両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第53回定例会

現地講座

うみにあうてら

- 海会寺 -

レポート


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第53回定例会 事務局作成資料
2015年11月28日

史跡海会寺跡広場 塔基壇上にて

第53回定例会は、講師に泉南市教育委員会の岡一彦先生をお迎えし、テーマを「うみにあうてら―海会寺―」と題して、泉南市で開催されました。両槻会では、初めて奈良・飛鳥を離れての定例会となりました。

今回の集合場所はJR和泉砂川駅前となったのですが、初めての県外での定例会でしたし、天王寺駅からここまでは、和歌山行きと関空行きの連結電車が、途中の日根野駅で切り離されるとのことでしたので、参加者の皆さんが、無事に集合時刻に揃うのかスタッフは心配していたのです。しかし、現地(海会寺)集合以外の参加者の方は、全員予定時刻までに集合してくださいましたし、何年かぶりにお会いした飛び入り参加の方も来てくださいました。講師の岡先生は、誰よりも早く終着地点の埋蔵文化財センターに出勤してこの日の準備を終えたあと、スタッフと同時刻ごろにはJR和泉砂川駅前に来てくださいました。


また、地元の泉南市歴史倶楽部では、岡先生と風人さんが揃うと雨降りになると噂されていたようで、そんな噂を耳にしたスタッフは、毎日のように天気予報にくぎ付けになっていました。定例会が近づくにつれてだんだんと荒天になり、直前には奈良県でも初雪が降り、「とうとうこの二人は、爆弾低気圧まで呼んでしまった。」と心配でたまりませんでした。しかし、当日は、天候が荒れることもなく、予定時刻には、事務局長による出発式、続いて岡先生による事前散策の見どころ解説のあと、駅前を出発し、海会寺跡に向けて熊野街道を進みました。


熊野街道の町並み

熊野街道沿いの街並みは、入母屋造りの妻入りの建物が残されており、新しいお家にも、その建築様式を再現するように建て替えられているお家もありました。また第52回定例会で訪れた今井町の町家のようなツシ二階のようなお家もありましたが、妻入りの建築様式のため、今井町や明日香村とはまったく違った独特の街並みでした。


真如寺本堂

海会寺跡までの道中では、泉南石綿の碑、信達宿の野田藤、和泉砂岩製の常夜灯、真如寺、信達本陣跡、海営宮池、厩戸王子に立ち寄りました。真如寺では、しころ葺きと呼ばれる二段の傾斜がついた屋根を見せていただき、岡先生から説明を受けていたところ、住職の奥さんと思われるご婦人が、わざわざ出てこられて声をかけてくださり、参加者全員にパンフレットを配ってくださいました。


信達宿の野田藤(2014.4.撮影)

海営宮池(かいごいけ)は、行基が丘陵と丘陵に挟まれた谷を堰き止めて作ったとされる池で、その谷の先に海会寺があるのです。海営宮池の堤は非常に高くなっていて、そこからは周辺の景色が一望でき、海会寺が建てられた当時の地形を想像しながら岡先生の説明に聞き入っていました。


整地層展示室(史跡海会寺跡広場

海会寺跡は、現在、一岡神社の境内と史跡公園になっていました。塔や講堂の基壇、回廊の一部は復元されていましたし、金堂の基壇の一部も神社の本殿横に残っていました。復元された塔基壇と残された金堂基壇から、塔と金堂との間が非常に狭いものであることがよくわかりました。塔の基壇は乱石積みで基壇上部の縁はセンで覆っていたそうで、その様子が復元されていました。また、この寺を建てるために周辺の土地を整地しているのですが、復元された塔基壇の地下には発掘当時に発見された版築土の剥ぎ取りが展示してありました。


陶板の立体模型(史跡海会寺跡広場

さらに史跡公園内には、海会寺の伽藍配置が陶板模型で復元されていました。とにかく、ここは、「一目見てわかる史跡公園」にしてありましたし、その上、岡先生の説明付きでしたから、海会寺がどのような寺であったかがよくわかる、至れり尽くせりの現地講座でした。


現地講座を終えて泉南市埋蔵文化財センターで昼食をとった後は、展示室に移動してのギャラリートークでした。展示室入口には塔相輪の復元模型が展示され、展示室内には、軒丸瓦、セン、相輪、風鐸、方形三尊塼仏、墨書土器など数多くの出土品が展示されていました。これらのひとつひとつについても岡先生が丁寧に解説してくださいました。ギャラリートーク後の休憩時間には、事務局長から泉南市教育委員会発行の冊子の紹介があり、多くの方が思い思いの冊子を購入する姿が見られました。


休憩時間が終了すると、いよいよ本番、岡先生の講演がはじまりました。この日の講演のために岡先生がご用意されたのは、100枚余りのパワーポイントの解説画像とA3版15枚におよぶ配布資料、泉南市埋蔵文化財センターの平成26年度年報と「せんなんの街道マップ」で、先生の意気込みに感心してしまいました。また、講演の冒頭には、岡先生と両槻会との出会いを紹介されたあと、仏教修行の段階を示す興福寺や東大寺二月堂の52段の階段の由来を引き合いに出して、52回の定例会を超えた両槻会は悟りを開いた会だとたたえられながら、悟りを開いたのちの記念すべき第53回定例会が泉南の地で開かれたと披露されていました。そして、泉南市の位置や熊野街道と周辺の施設、難解な地名や埋蔵文化財センターの紹介の後、海会寺に関する講演に入っていったのです。

