両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第24回定例会
飛鳥をめぐる山の信仰
-大和の山林寺院を中心に-

もも
Vol.94(10.11.26.発行)~Vol.98(11.1.7.発行)に掲載





【1】 (10.11.26.発行 Vol.94に掲載)

 今回の咲読は、ももが担当させて頂きます。よろしくお付き合い下さい。m(__)m

 第24回定例会は、橿原考古学研究所 主任研究員 大西貴夫先生に「飛鳥をめぐる山の信仰-山林寺院を中心に-」という演題でご講演いただけることになりました。大西先生は、山寺及びそこから出土する瓦をご研究の対象になさっていらっしゃいます。ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが、2007年度の橿考研附属博物館 春季特別展「山の神 山のほとけ」は、大西先生が企画・担当されていました。(お時間等の許される方は、こちらの図録を是非手にとって見てください♪)講演会当日は、飛鳥を取り巻く山々にまつわる興味深いお話を沢山お聞きできると思います。只今申込受付中です。皆さんのご参加をお待ちしてます♪

 今回のタイトルにある「山の信仰」ですが、皆さんはどのようにお考えになります?「飛鳥」と言っても時代・地域・文化、その捉え方やアプローチする方向で実に色んな展開の仕方をしていきそうです。さて、困ったぞ…というところで、早速つまずいてしまったももなのです。(^^ゞ

 実は、先日行いました第23回定例会でも、山への信仰に関わる場所・香久山を散策してきました。山中には名前のついた磐座のような巨石が幾つかあり、また天岩戸伝説に関連する場所などもあって、本当に謎の多い山でした。ま、香久山は、「天」何ていう字を頭にくっ付けて呼ばれたりしますから、同じ山への信仰でも破格な扱いをしなければならないのかもしれませんけど。

 訪れた中には、古代祭祀の形態をとどめているという神社もありました。「古代祭祀って何?」と、神様系に疎い私には「なんのこっちゃ?」なんですが、すごく簡単に考えると、自然崇拝が古代祭祀の大元なんじゃないかという結論に達して、納得しておくことにしました。(^^ゞ 山や川や雨や雷、人間の手ではどうしようもないモノに出会った時に、それを「神」として人格を与え敬ったのかと。神社のご祭神になっている神さんの名前には、元を正せばこういう自然現象が多かったりするように思いません?例えば、畏怖という言葉がありますけど、この字はどちらも「おそれ」と読めます。オソレることから始まったのが古代の信仰なのかな?と、香久山を歩いてみて思ったりしたももなのでした。

 この「山の信仰」を今回の定例会では、「山林寺院を中心に」して捉えていこうということになっています。

 飛鳥寺から始まった古代日本の寺の建立。これらの多くは主に平地に、または大規模な整地をして平に均した地面の上に各堂宇が建てられています。崇峻元年(588年)に造営が着手された飛鳥寺以後、寺の数は推古32年(624年)に46ヶ寺だったものが、持統6年(692年)には545ヶ寺を数えるようになります。莫大に増えていく寺院のなかで、山林寺院というカテゴリーに入る寺は、いつごろ何の為に(何を目的に?)建てられるようになったんでしょうか。ここに、先にあげた古代祭祀との関わりもあるんでしょうか。それはですね…と、私なんかがここにすらすら~っと書けるはずも無く…。(>_<) 

 「山林寺院って何よ?」「いつ頃できたの?」なんていうお話は、講演会当日に講師の大西先生のお話をしっかりお聞きいただくとして、次回からぼちぼち、山林寺院か?と思われる有名所のお寺などを、少しずつ身近に引き寄せて行けたらなと思っています。これまたお付き合いの程よろしくお願いします。m(__)m

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 橿原考古学博物館 2007年春季特別展図録「山の神と山の仏-山岳信仰の起源をさぐる-」は、橿考研附属博物館ミュージアムショップで購入できます。(800円)



【2】 (10.12.10.発行 Vol.95に掲載)

 飛鳥で山の寺と言って真っ先に思い出されるのは、やはり岡寺になるでしょうね。木々に囲まれた三重塔は、飛鳥京跡や橘辺りからも見ることが出来ます。春から初夏にかけての新緑や秋の紅葉の間から覗く塔の姿はとても綺麗です。(^^)


