両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第52回定例会

ウォーク

蘇我を歩く

― 発祥の地から終焉の地へ ―




事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2015年10月3日
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
宗我坐宗我都比古神社 中曽司遺跡 曽我遺跡
曽我川 横大路 入鹿神社
今井町 概要・歴史 旧米谷家 鷺栖神社
田中宮・田中廃寺 和田廃寺 古宮遺跡
豊浦寺 甘樫丘東麓遺跡 大和川水系
飛鳥七堰 右京十一条四坊の自然流路 蘇我氏の邸宅・残した歌
関連年表 関連系図 蘇我氏考
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

宗我坐宗我都比古神社


祭神は、宗我都比古神、宗我都比売神の二神とされており、二体の木像神像を御神体としています。
創祀については、推古天皇の御宇に当地を拠点とする蘇我馬子が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿禰夫妻を蘇我村に祀ったことを起源とし、『延喜式神名帳』(延長5年<927>)では官幣大社に列し、朝廷からの崇敬を受けていました。明治時代には、村社になっています。

祭神や創祀に関しては諸説あるようです。
室町時代初期(1446)に書かれた『和州五郡神社神名帳大略注解(『五郡神社記』)には
「帳に云 宗我坐宗我都比古神社一座 久迷(久米)郷宗我村石川辺に在り。」
「社家者曰く 蘇我都彦神社二座 大臣武内宿禰・石川宿禰也
推古天皇の御世 石川宿禰五世孫蘇我馬子宿禰 神殿を蘇我村に造営し、之を奉祀す」

また、『宗我大神伝記』(未詳、元禄頃か?)には、 「持統天皇が蘇我一門の滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男、徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神を奉斎するため土地を賜い、社務と耕作を行わせたのに始まる」として、祭神を蘇我氏の遠祖、彦太忍信命と石川宿禰の二神とするとしています。

『大和名所図会』には、宗我都比古神社(曽我村にあり、今、入鹿宮と称す。『神名帳』『三代実録』に出づ) と書かれており、同内容が『大和志』にも見えます。

創祀年代は未詳ですが、『新抄格勅符抄』に、「大同元年(806)大和国内に神封三戸を寄せられ」、『三代実録』に、「天安3年(859)1月27日に従五位下より従五位上に昇叙、同6年(862)6月16日には正五位下となった」とあり、創祀はさらに時代を遡ることは確かなようです。



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中曽司遺跡

中曽司遺跡は、曽我川の右岸に位置し、明治・大正年間より周辺の遺物散布地域を中心に注目されていましたが、橿原考古学研究所が1996年に行った試掘調査により、近鉄真菅駅より西方に位置する宗我都比古神社を中心に、東西200m、南北300mにより遺物の密度が高い地域が判明し、周辺に集落があることが知られるようになりました。

その後、橿原市教育委員会により数次にわたる調査が実施され、弥生時代前・中・後期をはじめ古墳時代前期までの遺構と土器、石器、木製品(鍬・杵)などの遺物が多量に出土しおり、溝や柱穴の遺構も検出されています。1987年度の調査では、宗我都比古神社の北側で幅1m、深さ0.5mを測る溝が検出され、その溝から全国的にも珍しい家屋が描かれた絵画土器が出土しました。
また、宗我都比古神社周辺には、鳥居脇塚・ソガドン塚などの小古墳が在ると言われています。



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曽我遺跡

曽我遺跡は、古墳時代の5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた大規模な玉造りの集落であったことが判明しています。

滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶などの原石が遠方から持ち込まれ、玉類が生産されていました。玉類の完成品・未製品、さらには玉を研ぐための砥石、玉に穴をあけるための舞錐状木製品などといった、玉造りに関わる多量の遺物が出土しています。ここで作られた玉類は勾玉、管玉、丸玉、切子玉、小玉など多くの種類が確認されています。

出土遺物は膨大な量で、木製舞錐等 1,000万点近い遺物が出土し、勾玉管玉類は完成品だけで1,300万個であったと言われます。出土量や曽我川に近いこと、横大路に近いことなど資材・完成品の運搬にも良い場所であるなど、官営の大規模な玉造工房であったと推測できます。



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曽我川


曽我川は、大和川水系の一級河川です。奈良盆地西部を北流する大和川の支流の一つで、中流域では最大の支流となります。
古代には宗我川と書かれたそうですが、重阪川(へいさか・上流部)、百済川などの異称もあったそうです。曽我川は、重阪峠西側を源流として概ね北流し、奈良盆地南部の田園地帯を潤して、大和高田市松塚付近から西側に葛城川が、磯城郡田原本町大網付近から東側に飛鳥川が並行するようになります。北葛城郡広陵町大場付近で葛城川を、同郡河合町長楽付近で高田川を合わせ、約1.3km北流したのち大和川に合流します。

万葉集の巻12-3087
 真菅よし 宗我の川原に 鳴く千鳥 間なし我が背子 吾が恋ふらくは

菅(スゲ)の生える地形を、スガ地(スゲ地)と表現することもあるのだそうですが、これに掛けてアスカ、カスガ、ヨコスカなどの地名が生まれたなどとも言います。菅草は、菅笠などの素材にもなりますが、しめ縄にも使われることもあり神聖視されることもあったようです。また、「清々しい」にも通じるのかも知れません。



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横大路


横大路(曽我町)

横大路は、大和盆地を東西に横切る古道で、桜井市仁王堂付近から葛城市当麻町の長尾神社付近までの約13kmの道路を言います。道路は両端から更に延び、東では伊勢街道・初瀬街道と呼ばれて伊勢に通じ、西では河内国を経て和泉国に至る竹内街道・長尾街道に接続して、難波大道より難波宮へ繋がって行きます。

古代より主要な道路として機能していましたが、飛鳥時代初期には整備が行われ、飛鳥・藤原と難波を結ぶ最重要な幹線道路になりました。横大路の道路幅は、25m~30mと推測されています。藤原京内では約30mとされ、幅約2.5mの側溝が両側に敷設されていたと思われます。

『日本書紀』の推古天皇21年(613)の条に、「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記された「大道」のルートと重なることから、日本最古の官道と呼ばれています。



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入鹿神社


橿原市小綱町に所在します。
祭神は、素盞鳴尊と蘇我入鹿の両柱を合祀しています。
創建の時期は不明ですが、境内の石灯籠の銘に「奉 寄進御神前 享保四己亥(つちのとい、きがい)年(1719)6月吉日 小綱村古川氏」と書かれており、遅くともそれ以前の創祀と考えられます。
また、神仏習合で素盞鳴尊の本地とされる牛頭天王に因み、牛頭天王社と呼ばれた時代もあったようです。

