両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第19回定例会
竜在峠から入谷へ 
-大丹穂山の桙削寺を訪ねる-

真神原風人

Vol.72(10.1.22.発行)~Vol.75(10.3.5.発行)に掲載





【1】 (10.1.22.発行 Vol.72に掲載)

 第19回定例会に向けて、ウォーキング「竜在峠から入谷へ -大丹穂山の桙削寺を訪ねる-」の飛鳥咲読を今号から始めます。担当は、その辺りをやたら歩いているという理由で、今回も風人が務めます。4回の連載を予定していますので、よろしくお願いいたします。m(__)m

 今回の咲読や資料には難読漢字がたくさん出てきます。そこで、タイトルや関連の地名などの読み方から始めることにしましょう。「竜在峠・りゅうざいとうげ」、「女淵・めぶち」は、初級ですね。(笑)「入谷・にゅうだに」、「大丹穂山・おおにほやま」、「大仁保神社・おおにほじんじゃ」、「栢森・かやのもり」、「鹿路・ろくろ」を読めれば中級でしょうか。もちろん、「桙削寺」は上級になりますね。すっと読まれた方は、かなりの歴史マニア。(笑)「桙削寺・ほこぬきのてら」と読みます。「桙」は、まだ読めると思いますが、「削」を「ぬき」と読むことは、知っていないと無理かも知れません。「削除」などの「さく・けずる」ですから、風人もお寺の名を知っているから読めるだけです。(^^ゞ 桙削寺の内容に関しては、第三回の咲読でお話しする予定です。今回の咲読では、これらの地名などが頻繁に出てくると思いますので、読み方を一等先に覚えてしまいましょう。

 さて、第一回は、コース概要をお話しようと思います。

 桜井駅南口 → バス → 多武峰談山神社バス停(拝観はありません)→ 徒歩 → 西門跡 → 冬野 → 鹿路・細峠分岐 → 竜在峠 → 芋峠・入谷分岐 → 入谷(大仁保神社) → 女淵 → 栢森 → 稲渕 → 石舞台公園 (約13km)

 コース設定は、上記を予定しています。明日香村大字入谷までは、山道になります。歩き慣れていない方には、談山神社バス停から大字冬野までの登りが結構きついかも知れませんね。けれど、竜在峠から最終地点の石舞台公園まで長い下りが続きますので、そちらの方が足には辛いかもしれません。そこで、今回は、やや健脚向きと書かせていただきました。全体を通して、しっかり歩くハイキング程度と思っていただければ良いかなと思います。
 ご案内役の風人は、竜在峠を何度も通っており、過去3回上記のコースを歩いています。また、4回目の下見も行いますので、山中で迷うようなことは絶対ありません。ご安心ください。(笑)

 第19回定例会の主目的地の一つ、桙削寺の所在候補地である大仁保神社展望所からは、葛城連山が一望に出来ます。これを目的に歩いていただいても良いかと思います。写真では、分かりにくいと思いますが、このような光景です。

大仁保神社展望所より(クリックで拡大)

大仁保神社展望所より(自動スクロールパノラマ)

 もう少し詳しく、コースをご紹介していきましょう。
 談山神社バス停からウォーキングを開始します。男性の方は適当で良いのですが(^^ゞ、ここを出発すると、栢森までトイレはありません。山道なので当然ですけど。(^^ゞ で、ここで、必ずトイレを済ませてください。と咲読で書いても仕方がないのですけどね。(笑)参加者の方には、詳細案内や当日にも念を押させていただきます。

 多武峰談山神社の早春の佇まいは、観光シーズンの喧騒とは違った静かな落ち着きを見せます。風人などは人ごみが嫌いなので、冬から早春の談山神社は好きなのですが、時間の関係でバス停から直接西門跡に向かいます。談山神社ファンの方すみません。m(__)m(笑)
 西門跡で体勢を整えて、本格的に歩き始めます。初めての方や登りの嫌いな方は、ここでまず文句を言います。西門までも結構登りなので、知らなかった!とブツブツ。そのような声は無視して、冬野へ登って行きます。(笑)
 談山神社の標高が約500mで、目指す冬野は650mです。比高150mを約1kmで登ります。皆さんのお近くの地形を頭に描いてみてください。風人は、たいしたことがないと思っていますが、どうでしょうか。(^^ゞ
 お不動さんをお祀りした冬野水源を過ぎれば、冬野の集落は目前です。往時は旅籠や茶店が軒を連ね、また中世には冬野城や多武峰の別院冬野寺も在ったとされていますが、平成17年に行われた国勢調査によると、お二人一軒のお住まいが在るだけになってしまったそうです。山道を挟んで開けた小さな集落の様子を風人は好きだったのですが、もう直ぐ廃村になってしまうのでしょうか。ここを通り吉野や飛鳥に足を向ける時、いつも気になります。
 ここからは、明日香村大字畑の方向に車道が通じています。上畑から天空の里「尾曽」へと、ちょうど一年前の第13回定例会で歩きましたね。今回は、畑へとは曲がらず、真直ぐに南に向かうことになります。

