両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第25回定例会
飛鳥と万葉集

Vol.99(11.1.21.発行)~Vol.103(11.3.18.発行)に掲載





【1】 (11.1.21.発行 Vol.99に掲載)

 両槻会主催第25回定例会は、タイトルは「飛鳥と万葉(仮)」とまだ仮題ですが、講師に万葉古代学研究所主任研究員の井上さやか先生をお迎えします。井上先生には万葉視点での飛鳥のお話をしていただく予定になっています。そして、贅沢なことに井上先生には事前散策からお付き合い頂けることになりました。(^^)
 今までの定例会とは一味違う飛鳥を感じて頂けることと思います。皆さん是非ご参加下さい♪

 今回の咲読は、スタッフがそれぞれの万葉感をお話させて頂くことになりました。

 さて、一回目を書くことになったももですが、飛鳥遊訪マガジンで「ももと飛鳥と三十一文字と」、自サイトで「もも版万葉歌」なんていうのをやっているからには、歌や特に万葉集には詳しいだろうと思われている方がいることにここ最近やっと気づきました。今更ですがσ(^^)は、ただ三十一文字が好きなだけなんですよね。平仮名にして31個の文字。けれどそこには、喜怒哀楽の感情は勿論、景色や匂いなどが結晶のように凝り、時には淀み、そして流れているように思うのです。

 万葉歌に限らず、時代が経てば当然変わる言葉遣いのせいで昔の文章は、分かりにくいというのが唯一の難点なんですが。我が家の愚息達は、昭和初期の文章でさえ、日本語でない!と言います。(^^ゞ

 で、とりあえず気に入った歌などがあれば訳本などを見ることになるんですが、この意訳っていうのがσ(^^)にはどうも馴染めなかったんですよね。ひとつひとつの言葉の意味だけを重視し訳されて文章になった途端、せっかく三十一文字で奏でられていた音の世界が空中分解して消えてしまうような気がするんです。出来るなら三十一文字は三十一文字で理解したいとσ(^^)は思うのです。

 生意気な話ですが、時々辞書に載ってる意味がナンボのもんか?って思うことがあります。そりゃあ、分からないよりは分かった方が理解の仕方も違うと思うんですが。意味とか訳とかそういうカタイものに拘っていたら、反対に見えなくなってしまうものがあるんじゃないかと。初めに自分が抱いたイメージを大事にしながら、意味や訳を手繰り寄せて摺り合せようと頑張ってみる。その結果全く違った風になったらなったで、それもひとつ勉強したと思えばいいんじゃないかなと。σ(^^)は、自分がその過程を楽しいと思えれば良いかなと思ってます。(^^ゞ

 歌をそらんじるなんて言う事が全く出来なかったσ(^^)にも、一度だけふと頭の中に歌が浮かぶという出来事がありました。それも、特に好きだというわけでもない歌。目の前に広がる景色に反応して、σ(^^)の脳味噌の何処かにあるスイッチが切り替わったのかもしれません。それが正しい解釈か、その場所が此処か、なんてことより、自分の中で歌と景色が一瞬で繋がったことが何よりも嬉しかったことを覚えています。この話は、以前飛鳥遊訪マガジンにも書いたことがありますが、今まで、辞書を必死で捲っていた頃には思いもしなかったことでした。

 ところが、意識的に繋がるように考えようなんて思うと、これはこれでかなりハードルが高くて、その後なかなかそういう場面にも出会うことなく過ぎて行ってしまってます。(^^ゞ 自ら探し歩けばいいんでしょうが、出来れば偶然目の前に広がった景色に反応して…なんていう贅沢なことを望むもんですから、ますます実現は難しくなっています。(^^ゞ

 今回の定例会では、事前散策にも講師の井上先生がご同行して下さいますので、何かももにも切っ掛けを頂ければ嬉しいな…と密かに思っています。

 皆さんも、是非に貴方にとっての飛鳥や万葉について考えてみて下さいそして出来れば、今回の定例会でまた違う飛鳥や万葉にも触れてみて頂けると嬉しいです。違うからこそ面白い♪と、ももは思います。(^^)



