両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第29回定例会


飛鳥と東アジアの情勢

事務局作製事策用資料

 
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
古宮遺跡 豊浦寺 石神遺跡 具注暦木簡
飛鳥寺西方遺跡 槻の木の広場 飛鳥池遺跡 飛鳥寺東南禅院
山田寺 石神遺跡遺構図 飛鳥時代系図
蘇我氏系図 仏教伝来・初期寺院に関連する年表 東アジアの国家変遷表
韓半島変遷図 当日レポート 飛鳥咲読
両槻会


この色の文字はリンクしています。

古宮遺跡

古宮遺跡は、山田道が西に向かって飛鳥を抜ける地点に存在し、近年まで推古天皇に始まる小墾田宮の推定地とされてきた遺跡です。

小墾田宮は、推古天皇の宮殿に始まり、飛鳥時代を通じて離宮や兵庫として維持されました。
1970年に行われた発掘調査によって、土壇の南側で7世紀前半の小池や曲線状の水路と石敷遺構が検出され、推古天皇の時代の庭園遺跡であることが分かりました。
また、駐車場の下層からは、7世紀前半から8世紀にかけての建物群が検出されており、遺跡が周辺に広がっていることが確認されています。

現在、小墾田宮は、1987年に行われた雷丘東方遺跡の発掘調査で、奈良時代の井戸から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、その周辺が有力な比定地とされています。
これらのことから、古宮遺跡は小墾田宮ではなく、蘇我氏関連の遺構とするのが有力です。近くにある豊浦寺に関連して、蘇我稲目の邸宅の一部と考えることも出来そうです。

飛鳥資料館の特別展「飛鳥遺珍」の展示関連では、明治11年に水田地下より金銅四環壺が発見されています。高さ約36cm、最大径約42cmと大きな金銅製の壺で、現在は錆のために見えませんが、2対の鳳凰や花唐草文とその隙間を埋める細かな魚子文が施された立派な壺であったようです。壺は鳳凰のデザインから、8世紀初頭以降に作られた物だとされるようです。骨蔵器だと考えられるようですが、だとすれば高貴な身分の方の遺骨を収めた物だと思われます。一説では、文武天皇の陵墓から持ち出された物だとされますが、確たる証拠は無いようです。
参考資料参照

特別展では、雷丘東方遺跡出土の墨書土器が、その井戸枠と共に多数展示されています。


古宮遺跡 遺構概要図



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豊浦寺

豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられています。数次にわたって行われた境内の発掘調査から、下層に古代寺院などの遺構の存在が明らかになってきました。向原寺境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に建立されていたことが明らかにされました。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置や他堂宇との方位の違いがあり、塔と確定するには疑問も残るようです。
豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。

豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13(552)年 10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが『日本書紀』に書かれています。
また、『元興寺縁起併流記資材帳』によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11(582)年に至って桜井道場と呼ばれ、同15年には桜井寺と改称し、推古元(593)年、等由羅寺へと変わって行ったとされています。
両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。

推古11(603)年冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。
豊浦寺創建時の講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)
建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元出来るようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、宮殿などの特殊な建物であったことが容易に想像できます。
金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔は周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明です。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。

星組(飛鳥寺出土品)
明日香村埋蔵文化財室展示品
船橋廃寺式(参考)
 現・法輪寺
新羅系(豊浦寺出土品)
 明日香村埋蔵文化財室展示品

豊浦寺創建には、30種類近くの瓦が使用されています。その中で、主となる瓦当文様は、上の3種類になります。
金堂は、主に飛鳥寺と同じ星組の瓦(素弁九葉蓮華文軒丸瓦・素弁十一葉蓮華文軒丸瓦など)が飛鳥寺に遅れて使用されていることから、6世紀末から7世紀初頭の間に造営が開始されたと考えられます。
講堂は船橋廃寺式を主体として、塔は特徴のある新羅系軒丸瓦を主体として、それぞれ7世紀中頃までには造営が開始されたと考えられます。

豊浦寺境内には、飛鳥の謎の石造物の一つ「豊浦の文様石」が置かれています。また、近くを通る隧道の天井石に文様のある石が存在しています。文様は何が描かれているのかは定かではありませんが、明日香村文化財顧問の木下正史先生は、須弥山石の台石ではないかと考えられているようです。一石は、向原寺境内で見学が可能ですが、隧道内の天井石は容易に見ることはできません。


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石神遺跡 具注暦木簡 元嘉暦と草壁皇子

元嘉暦というのは、中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法で、かつて 中国・日本などで使われていた太陰太陽暦(太陰暦を基にしつつも閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦)の暦法です。中国では元嘉22年 (445)から65年間用いられていました。

