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伏見の飛鳥やぶにらみ


 伏 見



 少し離れた場所から飛鳥を覗いてみます。
基本的には、平安時代の資料を通して見ていこうと思います。
見当違いや脱線などなど、焦点の合わない、まさしく「やぶにらみ」。
とりとめもない雑談で終わるか、新たな視点を提供するか、本人にも分かりませんが、お付き合い下さい。

あすか川 1 ふるさと 1
あすか川 2 ふるさと 2
耳成 吉野の春
春過而・・・ 10 香具山 1
東野炎立所見・・・1 11 香具山 2
東野炎立所見・・・2 12 ふるさとの恋



【1】 「あすか川 1」  (07.12.21.発行 Vol.3に掲載)

 年末が迫ってきました。
 この時期になると決まって頭に浮かぶのが次の歌です。

   年の果てによめる   春道列樹
 昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり

  古今和歌集の冬部に収められています。一年最後の日の歌です。
 『「昨日や、今日や」ゆうて暮らしとったが、明日はもう新年。「あすか川」やないけど、ほんま、月日の流れは速いもんやったんやなあ』

 この歌の特徴は、「あすか」という地名を軸にして、「飛鳥」と「明日」を重ねているところにあります。
 「あすか」は「明日香」とも書かれますから、今日明日の「明日」と重ねることなど当たり前のように考えがちですが、例えば『万葉集』にある「采女の袖ふきかへすあすか風都を遠みいたづらに吹く」は、原文「明日香風」という表記になっています。しかし、地名に「明日」という日が掛けてあると理解することは出来ません。表記上「明日」を用いただけで、今日明日という時間の流れを意味するわけではないのです。

 そもそも、このような掛詞は、平仮名の発明によって成立したもので、漢字で書かれる万葉集には原則として存在しません。「明日香」と書かれていても、「明日」の意味が掛けられているわけではないのです。
 ですから、この歌は、ごく平易に見えますが、いかにも平安和歌的な作品といえます。
 掛詞というと、国語の授業で、いやな思い出を持つ方もいらっしゃるでしょう。しかし、この歌は、「あすか」と「明日」を掛けることで、昨日・今日・明日という時の推移と「あすか川」の流れを重ねることが可能となり、速やかに流れていく時間と川のイメージを同時に想起させることになるのです。
 口語訳をすると煩雑な説明が必要ですが、掛詞を用いることで、三十一文字に収め、しかも、時間と川の流れを同時に鮮烈に印象づける歌となっているのです。
 このように、「あすか川」は「明日」という言葉を含むために、時の流れを象徴する場所になります。
 今回の歌は、年末の押し迫った時期に、もはや流れていく水のように帰ってこない時間を、「あすか川」という名を軸に詠んだ作品でした。
 この歌は、平安朝の「あすか川」歌でも著名なものですが、同じ古今集に、さらに有名な「あすか川」の歌があります。
 次回はこれを取り上げましょう。



【2】 「あすか川 2」   (08.2.15.発行 Vol.10に掲載)

 前回「あすか川」の歌を紹介しましたが、恐らく平安時代以降、もっとも知
 られた「あすか川」の歌は次の作品でしょう。

     題しらず        よみ人しらず
   世の中は何か常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる

 古今和歌集の雑歌下の部に収められています。
 『世の中、変わらへんものはない。あすか川の、昨日淵やったところが、今日は浅瀬になっとる。明日はどうなるんや』とでもいう歌です。
 この歌も、「あすか川」の名に「明日」を重ね、昨日・今日という短い間に、川の淵が瀬に変わってしまう、その変化=無常を詠んだ歌です。
 
 前回の歌が、一年の時の速さを、あすか川の流れと重ねた歌でしたが、今回の歌は、さらに変化の度合が早く、昨日の淵が今日は瀬に変わる、さて、明日は…と一日一日の急激な変化を、あすか川の淵瀬に重ねたのです。


 紀貫之に『土佐日記』という作品があります。国守の任期を終え、土佐から都へ帰るまでを描いた作品ですが、苦難を経て漸く桂川に至り、次のようなことをいいます。

    この川、あすか川にあらねば、淵瀬さらに変はらざりけり。

 『この川は、あすか川と違うから、淵も瀬も全然変わらへんのやなあ』
 昔と変わらない桂川を見て、京に戻ったことを実感するわけですが、そこにあすか川が引き合いに出されています。あすか川は、淵がすぐ浅瀬になる、変化極まりない川だが、桂川は全然違うというのです。

 それ程までに、あすか川は、移り変わりの激しい川として認識されていることになります。古今集歌の影響の大きさが知られるわけですが、この歌は、古今集では、雑歌に入っており、無常をテーマとしています。『土佐日記』での扱われ方も、その流れですね。しかし、この歌、恋歌で踏まえられることもあります。

     女の、人のもとにつかはしける
   ほかの瀬は深くなるらしあすか川昨日の淵ぞわが身なりける

 この歌は、後撰和歌集の恋歌一の部に収められています。
 ある女が男に送った歌で、『他の浅瀬は深くなったようですね。あすか川の昨日の淵が我が身だったのですね』というのが表面的な訳ですが、もちろん、「ほかの瀬」とは別の女のこと。瀬が深くなったというのは、愛情がそちらへ移ったことをいいます。そして「昨日の淵ぞわが身」とは、昨日の淵は今日の瀬、つまり深い愛情(=淵)が今日は浅く(=瀬)なったと、男の薄情を恨んでいるのです。古今集の歌を踏まえ、男の心変わりを「あすか川」に重ねて詠んだ歌です。

 平安時代以後のあすか川は、有為転変を象徴し、時には、男女の心変わりをも意味するようになります。
 これも、すべては「あすか川」が「明日」という言葉を持っていること、そして、それが掛詞として用いられて初めて可能になったことです。

