両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第53回定例会

現地講座

うみにあうてら

― 海会寺 ―


カイエくん

事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2015年11月28日
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
和泉砂川駅舎 熊野街道 熊野参詣と九十九王子
信達宿本陣跡 角谷 真如寺 海営宮池
海会寺跡 一岡神社 四至畿内と四畿内制
和泉の由来と和泉国の成立 和泉国成立以前 ― 茅渟 関連万葉集
関連系図 古代寺院伽藍配置図 ・ 基壇 関連年表
和泉周辺の古道と古代寺院 吉備池廃寺跡 四天王寺
海会寺周辺マップ 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

和泉砂川駅舎(東口)

現在の駅舎
昭和5年(1930)に阪和電気鉄道の「信達駅」として開業し、昭和7年(1932)に「阪和砂川駅」に改称、昭和15年(1940)には南海鉄道に吸収合併されて南海鉄道山手線の「砂川園駅」となり、昭和19年(1944)に南海鉄道山手線の国有化に伴い国鉄阪和線の「和泉砂川駅」となりました。現在も東口は、昭和初期の阪和電気鉄道時代の特徴的な三角屋根の小さな駅舎の姿をしています。



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熊野街道(南海道・紀州街道・小栗街道)

道の名前は、時代により変遷がみられますが、道筋は古代からほぼ変わらず、大阪(難波)と和歌山(紀伊)を結ぶ道として存在していたと考えられています。

古代は、難波から紀伊へと続く幹線道路の南海道であったと考えられています。(一説には茅渟の道とも)
南海道の成立時期については諸説あり、飛鳥・奈良時代には大和から真土山・背山越えのルートだったものが、都が京都に遷った平安時代に大阪湾に沿って南下し、雄山峠越えのルートに変わっていったとするのが一般的なようです。 (参考:和泉周辺の古道と古代寺院)

平安時代後期以降、浄土信仰の隆盛に伴い盛んとなった熊野詣は、延喜7年(907)の宇多上皇や寛治4年(1090)の白河上皇の熊野参詣などで、街道の利用度が高くなり、熊野街道と呼ばれるようになりました。

江戸時代に入ると、紀州藩の参勤交代時の道として整備され、紀州街道と呼ばれるようになるほか、この街道が登場する浄瑠璃や歌舞伎の「小栗判官」にちなみ小栗街道とも呼ばれました。
*小栗判官
仏教の説教を基本とした語り物として中世に起こった説教節の代表作で、その後、歌舞伎や浄瑠璃などの演目としても演じられるようになります。様々な脚色を受け、演目によって主人公の小栗の素性が異なる場合がありますが、大筋では、地獄に落ちた小栗が閻魔大王の計らいで餓鬼の姿でこの世に蘇り、道中で人々の助けを受けながら熊野詣を成し遂げ、無事元の姿に戻って妻との再会を果たすという筋書きになっています。主人公の小栗は、常陸国小栗城の城主小栗満重の子である助重がモデルだとも言われています。和歌山県の湯の峰温泉には、小栗判官蘇生の湯と伝わるつぼ湯などがあります。
街道の呼称の変遷
古代 南海道 難波宮から紀伊へ抜ける主要道路。詳しいルートは不明。
中世 熊野街道 大阪天満付近から熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)への巡礼の道。
近世 小栗街道 浄瑠璃や歌舞伎「小栗判官」の主人公の小栗が通ったことに由来する呼称。
紀州街道 元禄14年(1701)紀州藩3代藩主 徳川綱教の時から、紀州徳川家の参勤交代に使用されたことに由来する呼称。
現代 通称:街道

熊野街道から分かれて海岸線に沿って進むもう一本の道があり、こちらは浜街道と呼ばれています。泉佐野市で分岐し、田尻町、泉南市、阪南市を通って、孝子峠を越えて紀伊に入るルートになります。「孝子越え」「孝子越街道」とも呼ばれ、江戸時代頃に成立したとされており、こちらを紀州街道と呼ぶこともあるようです。

街道沿いの町並みは、主屋が切妻造り・平入りの建物が並ぶことが多いのですが、熊野街道沿いの泉南から和歌山にかけては、入母屋造り・妻入りの建物で町並みが形成されているという特色があります。

特に、信達(しんだち)周辺の民家は、「角屋(つのや)造り」と言われる特徴を持ち、一段低い屋根を持つ建物が隣に付随しています。


泉南市信達周辺の町並み(熊野街道沿い)             明日香村岡の町並み     

このような妻入りの町家が並んで形成された町並みは、熊野街道以外にも伊勢周辺や福井県・滋賀県などにも見られます。伊勢周辺では「お伊勢さんと同じ(平入り)では、畏れ多い」として、平入りを避けて妻入りの家屋が主流になったとする説もあるようです。その土地の風土に加えて、信仰なども大きく影響している可能性があります。信達周辺では、泉州地域の農家の間取りから発展したものとも言われているようですが、詳しくは分かっていません。



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熊野参詣と九十九王子(くじゅうくおうじ)

平安時代に隆盛した熊野詣は、時代が下るとともに武士や庶民にまで広がりをみせ「蟻の熊野詣」とも称されるようになります。

京都から淀川を下り、渡辺の津(現在の天満橋付近)から一路熊野を目指して陸路を南下する際に、人々が辿りながら進んだとされるのが、熊野九十九王子になります。王子とは、熊野権現の分身(御子神)を祀る社で、また休憩や宿としても利用されたと言われています。九十九の名は、置かれた王子社の数が多いことによる呼称で、実際には大阪から和歌山に掛けて九十社余りが確認されているようです。

泉南市には、厩戸王子・一之瀬王子・長岡王子があったとされています。建仁元年(1201)の藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、厩戸王子と信達一之瀬王子が登場し、後鳥羽上皇が信達宿の厩戸御所に宿泊したことが記録されています。


厩戸王子跡

厩戸王子は、馬戸王子・馬留王子・筆王子などとも呼ばれていたようです。明治40年(1907)に、一岡神社に合祀され、現在は海会寺跡の北西に「厩戸王子跡」の石碑と説明板が設置されています。


通称馬頭さん(馬頭観音)

一之瀬王子は、信達(しんだち)王子・信達一之瀬王子とも呼ばれたようです。現在は信達神社に合祀されていますが、史料に残る地形との類似点などから、信達牧野で通称“馬頭さん”と呼ばれ、馬頭観音と地蔵尊の祀られている場所が跡地の候補のひとつにあげられています。長岡王子は、一部史料に記録にはみえるものの場所の特定には至っていないようです。