我が国には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられたとされています。推古天皇10(602)年に百済から学僧「観勒」が、暦本・天文地理の書・遁甲方術の書などを携えて来日し、渡来系氏族の子弟らにこれらを習得させました。ちなみに暦法は、陽胡史(やこのふひと)の祖 玉陳(たまふる)が習ったとされます。

平安時代の書物『政事要略』(11世紀初頭・平安時代の政務運営に関する事例を掲げた書)には、推古天皇12(604)年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられています。

持統天皇6(692)年からは、中国からもたらされた新しい暦である儀鳳暦を試用するために元嘉暦との併用を始め、5年後の文武天皇元(697)年からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することになりました。
我が国においては、元嘉暦は、約90年間使われた暦だということになります。

2003年2月26日、石神遺跡第15次調査によって、元嘉暦に基づく具注暦(暦注)を記した木簡が発見され、検証の結果、表が持統天皇3(689)年3月8日~14日、裏が4月13~19日の暦であることが分かりました。元嘉暦による暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料です。今回の特別展でも、本物の展示は短期間で終了することになっており、それに巡り合えたことは幸運でありました。

出土した木簡は、用済みとなり容器の蓋などに転用されたのか直径約10cmの円形になっています。その両面に一日一行の縦書きで7日分の暦が残っていました。
暦の原本は紙に書かれた巻物だそうですが、この木簡は役所で日常的に使うため、二ヶ月分を表裏に記した月めくりの壁掛けカレンダーとして書き写された物だと思われます。本来の木簡は、幅48cmと推定されました。
出土した元嘉暦を見てみますと、列も整っていませんし、字も下手ですし、誤字もあるようです。例えば「危」を「色」に、「収」を「枚」と誤って写している部分もあるとのことです。
木簡を解読した大阪市立大学 市大樹先生は「裏、表とも同じ人物の筆跡。忙しかったのか、かなり急いで書き写したらしい。実用品なので、意味さえ通ればよかったのかも」と発見当時コメントを出されています。

さて、表題にしました草壁皇子ですが、たまたまでしょうが、この残された暦の中に草壁皇子の命日にあたる4月13日の記述があります。

『日本書紀』持統3年(689)4月13日、「草壁皇子尊が薨じた。」 との記述があります。木簡の、この日の暦注をご覧下さい。全てが凶を表す「九坎」と書かれています。人々は、この暗合を驚きをもって見つめたかも知れませんね。


主な暦注
上玄 月の満ち欠けを表す(上弦の月)
厭日 出行等は凶
九坎日 万事に凶
重日 吉事と凶事が重なる
帰忌日 帰宅等は凶
血忌日 出血等は凶
望 月の満ち欠けを表す(満月)
往亡日 旅行などは凶
天倉日 倉開きなどに吉

暦関連年表
欽明14年(553) 百済に暦博士の派遣や暦本送付を依頼
欽明15年(554) 百済、暦博士 固徳王保孫を派遣
推古10年(602) 百済の僧 観勒が来朝、暦本・暦法等を献ず
推古12年(604) 初めて国産「元嘉暦」を頒布
持統 6年(692) 儀鳳暦を試用するため元嘉暦との併用
文武元年 (697) 元嘉暦を廃し、儀鳳暦を施行


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飛鳥寺西方遺跡 槻の木の広場


飛鳥寺の西には「槻の木の広場」がありました。「槻」とは欅(ケヤキ)の古名です。ケヤキは巨木となるために、今でもしばしば天然記念物に指定されることもあり、また、巨木であることから神聖視されることもあります。注連縄の張られた古木をご覧になった方も多いのではないでしょうか。飛鳥時代にも同様の意識があったのではないかと思われます。万葉集の巻11-2656には、次のような歌があります。

 天飛ぶや 軽の社の 斎ひ槻 幾代まであらむ 隠り妻ぞも 
斎槻(ゆつき)とは、神聖な槻の木のことを意味します。まさに、槻の木の広場の槻の大木は、斎槻であったのでしょう。皇極4(645)年には、槻の木の下で孝徳天皇、皇極前天皇・中大兄皇子らが臣下を集めて、忠誠を誓わせました。この木が神聖なものであったからだと思われます。
槻の木の広場は、壬申の乱に際しては軍営が置かれていました。また、天武・持統朝では、種子島からの使者や隼人・蝦夷らをこの広場で饗応した記事が頻出します。饗宴施設が石神遺跡から槻の木の広場に場所を移したのかも知れません。
槻の木の広場は、これまでに度々発掘調査が行われており、飛鳥寺西方遺跡の名称で呼ばれます。