 平安和歌の特徴である掛詞は、このように地名にあらたな意味を加える役割を果たしているのです。
 次回も、地名を取りあげましょう。



【3】 「耳成」  (08.4.18.発行 Vol.18に掲載)

 飛鳥の山といえば、耳成山、畝傍山、天香具山の大和三山が想起されます。例の中大兄皇子の三山歌(香具山は畝傍ををしと耳成と相あらそひき…)でも著名ですね。


 万葉集には、この歌をいれて、耳成山が三首(他に耳成の池が一首)、畝傍山が六首、天香具山(香具山のみも含めて)が十首以上詠まれています。

 耳成山がもっとも少なく、天香具山が格段に多く詠まれています。

 ところが平安時代に入ると、畝傍山、香具山はぱったりと詠まれなくなります。平安後期に再び詠まれ始めますが、それまでの平安和歌には、ほとんど出てきません。

 それに引き替え、耳成山は、古今和歌集で一首、古今集の撰者の一人、壬生忠岑の家集に三首、古今集に続く後撰和歌集に二首、見ることができます。他の山が平安時代に入って詠まれなくなったのと逆に、耳成山は、平安時代に入って、急にもてはやされるようになったようです。

 これはやはり、「みみなし」という名前に由来するようです。後撰和歌集の二首をあげてみましょう。恋歌です。

   宇多院に侍りける人に消息つかはしける返り事も侍らざりければ よみ人しらず
 うだの野は耳なし山か呼子鳥呼ぶ声にだに答へざるらむ
   返し     女五のみこ
 耳なしの山ならずとも呼子鳥何かは聞かむ時ならぬ声(ね)を

 最初の歌は、ある男が、宇多院(宇多法皇の御所)にいた女五のみこに、手紙を送ったけれども、返事もない。そこで詠んだものです。表面上の内容は、

「宇多の野ちゅうのは、耳成山かいな。呼子鳥が呼んどるのに、答えへんのやから」

とでもなります。「宇多の野」は、女が宇多院にいたから、こういうのですが、「耳成山」との関連でいえば、「宇陀の野」と詠んだと理解した方がいいかもしれません。宇多を宇陀に詠み変えたわけですね。

 さて、この歌、もちろん、宇多(宇陀)の野とか耳成山に呼子鳥が鳴いているという景色を詠んだものではありません。詞書にあったように、女から返事がないことを恨んだものです。

つまり、
宇多の野=宇多院にいるあんたは、耳成山=耳無し=聞く耳を持たんのかいな。呼子鳥みたいに、声をかけてるのに、何で返事もしてくれへんねん

と、まあこういう歌になるわけです。

女の返歌は、表面上の内容は、

「耳成山やなくても、呼子鳥の声なんて聞きません。季節はずれのそんな鳴き声なんて」

となります。
 呼子鳥は春の鳥です。「時ならぬ」と詠んでいるのは、この贈答歌が詠まれたのが、春ではないのでしょう。だから、季節はずれの声、タイミングを逃した声など聞かない、というわけです。

ここでも、もちろん、耳成山は、「耳無し」と重ねられています。

耳成山=聞く耳を持たないこの私、そんな私やなくても、そんなタイミングはずれのあなたの泣き言なんて聞く気はあらしません。

余程、男の手紙は時機を逸していたのでしょうね。

こんな風に、耳成山は、「みみなし」という名前を持っていたために、「耳無し」と掛詞で使われるのです。

 平安前期の和歌は、掛詞を非常に好みます。前回の飛鳥川もそうでしたね。ですから、耳成山が平安朝に入ってもてはやされるのも、掛詞として「耳無し」を重ねることができるからなのです。

畝傍山、天香具山は、掛詞にしづらいのでしょう。「うねび」「(あまの)かぐやま」……どんな掛詞が思いつきますか?

耳成は、耳無し。聞く耳を持たない。
そんな、掛詞として利用できる「みみなし」という言葉を持っていたことが、耳成山が平安朝に入ってもてはやされる要因となっていると考えられます。



【4】 「春過而・・・」  (08.6.20.発行 Vol.24に掲載)

  春すぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天(あめ)の香具山

 皆さんご存知の持統天皇の歌です。万葉集に入っています。この歌が、藤原定家撰といわれる百人一首に入っていることも、多くの方がご存知でしょう。そして、歌の言葉が万葉集の形とは異なっていることも。

  春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天(あま)の香具山

 これが百人一首に入っている形です。
 大きく異なる点は、「来たるらし」と「来にけらし」、「干したり」と「干すてふ」の部分でしょう。
 「来たるらし」と「来にけらし」を比べれば、後者はやわらかめのいい方ですし、「干したり」と「干すてふ」では、前者は、「衣が干してある。」という明確な言い切りなのに対して、後者は「衣を干すと伝えられている…」とやや遠回しのいい方で、しかも、前者が言い切りであるのと異なり、結句の「天の香具山」に接続し(…と伝えられている天の香具山)、なだらかに一首が繋がっていきます。

 こう考えてくると、百人一首の形は、いかにも平安時代的なやわらかさを持ち、万葉集の形は、いかにも力強いといえます。
 それでは、この歌は、定家が平安時代的な歌として改作したのでしょうか?
 百人一首は、基本的に勅撰和歌集から選ばれています。この持統の歌も、新古今和歌集に同じ形で入っています。すると、既に新古今集の段階で改作されたのでしょうか?(定家は新古今の撰者の一人でもあります)

 ところで、ご存知のように、万葉集はもともと漢字で書かれています。この持統の歌の原文は以下のとおりです。

  春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山

 この字面を見て、すぐに読めますか?
 万葉集の形を覚えている方なら、「そんなん、読めるわ」と仰るでしょう。でも、知らなかったら?
 果たして読めますか?