『後鳥羽院熊野御幸記』抜粋
熊野道之間愚記 略之 建仁元年十月
・・・(前略)・・・
七日 天晴
・・・(中略)・・・次籾井王子に参りて、御幸を相待つ、やや久しうして臨幸し了る、御奉幣、里神樂終わりて乱舞拍手は相府に及ぶ、次に又白拍子加はり五房・友重を以て二人舞、次に相撲三番、終わりて競ひ出で騎馬にて、先ず厩戸王子に参り、即ち宿所に馳せ入る、此の御宿は惣名は信達宿なり、此所は厩戸御所と云々、例の如く萱葺三間屋あり、國より宛行御所は極めて近く還りて恐れを懐く、戌の時ばかり召ありて參上し、御前に召し入れられ、二首を被講す。忽ちに定有り直題を書せらる、「次第雪爲先」と、例の如く讀上了る、御製は又以って殊勝なり
・・・(中略)・・・
八日 天霽
拂暁に出道す、信達一之瀬王子に参る。又坂中に於て祓す、次に地藏堂王子に参る、・・・(後略)



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信達宿本陣跡 角谷(しんだちじゅく ほんじんあと つのや)

古代に南海道と呼ばれていた道は、熊野詣の人々で賑わいを見せはじめ熊野街道と呼ばれるようになります。特に信達宿は、和泉南部で最も栄えた宿場町で、後鳥羽上皇など歴代の上皇の宿舎がおかれたことから、信達御所村と呼ばれていました。

藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、建仁元年(1201)に後鳥羽上皇が熊野詣の際に、往復ともに信達宿に宿泊したことが記されています。

本来、本陣とは戦時に軍の大将が駐屯する陣を表す言葉ですが、江戸時代頃になると大名や公家など身分の高い人々の宿舎や休憩の場所をさすようになります。


角谷は、信達宿における宿泊本陣にあたり、敷地は1413坪・建坪は300坪ほどあったとされています。 参勤交代の大名行列は、55万石の紀州藩で約1500人程度と推定されており、御家来衆は数軒あった旅籠も含めて、街道筋の民家などに分宿したようです。これら宿の手配は、全て本陣役が担ったようです。
角谷は、上皇などの宿泊本陣であったことから、屋敷は官地扱いとされ年貢を納めなくて良かったようですが、明治2年(1871)の廃藩置県により、官地であったために敷地の半分が市場村の所有、残り半分を当主に払い下げとなったようです。

市場村所有となった西側には、紀州藩の藩主が出入りするための御成門が、昭和29年まで残っていたそうですが、現在は地区の敬老会館が建っています。現存する長屋門は江戸時代に馬や人足などが出来りする通用門(勝手門)として使われていた門になり、門の東側の蔵部分には人馬問屋が置かれていました。また、角谷の前栽には、海会寺の礎石だと伝わる二個の石材が踏み石として置かれています。



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真如寺

寺伝によれば、明徳元年(1392)に禅宗寺院として創建されたものの織田信長の根来攻めで焼失し、その後に浄土宗に改宗して現在に至るとされています。江戸時代には、本陣の角谷に対して紀州藩の隠れ本陣として利用され、八代将軍徳川吉宗も、紀州藩主であった折りに宿泊したとされています。

往時は、14にも及ぶ部屋を有し、襖を外せば500名も一度に収容できる大広間としても使用することができたそうです。また、床の間に隣接する一畳の間や、忍者の隠れ部屋など、隠れ本陣として警護面での工夫もみられたようです。
境内には、徳川吉宗が紀州藩主の時に植えたとされるカイズカイブキの老木があります。




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海営宮池(かいごいけ)

海営宮池は、行基によって開かれたとの伝承を持つ谷を堰き止めて作られた東西約300m・南北約400mに及ぶ巨大な灌漑用溜池です。中島には、海会寺の一院だとされる観音堂が建っていたとされています。

天正5年(1577)の織田信長の根来攻めの際に、辛うじて焼失を逃れた観音堂を移して再興されたのが現在南約1kmにある長慶寺だと伝わります。

海営宮池のほとりでは、縄文時代草創期のものとされるサヌカイト製の木葉形尖頭器が見つかっており、古代からこの地で人々の営みがあったことが分かります。(海営宮池遺跡)



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海会寺跡

大阪府泉南市信達大苗代(しんだちおのしろ)に鎮座する一岡神社の隣地に、史跡広場として整備されています。海会寺跡と呼ばれていますが、創建時の寺名はおろか、由緒や縁起など寺院に関する記録が一切残らない謎の寺になります。

史料を辿ると、江戸時代中頃に編纂された『泉州史』には、弘仁13年(822)頃に成立した仏教説話である『日本霊異記』の中に登場する和泉国日根郡の「畫惠寺(ガエジ)」が海会寺のことであると記されているようです。
また、江戸時代後期・寛政8年(1796)に刊行された『和泉名所図会』の一岡神社(海会宮)の項には「海会寺は行基の草創なり。天正の兵火に罹て泯滅す。今旧礎歴然たり」と記されています。このように「海会寺」の名は、寺としての機能が既に失われた江戸時代まで遡るのが関の山のようです。

『今昔物語集 巻第十二 第十三』
今は昔、聖武天皇の御代に、和泉の国、日根の郡の内に一人の盗人あり。道のほとりに住して、人を殺し、人の物を盗み取るをもって業とす。因果を信ぜずして、常にもろもろの寺に行きて、ひそかに銅(あかがね)の仏の像を伺ひ求めて、これを盗みて焼きおろして、帯に造りて売りて世に渡る。
『日本霊異記 中巻 第廿ニ』
聖武天皇の御世に、その郡の尽恵寺(じんゑじ)の仏の像、盗人に取られき。時に路往く人有りき。寺の北の路より、馬に乗りて往く。聞けば声有りて、叫び泣きて曰く、「痛きかな、痛きかな」といふ。
昭和6・7年(1931・32)に石田茂作氏によって跡地が調査され、土壇の痕跡と残存する礎石などから法隆寺式伽藍配置であることが、『飛鳥時代寺院址の研究(昭和11年刊行)』で指摘されていました。また、これと前後する時期に行われた発掘調査では、基壇(後に塔基壇と判明)や南回廊跡に再建された中世塔跡などが確認されました。

その後、西側の丘陵地で宅地造成に伴う瓦窯跡の発見などを受けて、昭和51年(1976)に大阪府教育委員会による国史跡指定のための調査が開始されました。昭和58年(1983)から4年にわたる泉南市教育委員会による学術調査を経て、昭和62年(1987)には国史跡に指定されました。
平成7年(1995)には、発掘調査で出土した多種多様な遺物302点が一括して国重要文化財に指定されました。このような形で古代寺院関連の遺物が指定をうけたのは全国初のことです。

