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Vol.005(08.1.4.発行)~Vol.033(08.10.17.発行)に連載

高松塚古墳雑考


 明日香村教育委員会文化財課 主事 相原嘉之先生

明日香村公式ホームページ



石室解体が完了した高松塚古墳について、昭和47年の調査から、
これまでの経緯や成果について紹介したいと思います。


飛鳥美人の微笑み
高松塚を守る科学
高松塚古墳の発掘現場から
高松塚古墳を掘る
高松塚壁画 救出
高松塚を揺るがす大地の記憶
高松塚壁画に忍び寄る微生物の影
高松塚古墳がもたらす文化財の未来



【1】 「飛鳥美人の微笑み」  (08.1.4.発行 Vol.5に掲載)

 真っ暗な暗闇の中をのぞき込む。静寂な空間。徐々に目が慣れてくると、天井から根が垂れ下がって、水滴が光っている。壁に何か色の付いたものが……。そこに陽の光が差し込んだ。こちらに向かって微笑む「飛鳥美人」が出現した。
 昭和47年3月21日正午すぎ。奈良県高市郡明日香村平田で調査していた網干善教氏は目を疑った。これまでの日本ではなかった壁画古墳の発見は、新聞一面カラーで掲載されました。昨今でこそ、新聞の一面を考古学の記事が飾ることも珍しくなくなりましたが、当時はまだ考古学や遺跡が一般に認知されておらず、その意味でも高松塚壁画の発見は重要な役割をはたしていました。
 石室の中に描かれていたのは星宿図・日月像・四神図、そして男女人物群像です。天井の星宿は古代中国思想に基づいて描かれもので、皇帝たちの住む天極や二十八宿の星座が描かれています。これらの星座と地上界は連動しており、天文を観察することによって、時の為政者は地上で政治を行っていたのです。四神図も同じ思想の基に描かれています。二十八宿がそれぞれ東西南北の4方向の7宿ずつで四神となっており、四方を具象する動物とされています。これが高松塚壁画のモチーフです。この他に、男女人物群像が描かれています。カラフルな服装をし、様々な道具を手に持っています。優雅に談笑しながら、歩いている姿から、当時のファッションがわかり、飛鳥時代に想いを描く道先案内人にもなりました。私たちは彼女たちに「飛鳥美人」とキャッチフレーズがつけたのです。
 飛鳥美人は私たちに大きな驚きとロマン、そして遺跡や文化財の大切さを教えてくれました。これは同時に明日香村が文化財と共に生きることを決定づける出来事でもあります。この飛鳥美人の微笑みを絶やさぬように、私たちは努力をしていくのです。



【2】 「高松塚を守る科学」  (08.1.18.発行 Vol.6に掲載)

 1300年の眠りから目覚めた飛鳥美人たちは、まさに奇跡の出現でした。このような貴重な文化財は、明日香村や奈良県という地方公共団体だけで保存できるものではなく、国にその保存・管理を委ねることになったのです。
これをうけて文化庁では、国家プロジェクトとして壁画保存に乗り出したのです。しかし、我が国では古墳壁画の保存や修理は未経験のことで、知識も技術もありませんでした。そこでイタリアをはじめ各国から多くの専門家の意見を聞きました。その保存の基本方針となったのは、美術的には濡れ色をした壁画が重要であること、壁画は古墳の中の現地にあってこそ意味があるという点です。つまり、壁画の現地保存が決定したのです。
 では現地に保存する場合、壁画保存に何が大切なのでしょうか。試行錯誤をしながら得た結論は、1300年間壁画を守っていた環境、つまり発掘調査前の環境(温度・湿度)を維持し、剥落の危険がある箇所を修理することです。壁画は石壁に塗られた漆喰に描かれています。湿度が下がると漆喰の剥落する可能性が高くなり、温度が上がるとカビなどの発生する確率が上がります。しかし、地中温湿度は年間を通じて多少の変化はあるものの、ほぼ一定であるので、これらの点に関しては大きな問題はありません。しかし、剥落止めや定期点検時には人が中に入る必要があります。いきなり石室を開口すれば、外気が流入し、温湿度変化は免れません。そのために石室の前に「保存施設」を建設し、緩衝空間を作ったのです。当時考えられた知識や技術を投入して、壁画の保存・管理を行ったのです。
 こうして35年前の私たちは壁画を現地で保存することを決め、施設を作り、修理・点検を続けてきました。しかし、35年間の時間は長く、この時間の中で、多くの課題が積もってきましたが、誰も気づかなかったのです。    



