両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第43回定例会レポート

塔はなぜ高いのか

ー五重塔の源流をさぐるー



この色の文字はリンクしています。
第43回定例会 事前散策資料
2014年3月29日


甘樫丘から耳成山をのぞむ

 第43回定例会は、京都府立大学専任講師の向井佑介先生に『塔はなぜ高いのか-五重塔の源流をさぐる-』について講演していただきました。それに先だって行われた事前散策には、向井先生みずから、案内をしてくださいました。当日の天候を心配していましたが、風人さんの人徳(今回は強調されていませんでしたけどね!)でくずれることもなく、春の日差しと桜、そして向井先生の論理立てた講演を満喫できた1日でした。


只今、受付準備中

 近鉄飛鳥駅前には、集合時刻よりも早くから多くの方が集合され、受付後に資料を受け取ると、バスに乗り込んで川原寺跡へと向かいました。
 配付された資料の内、向井先生作成の講演会資料は12ページ、事務局作成の事前散策用資料集は28ページと、いずれも定例会への意気込みが感じられる力作でした。


 川原バス停に到着すると数名の参加者の方と合流し、バス停前で事務局長の風人さんによるスタッフとサポートスタッフの紹介から出発式が始まりました。

 風人さんの紹介にもありましたように、現在、両槻会のスタッフは、事務局長の風人さんとメールマガジン編集長のももさんの二人だけです。
 両槻会は二ヶ月に一度のイベントの開催、二週間に一度の「飛鳥遊訪マガジン」の発行が主だった活動です。遊訪マガジンには定例会に参加される方に興味を持っていただけるように定例会のテーマに合わせて「飛鳥咲読(=先読み)」という記事も掲載されています。
 それぞれのスタッフにも仕事や家庭があり、限られた人数での活動に非常に苦労されています。そのためサポートスタッフが、定例会配付資料や遊訪マガジン記事のチェック、定例会当日の受付や参加者の誘導などのお手伝いをしています。

 では、そのような状況のなか、両槻会事務局ではいつから第43回定例会の準備を始めていたのでしょうか。あらためて調べてみると、事務局ではなんと昨年の春から、今回の定例会が始まっていたのです。
 今回はまず、準備段階からレポートさせていただきます。

  『事務局はいつ動き始めたのか-第43回定例会の源流をさぐる-』

H25.04.27 帝塚山大学市民大学講座終了後、向井先生にH26.03定例会講演をお願い
H26.01.12 向井先生と打ち合わせ日程調整 
H26.01.14 講演会場の飛鳥資料館と日程を調整 
H26.01.19 向井先生と京都駅周辺で打ち合わせ
H26.01.22 向井先生から講演タイトル、講演概要の決定連絡を受ける
         ~第43回定例会が本格始動~
H26.01.22 両槻会HPに第43回定例会予定ページ掲載
H26.01.23 事前散策案作成
      H26.01.24 飛鳥遊訪マガジン180号発行(第42回定例会咲読掲載)
H26.01.28 咲読の1回目案作成
H26.01.28 飛鳥遊訪マガジン第181号編集と各記事のチェック開始
      H26.02.01 第42回定例会開催
H26.02.07 飛鳥遊訪マガジン第181号発行(第43回定例会咲読1回目掲載)
H26.02.08 咲読の2回目案作成
H26.02.10 キャラ案作成&配付資料作成開始
H26.02.13 飛鳥遊訪マガジン第182号編集と各記事のチェック開始
H26.02.16 事前散策コースの下見、事前散策案修正、詳細案内案作成
H26.02.19 咲読の3回目案作成
H26.02.21 飛鳥遊訪マガジン第182号発行(第43回定例会咲読2回目掲載)
H26.02.22 飛鳥資料館との打ち合わせ&申請書の提出
      H26.02.23 第44回定例会事前打ち合わせ(1回目)
H26.02.26 飛鳥遊訪マガジン第183号編集と各記事のチェック開始
H26.03.02 配付資料素案完成
H26.03.02 配付資料のチェック開始
H26.03.02 咲読4回目案作成
H26.03.07 飛鳥遊訪マガジン第183号発行(第43回定例会咲読3回目掲載)
H26.03.09 配布用資料順次修正
H26.03.13 飛鳥遊訪マガジン第184号編集と各記事のチェック開始
H26.03.19 配布用資料最終チェック開始
H26.03.19 参加証作成
H26.03.21 飛鳥遊訪マガジン第184号発行(第43回定例会咲読4回目掲載)
      H26.03.22 第44回定例会事前打ち合わせ(2回目)
H26.03.22 各資料の印刷分担を決定
H26.03.23 次回(第44回定例会)予告チラシ作成
H26.03.23 各資料の印刷を順次開始
H26.03.28 各資料の印刷・編綴を終了