冬野から竜在峠へ続く道

 冬野から竜在峠までは、約2kmの間に50mほどを登ることになります。冬野までと比べると、数字の上でも緩やかなことが分かっていただけると思います。尾根筋の快適な山道を歩きますが、残念ながら眺望はあまりありません。木立の間から、時折葛城方面が覗けます。

遥かに見える葛城古道九品寺辺りか

 また一ヶ所、東に音羽山系の連山が見える所がある程度です。

桜井市・宇陀市を隔てる音羽山系

 桜井市鹿路への細い道が分岐しますが、あまり通る人もないのか荒れているようです。暫らく歩いて行くと、薄暗い木立の中に小屋のような物が見えます。明日香村が再現された峠の茶屋風の休憩所です。

鹿路・細峠・竜在峠分岐 むかしの茶店風休憩所

 ここは、細峠・鹿路への分岐にもなっていて、一見ここが竜在峠かと思わせるような雰囲気です。下見をしてからでないと決定ではありませんが、冬野かこの辺りで昼食にしようかと思っています。



【2】 (10.2.5.発行 Vol.73に掲載)

 第19回定例会、ウォーキング「竜在峠から入谷へ」に向けての第二回咲読です。今回は、コース概要の後半をお話します。

 峠の茶屋で一息入れた後、竜在峠へ向かいます。約300mほど進むと、北から南方向に向かって道が二つに分岐しています。それぞれ吉野町滝畑と明日香村入谷へと向かう道です。木のベンチが置かれ、しっかりした道標も設置されています。ここが竜在峠です。残念ですが、現状では全く展望はありません。

竜在峠

 滝畑への道の端には、お墓があります。その道を挟んだ反対側には、神社があったそうです。また昭和初期までは3軒の民家があり、滝谷への道を少し下りた所には雲井茶屋と呼ばれる峠の茶屋があったそうです。明治初年まで遡ると旅籠までもがあったのだそうで、民家も10戸を数え、峠の集落を作っていたのだそうです。樹木と下草に覆われた山の佇まいを見ていると、ありし日の峠の賑わいが、幻であったのかのように思われてきます。風人がこの峠を吉野町滝畑に下った時、偶然に古い割れ茶碗が目に止まったことがありました。往時の物でしょうか、見るにつけ山中に一人居る寂しさを覚えたことがありました。

 私達が向かう入谷への道は、直ぐに西へと曲がって行きます。木立の間からは、通ってきた冬野の鉄塔が見えています。また、目を西に振ると、明日香村大字畑の集落を越して信貴・生駒の山並みが垣間見える地点もあります。

信貴・生駒の山並み

 峠から先は、竜在峠標高700mから石舞台まで、比高約550mの下りが待っています。延々と下る長い道程です。その下り始めた辺りに、落雷にあったのか半分朽ちた一本の古木があります。その根方にお地蔵様がお祀りされており、花立も置かれていました。どなたがお世話をされているのでしょう。竜在に人が住まわれていた頃のものなのでしょうか、入谷の方が登って来られるのでしょうか。あるいは、林業に入られる方がお参りされるのでしょうか。おどろおどろしくもあり、不思議な雰囲気が漂う空間に惹かれます。

お地蔵様

 以前、一人でこのルートを歩いていた時のことです。この付近で、2人連れのハイカーと出会いました。見るからに道に迷っておられる様子だったので声を掛けると、山中で人に出会うとは思われなかったのでしょうね。とても驚かれて、「この辺りにお住まいですか?」と聞かれたことがあります。まさか、狐狸の類ではあるまいに・・。(笑)