【3】 「高松塚古墳の発掘現場から」  (08.3.7.発行 Vol.12に掲載)

 昭和47年3月21日、明日香村平田にある高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されました。しかし、35年を経た今日、石室内にカビが発生し、壁画が劣化していることが判明しました。各分野の様々な検討の結果、発掘当時と比べて石室内での温度・湿度に変化が現われ、カビの発生が収まりきれない状態が続きました。そこで壁画を守るために、石室を解体して壁画を修理するという苦渋の選択をしたのです。
 我が国の文化財保護行政上、はじめて壁画を守るために石室の解体修理をすることになりました。このプロジェクトを成功させるために、石室を露出させ考古学的な記録をとる発掘班、石室を解体し、修理施設に運ぶ解体班、カビなどの微生物に対応する生物班、温湿度など壁画保存の環境を整える環境班、壁画を保護・修理する養生班とそれぞれのグループが協力し合って進めています。すでに石室を構成する16枚のうち、壁画の描かれている12枚については無事に解体し、修理施設へと運ばれましたが、まだ床石4枚が残されています。
 解体修理にあたっては、石室を露出する必要があります。発掘調査は墳頂部から版築を掘削しますが、その過程で版築の構築方法や石室の設置方法など古墳の築造状況に関するいくつかの知見を得ることができました。本来、古墳の調査とは、大きさや形、築造時期やその方法を解明するために実施しますが、今回の調査はこれに加えて、虫やカビの生える原因や壁画の劣化の構造を解明することも重要な課題です。このような点を解明することは高松塚壁画の今後の修理に必要なためだけでなく、同時に進行しているキトラ古墳壁画にとっても大切なことです。さらに明日香村には第3の壁画古墳がまだあるといわれていますが、今回の調査で劣化原因を解明し、保存対策方法を確立することによって、今後の壁画古墳の現地保存への道が開かれてきます。
 つまり今回の調査は高松塚壁画のためだけではないのです。
                ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年7月号』より



【4】 「高松塚古墳を掘る」  (08.4.18.発行 Vol.18に掲載)

 高松塚古墳では壁画の解体修理に伴って、発掘調査を行いました。発掘調査の目的は、前回にも書いたように劣化原因の解明と古墳の築造方法の解明です。この発掘によって、新たな発見もたくさんありました。そのうちのひとつが天井石の謎です。
 高松塚古墳の石室の天井は、4枚の凝灰岩切石で構成されています。この天井石のうち北端の1枚だけが他の天井石よりも小さくて薄い石が使われていました。 石室は長さが9尺、幅が3.5尺と極めて計画的で精巧に造られていますが、なぜ1枚だけ寸法が違うのでしょうか。この理由については調査をしている私たちの中でも意見が分かれています。
 大和国平田の村で石室を組み立てていた石工は、南から順番に天井石を組んでいた。3枚目の石を組んだ時、天井はすべて塞がるはずだったが、石の寸法が少し短くわずかに隙間が開いてしまった。

  現場監督:「何をしてんねん。隙間があいてるやろが」
  石 工 :「石の長さが短いです。寸法が間違って来たようです」
  現場監督:「葬式の日はもうすぐやぞ。しかたない、そこの石を使えっ!」

 監督は大あわて。しかたなく、近くにあった石材を転用してそこを塞ぎ、上を版築で覆うとその石は隠れてしまいます。中からみるとしっかりとした石室が完成しているようにみえます。何とかお葬式の日程にも間に合って、現場監督はホッとしたことでしょう。・・・このような話が現地であったのかもしれません。
 他にも版築の積み方や石室の組み方、漆喰の塗り方など、今回の発掘調査では多くの新事実が判明し、同時に多くの謎も残りました。発掘調査とはある意味、遺跡を壊すことでもあります。その代償として、そこからどれだけ多くの情報を引き出し、記録に残すことができるのか。それが私たちの仕事です。
                ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年8月号』より



