両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




特別回
奥飛鳥滝巡り

Vol.120(11.11.25.発行)~Vol.121(11.12.9.発行)に掲載





【1】 Vol.120(11.11.25.発行)に掲載

 今号と次号は、特別回「奥飛鳥滝巡り」の咲読を書くことにしました。どうぞお付き合い下さい。次号は後読になりますが、当日の感想なども交えて書かせていただきます。

 奥飛鳥は、今年春に国の「重要文化的景観」に選ばれるなど、注目度が増してきたように思います。訪れる方も増えてきましたが、それでも稲渕あたりまでが多いようです。足を延ばされても、栢森集落まででしょうか。
 特別回では、さらに奥に入って行きます。一人では行けない所、ガイドブックには載らない所を案内するのが、両槻会ウォーキングの真骨頂です。

 ご存知の方は少ないと思いますが、飛鳥川も源流近くになると5~10mほどの滝や淵が見られるようになります。今回は、これらを見て歩こうという企画です。
 今回のウォーキングコースは、石舞台公園のバス停から出発し、同バス停に戻ってくる周回コースになります。前半は、飛鳥川を遡りますが、急峻な坂道はありません。全コースの4分の3は、だらだらとした登りになり、最後に一気に下るコースイメージです。ルートマップです。


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 ポイントアイコンをクリックすると、淵や滝の写真をご覧いただけます。

 飛鳥川を源流近くまで遡りますので、どうしても頭に浮かぶのが『日本書紀』に書かれる皇極天皇の雨乞いの記事です。これは、文献に見える最古の雨乞いの記録だとされています。

皇極天皇元年(642年)条、「八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。」 

(8月1日、天皇が南淵の河上にお出ましになり、跪いて四方を拝み、天を仰いでお祈りになると、たちまち雷が鳴り大雨になった。そして、とうとう5日も降り続き、あまねく国土を潤した。)

 現在、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の淵が一番の候補地とされていますが、どうでしょうか。主祭神の宇須多伎比売命は、神名に「ウス」「タキ」と如何にも水に関連した言葉が使われ、神社前の淵を連想させます。また、近年までは、境内で「なもで踊り」と呼ばれる雨乞いの行事が行われており、関連の大絵馬も掲げられていたそうです。
 しかし、最近になって気になりだしたことがあります。神社は本殿が無く、拝殿だけがある古い形態をとります。これは、大神神社などと同じですね。信仰の対象は、拝殿の後ろにあるご神体山であるとされています。水神として祀られる神様ですから、山がご神体で良いのだろうかと素朴な疑問です。頭の中は混沌としています。(笑) 神様は難しい。(>_<) 明日香村のお年寄りたちは、この神社を「おさの宮さん」と呼ぶようです。190段ほどの階段を登った先には、本当にどのような歴史が隠されているのでしょうか。

 もう一つ皇極雨乞いの候補地として、女淵を挙げたいと思います。女淵は、飛鳥川の支流の一つ細谷川が渓谷を作る場所にあります。5mばかりの「ナゴトの滝」が作る滝壺は深く、竜宮に続くとする伝承があります。女龍が住むとされ、近年までは畑集落の方たちが雨乞い神事をされていたと、栢森集落の古老からお話を聞きました。また、続明日香村史には、「この淵に木の葉を投げ入れて、農作物の是非を委ねたという伝承がある」と書かれています。やはりこの淵でも、水神信仰や雨乞いが行われていたことが分かります。

 さて、皇極天皇の雨乞いが一番古い記録だと書きましたが、実は『扶桑略記』に次のような記載があります。推古天皇33(625)年の記事です。

「卅三年乙酉。天下旱魃。以高麗僧惠灌。令着青衣講讀三論。甘雨己降。仍賞任僧正。住元興寺。流布三論法門。

 風人は、漢文などまともに読めませんが、高句麗の惠灌という僧侶が経を唱えて雨を降らせたことが書かれているようです。しかし、『日本書紀』には同年の記事として「高麗の王が僧惠灌をたてまつったので、僧正に任じた。」とのみ書かれており、雨乞いを思わせる文章は書かれていません。

