両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第29回定例会
飛鳥と東アジアの情勢

Vol.117(11.10.14.発行)~Vol.119(11.11.11.発行)に掲載





【1】 (11.10.14.発行 Vol.117に掲載)

 第29回定例会は、「飛鳥と東アジアの情勢」と題した講演を、アジク先生にお願いしています。アジク先生は、言うまでもなく飛鳥遊訪マガジンの「飛高百新」でもお馴染みの先生です。「飛高百新」は「飛=飛鳥・高=高句麗・百=百済・新=新羅」を表しています。先生のご寄稿を順次読んでいけば、タイトルの理解にとても役立つのではないかと思います。両槻会HPの「遊訪文庫」を、是非参照していただければと思います。

 また、アジク先生は、過去にご本名で定例会講師も引き受けてくださっています。説明の分かりやすさは定評のあるところですので、どうぞ講演をご期待ください。

 飛鳥時代は皆さんご存知のとおり、仏教文化が花開いた時代であるとも言えます。飛鳥地域には、大伽藍の寺院が次々に建設されていきます。これらは、我が国独自の文化ではありませんでした。そこには、中国や韓半島の政治状況などが複雑に絡み合っていました。その事までは、私達にも窺い知ることができます。しかし、具体的にどうだったのかは、地名や主要人物の名前などを把握できないと、とてもハードルの高いものになってしまい、素人にはなかなか理解の及ぶものではありません。

 かく言う風人も、東アジアの情勢といわれると及び腰になってしまうのですが、この機会にじっくりと取り組んでみたいと思っています。

 韓半島には、高句麗・百済・新羅・加羅(あるいは伽耶)という国家や地域がありました。高句麗は、紀元前1世紀頃には建国していたとされるようです。百済・新羅は、共に4世紀中頃に国家形成されたようですが、加羅地域は国家形成が遅れ、小国家が並立する状況が続いたようです。

 一方中国大陸では、1世紀に起こる「後漢」から3世紀の「魏・呉・蜀三国時代」を経て、西晋・南北朝と続き、6世紀後半に「隋」が南北統一を果たします。しかし、それも長くは続かず、626年には「唐」によって国内再統一が成されました。

 隋・唐と相次いで大陸を統一した巨大国家が誕生したことは、近隣の諸国に大きな影響をもたらします。

 韓半島の諸国は、隋唐の冊封(君臣関係)を受けることによって、自国の存続に腐心することになります。これらの国々は、隋唐の文化を受け入れることになりました。仏教文化も伝播し、東アジアの文化圏が構築されてゆくことになりました。

 しかし、各国の緊張関係は増してゆきます。やがて7世紀中頃には緊張がピークに達し、軍事的な衝突を生みます。海を隔てる我が国でも、無関係ではおれませんでした。我が国では、斉明天皇の時代のことです。

 ざっと、見てきたわけですが、このような教科書的なことでは、ここからの興味が沸き起こって来ません。そこで、アジク先生もお好きだと聞く、韓流ドラマをご紹介しましょう。

 「朱蒙(チュモン)」  高句麗の建国者:朱蒙を描いたドラマ(紀元前1世紀)
 「太王四神記」     高句麗名君:広開土王を描いたドラマ(4世紀から5世紀)
 「薯童謠(ソドンヨ)」 百済名君:武王を描いたドラマ   (7世紀)
 「海神(ヘシン)」   統一新羅名将:張保皐を描いたドラマ(9世紀)

 もちろんドラマですので、全てが事実ではありませんが、全体の流れや地名、各国の関連性を把握するには、適していると思います。
 風人は、この内の「朱蒙」しか見ていませんが、大変嵌りました♪ 面白かったです。皆さんも、レンタルやネット放送などでご覧になってみては如何ですか?