 万葉集の時代、日本には独自の文字がありませんでした。従って、文字として残すためには、中国渡来の漢字を使うしかありません。漢字に大和言葉を当てはめたり、漢字の音と大和言葉の音を重ねたりして、何とか、万葉集の歌は文字として残されたのでした。

 平安時代に入ると、日本独自の仮名が発明されます。大和言葉がそのまま文字として残されるようになったわけです。
 しかし、そうなると、漢字のみで書かれた万葉集は極めて読みにくいもとなってしまいます。平安時代に入った当初、万葉集は難解で読めないものだといわれています(新撰万葉集という平安前期に作られた歌集の序文にそういう言葉があります)。
 そこで、村上天皇の時代に、撰和歌所という役所が置かれ、万葉集を読む作業が公に始まりました。

 この当時の学者がどのように万葉集を読んだのか、それはほとんど分かりません。しかし、万葉集には、一部、平安時代に写されたとされる写本があり、それには、漢字のみの万葉集に訓が振ってあり、当時の読み方が推測できます。

 それでは持統天皇の歌はどのように読まれているでしょうか。
 平安中後期に書写されたと推測されている元暦校本万葉集、平安末期藤原敦隆によって万葉集を部類分けした類聚古集によって見てみましょう(こういうのを調べるには、『校本萬葉集』全十八巻・別冊三冊が威力を発揮します。大きな図書館にはあると思います)。

  はるすぎてなつぞきぬらししろたへのころもかはかるあまのかごやま  (元暦校本)
  はるすぎてなつぞきぬらししろたへのころもほしたりあまのかごやま   (類聚古集)

 「夏来良之」は双方「夏ぞ来ぬらし」と読んでいます。「衣乾有」は類聚古集では「衣干したり」ですが、元暦校本では「衣乾かる」となっています。最後の「天之香来山」は、双方とも「天のかご山」と読んでいます。

 これらは、漢字で書かれた万葉集を読む、平安人の努力の跡なのです。ちなみに、香具山は、通常「かぐ山」と読みますが、平安和歌では「かご山」という形で歌に詠まれる場合があります。これも、万葉集の訓読の成果が平安和歌に現れたものです。

 このように考えてくれば、百人一首の形も、定家が一存で改作したというのではなく、当時の万葉集訓読研究の成果であると考えるべきなのでしょう。

 現在我々が読んでいる万葉集は、こうした研究のたどりついた結果です。しかし、それが果たして本当に万葉集で意図された形なのか、実は疑問もあります。例えば次の歌、

  ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 柿本人麻呂の名歌として著名な歌です。原文は以下のとおり。

  東野炎立所見而返見為者月西渡

 この歌について、岩波書店の新日本古典文学大系萬葉集の注釈がおもしろいことをいっています。

 「人麻呂の名歌として親しまれている。しかし、本当にこういう形の歌だったのかという保証はない。ここに示した訓み下しは賀茂真淵の案出したもので、彼以前の訓みは、
  あづま野のけぶりの立てる所見てかへりみすれば月傾きぬ
 真淵の訓み方があまりにも見事なために、疑問を残しながら下手に手を出せないというのが正直なところである」

 この名歌も、本当にこういう形だったかは疑問が残るというのです。真淵が見事な訓み下しを行ったわけですが、見事だからといって、万葉集の本来の形というわけではありません。新大系の注釈は、この訓読への疑問を、九点列挙しています(興味のある方は御覧下さい。新大系なら、多くの図書館に入っているはずです)。

 万葉集の歌は、元来漢字で書かれています。現在までの研究の成果として、いくつかのテキストがあるわけです。それは、平安時代から綿々と続く歴史を持ちます。時には、原文を見て、その苦闘の跡をしのぶのもいいかもしれません。



【5】 「東野炎立所見・・・1」  (09.2.9.発行 Vol.43に掲載)

 みなさま、ご無沙汰しておりました。
 私事により、大分間が空いてしまいましたが、再開します。
 
 何を書こうかすっかり忘れてしまいましたが…

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 前回、最後に柿本人麻呂の名歌、

  ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 をあげました。

 今回は、この訓みについてお話しします。

 前回もあげましたが、原文は以下の通りです。

    東野炎立所見而返見為者月西渡

 これを、例の『校本萬葉集』で確認しますと、多くが、

   アツマノノケフリノタテルトコロミテカヘリミスレハツキカタフキヌ

 と訓んでいます。濁点を付け漢字をあてれば、

   あづま野のけぶりの立てる所見てかへりみすれば月傾きぬ

 となりますね。鎌倉初期写の「古葉略類聚少」では、五句目が「ツキニシワタリ」となっていますが、他はすべて同じ訓だと考えて差し支えありません。

 江戸時代にもっとも読まれた、寛永版本の訓も同じで、つまり、平安時代から江戸時代にかけて、ずっと「あづま野の…」と訓まれていたことになります。

 この歌は、『万葉集』以外では、鎌倉時代の勅撰和歌集『玉葉和歌集』に、

    題しらず      人麿
   あづまののけぶりのたてる所みてかへりみすれば月かたぶきぬ

 として入っています。やはり同じ形ですね。
 他のアンソロジー(詞華集)としては、『夫木和歌抄』(鎌倉時代成立)、『歌枕名寄』(鎌倉時代に原形成立か)に、収められています。ちなみに、『歌枕名寄』は、書名からも明らかですが、「歌枕」(名所)の国毎に歌を部類した集です。つまり、この歌の「あづま野」は、地名としてとらえられていたわけです。
 ということは、「ひむがしの…」という今の訓みでは、地名が消えてしまったことになります。

