両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第52回定例会

ウォーキング

蘇我を歩く

―発祥の地から終焉の地へ

レポート


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第52回定例会 事務局作成資料
2015年10月3日


曽我川堤防から飛鳥方面を望む

 今年の5月に行われた第50回定例会は、帝塚山大学清水ゼミとの合同企画で「蘇我の奥津城―蘇我四代の墓を考える―」と題して、飛鳥に点在する蘇我氏関連の古墳を巡りましたが、今回の定例会は「蘇我を歩く―発祥の地から終焉の地へ―」と題して、蘇我氏諸縁の地を訪れました。

最近の定例会は、たびたび雨にたたられていましたし、今回の定例会の直前には爆弾低気圧が猛威を振るい、我が家の玄関先でも簾が乱れ飛び、鉢植えがあちこちに転がってしまう始末で、「今度の定例会もまた雨か?」と心配していたのです。しかし、そのような心配もどこへやら、当日は、絶好のウォーキング日和となりました。


両槻会のスタッフは、午前9時15分から集合場所の近鉄真菅駅南口で、配布資料の準備に取り掛かりました。スタッフと同時刻に集合場所までこられた方もおられ、午前10時の集合時刻前には、ほぼすべての方がそろわれ、定刻通りに出発式が行われました。
晴れた日の定例会では必ず「私の人徳です。」と一言付け加える事務局長が、この日の出発式ではその一言がありませんでしたが、歩き出すなり事務局長はつぶやいていました。「やはり私の人徳です。」


宗我坐宗我都比古神社 拝殿

最初に訪れたのは、宗我坐宗我都比古神社でした。
蘇我氏の出身地については、「渡来人説」「大和国高市郡曽我説」「大和国葛城郡説」「河内国石川説」など諸説あるのですが、両槻会は、この中から「大和国高市郡曽我説」をとりました。現在の橿原市曽我町に所在し、推古天皇の時代に蘇我馬子が始祖である蘇我石川宿禰夫妻を祀ったことを起源とされているこの神社を最初の見学地に選定したのです。


宗我坐宗我都比古神社 社殿

境内や社などを見学したのち、神社前の道を南下し、その突き当たりにあったのは、曽我川でした。
堤防上からあたりを見渡すとのどかな田園風景の先には畝傍山など、彼方の飛鳥が一望できました。事務局長は、「私の妄想」と謙遜しながらも「曽我川とその東を流れる飛鳥川との間の豊かな土地と水を利用した蘇我氏」について説明されていましたが、なるほどと納得された方も多かったのではないでしょうか。


曽我川堤防にて

その後、曽我川沿いに進んでいくと、国道24号バイパスが見えてきました。この付近が曽我遺跡です。この道路の建設の際に発見された大規模な玉造りの集落跡です。膨大な遺物が出土したそうで勾玉や管玉類は完成品だけでも1300万個もあったそうです。これが官営工房であったのか、それとも蘇我氏の私設工房であったのかはわかりませんが、仮に官営工房であったとしても蘇我氏の所縁地にあることは、蘇我氏とのつながりを否定できないのではないでしょうか。


横大路分岐にある道標

曽我遺跡を後にしてさらに曽我川沿いを南下すると横大路にたどり着きました。
横大路は古代からの主要道路で、現在の桜井市仁王堂から葛城市當麻町の長尾神社までの約13㎞の道です。飛鳥時代初期にはその幅員が25m~30mあったとされますが、たどり着いた現在の横大路は、車がすれ違うのがやっとの道幅。それでも車はひっきりなしに行き交う状態でしたので、参加者は行き交う車に気を付け、声を掛け合いながら一列になって横大路を東に進んでいきました。


横大路 曽我町付近

曽我町の東端にある首落橋付近までくると、事務局長から「入鹿の首の落ちた場所」について説明がありました。この首落橋付近の三差路角にあるお家には「おったや」という屋号があり、入鹿の首が落ちた場所のひとつとされているそうです。
わたしのそばにおられた参加者のお一人は、「ここまで首が飛ばされるには、風速何メートルくらいの風が必要でしょうね。先日の最大瞬間風速81mならどうでしょう。」と冗談交じりにおっしゃっていました。