本殿は、廃寺となっている真言宗高野山派仏起山普賢寺大日堂の東南の一段高い所に西に向かって建っており、また南に真宗興正寺派の正蓮寺が所在しており、元はこれらの寺に所縁をもつ神社だと考えられるようですが、根拠になるような資料は無いようです。

本殿内には神像が収められており、素盞鳴命の立像と蘇我入鹿の木造坐像を神体としています。
入鹿神社の社名については、明治時代の皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神を素盞鳴尊に、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府からお達しがあったようですが、地元住民はそれを拒んだと言われています。

明治26年12月10日に氏子総代より奈良県知事宛願書によると、明治12年の「神社明細帳」に入鹿神社と届け出ていた所、当社は往古より素戔鳴命を合祀していたのだから牛頭天王を差おいて入鹿神社と唱えるのは不都合との係官よりのお達しに付、入鹿神社との届出を牛頭天王社に改めたいとの願書が出されているようですが、「宗教法人法による届出書」では元の入鹿神社を社名に、二神合祀の神社と届出がおこなわれたとのことです。

蘇我入鹿を祀る神社は、この入鹿神社だけだとされているのですが、奈良県吉野郡大淀町大字今木の甲神社は、古来入鹿大明神とも称し、入鹿の甲と鎧を祀ると伝えています。


乙巳の変で切られた入鹿の首が飛んだ話は有名ですが、首が落ちてきたという場所は5ヶ所に及びます。最も有名なのは飛鳥寺西の入鹿首塚ですが、両槻会では数度訪れている上(かむら)にある気都和既神社の森(もうこの森)もその一つです。
他には、三重県松阪市飯高町舟戸に五輪塔があり、近くにある能化庵には、妻と娘が尼になって霊を弔ったという庵跡が残っています。また、高見山山頂に首は落ちたとも言います。
また、入鹿神社付近と横大路に面した地点にその伝承が残っています。曽我町の東端「首落橋」の付近にある家のあたりに落ち、それでその家を「オッタや」と地元では呼んでいるそうです。最後に、入鹿神社は入鹿の生家の在った場所だとされ、母を慕って首が飛来したとの話も伝わります。


普賢寺

入鹿神社の北隣に大日堂があります。本尊は大日如来です。
本堂は文明10年(1478)の創建で、本尊の大日如来と共に国の重要文化財に指定されています。
入鹿神社は、この境内社として存在した可能性が高いとされます。
明治初年に廃寺となったようで、南に所在する正蓮寺に併合されています。


普賢寺大日堂


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今井町

概要
今井町は、東西600m、南北310mの小さな町ですが、かつて「大和の金は今井に七分」・「今井しんど屋は大金もちや 金の虫干し玄関までも」と言われるほど繁栄した町でした。(しんど屋は山尾家のこと)


現在旧環濠内にある600軒余の民家のうち、約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す町家であり、うち8軒が国の重要文化財に、4軒が県の文化財に、5軒が市の文化財にそれぞれ指定されています。また、町並みを含めて重要伝統的建造物群保存地区にされています。

今井町は、最盛期には、周囲に環濠土居を築き、戸数1,100軒、人口4,000人以上を数える財力の豊かな町でした。
大部分の町家は、切妻造・本瓦葺・ツシ(厨子)ニ階で、上屋の軒は低く、軒裏は塗込めにされていて、近世の町家の景観が良く留められています。最も古い町家は惣年寄を務めた今西家で、慶安3年(1650)の棟札が発見されています。

町割りは6町に分かれ、9つの門から木橋を渡り、外部の道路と連絡していました。
9門の内4門は番小屋が設けられ、昼夜出入りを戒めていたようです。
町内の道路は、門を経て内部が見通せないように、ほとんどが屈折しています。見通しや弓矢・鉄砲を射通すことが出来ないようにするためのようです。



歴史
今井の地名は、最初に興福寺一乗院の荘園として登場します。(1386年)室町時代末期になり荘園制度が衰退すると、地元の武士団である十市氏と越智氏が、今井近辺で勢力争いを行います。それに伴って今井は自衛集落としての環濠集落へと変貌して行くことになります。

さらに、興福寺の力が弱まると、浄土真宗が大和に進出して来るのですが、地元の勢力と抗争を繰り返した後、浄土真宗本願寺一門の兵部卿豊寿(ほうじゅ=今井兵部)が今井に入り、後の称念寺を核とした今井寺内町が形成されることになります。(1530年代)

寺内町とは、中世の終わり頃、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内地に築かれた集落で、寺院の四周に堀をめぐらせ、土居を築いているのが特徴です。当時は、裁判や諸公事などで独自に町を運営していました。税制面などの経済的特権が認められて、多くの庶民が移り住みました。

その後、本願寺と織田信長の間に合戦が起こると、今井も石山本願寺や堺にならって、商人や浪人を集め、今井兵部を中心にして武装宗教都市と化して行くことになります。大和が信長によって平定されると(1574年)、堺の茶人今井宗久(津田宗久)や明智光秀などの仲介で信長に降ることになります。これによって町は武装解除されますが、商業都市として存続出来ることになります。

豊臣の時代を迎えると、秀吉に優遇されたこともあり、二代今井兵部のもと、農、商業の振興が盛んになります。「海の堺」「陸の今井」と並び称されるほどに栄える大商業都市となりました。

江戸時代に入り、幕藩体制が整うと、寺内町の存続は認められなくなり、曲折の後、今井は天領(徳川幕府直轄領)となります。しかし、自治特権は大きく、惣年寄と呼ばれる今西家・上田家・尾崎家が町を治めていきます。惣年寄には、死罪を除く司法権、警察権も与えられており、今西家には、今も拷問部屋やお白州が残されています。その特権の背景には、大きな税収による見返りが期待されていたわけです。税は高率で銀納を早くから命じられていました。

また、町民自らが「町掟」を定めてルールを作っていました。
(年貢上納・家屋や田地の売買・消防・・・・など、特に消防の規定は厳格であったようです。住宅密集地でありながら、「火事の無い町」を守り続けてきたようです。)
堺・大阪との交流もますます活発になり、今井には大商人が多数生まれます。大名貸・蔵元・掛屋・両替商・米・酒・味噌・油・肥料や嫁入り道具を扱う店もありました。当時発行されていた今井札は、全国で通用したと言われています。
札というのは、江戸初期に諸藩・天領などに兌換を原則として発行された紙幣で、今井では寛永11年(1634)に幕府の許可の下、発行しています。銀一匁と五分の2種類があったようです。(約2,000円と1,000円程度か)

商業都市として発展するにつれ、文化面も華やかな時代を迎えます。茶道・活花・能楽・和歌・俳句など優れた者を出しているようです。町民の持つ財力が豊な文化の気運を作り上げていったのでしょう。
しかし、今井町の繁栄もやがては下降線をたどります。明治維新を迎えると、諸大名がつぶれ、武士の凋落とともに、その貸金が無効になり、今井町は大きな打撃を受けることになりました。昭和に入ってからは、初期鉄道路線から外れることによって、商業地区としての機能は失われ、静かな住宅地として今を迎えるに至りました。