【5】 「高松塚壁画 救出」  (08.6.6.発行 Vol.23に掲載)

 昨年の4月から始まった高松塚壁画の解体も、8月21日に最後の床石を取り上げました。壁画を現地の石室の中に置いていては保存ができないことから、一度石室の石材ごと施設に運び、修理をすることになったのです。この解体にあたっては、これまで多くの方法を検討してきました。石材を吊り上げるのに特殊な器具を開発したり、何度も解体方法をシュミレーションをしたりしてきました。しかし、これまでは石室の中からだけの観察で石材の大きさや形状を推定していましたが、実際に発掘調査をして石材が露出すると、大きさや形状、組み方が予想外であったことがいくつもありました。前回紹介した天井石もそのひとつです。

 その中でも飛鳥美人で有名な西壁石の解体は最も困難な作業です。当初L字形の器具を使って持ち上げ、解体・運び出しをする予定でした。しかし、この石材は床石とぴったりと密着しており、器具の爪が入らなかったのです。しかも側石同士の組み合わせ方から、西壁石をそのまま外側に傾けることもできません。無理に爪を入れると石が割れてしまう危険性が高いのです。ここで解体を担当するチームは新たな方法で石材をずらしてから、持ち上げることをしました。それは「コロ」を使うことです。まず、ジャッキで石材を少しだけ持ち上げ、そこに「コロ」の役割をする細い棒を差し込み、北側にスライドさせてから持ち上げるのです。「コロ」とは重量物を運ぶのに使われたと考えられている運搬方法で、高松塚の築造時にも使用されたと考えられます。実際、石室の南側には閉塞石の開け閉めに使われたコロのレール(道板)痕跡が見つかっています。
 最新技術を使った解体作業の中にも、古代人の知恵を今に応用することができたのです。高松塚石室の解体は古代人との知恵比べであったとも言えます。  
                ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年9月号』より



【6】 「高松塚を揺るがす大地の記憶」  (08.7.18.発行 Vol.26に掲載)

 高松塚古墳は、堅固な版築と精巧に作られた石室から構成されています。しかし、この堅固と思われていた古墳も、発掘調査をしてみると大小様々な亀裂が墳丘にあることがわかりました。まずその兆候がみられたのは石室です。石室の精密な測量を行ったところ、本来は水平に設置されていたはずの石室が、北東から南西に向かって約7cm程傾いていることがわかりました。正確には石室自体がねじれながら歪んでいます。さらに天井石は南北に大きな亀裂がみられます。これらの原因としては過去に起きた大地震が考えられます。
 このことは石室解体に伴う墳丘部の発掘調査でもみられます。墳丘を発掘すると、版築を貫く亀裂や断層が見つかりました。この亀裂や断層は、石室まで到達しています。これらの亀裂を観察すると、石室を中心に放射状に亀裂が伸びており、さらに同心円状にも広がっていることがわかります。さらに詳細にみると、亀裂は石室石材の輪郭に沿って走っていることがわかりました。つまり、地震によって石室が揺さぶられた時、各石材が振動し、微妙な移動をすることによって周囲の版築から亀裂が起こるのです。

 これら墳丘の亀裂や石室の歪みを生じさせた原因は飛鳥地域で過去に起きた大地震と考えられます。この地域では90から150年周期で起きる南海・東南海地震があります。酒船石遺跡では684年に起きた白鳳南海地震で石垣が倒壊していることがわかっており、カヅマヤマ古墳では1361年に起きた正平南海地震で古墳が寸断・崩壊しています。高松塚古墳ではどの地震であるのかは確定できませんが、天井石の亀裂は鎌倉時代初めに行われた盗掘よりも新しいことから、カヅマヤマ古墳と同じ正平南海地震の可能性があります。これら地震の影響は高松塚古墳の劣化要因の一端を担っているだけでなく、私たちに文化財防災についても喚起させているのです
               ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年10月号』より



【7】 「高松塚壁画に忍び寄る微生物の影」  (08.9.5.発行 Vol.30に掲載)