さらに横大路を東に進み、小綱町の路地を入るとそこが入鹿神社でした。
祭神は素戔嗚尊と蘇我入鹿で本殿内には素戔嗚尊の立像と蘇我入鹿の木造座像がお祀りされているようです。逆賊とされる蘇我入鹿ですが、地元の人々は信仰が篤く明治時代には政府から祭神を素戔嗚にし、社名を小綱神社にするようにいわれても、祭神である蘇我入鹿と入鹿神社の社名を守ってこられたそうです。


今井町散策

入鹿神社に隣接する大日堂の見学やトイレ休憩を済ませると今度はまた南に向かって進んで行き、今井町の街並みや一軒の町家(旧米谷家)を見学した後、その街並みを抜けて東側にある公園でお昼休憩となりました。


休憩の前には、泉南市教育委員会の岡一彦先生の双子のご兄弟?である「おかざえもん」さんから、今井町のような伝建地区についての説明もありました。
お昼の休憩を終えると公園から東に進み、飛鳥川沿いに飛鳥を目指しました。


ソンボの桜並木

 国道を跨いで飛鳥川の堤防に上ると、川の両側は桜並木になります。桜のトンネルは下ツ道まで続き、「ソンボの桜」と呼ばれていると事務局長からその由来説明がありました。


鷺栖神社

さらに四分町の鷺栖神社を見学したのち、田中町の集落に入ると民家の敷地ではないかと思われる路地を通りぬけ、祠や磐座のある小さな児童公園にたどり着きました。


弁天の森


ここは「弁天の森」とよばれ、その東方には「天王薮」と呼ばれている小高い丘もあり、舒明天皇の田中宮や蘇我氏の一族である田中臣の関わる寺院である田中廃寺の跡ではないかとされている土壇でした。


天王藪

土壇の北側には現在病院が建てられており、その東側の発掘調査では総柱建物や四面庇の大型建物が見つかっており、古代寺院の存在が確実となったそうです。ここが田中廃寺と呼ばれる寺院だとされている一方で、「おかざえもん」さんからはここを高市大寺とする説もあるとの説明がありました。南側の道路まで離れてその土壇や東側の天王薮を見てみると、その距離感はまさに塔跡と金堂跡でした。


その後、東側の法満寺境内では、塔心礎と伝えられる礎石や泥酔前の色鮮やかな酔芙蓉
を見学したのち、さらに飛鳥へと向かいまいした。


次のポイントは、和田町の住宅地の北端にある「大野塚」と呼ばれる土壇でした。和田廃寺跡です。稲穂が実る田んぼの中に小さな塚が残っているのですが、発掘調査では礎石の抜き取り穴や瓦が発見されているようです。この土壇は、以前は蘇我馬子によって建てられた大野丘の北塔とされてきたのが、最近では「葛城尼寺」と考えられるようになったそうです。


朱雀大路延長線上から日高山を望む

また、この遺跡のすぐ東側の道は藤原京の朱雀大路の延長線になるのですが、発掘調査では道路遺構は発見されていないそうです。さらに、この地に立って北を向くと日高山の切通がよくわかることも、おかざえもんさんから教えていただきました。


続いて訪れたのは、事務局長の写真でおなじみの「古宮遺跡」です。
この遺跡は、発掘調査により庭園遺構や建物群が確認されており、これまでは推古天皇の小墾田宮の推定地とされてきました。しかし、雷丘東方遺跡の奈良時代の井戸跡から「小治田宮」と記された墨書土器が出土したことから、この遺跡は現在、蘇我氏関連の遺構とされ、豊浦寺が近くにあることから蘇我稲目の邸宅の一部と見られるとの説明がありました。またそのそばでは文武天皇陵とされる中尾山古墳から出土したものではないかとされる金銅四環壺が発見されているのですが、事務局長からは、両槻会ならではの田んぼを指示して、「ここが金銅四環壺の発見された場所です。」との説明もありました。
ただ、この遺跡へ続く畦道の行き帰りには、すくそばにあるお家の窓越しに、「誰の許しを得て出入りしているのか!」と声がかれるほどの大声で、小型犬に吠えられてしまいました。