岡寺

 さて、岡寺といえば、これまたやはり避けて通れないのが義淵。岡寺を創建したとされる義淵は、「扶桑略記」には、高市郡に住まう子の無い夫婦が観音様から授かった子どもで、その出生ゆえに天皇に引き取られ皇子とともに岡宮で育てられたとあります。また、学業が優秀で稲一万束を賜った(文武3・699年)とか、僧正に任命された(大宝3・703年)とか、一族に岡連の名を授かる(神亀4・727年)など、高い評価を受けていた様子が続日本紀から伺え7世紀末から8世紀初頭に活躍していた人物のようです。そして、肝心の岡寺の創建年代は、発掘調査などから7世紀末から8世紀初頭頃とされますので、義淵の年代ともドンピシャになります。

 さて、もも担当ということで早速瓦の話になって申し訳ないですが。(^^ゞ岡寺の創建瓦は、「複弁五葉蓮華文軒丸瓦」と「葡萄唐草文軒平瓦」がセットになって「岡寺式軒瓦」と呼ばれます。

 参考:複弁五葉蓮華紋軒丸瓦・左側の一番下の画像(瓦歴史資料館)
      (↑マウスをあわせると大きな画像が真ん中の枠に出ます。)
 参考:葡萄唐草文軒平瓦(飛鳥資料館倶楽部)

 ここでちょっと、瓦当文様と呼ばれる瓦の顔の部分の文様が、時代とともに移り変わったことを思い出していただけますでしょうか。前々回の第22回定例会では、岡田雅彦先生に瓦の基礎について沢山の画像を見せていただきながらお話を伺いましたので、定例会にご参加くださった皆さんは覚えておられると思います(ご参加いただけなかった皆さんは、両槻会サイト内の第22回定例会資料などを参照くださいm(__)m)。

 岡田先生は、おおまかに軒丸瓦は「素弁」から「単弁」そして「複弁」へ、また軒平瓦の場合は、「無文」から「重弧文」そして「唐草文」へと時代とともに移っていくことを教えてくださいましたよね。(^^) これをもとに考えると、岡寺式軒瓦が現れた7世紀末から8世紀初頭の主な軒丸瓦の文様は、藤原宮式や平城宮式などの「複弁八葉蓮華文」、軒平瓦では「唐草文」になります。そんな中で岡寺式軒瓦は、一応複弁ではあるものの蓮弁の数が5枚、軒平瓦には今まで瓦には見られなかった葡萄唐草文が施されています。では、この主流を少し外れた文様が、なぜ突然ポコンとあらわれたのでしょう。

 岡寺式軒瓦は、岡寺をはじめ山中や山麓に営まれた寺院に見られるという特徴を持っています。義淵は、龍蓋寺(岡寺)を含む五龍寺と言われる「龍」の字を持つ五個の寺を建てたとも言われています。五龍寺の中には、第7回定例会関連オフとして2008年4月に訪れた「龍門寺」、飛鳥遊訪マガジンでもお馴染みの近江俊秀先生が発掘調査をされた加守廃寺がその跡地と考えられる「龍峯寺」など、両槻会にとっても縁のある場所があります。これら五龍寺のうち、3寺(龍蓋寺・龍門寺・龍峯寺)からは、岡寺式軒瓦が出土しています。

 同様にこの岡寺式軒瓦が出土している吉野の比曽寺跡では、飛鳥時代前半と考えられる素弁蓮華文の軒丸瓦も出土していることから、創建は7世紀末よりも遡ると考えられています。また、大宝3年(703年)創建の記録を持つ南法華寺(壺阪寺)では、岡寺式軒瓦ではなく藤原宮式や薬師寺・興福寺などと関わりのある瓦がみられるようです。つまり、山中や山麓に営まれた寺院すべてが、7世紀末から8世紀初頭に岡寺式軒瓦で造営が開始されたわけではないことになります。前回第23回定例会で訪れた青木廃寺などもその典型的な例といえるかもしれません。(青木廃寺については、第23回定例会資料などをご覧ください。)

 岡寺は、元は義淵の出身氏族の氏寺だったのではないかという説もあるようですので、岡寺式軒瓦は、一氏族が独自に製作した瓦当文様と考えることも可能なのかもしれません。が、寺伝や伝承などから義淵とはあまり関わりのなさそうな寺跡からも、岡寺式軒瓦は出土しています。一氏族が製作した文様なのだとすれば、こんな伝播の仕方をするでしょうか。7世紀末から8世紀初頭の都が飛鳥から藤原へ、そしてまた平城へ移ろうとしていた時代に、一部の山中や山麓の寺院に限って、藤原宮式や平城宮式ではない新たな瓦当文様が採用された経緯には、個々の寺の都合なんていうレベルではない何か大きな力があったんじゃないかと思えてしまうももなのです。(^^ゞ



