両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第26回定例会資料集



西飛鳥古墳巡り2と紀路を歩く


   
  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
ウォーキングマップ 岩屋山古墳 牽牛子塚古墳 越塚御門古墳
真弓鑵子塚古墳
カンジョ古墳 与楽鑵子塚古墳 寺崎白壁塚古墳 真弓遺跡群 マルコ山古墳
カヅマヤマ古墳 束明神古墳 佐田1号墳・2号墳 佐田遺跡 出口山古墳
紀路 森カシ谷遺跡 森カシ谷2号墳 薩摩遺跡 市尾墓山古墳
市尾宮塚古墳 高台・峰寺瓦窯跡 関連地名でみる万葉歌 飛鳥周辺古墳マップ 西飛鳥古墳一覧表
関連系図 当日レポート 両槻会


この色の文字はリンクしています。

                      ウォーキングルートマップ



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 コース概要:
 飛鳥駅 → 岩屋山古墳 → 牽牛子塚古墳・越塚御門古墳 → 真弓鑵子塚古墳 → カンジョ古墳 → 与楽鑵子塚古墳 → 寺崎白壁塚古墳 →  スズミ古墳群 → マルコ山古墳 → カヅマヤマ古墳遠望 → 束明神古墳 →  出口山古墳 → 紀路 → 市尾墓山古墳 → 市尾宮塚古墳 → 高台・峰寺瓦窯 → 近鉄市尾

 総距離:約11km


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岩屋山古墳


墳丘は、一辺約40m、高さ約12mの二段築成の方墳を版築で築いています。埋葬施設は、綺麗に表面加工された石英閃緑岩(飛鳥石)を精緻に組み上げた両袖式横穴式石室で、南に開口しています。
また、一説によると、一辺45m程度の上八角下方墳と考え、三段築成とする説もあるようです。

石室規模は、全長17.78m、玄室長4.86m、幅約1.8m、高さ約3mで、羨道長約13m、幅約2m、高さ約2mに造られています。

石積みは、玄室が2石積みで、奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石で、羨道部分は玄門側が1石積み、羨門側が2石積みになっています。
天井石は、玄室1石、羨道5石で構成されます。
石積みは、玄室が2石積みで、奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石で、羨道部分は玄門側が1石積み、羨門側が2石積みになっています。
天井石は、玄室1石、羨道5石で構成されます。


ムネサカ1号墳石室内
このような構造の石室は岩屋山式と呼ばれ、奈良県内では小谷古墳・峯塚古墳等でも確認され、特にムネサカ一号墳(桜井市忍坂)の石室は、岩屋山古墳と同じ規格をもとに築造されたと考えられています。
石室入口付近の天井石には溝が彫られており、閉塞扉が設置されていた、または水の浸入を防ぐ為のものであるとされています。
石棺は発見されていませんが、上記の岩屋山式古墳には刳貫式家形石棺があることから、岩屋山古墳も凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されています。

被葬者については、斉明天皇説・吉備姫王説などが挙げられますが、牽牛子塚古墳の発掘調査成果を念頭に置くと、牽牛子塚古墳に改葬される前の斉明天皇の陵である可能性も考えられます。


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 牽牛子塚古墳


墳丘は、版築で築かれた対辺約22m、高さ4.5m以上の八角形を成しています。墳丘裾部には凝灰岩の切石を並べ置いた犬走状の石敷きがあり、さらにその外側に川原石を敷き詰めた二重のバラス敷きが造られていました。このバラス敷きまで含めると、対辺長は約32mを測ります。
墳丘は、三段に築成されており、凝灰岩の切石やその破片が数百個以上出土していることから、これらの切石はピラミッド状に積み上げられて墳丘斜面を飾っていたと考えられるようです。その総数は約7,200個におよぶと推定されるようです。


埋葬施設は、南に開口する刳貫式横口式石槨で、推定約80tの凝灰岩一石を刳り貫いて、約70tの石槨を造ったもので、二上山から産出した石だとされています。
石槨の幅は5m、奥行き3.5m、高さ2.5mの大きさで、石槨内は中央部に幅44.7cm、長さ152.5cmの仕切によって二つの空間に区切られた合葬を意識した造りになっており、それぞれの空間には棺台が造り出されています。また天井部は、ドーム状になっています。
開口部には凝灰岩の閉塞石と外側には石英安山岩の閉塞石があり、二重の扉を持つ構造になっています。
また、その外側の扉石と前面を揃えて、石槨の外側を取り囲むように直方体(縦2.7m、横1.2m、厚0.7m)の石英安山岩の切石が確認され、築造時には16石が取り囲んでいたと思われます。石槨と外護石との間や頂上部には、漆喰が充填されていました。


牽牛子塚古墳イメージ図

2010年9月 発掘調査現地見学会にて

牽牛子塚古墳出土品 七宝亀甲形座金具
奈良文化財研究所飛鳥資料館蔵 撮影・サイト使用許可取得済
斉明4年(658)5月 建王亡くなり、斉明天皇、自分と合葬を望む。
斉明7年(661)5月24日 斉明天皇、朝倉宮で崩御
  同年(661)11月7~9日 飛鳥川原で殯宮を行う
天智4年(665)2月25日 間人皇女薨じる
天智6年(667)2月27日 斉明天皇・間人皇女を小市岡上陵に合葬する。
太田皇女を陵の前に埋葬
文武3年(698)10月13・20日 斉明天皇陵・天智天皇陵修造の詔