 この先から傾斜が急になってきます。反対方向から来るのは嫌だぞ!と思わず思ってしまいます。(^^ゞ 暫らく進むと、芋峠への分岐に差し掛かります。尾根を下って芋峠へも抜けられるのですが、労多くして・・・。ほとんど展望も無い急な尾根道が、旧道芋峠道に続いています。風人は下りで一度歩きましたが、多分二度と行かないだろうと思います。(笑)

 更に長い下りの山道を歩いて行くと、山道の続きから唐突に入谷の集落に入ります。見通しの悪い所から入るので、ちょっと驚いてしまいます。集落の一番奥になるのですが、そこに大仁保神社があります。階段を上がって境内に入ると、集会所や展望所としてベンチも置かれています。存分に大パノラマを楽しみましょう♪

大仁保神社

 西方向に大きく展望が開けます。南は、芋峠に続く山々が吉野と飛鳥を 隔てています。
 また、風人は境内から見る集落の地蔵堂のある風景が好きで、訪ねると必ず写真に撮って帰ります。


地蔵堂

 この入谷を丹生谷と解釈して、水銀に関連するのではないかと言う考え方から、大海人皇子の吉野入りルートとして入谷・竜在峠越えを使ったと考える説があるようです。大海人皇子を支援していたのが海人族とされる尾張氏などであり、海人族は水銀採鉱の高度な技術を持っていたのだとするようなのですが、風人には理解出来ない説のように思えます。面白いとは思うのですが・・・。

  入谷は、集落の中も急な傾斜面になっています。少し下った所から、栢
 森の集落が遥か下方に見えてきます。奥飛鳥の最深部だと思っている方も
 多い栢森ですが、その奥にまだこのような里が在ることに驚きを覚える方
 も多いでしょうね。近年まで、集落の一番下まで、金かめバスが通ってい
 ました。

栢森の集落

 集落を下りきると、道路は広くなります。暫らく下ると、畑方向への道路と交差するのですが、そこから栢森とは逆方向に少し行くと、女淵の入口に到着します。飛鳥にもこんな滝があるのか!と初めて訪れた時には思いました。渓流の先にある滝を見ていると、その伝承どおり龍が住まい、竜宮に通じているのかと思いたくなる場所です。様々な雨乞いにまつわる話があるようですが、皇極天皇の雨乞い(日本書紀皇極元年<642>8月1日条)の場所の候補にも挙げられているようです。

女淵

 栢森までは、歩きやすい遊歩道が付けられています。加夜奈留美命神社や竜福寺にお参りして、トイレをお借りすることにしましょう。
 ここからは、飛鳥川に沿った道を稲渕へと下って行きます。女綱を過ぎ、男綱を潜ると最終地点の石舞台公園はもう直ぐです。

 次回は、大丹穂山の桙削寺のお話をしたいと思います。



【3】 (10.2.19.発行 Vol.74に掲載)

 ウォーキング「竜在峠から入谷へ」の咲読第3回です。これまでの2回はコース概要をお話してきましたが、今回はこのコースのハイライト「大丹穂山(おおにほやま)の桙削寺(ほこぬきのてら)」についてお話をしようと思います。

 「大丹穂山の桙削寺」と聞いて、直ぐにピンと来る方は相当な歴史マニアですが、この飛鳥遊訪マガジンをお読みの皆さんなら、おわかりの方も多いかも知れませんね。
 桙削寺というのは、現存していません。どこに在ったのかも分かっていません。そのようなお寺なのですが、創建者の名前を聞くと興味が湧いてこられる方もいらっしゃるかも知れませんね。創健者は、蘇我蝦夷です。入鹿のパパですね。(笑)

 日本書紀の長い引用になるのですが、興味深い記述ですので、読んでみてください。

 皇極3(644)年冬11月、『蘇我蝦夷と入鹿は、家を甘檮岡(甘樫丘)に並べて建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門と呼んだ。また、その男女を王子(みこ)とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤(とびぐち)数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、武器庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。・・・・・・』       (講談社 井上光貞監訳による)

 前半は、飛鳥でも注目される遺跡の一つ、甘樫丘東麓遺跡関連のニュースや文章によく引用されている一節です。それに畝傍の家の建設や武装化の記事があり、それらに挟まれるように、件の「桙削寺」が登場します。
 何やらきな臭い雰囲気の中に、突如としてお寺の名前が出てくることに、風人はとても不思議な気がしています。ただ、事象を順番に書いた偶然なのかも知れませんが、このお寺が、蘇我氏の武装化と関連しているような印象を受けます。皆さんはどのように思われるでしょうか。桙削寺は、この記事の中にだけ登場します。

