両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



4周年・100号記念読者投稿の各賞受賞作品

玄武賞 らいちさん 青龍賞 Tadさん
朱雀賞 よっぱさん 白虎賞 さきもりさん






玄武賞
「私と飛鳥」
らいちさん
(11.2.4.発行 Vol.100に掲載)


 年が明けて間もないある日のことです。桜井から多武峰へ登って行く道には、大晦日から降り積もった雪が残っていて、周りの田畑も真っ白になっていました。何も遠くまで行かなくてもすぐ近くで雪景色が見られるやんと思った私は、談山神社の雪の被った社殿でも撮りに行こうとカメラを持って家を出ました。

雪の談山神社(らいちさん撮影)
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 門前は、新年の行事も一段落したあとで人も少なく、お店も閉まっていて閑散としていました。秋の紅葉の時期は観光バスが対向できずに、最寄りの桜井駅から3時間かかった日もあったらしいです(歩いて登った方が早いです)。多武峰から明日香への道がやっと完成して、紅葉の時期の渋滞も緩和されるかと思ってたら、そうでもないようです。参道の土産物店などは秋から正月までずっと休みなしで、たぶんこの日くらいからが自分たちのお休みだったんじゃないでしょうか。

 境内に入ると権殿の屋根や十三重の塔にも雪が乗っていい感じです。雪景色の写真を何枚か撮ってから、西門へ周り藤本山の展望台まで往復しました。誰もいなくて独り占めの展望台で大和平野を一望、この場所は両槻会の例会で案内して貰ってからすっかり私のお気に入りになり、何度か訪れています。

 バス停前まで戻り、食堂でおじさんと話をしながら少し暖をとって、帰りは明日香方面に降りることにしました。ついでに飛鳥寺前の発掘現場をのぞいて帰ることにして、その前にまだ正月なので飛鳥大仏さまに境内から壁越しに手を合わせ、その辺をうろうろと歩きながら、自分にとっての非日常とはどこからなんだろうとふと考えました。

 休日を飛鳥で過ごした人が「さて、日常に戻るとするか」と言って帰って行かれます。忙しい日常を離れいつもと違う空間に身を置いて、きっとのんびりとした時間を楽しまれたのでしょう。山の辺の道を歩きに遠くから何度も来られる人がいます。「やっぱり空気がちがう~」と喜んで帰っていかれます。地元に住んでいる私は「そうかなー?」と思います。山の辺も飛鳥も普段の生活圏の中にあるので、のどかな田園風景も二上山に沈む夕日も、そういう意味では日常そのものなのです。

 2010年は遷都祭関連で奈良は賑やかでした。「阿修羅さま」に行列が出来て、仏像ガールやら歴女なんて言葉も登場しましたが、両槻会に参加される皆さんの目にはこのにわか奈良ブームはどう映ってるのでしょう。明けた2011年は古事記編纂1300年ということで、「記紀・万葉プロジェクト」とやらが始動しています。舞台となる時代は平城京から飛鳥へと遡って、さらに私たちのフィールドに近づいて来るようです。昨年は北の方で何かやってはるなーという感じで、地元民として一回くらいは見に行っとくか~と思ったぐらいでしたが、今年は受け入れる側としてもっと関わらざるをえなくなるかも知れません。奈良にたくさんの人が来て、奈良を好きになってもらえることは、迎える立場としてはとても嬉しいことなのですが、自分もまた奈良を愛するひとりの旅人でありたいなぁと思うこともあります。

 飛鳥はとても近い場所だけれど、1時間ほどうろうろ歩くだけでリフレッシュ出来ます。たった1時間でも気持ちよく旅人になれる場所なのです。たぶんここを歩くとき、私は地元民の顔をしていないのか、よく頼んでもいないのにガイドしてくれる人がいたり、おすすめの民宿の世話までしてくれる人がいます。歩いてでも来られる所に住んでいるとはとても言えない雰囲気で困ったことがあります。

 日常から離れるのにどうやら家からの距離は関係ないようです。心は遠くまで遊ばせることが出来るのです。心のスイッチを切り替えるのに、人によってはある程度の時間や移動の距離が必要なのかも知れませんが、その点私の場合は都合良く切り替えられる特殊能力があるのか、それとも飛鳥という場所が特別なのでしょうか。飛鳥は私を旅人にしてくれる場所…そんな結論に達した冬のある一日でした。







青龍賞
「私と飛鳥」
Tadさん
(11.2.4.発行 Vol.100に掲載)


 私は伊勢市の内宮近くの倉田山に位置する高校に通っていた。学校の近くには神宮徴古館、倭姫宮、猿田彦神社、内宮、古市があり、毎週1回授業中に行われるマラソンのコースになっていた。飛鳥のことを知ったのは、授業中に先生が伊勢市近郊の斎宮に、飛鳥から天皇の娘、大来皇女が来られ、神宮の神様にお仕えしていたというお話を伺ったからである。そして、弟の大津皇子が密かに伊勢の神宮に下り、都に上られしときにつくられた歌

 「わが背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし」
 「二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり 越ゆらむ」