金堂 5間×4間(21m×推定17m)
一辺13.2m・高さ1.3~1.7m
講堂 7間×4間(21m×13.8m)
回廊 単廊(基壇幅4.6m)
中門 3間×2間
南門 3間×2間(12.6m×9m)

塔・金堂・講堂・回廊・中門・南門と中枢伽藍の建物が発掘調査でほぼ確定され、法隆寺式伽藍配置であることが明らかになっています。
塔は、基壇規模が一辺13.2mを測り、飛鳥寺や川原寺を凌ぐ大きさとなっています。和泉砂岩の河原石による乱石積基壇で、周囲には幅30cmほどの犬走りが巡っていたとされています。

基壇の上面は塼が敷かれ、残存していた3個の和泉砂岩製の礎石には、柱座の痕跡はなかったようです。四辺に階段の痕跡は認められないことから、木製の物が設置されていた可能性も推測されていますが、跡地では石段で復元されています。

7世紀の寺院 主要堂宇基壇規模比較表
寺院名 規模(単位:m)
塔(一辺) 金堂 講堂
吉備池廃寺 32 37×25
海会寺 13.2 21×推定17 21×13.8
大和 山田寺 12.8 21.6×18.5 37.1×18.9
安倍寺(桜井) 12.2 22.8×18.1 36×4.7以上
飛鳥寺 12 21.2×17.5(中金堂)
21.9×17.4(西金堂)
39×22.7
川原寺 12 23.4×19.2(中金堂)
21.8×14.9
40.6×16(総地業)
四天王寺 11.5 18.4×15.6 32.3×15


金堂跡

金堂は、基壇半分が一岡神社の境内に取り込まれているため残りの半分(西側)だけが土壇としてその痕跡を留めています。わずかな調査から、周辺には、幅30cmほどの犬走りが巡り、基壇は塔と同じく乱石積で柱座のある礎石が使用され、基壇周辺での塼の出土量から塔と同様に塼が敷かれていた可能性などが考えられています。
また、東回廊外側の木立の中に礎石らしき物が4個確認できます。外周の形状は様々ですが、風化したと思われる上面に僅かながら円形の作り出しが認められ、金堂で使用された礎石の一部ではないかと推測されています。


講堂跡

講堂は、残存する礎石はなく抜取穴などから基壇規模で21m×13.8mと推定されています。推定される基壇高も他の堂宇に比べて低く、塔や金堂と比較するとかなり小規模な建物であったようです。東西が7間と奇数間に復元できることは、創建が7世紀半ば以降であることを裏付けており、基壇中央付近で検出された2個の礎石抜取穴は、須弥壇的施設に伴う遺構とも考えられています。


回廊跡

回廊は単廊で、基壇幅は4.6m、柱間は2.1×2.4mと、少し手狭な感じを受けます。花崗岩製の礎石には柱座が確認されています。

中門は、鎌倉期に南面回廊上に小堂を建てる際に、掘削を受けたらしく詳細は不明ですが、わずかな痕跡から、3間×2間の規模に復元されています。

南門は、検出された礎石の抜取穴から、3間2間の八脚門であったと推定されています。乱石積基壇のまわりを犬走りが囲み、基壇下層からは地鎮に関連すると思われる土坑が検出されています。南門の東で、幅約3mの築地基壇が確認されていますが、これが伽藍全体を囲んでいたかどうかは判明していません。


伽藍造営に際して最大で2m近い大規模な造成が行われたことが判明しています。主要堂宇のうち地山の上に造営されているのは金堂のみで、塔や講堂は建物のおよそ3分の1が整地土の上に造営されています。
跡地の東に位置する一岡神社の裏手で、落ち込んで行く地形を確認することが出来ます。中門跡の西側や回廊跡の北東で見られるこれらの傾斜は、本来の地形が時を経ることで再び現れたと考えられるかもしれません。大規模な造成の様子は、跡地西側に設けられた整地層復元室で見ることが出来ます。

海会寺からは、吉備池廃寺式と川原寺式の2系統の7世紀代の軒丸瓦が出土しています。

吉備池廃寺出土品             海会寺出土品
       (藤原宮資料室)          (泉南市埋蔵文化財センター)

吉備池廃寺式軒丸瓦は、吉備池廃寺や四天王寺から出土しています。海会寺出土の吉備池廃寺式軒丸瓦は、上記の2寺と同笵で、吉備池廃寺から四天王寺へ渡った瓦笵(瓦を作る型)2個のうちの1個が海会寺にもたらされたことが分かっており、この瓦は、主に金堂に使用されたと推定されています。


海会寺出土品
(泉南市埋蔵文化財センター)
左の瓦当は、蓮弁が細く尖っているうえに外縁に重圏文の表現が見られないなどから、吉備池廃寺式を意識して作成された海会寺独自の文様だと考えられています。

吉備池廃寺は、『日本書紀』舒明11年(639)に「大寺と大宮を作らせる」とある百済大寺だと推定されていますので、同笵の瓦を用いた海会寺も7世紀半ばをそう下らない時期に建立が開始されたと考えられます。

川原寺式軒丸瓦は、塔・講堂・回廊などに使用されたとされています。


海会寺出土品
(泉南市埋蔵文化財センター)

川原寺式軒丸瓦は、斉明天皇の菩提を弔うために天智天皇が建立したとされる川原寺をはじめ、滋賀の南滋賀町廃寺や穴太廃寺、崇福寺といった天智天皇が飛鳥から都を遷した近江の寺院や、美濃・尾張など天武天皇との縁のある地域でも使われていた文様になります。

独尊塼仏や方形三尊塼仏、塑像の破片などが多数出土しています。方形三尊塼仏は、椅子に腰かけて定印を結ぶ中尊と立位の脇侍、上方には天蓋とその左右に天女が浮き彫りにされています。


     海会寺出土品          川原寺裏山遺跡出土品
 (泉南市埋蔵文化財センター)     (明日香村埋蔵文化財室)
海会寺の方形三尊塼仏は、飛鳥の橘寺や川原寺と同系とされ、サイズから橘寺→川原寺→海会寺の順で踏み返しされたものではないかと考えられています。

これらの遺物は、出土した地点を基にして、それぞれ使用された堂宇が推定されています。塼仏は塔の壁面に、塑像は塔内部と光背をもつ大きめの塑像が金堂に安置されていたと推定されています。この他にも鴟尾片・風鐸・鍍金の施された相輪の部品(水煙・九輪)・銅製露盤など多くの遺物が出土しています。これらの遺物のうち302点が国の重要文化財に一括指定されています。
大阪府南部の泉州地域にも多くの古代寺院跡が存在しますが、海会寺のように瓦や塼仏など7世紀中頃の中央を思わせる遺物や遺構は確認されていません。