 桙削寺の所在地を考える時、ヒントとなるのは、まず「大丹穂山」という山の名前です。それを探さないといけないでしょう。しかしながら、現在、大丹穂山と呼ばれる山は、飛鳥近郊にはありません。そこで気になるのが、同じ読み名の「大仁保神社」です。実は、大仁保神社と呼ばれる神社は、飛鳥近郊に二つあります。どちらも似たような地名に所在しており、どちらがどちらとも言えない存在となっています。

 一つは、今回訪れます明日香村入谷の大仁保神社です。祭神は、仁徳天皇とされています。古くから大丹穂山の候補地とされているようで、堂屋敷と呼ばれる所には礎石が残るとも伝えられますが、風人は確認できていません。古瓦の存在などもどうなのでしょうか。ここに桙削寺が存在していたとするなら、そこにはどのような意味合いがあったのでしょうか。万が一の時に逃げ込む場所と考えれば良いのでしょうか・・。明日香村入谷説は、現状では推測の域を出るものではなさそうです。

 もう一つは、高取町丹生谷にある大仁保神社です。こちらの祭神は、罔象女神(ミズハノメノカミ)という水神がお祭りされているようです。曽我川の右岸に位置し、巨勢谷の北の入口とも言える場所にあります。詳しくは分かりませんが、近辺の小字には、「桙の木」・「大入」などという地名も存在しているとのことです。地理的には、飛鳥の南の入口を押さえる位置とも言えますので、蘇我氏が飛鳥の守りを固める拠点として寺院を造ったとすれば、明日香村入谷よりも肯ける場所であるのかも知れませんね。ただ、少し離れすぎているようにも思います。

 現存する大仁保神社以外の視点から、もう一つ候補地があります。風人もよく分からないのですが、高取町子島寺の創建時代の位置に所在すると言われる観音院(高取町上子島)が、日本霊異記に書かれる「法器山寺であるとし、その法器山寺が桙削寺のことであるとする説があるようです。その根拠は、観音院の所在地が「法華谷」と呼ばれますが、「ほふき・はふき」の訛ったものとすることによるそうです。
 また、鎌倉時代に書かれた「清水寺縁起」には、清水寺氏社の一つに高市郡「大仁富神」という神名があるそうです。また、子島寺は坂上田村麻呂との関連から「元清水寺」と呼ばれることもあります。これらの事から、桙削寺は子島寺の前身とも言われることがあり、清水寺縁起に関連する名を留めているのかも知れません。
 このように桙削寺の所在地候補の一つとして、高取町上子島や勧覚寺を上げることが出来るかも知れませんね。

桙削寺候補地 参考図

 桙削寺の三つの所在地候補を見てきましたが、どれも伝承の域を出るものではありませんでした。今後の調査や研究を待たなければなりませんが、風人は野次馬的に桙削寺の所在を考えて行きたいと思っています。皆さんも、明日香村入谷の大仁保神社からの絶景をご覧になりながら、桙削寺の所在地を考えてみるのは如何でしょうか。

竜在峠<山並み右端付近>と入谷の集落。集落最高所に大仁保神社が鎮座する。

 次回は、定例会直前にお届けすることになりますが、コース上の他のポイントをお話しようと思います。


【4】 (10.3.5.発行 Vol.75に掲載)

 第19回定例会の咲読も、いよいよ最終回です。1週間後の定例会に向けて、もう一度最初からお読みいただけたら幸いです。
 今号では、桙削寺以外のポイントを簡単にご紹介しようと思います。

「冬野」
 いわゆる冬野越として、明治末期までは大和盆地東南部から吉野へのルートとして知られていたようです。大峰山に向かう参詣人や修験者の往還が絶えず、4軒の旅籠と伊勢屋という屋号の茶屋があったそうですが、現在は定住されている方はいらっしゃらないと聞きました。寂しくなりました。

 江戸時代の明和9(1772)年、本居宣長は吉野・飛鳥を旅しており、その見聞を「菅笠日記」に記録しています。宣長は多武峰の桜を愛でた後、冬野から竜在峠を越えて吉野へと下ります。
 『吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。はるかに山路をのぼりゆきて。手向に茶屋あり。やまとの國中見えわたる所也。』
 定例会と同じルートを、多武峰西門から冬野にやって来ます。なお、現在は植林された樹木のために、ほとんど遠望は利きません。

