク先生、どうもありがとうございました。

レポート担当:サポートスタッフ yukaさん

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