飛鳥咲読
第53回定例会
うみにあうてら
―海会寺―
Vol.226(15.10.16.発行)~Vol.229(1511.27.発行)に掲載
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【1】 (15.10.16.発行 Vol.226に掲載) もも
第53回定例会は「うみにあうてら―海会寺-」と題し、大阪府泉南市で現地講座を開催することになりました。今回の講師を務めてくださるのは、泉南市教育委員会の岡一彦先生♪両槻会の定例会に参加された方には、もうすっかりお馴染みの先生ですよね。
岡先生は、昨年の春の第44回定例会では「心の目で見る」という名言を残してくださいましたし、今年3月の第49回定例会「吉野山から宮滝へ」では、企画段階から色々とご相談に乗って頂いたうえに、当日の解説までお願いするという無謀ぶり。お世話になりっぱなしの両槻会は、とうとう調子に乗って「岡先生に丸ごとおんぶに抱っこの企画」を立ててしまいました。(^^ゞ
両槻会が、定例会で奈良県外に出るのは今回が初めてになります。「そこまで行かなくても、まだ飛鳥にまつわる場所はいくらでもあるだろう?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、すいません、今回はついてきてください(笑)。
飛鳥遊訪マガジンの読者は、日本各地にいらっしゃいますので、泉南市と言われてもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんね。泉南市は、三日月形をした大阪府のちょうど下の細くなる辺り、古代の律令制下では、和泉国と呼ばれた地域の南の方になります。
さて、今回訪れるのは泉南市にある海会寺跡です。「海に会う寺」と書いて「かいえじ」と読みます。実はこのお寺、「海会寺跡」と呼ばれてはいますが、創建時には何と呼ばれていたのか分かっていないそうで、海会寺の名前は、どんなに頑張っても江戸時代までさかのぼるのがやっとのようです。・・・もう、江戸時代には海会寺は跡地になってるんですけどね。^^;
でも、付近に何らかの遺跡が広がっていることは、早くから知られていたようです。泉南市教育委員会による1983年から4年間にわたる学術調査により法隆寺式伽藍配置であることなどが判明し、1987年には国史跡に指定されました。また1995年には、発掘調査で出土した遺物のうち300点余りがまとめて、国の重要文化財指定を受けたのだそうです。
300点余りがまとめて重文指定を受けたなんて、これだけ聞いても凄いところだと興味が湧きませんか?
古代の名前が分からず記録がなくても遺構や遺物がありますから、この地に1つのお寺が建っていたことに間違いはありません。ホント、モノがあるって強いです。
今回の定例会では、集合場所であるJR阪和線の和泉砂川駅から現地講座の開催場所である史跡海会寺跡広場まで、熊野街道を歩きます。この道は、古代には難波宮から紀伊へ抜ける幹線道の南海道、中世には熊野三山への巡礼の道として熊野街道、近世には紀州藩の参勤交代の道として紀州街道と、時代によって呼称は変わっていますが、ほぼ同じ道筋だったと言われています。事前散策と言うほどの距離でもありませんが、街道沿いも岡先生に少しご案内頂きながら歩く予定にしていますので、こちらも楽しみになさってください。
【2】 (15.10.30.発行 Vol.227に掲載)
今回の咲読を もも が書いていると言うことで、場所が泉南になろうとも・・・の瓦話です。(笑)
海会寺の創建に使用されたと考えられている瓦当文様は、飛鳥好きの皆さんにもお馴染みの瓦になると思います。
まず1つ目は、第53回定例会の講師を務めてくださる岡先生がお書き下さった特別寄稿でもご紹介下さっている、吉備池廃寺式の軒丸瓦。
吉備池廃寺式は、百済大寺に推定されている吉備池廃寺で使用された瓦の文様になります。百済大寺の創建は、『日本書紀』舒明11年(639)に「大寺と大宮を作らせる」とあることから、この瓦当文様も当然その頃に作り出されたと考えられます。
吉備池廃寺式軒丸瓦
(左:吉備池廃寺出土品/藤原宮資料室・右:海会寺出土品/泉南市埋蔵文化財センター) |
海会寺のこの瓦は、吉備池廃寺から四天王寺に渡った2個の瓦笵のうちの1個が海会寺にもたらされたと考えられるようです。
さて、吉備池廃寺と海会寺の瓦、同笵だとされているのにパッと見た時の印象が違います。画像を見比べて頂くと中房の中にある連子の趣が違うのが分かると思います。吉備池廃寺の方は小さな珠点だけなのに対して、海会寺の方は珠点が二重になっているように見えます。裁縫の好きな方ならスパンコールに、DIYの好きな方ならネジとワッシャーのように見えませんか?(笑)これは、粘土の詰め方に違いがあるからなんだそうです。瓦笵に一度に粘土を詰めた吉備池廃寺と違って、海会寺では、先に中房内の連子の1つずつに小さな粘土を詰めてから、中房や瓦全体に粘土を詰めたと考えられるんだそうです。同笵や製作技術の違いは、私たち素人にはなかなか分からないものですが、この瓦の違いは一目瞭然だと思います。