生産遺構として、瓦窯5基と鍛冶炉1基が確認されています。そのうち最も古いものは、7世紀中頃と推定される講堂下層で確認された瓦窯1基と鍛冶炉になります。これらは、塔や金堂の造営に必要な部材を生産するためのものだと考えられます。寺域の西側では粘土採掘抗が確認されており、海会寺造営当初の瓦は、主に寺域内で生産されていたと考えられるようです。

寺域南東の斜面には3基の瓦窯が設けられ、主要伽藍が完成後の8世紀前半から末に掛けて順に操業し、海会寺の補修瓦を生産していたと推定されていますが、中には海会寺では確認されていない平瓦などが出土していることから、他寺へ瓦を供給していた可能性も考えられています。また、寺の西側では宅地開発に伴い平安時代のものと思われる瓦窯が1基確認されています。

寺の周辺で瓦窯や鍛冶炉などの生産遺構が確認される例は、飛鳥地域を例にあげれば、飛鳥寺・豊浦寺・川原寺・橘寺・檜隈寺などでそれぞれの寺院に付随する瓦窯が発見されています。また鍛冶炉などの金属工房跡や鋳造遺構も、川原寺・橘寺・檜隈寺などで確認されています。これらのことから、寺院造営やその後の補修などに必要な物資は、寺域周辺で生産し入手するのが通例だったと考えられます。


8世紀初頭の居館跡
跡地の東に広がる平坦地には、7世紀初頭から9世紀初めまでの11期に分類される集落跡があります。なかでも8世紀初頭には、東西棟の大型建物を中心とする建物群が確認されています。

南面に庇を持つ東西6間(13.8m)・南北3間(7m)の東西棟の正殿と、正殿と柱列を合わせて建てられた南北5間(11.8m)・東西2間(5m)の南北棟の脇殿が西側にあります。また、正殿の東側にも同じように柱列を揃えた塀や建物跡が検出されています。

このように一定の企画性を持って建物が整然と建ち並ぶ様子は、一般的な集落ではない「官衙風配置」と考えられることから、海会寺創建に関わる豪族の居館ではないかと推測されています。



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一岡神社(一丘神社)

海会寺跡の東に鎮座する一岡神社は、別名祇園さんとも呼ばれています。

建速須佐之男尊を主祭神とし、稲田姫尊、八王子命を合祀、境内社としては厩戸王子神社、市杵島姫神社、牛神神社などが祀られ、和泉国日根郡の大社で、後に正一位の神階を受けたとの記録が残ります。 

社伝には、欽明朝の創建で、推古朝に聖徳太子により建てられた海会寺の鎮守神として崇敬をうけたと記されているようです。また、行基が神社南方にある海営宮池を築造する際に、同時に一岡神社と海会寺の修繕を行ったとも伝わります。

天正5年(1577)の織田信長の兵火に遭い焼失するも、文禄年間には社殿の再建を果たしたようです。境内に残る手水鉢は、海会寺の礎石を転用したものだと伝わります。

一岡神社の「一」は、「市」の転訛だとする説もあり、近隣に「市場」の地名が残ること、境内社とし市杵島姫神社が祀られていること、神社北西の厩戸王子の名が「駅家」の転訛だとする説があることなどから、付近が古代から市の立つ交通の要所であったと考えることもできるかもしれません。
境内の東側には、知恵之神が祀られ人々の信仰を集めています。


知恵之神



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四至畿内と四畿内制

「畿内」という表現が初めて『日本書紀』に登場するのは、大化2年(646)になります。この年発せられた改新の詔の中に「初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする」とあります。
この時の畿内とは「東は名墾の横河、南は紀伊の兄山、西は赤石の櫛淵、北は近江の狭狭波の合坂山」という四至(東西南北の境界)によって定められたものでした。

都を起点として、のちの関にあたるような境界となる地点を設定することにより、内と外がひとまず意識されるようになったと考えられます。


7世紀中頃のこれらの動向を考えると、海会寺は、難波遷都と四至畿内の設定に伴い南の紀伊への要として創建されたと考えることが出来るのではないでしょうか。

その後、『日本書紀』では、天武5年(676)4月14日に、「畿外の臣・連・伴造・国造の子にも朝廷への出仕を許す」とする記事の中に「畿外」の文字、同年5月には「南淵山・細川山の草木を禁ずる」に続いて「畿内の山野の無断伐採や焼くことを禁じる」とする記事の中に「畿内」の文字が見られます。持統6年(692)には、「四畿内の人民の荷丁の当年の調役を免じる。」と言う記事が見られ、初めて「四畿内」という言葉が登場します。

畿外の言葉が初めて使われた天武5年は、天武天皇が新城を造ろうとしたとされる年にあたることから、天武朝・飛鳥浄御原宮の頃には、既に国単位の畿内制が成立していたとする説もあり、先にあげたように、これ以後『日本書紀』には、これらの文字が散見されるようになります。



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和泉の由来と和泉国の成立

「いずみ」の名は、「綺麗な水が湧き出るところ」に由来すると言われています。


大阪府和泉市にある泉井上神社の境内には、名の由来となったとされる霊泉「和泉清水」があり、大阪府の史跡に指定されています。和泉井上神社の縁起には、神功皇后が行幸した際に、急に清水が湧き出して泉となったことを瑞祥として、以後、霊泉として祀られるようになったとあります。
「和泉」の字は、和銅6年(713)に出された国郡郷名は二字の嘉名をつけるようにとの命により、それまでの「泉」から「和泉」に改称されたようです。

『続日本紀』霊亀2年(716)、河内国から大鳥郡・和泉郡・日根郡の三郡が割かれ、特別行政区画の和泉監とされたとの記載があります。その後三郡は、天平12年(740)の和泉監の廃止に伴い河内国に戻され、天平宝字元年(757)に再度河内国から分国されて和泉国となります。一郡の名称であった和泉は、その後、大鳥・和泉・日根の三郡をまとめた国名としても使用されることになりました。

平城京南面東門が調査された際に、天平元年(729)や同3年(731)と記載された木簡と一緒に「和泉国和泉」と記された木簡が出土しています。この木簡の存在は、和泉が正式な国としての成立する以前から、領域名として既に認知されていたことをあらわすのかもしれません。

霊亀2年(716)4月の和泉監の設置は、離宮(和泉宮)造営に関わるものだと言われています。元正天皇の時代に置かれたこの離宮は、和泉国府跡に指定されている泉井上神社付近に所在したと推定されています。

