両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第15回定例会
― 飛鳥時代の戦いと武器 ―
大化改新の時、蘇我氏はどのような武器で戦ったのか?

真神原風人
Vol.51(09.5.15.発行)~Vol.56(09.7.4.発行)に掲載





【1】  (09.5.15.発行 Vol.51に掲載)

 第15回定例会は、7月11日(土)に実施いたします。今回の定例会は、飛鳥資料館講堂をお借りしての主催講演会を企画しました。皆さんと共に、ちょっぴり知的好奇心を満たせればと考えています。
 講師は、奈良文化財研究所都城発掘調査部の豊島直博先生です。先生は、発掘現地説明会などを通して、皆さんも、お顔をよくご存知かもしれませんし、遺物の復元などでニュースに登場されることが多々ありますので、親しみを感じられる方もいらっしゃるのではないかと思います。最近では、キトラ古墳の盗掘口部分の復元でも、マスコミに登場されていました。また、昨年は、キトラ古墳出土の黒漆塗銀装大刀の復元品製作を手掛けられ、壁画と共に飛鳥資料館にて展示されたのを覚えていらっしゃる方も多いと思います。

 先生のご専門は、弥生の鉄器だとお聞きしているのですが、携わってこられた遺跡をご紹介すると、先生が、いかに飛鳥最前線でご活躍の考古学者でいらっしゃるかが、お分かりいただけると思います。
 筆頭にあげなくてはならないのは、甘樫丘東麓遺跡です。前回の調査では発掘を担当され、遺構の年代を特定される成果を上げられました。現地説明会に参加された方も多いのではないかと思います。そして、昨年度は、石神遺跡・檜隈遺跡・飛鳥寺東南の調査など、飛鳥の名立たる遺跡で、先生にお会いすることができました。

 そのような先生にお願いする講演会のテーマは、「飛鳥時代の戦いと武器」です。どうです!もう、そそられますよね。(笑)男心をくすぐられる講演テーマ。もう参加申し込みをせずには居られないでしょ?(^^) 
 入鹿は!中大兄皇子は!天武天皇は!壬申の乱の将軍・兵士たちは、どのような武器を使っていたのでしょう。そうです!講演のサブタイトルは、「大化の改新の時、蘇我氏はどのような武器で戦ったのか?」です。入鹿ファンの貴方!参加ですよね!(笑)

 飛鳥時代と一口に言っても、120年ばかりの期間があります。武器も時の流れに応じて変わっていったのでしょうか。古代においては、鉄剣などの武器の強度が、戦いの趨勢を決定付けたという話をよく耳にします。どのような製造方法で、どの程度の量を作っていたのでしょう。優秀な鉄器・武器の開発は、国の管理の下に行われていたのでしょうか。
 実用的な武器、装飾的な武器、様々なタイプの武器があったのでしょう。剣・槍・弓、我国には、鉾のような武器は発展しなかったのでしょうか。

 飛鳥時代の前半には、蘇我物部戦争がありました。中頃には国際的な緊張が高まり、白村江の戦いなど戦争の質も変わってくるように思います。また、壬申の乱を経た天武天皇は、「政の要は軍事なり」との詔を発し、畿内の官人らに武器や乗馬の訓練をするように命じています。戦いや武器を通して見る飛鳥時代は、単にスペクタクル映画のようではないはずです。豊島先生のお話から、「戦いと武器」をキーワードとして、より深くこの時代を見ることが出来るかも知れませんね。大いに期待して、先生のお話を待ちたいと思います。                                                          (風人)



【2】  (09.5.29.発行 Vol.52に掲載)

 第15回定例会に向けての飛鳥咲読の2回目です。
 今回は、飛鳥時代の武器・防具について、種類や名称をご紹介しようと思います。講演中に、先生のお話の中で該当の漢字を思い浮かべられず、イメージを掴めないまま講演が進行してしまうことがよくあります。そこで、その対策の一環として、大まかですが武器・防具の名称を紹介しながら話を進めたいと思います。
 まず、イラストをご覧下さい。奈文研で復元された壬申の乱の武装を参考に、風人が描いたものです。正確さに欠けているのはご容赦ください。m(__)m