上表は、被葬者と考えられる斉明天皇・建皇子・間人皇女・また太田皇女に関連する書紀の抜粋です。
牽牛子塚古墳は、665年から667年までの間に造られ、699年に修築を受けたとする考えがありますが、それでは横口式石槨の年代観とは合わないとする説もあるようです。
建皇子の死後から間人皇女の埋葬まで、何度かの改葬・追葬が行われたように思われ、岩屋山古墳や鬼の俎・雪隠古墳の存在も含めて、その経緯にはまだ解明されない問題があるようです。


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 越塚御門古墳
牽牛子塚古墳から離れること僅か20mの所から、未知の終末期古墳が検出され太田皇女墓の可能性が高いとされました。

墳丘は、地表には痕跡が残っておらず、墳形や規模は不明だとされていますが、円墳もしくは方墳の可能性があるとのことです。Wikipediaで八角形とされているのは、現時点では間違いです。


写真でも分かる様に、墳丘は版築工法によって築かれています。掲載の写真では盗掘孔まではっきりと分かり、よりリアルなイメージが伝わってきます。

埋葬施設は、石英閃緑岩(飛鳥石)を用いた南に開口する刳貫式横口式石槨で、天井石と床石の2石を組み合わせた構造になっています。天井石の大半は石盗りによって破壊されていますが、奥壁付近が残されており、ドーム状になっていることが分かります。

埋葬施設の規模は、内法長2.4m、幅約90cm、高さ約60cmで、床面にはコの字形の溝が設けられて石槨内の排水の用を担っていたと思われます。

また、床面にはホゾ穴が4ヶ所設けられていたようで、天井石との接合のためのものだと考えられます。接合面には、漆喰が残っていました。

石槨前面には墓道があり、長さ4m以上、幅約1mが確認されています。墓道の造りは、人頭大の川原石を側壁として数段積上げて、その間にバラスを敷き詰めていました。この墓道は、石槨の中心軸からずれており、古墳の築造とは時期を違えて造られたものではないかと考えられています。

日本書紀天智天皇6(667)年の記述に合う古墳だとされていますが、築造時期などに諸説があるようで、近隣の終末期古墳との関連なども含めてまだ謎は残ります。
(刳貫式横口式石槨は、他に石宝殿古墳、益田岩船、鬼の俎・雪隠古墳があります。竜田御坊山3号墳石槨や鬼の俎・雪隠2号墳石槨石材などは、橿原考古学研究所付属博物館前庭にて野外展示されています。)


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 真弓鑵子塚古墳



墳丘は、直径約40m、高さ約8mの二段に築成された円墳と考えられています。
以前から開口しており石室内を見学できましたが、崩落などの危険性が高まっていることからも現在は見学が出来ない状況です。


1983年ごろ 北側 さきもりさん写真提供

石室は、全長約19m以上で、玄室長約6.5m、幅約4.4m、高さ約4.7mです。玄室床面積は28㎡と石舞台の26㎡を凌ぐ大きさで、五条野丸山古墳(34㎡)に次ぐ広さだとされています。
石材は、付近の貝吹山周辺で採れる石英閃緑岩(飛鳥石)の巨石を使用した穹霳状(ドーム状)の片袖式横穴式石室です。

調査以前には、南北両側に羨道を持つ特異な古墳であるとされてきましたが、現在では奥室的な機能をもつ羨道状の施設と表現が変わっています。
石室壁面は、巨石を6~7段積上げていますが、3段目以降が急激に持ち送りになっています。このようなドーム状を「穹霳(きゅうりゅう)状」と呼ぶようです。


2006年ごろ 南側(奥室方向)

ドーム状の石室は韓半島でも百済地域に多いそうで、真弓鑵子塚古墳周辺に分布する穹霳状横穴式石室を持つ古墳は、百済系渡来氏族の墳墓ではないかと考えられるそうです。このことは、渡来系氏族の墓からたびたび出土するミニチュア炊飯具などからも導き出せるとのことです。


2008年
明日香村発掘調査報告会の展示品

2006年明日香村発掘調査報告会の展示品

出土遺物としては、この他に金銅製の馬具、獣面のベルト金具、銀象嵌刀装具、玉類、金銅製装飾金具、金銅製馬具、鉄鏃、鉄釘、凝灰岩片などが出土しています。
玄室と奥室の両方から石棺の破片が出土しているのですが、少なくとも石棺2基と木棺1基が安置されていたらしいことが分かりました。南側の入り口から新たな死者を葬る追葬が数回にわたって行われたのではないかと考えられているようです。
被葬者としては、渡来系氏族 東漢氏の首長墓とする他に、蘇我稲目の名前も挙がっているようです。
また、墳丘の北側と南側にかけて地滑り跡が確認されており、玄室床面や側壁にも亀裂が生じています。これらは、南海地震の影響によるものだと考えられ、地震の恐ろしさを物語る物証にもなっています。


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 カンジョ古墳


墳丘は、一辺36mの方墳で、二段に築成されていますが、現状は崩落が激しく、築造時の様子を見てとることは難しくなっています。


2011年4月2日撮影
クリックで拡大します。
埋葬施設は、真弓鑵子塚と同様に穹霳状の横穴式石室で、こちらは両袖式の構造になっています。また、真弓鑵子塚は玄室の床面積が大きいのが特徴でしたが、カンジョ古墳は天井の高さが極めて高いことが特徴的です。

玄室長6m、幅3.7m、高さ5.27m。
(石舞台古墳、高さ4.8m)

また、玄室の床面には木棺を載せる棺台とみられる跡が検出されています。棺台跡は床面の中央付近にあり、粘土と炭を交互に重ねて盛り上げ、上面を白い石の粉で塗り固めていました。北側半分だけが残存していましたが、当初は幅1m、長さ2.2mだったと推定されています。