 「飛鳥美人」というキャッチフレーズをもつ高松塚古墳壁画。しかし、この壁画も度々カビによって劣化・汚染されてきました。その都度、カビは除去されて危機は去りましたが、年を追うごとにカビの発生回数も増え、さらに黒色のシミを残すカビも発生するようになりました。さらに、しっかりと盗掘坑を密閉しているはずの石室内でムカデやゲジゲジなどのムシも見つかりました。石室は築造当初、精密に組み立てられ、内側に漆喰を塗り、隙間もないような構造でした。しかし発掘調査では前回も紹介したように、地震によって石室が傾き、歪み、小さな隙間や亀裂が確認されています。これらのムシは石材の隙間から侵入してきたのです。

 このような石材の隙間や石材と版築の間の亀裂はムシの進入路となっているだけでなく、カビの温床にもなっていました。カビは発生する度に、薬品や薫蒸によって除去・退治してきました。石室内ではこのような作業の繰り返しによって、何とかカビの拡大を抑えていたのですが、近年はこれが追いつかず、さらに黒色のシミを残すものが増えてきました。発掘調査すると、カビによって石材の外側や隙間が真っ黒になっていることが判明しました。つまり、35年間のカビの発生によって、内側のカビは除去できたが、石材の隙間を伝って外側に蓄積していったのです。いくら内側のカビを除去しても、すぐに外側から隙間を経て内側にカビが侵入することになります。発掘調査ではこのようなカビ発生メカニズムの一端も明らかにしました。
 
 「飛鳥美人」も発見から35年を経て、壁画の劣化やシミが見られるようになりましたが、発掘調査をしていた私たちは、調査中にみた「飛鳥美人」を何としても救い出さなければと、気持ちを新たにして調査を続けたのです。
               ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年11月号』より



【8】 「高松塚古墳がもたらす文化財の未来」   (08.10.17.発行 Vol.33に掲載)

 昭和47年、高松塚古墳で極彩色の壁画が発見されました。新聞の一面にカラー写真で大きく取り上げられ、考古学や文化財が一般に認知された瞬間です。これ以降、古代史ブームが巻き起こり、明日香が文化財と共存する村として歩む後押しになりました。同時に高松塚古墳壁画の保存が、当時の国家プロジェクトとして最新の科学技術を駆使して実施されたことが、我が国の文化財保存の理念の確立につながっています。

 しかし、発見から35年を経て、壁画は大きく劣化し、石室内の保存環境も著しく変化をしてきました。これらの原因については、多くのことが指摘されています。漆喰層の物理的な劣化、壁画修理やカビの除去における使用薬剤の影響、石室の保存環境の維持など、壁画の保存技術に困難な課題が多くあり、我が国において初めての経験であることから試行錯誤の連続でした。この他にも、石室内点検時における損傷事故やその修復の未公表、墳丘と壁画の管理体制の違いによる情報の共有ができなかったことなど、管理体制や情報公開の不備も、壁画を現状のように劣化させた一因です。

 また、高松塚壁画がキトラ壁画と共に、我が国には二つしかない希有な存在であることから、その保存施策に英断ができず、当初の方針を引きずっていたことも問題です。 例えば、10年ごとに保存方法の検証を行い、次の10年間の保存方針を検討することも必要であったのであろう。
 今回の高松塚古墳の保存問題は、文化財保存の理念と技術、そして情報公開や管理体制など様々の課題を浮き彫りにしました。これらは忘れかけていた、文化財と私たちのあり方を再考させるものです。今、再び国家プロジェクトとして壁画を守り、次の世代に伝えていく努力がはじまっています。多くの課題や反省を乗り越えて、もう一度文化財保存の理念の構築が始まったのです。
               ―毎日新聞学園南販売所『やまとくん 2007年12月号』より

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 相原先生にご寄稿いただきました「高松塚古墳雑考」は、今号を持ちまして最終回となりました。
 8回の連載を書いていただきました相原先生には、高松塚古墳の解体や壁画の諸問題を通して、文化財保存について考える良き機会を頂きました。
 お忙しい中をご寄稿くださいました先生に、厚く御礼申し上げます。 (真神原 風人)





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