 なお、この歌を踏まえた作品としては、実尹という僧侶の

   雲こそは空になからめあづま野のけぶりも見えぬ夜半の月かな

 という作品が『続古今和歌集』(鎌倉時代成立の勅撰和歌集)に、室町時代の歌人・正徹の

   かへりみる煙のすゑもあづま野の草葉にかかる露の下道

 という作品が『草根集』(正徹の歌集)に見えます。なお、正徹は、他にもこの歌を踏まえた作品を作っています。

 双方とも、「あづま野」「けぶり」という言葉から、明らかにこの歌を踏まえていることが分かります(正徹の場合は「かへりみる」という言葉も踏まえていますね)。逆にいえば、彼らが読んだのは「ひむがしの…」という形ではなく、「あづまのの…」であったことも分かりますね。

 この歌は、「あづまの…」の形で、平安時代から江戸時代に至る長い期間、よまれてきたことになります。それが変化するのが、江戸時代の賀茂真淵以降となります。だから訓みの歴史としては、現在の「ひむがしの…」は、かなり新しいといえるわけです。

 ところで、この歌、現在では、名歌として喧伝されていますが、「あづまのの…」と訓まれていた頃は、決して著明な歌であったとはいえません。

 勅撰和歌集でも、漸く鎌倉時代後半の『玉葉集』に入り、詞華集でも、地名がテーマの『歌枕名寄』に入りますから、歌の出来不出来よりも、「あづまの」という地名に重点があったことは確かでしょう(ちなみに、『夫木抄』でも「あづまの」という題で収められています)。また、この歌を踏まえた作品も、多くはありません。

 とすれば、「ひむがしの…」という訓みになったことが、この歌が喧伝されるもっとも大きな要因であったということになるのでしょうか。
 名歌とは思われていなかった歌が、訓みが変わって、一気に名歌となった……
 この経過に何やら釈然としないのは、私だけでしょうか。

 今の訓みになるきっかけは、江戸時代の学者、契沖と賀茂真淵にあります。
 次回は、その辺りをお話しします。



【6】 「東野炎立所見・・・2」  (09.4.17.発行 Vol.49に掲載)

 前回に引き続き、柿本人麻呂の名歌、

  ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

についての話です。

 この歌の原文は、

   東野炎立所見而返見為者月西渡

であり、江戸時代に至るまで、

  あづま野のけぶりの立てる所見てかへりみすれば月傾きぬ

と訓まれていました。それが、現在の訓になる切っ掛けは、まず契沖(1640─1701)にあります。

 契沖の万葉集注釈書『万葉代匠記』は、科学的・文献学的考証を行い、のちの万葉集注釈に大きな影響を与えました。
 その『代匠記』では、この歌の訓は、一応は、当時の通例である「あづま野の~」となっています。しかし、契沖は、一案として次のようにいいます(以下の引用は、伏見による解釈です)。

 原文で「東野」と書き「西渡」と書いてあり、相対している言葉なので、「ひむがしのの」と訓み「にしわたる」と字のままに訓んだ方がいいのではないか。

 原文が「東」「西」とあるのだから、「ひむがし」と訓み、「あづまの」という地名ではなく、単に方角を示していると解釈した方がよいのではというのです。

 ここに、「あづま野」という地名から、東の方角の野という現在に近い考え方が出てきます。

 また、契沖は、原文「炎」についても、万葉集では「炎」という字を「かげろふ」と訓む例があるので、ここも「かげろふ」と訓むことが可能かともいっています。

 契沖はこのようにいくつか現在の訓に繋がる説を出していますが、それでも、結局は、「あづま野の~」という訓にしています。

 これを、現在の形にしたのが、賀茂真淵(1697─1769)です。
 真淵は、万葉集注釈書『万葉考』において、原文の区切り方を変えます。初句と二句なのですが、「あづまの野~」と訓んだ通例の訓は、

  東野 炎立所見而

と区切っていたわけです。契沖が一説として「ひむがしのの」と訓んだのも、区切り方としては同じです。
 それを、真淵は、「東」の一字だけで一句とした例は多い、と主張して、

  東 野炎立所見而

と区切ります。その上で、「炎」を「かぎろひ」と訓む例をあげて、現在の訓、

 ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

という形を提出するのです。真淵は、通行の訓に対して、

 今の万葉集で、「あづま野のけむりの立てる」と訓んでいるのは、何の理もないみだりな訓で、しかもその訓によって、「あづま野」という場所があるなどというらしい。本当に後人のいうことは、この程度のことで、ばかばかしい

 などといっています(いや、「ばかばかしい」とまで直接的にはいってませんが、文章の勢いに、そういうニュアンスが感じられます)。自分こそが、古代の人のことがよくわかっているのだ、という強い自信が感じられるところではありますが、果たして、真淵の見解に説得力があるのかどうか、というのも、問題でしょう。

 この歌は、現在、真淵による訓によって読まれています。
 ここまでの話で、この訓が、かなり新しいものであったことがお分かりいただけたでしょうか?

 さて、しかし、真淵が自信をもって提出したこの訓、実は疑問点があり、それは、見やすいところでは、岩波書店の新日本古典文学大系に一覧されていると、以前に申し上げました(飛鳥やぶにらみ・第4回)。新大系では、九つの疑問点をあげているのですが、ここでそのいくつかを紹介します。

 ・「かぎろひ」とは何か。
 ・古代では「かぎろひ」については「立つ」の語を用いず、必ず「燃ゆ」と言った。
 ・「立つ」もの煙である。煙に「炎」の字を用いた例がある。

 ここでは三つをあげておきました。この疑問を見るだけでも、果たしての訓でいいのかどうか、怪しくなるのですが、だからといって、この歌の訓を変えることは、これだけ名歌として喧伝されているだけに難しいでしょうし、殊に、商業ベースに乗る一般書で変更する勇気はなかなか持てないのかもしれません。

 個人的には、古代から続く「あづま野の~」という訓に戻してしまうのも手ではないかと思うのですが……まぁ、無理でしょうね。もし、変えてしまったとして、受け入れられるかどうか。

 しかし、このように訓読の歴史を辿っていきますと、この歌を現在の訓のままで読むのに、躊躇してしまいませんか?
 そして、この歌が、真淵の訓によって名歌と喧伝されていることに、釈としなくなってきませんか?