さて、もう一種類の瓦は、川原寺式軒丸瓦になります。皆さんも、よくご存じの飛鳥の川原寺で使用された瓦になります。この文様は、川原寺のほか、滋賀の南滋賀町廃寺や穴太廃寺、崇福寺といった近江の寺院や尾張の寺院でも使われた文様で、天智朝から天武朝にかけて主に使用された瓦当文様になります。
川原寺式軒丸瓦(海会寺出土品) |
泉南市埋蔵文化財センターでこの瓦を見た時、「外縁が斜めで面違いになってる!」と思わず呟いて(もしかして叫んだかも?(^^ゞ)、案内して下さっていた岡先生に「なんとマニアックな反応」と苦笑されたことがありまして・・・。(^^ゞ
この類の瓦は、川原寺式軒丸瓦の中でも古い様相のものになるはずなんです。同じ形の瓦なんだから、古いも新しいもなく影響を受けていることに変わりないと思われるかもしれませんが、古い様相を持つということは、それだけ本家本元と近い関係にあったとも言えます。これが、飛鳥や難波、近江などの都のあった付近の寺院跡から出土したのなら、「ほぉ、なるほどねぇ~」で済むかもしれませんが、飛鳥から直線距離でも約50kmも離れた場所、もう少し行けば紀伊と言う場所にあった寺院からの出土というのが、面白いじゃないですか。
瓦は、「その文様の瓦を使いたいねんけど・・」「ええよ」なんて簡単に使えるようなものじゃありません。まして、天皇家勅願の寺と同じ文様となると、そこには朝廷の意向があったとするのが自然です。なのに、記録に残っていない謎の寺、それが海会寺です。
同じような瓦は、飛鳥近辺で気楽に見られるかもしれません。でもだからこそ、現地に赴いて飛鳥からの距離を実感して、これら遺物の意味を考えて頂けたらと思うのです。「何が出た」だけではなく、「何処で出た」ということも大事な要素の一つだとσ(^^)は思うのです。
一緒に海会寺の謎を考えてみませんか?皆さんのご参加お待ちしております♪
【3】 (15.11.13.発行 Vol.228に掲載) もも
今号では、前号でご紹介した瓦にそれぞれ年代を当てはめて、海会寺のことを考えてみようかと思います。
まず、吉備池廃寺式の瓦が創出されたのは639年前後、それが四天王寺に伝わったのは孝徳朝の難波遷都の頃だと言われていますので、海会寺で使用されたのは650年頃と考えられ、これが瓦から見た海会寺の創建年代ということになります。
もう一つの川原寺式の瓦は、天智朝に創出され天武朝の初期の頃まで使用されていましたので、660年~670年代に当てはめることが出来ます。これを天武天皇の複都制の詔(683年)の頃まで下げることが出来たら面白いなぁ~と思ったんですが、海会寺の川原寺式はかなり古い様相を持っているので、ちょっと無理かもしれません。(^^ゞ
海会寺が創建された頃の歴史を見てみると、645年に起こった乙巳の変、そのすぐ後に難波へ遷都、改新の詔が発せられ、乙巳の変から10年後の655年には、都がまた飛鳥へと戻っています。
難波遷都の翌年に発せられた改新の詔に、「初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。」という文言があります。中央集権へ向けての地方行政や交通網の整備などを定めたものです。この時同時に、「東は名墾の横河、南は紀伊の兄山、西は赤石の櫛淵、北は近江の狭狭波の合坂山」という畿内の四至が定められています。この時は、まだ後に定められる四畿内(大和・河内・摂津・山背)や五畿内(大和・河内・摂津・山背・和泉)などの国を基準とした領域設定ではなく、境界となる地点が定められただけのようですが、畿内という概念を示したことには違いありません。ちなみに「畿内」という言葉使われたのもこの時が初めてのようです。
難波を中心とした国づくりを進めようとしていた時期に、海会寺は河内国の南端日根郡のオオ郷という小さい郷内に造営されています。また、海会寺跡の南西にある男里遺跡では、7世紀中頃から8世紀頃の掘立柱建物が検出されていて、南海道の駅家であるオオ駅にあたるのではないかとされています。このオオ駅は、難波から紀伊への最短の陸路だと考えられる道筋にあたることから、重要地点として駅が置かれたのではないかと考えられているようです。
「紀伊への道」と聞くと、紀路や巨勢路を思い浮かべる方も多いと思いますが、それは、飛鳥に都があればこその話で、都が遷れば当然道の起点も変わるはずです。海会寺跡の近くには、現在も走っている熊野街道は、時代によって若干ブレながらも、古代からほぼ同様のルートで海岸線と並行するように存在していたと考えてられています。
難波を南下して紀伊に向かう陸路の最南端付近に当たっていること。これが海会寺建立の本来の意味なんじゃないかとσ(^^)は思っています。実際に、飛鳥でも山田道沿いや下つ道沿い、河内でも竹ノ内街道や東高野街道などの主要な道に沿うように建てられた古代初期寺院は多くあります。天を突く五重塔と瓦葺き建物、そして周囲を厳重に囲む塀。これはもう、平地にある砦以外の何物でもないように思いますし、天皇の代替わりや都遷りに関わりなく進められたと思える海会寺の造営は、御代変わりしてもなお、ここが重要な場所に変わりなかった証ではないかと思えるのですけど、皆さんはどう思われます?