 の紹介があり、私はいったい伊勢のどの辺りで暁露に立ち濡れたのだろうか、大津皇子はどの秋山を越えて大和へ還ったのだろうかと、歌に心が魅かれた。そして、いつか飛鳥を訪ねてみたいと飛鳥に憧れを抱くようになった。

 大学入学後、犬養孝先生の国文学の講義を受講し、万葉集と飛鳥のことを学んだ。斉明天皇が、大土木工事を行い、香久山の西に「狂心の渠」を作り、舟200艘で石を運び、多武峰の山の上に「両槻宮(なみつきの宮)」を造営したことや、宮滝や夏見廃寺のこと、壬申の乱のことなど、多くのことを教えて頂いた。
 私が初めて飛鳥を訪れたのは、大学の掲示板に張られていた「万葉旅行参加者募集」の案内を見て、先生のご案内で甘樫丘に登ったときのことであった。当時、山道は整備されておらず、草や樹木をかき分け、大きな石を迂回して、やっと頂上にたどりついたことを覚えている。先生は、甘樫丘に茂る樹木の間から展望できる大和三山や真神原の街並みを紹介されたあと、志貴皇子の歌

 「采女の 袖吹き返す 明日香風,明日香を遠み いたずらに吹く」

 を朗唱され、この歌は都が藤原京へ遷都された後、飛鳥浄御原宮の古都へやってきて古都を偲んで作った歌であるという抒情豊かな解説をして下さった。私は、明日香風の歌とともに、畝傍山の彼方に一望できる二上山を眺めながら、高校生の頃教わった大来皇女の歌

  「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」

 という鬼気迫る歌を心の中で朗誦し、雄岳に眠る大津皇子のことや伊勢のことについて想いをはせた。この万葉旅行ののち、学生時代に犬養孝先生の「万葉の旅」を手に何度も飛鳥を訪ねた。私のお気に入りコースの一つは、談山神社・お破裂山から念誦崛を過ぎ万葉展望台の眺望を満喫して、小原の里経由で飛鳥坐神社・飛鳥寺・真神原へいたる道である。

 大学卒業後、奈良県内で勤務することになり飛鳥との縁が深まった。勤務間もなく、明日香村は「高松塚古墳」の発掘で大騒ぎになった。その後も、水落遺跡、亀形遺跡、飛鳥苑池、飛鳥池工房跡、飛鳥京跡の発掘などの大発見が続き、現地説明会などに何度も参加した。私にとって印象深かった発掘は、千数百年の年月を経て銅パイプや堅固な建物の柱跡が出てきた水落遺跡の発見、酒舟石近傍の亀形石造物の発見であった。また、最近、大来皇女実母の大田皇女のお墓ではないかと推測される越塚御門古墳の発掘現地見学会があって、TV局のインタビューを受けニュースで放映された。

 最後に、私にとっての飛鳥は、同僚で友人のK氏のことを除いては語れない。彼には、川原寺遺跡、飛鳥寺遺跡、飛鳥池遺跡、蘇我入鹿への村人の想い、遺跡保存と村民生活のことについて色々教えて頂いた。また、八釣の美味しいぶどう園や橘寺ゆかりのみかん園の収穫物も頂いた。さらに、飛鳥坐神社のおんだ祭に連れていってもらった思い出も忘れられない。お年を召されても毎年正月2日に必ず村へ挨拶廻りに来られた犬養孝先生を車で案内されたことも聞き及んでいる。犬養孝記念館が明日香にできた理由も彼と御尊父様の話から納得できた。私は飛鳥を訪れる度に、飛鳥苑池は僕の散歩コースと言っていた、甘樫丘東方山麓に眠る友人の冥福を祈る。忘れ難き飛鳥の人である。







朱雀賞
「私と飛鳥・両槻会」
よっぱさん
(11.2.18.発行 Vol.101に掲載)


 私は、飛鳥に隣接する磐余の郷で育って50年になる。
 付近には、安倍寺跡、文殊院、吉備池廃寺、稚櫻神社や数々の古墳が点在している。
 私の通っていた小学校も青木廃寺の丘の東麓にあり、校歌には次のように歌われていた。

  ~仰げば尊と天香具山 磐余の池も跡を問うべし 
    都をおかれし安倍町村里(あべちょう むらざと)~

 これだけの史跡が数多くあるのに、私が飛鳥を訪れたのは、小学6年生の夏休みの自由研究の時だけであった。

 同級生数人と共にカメラを携え、飛鳥の古墳や寺社を自転車で駆けめぐり、案内板を書き写し、史跡の様子を写真に収めた。途中で夕立がくれば、付近の電話ボックスに5~6名がすし詰めになった。

 夏休み明けには、史跡の写真を貼り、案内板の説明書きを書き写した画用紙20枚ほどの自由研究ができあがったが、その後飛鳥を訪れることはほとんどなくなってしまった。

 一昨年、私は妻と橿考研友史会のウォーキングに参加した。子供の手も放れ、仕事も土日の休みが計画的に取れるようになったからである。

 その時が「両槻会」事務局長との出会いである。あの人なつっこい笑顔で名刺を渡されたのが運の尽き?で、次に「両槻会」に参加したときには、もう友達のように話してくださる。そのおだてに勝つことが出来ず、あれよあれよと常連になってしまい、とうとう昨年には「はい、よっぱさんサポートスタッフね。」となってしまった。