出土遺物としては、ミニチュア炊飯具や銀製指輪などがあり、6世紀末から7世紀前半頃の渡来系氏族 東漢氏の首長の墓ではないかと考えられます。




 与楽鑵子塚古墳
墳丘は、径24m、高さ9m(南側)の二段に築成された円墳です。
埋葬施設は、穹霳状の片袖式横穴式石室で、玄室長は4.15m、幅3.15m、高さ4.5m(現状)、また、羨道長は2m以上、幅1.4m、高さ1.4m以上を測ります。

天井が高くドーム状であることや羨道が短いなど、これまでに見てきた真弓鑵子塚古墳、カンジョ古墳、また沼山古墳(橿原市)と同様の特徴を備えていることなどから、渡来系氏族東漢氏の首長墓の一つではないかと考えられています。

出土遺物は確認されていません。

与楽鑵子塚古墳は山の斜面を利用して築造されており、北面では高さ6mになります。背面となる北側の墳丘裾には幅4.4m、深さ1.1mの掘割を設けて境界を示していました。


南から撮影

墳丘北側




寺崎白壁塚古墳
墳丘は、南北に46m、東西60m、背面30mの台形の基壇(三段目)上に、約30mの台形の墳丘下段(二段目)を造り、その上に方形一辺約16mの上段を造っています。

中世には越智氏の居城であった貝吹山城に関連する施設や墳丘盛土の流失などにより現状が大きく変わっているようですが、尾根の南面を人工的にカットして50m規模の平坦地を造成しています。背面のカット面から前面の平坦地の斜面下まで90mの墓域をもっている点や、
広大な墓域と造成時の大工事、また下から見上げた時の見栄えや斜面に段々と築かれた墳丘(段ノ塚式)などから、舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳に形態が似ているとされています。


西から

南東から

発掘調査を担当した高取町教育委員会は、2008年までの調査で墳丘裾の北側と南側の2ヶ所で、角が検出された事などから八角形に復元できる可能性が出てきたと発表しています。


埋葬施設は、床面を除き石英閃緑岩(飛鳥石)を組み合わせた横口式石槨で、長さ2.8m、幅1.1m、高さ0.9mを測り、6石で構成されています。
床面だけは、凝灰岩が使われているようです。

羨道部は、長8.2m、幅1.6~1.9m、高さ1.6mです。石槨の床面は羨道より40cmほど高くなっています。




 真弓遺跡群
真弓丘陵の北に位置する斜面や尾根上に古墳2基と木棺墓2基が検出されています。

 スズミ1号墳(消滅)
一辺約10mの方墳で、尾根の先端部分に築造されています。
埋葬施設は、南に開口する右片袖の横穴式石室で、調査時点で既に大半の石材が石取りによってなくなっていました。
石室規模は、長さ6m以上、玄室長約4m、幅約2.1mに復元できるようです。石材は斑糲(はんれい)岩、黒雲母花崗岩が使われているそうです。
石室内からは土師器・ミニチュア炊飯具、鉄釘が出土していますが、鉄釘の石室内での分布状態から、2棺が納められていたと推定されるようです。

 スズミ2号墳(消滅)
丘陵の頂上に築造された一辺約7mの方墳です。埋葬施設は南北に主軸をもつ木棺直葬だそうで、木棺は長2.1m、幅70cm、深さ40cmです。

出土遺物としては、棺内から耳環、鉄釘、歯牙がありました。この歯は、20代の女性の前歯だと鑑定され、さらに複顔が試みられています。

若い女性が単独で埋葬されている点などから、一族の特別な存在であったとも考えられ、シャーマンなどがイメージされます。


前方が貝吹山。
この道路の上の辺りにスズミ1・2号墳が存在していたと思われる。

スズミ1・2号墳の南東部で2基の木棺墓が発見されています。

木棺墓1
スズミ2号墳の南東裾に造られたもので、木棺は復元長1.8m、幅50cmの大きさです。墓坑内から土師器、鉄釘が出土しています。

木棺墓2
南北に伸びる尾根筋の頂上部に造られたもので、木棺は長さ1.8m、幅60cm。棺内から耳環、鉄釘が出土しています。

ミニチュア炊飯具
煮炊きに使う移動式竈(かまど)、釜、甑(こしき=蒸し器)を模して作ったもので、高さ20cmほどの小型の土製品です。実際の炊飯には用いられない小さな物です。
古墳時代後期になって、横穴式石室の中で行われる埋葬の儀礼で用いられますが、西飛鳥地域の他に、琵琶湖西岸や奈良県の葛城山東麓、西麓など特定の地域の群集墳に集中し、渡来系氏族との関連が推定されています。
スズミ1号墳より出土したミニチュア炊飯具



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 マルコ山古墳


墳丘は、対角長約24m、高さ5.3mの六角形墳で、二段に築成されています。東西に伸びる尾根の南斜面をL字に削り出し、平坦面に版築で盛土を行って築造しています。
山側(北)には、バラス敷が巡り下層には暗渠排水溝が造られていました。山側からの水の処理を目的としたものですが、排水機能だけではなく装飾性を重視したものとなっており、古墳の視覚的効果を高める働きがあったものと考えられるそうです。

埋葬施設は、凝灰岩の切石を使った横口式石槨で、長さ2.72m、幅1.29m、高さ1.36mの規模です。石槨内は、奥壁2石、側壁各3石、天井・床石各4石、閉塞石1石、計17石で構成されています。

石槨内には全面に漆喰が塗られていましたが、壁画が描かれている様子はないとのことです。

出土遺物は、漆塗木棺片や釘・金銅製六花形飾金具、大刀金具・尾錠などと共に、人骨が出土しています。鑑定の結果、30歳後半~40歳前半の男性のものとされ、被葬者が気がかりなところです。