【2】 (11.2.18.発行 Vol.101に掲載)

 皆さんこんにちは!咲読の二回目は若葉が担当させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。
 
 皆さんは万葉集が好きですか? 
 歴史が好きな方なら、万葉集も好きだという方は多いのでしょうね。私はここ数年遅ればせながら、やーっと好きになってきました。
 和歌と聞いただけで、「むつかし!」「わからん!」と拒否反応を持って避けてきました。随分昔になりましたが、中学の国語の授業で「防人の歌」というのを習いまして、どんな歌か忘れましたが、故郷を想った悲しい気の毒な内容でした。今から思えば、「防人」として遠地に行かねばならない当時の庶民の気持ちや、生活の状況を読み取る事が出来たりしたはずなのですが、当時の私はそんなふうには思わず、ただ悲しいから嫌だという気持ちを持ってしまいました。今でも「防人」と聞くと、辛くて避けたい気持ちになります。

 そんな和歌が苦手な私でも、何となく雰囲気は分かるぞという歌もあったりするとちょっと嬉しくなります。が、悲しいかな内容の予想さえ付かないものも結構あります。難しい事は頭に入って来ませんが、知っていたりする当時の出来事などに関わる歌に出会うと、ぐんと身近に感じたりして、興味が湧いてきます。

 「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背と我が見む」

 天武天皇が亡くなられた直後に、謀反の疑いをかけられ死を賜った大津皇子を想い、姉の大来皇女がうたわれた歌だそうです。
 始めの、「うつそみの人なる我」のこの部分が何とも私には強烈に響きました。会いたくてもどうしても近づけない、全く違う世界との距離をうたう事で、彼女の悲しみのすべてを表しているように思え、初めて知った時から忘れられなくなりました。

 二上山が好きで私もよく眺めますし、近くを過ぎたりするとドキドキワクワクします。夕闇が迫る頃山裾にいた事がありましたが、黒く浮び上がる稜線を見上げた時は何だか畏敬の思いが湧いたような気がしました。二上山が特異な形をしていたからでしょうか、それとも小さい時から眺めていた憧れから来たものなのか、などと思いました。

 同じ二上山を大来皇女が「いろせと我が見む」としたのは、いったいどの地からだったのでしょうか。

 二上山を遠くに眺める吉備池畔には、私の好きなこの歌が書かれている万葉歌碑が、大津皇子の詠んだとされる歌碑と共にあります。

吉備池から二上山をのぞむ(よっぱさん撮影)
クリックで拡大します。



【3】 (11.3.4.発行 Vol.102に掲載)

「万葉集に見る万葉時代の男女の関係」

 家庭には家長と言うものがおり、昔はそれが絶対的な力を持っていたのが日本の社会のように思われがちです。果たして飛鳥時代でもそうだったでしょうか。

 現代のように、女性が平気でその旦那さんと対等に話し合うようになったのは、戦後のことだと思われています。昔は家庭には今でも主人と言う言葉に残される「主」の人がいて家庭のあり方の全てを取り仕切っており、家族はその家長の思惑通りの人生或いは生活を余儀なくしていたというものです。TOMもそう思っていました。(と、ここまで書いているとYUMIさんが上記を読んで「あんたは何を考えてるねん」と言い出しました。「家長なんてものは世界中何処にでもあるもので、戦前戦後どころか太古の昔から家庭内のあり方に変わりはない」そうで、「そんなことは動物たちの社会を見れば分かる」ことだそうです。しかも、「いつの時代でも『雌は強い』のだ」そうです。「男に出来ることは力仕事だけ」とまで言われました。しかし、それにもめげず、TOMなりの文章を続けます。)