和泉監設置の約一月前「河内国の和泉・日根の両郡の一部を割いて、珍努宮に仕えさせる」とあることから、珍努宮と和泉宮は同じ宮をさし、3月のこの記事は宮の造営準備に関するものだとする説もあります。

しかし、『続日本紀』には、短期間の間に「珍努宮」「珍努離宮」「和泉宮」「和泉離宮」の異なる表記が見られることから、同じ宮を異なる名称で呼ぶのは不自然だとし、それぞれが違う宮(離宮)として、存在していたとする説もあります。
元正天皇は、即位から崩御するまでの約30年間に、これらの宮に合わせて5回行幸しています。



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和泉国成立以前 ― 茅渟

現在の大阪湾は茅渟海(チヌノウミ)と呼ばれ、海に面した東岸一帯は、漠然と「チヌ」と呼ばれていたことが『日本書紀』や『古事記』、『万葉集』などから知ることが出来ます。文字は「茅渟」のほか、「珍努」「血沼」「千沼」「陳奴」「陳努」「珍海」など実に様々な字があてられ、神武東征や崇神天皇や允恭天皇の時代の逸話に何度か登場します。また、それらの逸話には、石上神宮や大神神社の祭祀に関わるものもみられ、古代のこの地域の特異性のようなものが見え隠れするようにも思えます。

また、「チヌ王」と名乗る人物が飛鳥時代と奈良時代にそれぞれ一人ずつ、「チヌ女王」の名が奈良時代に確認できます。
飛鳥時代のチヌ王(茅渟王)は、押坂彦人大兄皇子の子で、皇極・孝徳両天皇の父・舒明天皇には異母兄弟にあたる人物になります。奈良時代のチヌ王(智努王)は、長親王(父:天武天皇)の子で、後に臣籍降下して文室浄三と名乗ります。恭仁京や紫香楽宮の造営に携わるなどし、従二位まで上ったとされています。

チヌ(智努)女王は、『続日本紀』に二回の昇叙の記事が見え、最終的に従三位まで上ったとされています。元明朝に斎王として伊勢に一度に赴いたとする史料もあるようです。また、長屋王家木簡の中に「チヌ若翁」と読める木簡があることから、長屋王に扶養される立場にあった女性であろうと推測されています。
古代、皇族の名には、養育氏族の名を冠する例が多いと言われていますので、これらの「チヌ王・女王」の養育に当たったのが「チヌ」を名乗っていた可能性、そこからこの地域と天皇家の関わりを探ってみるのも面白いかもしれません。


神武東征と血沼
神日本磐余彦尊(神武天皇)が、生まれ育った九州の日向から東へ東へと大和を目指して進んでいく時のお話です。

『古事記』と『日本書紀』では、若干表現が異なるのですが、九州の日向から筑紫・安芸・吉備と在地勢力を制圧しつつ進み、難波から上陸を果たしますが、草香の白肩津から生駒越えで進軍しようとした時に、五瀬命(神武の兄)が、敵の長髄彦軍の矢にあたり負傷し、やがて命を落としてしまいます。

傷の悪化した五瀬命が雄叫びをあげて亡くなったことから、その場所は、「雄水門(おのみなと)」と名付けられたとされ、『日本書記』には「茅渟の山城水門(雄水門)」、『古事記』では「紀伊の雄水門」と記されています。『古事記』と『日本書紀』での地名表記の違いは、領域の境が現在のように固定されたものではなく、大和と紀伊の力関係で動く流動的なものであったことを表しているとする説があります。

負傷した五瀬命が近くの「山之井」で傷口を洗ったために、水面が血で染まり血の沼のようになったことから、「血沼(ちぬ)」と呼ばれるようになったと『古事記』には記されています。
泉南市の男里の天神ノ森一帯が山之井や雄水門だとの伝承が残ります。


茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)
『日本書記』崇神7年に、茅渟県陶邑に住む大田田根子が大物主神を祀るために、わざわざ探し出されたと記され、田根子は、三輪の祭祀を司った三輪氏の祖と言われています。
『日本書紀』には、大田田根子は大物主神と陶津耳(すえつみみ)の娘・活玉依毘売の間に生まれた子とされていますが、『古事記』では、意富多多泥古と書かれ、大物主の4世孫であるとされています。現在、大神神社の摂社である大直禰子神社(若宮社)に祀られています。

茅渟県陶邑は、大阪の阪南丘陵で発見された陶邑窯跡群付近をさすと考えられており、「陶邑窯跡群」の名は、「茅渟県陶邑」から名付けられた遺跡名になります。陶邑窯跡群は、東西15km・南北9kmの範囲に及び、総窯数1,000~2,000基にも上ると言われている最大最古の古窯跡群になります。

5世紀中頃に丘陵北側で始められた須恵器生産は、石津川・和田川・陶器川などの谷沿いに営まれ、地区別には大きく6つに、生産方法や窯の形態などでは大きく2つか3つに分けられます。ほぼ中央北の石津川東岸の伏尾丘陵での操業が一番早く、その後南や東に生産拡大していったと想定され、石津川西岸の窯跡周辺では、操業よりも早い時期の集落らしき跡も見つかっています。その後、古墳への副葬品の需要に対応するかのように窯数を増やしていき、陶棺や鴟尾・瓦等を焼いていた痕跡も認められるようです。陶邑での須恵器生産は平安時代頃まで続けられ、燃料となる薪を求めてか窯が徐々に南の谷奥へと移動していったと想定されています。この薪不足は深刻なもので、陶邑終焉のひとつの要因になっているとも考えられています。


茅渟の菟砥川(うとがわ)
『日本書紀』の崇神天皇39年には、崇神天皇の子・五十瓊敷命(景行天皇の兄)が菟砥(うと)川で造らせた千口の刀を石上神宮に納め(一説には、先に忍坂邑〈奈良県桜井市忍坂〉に移される)、その後、五十瓊敷命は、石上神宮の神宝を管理したとされています。
垂仁天皇87年、高齢を理由に五十瓊敷命から妹の大中姫命に移った石上神宮の神宝管理は、大中姫命の辞退により、物部十千根に引き継がれたとされています。(物部氏による石上神宮の神宝管掌起源譚)
菟砥川は、同名の川が大阪府泉南市を流れています。この河口東岸には、雄水門があったとされています。(異説あり)


茅渟宮

茅渟宮跡伝承地(泉佐野市上之郷)

『日本書紀』には、奈良時代に置かれた茅渟宮よりもはるか以前に、允恭天皇が衣通姫(ソトオシヒメ)に与えた宮が、茅渟宮だと記されています。
衣通姫とは、その美しさが着衣などを通しても充分に量れる、隠しようのないものだとして付けられた通り名のようで、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫の妹の弟姫として、『日本書紀』には登場します。