被葬者については、川島皇子や弓削皇子が候補に上がっているようですが、推測の域を出るものではないようです。

東西に伸びる同尾根上には、カヅマヤマ古墳、真弓テラノマエ古墳、ドウヤマ古墳などが存在していました。

左写真は、マルコ山墳丘上から東の光景。



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 カヅマヤマ古墳
墳丘は、東西に延びる丘陵の南側斜面に東西100m以上、南北約60m、高さ8~10mの範囲にわたって削り出した後、平坦に造成し、版築によって盛土を行っています。
墳丘の規模は東西約24m、南北18m以上、高さ4.2m以上とされ、二段以上に築造された方墳だとされています。


カヅマヤマ遠望(2006年撮影)

埋葬施設は、飛鳥地域では始めて発見された吉野川の結晶片岩で築かれた南に開口する磚積石室です。

石室規慎は、復元長5m以上、玄室長2.6m以上、幅約1.8m、高さ0.9m以上とされました。
玄室床面には長さ0.3m、幅0.2mの切石が敷き詰められ、玄室の中央に長さ約2m、幅約1.2m、高さ約0.3mの棺台が設けられています。
玄室内は床面以外の壁面と棺台に漆喰が塗られ、また石材の接合面にも漆喰が使用されています。
天井部は磚積の残存状況から、持ち送りの構造であったと考えられています。


写真提供 ぷーままさん

出土遺物には、土師器、須恵器、漆片、鉄釘、不明鉄製品、瓦器、人骨などがありました。
人骨には、大腿骨、頭骨、歯が出土しており、鑑定の結果30~50歳代の男性のものだとされました。
築造年代は、出土した土器から7世紀後半の築造だと思われます。

地滑りの跡が墳丘のほぼ中央部から南側にかけて顕著に検出されています。埋葬施設も玄室部分のほぼ中央から南側部分が最大で約2m滑落しており、これらは12~13世紀代の盗掘坑が滑落痕跡によって分断されていることから判断して、1361年8月3日に発生した南海地震の影響によるものだと考えられるようです。


写真提供 ぷーままさん


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 束明神古墳
墳丘は、丘陵の尾根の南斜面を径60mにわたって造成し、その中央部に築かれています。
現状では径10m程度に見えるのですが、これは中近世の神社境内の整備のために削られていると言うことで、調査では対角長30mの八角形墳であった可能性が高い古墳です。

埋葬施設は、特殊な横口式石槨で、厚さ約30cm、幅50cm、奥行50cmの凝灰岩切石を家型に積み上げています。石槨の規模は、石槨長31m、幅2.1m、高さは復元高2.5m。
床面にのみ漆喰が塗られていました。石槨入口部分には、幅1.7mmの墓道が検出されています。

石槨には、復元実験により唐尺(1尺=29.4cm)が用いられ、黄金分割の比率(1対1.618)が使用されていることが分かりました。


出土遺物としては、土師器、須恵器、金銅製棺飾金具、鉄釘、漆膜などがありました。また、歯牙6本が出土しており、鑑定によれば男女の性別は不明ながら、年齢は青年期か壮年期と推定されるそうです。

一般的には、立地が草壁皇子の挽歌にも詠まれる佐田丘陵に在ることなどからも、束明神古墳は草壁皇子の陵墓だと考えられています。
しかし、疑問が無いわけではありません。鉄釘の出土数が一つの棺の量にしては多いことや、夾紵棺ではないことなども気になるところではあります。真弓佐田の丘陵には、未知の古墳が眠っている可能性も捨て切れないように思います。


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佐田1号墳
墳丘は、径12m、高さ2.5mの円墳だと考えられていますが、調査時点で基底部以外はほぼ消滅しており、僅かに残った古墳の構造材や遺物によって推定されたものです。
埋葬施設は、長さ2.8m、幅1.7mの玄室を持ち、幅0.9mの短い羨道がつく右片袖式の横穴式石室であったようです。また、平板な幅1m程度の石材が出土しており、これを天井石と考えると、石室は穹霳状であった可能性が指摘されています。

埋葬時期は2時期あり、1次の埋葬には、緑泥片岩の組合せ石棺が用いられたようです。2次埋葬は、1次の石棺を取り除いた上に整地土を入れてバラス状の石を敷いていたとのことです。

出土遺物としては、須恵器杯の破片、金銅製縁金具などがあったようです。また、この他に瓦器椀などの中世の土器や人骨片が出土しており、古代から中世へと墓の再利用が行われていたと考えられるようです。



佐田2号
墳丘は、調査時点で既に削平されており基底部しか残存していなかったのですが、東西に伸びる細い尾根の先端部分の南斜面に地山を整形して築かれており、墳丘の一部には版築が確認されたようです。これらの事から、佐田2号墳は終末期の古墳だと考えられています。
古墳の規模は、一辺7mの隅丸方形を呈した方形墳とされるようですが、八角形であるとする見方があるようです。

墳丘上には柱穴が検出されており、中世の城砦ではないかと考えられ、2号墳はこの時点で削平されたものと思われます。
また、同調査区からは一辺が2.1m~2.6mと小規模な竪穴住居跡が検出され、古墳の堀割りから出土した物と同一固体の土器片が出土したことなどから、2号墳と関係する建物遺構だと考えられました。