橿原市の平成19年度統計書によると、往年の今井寺内町の町域に含まれる今井町1丁目から4丁目の戸数は788戸、人口は2,412人になっています。




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旧米谷家

中町筋北側に面しており、音村家・細田家と並び、今井の町並みを良く表わしている地区となっています。
屋号は「米忠」といいますが、金具・肥料を商っていたそうです。

内部は五間取となっていて(今井町の町家では五間取が多い)、台所と仏間が一部屋になっています。二階屋根が低く、五間取の居住部分と土間で構成されているのが特徴です。
建築は、嘉永3年(1850)とされています。店奥・納戸の幅が一間と狭く、反対に土間が広く取られています。土間の隅を下店として利用していました。裏庭に土蔵があり、数奇屋風の蔵前座敷が付随しています。

店の間
商品の展示販売や製作・加工をした部屋です。床を一段低くして板張りになっています。正面道路側を開放して商売をしていました。

店奥
店の間の補助的な役割をしていた部屋です。連子格子の窓になっている場合もあり、商品を展示することもあったようです。

中の間(オウエ)
接客用や家族の居間として使用されていました。居住部分の中心的な部屋です。

納戸
現在は、物入れの部屋のことを納戸といいますが、17世紀頃は夫婦の寝室として使われていたようです。当時は三方を壁で囲んで、金庫室のようにもなっていて、貴重品を入れておく部屋でもありました。時代が新しくなっていくに従って、開放的な部屋へと変わってゆきます。

台所
家族が食事をし、またその準備をした部屋です。米谷家では、仏間と一つの部屋になっています。

仏間
仏壇を安置するための部屋です。
19世紀頃から「座敷」として使われるようになりました。仏壇は、その他の部屋にも置かれるようになります。

裏庭に土蔵がありますが、蔵前座敷と呼ばれる数奇屋風の建物が付随しています。この建物は嘉永3年(1850)のものであることが、分かっています。

 旧米谷家の「旧」というのは、現在ここが国有の建物となっているためです。


旧米谷家 外観


余談
皆さんは、橿原市石川町に馬子塚と呼ばれる五輪塔があるのをご存知でしょうか。


馬子塚五輪塔

石川精舎跡に建立されたとも言われる本明寺の境内に在るのですが、もちろん飛鳥時代のものではありません。こちらも、確たる証拠はないのですが、『越智家譜伝』に、「大永3年(1523)2月19日の久米寺石川の合戦に討死した32人の追善供養のために越智家栄が立てたとある塔か。もとは久米町芋洗地蔵境内にあったという。」とあります。今井町が環濠集落になってゆく戦乱の一つの事例でしょうか。また、蘇我氏の根拠地とされるこの地域所縁の伝承なのでしょうか。面白い伝承ですので、書き留めておきます。



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鷺栖神社


橿原市四分町に鎮座します。『延喜式神名帳』に記される「鷺栖神社」に比定されています。
祭神は、天児屋根命、誉田別命、天照皇大神の三神。
口碑によると、藤原宮跡南方、現上飛騨町日高山に在る八幡神社が旧地だとされ、藤原宮の鎮守神とも伝えられます。藤原氏の祖神を祀ることから、不比等により藤原京遷都に際して日高山に移されたという伝えもあるようです。『五郡神社記』には、高市郡賀美郷鳥形山の山尾に鷺栖の地名があるとしますが、根拠が示されているわけではありません。

 境内に柿本人麻呂の歌碑があります。万葉集 巻2-200
 ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らず 戀ひ渡るかも



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田中宮・田中廃寺

橿原市田中町の集落内には、舒明天皇の田中宮やその後に建てられたという田中廃寺が在ったとされています。


弁天の森                      天王藪

舒明天皇の主たる宮殿は飛鳥岡本宮や百済宮ですが、636年8月、飛鳥岡本宮に火災が起こったために宮を遷すことになります。その地が、この田中町付近であるとされています。
この集落には、土壇と思われる場所が二ヶ所あり、それは舒明天皇の宮殿や蘇我氏の一族である田中臣(稲目の子・馬子の兄弟)に関わる寺院の痕跡ではないかとされています。

1990年に発掘調査が行われており、田中廃寺と呼ばれる古代寺院の存在が確実になりました。この調査では、南北棟の総柱建物や東西棟の四面廂をもつ大型建物、また回廊状の建物が想定できる柱穴列が検出されました。フイゴの羽口・坩堝・鉄くず・銅くずなどの鋳造関係遺物や瓦が大量に出土した土坑なども検出されました。出土した瓦には、単弁蓮華文軒丸瓦や単弁有子葉蓮華文軒丸瓦(山田寺式)と、重弧文軒平瓦の組み合わせが使用されていたようです。

これにより、創建は7世紀中頃ではないかと推測されています。また、田中廃寺は藤原京建設によって、その寺域を条坊に合わせて縮小していることも分かったようです。

しかし、創建当初の伽藍や寺域は不明な点が多く、集落内に在るふたつの土壇がおそらくは金堂や講堂など中心伽藍跡ではないかと思われます。これらの土壇は、「天王藪」や「弁天の森」等と呼ばれています。また集落の東に在る法満寺には、塔心礎と伝えられる礎石があります。


法満寺境内の礎石

田中廃寺式軒丸瓦と呼ばれる無子葉の単弁蓮華文軒瓦が確認されています。
この瓦は、同じく田中廃寺で使用された単弁蓮華文軒丸瓦(有子葉)の瓦笵の子葉部分を削り素弁のように改笵された後に製作されたものだと推定されています。

「子葉のない蓮弁は素弁ではないのか?」という疑問も持たれる方もいらっしゃると思いますが、周囲に重圏文を伴うことや瓦当面に対する中房の大きさなど、瓦当文様だけからみても、吉備池廃寺式や山田寺式以前の星組・花組などの素弁蓮華文の範疇に入るとは考えられません。
この他、藤原宮式の瓦や重弧文軒平瓦も出土しており、7世紀半ばから後半にかけて何らかの堂宇があった可能性が考えられます。

*左 単弁有子葉蓮華文軒丸瓦
参考:山田寺式軒丸瓦・山田寺出土品(飛鳥資料館展示品)



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和田廃寺


橿原市和田町の住宅地の北端に「大野塚」と呼ばれる土壇があります。和田廃寺はこの土壇を中心とする寺院跡です。周辺にはトウノモト・堂の前といった小字名が残っているようです。 