皇后の舞の後の儀礼として、弟姫は皇后から天皇に奉られたことになっていますが、弟姫の美しさに皇后は半ば仕方なく差し出したともされています。また、弟姫の方も姉の意中を察し天皇の呼び出しにはなかなか応じず、舎人の身を呈した要請の前にようやく屈して、天皇の下に参じたように描かれています。こういう経緯の中、衣通姫は当時の都から離れた藤原に住まう事になり(允恭天皇によって彼女の為に藤原部が定められています)、さらに、茅渟宮へと移されることになります。

   わがせこが くべきよひなり ささがにの くものおこなひ こよひしるしも (衣通姫)
   ささらがた にしきのひもを ときさけて あまたはねずに ただひとよのみ (允恭天皇)

   はなぐわし さくらのめで ことめでば はやくはやめでず わがめづるこら (允恭天皇)

   とこしへに きみもあへやも いさなとり うみのはまもの よるときときを (衣通姫)


捕鳥部万(ととりべのよろず)と有真香邑(ありまかむら)
捕鳥部万は、物部守屋に仕えた兵士とされています。用明2年(587)、蘇我馬子との戦いにより河内の渋川で、主君の守屋が討たれたのを受け、妻の家がある茅渟県有真香邑に逃亡しました。しかし、追撃をかわしきれずに「万は天皇の楯として、其の勇を効さむとすれども、推問ひたまはず。翻りて此の窮に逼迫めらるることを到しつ。共に語るべき者来れ。願はくは殺し虜ふることの際を聞かむ。」と叫んだ後、自害して果てます。
万の死骸は、朝廷により八つ裂きにするように命じられますが、万の愛犬が死骸の側を離れず、万の首を古い墓に納めて、誰も近寄ることを許さず、その上に伏したまま餓死してしまったということです。朝廷では、世にも珍しい忠犬だとして、万と犬を丁重に葬ることにしたとされています。
現在、捕鳥部万の墓と言われる碑が岸和田市八田町にありますが、近辺の史跡や地名を考えると、有真香邑とは、葛城山から流れる津田川東岸付近(現在の貝塚市と岸和田市)をさすのかもしれません。

この付近には、大和の有力な豪族が第二の地盤として勢力を持っていたとする説もあり、万との関わりから、それを物部氏と考えるのも面白いかもしれません。
捕鳥が訛ったと思われる「鳥取」の地名が、古代の日根郡にあたる現在の阪南市に残っているのも偶然ではないように思えます。



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関連万葉集

●茅渟
6-0999 茅渟廻より雨ぞ降り来る四極の海人綱手干したり濡れもあへむかも

7-1145 妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず

9-1809 葦屋の 菟原娘子の 八年子の 片生ひの時ゆ 小放りに 髪たくまでに 並び居る 家にも見えず 虚木綿の 隠りて居れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士 菟原壮士の 伏屋焚き すすし競ひ 相よばひ しける時は 焼太刀の 手かみ押しねり 白真弓 靫取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子が 母に語らく しつたまき いやしき我が故 ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉に待たむと 隠り沼の 下延へ置きて うち嘆き 妹が去ぬれば 茅渟壮士 その夜夢に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天仰ぎ 叫びおらび 地を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸け佩きの 小太刀取り佩き ところづら 尋め行きければ 親族どち い行き集ひ 長き代に 標にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子墓 中に造り置き 壮士墓 このもかのもに 造り置ける 故縁聞きて 知らねども 新喪のごとも 哭泣きつるかも

9-1811 墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも

11-2486 茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに

11-2486 茅渟の海の潮干の小松ねもころに恋ひやわたらむ人の子ゆゑに

●吹飯(岬町深日)
12-3201 時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹がためこそ



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関連系図



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古代寺院伽藍配置図


基壇

建物の土台部分をさし、外面は風化防止や装飾のため石材などで覆われています。これを基壇外装と呼び、基壇が二重になっているものは二重基壇(上部を上成基壇、下部を下成基壇)と言います。
外装の種類には、瓦・玉石(自然石)・切石(加工された板石)などがあり、それぞれを瓦積基壇・乱石積基壇(玉石積基壇)・切石積基壇(壇上積基壇)と呼びます。