 私は、釈然としません。
 で。
 釈然としないまま、二回にわたったこの話は終るのでした。



【7】 「ふるさと 1」  (09.6.19.発行 Vol.54に掲載)

 今回は、飛鳥というよりも、奈良=平城京を、平安人がどのように思っていたかについて、少しお話しします。前回もそうでしたが、どんどん飛鳥から離れていきます…

 「奈良は日本人のふるさと」は、よく聞くフレーズです。平安時代の人も奈良を、またその京である平城京を「ふるさと」と呼んでいたようですが、現在の私たちがいうところの「ふるさと」とはニュアンスが異なっているようです。
 『古今和歌集』に見える歌を見ていきます。

    奈良の京にまかれりける時に、宿れりける所にてよめる
                        坂上是則
  み吉野の山の白雪つもるらし
      ふるさとさむくなりまさるなり  (325)

 かの坂上田村麻呂の末裔といわれる坂上是則が、平安京から平城京へ下り、宿で詠んだ歌です。

 「吉野の山の白雪が積もっているらしい、ふるさと=奈良の京は寒さが増している」というような歌です。内容は非常に分かりやすいですね。

 吉野山に雪が積もったからといって、平城京が寒くなるわけではないでしょうが……まあ、京都の人からすれば、近いのかもしれません。それ程、吉野山には寒いというイメージがある、ということでもあるのですが、それはともかく、この歌では、「奈良の京」(平城京)を「ふるさと」と呼んでいます。従って、この「ふるさと」は、「故郷」ではなく、「旧都」の意であることは確かです。この歌が詠まれたときの都は、平安京であり、平城京は、古き都なのです。その意味で「ふるさと」と呼ばれているのです。この「ふるさと」に、現代語で意味する「故郷」を想起することは難しいと思います。

 次の歌は、平城京=「ふるさと」という観念を強く表すとともに、あまり肯定的でないイメージも示しています。

    初瀬にまうづる道に、奈良の京に宿れりける時よめる
                         二条
  人ふるす里をいとひて来しかども
      ならの都も憂き名なりけり   (986)

 作者・二条については、源至の娘という以外わかっていませんが、初瀬詣の途中に、平城京に泊まった時の歌です。

 「人を古びさせる里を厭うてここまでやってきたのに、奈良の都もつらい名前であったんやなあ」といった歌です。「人」とは、自分のことを指すのでしょうが、「私を古びさせる」とはどういうことでしょうか?
 恐らく、男(恋人、あるいは夫)から古い女にされた、ということでしょう。男に新たな恋人ができたのかも知れません。そんな「里」をいやに思って、初瀬へ行こうとしたところ、その途中、平城京に泊まります。ところが、その平城京も「憂き名」、つまり、自分にとってつらい名前だというのです。なぜ平城京が「憂き名」なのでしょうか?

 二条がいやがっていたのは、「ふるす里」です。「ふるす里」と口に出してみてください。

 「ふるす里」「ふるす里」「ふるすさと」……「ふるさと」

 そうです、「ふるす里」とは、つまり、「ふるさと」なのです。そして、先ほどの歌にも詠まれていたように、平城京とは「ふるさと」でした。つまり、「ふるす里」を嫌がって出て来たのに、やってきたこの京もまた「ふるさと」(ふるすさと)であったというのです。

 この歌は、平城京=「ふるさと」という認識が強くあるからこそ成立する歌であるといえます。そしてまた、「ふるさと」という言葉は、「古い」いうことに重い意味があることも分かります。自分が古くされたのと同じように、平城京も古くなってしまった京なのです。

 長くなってきましたので、続きは次回で。



【8】 「ふるさと 2」  (09.8.21.発行 Vol.60に掲載)

 前回は、平城京=「ふるさと」という認識が強くあり、その「ふるさと」という言葉は、「古い」ということに重い意味があることをお話ししました。
 つまり平城京は、「ふるさと」=「古い京」と呼ばれていたわけです。そのことを念頭に置きますと、次の歌は様々なことを考えさせます。これも『古今和歌集』に入っている歌です。

    ならのみかどの御うた
  ふるさととなりにしならの都にも色はかはらず花は咲きけり(春下・90)

 「ならのみかど」は、平城天皇を指します。平城という名からしても平城京と深く関係を持つ天皇ですが、平城は、平安遷都を行った桓武の第一子として、宝亀五(774)年に誕生。大同元(806)年、桓武崩御の後を承けて即位したものの、同四(809)年四月一日に位を弟の嵯峨に譲ります。しかし、寵姫・藤原薬子に唆されたためか、十二月四日に平城京に遷り、弘仁元(810)年九月六日には、平城京への遷都を命じます。この期に及んで、嵯峨天皇を中心とした朝廷側は、平城と対決。結果、薬子の兄・仲成は射殺され、薬子は自害、平城は出家することになります。いわゆる薬子の変です。変後も平城は、平城京に留まったらしく、天長元(824)年に崩御します(なお、平城天皇については、最近、人物叢書の一冊として春名宏昭『平城天皇』(吉川弘文館・2008年)が刊行されました。独自な視点で平安初期の政治史が描かれています)。

 このように、平城京と関わりが深い天皇の歌が、先にあげたものです。
 ふるさととなってしまった平城京にも、色は変わることなく花が咲いたのだなぁ、というこの歌、詠まれた時期は分かりませんが、いかにも平城天皇にふさわしいといえましょう。