 甲(よろい)は、「挂甲(けいこう)」という小札(小さな鉄板)を紐で綴り合わせた物で、後世の大鎧へと発展してゆく物が中心だったと思われます。短甲(たんこう)と呼ばれるものも使われたようですが、飛鳥時代の後半においては、主流は挂甲であったと推測されています。
冑(かぶと)は、「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)」が主に用いられたとされています。この「衝角付冑」とは、冑の前面が尖っているのですが、軍艦の舳先(衝角)のような鋭い形をしているために、後世呼ばれるようになったそうです。

 冑の左右・後方に下げて首筋を覆う部分を「錣(しころ)」と言います。「錣」は、皮などに小札を綴り合わせた物ですが、冑の下縁に開けられた穴に紐などで括り付けていたようです。
 「眉庇付冑(まゆびさしつきかぶと)」という野球帽のような庇の大きな冑もあったようですが、6世紀後半までで、飛鳥時代にはあまり用いられなかったようです。

 もちろんこのような装備が充分に出来た者は、限られていたでしょう。一般の兵士は、厚手の綿生地に、金属片・革片を縫いつけた「綿甲(めんこう)」と呼ばれる粗末な甲を身に着けていただけのようです。

 皆さんは、刀と剣の違いをご存知でしょうか。風人は、正直に言うと、明確に答えられませんでした。イメージとしては、刀は日本刀の様な物で、剣は西洋の物を思い描く程度でした。簡単にいうと、剣は両刃(剣身の両側に刃が付いている)であり、刀は片刃です。古代においては、直刀が主となっているようです。


 では、大刀と太刀の区別は出来るでしょうか。風人のパソコンでは、「たち」は「太刀」と変換するのですが、「大刀」も「刀」も「打刀」も「たち」と読みます。ややこしくなってきました。
 絶対の概念とは言えないようなのですが、古墳時代から奈良時代頃までに見られる直刀の大きな物を「大刀」と書き、平安以降の反り刀を「太刀」と書き分けているようです。
 では、「刀」と「大刀」は、大きさだけの違いなのでしょうか。「大刀」を調べてみると、『「刀」は刃を上に向けて腰帯に差した「かたな」であるとするのに対して、「大刀」は刃を下に向けて腰に吊り下げる刀剣。断つ意。』とする解釈も、ネット版国語辞典などでは出ていました。

 日本においては、時代が進むに連れて、刀が主な接近戦用の武器となって行きます。刀は、切ることに優れ、反りを持たせることで、よりその威力を高めさせてゆくようです。一方、剣は殴打や突くことに優れていたように思います。これは、共に発展して行く防具との関係もあるのかも知れませんね。中世ヨーロッパの鋼で全身を鎧うような防具には、切るという攻撃は無効だったでしょう。

 では、飛鳥時代についてもう少し見ていくことにします。大刀は、黒漆塗りの鞘に納められる「黒作大刀(くろつくりのたち・こくさくたち)」と呼ばれる物が、実用的な刀として用いられたようです。この黒作大刀は、正倉院にも伝えられています。図は、風人の作画です。


 黒作大刀は、刀装金具の材質が銅や鉄で、握りには糸・紐・革などが巻きつけられ、木で作った鞘に黒漆が塗られていました。黒漆の大刀とも呼ばれるそうです。全長60~70cm、重量は600~700gであったようです。壬申の乱でも、近接武器として用いられたと推測されるようですが、豪華な装飾が施された高級品は実戦では使われなくなり、代わりとして質素で実用的な要素を備えた黒作大刀が主要武器として用いられるようになったようです。

 これに対して、高松塚古墳出土の銀装唐様大刀の飾金具は銀製品が使われており、大刀の柄の先端と鞘の先端を飾る金具や帯に取り付けるための山形金具などが、発掘調査により出土しています。このような大刀は、実用的な物ではなく、儀式に用いる装飾的な儀仗用の大刀であったようです。
 柄のところにある紐ですが、これは本来、手首に通して大刀が手から離れないようにするための物で、黒作大刀にも切り込みや穴や金具が取り付けられているものもあります。儀仗用であっても、形式は留めていたのでしょうか。

(正倉院「金銀鈿荘唐大刀」や高松塚出土「銀装唐様大刀」を参考に、風人が描いた物です。イメージ図だと思って見てください。)

 ここで、もう一本の大刀に注目したいと思います。それは、キトラ古墳の副葬品として発掘され、今回の定例会の講師であります豊島直博先生によって復元された大刀です。
 長さ約90センチ、幅4.4センチ、重さ672グラム。ヒノキ製の鞘に黒漆で仕上げ、柄は鮫皮が巻かれ、銀製の金具が取り付けられています。
 シンプルですが、洗練された美しさを感じます。大変綺麗な大刀ですので、是非下記リンクをたどってご覧下さい。
  奈文研学術情報リポジトリ内 
(リンク先ページから、本文をダウンロードしてください。PDFファイルが開きます。)