現在の大野塚土壇は南北約14m、東西約9.5m、高さ約1.7mの規模ですが、発掘調査では礎石を抜き取った痕跡や根固め石が見つかり、一辺が12.2mに復元が出来る塔基壇の西半分が残在したものであることが分かっています。この塔は、基壇の版築土中から出土した瓦などから、7世紀後半に創建され8世紀後半まで存続していたことが分かっています。  

また、大野塚土壇の南で実施された発掘調査では、寺の南限かと考えられる柵が見つかったほか、その北で7世紀後半に位置づけられる鴟尾が出土しています。

以前には、この大野塚土壇は、敏達14年(585)に蘇我馬子によって建てられた大野丘の北塔とされてきましたが、最近では「葛城寺(葛城尼寺)」と考えられるようになっています。『聖徳太子伝暦』推古天皇29年(621)条には、聖徳太子創建七ヶ寺の中に「葛城寺」の名が見られ、また「この寺を蘇我葛木臣に給う」と記されています。蘇我氏にも葛城(葛木)を名乗る一族がいました。またこの蘇我葛木臣を馬子と考える説もあるようです。

『続日本紀』光仁天皇即位前紀の童謡に、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」とあり、桜井の地が葛城寺の前であるとともに、豊浦寺の西であったことが分かり、言い換えれば葛城寺が豊浦の西に在ったということになり、和田廃寺が葛城寺で在る可能性が高いと言えそうです。

和田廃寺からは、飛鳥地域で建立された初期寺院との同笵や同形の瓦が数種類確認されています。
初期の飛鳥寺との関連を窺わせるような花組の同笵品や類似品、豊浦寺の塔の創建に使用された新羅系の瓦などがあります。

また、豊浦寺や奥山廃寺と同笵の船橋廃寺式のものは、素弁蓮華文には珍しい十六弁のものになります。

左:船橋廃寺式軒丸瓦・奥山廃寺出土品(藤原宮資料室展示品)

このほか、花組と星組双方の影響を受けたと想定されている十一弁や十二弁の軒丸瓦など、興味深い瓦が出土しています。

*左 素弁十二弁蓮華文軒丸瓦・和田廃寺出土品(飛鳥資料館展示品)
*右 素弁十一弁蓮華文軒丸瓦・和田廃寺出土品(藤原宮資料室展示品)

これらの瓦の年代観からすれば、7世紀前半には瓦葺きの何らかの建物があったと想定することも可能かもしれません。しかし、明確な遺構が検出されていないため、それぞれの瓦が葺かれた堂宇の特定はされていません。


大野丘北塔

『日本書紀』敏達天皇13年(584)9月、「鹿深臣は弥勒の石像一体を携えて百済から帰国した。佐伯臣も同様に仏像一体を百済から持ち帰った。蘇我馬子は、槻曲の宅に仏殿を作って二体の石像を祀るとともに、修行者を求め、求めに応じた高麗僧恵便と、司馬達等の娘善信尼と、その弟子禅蔵尼・恵善尼を、先の仏殿に招き法会を行った。」その折、斎食(いもい)の上に舎利が現れ、舎利は馬子に献上されました。翌14年(585)の2月に、大野丘の北に塔を建て、法会を催すとともに、先の舎利を塔の柱の先端に納めました。しかし、その1ヵ月後、大野丘北塔は物部守屋によって破壊されています。


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古宮遺跡


古宮遺跡は、山田道が西に向かって飛鳥を抜ける地点に存在し、近年まで推古天皇に始まる小墾田宮の推定地とされてきた遺跡です。

小墾田宮は、推古天皇の宮殿に始まり、飛鳥時代を通じて離宮や兵庫として維持されました。
1970年に行われた発掘調査によって、土壇の南側で7世紀前半の小池や曲線状の水路と石敷遺構が検出され、推古天皇の時代の庭園遺跡であることが分かりました。
また、駐車場の下層からは、7世紀前半から8世紀にかけての建物群が検出されており、遺跡が周辺に広がっていることが確認されています。

1987年に行われた雷丘東方遺跡の発掘調査で、奈良時代の井戸から「小治田宮」と墨書された土器が多数出土したことから、推古朝の小墾田宮はその周辺に所在すると考える説が有力です。
これらのことから、古宮遺跡は小墾田宮ではなく、近くに豊浦寺が存在することなど、蘇我稲目の邸宅の一部と考えることが出来そうです。



金銅製四環壺

明治11年に古宮土壇周辺の水田地下より金銅製四環壺が発見されています。高さ約36cm、最大径約42cmと大きな金銅製の壺で、現在は錆のために見えませんが、2対の鳳凰や花唐草文とその隙間を埋める細かな魚子文が施された立派な壺であったようです。壺は鳳凰のデザインから、8世紀初頭以降に作られた物だとされるようです。骨蔵器だと考えられるようですが、だとすれば高貴な身分の方の遺骨を収めた物だと思われます。一説では、文武天皇の陵墓(中尾山古墳)から持ち出された物だとされますが、確たる証拠は無いようです。



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豊浦寺

豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられています。数次にわたって行われた境内の発掘調査から、下層に古代寺院などの遺構の存在が明らかになってきました。向原寺境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に建立されていたことが明らかにされました。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置や他堂宇との方位の違いがあり、塔と確定するには疑問も残るようです。

豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。

豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13年(552) 10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが『日本書紀』に書かれています。
また、『元興寺縁起併流記資財帳』によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、同15年には桜井寺と改称し、推古元年(593)、等由羅寺へと変わって行ったとされています。
両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。

推古11年(603)冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。
豊浦寺創建時の講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)
建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元出来るようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、宮殿などの特殊な建物であったことが容易に想像できます。
金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔は周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明です。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。

豊浦寺の各堂宇を飾った瓦の文様は実に多種多様だったことが発掘調査などから分かっています。創建には約30種類の瓦が使用されたとされ、瓦当文様は星組・船橋廃寺式・新羅系のおおよそ3系統にわけられます。


*左 十一弁素弁蓮華文軒丸瓦・飛鳥寺出土品(藤原宮資料室展示品)
*中 船橋廃寺式軒丸瓦・豊浦寺出土品(藤原宮資料室展示品)
*右 有軸八弁蓮華文軒丸瓦・豊浦寺出土か?(天理参考館収蔵品)

金堂は、飛鳥寺でお馴染みの星組の瓦を用いて、6世紀末から7世紀初頭の間に造営が開始されたと考えられています。
講堂は船橋廃寺式を主体として、塔は特徴のある新羅系軒丸瓦を主体として、それぞれ7世紀中頃までには造営が開始されたと考えられます。

豊浦寺の瓦は、瓦当文様と対応するように製作された瓦窯の地域も多様だと言えます。それぞれの瓦窯と豊浦寺との直線距離は、主に新羅系軒丸瓦を製作した京都の隼上り瓦陶窯とは約50km、船橋廃寺式を製作した兵庫の高丘窯とは約80km、同じく岡山の末ノ奥窯では約180kmも離れています。また、約40km離れた和泉にも豊浦寺の造瓦を担った瓦窯があったと推定されています。
豊浦寺における遠隔地での瓦生産は、この後各地で盛んとなる造寺活動を見据えたものだと考えられるかもしれません。

豊浦寺境内には、飛鳥の謎の石造物の一つ「豊浦の文様石」が置かれています。また、近くを通る隧道の天井石に文様のある石が存在しています。文様は何が描かれているのかは定かではありませんが、明日香村文化財顧問の木下正史先生は、須弥山石の台石ではないかと考えられているようです。一石は、向原寺境内で見学が可能ですが、隧道内の天井石は容易に見ることはできません。




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甘樫丘東麓遺跡


甘樫丘東麓遺跡 現況(2015.10.3.)