 この歌で注意したいのは、やはり上句、「ふるさととなりにしならの都」です。「なりにし」(なってしまった)と完了形でいうのは、もはや現在の都となり得ず、古き旧都でしかない平城京のことを端的に表しているといえましょう。
 作歌時期が、長岡京、あるいは平安京遷都の時であれば、都が遷ってしまい、八世紀の歴史の中心にあった平城京も、ついに旧都となってしまった、という感慨を表すでしょうし、平城が出家して以後なら、平安京からの還都を目論みながら果たせず、平城京は古き京でしかなくなってしまった、という嘆きにもなるでしょう。事実、この薬子の変の直後に、桓武天皇が平安京を「万代の宮」と定めたことを、嵯峨天皇が再確認したことによって、平安京が都として定まるのです。まさしく、その時点で、平城京は、「ふるさと」となってしまったのです。

 平城京は、「ふるさと」=古き京として位置づけられました。これを、平安京から見れば、古き体制からの訣別とでもいえましょうか。平城京は、平安遷都まもない人々にとっては、「日本人の心のふるさと」などといわれる場合の「ふるさと」とは意味合いがかなり異なる「ふるさと」としてあったのです。



【9】 「吉野の春」  (10.1.8.発行 Vol.71に掲載)

 年が明け、新春となりました。
 今回は、新春の歌、特に吉野山の春についてお話しします。

 平安時代に編纂された勅撰和歌集は、基本的に春の部から始まります。ですから、冒頭歌は、新春であり新年の歌となります(厳密にいえば、正月一日から始まる春と、立春から始まる春は異なりますが、ここで措いておきます)。

 三番目の勅撰和歌集・拾遺和歌集の冒頭歌は、次のようなものです。

   平貞文が家の歌合によみ侍りける  壬生忠岑
 春立つといふばかりにやみ吉野の山もかすみて今朝は見ゆらむ(春・1)

 古今和歌集の撰者でもある壬生忠岑の歌です。
 春が立ったというだけで、吉野の山も霞んで今朝は見えるのだろうかという歌ですが、立春=新春となったので、吉野山も霞が立ったのではないかと推測している歌です。
 霞は春の象徴ですから、立春の日の景物としてはよく用いられます。例えば、万葉集にも、

  久方の天の香具山この夕べ霞たなびく春たつらしも
                                     (1812・柿本人麻呂歌集)

 という歌がありますね。香具山にこの夕べ霞がたなびいた、春が立ったのだろうというこの歌は、春になると霞が立つという認識が明確に現れています。

 忠岑の歌に話を戻しますが、この歌で注目したいのは、霞が立つ場所、吉野山です。
 吉野といえば、花の吉野が著名ですね。ですから、春の霞が立つことに違和感はないかも知れません。しかし、平安時代に詠まれる吉野山には、春というイメージは強くはありません。古今和歌集に次のような歌があります。

   題しらず              よみ人しらず
 春霞たてるやいづこみよしのの吉野の山に雪はふりつつ(春上・3)

 春霞が立ったのはどこだろう?この吉野の山ではまだ雪が降り続いているというような内容です。春となって霞も立つはずなのに、この吉野ではまだ雪が降っているのです。つまり、吉野は、春になっても雪が降るような場所なのです。平安時代では、吉野はこのように雪の吉野として詠まれます。
 それだけではありません。古今集のは次のような歌もあります。

 み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ
                                        (冬・327・壬生忠岑)

 吉野の山の白雪を踏み分けて入った人が、便りもしないという歌です。最初にあげた歌と同じく忠岑の歌です。「おとづれ」というのは、便り、音信のことです。雪を踏み分けつつ吉野山に入った人から便りがないことを詠んだ歌なのですが、何故、吉野山の人から連絡がないのか。それは、吉野が俗世間から離れるために行く場所だからです。

  世にふれば憂さこそまされみ吉野の岩のかけみち踏みならしてむ
                                        (古今集・雑下・951)

 この歌では、世に生きていけば、つらさばかりが増えていく、だから、吉野山の険しい道を踏みならしてしまいたい─吉野山に籠もりたいと詠んでいます。つまり、吉野山は、俗世間から離れた場所ということになります。ですから、先ほどの忠岑の「みよしのの」歌も、俗世間から離れるために吉野山に籠もった人から連絡がないことを詠んだ歌ということになります。古今集には、また次のような歌もあります。

  もろこしの吉野の山に籠もるとも遅れむと思ふ我ならなくに
                                      (1049・雑体・藤原時平)

 唐土(もろこし)の吉野山に、あなたが籠もるといっても、遅れようと思う私じゃありません、という歌です。この歌では、唐土の吉野が出てきます。もちろん、唐土に吉野などありません。日本の吉野だって、遠い人間世界から隔絶した世界なのに、それ以上に遠い唐土の吉野を設定し、そういうまったく人里離れたところにでも、あなたについていこう、というのです。ちなみにこの作者・時平には、次のような歌が別にあります。

   女につかはしける  贈太政大臣
 ひたすらにいとひ果てぬるものならば吉野の山にゆくへしられじ
                                        (後撰集・恋四・808)

 女に送った歌です。ひたすら嫌われてしまうようなら吉野の山に入って行方しらずになってしおう、というわけですが─何やら逆ギレしているようにも見えますが、それはともかく、吉野山というのは人里離れた場所であることは、分かっていただけると思います。

 以上、吉野山について見てきましたが、吉野山は、雪の吉野であり、人里離れた場所なのです。
 そのことを念頭において一番最初の歌を読み返してみて下さい。
 単に、春になっただけで吉野も霞んで見えるのだろうか、と詠んでいるだけではないのです。吉野とは、春がなかなかやってこない、雪が降り続ける場所であり、人里から隔絶した場所なのです。そこが霞んで見える。春が来たのか?春が来たというだけで、あの吉野山も霞むのか?─そのような驚きが読み取れないでしょうか?