 キトラ古墳のこれまでの発掘調査では、鞘や大刀の破片、金具など計8点が出土しており、金具の種類から2本以上の大刀が副葬されていたと考えられています。この内の細身の1本が、同時期の古墳で見つかった例を参考にして復元されたようです。

 次回は、大刀以外の武器についてお話したいと思います。



【3】   (09.6.5.発行 Vol.53に掲載)

 飛鳥時代の武器・防具をざっと見てみようと思っていたのですが、大きな間違いであったことに気づきました。全くの素人がそのようなことを出来るはずも無いことに、やっと気づいたと言う感じです。前回、刀と剣のお話をしたように、今回は「矛」と「槍」の違いから分からなくなってしまいました。(^^ゞ
 飛鳥咲読の第3回は、そのことからお話を始めようと思います。

 「矛」と「槍」を、明確に区分出来る方はおられるでしょうか。風人は、またしても訳が分からなくなってしまいました。(^^ゞ 
 共に、長い柄を持つ中距離接近戦用の武器だと考えて良いと思います。日本書紀の壬申の乱の記述には、騎馬隊の存在も書かれていますので、大刀以外の長い柄の付いた武器も必要であったのではないかと思います。馬上から歩兵を攻撃するには、リーチの長い武器が必要になります。また逆に、騎馬兵を攻撃するにも長柄の武器が必要だと思われます。そうすると、「矛」や「槍」は有効な武器であったはずです。また、歩兵同士の戦いにも、その長いリーチは有利に戦いを展開出来るでしょう。

 「矛」はやや幅広で両刃の剣状の穂先を持つ物(切ることが出来る)、「槍」はその先端を鋭くさせ刺突力や打撃に限った物だとする説もあるようですが、実際には、それぞれの形体にバリエーションが多くあり、その相違は曖昧であったのかも知れません。西洋では、「矛」は「槍」の一形体として扱われるのだそうです。



 少し視点を変えてみましょう。垂仁天皇3年春3月に、新羅王の子「アメノヒボコ」が神宝である、羽太の玉・足高の玉・赤石・刀・桙(出石の桙一枝)・鏡・熊の神籬の7種を持参し渡来した話が、日本書紀や古事記にあります。字は異なりますが、「矛」が入っていますね。「矛」というものが認識されています。ところが、アメノヒボコの名前の表記が記紀によって違うのです。「天之日矛(古事記)、天日槍(日本書紀)、(アメノヒボコ)」となっています。「矛」も「槍」も「ホコ」に当てています。何故なのでしょうか?記紀が成立した時代には、「矛」も「槍」も大きな認識の差は無かったのでしょうか。
 長柄の武器を「ホコ」として考えていたのかも知れないとも思うのですが・・・。
 また、古代においては、「槍」という表記は、投槍のような短い物を指して
 いたのでしょうか。風人は、この記事を書いている時点で、「矛」「槍」を明確に区別する知識を得ることが出来ませんでした。

 一般的な説明としては、戦術が進歩して集団戦が展開される鎌倉時代になって、「槍」の必要性が増大し、現在の認識に近い「槍」の発展を促したとしています。(元寇・文永の役・弘安の役などで集団密集戦闘の必要性が高まったから。)
 壬申の乱の武装復元では、「矛」は、両刃の矛先に竹を細かく割って束ね
 合せた柄をつけた武器として、正倉院の例から長さ3.3m~4.5mの物を復元しています。律令の規定(軍防令)では、長い物を「牟」、馬上で使う短い物を「矟」と書き分けているようです。


 弓は、最も基本的な武装の一つでした。遠距離から一方的に攻撃出来る武器ですから、有効に用いれば効果的な武器ですね。飛鳥時代には、丸木弓が使われていたようです。丸木弓と言うのは、一本の木や竹などから作った弓のことで、様々な素材を使用した複合弓と区別されます。弓材には、ツキ(ケヤキ)、マユミ、ハゼノキなどが使われたそうです。梓弓は、マユミで作った弓とされることが多いのですが、別の説もあるようです。長弓と言われる2mを超える物が主として使われたようです。