第25回定例会の講師:大西貴夫先生が担当されていた飛鳥寺西方遺跡の調査区からは、飛鳥寺西門に続くと思われる石敷が検出され、槻の木の広場を通る飛鳥寺西参道ではないかと考えられました。
現在(11月10日)、明日香村教育委員会が昨年の調査区の南を発掘調査しています。


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飛鳥池遺跡

飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の寺域南東隅に接し、酒船石遺跡のある丘陵と飛鳥寺瓦窯のある丘陵との間の「入」の字形をした谷にあります。


1991年には飛鳥池埋立の為の試掘調査、1997年から1999年までは万葉文化館建設に伴う事前調査が、奈良文化財研究所によって行われました。つまり、現万葉文化館が建っている所=飛鳥池遺跡ということになります。
遺跡は、東西の丘陵の間が最も狭まったところに設けられた掘立柱塀によって、南北に分けて考えられています。

日本初の鋳造貨幣として注目された富本銭以外にも、金属・ガラス・玉・漆・瓦など実に様々な製品が、主に南区の丘陵斜面に設けられた雛壇状の工房で製造されていました。また、東の谷の底部には、7個の水溜が設けられ、先の雛壇工房から出る廃棄物の沈殿浄化槽としての役割を担っていたようです。南区最北端の水溜からの水は、北区との境である掘立柱塀の下の暗渠を通って北区へと入り、北区のほぼ中心を走る南北溝から石組方形池へ、そして最終的には、遺跡外の東にある大溝へと流れ込んでいたと考えられています。
飛鳥池遺跡では、8000点にも及ぶ木簡をはじめ、金属・鉱石・木製品など、多数の貴重な遺物が出土しています。


北区遺構

北区では、「庚午年(かのえうま・こうご)」(670・天智9)、「丙子年(ひのえね・へいし)」(676・天武5)「丁丑年(ひのとうし・ていちゅう)」(677・天武6)などの紀年銘木簡、天皇号成立で話題となった「天皇木簡」や新嘗祭に関わる次米(主基米=すきのこめ)木簡などの他、寺名や僧名入り・経典の貸借に関する木簡や瓦など、北にある道昭の創建とされる飛鳥寺東南禅院と関連するのではないかと推測される物も多数出土しています。

定例会当日には、幸運なことに、普段見ることのできない「天皇木簡」の実物が展示されています。

日本における「天皇」号の起源は諸説ありますが、天武天皇からだとする説が有力です。飛鳥池遺跡の「天皇」木簡は、その可能性を更に高めるものだと思われます。木簡には、「天皇聚露弘□□」(□は確認できない文字)と記されていました。「天皇が露を集めて広く…」と読めるようですが、文章の一部なので意味はよく分からないようです。同じ南北の溝から見つかった木簡には「丁丑年12月三野国刀支評次米」と書かれており、「丁丑年」は天武6(677)年に当たりますので、新嘗祭に用いる次米(すきのこめ)が、刀支評(岐阜県南部)から上納された際の荷札木簡だされています。このことにより、            木簡は天武天皇に関わる物であると考えられるようです。


万葉ミュージアム内の南区再現遺構

南区では、工房での製造に関わる金や銀をはじめとする金属類、ガラス製造に関わる坩堝や原料(長石・石英)などが出土しています。また、「舎人皇子」「百七十」などと墨書された「様(ためし)」と呼ばれる物も出土しています。例として挙げた文字は、釘に書かれているのですが、発注元や数量と考えられ、「様(ためし)」は、発注指示書と製品見本を兼ねた物だとされています。
これらの遺物から、南区の工房は7世紀後半の天武期に本格的に生産が開始され、奈良時代頃には終焉を迎えたと推定されています。


飛鳥資料館特別展では、様々な玉類、金属製品とその「様(ためし)」や木簡類、また工具や炉に関連する遺物を見学することができます。


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飛鳥寺東南禅院


飛鳥寺の寺域の南東部で7世紀後半の建物群が検出されています。『続日本紀』に我が国法相宗の祖とされる道昭が、飛鳥寺の東南に禅院を建て、教えを広めたことが書かれています。道昭は遣唐使として入唐し、玄奘三蔵について同室に寝起きし学んだと伝わっています。また日本で最初に火葬された人物として、『続日本紀』にも記録を残しています。