『日本書紀』に書かれる、皇極3年(644)11月条、「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ。また、その男女を王子とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。」

甘樫丘東麓遺跡の発掘調査は、1994年から始まっており、道路から西に上がった駐車場の下層を中心として発掘調査が行われました。
この調査では、7世紀中頃の焼土層や炭化した木材が発見され、蘇我氏邸宅との関連が注目されました。その後、この谷が公園整備されることになり、それに先行する調査として、2005年より継続的な発掘調査が行われています。
7世紀前半の石垣や掘立柱建物、またそれを埋め立てる大規模な整地や新たな建物群・溝・炉跡・土坑・石敷なども検出されています。

遺構は、1期(7世紀前半)、2期(7世紀中頃)、3期(7世紀末)の3期に区分されています。
遺跡は、甘樫丘の東麓の谷地形を含む複雑な地形に盛土して、平坦地を造り出しています。1期には、石垣や掘立柱建物、総柱建物が造られていたと考えられています。これが、蘇我入鹿邸(谷の宮門)の一部と考えられているわけですが、中心建物とするには規模が小さいことなどから邸宅を構成する倉庫などとみられています。

7世紀中頃になると、この1期の面を大規模に再度造成しています。石垣や谷地形も完全に埋め立てられ、あたかも1期の痕跡を消すかのごとく、土地利用が変更されています。それは、蘇我本宗家の滅亡を象徴しているかのような印象を受けます。この整地の上に展開するのが、2期遺構です。東麓遺跡の北西隅で、コの字型に囲む塀の中に、数棟の掘立柱建物などが検出されています。
これらの成果があった第151次調査においては、この遺跡の1期の時期が特定される遺構が検出され、東麓遺跡の性格を決定付けることになりました。それは、調査区の北東端で検出された土坑から出土した土器の年代と、土坑の検出状況により確定されました。

1期と考えられる総柱建物の柱穴を壊して、土器が出土した土坑が掘られていました。ということは、総柱建物は、飛鳥時代の中頃の土器が出土した土坑より古いことが確かめられたということになります。2期の遺構は、複雑に建替えが行われ、3期へと続いていくようです。

3期には、再び造成が行われ、鍛冶炉などが造られています。この時期の建物は、地形を無視して正方位に沿って建てられていました。この時期になると、土地の利用は縮小傾向になるようです。

東麓遺跡は、甘樫丘全体に広がる「蘇我本宗家の邸宅の一部」であったのでしょう。東麓遺跡だけに止まらず、甘樫丘全体の調査が期待されるところです。




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大和川水系

南部
曽我町・明日香村周辺



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飛鳥七堰

飛鳥川の飛鳥地域には、七つの井堰が在ったとされます。承保3年(1076)に書かれた『大和国高市郡司刀禰等解案』には、飛鳥川に設けられた7つの堰(木ノ葉堰・豊浦堰・大堰・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰)がすでに見え、さらに時代を遡ることが可能な堰も幾つかあるようです。

特に上流部分の木ノ葉堰や豊浦堰などは、飛鳥寺の北側や豊浦方面に水を流す重要な位置に造られており、蘇我氏の拠点を潤すための水として飛鳥時代より建設されていたのではないでしょうか。
(大和川水系(曽我町・明日香村周辺)図参照)


現在の木ノ葉堰



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右京十一条四坊の自然流路

県道橿原神宮東口停車場飛鳥線建設事業に伴う発掘調査が行われました。 具体的には丈六交差点の北約250mになります。調査の結果、流路や溝・土坑などが検出されています。流路は、確認された範囲で長さ約240m、幅約12m、深さ約2mです。調査区内を東から西にやや蛇行しながら流れています。埋没の時期は、出土遺物から鎌倉時代~室町時代にあたる14世紀前半と考えられ、埋没と流水が繰り返されていたことがわかりました。この調査地には、現在も農業用の水路が存在しています。検出された流路遺構はその前身とも考えられ、 当時から現在にいたる水利状況を知る上で、興味深い成果が得られています。

流路の後身である農業用水路を辿ってみると、主に二つの水源池から流れ出していることが分かりました。一つは石川池(剣池)、もう一つの流路は和田池を水源にしたものでした。
『日本書紀』には、「第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣池、厩坂池と共に剣池を造った。」とありますので、古代からこの水の流れは、大きく変わることなく現在まで続いているのかもしれません。

この水路の先は、橿原公苑内で桜川となり、高取川と合流し、さらにその先では曽我川となって北流して行きます。(大和川水系 曽我町・明日香村周辺図 参照)


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蘇我氏の邸宅

名前 邸宅名 日本書紀記載年月日 記事概要
稲目 小墾田の家 欽明13年(552)10月 仏像を置いた
向原の家 家を喜捨し寺とした
軽の曲殿 欽明23年(562) 8月 高句麗女性2人を妻として住まわせた
馬子 石川の邸宅 敏達13年(584) 2月 仏殿を造った
槻曲の家 用明 2年(587) 4月 大伴比羅夫が守りに駆け付けた
嶋の家 推古32年(624) 5月 嶋大臣と呼ばれた
蝦夷 豊浦の家 舒明 6年(634) 7月 豊浦大臣と呼ばれた
畝傍の家 皇極 元年(642) 4月 百済の大使をもてなした
甘樫丘上の宮門 皇極 3年(644)11月 甘樫丘に並べ建てた
入鹿 甘樫丘谷の宮門



蘇我氏が残した歌

万葉集には、蘇我本宗家の者が詠んだ歌は収録されていないようです。

『日本書紀』推古天皇20年(612)春正月の辛巳の朔丁亥(7日)に、群卿を召して酒宴を行った。この日、大臣(蘇我馬子)は杯をささげて、

やすみしし 我が大君の 隠(かく)ります 天(あま)の八十光(やそかげ) 出(い)で立たす 御空(みそら)を見れば 万代(よろづよ)に かくしもがも 千代(ちよ)にも かくしもがも 畏(かしこ)みて 仕(つか)へまつらむ 
拝(をろが)みて 仕(つか)へまつらむ 歌献(づ)きまつる