 中央より下に寄った所に皮などを巻いた握りがあります。弓弦は、麻の繊維を拠り合わせた物を使う例が知られているようです。

 矢は、篠竹で作られ、鉄の鏃と鳥の羽が付けられます。長さは、85cm程度だとされます。  


胡祿
 さて、弓を実践で用いるには、矢を持ち運ぶ入れ物が必要です。皆さんは、「胡祿(←竹冠)やなぐい・ころく」と言うものをご存知でしょうか。
左は、正倉院所蔵を参考に描いたものです。
 参考図のようなものですが、古墳を取り巻く埴輪でもお馴染みの「靫(ゆぎ)」と何が違うのだと思われますか。形状としての違いは、風人には分かりませんでした。ただ、靫と胡祿には、装着位置の違いがあります。「靫」は背中に負う物、「胡祿」は、右腰に斜めに提げる物であったようです。
また、「胡祿」は、矢の装備全部を指しており、矢の容器だけでは「箙(えびら)」と呼ぶとする説もあるようですが、一般的には、「胡祿」は靫か ら発達したとされるようです。

 奈良時代に盛んに用いられたようですが、平安時代に箙が出現すると、儀仗に用いる以外は使われなくなったとされます。
 この説では、箙は胡祿の発展した道具ということになります。


 弓矢の装備には、律令の規定(軍防令)があるようで、50本の矢を「胡祿」に入れて出陣していたようです。

 さて、弓にまつわるお話として、もう一つ紹介いたします。飛鳥時代に、武器として「弩(ど)」が存在していたことを、風人は知りませんでした。律令の軍制にも、軍団の中に僅か二名の存在でしかありませんが、正式に配属されていたのには驚きました。「弩」というと、皆さんには馴染みが少ないかも知れませんが「クロスボーまたはボーガン」のことです。風人は、これは中世ヨーロッパの物だとばかり思っていました。(^^ゞ
 まさか、推古天皇の頃にも、我国に入ってきていることなど、恥ずかしながら想像だにしていませんでした。(弥生時代に作られた小型の弩の木製の銃身に相当する臂(ひ)の部分が島根県の姫原西遺跡から出土しています。(^^ゞ)

 日本書紀「推古天皇26年8月の条、高麗が使いを遣わして産物をたてまつった・・・中略・・・(使者が言うには)鼓吹、弩、抛石(投石器か)など十種類のもの、それに国の産物と駱駝一匹とをたてまつります。と言った。」
 また、隋書倭国伝にも、次のような記事があります。「・・・弓、矢、刀、矟、弩、櫕サン〔#〕(さん=杖?)、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。・・・」
 そして、さらに757年に施行された養老律令の軍防令にも、「下日(非番の日)ごとに、衛士府で弓馬を教習させ、刀を用い、槍(ほこ)を弄(と)り、また弩(おおゆみ)を発射し、投石機(条文に「抛石」と書かれていたかどうかは確認できませんんでした。)を操作させること。・・・中略・・・こうして本府は試練して、その技術の向上をたしかめること。」とあります。大宝律令も、同様の条文を掲げていたことが推測されます。

 弩どころか、投石器まで我国に入っていたようです。いやはや、今回は風人の知らなかったことばかりです。もう知ったかぶりも出来ませんね。(^^ゞ飛鳥は奥が深いです。
 これらの武器は、我国では発展せず、主要な武器にならなかったようですね。それを探るのも面白いテーマかもしれません。日本独特の精神性と関わっているようにも思いました。

 次回からは、これまで紹介してきた武器を使った、飛鳥時代の戦いに注目してみたいと思います。



【4】  (09.6.19.発行 Vol.54に掲載)

 飛鳥咲読も4回目になりました。これまでは、飛鳥時代にはどのような武器が使われていたのかを見てきました。今回は、それらの武器で武装した兵士達が、どのように組織化されていたのかを見てみようと思います。