        ~ H26.03.29 第43回定例会開催 ~

 このように、第42回定例会の開催準備と開催、第44回定例会の開催準備とをやりながら、今回の第43回定例会の準備が進められ開催されたのです。さらに直前で、ももさんのプリンターが使用不能というアクシデントも勃発し、いつもなら風人さんとももさんでやられている資料等の印刷・編綴をサポートスタッフが手分けし、事なきを得ました。まあ、事前散策資料だけでも28ページにも及ぶ量を、これまで家庭用のプリンターで毎回40部ほど印刷していたのですから、プリンターもさぞかし大変だったでしょう。これ以外にも他の定例会の細々とした打ち合わせやチェックが平行して行われていたので、よっぱの頭の中は、今、どの定例会のサポートをしているのかと、だんだんと混乱してしまい、今回の定例会当日は、出発前にあらためて集合時刻や集合場所を見直してしまいました。

 ということで、やっと定例会当日にたどりつくことが出来ました。
 川原バス停前での出発式を終えると向井先生とももさんを先頭に事前散策が始まりました。

 今回のテーマは「塔」でしたので、事前散策は、川原寺跡、橘寺、飛鳥寺跡を中心とし、桜の開花時期と重なったことから、その経路で桜を愛でながらの散策となりました。


川原寺塔跡 基壇上

 川原寺跡では、中門跡での説明のあと、全員で塔跡の基壇に登り、復原された礎石を前に向井先生からの説明に聞き入りました。ここで先生は、川原寺の金堂がなぜ西に配置されているかに言及され、無量壽教(むりょうじゅきょう)=阿弥陀如来(西方浄土)思想という、故森郁夫先生の説を披露してくださいました。また、塔の心柱は建物を支えていたのではなく、塔の象徴的なものだと分かりました。


橘寺西門へ

 次に私たちは、橘寺に向かいました。ここでは地下式心礎の前で、先生から心礎の据え方や塼仏による荘厳についての説明がありました。


 その後、境内散策や参詣の時間がもうけられ、参加された方は、7~8分咲き桜にカメラを向けておられました。ただ、一部の瓦マニアは、桜の花よりも阿弥陀如来の安置された経堂の屋根瓦に興味を寄せ、あの瓦はいつのものか、瓦の変色は焼けた跡ではないかと議論を交わしていました。
 

飛鳥川対岸より飛鳥京跡苑池遺構をのぞむ

 橘寺を出発すると飛鳥川の川縁にある遊歩道を北上し、木の葉堰を経由して甘樫丘に向かいました。その途中、時間に余裕があったことから川原寺跡の北限や飛鳥京跡苑池付近で立ち止まり風人さんからの説明を受けました。また、東海地方から参加された方から道場という小字に関する質問があったことから(風人さんがしゃべり足りなかったから?)風人さんが弥勒石にまつわる説話を披露してくれました。そして、甘樫丘東麓のエベス谷に到着した一行は、風人さんのエベス=蝦夷?の説明を聞きながら甘樫丘の頂上を目指したのですが、その道筋には誰が置いたのか、椿の花がきれいに置かれていました。


 甘樫丘の頂上に到着すると、そこはもう桜がほぼ満開で、事務局の粋な計らいで、急遽昼食場所を変更し、その桜や景観を楽しみながらの昼食となりました。


 昼食後、参加者一行は、飛鳥寺跡へと進み、今は見ることができない塔心礎の前でももさんや先生の説明を聞きながら一塔三金堂式の伽藍配置を思い浮かべました。


安居院(飛鳥寺跡)