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佐田遺跡
高取国際高校の建設に先駆けて発掘調査が行われ、小谷遺跡・北ノ尾北遺跡・北ノ尾南遺跡・横ヶ峯遺跡と名付けられた遺跡が発見されています。これらを総称して佐田遺跡群と呼びます。
遺構の時代は、古墳時代から江戸時代までを含んでいました。検出された遺構は、掘立柱建物、土壙、竪穴住居、溝状遺構、柱列(柵)、火葬墓、中世城郭、近世館跡などがあります。
遺物としては、土師、須恵、硯、土馬、土製カマド、緑釉片、石材、瓦、瓦質土器、陶磁器、金属製品、八稜鏡などが出土しています。


中央が高取国際高校

調査では15基の古墳(小谷古墳群)の他に、飛鳥時代の遺構として、掘立柱建物や竪穴住居、 また城郭の曲輪のような平坦面や丘陵頂部にめぐらされた柵列などありました。遺跡が紀路に沿う丘の上にある点や柵列の存在などから、飛鳥を守る防衛施設である可能性が注目されます。


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 出口山古墳
紀路に沿うように在る丘陵上に在り、径10m程の円墳だとされています。


出口山古墳 紀路より撮影

出口山古墳 墳丘 写真提供:さきもりさん

出口山古墳は、測量調査は行われていますが、発掘調査は未だ行なわれていません。踏査によると10cm大の凝灰岩の破片が見つかっており、凝灰岩製の石棺や石槨の存在が推測されます。
この調査を進められた河上邦彦先生は、地主からの聞き取りから石材と思われる石の存在を聞かれたそうです。

奈良県名所旧跡取調書という明治30年頃の作成された「無名塚」と記された古墳の記録とを突き合わせ、ひとつの石材の存在に行き当たっておられます。
「無名塚」の記録に記された石材の図は、束明神古墳発掘調査報告書内に掲載されています。

石材は、半分程度に割れており、全体では円筒形のように思われます。上部には段が描かれており、蓋状の物があることが想像されます。

推論として、この石造物は出口山古墳から出土した蔵骨器の外容器、または同種の容器を入れる石槨ではないかとされているようです。河上先生の推測はここに止まらず、古宮土壇周辺から出土したと言われる金銅製四環壺のような50cm以上もある壺が、蔵骨器として入れられていたのではないかとされ、その可能性を書かれています。
つまり、出口山古墳は、紀路を見下ろす丘の上に築造された終末期の古墳で、火葬墓だと考えられると言うことになります。


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紀路
大和盆地南部・飛鳥近郊から紀ノ川河口「紀伊水門」を結ぶ古代の幹線道路で、現在にもその痕跡を良く残しています。飛鳥時代に難波津が主要な港となるまでは、紀伊水門が大和政権には重要な水運の拠点であったと思われます。宮地と港を結ぶ重要な道路が紀路であったと言えるでしょう。

紀ノ川河口に近い和歌山市善明寺にある5世紀前半の遺跡、鳴滝遺跡の倉庫群には7棟の大きな倉庫が並び建ち、政権が直轄する物資保管庫であったとされています。紀ノ川の水運も含めて、大和政権の重要な幹線道路であったと思われます。
7世紀になると、飛鳥政権の外港は難波津に限定されていきます。

カヅマヤマ古墳などで使われた吉野川産の結晶片岩や、川原寺の瓦窯であった荒坂瓦窯、藤原宮の主要瓦窯であった高台・峰寺瓦窯で焼成された瓦も紀路を使って運ばれました。また、紀路沿いからは製塩土器も出土することから、塩の道でもあったのかも知れません。
また、飛鳥時代に限っても、日本書紀に記される斉明天皇の紀の温湯への行幸、有間皇子の護送、持統天皇の紀伊行幸、文武天皇の宇智群や紀伊行幸なども、紀路を辿ったものだと考えられます。


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 森カシ谷遺跡
高取町教育委員会によって発掘調査が行われていますが、現在、遺跡はほぼ消滅しています。
この遺跡では、6世紀に築造された古墳の墳丘を利用して土段を造っています。その中心部に東西4m、南北3m、深さ2.2mほどの土坑が掘られています。土坑には数ヶ所の柱穴がありました。特殊な用途に用いられた施設のようであり、土坑からは生木なども出土したことから、物見台や烽火台の可能性が指摘されました。


現況

また、高床と考えられる掘立柱建物跡が検出されています。建物は尾根斜面に平坦地を作り東西4.8m、南北12.7mの規模であったようです。この建物から丘陵頂部へは、橋がかかっており斜面を経ず行き来できるようになっていたようです。

これらの施設は、7世紀後半に建造されたものと思われ、紀路に沿って飛鳥の内外を分ける境界にあり、飛鳥を守る砦あるいは関所のような施設であると思われます。


遺跡西側の紀路(飛鳥方向)

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 森カシ谷2号墳
丘陵南側の中腹を削って造成した約25㎡の平坦地に、版築によって築かれた円墳が検出されています。古墳は、現在は消滅していますが、中世以降に削平されており排水溝以外には残存していませんでした。

調査の結果、構造や立地から終末期の古墳であると推定されたようです。
墳丘上部は失われていましたが、墳丘の下を十字形にくぐる2本の排水溝を確認。地面を深さ30cm以上に掘って、こぶし大の石を詰めた暗渠になっています。

墳丘規模は、排水溝の長さから直径約14mと推定されました。

この2号墳は、出土土器や立地、構造などから築造時期は終末期だと推定されました。森カシ谷遺跡の施設が時代の変遷や遷都に伴い役目を終えた後、古墳が造営されたと考えられます。


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 薩摩遺跡
薩摩遺跡は、国道169号線高取バイパスの建設に伴うもので、橿考研が建設予定地を10次にわたって調査しています。また、これとは別に近隣地域を高取町教委が調査を行なっています。