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山田寺

山田寺は蘇我倉山田氏の氏寺として、石川麻呂の発願により舒明13(641)年から造営が開始されました。実際の工事は、石川麻呂の長男興志によって差配され、氏長の石川麻呂が自害して亡くなる大化5(649)年までには、金堂が建ち、僧侶が住むようになっています。

上宮聖徳法王帝説 裏書
舒明13 641年 浄土寺始む、地を平す。
皇極 2 643年 金堂を建つ。
大化 4 648年 初めて僧住む。
大化 5 649年 大臣害に遭う。
天智 2 663年 塔を構える。
天武 2 673年 塔の心柱を立つ。舎利を納める。
天武 5 676年 露盤を上ぐ。
天武 7 678年 丈六仏を鋳造す。
天武14 685年 仏眼を点ずる。

石川麻呂の変の後、彼の一族はほぼ絶え、造営は一時中断してしまいます。
造寺の事業は、天智朝の重臣である石川麻呂の弟にあたる赤兄(あかえ)もしくは連子(むらじこ)が継いだものと思われます。
造寺の再開は、変の14年後、天智2(663)年、塔の建設に着手することから始めています。この年は東アジアの情勢が緊迫しており、朝廷は百済救済のためは白村江において唐・新羅軍と戦い、壊滅的敗戦を喫した年に当たります。近年の年輪年代法という木材の調査手法により、天智5(665)年に伐採された木材が使用されていることが分かっています。これは、造寺の再開を裏付けるものだと思われます。

再開された造塔工事は、連子の死や天智6(667)年の近江遷都、天武元(672)年の壬申の乱勃発などの大きな時代のうねりの中で、再び中断を余儀なくされました。

造塔が再開されるのは、10年後の天武2(673)年なり、塔が完成するのは3年後の天武5(676)年であったようです。ここからは、丈六仏の鋳造など、造寺は急速に進み始めます。
壬申の乱では、蘇我氏の大部分は近江朝廷側に付き、敗戦によって左大臣であった赤兄なども、その一族と共に流罪になっています。蘇我氏の命運はここに尽きたかに見えます。本来ならこの時点で、山田寺は完成することなく潰えても不思議ではなかったのです。
有力者を失った蘇我氏に代わり造営を推し進めたのは、石川麻呂の孫にあたる天武天皇の皇后であった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ=後の持統天皇) であったのでしょう。
建設当初は蘇我倉山田氏邸宅近くに建てられた氏寺であった山田寺は、天武天皇の時代に、官寺のような扱いを受けることになりました。

山田寺の創建次第が比較的知られている背景には、「上宮聖徳法王帝説」という平安時代に書かれた書物の裏面に(裏書)に記録が残っている事によります。

山田寺の伽藍配置は、早くから堂宇が一直線上に並んでいた事が分っていた為に、四天王寺式だとされてきましたが、講堂を回廊の外に配す山田寺は、厳密に言うと四天王寺式伽藍配置とは異なります。


寺域 118×210(推定)  
金堂 3間2間
21.6×18.2(基壇)
西階段耳石に動物の浮彫
板石の犬走り
12.6×12.6(基壇) 不整形な作りかけの礎石を天地逆に使用
五重
講堂 14.3×33   
回廊 84×87 単廊
中門 3間3間 重層
南門 3間2間 三間三戸


山田寺式単弁蓮華文軒丸瓦

堂塔を飾った瓦では、単弁の軒丸瓦が使用され、全堂宇が統一されたデザインの軒瓦で飾られました。

飛鳥資料館特別展示の関連では、法隆寺献納宝物四十八体仏の一つとして阿弥陀如来及両脇侍像(重文)が展示されていますが、我が国最古の阿弥陀仏像とされていることと共に、台座背面に「山田殿像」の銘文が刻まれていることが注目されます。この銘文などから、この像は蘇我倉山田石川麻呂の邸宅の念持仏、あるいは山田寺に祀られたものではないかとする説があるようです。


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石神遺跡遺構図



石神遺跡出土 新羅式土器


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飛鳥時代系図

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蘇我氏系図


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仏教伝来・初期寺院に関連する年表

欽明 7538

百済・聖明王より釈迦仏の金銅像一体・幡蓋若干・経論若干が伝えられる。(元興寺伽藍縁起并流記資材帳)(書紀では、欽明13年)

13552

10

蘇我稲目が、百済・聖明王の仏像を貰い受け、小墾田の家に安置。向原の家を寺とする。

15554

2

百済より、僧・曇慧らと五経・易・暦・医博士らが交替で派遣される。

敏達 6577

11

百済より、経論若干・律師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工などが伝えられる。これを難波の大別王の寺に配置する。