 新古今和歌集の冒頭歌は以下のようなものです。

   春立つ心を詠み侍りける   摂政太政大臣(藤原良経)
 み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり(春上・1)

 春は、遠く、雪が降り続く場所にもやってくるのです。



【10】 「香具山 1」  (10.3.5.発行 Vol.75に掲載)

 平安時代に入ると、大和三山のうち、耳成山だけが和歌に詠まれ始めるようになった、ということについては、以前お話ししました。「みみなし=「耳無し」という掛詞が好まれたためで、畝傍山、香具山は掛詞にしづらく、詠まれなくなったとも指摘しました。
 そのときにわずかに触れたのですが、実は、香具山は、平安後期に入ると詠まれ始めます。そしてそれは当然掛詞のため、というわけではありません。
 いわゆる八代集(古今和歌集から新古今和歌集まで)を見ると、香具山は、詞花和歌集(六番目)に一首、千載和歌集(七番目)に一首、新古今和歌集に四首見られます。平安後期になって急速に詠まれるようになったといえましょう。
 今回は、その中でも、新古今和歌集の後鳥羽院の歌を取り上げます。

    春のはじめの歌   太上天皇
  ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山霞たなびく(春上・2)

 ほんのりと春こそが空に来たようだ。天香具山に霞がたなびいている、という歌です。解釈にはそれ程困難はありませんが(「ほのぼのと」が何処にかかるかで議論がありますがここでは省略)、霞が香具山にたなびいている様子を見て、春が空にやってきたようだと、春の到来を知る歌です。この歌については、大体の注釈書で、次の万葉集歌を本歌とするとされています。

  久方の天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも(1812・柿本人麻呂歌集)

 いわゆる本歌取りの歌ということになります。本歌取りについて一言で説明するのはやっかいですが、「古歌の一句もしくは数句を意識して自分の歌に取り用い、表現効果の複雑化をねらう修辞法。その取られた古歌を本歌という」(和歌文学大辞典・明治書院)という説明で今はごまかしておきます。後鳥羽院の歌も、人麻呂歌集の歌の「天の香具山」「霞たなびく」という歌句をそのまま取り入れているわけです。
 さて、しかし、この歌の内容を十全に把握するためには、この本歌だけではまだ不十分です。重要な歌がもう一首あります。それは香具山といえばすぐに思い出される、あの歌です。みなさん、お分かりですね。持統天皇の歌です。

  春すぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天(あめ)の香具山(万葉集・28)

 しかし、実は、この歌では、まだ正解とはいえません。あともう一捻りが必要です。大体、この歌では、「天の香具山」以外に重なりがありません。この連載をお読みの方ならば(それ程はいらっしゃらないかとも思いますが)、お分かりでしょう。

    題しらず    持統天皇御歌
  春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山(新古今集・夏・175)

 この形でないといけません。百人一首にこの形で入っていますが、後鳥羽院歌と同じ新古今和歌集にも入集しているのです。持統天皇のこの歌についても以前取りあげましたが、いわば漢字で書かれた万葉集の、当時の訓み方が問題になるわけで、後鳥羽院が読んだのも、この形であったはずです(同じ新古今和歌集に入っているのですから当然ですね)。この形の歌と比較すれば、重なりが見えてきます。

 後鳥羽「春こそ空にきにけらし」「天の香具山」
 持統 「夏きにけらし」    「天の香具山」

 「きにけらし」「天の香具山」が完全に重なっています。異なるのは「春」と「夏」の季節です。後鳥羽の歌は、春こそが空にやって来たようだ、と「こそ」の強調を用いていますが、それは、持統の歌を念頭におけば一層その意図が明らかになります。持統の歌では、「夏が来たようだ」というのですが、後鳥羽は、夏ではなく「春こそがきたようだ」と、持統の歌を意識しつつも、春の到来を強めて詠んでいることになるのです。
 後鳥羽の「春こそ空にきにけらし」という表現は、それ程に持統の歌を意識していることになります。
 このことはまた別の意味を生み出すことになっていくのですが、既に字数を費やしていますので、続きは次回に。



【11】 「香具山 2」 (10.5.14.発行 Vol.80に掲載)

 前回(飛鳥遊訪マガジン75号)は、新古今和歌集に収められる後鳥羽
院の、

  ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山霞たなびく(春上・2)

という歌を紹介し、この歌が、同じく新古今和歌集の夏部に収められる持統天皇の、

  春すぎて夏きにけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山 (夏・175)

を意識していることをお話ししました。後鳥羽は、この持統の歌を意識しつつ、春こそが香具山に来たようだ、と詠んでいたのでした。ところで、香具山の歌は、他にもあります。

    雲隔遠望といへる心をよみ侍りける 源俊頼朝臣
  とをちには夕立すらしひさかたの天の香具山雲隠れ行く
                     (新古今和歌集・夏・266)

 作者、俊頼は、第五番目の勅撰和歌集、金曜和歌集の撰者です。後鳥羽院からすれば、百年以上前の歌人になります。この歌は、「雲遠望を隔つ」(雲によって遠い風景が隔てられる)という題で詠まれた歌で、「とをち」には、地名の「十市」と「遠(とを)」が掛けられています。遙か遠くの十市の里では夕立が降っているらしい、天の香具山が雲に隠れていく、という歌で、香具山が雲に覆われることから、十市の里に夕立が降っていることを推測する歌です。

 ここで注目したいのは、香具山が雲に隠れるという表現です。香具山は、ご存知のように、大和三山の中でももっとも低く、丘といってもいい山です。それが雲に隠されるということは、あり得るのでしょうか。雨雲だから低い位置にあるとはいっても、これはかなり難しい。
 とすれば、考えられるのは、俊頼は、香具山の実際を知らずに、高い山として詠んだということです。次のような歌もあります。