2004年の調査では、弥生時代から古墳時代の集落と墓地が確認されました。
弥生時代中期には、集落の一画に墓地が形成されています。墓地には方形周溝墓と木棺墓がありました。簡単に説明すると、方形周溝墓は平地に四角く溝をめぐらせて、墓の区域を画したもの。また、木棺墓は盛土などの施設を作らずに、平地に木棺を直接埋めたものです。

古墳時代前期のものとしては、4基の古墳が確認されました。2基は丸く溝をめぐらせた円墳、もう2基は四角く溝をめぐらせた方墳です。これらの古墳が形成された後には、集落が形成されます。3棟の竪穴住居が確認されていますが、さらに南へ展開するだろうと考えられています。

古墳時代中期なると集落が放棄されて、再び古墳群が形成されます。これは円形や方形の周溝をもつ古墳群で、5基の古墳が確認されています。その内の5号墳では、埋葬施設が残っており、副葬品は、銅鏡1面、漆塗りの櫛、それに鉄製甲冑、刀剣類などがあり、とりわけ銅鏡は4ヶ所に獣の文様を配した類例のない珍しい物でした。
この古墳は、一辺10m程度の方墳で、中央に木棺を直接埋める木棺直葬でした。

2009年、この薩摩遺跡から奈良時代の道路跡が見つかり、紀路か紀路に繋がる支線道路ではないかと報じられました。

検出された道路跡は、南北に長さ20m分だとされ、路面の両側には幅60cm、深さ40cm、の側溝があったとされました。側溝からは奈良時代の須恵器片が出土しました。側溝間は9mあり、これが道路幅だとされました。

側溝の東側には、建物が検出されました。東西南北ともに5m以上の総柱建物と呼ばれる形式で西側には庇がある倉庫だとされました。道路と区画する塀跡(長さ約10m)3本も確認され、道路と方位が一致することなどから役所など公的建物の可能性が強いと考えられました。

しかしながら、その北に位置する橿考研の発掘現場からは、道路痕跡は確認されておらず、飛鳥近辺の官道としては狭い道路幅と共に腑に落ちない点も残りました。


2009年11月28日 現地説明会

10次調査では、古代の池が発見されました。
尾根と尾根の間の谷地形に土を盛って堤が築かれ、谷を堰き止めて造られた池であることが分かりました。

9次調査で池口から出土した木簡には「波多里長檜熊村主が池を作った」と記されており、檜隈を治めていた有力者が中心になってこの池が造られたことが分かります。
池堤の建設には敷葉工法が用いられ、堅牢に造られていました。堤の西端には水を通すための木樋が発見されました。木樋は、4回にわたって修復が行なわれており、用水の確保のために池が大切にされたことを物語っています。

3回目に設置された木樋は、長さ約15m、幅約50cm、厚さ約30cmで、丸太を刳り抜いて作った樋を2本繋いでいました。


2009年11月28日 現地説明会


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市尾墓山古墳
墳丘は、全長66m、後円部径39m、高さ10m、前方部幅49m、高さ10m、前方部を北西に向ける二段築成の前方後円墳です。くびれ部両側に造出しがあります。周濠幅3m、幅12m、高さ3mの外提が取り巻いています。

埋葬部は、後円部南東に開口した全長9.45m、玄室長5.9m、幅2.45m、高さ3m、羨道長3.5m、幅1.8m、高さ1.7mの右片袖式横穴式石室です。


石室築造時には、石棺蓋を奥壁側から搬入するため一時的に開口されており、後に閉塞石で閉じられたようで、石積が他の壁面とは様相を異にします。
古墳は平地に盛土をして築造されているため、石室の地盤の安定と排水を考慮して、石室の下には基盤石を置き上に粘土で床面を作っています。


2004年 現地説明会時撮影

石棺は、二上山の凝灰岩の刳抜式家形石棺で、長さ2.61m、幅1.27m、高さ1.39mで、内部には朱が全面に塗られていました。


2004年 現地説明会時撮影

被葬者は、巨勢氏首長だと思われますが、具体的には巨勢男人大臣などが挙げられます。
出土遺物は、副葬品として鉄刀、刀子、鉄鏃、飾金具、馬具、玉類、須恵器、土師器などがありました。
また墳丘からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪、鳥形木製品他が出土しています。



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 市尾宮塚古墳

市尾宮塚全景
クリックで拡大します。

古墳は、天満神社のある独立した丘陵頂部にあり、神社境内の林の中にあります。
墳丘は、全長44m、後円部径23m、前方部幅23.5m。前方部を東に向ける前方後円墳です。
埋葬部は、後円部に横穴式石室が北向きに開口し、全長11.6m、玄室長6.2m、幅2.5m、高さ3m、羨道長5.4m、幅1.5m、高さ1.8mの両袖式横穴式石室です。床面には礫が敷き詰められ、Y字型の排水溝が検出されています。
玄室中央奥寄りに二上山凝灰岩製の刳貫式家形石棺が半壊状態で残存していました。長さ1.9m、幅1.2m、高さ0.65mで、縄掛突起の形状は墓山古墳の石棺より新しい形式だとされるようです。現在、石室内にある石棺は、破片をつないで復元されたものです。
また、石棺の前には木棺が1基以上追葬されていたようです。

市尾宮塚古墳石室 左:1984年3月頃  右:2011年3月 撮影
左写真は、さきもりさんの提供。

出土遺物は、金銅製杏葉、金銅鈴、水晶製の三輪環、銀製魚形歩揺など多彩な副葬品が出土しています。鈴の出土例は少なく、奈良県内でも当時2例目だとされました。

被葬者は、墓山古墳の被葬者の次代を担った巨勢氏の首長だとみられています。


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 高台・峰寺瓦窯跡

高台・峰寺瓦窯は、初めての瓦葺宮殿である藤原宮のために大和国内に設置された瓦窯のひとつであり、その規模は藤原宮所用瓦窯の中では最大、また操業期間も一番長かったと考えられます。