 その推古天皇時代の雨乞いの場所が、トチガ淵だとする伝承があります。上畑集落の古老Tさんの話として『万葉の道 巻の2』扇野聖史著の中で、紹介されています。「戦前は旱が続いた時にトチガ淵に願をかけると不思議に雨が降った。近在からの参拝もあり、岩の上に祠を建てて盛大に祭ったが戦後はすたれてしまった。」このトチガ淵が、今は男淵と呼ばれています。女淵と対をなす名前で呼ばれるようになったのでしょう。現在は、崖が崩れているため、男淵には接近出来ませんが、滝と淵の様子を途中から見ることができます。

 ごろ(ごら)の滝は、かなり立派な滝なのですが、雨乞いの伝承などは無いようです。雨乞いの場所にされる滝壺や淵と、されない所の違いは、どこにあるのでしょうね。風人は何度かこのコースを歩いているのですが、自分を納得させる答えはまだ見つかりません。参加者の皆さんと、その謎解きをしてみたいと思います。まだ若干名の受付ができますので、参加希望の方は両槻会宛てにメールでお申し込みください。(特別回は、終了しています。)

 次回は、特別回の一週間後になりますが、咲読のコーナーでは飛鳥川を遡る旅を続けたいと思っています。



【2】 Vol.121(11.12.9.発行)に掲載

 本来、咲読は「先に読む」・「話に花を咲かせる」からとったコーナータイトルですので、終了した特別回について書くのはタイトルに相応しくないのですが、今号では「奥飛鳥滝巡り」と、それに関連して「雨乞い」について考えてみたいと思います。

 12月3日、特別回を実施しました。70%の降水確率を見事に覆して、午前中は青空の下のウォーキングとなりました。だらだらと登る坂道を健脚揃いの参加者は、軽快に第一ポイントの飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の淵を目指しました。この渓流の雰囲気は、やはり皇極天皇雨乞いの場所ではないかと思わせるものがあります。聖域であったが故に、雨乞いの場所として近年まで『なもで踊り』が行われ、雨乞いの祈りが捧げられたのではないかと風人は考えています。土地の記憶という言い方をすれば良いでしょうか、あるいは受け継がれてきた日本人の感覚の中に、聖域らしい神秘な雰囲気を感じ取る何かがあるのかも知れませんね。

 「なもで踊り」というのをご存知でしょうか。神仏に芸能を奉納するタイプの雨乞いなのですが、近畿地方に多く見られるのだそうです。「南無手踊り」と書くようですが、元々は室町時代頃に流行った「風流踊り」や「太鼓踊り」を根源にすると言われています。踊りの中では、太鼓の音を雷鳴に見立てるのか盛んに打ち鳴らされたようです。このようなタイプの雨乞いは、奈良県で特に盛んに行われ、現在でも安堵町の泡波神社や明日香村などで再現された「なもで踊り」が行われている他、神社に奉納された大絵馬を各地で見ることができます。磯城郡川西町の糸井神社、高市郡高取町の小嶋神社の物などが知られます。
 「なもで踊り」は、祈雨請雨の場合もあるそうですが、願いが叶ったときに行う場合も多いようです。雨の降り方によって、踊り手の数やお祭りの規模も変わるところもあるようで、なかなかシビアな水神への答礼の仕方だったようです。(^^ゞ 各地でかなりのアレンジが加わって行きますので、調べると面白いかもしれません。いずれ両槻会定例会のテーマに出来れば良いのですが、どうでしょうか。