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関連年表
西暦 和 暦 事  柄
神日本磐余彦尊(神武天皇)の兄、五瀬命が長髄彦軍より受けた傷により死去。
(傷を洗い海が血の沼のようになったことから、血沼(チヌ)と呼ばれた)
崇神 7 茅渟県陶邑の大田田根子を大物主の祭主とする
垂仁35 五十瓊敷命(イニシキノミコト)を河内国に遣わし、高石池・茅渟池を造らせた
垂仁39 五十瓊敷命、茅渟の菟砥川の川上宮で剣一先千口を造らせた
允恭 8 衣通郎女を茅渟宮に住まわす
587 用明 2 厩戸皇子(聖徳太子)、物部守屋との戦いに際し四天王像を作り戦勝を祈願。
物部守屋滅びる。守屋の側近・捕鳥部万、逃亡先の茅渟県有真香邑で討死
593 推古元 四天王寺を難波荒墓に造る
…この頃、四天王寺創建
…7C初頭 海会寺東側の平地に人々が暮らしはじめる
623 推古31 新羅の使者が献上した舎利・金塔・潅頂幡等を四天王寺に納める
639 舒明11 大宮(百済宮)と大寺(百済大寺)を造営
641 舒明13 山田寺造営開始
642 皇極元 百済大寺造営のために近江と越の人夫を動員
阿部倉梯麻呂・穂積桃百足を百済大寺の造寺司に任命。
645 皇極 4
大化元
乙巳の変。皇極天皇譲位。古人大兄皇子、吉野遁世
軽皇子即位(孝徳天皇)。古人大兄皇子殺害。難波宮遷都
646 大化 2 改新の詔。畿内の四至を設定
…この頃、四天王寺を再整備
648 大化 4 左大臣・阿倍倉梯麻呂、四天王寺の塔に仏像四躯を納める
649 大化 5 左大臣・阿倍倉梯麻呂、没。右大臣・蘇我倉山田石川麻呂、謀反の疑で自害
…650頃 海会寺金堂の建設がはじまる
652 白雉 3 難波長柄豊﨑宮完成
653 白雉 4 皇太子・上皇・皇后、百官を率いて飛鳥河辺行宮に入る
654 白雉 5 孝徳天皇崩御
655 斉明元 皇極天皇重祚(斉明天皇)
658 斉明 4 有間皇子の変
661 斉明 7 斉明天皇崩御(中大兄皇子称制)
663 天智 2 白村江の戦い
667 天智 6 近江遷都。中大兄皇子即位(天智天皇)
672 天智10
天武元
天智天皇崩御
壬申の乱。大海人皇子即位(天武天皇)
676 天武 5 畿外の臣・連・伴造・国造の子の出仕を許す。畿内の山野の無断伐採を禁じる
王卿を京・畿内に遣わし、人別に兵器を調べさせる
677 天武 6 旱魃で京・畿内で雨乞い
679 天武 8 初めて関を龍田山・大坂山に置く。難波に羅城を築く
683 天武12 複都制の詔
684 天武13 畿内に工匠らを派遣し、都の候補地を視察させる
686 朱鳥元 難波大蔵から失火、宮室全焼。天武天皇崩御
690 持統 4 京と畿内の80歳以上の者に嶋宮の稲を二十束ずつ賜る
692 持統 6 四畿内の人民の荷丁の当年の調役を免じる
694 持統 8 藤原遷都
697 文武元 持統天皇譲位。軽皇子即位(文武天皇)
…8C初頭 海会寺東側の集落に居館が建てられる
701 大宝元 大宝律令完成
702 大宝 2 持統太上天皇の病気平癒を祈願し大赦。
百人を出家・得度させ、四畿内で金光明経を講説。
707 慶雲4 文武天皇崩御。阿閇皇女即位(元明天皇)
710 和銅3 平城遷都
715 霊亀元 元明天皇譲位。氷高皇女即位(元正天皇)
716 霊亀 2 河内国の和泉・日根両郡を割き、珍努宮に仕えさせる。
河内国の大鳥・和泉・日根の三郡を割き、和泉監を置く。
717 養老元 元正天皇、難波宮から和泉宮に行幸(2月)
元正天皇、和泉離宮に行幸。河内国の今年の調を免除。(11月)
719 養老 3 元正天皇、和泉宮に行幸。
721 養老 5 左右の京及び畿内の五ヶ国に、今年の調を免じる。元明上皇崩御。
724 神亀元 元正天皇譲位。首皇子即位(聖武天皇)
紀伊の帰路、和泉国所石の頓宮に着。郡司や監正以下人民に至るまで禄を賜る。
726 神亀 3 難波宮造営開始
740 天平12 和泉監を河内国に併合。藤原広嗣の乱。恭仁京遷都
741 天平13 国分寺建立の詔
742 天平14 紫香楽宮造営。大宰府廃止。
743 天平15 墾田永年私財法制定。大仏建立の詔。恭仁京造営中止
744 天平16 難波遷都。聖武天皇、和泉宮に行幸。元正太上天皇、珍努離宮に行幸
四畿内・七道諸国は国別に正税四万束を割き、国分寺・国分尼寺に各二万束施入
元正太上天皇、珍努宮と竹原井離宮に行幸
745 天平17 大宰府復活。平城遷都
748 天平20 元正上皇崩御
749 天平勝宝元 聖武天皇譲位。阿倍内親王即位(孝謙天皇)
…750頃 海会寺東側に再び居館が建てられる
752 天平勝宝 4 大仏開眼供養
757 天平宝字元 橘奈良麻呂の乱。河内国から和泉国が分離。養老律令施行。
758 天平宝字 2 孝謙天皇譲位。大炊王即位(淳仁天皇)
764 天平宝字 8 藤原仲麻呂の乱。淳仁天皇廃帝。孝謙天皇重祚(称徳天皇)
765 天平神護元 墾田永年私財法停止
770 宝亀元 称徳天皇崩御。白壁王即位(光仁天皇)
781 天応元 光仁天皇崩御。山部王即位(桓武天皇)
784 延暦 3 長岡京遷都
794 延暦13 平安遷都
…800頃 海会寺が焼失。同じ頃東側の集落も無くなる。



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和泉周辺の古道と古代寺院



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吉備池廃寺跡

吉備池廃寺 伽藍配置図
付近では、古くから瓦片の散布が知られ、瓦窯跡が想定されていましたが、発掘調査で巨大な基壇が2基確認されたことにより、古代寺院跡であることが判明しました。跡地が江戸時代に造成された農業用溜め池である吉備池と重複していることから、吉備池廃寺と呼ばれています。

出土遺物から、7世紀前半の造営と推定され、舒明天皇11年(639)に発願された百済大寺跡である可能性が高いとされています。

伽藍は、金堂と塔を東西に配置する法隆寺式伽藍配置になります。しかし、中門が伽藍中軸線を外れた金堂と塔の南にそれぞれ想定されるという特異な形態になります。寺域は、南方で検出された東西溝2条と地形などが考慮され、東西230m・南北280m以上と推定されています。

金堂は吉備池の南東隅に接し、基壇規模は東西37m・南北28m・高さ2m以上になり、約1mの掘込地業が施されていました。塔は吉備池のほぼ南辺中央で、基壇規模は1辺約32m・高さ約2.8mと推定されています。飛鳥時代の塔は、飛鳥寺では約12m四方、若草伽藍でも約16m四方と推定されていますので、この塔基壇は、『日本書紀』舒明天皇11年12月にみえる百済大寺の九重塔とするに相応しい規模を持っていたことが分かります。心礎は残存せず、抜取穴から出土した土器の年代から7世紀後半には抜き取られていたことがわかっています。

回廊は、北面を除く三方で部分的に確認され、幅6.8mの単廊で、東西規模は約153mに復元できるようです。講堂跡は、金堂と塔の北に推定されていますが、池の掘削によって消滅してしまったのか検出されていません。この他、中門の南では南門と思われる遺構が検出されています。また、池の北方では複数の建物跡が検出され、僧房に推定されています。これが、僧房だとすれば、現在発見されている最古の僧房跡になります。


吉備池廃寺式軒瓦 (奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室展示品)

創建に使用された軒瓦は、単弁八葉蓮華文軒丸瓦と型押忍冬文軒平瓦になります。この軒丸瓦は、舒明天皇13年(641)に造営が開始された山田寺式よりも古い様相を持ちます。同笵品は、木之本廃寺(橿原市)・四天王寺(大阪)・海会寺(泉南市)などから出土しており、軒平瓦に押印された忍冬唐草文は、斑鳩寺(若草伽藍)と同笵であることもわかっています。

2012年の発掘調査では、斑鳩寺や四天王寺と同笵の素弁八葉蓮華文軒丸瓦が一点出土しました。この瓦は、斑鳩寺から四天王寺に瓦笵がもたらされたことで有名な文様になります。
吉備池廃寺出土の一点は、四天王寺の瓦よりもさらに笵傷が進行しているために、四天王寺から瓦笵か瓦自体が移動してきたと考えられていますが、吉備池廃寺の伽藍との関わりは不明です。