 飛鳥時代に入り、東アジアの情勢は風雲急を告げます。当時の日本は、朝鮮半島に軍事を含めた介入をしていましたが、その軍事力は決して整備されたものではなく、地方豪族(国造)などが編成した軍隊を遠征などの必要に  応じて中央政府が用いているような状況でした。武装もバラバラで、訓練も  行き届かないこのような軍隊では、唐などの優れた武装と組織化された軍団 に対処することは出来なくなってきます。我国は、このような情勢を乗り切るため、国家権力の集中と軍事力の強化を図らなければならなくなります。  中央集権と律令体制の確立は、軍事力の再編成の面で、もっとも急がれたテ  ーマであったでしょう。
 とりわけ、白村江の戦いの敗戦や壬申の乱は、その必要性をいやが上にも増したのではないでしょうか。日本書紀天武13年(684)4月5日『詔して、「そもそも政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり、それゆえ文武官の人々は、だれもが武器を使い、馬に乗れるように努めよ。馬や武器、それに本人が着用する物も、一つ一つ揃えておくように努めよ。馬のある者は騎兵とし、馬のない者は歩兵とし、それぞれ訓練をつんで集会にさしさわりのないようにせよ。・・・」』
 これは、有名な天武天皇の詔ですが、軍事力の底上げを図っているように思われます。この後、大宝律令で細部に及ぶ規定が成文化され、養老律令に受け継がれることになります。
 ほんの触りでしかありませんが、養老律令の軍防令を見てみることにします。軍防令は、76条から成ります。軍団の組織や兵士の装備・徴兵に関する条文はもちろんのこと、兵糧や烽火に関することなども含め、非常に細かな規定を作っています。これに従わせられる人々の負担は、過酷なものだったと思います。

 下は、律令制下の軍団構成図です。

  ( )内は、その指揮官の呼称になります。1,000人を1軍団としており、大毅(だいき)1名が軍団長で、小毅2名が補佐官と思えば良いでしょう。軍事行動での作戦単位として一番小さなものを「隊(たい)」としますが、さらに一番小さなグループは5人組の「伍(ご)」と呼ばれ、装備や兵糧に関わる最小単位(10人)を「火(か)」と呼んでいます。
 
 彼等は、正丁と呼ばれる成年男性(20歳~60歳)で、3人に1人の割合で徴兵されています。彼等の内、ある者達は宮の衛士となり、ある者は防人となって任地に赴きます。また、ある者は、地方軍団に編成され、そこで軍事訓練を受けることになります。集団に分けられ、60日間の訓練が義務付けられたようです。

 彼等の装備品を見てみることにしましょう。これらは、「備戎具条」によ り定められています。
 「各人に、弓1張、弓弦袋1口、副弦(そえつる)2条、征箭(そや=弓矢)50隻、胡祿(やなぐい)1具、大刀1口、刀子1枚、砥石1枚、藺帽(いがさ)1枚、飯袋(いいぶくろ)1口、水甬(みずおけ)1口、塩甬1口、脛巾(はばき=脛用脚絆)1具、鞋(からわらぐつ)1両。」とあります。この文章には続きがあり、「みな自身で備えさせること。欠けたり少なかったりしてはならない。行軍の日には、自分で全て携帯して行くこと。」徴兵 されると、これらを個人で揃えなければならないわけです。
 さらに、10人ごとの「火」で、装備する物もあり、また兵糧となる糒(ほしいい)や塩も各人が倉庫に貯蔵を義務付けられます。いや~!飛鳥時代に生まれなくて良かったとつくづく思います。(^^ゞ
 上記規定に見当たらない甲については、支給されていたようです。「従軍甲仗条」によると、軍に配備する甲仗は、戦いの経緯で失落した場合は弁償徴収を免除することとあり、細かな弁償の規定が設けられています。(^^ゞ 
 冑もこの規定に入るのでしょうか。

 ここで、気になることがあります。兵器を個人に持たせていることです。中央政府にとっては、裏返してみると驚異ではないのかと思えます。太刀や弓だけでは、さほどの武力にはならないと踏んでいたのでしょうか。
  「私家鼓鉦条」には、個人の家に置いてはならないものとして、鼓鉦・弩・牟(2丈=5.9mの矛)・「シャク〔矛偏に肖〕=1丈2尺(3.55m)の矛」・具装(馬の武装具)・大角(笛の一種)・小角・軍幡(軍旗類)を上げています。つまり、強力な兵器は武器庫に保管して、必要に応じて貸し与えていたようです。

 最後に、軍防令を見てきたわけですが、ここに書かれていることが100%実施出来ていたかどうかは分かりません。ただ、軍事力の整備や目指そうとしていた軍の様子は、分かるのではないかと思います。

 さて、この咲読を読まれたころには、甘樫丘東麓遺跡の発掘成果が発表されていると思います。現地説明会も迫っているでしょうね。(^^)
 そこで、次号は、甘樫丘東麓遺跡にも関わる、飛鳥の戦いの記録を探ってみたいと思います。



【5】  (09.7.4.発行 Vol.56に掲載)