天皇和(こた)へ歌よみし給ひしく

真蘇我(まそが)よ 蘇我(そが)の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀(たち)ならば 呉(くれ)の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我(そが)の子らを 大君の 使はすらしき



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関連年表

和暦 西暦 事 象
雄略 9   3 蘇我韓子、紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰とともに、新羅討伐の将軍に任命される
5 韓子、戦地で没す。
宣化元 536 2 蘇我稲目、大臣となる。
5 稲目、勅命により、凶年に備え尾張連に尾張国の屯倉の籾を運ばせる。
宣化 4 539 2 宣化天皇崩御。
12 欽明天皇即位。
欽明 2 541 3 堅塩媛・小姉君(ともに稲目娘)、欽明天皇の妃となる。
欽明13 552 10 百済・聖明王より、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干が伝えられ、蘇我稲目が仏像を貰い受け小墾田の家に安置。
向原の家を清め寺とする。
後に疫病が流行り、物部連尾輿・中臣連鎌子の奏上により仏像を難波の堀江に流し、寺に火を放つ。
『扶桑略記』
第廿七代継躰天皇即位十六年壬寅。大唐の漢人鞍部村主司馬達止。此年の春二月入朝す。即ち草堂を大和國高市郡坂田原に結び、本尊を安置し帰依礼拝す。
欽明14 553 7 稲目、勅命に奉じ、王辰爾に船賦の記録を命じる。
欽明16 555 7 稲目、穂積磐弓臣らと吉備に派遣され、5郡に白猪の屯倉を置く。
欽明17 556 7 稲目ら、備前に派遣され、児島郡に屯倉を置く。
10 稲目らを高市郡に派遣され、韓人の大身狭の屯倉と高麗人の小身狭の屯倉を置く。
欽明23 562 8 稲目、大伴連狭手彦より贈られた高句麗の女2人を妻とし軽の曲の家に住まわす。
欽明31 570 3 稲目没す。
欽明32 571 4 欽明天皇崩御。檜隈坂合陵に葬る。
敏達元 572 4 敏達天皇即位。蘇我馬子、大臣となる。物部守屋、大連となる。
5 王辰爾、高句麗の鳥の羽に書かれた上表文を読解。
敏達 3 574 9 馬子、吉備国に派遣され、白猪の屯倉と田部の農民を増やす。(翌年2月帰京)
馬子、鹿深臣・佐伯連の請来品の石の弥勒像と仏像を貰い受け、邸宅の東方に仏殿を建て、石の弥勒像を安置する。
また、石川の家に仏殿を造る。鞍部司馬達等・池辺直氷田を遣わし、仏法の師として、播磨の還俗僧・恵便を探し出す。
善信尼(司馬達等の娘)らを出家させる。
司馬達等、法会の際に舎利を発見。
敏達14 585 2 蘇我馬子が大野丘の北に塔を立てる。先に(敏達13年9月)司馬達等が得た舎利を柱頭に納める。
3 馬子、病み、奏上し許可を得て仏法を祀る。
物部守屋らが、塔を倒して仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てる。善信尼らを海石榴市で鞭打つ。三人の尼、馬子に返還される。
8 敏達天皇崩御。殯宮での誄で馬子と守屋が罵倒しあう。
9 用明天皇即位
用明 2 587 4 天皇病臥。三宝(仏・法・僧)への帰依を群臣にはかる。
鞍部多須奈、天皇の為に出家。丈六仏と寺を造る。
用明天皇崩御。
6 馬子、炊屋姫を奉じ穴穂部皇子を殺害。
7 物部守屋との戦いに際し、廐戸皇子、四天王像を彫り戦勝を祈願。馬子、寺塔を建立し、仏法を広めることを誓願。
物部守屋滅ぶ。
8 崇峻天皇即位。
崇峻元 588   百済より、僧恵総・令斤・恵寔が遣わされ舎利を献上する。同時に、僧6名、寺院建築工2名、露盤博士、瓦博士4名、画工が渡来。
善信尼らが授戒を受けに百済へ発つ。
(飛鳥寺の)整地と着工。
崇峻 3 590 3 善信尼らが帰国し、桜井寺に住む。
10 山に入って寺(飛鳥寺)の用材を伐った。
崇峻 5 592 10 (飛鳥寺の)仏堂と歩廊の工を起こした。
11 馬子、東漢直駒に崇峻天皇を暗殺させる。即日、倉梯岡に葬る。
馬子、東漢直駒を処刑。
12 推古天皇、豊浦宮で即位。
推古元 593 1 (飛鳥寺の)仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。
この年、難波・荒陵に四天王寺を造り始める。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
止由等の宮を寺と為す、故に止由等寺と名づく
推古 2 594 2 皇太子(聖徳太子)と大臣に詔し、三宝の興隆を図る。
多くの臣・連たちは、きそって仏舎を造る。
推古 4 596 11 飛鳥寺、落成。馬子の長子・善徳臣が寺司に。慧慈、慧聡が飛鳥寺に住まう。
推古11 603 10 推古天皇、小墾田宮に遷宮。
12 冠位十二階制定
推古12 604 4 十七条憲法発布
推古13 605 4 銅と繍との一丈六尺の仏像を各一躯造り始める。
鞍作鳥が造仏工に任じられる。
高句麗・大興王より、大仏の鋳造用に黄金300両が贈られる。
推古14 606 4 (飛鳥寺の)金銅と繍の丈六釈迦仏を安置。
(『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』では、推古17年)
5 鞍作鳥、祖父・司馬達等、父・多須奈の功、及び、飛鳥寺への丈六仏安置の功により、大仁の位と近江国坂田郡水田二十町を賜る。金剛寺造営。
『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
この年、(飛鳥寺の)金人(金銅の仏像)を造らせる。
推古20 612 1 馬子、宴で天皇と歌を詠み交わす。
2 皇太夫人堅塩媛を檜隈大陵(欽明天皇陵)に合葬。
推古22 614 8 馬子の病気平癒のため、男女1000人を出家さす。
推古28 620   馬子、聖徳太子とともに、「天皇記」「国記」などを記す。
推古30 622 2 聖徳太子薨去。
推古32 624 4 天皇、僧の規律について馬子に問う。
10 馬子、葛城県を天皇に要求し拒絶される
推古34 626 5 馬子、没す。桃原墓に埋葬。
蝦夷、大臣となる。
推古36 628 3 推古天皇崩御。
9 蝦夷、嗣位をめぐり、山背大兄皇子を推す境部臣摩理勢を殺害。
舒明元 629 1 推古天臭の遺勅として田村皇子が即位。(舒明天皇)
舒明 8 636 7 大派王が官吏の朝参の怠慢を非難。卯の刻に出仕、巳の刻に退庁する提案に蝦夷賛成せず。
舒明13 641 10 舒明天皇崩御
皇極元 642 4 蝦夷、畝傍の家に百済の翹岐らをよび、対談。良馬1匹と鉄20錠をおくる。
7 入鹿の従者が白い雀の子を捕える。同時に蝦夷も白雀を献上される。
蝦夷、大寺で読経による雨乞い。(効無し)
8 天皇、南淵において雨乞い。大雨が降る。
9 天皇、蝦夷に百済大寺造営のため、近江と越の丁を微発するよう命じる。また、宮殿(板蓋宮)造営のため国々から用材を、遠江から安芸の国に人夫を調達するよう命じる。
10 蝦夷、蝦夷を家に迎え饗応する。
11 蝦夷、葛城の高倉に祖廟を建て、八侑の舞を行う。
12 舒明天皇を滑谷岡に葬る。
この年、蘇我蝦夷・入鹿、今来に大陵と小陵を造営。上宮王家の部民を使役する。
皇極 2 643 9 舒明天皇を押坂の陵に葬る。(改葬)
吉備姫王薨去。檀弓の丘に葬る。
10 蝦夷、病で出仕せず。紫冠を入鹿に授け、大臣の位に擬し、弟を物部大臣と呼ぶ。
11 入鹿、山背大兄王を殺害。
皇極 3 644 6 剣池に、1本の茎に2つの花をつけた蓮が生じ、蘇我繁栄の徴とし、蝦夷、金泥でそれを描かせ法興寺の丈六仏に供える。
11 甘樫岡に邸宅を建て、蝦夷の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよび、子供たちを王子(みこ)と呼ばせる。
大化元 645 6 中大兄皇子、中臣鎌子と共に、宮中で入鹿を殺害する。
蝦夷、「天皇記」「国記」珍宝に火を放ち自殺する。
蝦夷・入鹿の埋葬および慟哭を許される。
皇極天皇譲位。孝徳天皇即位。
斉明 7 661 7 斉明天皇、朝倉宮で崩御
11 斉明天皇の喪を、飛鳥の川原で殯した。