   祝ひの心をよみ侍りける  大宮前太政大臣(藤原伊通)
  君が代はあまのかご山いづる日のてらむかぎりはつきじとぞ思ふ
                      (千載和歌集・賀・609)

 千載和歌集は第七番目の勅撰和歌集です。「かご山」は香具山のことです。「君が代」=帝の御代は、香具山から出る太陽が照る限り尽きないと思う、という祝の歌です。ここでは、香具山から太陽が出ています。この場合も低い香具山というよりも、高い山という印象があったのではないでしょうか。そうであるからこそ、「君が代」と重ねられる神聖さを持っていると考えられます。

 香具山が高い山と考えられる要因としては、万葉集で香具山が「高山」と表記されていることとも関わっているでしょうが(例の三山歌でもこの表記です)、「天の香具山」と称されるように、神聖な山として認識されているからでしょう。香具山は、高い、神聖な山であり、天皇の「代」とも関わって詠まれる山だったのです。

 このような流れで、後鳥羽院の歌を見返してみますと、後鳥羽の歌は、単に持統の歌を意識したに留まらず、作者である持統天皇の、天皇の部分をも意識していたといえるのではないでしょうか。香具山は、神聖な山であり、持統天皇も歌の素材としていた山でした。それを、後鳥羽院は意識したわけです。

 後鳥羽の歌は、単純に春の到来を描いたのではないでしょう。持統の歌が夏部の冒頭にあり、それと重ねてみれば、帝王の歌として、香具山の神聖さとともに、古代帝王への憧憬を表現しているといえるかもしれません。

 前々回(飛鳥遊訪マガジン71号)の最後に次のような歌を紹介しました。

    春立つ心を詠み侍りける   摂政太政大臣(藤原良経)
  み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり
                      (新古今和歌集・春上・1)

 この歌は、新古今和歌集の冒頭歌ですが、「吉野」の「ふりにし里」に春が来たと詠んでいます。「ふりにし」は「(白雪が)降りにし」と「古りにし」の掛詞で、白雪が降る、古びた里に春が来たというわけですが、古びた里とは、「ふるさと」を意味します。「ふるさと」についても以前お話ししましたが、平城京を指す例が多くありました。もっとも、この歌では、平城京ではなく、吉野の「ふるさと」ですから、吉野離宮が想定されていると考えることができます。つまり、新古今和歌集の冒頭は、天武、持統が行幸した、吉野離宮の春を詠んでいることになるのです。
 そして、二首目が、後鳥羽院の香具山の歌となります。新古今和歌集の冒頭二首は、天武、持統という古代の帝王を強く意識した歌であったということになるのです。

 香具山は、平安後期、特に新古今和歌集の時代から和歌の素材として再び詠まれるようになってきましたが、そこには、古代帝王への憧憬が─承久の変を起こした後鳥羽を想起すれば、憧憬に留まらないかも知れません─読み取れるのです。



【12】 「ふるさとの恋」 (10.7.23.発行 Vol.85に掲載)

 以前、「ふるさと」奈良という話をしました。平城京から都が移り、平城京は「ふるさと」(=古い京)と認識されたことをお話ししました。今回は、その「ふるさと」での恋の話です。

 昔、男、初冠(うひかうぶり)して、平城(なら)の京、春日の里にしるよしして、狩にいにけり。その里に、いとなまめいたる女姉妹(はらから)住みけり。この男、かいまみてけり。思ほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
 男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶ摺りの狩衣をなむ着たりける。

   春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れかぎり知られず

 となむ、老いづきて、いひやりけり。ついでおもしろきことともや思けむ。
 
  みちのくの忍もぢずりたれゆへに乱れそめにし我ならなくに
 といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。

  みなさんも一度はお読みになっているかも知れませんね。『伊勢物語』
 初段です。男が元服して、平城京の春日の里に狩に行ったわけですが、そ
 こで女姉妹に恋をするという─狩に行って、女狩をしたという話です。男
 が恋に落ちた部分を見てみましょう。

 思ほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
  (意外なことに、「ふるさと」に、(女姉妹が)しっくりしない感じでいたので、心が惑乱したのであった)

 「はしたなし」とは、今ひとつしっくりしない様子をいうわけですが、つまり、この女姉妹は、「ふるさと」=古京には似つかわしくない女だったことになります。だから、男は「心地まどひけり」ということになったのです。鄙には希なる美人といったところでしょうか。恐らく「ふるさと」ではなく「みやこ」でこの女に会っても、恋に落ちたかどうか…

 さらにこの女については、「なまめいたる女姉妹」とも表現されていました。「なまめく」という言葉は、現代語では、色っぽいイメージがありますが、「生(なま)」という語があるように、まだ熟していない、十分ではないことをいい、若々しい魅力を指します。この女姉妹は、「ふるさと」にいながら、若々しい魅力を湛えているのです。古い京に若々しい女がいる、その意外性が男の心をとらえたわけです。

 男の行為は最後に「いちはやきみやび」といわれます。この言葉、特に「いちはやし」については、様々な議論がありますが、男の行為が「みやび」と評されていることは確かです。「みやび」は、「宮」と「ビ」(~らしい様子を示す)で構成される言葉です。その点でも、「ふるさと」(=古京)という言葉とは対照的です。

 男は、古き京で、若々しい女に出会い、「みやび」の行為をしたことになります。古さ、若さ、新しさ、都、田舎…様々な対立的な要素がこのい話には含まれています。「みやび」な行為が、既に「みやこ」ではなくなった「ふるさと」でなされる、そこにこの話のおもしろさがあるのだと思います。考えてみれば、元服したての若い男が、「ふるさと」である平城(なら)の京に向かうという冒頭自身が、このような要素を示していたのでした。

 『伊勢物語』初段は、「ふるさと」奈良という土地のイメージから形成された話なのです。



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