そこから、阿部山田道の推定地を南にわたり、田の畦道を更に南に進んで甘樫坐神社を訪れました。
神社の東隣には向原寺や豊浦集会所があり、ここが豊浦寺跡とされています。現在の向原寺が講堂跡、集会所が金堂跡、神社の北側が尼坊跡とされ、南には塔心礎とされる礎石があり、その東側の畑が塔跡に推定されているそうです。講堂跡と推定されている遺構の下層からは先行する建物遺構も発見されていて、蘇我稲目の向原の家、豊浦宮、豊浦寺などの変遷をたどることができるそうです。
ただ、塔跡については、伽藍配置や方角の振れから、その位置に疑問は残るようです。


遊訪マガジンの案内や咲読では、全行程が10km弱とされていましたが、参加された方はかなり疲れておられたようで、ほとんどの方が傍らの石に腰を下ろしておられました。
それを見逃すことのない事務局長は、甘樫丘北麓公園に着くと、終盤の甘樫丘登坂に備えて、両槻会には珍しく15分もの休憩を取られました。


しばらくの休憩の後、甘樫丘豊浦展望台を目指しました。展望台に到着して、北西方向を眺めると、田中廃寺付近の病院を目印に、この日の行程が一望できました。


予定よりも早く到着したことから、その後、予定になかった甘樫丘東麓遺跡も立ち寄ることになりました。
甘樫丘は、『日本書紀』によると、蘇我蝦夷・入鹿の父子が邸宅を建て、上の宮門、谷の宮門と呼ばせていたと記されており、その邸宅がどこであったのかは、未だ解明されてはいません。東麓遺跡からは7世紀中ごろの焼土層や炭化した木材が発見され、乙巳の変にからむ蘇我氏の邸宅の一部ではないかとされるそうです。
(『日本書紀』では、蘇我蝦夷は「天皇記、国記、珍宝を焼いた。」と記されていますが、邸宅を焼いたとまでは記されていないのですが・・・・)


東麓遺跡を出発し、いよいよ蘇我氏終焉の地、入鹿の首塚に到着しました。
蘇我氏の氏寺か、はたまた官寺かとされる飛鳥寺の西門前、そして服属儀礼が行われた「槻の広場」を眼前にする場に据えられている五輪塔です。槻の木の痕跡はこの下にあるのかもしれないと期待されている場所でもあります。この日もきれいな花が供えられ、修学旅行と思われる女子高生が大勢訪れていました。
ここも入鹿の首が飛んできた場所だとされているのですが、ここならどれくらいの最大瞬間風速が必要でしょうか。それとも、死後であっても青絹の笠をかぶり龍に乗って葛城山から生駒山、住之江を経て西に向かって飛んでいった入鹿ですから、生前は首を切られてもここや曽我町まで飛んで行くくらいの霊力を持っていたのかもしれません。


第50回定例会で訪れた「蘇我の奥津城」、今回の定例会で訪れた蘇我氏の「発祥の地から終焉の地」を巡り、当時の蘇我氏四代の勢力を垣間見ることができました。
『日本書紀』は、蘇我氏は天皇家を利用し、天皇家に取って代わろうとしたことから中大兄皇子たちに誅殺されたと記され、近年まで『日本書紀』の記事から逆賊ととらえられてきました。
蘇我氏は本当に天皇家を利用して勢力を得たのでしょうか。それとも天皇家の系譜を守るために、時の天皇家が勢力のある蘇我氏と手を組んだのでしようか。
稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蘇我四代の時代に、この蘇我本宗家とかかわった歴代の天皇や蘇我氏にまつわる種々の事件が『日本書紀』などの史料には残されています。第50回、第52回の定例会は、私にとって、蘇我氏を再考するよいきっかけとなりました。



レポート担当:よっぱさん



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