 しかし、日本書紀を読むと、仁徳天皇のところに出てくる磐之媛の行など気の強い近代的な女性を思い描かざるを得ない人物もいます。相手が天皇であろうと嫌なものは嫌だと決別する女性が、そこには描かれています。話が本当かどうかは別として、そんな彼女の姿があったとしてもおかしくないとする下地が日本書紀の編纂された頃にはあったのだと思われます。尚、磐之媛は万葉集に出て来る最古の歌人でもあります。彼女の歌は万葉集に四首残されていますが、彼女の名誉のために言わせて頂くと、上に記したような嫉妬による恨みつらみを詠っているのではなく、純粋に仁徳天皇への恋心を詠っています。

 さて、時代は下って飛鳥時代、天武天皇とその夫人、五百重娘(いおえのいらつめ)との間に次に歌のやり取りがあります。天武天皇が

  我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後 (2-103)

 私んとこでは大雪が降ったよ お前さんのいる大原のような寂れたところにはこの雪が降るのはもっと後になってからだろうよ(TOMの勝手な訳)これに対し夫人は次の歌を返しています。

  我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ(2-104)

 おかみって言うのは龍神さんのことのようですので、この返歌は、何言ってんですか、今降ってる雪は私が岡の龍神さんに頼んで降らしてもらったものですよ、貴方のところに降ってる雪はその砕け散ったお零れなんですよ(TOMの勝手な訳)と言う意味になります。ああ言えばこう言う女性像がここにはあります。天皇といえども対等な立場で歌のやり取りを楽しんでいるように見受けられます。まあ、YUMIさんに言わせれば「当然」なんでしょうけど、TOMには何か現代と共通する飛鳥時代の男女の新鮮な関係を感じました。TOMの偏見で物申させて頂ければ、家長制度はもっと後の武家社会が作って行ったのではないかと思います。(←しつこい) 
 
 尚、これらの歌は天武天皇が飛鳥浄御原にいたとき作ったものと思われますが、大原とは距離的にそんなに離れていません。それを「古びた」ところと詠っているのは何か意味があってのことか、それとも単におちょくっているのか、TOMには後者のように思われますが、皆さんはいかが思われるでしょうか。

 ここで咲読を終えていたのですが、ひょっとして「藤原夫人は特別、性格が負けず嫌いだったので、このような歌で返した」のかもしれないと不安になったTOMは、もう少し調べた方が良さそうだという気になってきました。しかし、四千何百種あるという万葉集の歌を素人のTOMが読んでも、ここにもそんなことが、と言えるほど精通していません。そこで、奈良大学の上野誠先生の書かれた「みんなの万葉集」と言う本を参考に読ませて貰いました。すると、その中に選者(の一人?)である大伴家持と恋人関係(?)にある紀女郎の遣り取りが出ていました。家持が紀女郎に会えないことの言い訳に次の歌を送っています。

  鶉鳴く故りにし郷ゆ思へどもなにぞも妹に逢ふよしもなき(4-775)

 「昔から、貴女に会いたいと思っているのに中々会える機会がなくて」と言う意味だそうです。これに対し紀女郎は家持に次の歌を返しています。

  言出しは誰が言なるか小山田の苗代水の中淀にして(4-776)

 「(私と付き合いたいと)言い出したのは誰なのよ!山の田んぼに引く水の中淀みしているみたいに、貴方の気が淀んでるんじゃないの!」と言う意味だそうです。凄くきつい歌ですね。それを万葉集に取り込んだ家持も立派と言わざるを得ません。こんな歌もTOMには新鮮に聞こえてきます。そんな歌を歌えあえる男女関係がやはり万葉の時代にはあったのではと、改めて思うTOMでした。



【4】 (11.3.18.発行 Vol.103に掲載)

 第25回定例会も、いよいよ明後日になりました。綴ってきました咲読も、第25回定例会向けとしては最終回となります。
 今回の咲読は、「スタッフと万葉集」とでも言えば良いのでしょうか、今までと趣を変えまして、スタッフそれぞれの万葉集歌との出合いや思いを掲載してきました。いかがでしたでしょうか。読みながら、皆さんそれぞれの出合いやお好きな歌を思い起こしていただければ良いなと思っています。