藤原宮のために設置された瓦窯は、大和国内では高台・峰寺瓦窯の他に日高山瓦窯、西田中・内山瓦窯、牧代瓦窯、安養寺瓦窯などがあり、大和以外では近江・和泉・讃岐などの遠隔地にもありました。
宮全体の瓦葺屋根にすることは、一寺院を建立するのとは比較にならない膨大な枚数の瓦が必要になります。そのために大規模な造瓦システムが広範囲で組まれたことが、これら多数の瓦窯跡の存在から伺うことができます。

藤原宮における造瓦開始は、大和国内で生産された瓦に新しい製作技法が用いられて宮内の主要建物で使用されていることなどから、遠隔地より遅れると考えられていましたが、最近の発掘調査の成果によって、大和国内でも藤原宮造営の早い段階で操業が開始されていたことが分かっています。

ここで生産された瓦は、特に大極殿や朝堂などに主に用いられています。そして、宮造営の早い段階から瓦窯の操業が開始されたのであれば、藤原宮で採られた造瓦システムは、生産地が広範囲に及ぶというだけではない各生産地(瓦窯)ごとに葺かれる建物、生産数量などの細かな部分まで綿密に立てられた計画が実施されたものだったのかもしれません。

(左写真は、藤原宮跡発掘調査現地説明会に展示された瓦で、「6275A」と呼ばれる高台・峰寺瓦窯産のものです。主に大極殿院南門・南面回廊・朝堂院回廊・東楼付近から出土します。)

藤原宮の造瓦に関する発掘調査からみた最新の成果は、ゆきさんが飛鳥遊訪マガジンに「藤原宮の発掘調査から藤原宮の造瓦を考える」としてお書きくださっていますので、詳しくはそちらをご覧下さい。

藤原宮の発掘調査から藤原宮の造瓦を考える」(飛鳥遊訪文庫)

天満神社のある丘陵(通称:国見山・稲荷山)西側の高台瓦窯と、道を隔てた曽羽神社のある丘陵(俗称:曽羽山・通称:峰寺)北側の峰寺瓦窯と、丘陵ごとにそれぞれの跡地に名称があります。

どちらも正式な発掘調査はおこなわれていませんが、高台瓦窯は、登窯と思われる窯跡一基が昭和10年代まで残っていたことがわかっています。

峰寺瓦窯は、数基の窯跡と窯に関わると思われる焼土、鬼瓦などが発見され、丸・平瓦、面斗瓦、須恵器片などが丘陵の北から東にかけて見つかっています。

また散見・採取された瓦片などから、瓦窯の範囲は少なくとも南北200mの範囲に及び、付近の小字名などを考慮すると、近鉄吉野線の線路を超えてまだ南にも広がっていた可能性もあるようです。


高台瓦窯跡

峰寺瓦窯跡

現地に立てば実感できると思いますが、高台瓦窯と峰寺瓦窯の距離は、100mほどしか離れていません。谷を挟んで向かい合うようにして在るのは、高台と峰寺が一つの瓦生産地として機能していことを示していると思われます。

 今回は、古代の主要道である紀路沿いにある瓦窯として、高台・峰寺瓦窯をご紹介しましたが、跡地の300mほど北西には、現在も曽我川が流れています。古代の曽我川の流路や川幅が現在と比べてどうであったかは確かにはわかりませんが、一枚10㎏は軽く越えると言われる藤原期の瓦を、より一度に沢山運搬するために、この曽我川は当然利用されたと考えられます。


