両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



  野口の遺跡

 天武持統天皇陵

 鎌倉時代の文暦二年(1235年)に、天武持統陵が盗掘された時の実況検分記である「阿不幾乃山陵記」により、内部状況を含めて場所の特定などが出来ています。被葬者が特定されている珍しい天皇陵となります。
しかし、治定されたのは意外と新しく、明治14年のこととなります。京都栂尾高山寺から「阿不幾乃山陵記」が発見されたことによるのですが、それ以前は、見瀬丸山古墳が天武持統陵であるとされていました。

 墳形は八角形で、現在も敷き並べられている石材が見える所があります。(草木の茂り具合にもよりますが。) おそらくは墳丘全体を覆うように積み並べられているようです。
内部は羨道と玄室に別れ、その間に金銅製の観音開き扉が設置されています。玄室内は、金銅製の棺台の上に天武天皇の亡骸を納めた漆塗りの木棺(あるいは夾紵棺)が安置されています。 その前には、銅製の外容器と銀製の蔵骨器があり、天皇として最初に火葬された持統天皇のものであると思われます。

 石室全長7.7m、羨道長3.5m、幅2.4m、玄室長4.2m、幅3m、高さ2.1m。石材は、瑪瑙との記述があるようですが、研磨した花崗岩であろうとされています。

 野口吹山城 ・ 野口植山城

 両城とも、中世の城郭です。 明日香村には、たくさんの中世城郭が存在します。    野口の両城以外には、飛鳥城・雷城・雷ヲギ城・小山城・奥山城・岡城・祝戸城などがありました。雷城以外は、発掘調査も行われておらず、実態は不明な点が多くあります。



雷城概要


 9世紀から10世紀の半ばにかけて、律令体制が崩壊してゆくと、飛鳥は急速にその様相を変えて行きます。 租税制度の瓦解を通して地方財政は悪化の一途をたどり、古代寺院も大きな打撃を受けることになりました。 興福寺が大勢力を持つようになり、奈良は興福寺が国司・守護に代わり、その権限を併せ持つような特殊な状況の中で、飛鳥は荘園化が進んで行きます。
 鎌倉時代に入ると、興福寺勢力は、僧兵団を作り変え、半僧半俗の衆徒国民と言う制度を作り上げます。これは在地の武士を僧兵団に組み込むことになり、大きな力となって行きます。 
 衆徒・国民と言うのは、身分称です。衆徒は興福寺末寺の住持、国民は春日大社末社の神主という身分ですが、興福寺から言って、衆徒は譜代、国民は外様の武士と言うほどの意味になります。 衆徒は奈良北部の土豪が多く、逆に国民は南部の者が多くいたようです。
奈良南部には、もう一つ大きな勢力がありました。それは多武峰です。否応無く、飛鳥もその勢力争いに巻き込まれていくことになります。 こうした乱れた社会状況の中で、悪党と呼ばれる者たちが現れます。 南喜殿の尾張房と則継衛門入道は、梅陵を壊した連中であると書かれた文章も残っています。この梅陵は、おそらく欽明天皇陵(梅山古墳)のことであろうと思われます。 また、天武持統陵や高松塚・キトラ古墳を盗掘したのも、この類の者共であろうと思われます。

 南北朝期には、国民から台頭してきた越智氏が南朝寄りとなり、飛鳥は南北騒乱の最前線となり、複雑な勢力争いに巻き込まれてしまいます。 しかし、実際に激しい戦闘が展開したとの記録は無く、この時点での越智氏の動向は、よく分からないようです。 高師直が吉野を攻めた時には、芋峠を軍勢が通っているのですが、高取城を持っていた越智氏が戦闘を行った様子は見られないそうです。大和では興福寺の大条院と一条院の抗争が、さらに事態を複雑にして行きます。
  
 戦国期を迎え、越智氏はさらに勢力を伸ばします。 橿原市北部から磯城郡を中心に勢力を持っていた十市氏や郡山を中心にした筒井氏などとの抗争が展開します。 
明日香村域にある中世城郭は、このような状況の中で造られていったようです。小山城は例外として、それ以外の物は平地から10〜20mの丘に、30〜40m前後の方形の郭を築いただけのものがほとんどです。国民よりも弱小な、村落レベルの土豪の城であろうとされています。
 小山城は、内郭と外郭の二重構造の平城で、内郭は南北75m・東西90m。外郭は、東西150m・南北180mの規模を持ち、越智氏に従属する国民小山氏の城郭とされます。

 吹山・植山の城郭付近には、トノガヤシキという小字が残っています。



 川原・橘の遺跡

 橘寺旧境内遺跡

 遺跡は、橘寺の西約150m に位置し、弥生時代から近世まで続く複合遺跡です。遺跡は、現在の地表から深さ約20cm〜約2.2mまで四期に重層しています。 最下層の遺構は、弥生時代のものであると考えられますが、上層遺構の保存のために詳しい調査はされていないようです。しかしながら、現在の橘寺の西側に広がる高台状の地形が元々は2m余りも低かったことが分かりました。

 弥生時代の遺構の上には、約1.5m余りの黄褐色粘土が堆積しており、造成工事のために他所から持ち込まれたものであることが分かりました。この層の上面には、飛鳥時代中頃の遺構が存在し、橘寺に近接することなどを考え合わせると、橘寺を建立するために造成されたと考えられるようです。