 では、今回はこのあたりで。次回をお楽しみに。



【2】 (11.10.28.発行 Vol.118に掲載)

 皆さん、こんにちは♪ よっぱと申します。両槻会ではサポートスタッフとして、定例会当日にウォーキングの後押さえなど、首から下だけを使ってお手伝いをしているのですが、諸般の事情により、たまには首から上も使えというお達しが事務局からあり、今回の咲読を担当することになりました。どうかよろしくお願いします。

 私が初めて両槻会の定例会に参加したのは、平成19年5月のことで、それ以降は古代史に興味を持ち、定例会で飛鳥周辺を歩く傍ら、日本書紀に手を出してしまい、一昨年の夏は「宮崎・高千穂」へ、昨年は「出雲」へ、そして今年は「吉備路」へ行って来ました。吉備地方には、第29回定例会で講演してくださるアジク先生が得意とされる「古代山城」がありましたので、咲読のネタに困った私としては、これについて書かせていただきます。

 岡山県総社市には、古代山城「鬼ノ城」があります。

 日本書紀によれば、663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗すると当時の政権を握っていた中大兄皇子は、唐・新羅の進攻を恐れ、664年には筑紫に烽火を置き、水城を築き、665年以降、西日本の要所に大野城を初めとする山城を築城、667年には近江に遷都したと記されています。

 アジク先生のお話や総社市教育委員会の資料(鬼ノ城ビジターセンター前で入手したパンフ)によると、日本の古代山城は、文献に記載のあるものが12箇所あり、その内の6箇所が発見されています。しかし文献に記載の無い朝鮮式山城と同種の古代山城が16箇所あり、鬼ノ城もその一つと考えられるということです。

 鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置する標高400mの鬼城山に築かれ、城壁は山の8~9合目にかけて延々と築かれ、その長さは2.8kmに及んでいました。城壁は土塁が主体をなし、土塁は列石を基礎にし、木枠を組んで土を一層ごとに突き固めた版築工法で築かれました。この山城には、城門4箇所、水門6箇所、角楼1箇所のほか高石垣などによって構成されており、城内は約30haもの広大な面積で、城内中央部付近では、倉庫と共に兵舎か管理棟と見られる礎石建物跡や溜井(水汲み場)、のろし場と想定されるものなども発見されています。また城壁や高石垣は高さ5~7m、壁面は80度近い勾配があり、簡単に敵兵を寄せ付けない構造となっていました。さらに雨水などの浸食から城壁を保護するため、城壁の内外には敷石がしかれていますが、この敷石は日本の古代山城では初めての発見であったそうです。

復元された鬼ノ城西門と城壁
クリックで拡大します。

 いかに唐・新羅連合軍の進攻を恐れていたかがよくわかる構造でした。

 吉備路への旅から戻り、もう一度日本書紀をよんでみたのですが、素人の私にはいくつかの疑問が湧いてきました。中大兄皇子は、何故それほどまでに百済再興にこだわったのか。白村江の戦いで中大兄皇子の右腕の中臣鎌足や弟の大海人皇子は、その名前が見あたらないがどこにいたのか。白村江での敗北後、何故飛鳥に留まらず、近江に遷都したのか。等々。まだまだ勉強しなければならないことがいっぱいです。

 今回の定例会は、本名ではなく「アジク先生」として講演してくださる予定です。公の立場ではなかなか個人的な見解を公表することが憚られることもあるでしょうが、今回は「アジク先生」として講演してくださいますので、参加される皆さんの疑問に、忌憚のないご意見を聞かせていただけるのではないでしょうか♪



【3】 (11.11.11.発行 Vol.119に掲載)

 第29回定例会も、明日になりました。今号で第29回定例会向けの咲読は最終回になります。本来、今号では予習のまとめを書かないといけないのですが、諸般の事情(風人の勉強不足)で、それも出来ないで終わりそうです。
 前号では、よっぱさんが「鬼ノ城」について書いてくれましたが、今回は、遡って韓半島の三国の成立期を見てみたいと思います。