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関連系図

蘇我氏関連系図2 (石河宿禰まで)



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蘇我氏考         作成:よっぱ

1 蘇我氏の始祖
蘇我氏の始祖は武内宿禰とされる。
第八代孝元天皇の孫で、父は比古布都押之命、九人の子がおり、その中に蘇我石河宿禰がいる。蘇我石河宿禰の後裔は、蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の七氏。(箭口臣を入れて、八氏とする説もある。)
『記・紀』において蘇我を名乗る人物は、「履中紀」の「蘇我満智宿禰」、「雄略紀」の「蘇我韓子宿禰」、その後、「満智」や「韓子」、あるいは「高麗」とのつながりは記されていないが、「稲目」、「馬子」、「蝦夷」、「入鹿」の蘇我氏四代が続く。


2 蘇我氏の出身地
蘇我氏の出身地については、大和国高市郡曽我(橿原市曽我町付近)説、大和国葛城郡説、河内国石川説、渡来人説などがある。
渡来人説の根拠は、祖先に「韓子」「満智」「高麗」の名があり、「入鹿」の別名が「鞍作」であったなど韓半島系の名前があることや、五世紀後半の百済官人「木満致」と「蘇我満智」が同一とするもの。
河内国石川説は、『日本三代実録』の石川朝臣木村と箭口朝臣岑業とが宗岳朝臣への改姓を許されたという記事が根拠。
大和国葛城郡説の根拠は、『日本書紀』の推古紀に蘇我馬子が葛城県の封県を申し出たとする記事、皇極紀に蘇我蝦夷が祖廟を葛城高宮に立てたとする記事。推古紀の馬子の記事に関しては、馬子の母が葛城氏出身であり、馬子の本居(生まれ故郷=ウブスナ)が葛城だとする説もある。
大和国高市郡曽我説は、一般に蘇我氏などの臣姓を名乗る豪族は自らの本貫(出身)地を氏の名として名乗るのが原則であり、また曽我には、推古紀に馬子が祀ったとされる式内社「宗我坐宗我都比古神社」があることなどを根拠とする。
他に、葛城氏との関係で、蘇我氏は葛城氏の後裔であり、雄略紀に没落したのちその支族であった蘇我氏が勢力を拡大し、推古紀までに葛城郡から高市郡曽我に移り住んだとする説や蘇我氏と葛城氏とは本来別の氏であり、元々高市郡曽我が本貫地だとする説もある。


3 蘇我氏と仏教
 (1) 欽明紀
『日本書紀』では552年、『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』では538年、百済の聖明王から欽明天皇へ「釈迦仏金銅造1躯、幡蓋若干、経論若干」が贈られた。
群臣のなかで唯一、蘇我稲目のみが「他国同様、仏教を受容すべし。」と賛成、受容に迷った欽明天皇から「試しに祀れ」として、この仏像を与えられ、小墾田の家に安置し、向原の家を浄捨して寺とした。しかし国内に疫病が蔓延し、廃仏論者の物部大連尾輿、中臣連鎌子らにより、原因は仏教受容だとして、仏像は難波の堀江に破棄され、伽藍は焼き払われた。

 (2) 敏達紀
敏達天皇13年、蘇我馬子は、仏像2体を手に入れ、全国から探し出させた還俗僧「恵便」を招来し、日本初の僧侶(尼僧)「善信尼」「禅蔵尼」「恵善尼」を誕生させた。自宅の東に仏殿を造り、仏像を安置して三尼らに祀らせて法会を営み、このとき仏舎利を得たことから、その信仰は高まり、石川の自宅に仏殿を作った。『日本書紀』も「仏法之初、これにより作れり」と記している。
翌年、仏塔を建てて柱頭に舎利を埋納した。しかし、疫病が再び蔓延したことから、物部守屋らが天皇に廃仏を進言、馬子が建てた仏殿、仏塔を破壊、仏像を難波の堀江に投棄し、三尼を監禁して鞭打ちしたが、今度は物部守屋と天皇が疫病に罹患し、人々は「仏の祟り」とささやいたという。
馬子も疫病に罹患しており、「臣の病は三宝(仏・法・僧)の力を蒙らずば救い治むこと難し」と天皇に奏上し、「汝独り仏法を行ふべし」として、三尼も馬子のもとに釈放された。