 第15回定例会用の咲読も最終回となりました。

 飛鳥話1にも書きましたが、先日、甘樫丘東麓遺跡の現地見学会が行われました。今回の講演会のサブタイトルは、「大化改新の時、蘇我氏はどのような武器で戦ったのか?」です。そこで、最終回の咲読は、甘樫丘の蘇我邸の防備や乙巳の変を取り上げてみようと思います。

 皇極3年(644)11月、蘇我蝦夷と入鹿は、甘樫丘に家を建て並べます。書紀の記述を引用すると、「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)とよんだ。また、その男女を王子(みこ)とよんだ。家の外には城柵(きかき)を造り、門のわきには兵庫(つわものぐら)を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(きかぎ)数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。」とあります。
 また続けて、「大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山(おおにおのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、いつも五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。これらの力の強い男たちを、東方の儐従者(しとべ)と名付けた。諸氏の人々の、入ってその門に侍する者を、祖子孺者(おやのこわらわ)と名付けた。漢直たちは、大臣と入鹿との二つの門に侍するのをもっぱらとした。」と書かれています。

 蘇我氏の専横ぶりと、武装化が目を引く記事です。甘樫丘東麓遺跡で検出された石垣は、マスコミ報道によると、この城柵ではないかという記事が目を引きました。また、現地見学会でも城柵の可能性が話されました。昨年の調査では、総柱建物が検出され、兵庫ではないかと報道があり、多くの方が現地説明会に詰めかけました。その調査を担当されたのが、講演会でお話をいただく豊島直博先生です。


遺構図

 蘇我氏の中心的な施設ではないでしょうが、東麓遺跡は蘇我氏の邸宅の一部である可能性が非常に高いと思われます。ここが、乙巳の変の舞台になった場所なのでしょうか。発掘成果に期待せずにはおれません。

 皇極4年(645)6月12日、乙巳の変が勃発します。「天皇は大極殿におでましになった。古人大兄がそのかたわらに侍した。中臣鎌子連は、蘇我入鹿臣が疑い深いたちで、昼も夜も剣をはなさないことを知っていたので、俳優(わざひと)を使ってそれをはずさせようとしたところ、入鹿臣は笑って剣をはずし、入って席についた。倉山田麻呂臣は、進み出て三韓の上表文を読みあげた。そこで中大兄は、衛門府(ゆげひのつかさ)に警戒させ、十二の通門をいっせいに閉鎖して往来をとめ、衛門府の人々を一ヶ所によび集めて禄物を賜うように見せかけた。」「そして、中大兄は、みずから長い槍をとって大極殿のわきにかくれ、中臣鎌子連らが弓矢をもってそれを護衛した。中大兄は、海犬養連勝麻呂に命じ、箱のなかの二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授け、‘ぬかるなよ。いっきに斬るのだ’といわれた。」「ヤアとさけんで、子麻呂らとともにおどり出し、いきなり剣で入鹿の頭や肩に切りつけた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂も剣をふるって入鹿の片方の足に切りつけた。・・・・」「佐伯連子麻呂と稚犬養連網田とは、入鹿臣を切り殺した。」「中大兄はすぐ法興寺に入り、ここをとりでとして備えを固めた。皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造のことごとくが、みなそれに従った。中大兄は、人を遣わして鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。このとき漢直たちは、
 族党をみな集め、甲をつけ、武器をもって、大臣を助けて陣を張ろうとした。・・・。」
 中大兄は、巨勢徳陀臣を遣わして、東直たちを説得させます。漢直は、「剣をはずし、弓を放りだして去ってしまった。」「蘇我蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をことごとく焼いた。」

 こうして、蘇我本宗家は滅亡します。この記事中、「剣」が普段の武装であるように書かれています。「大刀」でなく「剣」であるのは、大化改新時代には「剣」が一般的であったということなのでしょうか。あるいは、日常的には「剣」、戦時には「大刀」と言うことになっていたのでしょうか。先生にお伺いしたいと思っています。

 長々と書いてきましたが、今回の咲読は大変でした。これを書いています風人が、予備知識を全く持っていなかったからです。どれだけ、皆さんのお気持ちを定例会に繋げることができたでしょうか。また、飛鳥時代を武器というキーワードを使って見てみることを、楽しんでいただけたでしょうか。自信はありませんが、少しでも興味を持っていただければ風人の役目は果たせたことになります。お付き合いありがとうございました。m(__)m



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