飛鳥を中心に歴史を見ていると、あまり表舞台に登場しない地域ですが、『日本書紀』の古い時代の逸話には、ちゃんと登場しているんですよね。天皇自ら猟遊に出掛けたり、宮(離宮)が置かれたりする辺りが、ちょっと吉野と共通しているように思えます。特別行政区域の「監」も和泉と吉野だけです。そういう意味でもとても興味を惹かれるσ(^^)なのです。
【4】 (15.11.27.発行 Vol.229に掲載) もも
第53回定例会の開催が明日に迫りました。お申込みくださった皆さんの中には、JRの阪和線なんて乗ったことないと言う方もいらっしゃるかもしれませんけど、集合場所など間違わないようにお集まりくださいね。明日は一日よろしくお願いします。m(__)m
もう明日には、岡先生から詳しいお話が聞けるのですから、この期に及んで、σ(^^)がジタバタしても始まりません。ということで、今号はめちゃ気楽に書いてみようと思います。ま、前号までと大差ないと思いますが。(^^ゞ
古代の和泉地域は、飛鳥のように都こそ置かれることはなかったものの、奈良時代に特別行政区である「監」が一時期置かれていました。この監は、主に離宮の管理維持のために設けられたとされるのが一般的な説ですが、同じく監の置かれた吉野は、風光明媚であったことに加えて丹(水銀)が取れることから重要な地だとされたともされます。じゃあ、きっと和泉にも何か特別な産物があったんじゃないかと思うんです。奈良時代にこの地に離宮を置いた元正天皇は、霊水を好んだとする説もあるようですが、どうもそれだけでは、押しが弱い気がします。(笑)
チヌと言う言葉を聞いたことがおありでしょうか。飛鳥の歴史で「チヌ」と言えば、皇極天皇と孝徳天皇の父親である茅渟王がまず浮かぶと思いますが、古代、大阪湾は茅渟の海とも呼ばれ、万葉集にも数首登場します。また、チヌとは茅渟の海(大阪湾)に面した東側の地域を指す名称でもありました。前号で、この地域が『日本書紀』の古い時代の逸話に登場するとご紹介しましたが、その名前がこのチヌになります。
『日本書紀』をうんと遡ると、崇神天皇の御代に、三輪山の祭祀を司るために大田田根子が茅渟県陶邑から探し出され、崇神天皇の子の五十瓊敷命は、茅渟の菟砥(うと)川で、千の刀を作り石上神宮に納めたとされています。出雲の大物主に絡んで登場する陶邑は、古代から須恵器の一大生産地とされたところで、須恵器は祭祀には欠かせないものだとする説もあるようです。とすれば、石上神宮と絡む菟砥川は、その付近に刀鍛冶に関わるなにか重要な鉱石が取れたり、技術を持つ工人がいたのかもしれないと思いました。で、あれこれ探しては見たんですが、これと言った成果はなし。ホント、下手の考え休むに似たり・・・世の中、そんなに甘くはなかったです。(>_<)
でも、大物主と石上神宮、祭祀絡みの記事に茅渟が出てくるのが物凄く気になるんですよね。時の王朝に必要だったのはこの地域の「何」だったのか・・・。
とまぁ、海会寺から派生して、古代の和泉地域のことは勿論、時代は飛ぶし、畿内もややこしいし、道はもっと面倒だし、色んなものがただグルグルと頭の中で渦巻いているだけの期間が物凄く長かったです。少しは資料にも反映出来たものもあるかと思いますが、寺や瓦など今まで一つずつに拘り過ぎてたツケを、今回多いに食らったような気がします。歴史って繋がってナンボなんですよね。(泣)
なんだか、担当としては泣き言を言っているだけの咲読最終回になってしまいましたが、明日の定例会で一日通して案内して下さるのは、岡先生ですから、皆さん心置きなく楽しんで頂けると思います。
何より、σ(^^)が一番楽しみにしています。海会寺に恋焦がれて早十年。ようやく願いが叶いました。^^
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