欽明
7(538) |
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百済・聖明王より釈迦仏の金銅像一体・幡蓋若干・経論若干が伝えられる。(元興寺伽藍縁起并流記資材帳)(書紀では、欽明13年)
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13(552)
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10
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蘇我稲目が、百済・聖明王の仏像を貰い受け、小墾田の家に安置。向原の家を寺とする。 |
15(554)
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2
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百済より、僧・曇慧らと五経・易・暦・医博士らが交替で派遣される。 |
敏達
6(577)
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11
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百済より、経論若干・律師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工などが伝えられる。これを難波の大別王の寺に配置する。
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8(578)
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新羅から仏像が伝えられる。
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13(584)
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9
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馬子が、鹿深臣・佐伯連の請来品の石の弥勒像と仏像を貰い受ける。馬子が、邸宅の東方に仏殿を建て、石の弥勒像を安置する。また、石川の家に仏殿を造る。仏法の師として、播磨の還俗僧・恵便を探し出す。善信尼らが出家する。
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14(585)
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2
3
6
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蘇我馬子が大野丘の北に塔を立てる。
物部守屋らが、塔を倒して仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てる。善信尼らを海石榴市で鞭打つ。
物部守屋、三人の尼を馬子に返還する。 |
用明
2(587)
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6
7
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善信尼が戒律習得のために、百済留学を願い出る。
物部守屋滅ぶ。(崇排仏戦争、蘇我氏勝利)
馬子、飛鳥寺の造営を発願。
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崇峻元(588)
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整地と着工(飛鳥寺)
飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して作る。
百済より ・僧恵総・令斤・恵ショクが使わされ舎利を献上する。
・僧・・聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開
・寺院建築工・・太良未太・文ケ古子
・露盤博士・・・・将徳白昧淳
・瓦博士・・・・・・麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帯弥
・画工・・・・・・・・白加
善信尼らが受戒を受けに百済へ立つ。
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崇峻
3(590)
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3
10
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善信尼らが帰国し、桜井寺に住む。
山に入って寺(飛鳥寺)の用材を伐った。
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崇峻
5(592)
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10
12
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(飛鳥寺の)仏堂と歩廊の工を起こした。
皇后(推古天皇)豊浦宮にて即位。
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推古元(593)
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1
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(飛鳥寺の)仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。
等由等宮を寺と成す。(元興寺伽藍縁起并流記資材帳)
難波・荒坂に四天王寺を造り始める。
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2(594)
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2
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皇太子(聖徳太子)と大臣に詔し、三宝の興隆を図る。
多くの臣・連たちは、きそって仏舎を造る。
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3(595)
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高麗(高句麗か?)僧・慧慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となる。
百済僧・慧聡が来朝する。
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4(596)
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11
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法興寺(飛鳥寺)、落成。馬子の長子・善徳臣が寺司に任じられる。
慧慈、慧聡が法興寺(飛鳥寺)に住まう。
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10(602)
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10
閏10 |
百済僧・観勒が来朝する。
暦の本、天文地理の本、遁甲術の本を持参する。
高麗(高句麗?)僧・僧隆、雲聡が来朝・帰化する。 |
11(603)
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10
11
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推古天皇、小墾田宮に遷居。
皇太子(聖徳太子)所持の仏像を貰い受け、秦河勝が蜂岡寺を造る。
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12(604)
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4
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十七条憲法発布
「二にいう。篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。 ・・・」
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13(604)
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4
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銅と繍との一丈六尺の仏像を各一躯造り始める。
鞍作鳥が造仏工に任じられる。
高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両が伝えられる。
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14(606)
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4
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金銅と繍の丈六釈迦仏を安置。
(元興寺伽藍縁起并流記資材帳には、609年)
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17(609)
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5
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百済からの修道者11人、上表し許され飛鳥寺へ居住する。
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18(610)
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3
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僧・曇徴、法定らが渡来する。
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23(615)
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11
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僧・慧慈が帰国する。
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24(616)
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7
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新羅から仏像が伝えられる。
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31(623)
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7
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新羅と任那から仏像一体、金塔、舎利などが伝えられる。
それらのうち、仏像を葛野の蜂岡寺、その他を四天王寺に納める。
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32(624)
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4
7
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僧正・僧都などを任命し、寺院・僧尼の統一を図る。
寺及び僧尼を調査し、各寺の縁起などを記録する。
このとき、寺は46ヶ寺、僧816人、尼569人。
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33(625)
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1
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高句麗僧・恵灌が渡来し、僧正に任じられる。
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36(628)
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これよりまえ、豊浦寺に山背大兄皇子が滞在する。
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舒明
6(634)
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1
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豊浦寺塔の芯柱を建てる。(聖徳太子伝暦)
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朱鳥元(686)
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12
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豊浦寺など五寺(大官大寺・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田)で、無遮大会を行う。
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