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関連地名でみる万葉歌

佐田


真弓


越智


紀路(紀道)・紀・紀伊


巨勢路(巨勢道)・巨勢




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飛鳥周辺古墳マップ


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西飛鳥古墳一覧表
番号 古墳名称 時期 規 模 備 考 所在地
20 鬼の俎板・雪隠 終末期 墳形不明
底石、長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m
石室、内幅約1.5m、高さ約1.3m
横口式石槨 
2号墳と双墓の可能性
明:野口
29 岩屋山古墳 終末期 方墳:一辺約40m、高さ約12m
二段築成
石室全長17.78m、
玄室長約4.86m、幅約1.8m、高さ約3m
羨道長約13m、幅約2m、高さ約2m
横穴式石室 切石造
両袖式
岩屋山式石室
明:越
30 牽牛子塚古墳 終末期
八角形墳:対辺長約22m、礫敷を含めて約32m
三段築成
石槨の幅は5m、奥行き3.5m、高さ2.5m
石槨内、幅1.41m、高さ1.01m、長さ0.63m
刳貫式横口式石槨 
双室合葬墓
明:越
31 真弓鑵子塚古墳 後期 円墳:径40m、高さ約8m
二段築成
石室全長19m以上
玄室長6.5m、幅4.4m、高さ4.7m
奥室幅1.92m、高さ2.35m、長さ3.9m
羨道幅2.26m、高さ2.28m、長さは現長で約5m
横穴式石室:穹窿式
片袖式 
明:真弓
32 カンジョ古墳 後期 方墳:一辺36m
二段築成
玄室長6m、幅3.7m、高さ5.27m
横穴式石室:穹窿式
両袖式 玄室中央に棺台
高:与楽
33 与楽鑵子塚古墳 後期 円墳:径24m、高さ北6m・南9m。二段築成
玄室長4.15m、幅3.15m、高さ4.5m
羨道長2m以上、幅1.4m、高さ1.4m以上
横穴式石室:穹窿式
片袖式
高:与楽
34 寺崎白壁塚古墳 終末期 方墳:東西約60m、南北約46m、
背面約30mの台形基壇に下段約30m、上段16mの三段築成
石槨内法長2.8m、幅1.1m、高さ0.9m
羨道長8.8m、幅1.6~1.9m、高さ1.6m
横口式石槨:切石造
石槨床面は羨道より
40cm高い
高:町寺崎
35 与楽古墳群 後期 貝吹山丘陵の南裾周辺を中心に分布 
60基(奈良県遺跡情報地図に登録済みのもの)
- 高:与楽周辺
36 スズミ1号墳 古墳 方墳:一辺約10m 復元石室長6m以上、玄室長約4m
横穴式石室 消滅 明:真弓
37 スズミ2号墳 古墳 方墳:一辺約7m 
木棺長2.1m、幅70cm、深さ40cm
木棺直葬 消滅 明:真弓
38 カヅマヤマ古墳 終末期 方墳:東西24m、南北18m以上、高さ4.2m以上
二段以上に築成
石室復元長5m以上、
玄室長2.6m、幅約1.8m、高さ約0.9m以上
磚積式石室
吉野川結晶片岩
床面以外漆喰塗布
玄室中央に棺台
明:真弓
39 マルコ山古墳 終末期 多角形墳(六角形):対角長24m、高さ5.3m、二段築成
石槨内法長2.72m、幅1.29m、高さ1.36m
横口式石槨
全面漆喰塗布
明:真弓
40 真弓テラノマエ古墳 飛鳥 詳細不明 磚積式石室古墳の可能性 消滅 明:真弓
47 束明神古墳 飛鳥 八角形墳:対角長30m
石槨長3.1m、幅2.1m、復元高2.5m
家型の石槨には、約50cm×約50cm×約30cmの凝灰岩ブロック500枚使用
切石家型横口式石槨
床面のみ漆喰
高:佐田
48 佐田2号墳 後期 八角形墳? 隅丸方形墳?:径7m 消滅 高:町佐田
49 佐田1号墳 古墳 円墳:径12m、高さ2.5m 消滅 横穴式石室
結晶片岩使用石棺
高:佐田
50 出口山古墳 終末期? 円墳:径10m 火葬墓か? 高:森
51 岡宮天皇陵 - 詳細不明 草壁皇子真弓岡陵 高:森
52 森シカタニ塚古墳 終末期? 円墳:推定径14m 消滅 高:森
58 市尾墓山古墳 後期 前方後円墳:全長66m、後円部径39m、高さ10m、
前方部幅49m、高さ10m、二段築成
石室全長9.45m、玄室長5.9m、
幅2.45m、高さ3m、羨道長3.5m、幅1.8m、高さ1.7m
横穴式石室
右片袖式
周濠・外堤
刳抜式家形石棺
高:市尾
59 市尾宮塚古墳 後期 前方後円墳:全長44m、後円部径23m、高さ7m、
前方部幅23.5m、高さ4.5m。      
石室全長11.6m、
玄室長6.2m、幅2.5m、高さ3m、羨道長5.4m、幅1.5m、
高さ1.8m。
横穴式石室
刳抜式家形石棺
市尾墓山古墳の次世代首長墓か
高:市尾
64 ドウヤマ古墳 古墳 円墳:径10m 結晶片岩使用古墳 明:真弓
66 越塚御門古墳 終末期 墳形不明
石槨内法長約2.4m、幅約90cm、高さ約60cm
刳貫式横口式石槨
墓道
明:越
67 森カシタニ1号墳 古墳 円墳:径25m 消滅 高:森

  • 飛鳥地域(明日香村とその周辺市町村の一部を含む)の主な古墳を掲載しています。
  • 地図上の古墳位置は、正確ではありません。おおよその所在地を示しています。
  • 古墳群として掲載したものは、概ね掲載場所を中心にした周辺を示しています。
  • 地図の古墳マーク(赤の丸印)をクリックすると、概要一覧にリンクします。戻る時はブラウザのバックボタンで戻ってください。(クリッカブルマップになっています。)
  • 古墳を示すマークは、古墳の形状や規模や築造時期を表すものではありません。
  • 表中の所在地名の略記について (明=明日香村・高=高取町)
  • 表中の時期区分において、「-」は作成時に公式データーが見つけられなかったもの。「古墳」は時期が明確ではないものを表します。「後期」は古墳時代後期、「飛鳥」は飛鳥時代を意味します。
  • この地域には、掲載した古墳以外にも多数の古墳が存在しています。特に貝吹山南麓や西側を含む高取町域には、おびただしい数の古墳があります。掲載されていないから無いというわけではありません。むしろ書けないほど多いと理解してください。
  • この飛鳥の古墳地図と一覧は、奈良県遺跡情報地図を参考に独自に作成したものです。誤りがあるかも知れません。ご了承ください


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ウォーキングマップ 岩屋山古墳 牽牛子塚古墳 越塚御門古墳
真弓鑵子塚古墳
カンジョ古墳 与楽鑵子塚古墳 寺崎白壁塚古墳 真弓遺跡群 マルコ山古墳
カヅマヤマ古墳 束明神古墳 佐田1号墳・2号墳 佐田遺跡 出口山古墳
紀路 森カシ谷遺跡 森カシ谷2号墳 薩摩遺跡 市尾墓山古墳
市尾宮塚古墳 高台・峰寺瓦窯跡 関連地名でみる万葉歌 飛鳥周辺古墳マップ 西飛鳥古墳一覧表
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