 「飛鳥を歩きながら説明をしてくれるし、お偉い先生の話もタダで聞けるからちょっと行ってみようか」と軽い気持ちで参加した、飛鳥のことなど何も知らない私なので、現在、ウォーキング部門のサポートスタッフに専念している。

 また事務局長は、おだてだけでなく、洗脳もうまい。そんな軽い気持ちで参加した私であったが、今では枕元に「日本書紀」をおいている。ただし、それは双六のごとく「一回お休み」「振り出しに戻る」を繰り返し、未だ「あがり」に到達せずにいる。


すごろくの図(よっぱさん撮影)
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 先日の定例会で、「レベルが高いので次に参加できるかどうか・・・」と言われていた参加者もおられたが、気にしないことが一番である。自分の好きなもの、自分の興味のあるものを探すきっかけ、学ぶきっかけにされたら良い。違う自分を見つけることができるかも知れない。私は今も自分のスピードと自分のレベルで「両槻会」を楽しんでいる。

 まもなく春が訪れる。人事異動の季節である。
 勤め人にとっては選べない季節の到来。私もご多分に漏れず、春になれば土日が休めない部署に配置換えの可能性はある。そうなるとあの人なつっこい事務局長の笑顔がしばらく拝めなくなるかと思うと、酒の量が減ってしまうほど惜しい。

 両槻会のスタッフもそれぞれいろいろなことを抱えているだろうに、飛鳥好きのために私事を後回しにして会の運営に東奔西走されている。ご自愛いただきたい。

 私がそのまま参加できれば、サポートスタッフからスタッフへの昇進をねらってやろうかと思っているのだが、もしこの計画がこの春の人事異動で阻止されたら、次に私が帰ってくるまで、いや、この先永遠に、「両槻会」を存続していただき、何世紀か後には「両槻会」と書かれた墨書土器や木簡をアドバイザリースタッフの方々が飛鳥から出土させる事をわたしは切に願っている。
 がんばってや「両槻会」! 
 がんばってや「スタッフ」さん!







白虎賞
「飛鳥との縁(えにし)」
さきもりさん
(11.3.4.発行 Vol.102に掲載)



 あすか、その言葉を初めて耳にしたのは、小学校六年生になる前の春休みのことだった。それはテレビから流れるニュースで、明日香村の高松塚という古墳で、極彩色の壁画が発見されたというものだった。その時から、飛鳥や古墳に興味をもち、いつか行ってみたいと思うようになった。

 初めて飛鳥を訪れたのは、大学の受験で奈良に泊った次の日のことだった。広島から来ていた二人と飛鳥駅に降り立ち、自転車を借り、「鬼の雪隠、俎板」を皮切りに飛鳥寺の大仏様の神々しさや、石舞台の大きさに驚きながら、早春の飛鳥路を走り回った。そして夕闇迫る頃、高松塚古墳に辿り着いた。中に入って壁画が見られる訳でもないのに、ついに、ここまで来たとの思いから、非常に感動したことを覚えている。

 その後、家業を継ぐ為に、天智天皇が御祭神の近江神宮にある、専門学校に進学した。そして二年後、数ある就職先の中から、飛鳥に近いという理由で橿原の地を選んだ。その年の暮に、明日香村の水落という所から漏刻が発見されたと聞き、大型バイクに跨り見学に行ったところ調査をされていた方々に「色々な人が見学に来たけれど、時計屋さんは初めてだ」と面白がられ、作業が終わった後、焚き火を囲み、茶碗に酒を注がれながら色々なお話を聞いている内に、自分も発掘に携わってみたいとの思いに駆られた。

 その思いを遂げるため、職を二年で辞し、橿原にある某研究所の門を叩いた。初めて発掘に参加したのは、橿原市の蘇我遺跡だった。ここは5世紀後半~6世紀前半頃の大和朝廷による玉造遺跡で、出雲や越、東国なから石材を集めていたが、専門学校で学んでいた宝石の鑑別の知識が役に立った。その後幾つかの遺跡を発掘した後、広陵町の牧野古墳を発掘し、翌年の春に、飛鳥の王陵の地、佐田の岡で束明神古墳の調査に加わることができた。調査から二十数年経った今では、二つの古墳の被葬者を押坂彦人大兄皇子と草壁皇子にあてるのが定説になりつつあるようだ。その後、高安城や龍王山古墳群の調査にも参加した。龍王山古墳群は飛鳥人たちの奥津城ではないかといわれている。

 調査に従事したのは二年程の短い間だったが、不思議な縁だったように思う、漏刻に始まり、玉造り、天智天皇からみれば押坂彦人大兄皇子は祖父にあたり草壁皇子は孫にあたる、1300年の時を隔ててはいるがとても身近な存在に感じる。今は遠く離れた秋田で暮らしているが、ネットご縁の有った方たちと飛鳥の語り部として応援して行ければ良いな~と思っています。




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