 (3) 用明紀
稲目の外孫に当たる用明天皇が即位、二年目に天然痘にかかると、「朕は三宝に帰らむと思ふ。卿等、議れ。」と述べ、これを受けて、蘇我氏と物部氏、中臣氏が対立した。
さらに、用明天皇が崩御すると、崇仏・廃仏論争に馬子が推す泊瀬部皇子と守屋が推す穴穂部皇子の皇位継承争いが絡んで、蘇我・物部の戦いが繰り広げられ、その末に物部氏は滅亡して崇峻天皇が即位し、崇峻天皇元年にわが国初の本格寺院である飛鳥寺造営が開始、日本仏教の中核となっていった。

 (4) 蘇我・物部の崇仏廃仏論争
仏教受容をめぐり、蘇我氏と物部氏は数十年にわたる戦いを繰り広げた。
廃仏論者の物部氏や中臣氏は、天神地祇を司る役職であったため仏教受容に反対したとする説や蘇我氏と物部氏の崇仏廃仏論争の史実性に疑問を持つ見解もある。
さらに、崇仏廃仏論争が真意であったのか、蘇我氏、物部氏の権力争いに仏教受容が利用されたのか、そもそも、なぜ最初から蘇我氏だけが仏教受容に積極的だったのか、様々な問題がある。


4 蘇我氏と渡来人
「国際的な視野を持ち、渡来人と密接な関係を保っていたのは蘇我氏だけ」と、とらえがちであるが、他の豪族も関係を密にしていた。
『日本書紀』欽明天皇4年9月、5年2月、3月、11月、15年2月、12月に、「物部」「許勢」「紀」などの百済官人の名がみえる。また、蘇我氏が台頭する6世紀以前には、葛城氏、大伴氏、物部氏など蘇我氏以外の豪族が韓半島などに派遣され、渡来人を連れ帰り、渡来人集団をまとめていた。
しかし、6世紀末までに、葛城氏、大伴氏、物部氏が次々と没落し、国内に移住していた渡来人集団は、蘇我氏との関係を密にし、蘇我氏のもとで活躍するようになったと考えられる。
蘇我氏に最後まで付き従った東漢氏は、蘇我氏につく前には、『日本書紀』雄略天皇23年8月条や清寧天皇即位前紀に記されているように大伴氏についており、大伴室屋大連のもとで雄略崩御後の反乱を鎮圧している。


5 蘇我氏の台頭
『日本書紀』宣化天皇元年2月、天皇即位に伴い蘇我稲目宿禰が大臣に任命されたと記されている。蘇我氏四代の始まりである稲目の初見である。
蘇我氏が台頭したのは、財力、国際性(渡来人とその文化の活用)、大王家との姻戚関係が影響していると考える。

 (1) 財力
蘇我氏は古くから朝廷の財政に関与してきたとされる。
『古語拾遺』雄略天皇の段には、「蘇我麻智宿禰」が「三蔵」の「検校」(管理・監督)を任されたとされる。「三蔵」とは、神宝や祭器を収めた「斎蔵」、韓半島諸国からの貢納物を収めた「内蔵」、国内からの貢納物を収めた「大蔵」とされるようで、倉に納める物の出納を秦氏が、その帳簿の記載を東文氏と西文氏が担当、蘇我氏が文字の読み書きができる渡来人を利用して朝廷の財政を監督していたとされる。
また、蘇我氏は屯倉の設置にかなり関与しており、屯倉の田部や屯倉の戸籍作成等には渡来人が利用されている。
松本清張氏は、「なぜ朝廷の財政を担当すれば、勢力が強大になるのか」について、「稲目の代から朝廷に納めるべき各地の屯倉の穀を、帳簿上の操作をさせて私したから」とされるという。「読み書きそろばんのできない倭人に帳簿の検査や不正のチェックはできなかった。それができるのは、蘇我氏の息のかかった帰化人であった。」というのがその理由らしい。

 (2) 国際性
渡来人との関係については、上記のとおり蘇我氏だけが密接な関係であったわけではないが、他の豪族の没落に伴い、蘇我氏が一層、渡来人との関係を密にしていった。
また、『日本書紀』欽明天皇23年8月条には、高麗を討ち取った大将軍大伴連狭手彦が連れ帰った美人の媛とその侍女を、蘇我稲目が妻として軽の曲殿に住まわせたと記されている。このころの豪族で渡来人を妻にした記録はほとんどみあたらない。
崇仏についても上記のとおり、欽明朝に仏教が公伝したとき、蘇我稲目は、「西蕃の諸国がこぞって礼拝している。豊秋大和だけがどうしてこれに背けるのか」と進言している。
蘇我氏は仏教を容認し、鞍作氏や東漢氏などに代表される渡来系氏族を養護することにより、軍事面、土木建築面で韓半島の先進技術を手中に収め、多くの渡来人を住まわせた屯倉の拡大により、その土地と人とを実質的に手中に収めていった。

 (3) 大王家との姻戚関係
蘇我氏が台頭するまで、天皇家と姻戚関係を結んできたのは、その多くが葛城氏である。仁徳天皇の皇后は葛城襲津彦の娘の磐之媛、押磐皇子の妃で、顕宗天皇、仁賢天皇の母であるハエ媛(ハエは、草冠+夷)は、蟻臣の娘。雄略天皇の后、韓媛は円大臣の娘である。しかし、允恭天皇5年7月、地震があったにも関わらず、反正天皇の殯宮大夫に任じられていた玉田宿禰は葛城で酒宴に興じて召集に応じす、誅殺された。
安康天皇3年8月には、天皇を暗殺した眉輪王を匿ったとして、大泊瀬皇子(雄略天皇)に、円大臣が眉輪王とともに焼殺され、葛城氏は没落する。
その後、平群氏は武烈天皇によって没落し、大伴氏が継体、安閑、宣化朝で大連に任じられるも、継体天皇6年の百済への任那4県の移譲がもとで、欽明天皇元年9月に失墜してしまう。このとき、大伴氏の失策を進言したのは、主として物部大連尾輿であり、大王家と密接な関係を結んだのは、蘇我氏である。蘇我稲目は欽明天皇に、堅塩媛、小姉君を妃としていれ、姻戚関係を結んでいる。なぜ稲目の娘を妃に受け入れたのかは、不明である。
その後も、物部氏が大連、蘇我氏が大臣に任命されていくが、崇仏廃仏論争の末、物部氏は没落し、乙巳の変で藤原(中臣)氏が頭角を現すまで、蘇我氏主導の政権が続く。



  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
宗我坐宗我都比古神社 中曽司遺跡 曽我遺跡
曽我川 横大路 入鹿神社
今井町 概要・歴史 旧米谷家 鷺栖神社
田中宮・田中廃寺 和田廃寺 古宮遺跡
豊浦寺 甘樫丘東麓遺跡 大和川水系
飛鳥七堰 右京十一条四坊の自然流路 蘇我氏の邸宅・残した歌
関連年表 関連系図 蘇我氏考
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会



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