桜井埋蔵文化財センター収蔵品

吉備池廃寺式軒丸瓦の年代観や四天王寺や斑鳩寺との繋がりは、吉備池廃寺を百済大寺跡と考える傍証のひとつになります。
また、四天王寺との繋がりに関しては、『大安寺縁起并流記資財帳』皇極天皇元年(642)に百済大寺の造寺司に任命されたとある阿倍倉梯麻呂が関係しているとも言われています。

舒明天皇11 639 百済大寺発願・書直県を大匠とする 日本書紀
百済大寺発願
九重塔と金堂の石鴟尾を焼破
大安寺縁起
皇極天皇元 642 百済大寺の南の広場で大雲経等を読ませる
大寺建立のため近江と越の人夫を動員
日本書紀
白雉 2 651 袁智天皇(皇極)、繍仏を百済大寺に施入。 大安寺縁起
阿倍倉梯麻呂・穂積百足を造寺司に任命 大安寺縁起
天智天皇 7 668 丈六釈迦仏ほか諸像を百済大寺に安置 扶桑略記
天武天皇 2 673 美濃王・紀臣訶多麻呂を造高市大寺司に任命 日本書紀

百済大寺は、寺名の変更を繰り返しつつ、一貫して官の大寺であり続けた様子が史料から窺えます。

推古・皇極と飛鳥時代の女帝に挟まれ記録のうえでは影の薄い舒明天皇ですが、百済大寺はその規模だけでなく、伽藍配置や瓦の文様なども前代と一線を画そうとしたように思えます。飛鳥の地を離れ、新たな技術で新たな意匠の大宮と大寺を造営しようとした舒明天皇の目指したものとは、いったいなんだったのでしょう。

吉備池廃寺では、瓦の出土量が少なく、礎石や基壇外装用の石材なども検出されていないことから、完成せずに移築されたとする説もあり、まだまだ多くの謎を残します。



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四天王寺

大阪市天王寺区四天王寺に所在し、聖徳太子建立七ヶ寺のひとつとされています。
山号を荒陵山と言い、戦後まもなく天台宗から離れて和宗を創立しその総本山となっています。
境内は、甲子園球場の3倍にあたる面積を持ち、塔や金堂などの主要伽藍をはじめ多くの堂が建ち並び、現在も太子信仰の場として法灯を繋いでいます。

『日本書紀』には、用明2年(587)の物部守屋と蘇我馬子との戦いの際に、蘇我氏側にいた聖徳太子が自ら彫った四天王像に戦勝を誓願・勝利したのち、摂津国に四天王寺を建てたとあり、その6年後の推古元年(593)に「この年はじめて四天王寺を難波荒墓に造る」と記しています。
平安時代前半に成立したとされる『聖徳太子伝暦』には、「玉造の岸のほとり」に創建された四天王寺を593年に現在の場所に移したと記されています。

四天王寺は、古代から度重なる戦火や災害を受け、焼失と再建を幾度となく繰り返しており、現在見られる主要伽藍は、昭和38年(1963)に耐火性に優れた鉄筋コンクリート造りで、飛鳥時代の様式を再現して再建されたものです。

伽藍は、堂宇を南北一直線に並べる四天王寺式伽藍配置で、韓半島に起源をもつと言われています。

塔は、一辺11.5mを測り、心礎は、地下式心礎で基壇上面から3.5m下に埋められていたと推定されています。創建時は、凝灰岩製の基壇外装で、階段の痕跡も一部に認められているようです。

金堂は、東西18m・南北15mを測り、外装は塔と同じく凝灰岩製の切石であった可能性が指摘されています。また、南北面の中央に階段の痕跡が認められています。

講堂は、東西32m・南北15mを測り、凝灰岩製の檀上積基壇であったと推定されています。
また、講堂跡の発掘調査では、玉虫厨子などに見られ飛鳥時代の建築様式だとされている扇垂木が検出されています。


軒裏に見える扇垂木と雲形斗供

中門は、東西15m・南北12.5mの瓦積基壇であったとされています。南門は、東西14.5m南北12mの瓦積基壇で、他の堂宇に遅れて奈良時代頃に完成したと考えられています。下層から2期に渡る掘立柱列が検出されており、寺域や奈良時代以前の門が存在した可能性も考えられるようです。

回廊は、東西71m・南北101mの単廊で、中門から主要伽藍を囲むようにして講堂に取りついています。基壇外装は、他の堂宇同様に凝灰岩が用いられたようですが、東西の脇門より南の部分だけ瓦積基壇が採用されたようです。(四天王寺は、焼亡と再建を繰り返しているため、創建時の伽藍の様子は、発掘調査成果及び再建時のデータより推定されたものがあります。)

斑鳩の若草伽藍の金堂に使用されたものと同笵の素弁八弁蓮華文軒丸瓦が出土しています。笵傷が若草伽藍よりも目立ち、中には文様の判別が付かないほど摩滅したものまであることから、四天王寺では同じ瓦笵が大事に使用され続けたことがわかります。

この瓦は、枚方市・八幡市に跨る樟葉・平野山瓦窯で生産されたことが分かっており、同窯で焼かれた須恵器の年代から7世紀第二四半世紀前半頃のものと推定されています。
『日本書紀』推古31年(623)に、新羅の使者が献上した金塔・舎利・潅頂幡などを四天王寺に納めたとの記事があり、瓦の年代観と合わせるとこの頃までには寺院としての機能は果たしていたと考えられます。

さらに四天王寺からは、吉備池廃寺や海会寺と同笵の軒丸瓦も出土しています。吉備池廃寺から四天王寺には2個の瓦笵が伝わり、そのうちの1個が泉南の海会寺に渡ったと考えられています。

吉備池廃寺が舒明11年(639)に造営が開始された百済大寺と推定されていることや、『日本書紀』大化4年
(648)に左大臣の阿倍倉梯麻呂が四天王寺の塔に仏像四躯を安置したと記載があることなどから、孝徳朝の難波遷都に伴い、7世紀中頃に吉備池廃寺式軒丸瓦を用いて再整備されたと考えられています。



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海会寺周辺マップ


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
和泉砂川駅舎 熊野街道 熊野参詣と九十九王子
信達宿本陣跡 角谷 真如寺 海営宮池
海会寺跡 一岡神社 四至畿内と四畿内制
和泉の由来と和泉国の成立 和泉国成立以前 ― 茅渟 関連万葉集
関連系図 古代寺院伽藍配置図 ・ 基壇 関連年表
和泉周辺の古道と古代寺院 吉備池廃寺跡 四天王寺
海会寺周辺マップ 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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