 その前に、「百済」と書いて「くだら」と読むのは何故でしょう? ふと疑問に思ってしまいました。韓国語での読みをカタカナで表すと、百済は「ペクチェ」と書くようですが、「くだら」には転訛のしようもない音です。一説には、「くだら」は「クンナラ」の転訛したもので、韓国語では「クン」は「大きい」、「ナラ」は「国」という意味があるそうです。百済からの渡来人は、自国を「偉大な国」「大きな国」という意味で「クンナラ」と呼んだとされるのですが、確か奈良の地名の語源にも韓国語の「ナラ」を当てる説があったように記憶しています。果たして、どうなのでしょうか。古代では清音が多いと思いますので、「くたら」と呼ばれていたのかも知れませんね。
 ちなみに「新羅」は「シルラ」、「高句麗」は「コグリョ」とカタカナでは書き表すようです。韓国語の正確な発音ではどうなのでしょうか、定例会で先生や韓国語に堪能な方に聞いてみたいと思います。

 百済の建国は、伝承上では紀元前18年に遡ります。中国東北部の満州地域に起源を持つ「扶余」の民が南下して建国したとされるようですが(ほぼ韓流ドラマ「朱蒙」による知識 (^^ゞ)、中国の史料に登場する国家として体裁を整えたのは、4世紀中頃ではないかとされるようです。
 ちなみに、伝説では、高句麗は紀元前37年、朱蒙(チュモン)によって建国され、百済は朱蒙の子の温祚(オンジョ=高句麗の2代王琉璃<ルリ>とは異母兄弟)が南の肥沃な土地に移り、初代王になったとされるようです。百済と高句麗は、非常に近い関係の建国伝承を持っているようです。一方の新羅ですが、紀元前後には朝鮮半島南部に辰韓という小国家の集まる地域があり、新羅へと発展したとされます。伝説では紀元前57年に斯露の六ヶ村の村長が、国のあり方を相談していた時に、馬のいななきとともに生まれた初代王 朴赫居世(パク・ヒョッコセ)に地域の統治を任せたことが、新羅の始まりになっているようです。しかし、実際に国がまとまり始めたのは、百済と同じ4世紀中頃の奈勿王(なこつ王・ネムル王)の頃とされるようです。

 もう少し、遡ってみましょう。邪馬台国に興味のある方にはお馴染みの「帯方郡」は、どこにあったのでしょうか。「楽浪郡」は?とおおよその見当はつくのですが、それがどういう意味を持ったものなのかまでは、なかなか理解が及びません。

 中国の「漢」の時代(BC206~AD220)、とりわけ前漢の武帝の頃、漢王朝は国土の拡張政策をとります。その武帝が紀元前108~107年に韓半島に設置したのが、楽浪郡・真番郡・臨屯郡、玄菟郡の地方行政機構です。韓半島中・北西部に郡による直接支配を布き、朝鮮半島東部及び南部に対して間接統治を行ったと考えられているようです。

 後漢末期に「楽浪郡」の南部が分割されて「帯方郡」となり、この楽浪・帯方の2郡だけが4世紀末まで存続したようですが、400年余りの間、少なくとも半島の北西部は中国の直轄地となっており、政治的、文化的に、その支配下にあったと思われます。

韓半島参考地図
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 少し時代を進めてみます。「『三国志』魏書東夷伝」には、帯方郡の南に、韓族が三つに分かれて住んでおり、「馬韓」「辰韓」「弁辰(弁韓)」で三韓と呼ばれていたことが書かれています。「馬韓は50余国の小部族からなって西部にあり、辰韓は12国からなって東にあり、弁辰も12国からなって辰韓と雑居していた」と書かれているそうです。一方で、北方では、紀元前1世紀の末ごろから高句麗が勢力を持つようになっています。漢王朝の崩壊後から、中国は各王朝が分立することになり、統一王朝は「隋」を待たなければなりませんでした。このことは、韓半島の経営にも大きな支障を来すことになったのでしょう。

 そのような情勢の中で、4世紀になると馬韓50余国では伯済(はくさい)が地域統一を果たし、「百済」となります。同じ頃、辰韓では12国が統一されて「新羅」が誕生することになりました。

 このようにして、韓半島の三国時代が到来することになりました。そして、我が国の飛鳥時代を通して、再び中国を統一した「隋」「唐」との政治的駆け引きや、互いに半島の覇権を競う中で、様々な文化・文物を交流させることになります。我が国への仏教公伝もまた、その流れの中で理解しなければならないのだと思います。ここから先は、定例会講演でアジク先生にじっくりお話をいただきましょう。




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