 ただ、飛鳥時代の遣構は、橘寺に直接的に関連する建物跡ではなく、寺院を造る際に必要とされる大工道具及び釘などの鉄製品を作る工房跡であると考えられているようです。 検出された工房跡の主要な遺構は、鍛冶炉六基と廃棄物を処理する土坑三基です。

 この遺跡は、橘寺の建立にあたってどのような土木工事が行われたかを推定することが出来、また東門を正面とする橘寺の伽藍からすると、お寺の裏に寺院建立や修理に伴う鍛冶工房があったことは、川原寺の場合と類似しているように思われます。
また、書記には、建立に係わる記事が無い橘寺の飛鳥時代創建を、間接的に考古学の視点から裏付けることになるようにも思われます。


 川原寺裏山遺跡

川原寺旧境内の裏山からせん仏などが採集されたことが引き金となって発掘調査が行われ、丘陵の南側斜面に長径約4.5m、短径2.6m、深さ約3mの穴を掘り、その中に火災にあった寺院の仏像や荘厳具などを埋納していたことが分かりました。

 川原寺は、鎌倉時代に焼失しますが、9世紀にも大火災に遭っており、再建に向けて壊れた仏像は集められ、西北の山裾に埋められました。それが 川原寺裏山遺跡です。 丘陵裾で見つかった方形三尊磚仏は千数百点、塑像は数百点に及び金銅製金具など仏教関連の遺物も出土しました。 遺物は、火災による熱を浴びている物がほとんどだったようです。

 川原寺は7世紀中頃、斉明天皇の菩提を弔うため息子の天智天皇が建立したと言われますが、創建や建立経過などについては、ほとんど資料もなく謎の部分が多く残っています。川原寺についての確実な資料は、『日本書紀』天武天皇二年(673年)の条になります。これには「書生を集めて始めて一切経を川原寺で写す」とあり、天武天皇の時代に大寺院として存在していたことが分かります。藤原京の時代には、飛鳥寺などと並び四大寺に数えられましたが、9世紀に大火災に遭ったようです。これは、裏山遺跡から9世紀前半の銅銭が出土していることから推定されています。

 出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。出土したものの中でも、特に天部の頭部の塑像断片や迦楼羅像は、美術的にも価値のあるものだとされています。

 川原寺の焼失については、藤原兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、建久二年
(1191年)に興福寺の使僧が川原寺焼失を上申したことが記されているようです。この火災は川原寺の二度目の大火災となり、発掘調査の結果、この建久の火災は伽藍全体に及ぶ大火であったようです。


 川原寺

 川原寺は、先にも書いたように、その造営の経緯や発願の理由が正史に記載が無く、不明な点もあるのですが、斉明天皇の川原宮の故地を、天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈って建立し、壬申の乱の後に天武天皇が整備拡張したとする説が有力です。

 伽藍配置は、左図のように一塔二金堂を回廊が囲み、背後に講堂を取囲む僧坊があります。

藤原京の時代になると、大官大寺・薬師寺・飛鳥寺と共に、四大寺とされます。 しかし、平城京に京が移されると、他の三寺は移築されるのですが、川原寺だけが飛鳥に留まりました。 川原寺が、斉明天皇の菩提寺であったためでしょうか。

 一昨年、講堂の南側(現光福寺境内)で、発掘調査が行われ、7世紀後半の巨大な礎石六基が見つかりました。太い柱を使った二階建ての建物が想定され、経典を納める蔵「経蔵」か、これと一対となる「鐘楼」の可能性が高いものと思われます。 もし、経蔵であるのなら、天武天皇の写経事業の記事に対応する建物であるのかも知れません。

 川原寺は、南に面して建てられているのですが、南門より東門の規模が大きいと言う特徴を持っています。東門は、古代の幹線道路中つ道の推定延長線に極めて近い位置にあり、それを考慮した伽藍配置であったのかも知れません。また、東に飛鳥京が在ったため、宮殿方向に正門を置いたという配慮によるものかとも思われます。


 川原宮

 斉明天皇が、飛鳥板蓋宮で重祚した年(655年)の冬、「板蓋宮に火災があったので、飛鳥川原宮にお移りになった。」と言う記事が書記にあります。
その翌年には新たに、岡本宮を建てて、後岡本宮として移っていますので、一時的な仮の宮殿だったと考えられます。
 川原寺の下層にあると思われますが、上層遺構の保護のため調査はされていないのが現状です。



東橘遺跡

 7世紀中頃から後半の建物が検出されています。 建物は四間三間の門のような建物であり、その東西には回廊状の建物が取り付いています。 柱の抜き取り穴や掘りかたの規模から、宮殿クラスの遺構に関連する建物であると考えられています。
また、建物の方位が、島庄遺跡で検出される7世紀中頃の建物遺構や勾の池と言われる方形池の方位(北から西に20度振れる)とほぼ同じ方位を示しています。

 万葉集には、草壁皇子の挽歌として嶋宮がたくさん歌われていますが、その中に出てくる「橘の嶋宮」が実際に東橘に及んでいたことを示す考古学的な資料として注目されています。
   
東橘の建物は、特殊な形をしており、住むための物ではなく、嶋宮や馬子の庭園に在ったとされる勾の池や上の池などの庭園を眺めるための建物ではなかったかとする見解もあります。 また東橘の辺りの飛鳥川は、岩が露出しており、あるいはそのような自然景観を楽しむための建物であったのかも知れません。


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