【3】 (10.12.24.発行 Vol.96に掲載)

 前回の咲読で「個々の寺の都合ではない大きな力があったんじゃないか」と偉そうなことを書きましたが、何か確証があるわけでもないただのσ(^^)の妄想でして。で、「これじゃいかん、せめてその頃何があったのかぐらい知らなきゃ」と、とりあえず続日本紀をパラパラと捲ってみることにしました。こういうのを泥縄っていうんでしょうね。^^;

 まず目に付いたのが、続日本紀養老元(717)年4月と5月にある詔です。どちらも長い文章なので、文字数の都合で要約させていただくと「勝手に僧になるな!」「僧は法令を守れ!」「きちんと寺に居住しろ!」「道端で要らぬことをして人民を惑わすな!」なんて感じになります。(少々極端な要約です。(^^ゞ) 4月の詔の中ほどには、あの有名な行基の名も出てきます。行基は、後に民衆を動かす力が見込まれて大仏造営に関与し僧正となるのですが、この時点では、まだ朝廷にとって目障りでしかなかったようですね。5月の詔の方は、流浪する人民を取り締まるのが目的のようですが、勝手に僧になりたがる者も出てきているという内容もみられます。

 さらに、翌年の養老2(718)年10月10日には、僧としての行いが説かれ、ひどく外れるものは行いを正させるようにと僧綱(そうごう・僧を統括する機関)に命じているなかに、山林での勝手な修行を禁止する文章が初めてみられます。
 また、6年後の神亀元(724)年10月1日には、僧尼に身分証明書(公験)を発行するにあたって、新たな名簿を作製するようにという記事も見られます。この頃には、増え続けたお坊さんと記録の不備のせいで、誰が本当に許可を貰ったお坊さんなのか分からなくなってきていたってことなんでしょうか?また、この2年前の養老6(722)年には、僧を監督すべき僧綱の職務怠慢も奏上されていたりしますから、もう何が何だか(@_@)…の状態だったのかもしれません。(^^ゞ

 そして、先にあげた記事よりも前の霊亀2(716)年5月15日には、諸国の寺にはきちんと造営・整備のされていないものがあり、それらを機能するよう配慮しなさいとの詔が出ています。推古朝以後、寺造りは奨励されたたものの、実質その運営などはかなり切迫していたようですね。崩れかけていたのは、僧尼の管理だけじゃなかったってことですか。管理しきれない寺と僧尼。あらら・・・って感じです。^^;
 でも、こんな事柄は、天災みたいにある日突然降って沸いたように起こることじゃありませんよね。その火種は、詔などが出されるよりも以前から例えば平城遷都前、いえいえ7世紀末と言えば、藤原遷都。この頃から、ブスブスと燻っていたんじゃないかと思えるんです。遷都などの大事業の際に、最も負担がかかるのは誰?なんて考えてみると、流浪民となったり課役が免除される僧になりたがる人民が出るのも仕方ないのかなと思えてきて何だかちょっと切ないですが。

 これらの増え続ける僧尼をきちんと管理・統率し、寺に配置しなおすために寺の整備が始められた。そしてその一部を義淵が担っていた。と考えるのはどうでしょう?岡寺式軒瓦を使用する寺は、山寺の中でも小規模のものが多いように思います。官と分担し、義淵が山麓や山中にある整備不全となった氏寺などの小規模寺院を岡寺式軒瓦を用いて手を入れたと考えると面白いと思いません?(^^)

 ま、実際、このような記録は見当たらないようですし、山寺の建立や整備の経緯もよく分からないのですが、お坊さんって山で修行するのが普通だそうですから、ただ山林修行を禁止するだけというわけにも行かなかったんじゃないでしょうか。で、「ここなら良いぞ」と山中の幾つかの寺院を整備したんじゃないかと。それも古都飛鳥周辺を中心に。いわゆる「勝手に修行と称して山に篭もるな!」「勝手に僧になるな!」の「勝手に」の部分を取り払えばいいわけですから。