 さて、最終回は、風人と万葉集をお話したいと思います。
風人が初めて出合った万葉歌は、巻1-43と巻4-511に重複掲載されています。

  伊勢国に幸しし時に、当麻磨真人(当麻磨大夫)の妻の作れる歌一首
 わが背子は いづく行くらむ 奥つもの 名張の山を 今日か越ゆらむ

 という歌でした。今尚、この歌は諳んじています。
 風人が少年期を過した名張市の駅前公園に万葉歌碑が建っていました。小学校の低学年であった風人には意味など分からず、多分、子供を背負って名張の山を彷徨っているようなことが書いてあるのかと思っていたようです。(笑) 

 夫が持統天皇のお供をして、伊勢の国に向かう道中を心配しているのでしょうね。この持統天皇6年の行幸は書紀にも記載があり、群臣の諌め聞かずに天皇が強行したことが書かれています。
 場所として名張が登場するのは、ちょうどその地が畿内と東国を分ける境であることによるのかも知れませんね。夫が遠くに行ってしまった事を強調する表現なのか、境を越えることを神に祈るような信仰や習慣があったのではないかなと、今はそんな風に思ったりします。

 ところで、風人の亡父は、文字を書くことを趣味にしていました。書道というのとは少し違いますが、写経を毎日続けていたのですが、ある日、その父が万葉集を書き始めたのです。今も押入れのどこかに保存してあるのですが、1日1~2首の万葉歌を毛筆で書き続けていました。おそらく、3,7~800首まで書いたのではないかと記憶しています。

 それを間近で見ていた母も次第に万葉集に興味を持ち、「万葉の大和路を歩く会」などに参加をするようになりました。風人もまた実家に帰ると、その母に付き添って参加するようになり、それが風人と万葉の2回目の出合いになりました。ただ、風人の場合、歌そのものではなく故地を訪ねたり、古道を歩く楽しみが中心でした。なかでも、冒険心一杯に藤原宮から阿騎野への軽皇子の狩猟コースを再現する狛峠・半坂峠越えや、竜在峠越えで吉野へ歩いたりと、風人の奥飛鳥歩きの下地がこの頃に出来ることになりました。

 この会は風人にとっても楽しみとなり、3年ばかり欠かさずに参加を続けました。犬養先生や清原先生など、著名な先生方が講師になられることも多く、流石の門外漢風人も、少しばかりの万葉歌を覚えるようになって行きました。

 しかし、それは知識として覚えただけで、まだまだ歌そのものに関心を寄せることは少なかったと思います。古代飛鳥が好きでしたので、それを紐解く方便として日本書紀の文章と変わらない読み方をしていたように思います。

 そんなあるとき、三度目の出合がありました。今でも一番好きな歌です。巻3-324 神丘に登りて山部宿禰赤人の作る歌一首と巻3-325その反歌です。


 324
 三諸の 神奈備山に 五百枝さし 繁に生いたる 栂の木の いや継ぎ継
 ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古
 き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見が欲し 秋の夜は 川
 しさやけし 朝雲に 鶴は乱る 夕霧に かはずは騒ぐ 見るごとに 音
 のみし泣かゆ いにしへ思へば

 325
 明日香川 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに


 風人は、とても飛鳥が好きです。歴史も風土も好きです。とある日、夕景を撮りに甘樫丘に登りました。落日を一人待つ間に、この歌が思い出されたのです。情景も合ったのでしょうか、自然と涙が出そうな思いが込上げて来ました。赤人とは違ったものであったと思いますが、切々と迫る情に変わりは無かったように思います。飛鳥愛ですね。(笑)

甘樫丘からの夕景
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 風景の中で万葉歌と出合う。良い体験が出来たことに感謝しました。未だに、歌心などというものとは無縁な日常ですが、このような体験が出るためにも、万葉集を手近に置いておきたいと思っています。
 そして、明後日の井上さやか先生のお話を、誰よりも楽しみにお聞きしようと思っています。新たな感動の準備のために。

 これにて、第25回定例会の咲読を終了いたします。お読みいただきまして、ありがとうございました。ご感想など、いただけると幸いです。





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