 その後は、飛鳥寺の講堂跡や寺域を確認しながら講演会場の飛鳥資料館に到着し、しばらくの休憩の後、向井先生の講演会が始まったのです。


 今回のテーマは「塔はなぜ高くなったのか」でした。
 まず一つ目の理由は、仏教発祥の地インド、仏像発祥の地ガンダーラでのストゥーパの変遷でした。
 釈迦入滅後、分骨された遺骨の一部が埋納し造られた最初のストゥーパが、ヴァイシャーリーの仏塔だと考えられています。このストゥーパは創建当初は、直径8mの小さなストゥーパだったのですが、4回にわたって増広されていたようです。
 また、仏教はインドからガンダーラに伝えられ、初めてこの地で仏像が作られた経緯があるのですが、ガンダーラにあるラニガト寺院址でも、ストゥーパは創建後に寄進者や供養者によってどんどんと大きなものに建て直されていたようです。
 
 二つ目の理由は、中国に伝わった仏教がどのように受け入れられたかがポイントでした。
 仏教は、インドからガンダーラへ、ガンダーラから中国へとシルクロードを通って伝えられました。中国に仏教が伝わった頃の宗教思想は神仙思想でした。中国から出土している楼閣明器や仏塔画像磚などから推察すると、後漢や三国の時代にストゥーパ(仏塔)が、元々中国にあった楼閣建築と結びついていったようです。楼閣建築はもともと宗教との結びつきはなく見張り台として建てられたものだったのですが、それが宗教と結びついたそうです。
 また、仏教が中国に伝わったときに仏教が神仙思想と結びつき、仏陀も神仙のひとりと考えられ、その信仰が広まっていったようです。そして中国では神仙が高いところを好むと考えられていたため、仏陀のために建てられた塔も高いものであるべきだとされたのです。

 三つ目の理由は、塔の内部構造や当時の人々の塔に対する考え方でした。
 ここで先生が示されたのは、雲岡石窟でした。雲岡石窟は、台地の崖の部分に石窟を作り、その台地の上にも複数の寺院が造られていた事が発掘調査で判明しています。
 台地の上の寺院址からは塔跡とそれを三面から囲むようにして作られていた僧房や食堂が確認されています。僧はもともと集団生活を寺で行います。幾人もの僧が生活する場が僧房なのですが、雲岡石窟ではその僧房が、塔を取り囲むようにして造られていたようです。生活のいかなるときもその中心は、やはり釈迦であったのでしょう。
 ただ、それ以前のガンダーラでは、僧院(僧房の区画)と塔院(塔のある礼拝の場所)が隣接してはいるものの、別区域とした伽藍配置であったようですが、それがいつしか、塔が僧院の中心に取り込まれたようです。
 また、石窟寺院では、その中心に柱をつくり、そこに仏教説話をモチーフした塑造が施され、その柱を仏塔ととらえました。
 さらにその仏塔は、須彌山に通じていると考えたようです。須彌山は、当時とてつもなく高いものと考えられており、仏教における須彌山世界観と塔が融合し、塔は地上と天上とを結ぶ軸ととらえられ高くなければならなかったのです。


 先生の講演は2時間あまりに及びましたが、様々な具体例を示され、論理立てて説明してくださり、素人のよっぱにも非常に分かりやすいものでした。またその説明から色々な想像をかき立てることも出来ました。雲岡石窟の台地上の寺院址の伽藍から、飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置への影響を考えてしまいました。塔の心柱が地上と天上とを結ぶ軸であったと考えられたとの説明から、『日本書紀』推古天皇28年冬10月条の欽明天皇陵の領域外に建てられた大柱の記事は、昇天の軸で、中国の塔心柱と同一思想ではなかったのかと考えてしまいました。塔はなぜ高くなったのか、なぜ高くならなければならなかったのか。これほど色々なことが重なり合わさっていたとは考えが及びませんでした。

 さて、今回のレポートを書いていて、またひとつ疑問が湧いてきました。塔は日本に伝わる前に中国で高くなり、その塔には塑造があって、塔内で礼拝がおこなわれていたようです。では仏像は、いつ、どこで、どうして塔から金堂にうつり、礼拝されるようになったのでしょうか。
 またしてもよっぱには、仏教ってなに、仏像ってなには続きます。




甘樫丘にて

レポート担当:よっぱさん  

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