岡先生の講演は、Ⅰ「海会寺」建立前夜、Ⅱ眠る「海会寺」、Ⅲよみがえる「海会寺」、Ⅳ「ナゾ」多き寺院「海会寺」の4部構成でした。

Ⅰ「海会寺」建立前夜では、神武東征の雄水門(おのみなと)、茅渟県陶邑、捕鳥部万などの記紀にみえる和泉、和泉監にはじまる和泉国の成立、離宮が置かれ狩りが行われた和泉国の地域性、縄文、弥生、古墳の各時代の泉南地域の遺跡の移行や古代寺院と関連遺跡について話されました。雄水門に関しては、男里(おのさと)とのつながりや泉南には「お」の地名が多いことや泉南地域の遺跡については、縄文時代から弥生時代にかけて大規模な集落があったこと、古墳については前方後円墳や大型古墳がないことがわかりました。また古代寺院と関連遺跡については、この地域に最初に建てられたのが秦廃寺であり、その後に建てられた禅興寺廃寺とすぐ近くにある諸目遺跡とが、郡寺と郡衙の関係にあったと考えられることもわかりました。


Ⅱの眠る「海会寺」では、発掘調査が行われるまでの海会寺周辺の様子と昭和初期に行われた石田茂作氏や池田谷久吉氏の調査が紹介されました。海会寺という名前は石田茂作氏が初めて使われ、以来この寺がこの名前で呼び続けられているそうです。石田氏は、当時塔跡を講堂跡、回廊を塔跡と考えられていたそうです。その後、昭和56年に試掘調査が行われるまで海会寺はほとんど調査されることなく、昭和58年から始まった発掘調査により、現在の伽藍配置等が判明したそうです。


現地案内板より(史跡海会寺跡広場

Ⅲのよみがえる「海会寺」では、小さな伽藍配置と方位の振れ、大規模な整地の状況、直近に位置する集落などの海会寺の特徴と軒丸瓦に代表される数々の出土遺物とその特徴を解説してくださいました。方位の振れは、塔・金堂が北で西に6度、講堂・南門が北で西に10度振れているのですが、これは建てられた時期の違いであり、他の古代寺院でもよく見られる特徴だそうです。出土遺物の代表格である軒丸瓦については、吉備池廃寺、四天王寺と同笵であることが知られていますが、中房のへこみや外縁の圏線から、吉備池廃寺から四天王寺へは二種類の笵が移動し、そのうちの一種類の笵が海会寺に移動したそうです。


海会寺跡出土軒丸瓦(泉南市埋蔵文化財センター展示品)

創建の時期については、『日本書紀』の記述から、百済大寺(吉備池廃寺)の創建が639年、四天王寺のそれが648年であることから、海会寺の創建は650年頃と考えられるそうです。また塔の露盤は二上山の凝灰岩で作られた石製露盤の上に銅製の露盤が乗せられていたと考えられるそうです。


銅製露盤(泉南市埋蔵文化財センター展示品)

最後のⅣ「ナゾ」多き寺院「海会寺」で説明されたのは、海会寺の本来の名前、誰が海会寺を建てたか、なぜこの場所に海会寺が建てられたのかの3点でした。本来の名前の説明では、『日本霊異記』を紙芝居で説明される場面もありました。『日本霊異記』には尽恵寺(じんえじ)という寺名がありますが、『泉州志』では、これが行基の創った海会寺だと記されているようです。また昭和初期の小字名にも海会寺の名前が残っていたようです。建立氏族については、栄原永遠男氏の別君(わけのきみ)説、菱田哲郎氏の阿倍氏説のほか、大伴氏説や連合体説が紹介されました。創建場所の選定については、四至畿内制の範囲に含まれていてその重要な地点に作られたとする説が有力なのですが、岡先生は、周辺の地形などを考えると軍事的な要素もその一因であり、この地に建てられたのではないかとする説を披露されました。事前散策で訪れた海営池の堤から見た地形を思い出し、岡先生が「この地形をよく覚えておいてください。」と言われていた意味が、この時初めてわかりました。


海営宮池堤上から海会寺跡をのぞむ

そして講演会の最後には、文化財指定からはずれた創建当時の軒丸瓦の実物に触れさせていただき、展示物では見ることのできない瓦当の裏面の調整跡まで目と手で確認することができましたし、瓦に触れながら、岡先生から焼き具合の違いや丸瓦の接合などについてもお話しを聞くことができました。2時間にわたる講演でしたが、先生の説明にひきつけられ、講演会はあっという間に過ぎてしまいました。

今回、両槻会が飛鳥を離れて泉南の地にお邪魔したのはなぜでしょうか。今回訪れた「海会寺」は、出土した軒丸瓦で飛鳥とのつながりがわかったわけですが、それは「歴史が通り過ぎたのは飛鳥の地だけではない。」ということなのです。「飛鳥」という時代は、どこにおいても通り過ぎた時間でした。これまで、「飛鳥」という「地」にこだわってきた両槻会でしたが、今回は、「飛鳥」という「時」に目を向けた定例会だったのです。

この日、岡先生には、事前散策、現地講座、ギャラリートークに講演会と、6時間にわたる定例会を一手に引き受けていただきました。その上、数多くの配布資料と数多くの解説画像まで準備してくださいましたし、最後には、創建当時の瓦に触れさせていただけるというプレゼントまでご用意くださいました。

岡先生、本当にありがとうございました。


レポート担当:よっぱさん



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