8578

新羅から仏像が伝えられる。

13584

      9

馬子が、鹿深臣・佐伯連の請来品の石の弥勒像と仏像を貰い受ける。馬子が、邸宅の東方に仏殿を建て、石の弥勒像を安置する。また、石川の家に仏殿を造る。仏法の師として、播磨の還俗僧・恵便を探し出す。善信尼らが出家する。

14585

2
3

 6

蘇我馬子が大野丘の北に塔を立てる。
物部守屋らが、塔を倒して仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てる。善信尼らを海石榴市で鞭打つ。
物部守屋、三人の尼を馬子に返還する。

用明 2587

6
7

善信尼が戒律習得のために、百済留学を願い出る。
物部守屋滅ぶ。(崇排仏戦争、蘇我氏勝利)
馬子、飛鳥寺の造営を発願。

崇峻元(588

整地と着工(飛鳥寺)
飛鳥衣縫造の祖樹葉の家を取り壊して作る。
百済より ・僧恵総・令斤・恵ショクが使わされ舎利を献上する。
 ・僧・・聆照律師・令威・恵衆・恵宿・道厳・令開
 ・寺院建築工・・太良未太・文ケ古子
 ・露盤博士・・・・将徳白昧淳
 ・瓦博士・・・・・・麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帯弥 
 ・画工・・・・・・・・白加
善信尼らが受戒を受けに百済へ立つ。

崇峻 3590

3
10

善信尼らが帰国し、桜井寺に住む。
山に入って寺(飛鳥寺)の用材を伐った。

崇峻 5592

10
12

(飛鳥寺の)仏堂と歩廊の工を起こした。
皇后(推古天皇)豊浦宮にて即位。

推古元(593

1

(飛鳥寺の)仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。
等由等宮を寺と成す。(元興寺伽藍縁起并流記資材帳)
難波・荒坂に四天王寺を造り始める。

2594

2

皇太子(聖徳太子)と大臣に詔し、三宝の興隆を図る。
多くの臣・連たちは、きそって仏舎を造る。

3595

高麗(高句麗か?)僧・慧慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となる。
百済僧・慧聡が来朝する。

4596

11

法興寺(飛鳥寺)、落成。馬子の長子・善徳臣が寺司に任じられる。
慧慈、慧聡が法興寺(飛鳥寺)に住まう。

10602

10

 閏10
百済僧・観勒が来朝する。
暦の本、天文地理の本、遁甲術の本を持参する。
高麗(高句麗?)僧・僧隆、雲聡が来朝・帰化する。

11603

10

11

推古天皇、小墾田宮に遷居。
皇太子(聖徳太子)所持の仏像を貰い受け、秦河勝が蜂岡寺を造る。

12604

4

十七条憲法発布
「二にいう。篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。 ・・・」

13604

4

銅と繍との一丈六尺の仏像を各一躯造り始める。
鞍作鳥が造仏工に任じられる。
高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両が伝えられる。

14606

4

金銅と繍の丈六釈迦仏を安置。
(元興寺伽藍縁起并流記資材帳には、609年)

17609

5

百済からの修道者11人、上表し許され飛鳥寺へ居住する。

18610

3

僧・曇徴、法定らが渡来する。

23615

11

僧・慧慈が帰国する。

24616

7

新羅から仏像が伝えられる。

31623

7

新羅と任那から仏像一体、金塔、舎利などが伝えられる。
それらのうち、仏像を葛野の蜂岡寺、その他を四天王寺に納める。

32624

4
7

僧正・僧都などを任命し、寺院・僧尼の統一を図る。
寺及び僧尼を調査し、各寺の縁起などを記録する。
このとき、寺は46ヶ寺、僧816人、尼569人。

33625

1

高句麗僧・恵灌が渡来し、僧正に任じられる。

36628

これよりまえ、豊浦寺に山背大兄皇子が滞在する。

舒明 6634

1

豊浦寺塔の芯柱を建てる。(聖徳太子伝暦)

朱鳥元(686

12

豊浦寺など五寺(大官大寺・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田)で、無遮大会を行う。



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飛鳥時代系図
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東アジアの国家変遷表
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韓半島変遷図(クリックで拡大します。)
各境界線は、不正確です。
戦乱が続く中、境界が流動的であることに主原因があります。おおよその状況を把握する概略図としてのみ御覧ください。



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飛鳥寺西方遺跡 槻の木の広場 飛鳥池遺跡 飛鳥寺東南禅院
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