 つまり、7世紀末から8世紀初頭にあらわれた山寺は、僧の管理と寺の整備の為の苦肉の策♪・・・なんて言うのは如何かと。(^^ゞ
 今更お断りするまでもないでしょうが、これは続日本紀だけを捲って思ったももの戯言ですから、お気をつけ下さい。(^^ゞ



【4】 (11.1.7.発行 Vol.98に掲載)

 第24回定例会を明日に控え、咲読も今号が最終回となります。本当なら、最終回らしくまとめを書くべきなんでしょうが、ももには、どうしても気になることがひとつ残ってしまいました。ので、今回は、その葡萄唐草文に関してのももなりの考えを書かせて頂こうと思います。

 咲読の第2回でも書きましたが、藤原から平城へと都が移ろうとしていたこの時代には、瓦の生産は主に官(国家)が握っていたはずなんですよね。もちろん、造寺は推古朝以来ずっと推奨されてきたでしょうから、地方の氏族でも自ら瓦を製作することはあったと思います。が、岡寺式軒平瓦に描かれる葡萄唐草文は、一氏族が考案したデザインとするには完成度が高いよう思うんですよね。

 葡萄唐草文といえば、この軒平瓦以外にも、海獣葡萄鏡や薬師寺の台座、あと奈良時代の染色品などに見られるのですが、これらは大きく二つに分けることが出来るように思います。一つは、完成された製品として伝わった海獣葡萄鏡などに既に施されていたもの。もう一つは、意匠として伝わった葡萄唐草文が、薬師寺の台座や染色品、岡寺式軒平瓦に文様として我国で施されたもの。この二つの「葡萄唐草文」を同列に考えるのは、少し違うような気がするんです。

 葡萄の文様のことばかり考えていて、ふと、古代の日本にはブドウはなかったの?と疑問が湧いてきましたので、古代日本でのブドウの痕跡を少し探してみました。まず文献に現れるのは平安時代が最古で、「和名類聚抄」や「伊呂波字類抄」などに薬用として載っているようです。ただ、ここには「紫葛(エヒカツラ)」「蒲萄(エヒカツラノミ)」と書かれていて、今のような房に大きな実が成るものではなく、自生のヤマブドウのようなものだったと考えられているようです。また遺物としては、少し時代が遡って6世紀代の遺跡から種が出土していて、これもまたヤマブドウの一種になるようです。現在は、ヤマブドウでも生食ができるものもあるようですが、当時のヤマブドウは生食には適さず、薬用以外には発酵させて果実酒としたとする説があるようです。

 名前や利用方法は少し現在とは違うかもしれませんが、古代日本にもブドウに属する植物はあったみたいですね。だとすると、7世紀以前にもブドウ自体は利用されていたのに、文様としては7世紀まで存在していなかったということになります。
 ブドウが文様として取り入れられたのには、何か理由があったはずです。単に大陸からもたらされた最新流行の文様というだけでは、どうも納得できないももなのです。

 葡萄唐草文の起源を辿ると、遠く西域で紀元前4世紀まで下るようです。そして、それがそのうちにバッカス(葡萄酒の神)信仰と結びついて「豊穣」のシンボルとされるようになったんだそうです。その葡萄唐草文が遥か古代日本にたどり着いた時、この文様にはどのような意味が付託されていたのでしょうか。
 岡寺式軒平瓦が使用されたのは、主に山中や山麓の寺院です。葡萄唐草文が、これらの瓦の文様に採用されたのは、この文様が何か信仰に関わる特別な意味を持っていたのではないかと考えるのはどうでしょう。

 セットで用いられた軒丸瓦の蓮弁が5枚になっているのは、葡萄の花が5弁だからと言う説もあるようです。寺院の軒先に絡む葡萄の蔓と花。葡萄で寺院を飾ろうとしたのでしょうか。あるいは、何かを守ろうとしたのか、何かを具現しようとしたのか、その辺りは想像でしかありませんが、山中や山麓に整備された寺院に期待されたものを、この葡萄唐草文が象徴していたんじゃないかと思うのです。

 古代、色や文様を統一的に使用できたのは、極々一部の人々だったはずです。色や文様を用いる背景には、それらが持つと考えられていた威力(というと語弊があるかもしれませんが)、思想や呪術的効果を纏うことが目的であったとσ(^^)は思います。皆さんは、どう思われますか?

 咲読は、これにて終了です。明日の大西先生のお話をお聞きして、参加の皆さんと共にさらに興味を掘り下げて行きたいと思います。咲読にお付き合い、ありがとうございました。m(__)m





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