 冬野集落の一番高い所に、波多神社という延喜式内社が鎮座しています。祭神は事代主命、あるいは波多祝の祖「神高皇産霊神」、または波多臣の祖「八多八代宿禰」との伝えもあるようですが、詳細は分かりません。西方の畑集落の名からも、波多・秦氏との関連に興味深いものがあります。高取町にも波多庄があり、現在も大字羽内に波多ミカ井神社があります。

 冬野には、この他に第90代亀山天皇(1259年即位)の皇子である良助法親王の冬野墓や法親王に所縁ある多武峰寺別院冬野寺、また冬野城があったことが記録されています。
 冬野城は、波多神社の境内地を副郭とする造りの城砦で、多武峰の南を守り、吉野への連絡を確保する目的で建造された城砦だと思われます。 多武峰は、増賀上人や良助法親王との関係から比叡山延暦寺との関連が深く、大和に大きな勢力を持つ興福寺の支配下に入らなかったため、平安時代末から度々興福寺の討伐や焼討にあっています。冬野城がいつ建設されたのかは分かりませんが、このような戦乱の中で造られて行ったのでしょう。確実な記録としては、吉野金峰山と多武峰との争いがあり、金峰山の衆徒が橘寺方面から多武峰に侵入して多武峰の堂宇や僧房を焼き払い、冬野城も陥落したと記しています。(「猪隈関白記」承元2(1208)年。)その後の戦国期にも、大和に侵入した勢力(赤沢朝経)に抵抗する越智氏などの大和の地勢力が多武峰に拠り、冬野城を再築。今に残る冬野城の痕跡は、この時のものだと考えられるようです。

「竜在峠」
 『なほ同じやうなる山路を。ゆきゆきて。又たむけにいたる。こゝよりぞよしのの山々。雲ゐはるかにみやられて。あけくれ心にかゝりし花の白雲。かつかづみつけたる。いとうれし。』
 「菅笠日記」の冬野から竜在峠下の雲井茶屋付近までの描写です。現在、竜在峠も深い森の中で、眺望はありません。 

 松尾芭蕉も「笈の小文」の旅の中で、多武峰から細峠をへて竜門滝へと向かいますが、芭蕉が通った細峠は、この竜在峠の東約700mに位置します。「雲雀より空にやすらふ峠かな」

「女淵」  
 奥飛鳥の神秘「女淵」です。入谷から下って渓流に出ると、辺りの雰囲気は一変します。静かな瀬音しか聞こえない世界に入って行きます。木々の梢が空を隠す頃からは、足場も川石で作られた沢道となり、その奥まったところに女淵があります。ナゴトの滝が造るこの淵は深く、竜宮に届くとか竜の棲む淵との伝承もあり、雨乞いの儀式も盛んに行われたそうです。壺阪寺の雨乞いにも関係したとの話も聞きますが、詳細は分かりません。また、この女淵に木の葉を入れて、農作物の吉凶を占ったとの伝承もあるようです。先の伝承ともあわせて推測すると、竜=水神信仰=雨乞=豊作祈願という図式が、見えてくるような気がします。
 そこで思い出されるのが日本書紀の皇極天皇の雨乞いの記事です。皇極元(642)年7月、「天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。」

 女淵は、この記事に書かれる「南淵の川上」の一つの候補地になるのではないかとも思われます。もちろん確証のある話ではありません。しかし、この淵の佇まいを見ていると、そのような想像が自ずと浮かんできます。この淵は、飛鳥の水源の一つでもある飛鳥川支流細谷川に在ります。石と水の都とも称される飛鳥京の水源は、細々とした川に支えられています。干天が続くと、その影響は深刻であったことでしょう。
 飛鳥川には、幾つかの雨乞い伝承や淵が存在し、それぞれに相応しい佇まいを見せています。皆さんは、どのような想像をめぐらされるでしょうか。女淵のさらに上流1.5キロには、男淵(トチガ淵)が存在しています。 

 今回の定例会ルートには、様々な歴史や伝承があります。その一つ一つを丁寧に見ていくことは、紙面が許してくれません。ご一緒に歩きながら、皆さんと様々なお話が出来ることを楽しみに、今回の咲読を終えることに
します。長い咲読にお付き合いくださって、ありがとうございました♪





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