 大和の各地で行われる雨乞いには、他に山の上で火を焚くタイプのものがあります。山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、飛鳥周辺でも多くみられ「火振り」などと呼ばれることもあります。古代の防衛システムとしての烽火の存在と紛らわしく、どちらがどちらだとも言えない場合もあるように風人は思います。近隣では、耳成山口神社や香久山山頂の火振りは、雨乞いだと思われるのですが、松明に火を灯し山中や村内を練り歩くようです。
 香久山でも雨乞い神事が盛んに行われ、いつしか末社として祀られていたタカオカミ社が請雨の崇敬を集めるようになり、竜王社と呼ばれるようなったようです。香久山そのものも、竜王山とも呼ばれたことがありました。山頂にある向って右側の社殿前に、水を湛えた壺が埋められていて、古来干天の時に、この神に雨乞いして壺の水を替えました。しかしまだ雨の降らない時には、この社の灯明の火で松明を作り、村中を振り歩いたといいます。天保9(1838)年に香久山に登った土佐藩士の記録があり、「大和巡日記」と言う書物の中に「これは雨乞壺の由。ここへ水入れ減りたれば雨降り、減らざれば不降。十度に九度は雨降と処の申。」と記されています。

 また、耳成山では、八合目付近に建てられた耳成山口神社境内で雨乞いが行われたようです。耳成山口神社は延喜式内大社で、創建年代は詳しくは判らないのですが、天平2(730)年の東大寺正倉院文書にその名が見えるそうです。しかし、その名はいつしか忘れられ、明治以前は天神社と呼ばれていました。付近を流れる米川に架かる橋は、天神橋と言い今にその名を止めています。大同元(806)年には、「風雨祈願のため使いを遣わして奉幣す」の記録があり、それ以後貞観元(859)年の祈雨神祭など、雨乞いの神事がたびたび記録に残されています。
 拝殿には「文久元辛酉歳、雨請満」(1861)と記した社前での雨乞いの踊りの大絵馬が掲げられており、「なもで踊り」であったように思われます。また他に「安政二卯歳、雨請満」(1855)の額もあります。
 耳成山には登山道が5本あって、火振り坂、八木坂、木原坂、常盤坂、山之坊坂、と呼ばれていますが、かつて旱魃の時、耳成山の西にある木原村からは「雨たんもれ、たんもれ」と松明をかざしながら、村民が宮司を先頭にして参詣祈願したそうです。これが「火振り坂」の由来となっているようです。

女淵
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 栢森で昼食後、女淵・男淵を訪ねました。どちらも畑集落の人たちによる雨乞いが、近年まで続いていたようです。滝巡り当日は朝には青空が見えていたのですが、この女淵では雲が出てきて、男淵では雨が降り出しました。流石に龍神の聖域と言ったところです。薄暗い森の中の道は、不気味な様相になってきました。風人は、そういう感覚に鈍いのですが、怖かったと感想を話された方もいるほどでした。特に、男淵の崖上には動物の頭蓋骨があり、これまた雨乞いの生贄かと思わせるエピソードもありました。雨乞いの中には水神の聖域を汚して、神の怒りにより雨を降らせるというタイプがあるそうです。例えば、動物の心臓とか馬の頭部を水源地に捨てたりするのだそうです。まさか・・・。

七曲展望所より
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 雨は、水神の聖域を出たからなのか七曲展望所の手前で止みました。西の方は晴れていたようで、大和盆地を一望にすることが出来ました。細川に出て、石舞台へ。そして、この日行われていた飛鳥京跡苑池遺跡の現地説明会に向かいました。総距離約18kmのウォーキングになりましたが、楽しい一日を過ごすことが出来ました。

 奥飛鳥滝巡りは、写真撮影を中心に企画した特別回だったので、参加者は盛んに滝に向かってシャッターを切っておられました。その出来具合は、如何だったでしょうか。近い内に皆さんの作品を紹介できるページを作りたいと思っています。

 当日の様子や写真は、奥飛鳥写真集参加者レポート集関連資料集をご覧下さい。





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