両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第43回定例会

両槻会主催講演会

塔はなぜ高いのか
―五重塔の源流をさぐる―



事前散策資料

作製:両槻会事務局
2014年3月29日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
川原寺跡 川原寺裏山遺跡 橘寺 飛鳥川
甘樫丘 水落遺跡 飛鳥寺跡 大野丘北の塔
関連年表 仏教の伝播経路 中国大陸・朝鮮半島の国々 参考図
桜の万葉歌 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 両槻会第43回定例会 講演会事前散策コース を表示

この色の文字はリンクしています。

川原寺跡

 甘樫丘の南東、飛鳥川の西に位置します。川原寺の正史での初見は、『日本書紀』天武天皇2年(673)の「写経生を集めて、川原寺で初めて一切経の写経を始められた」になります。飛鳥・藤原時代を通して大寺の扱いを受けたことは『日本書記』や『続日本紀』から窺うことが出来ますが、造営に至る経緯については一切記されておらず、天智天皇により斉明天皇の菩提を弔うため、斉明天皇の川原宮の故地に建立されたとする説が有力だとされています。しかし、第42回定例会において講師の相原先生は、川原宮が飛鳥北部の水落遺跡付近に在った可能性を指摘されました。川原宮と川原寺の関係は、未だ謎の部分を多く含んでいるようです。

 飛鳥・藤原時代に三大寺・四大寺として栄華を誇った川原寺は、平城遷都の際に新京に移築されることなく、次第にその地位を低下させていったと言われています。9世紀には、空海に下げ渡されたとする説もあり、やがては東寺の末寺となります。平安時代以降3度の火災に見舞われ、なかでも建久2年(1191)の火災は、九条兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、発掘調査の結果、この火災が伽藍全体に及ぶ大火であったことが判明しています。13世紀になって堂宇は順次再建されたようですが、16世紀に再度焼失してしまい、江戸時代中頃には草堂一つの姿となっていたようです。


 川原寺の寺域は、南北約330m・東西200m以上とされています。
 伽藍は、一塔二金堂形式(川原寺式伽藍配置)で、中門から中金堂に取りつく回廊内に西金堂と塔が相対する形で東西に並び、北にある講堂の三方には僧房が巡ります。東門は、3間3間の重層門であったとされ、南門(3間2間の単層)より立派に造られたことが判明しています。川原寺の東門が立派に造られた理由は、飛鳥川を挟んで東に位置する宮域を意識したとする説や、寺域の東に重要な道があったとする説などがあります。

 北方には、瓦窯跡と金属製品の工房跡と思われる遺構があります(川原寺北方遺跡)。瓦窯跡は、西側の丘陵地に向けて作られた登り窯とされ、工房跡からは溶鉱炉と鋳造土抗を始め、鍛冶炉・ルツボなどが発見されています。
 塔は、1958年に行われた発掘調査で、礎石や心礎をはじめ、地覆石・羽目石・基壇上面の敷石などが出土し、東側では階段の下部も確認されました。しかし、これらの基壇化粧用の石材や礎石は、建久11年(1191)の火災による焼失後に再建された塔のものであるとされています。

 創建時の心礎は、再建塔の心礎下で発見されました。長辺約2.5m・短辺約1.9m・厚さ約76cmの自然石上面を平らに加工し、直径約1m・深さ約6cmの柱座が作り出されたもので、再建基壇の上面約1.2m下に据えられていました。

 創建塔の心礎上面にある版築された基壇土からは、半裁された無文銀銭と金銅小円板が出土しており、これらは心礎埋納に関わる遺物の一部だと推定されています。塔の規模は、創建時・再建時ともに、基壇一辺約12m、高さ約1.5mで、塔の一辺は約6mほどであったと推定されています。

 川原寺式伽藍配置をとる寺院には、大津京・南滋賀廃寺があります。また、大津京の崇福寺には川原寺と同様に塔心礎埋納物に無文銀銭の出土があること、川原寺の中金堂で使用された白瑪瑙と呼ばれる礎石が滋賀県大津市石山寺付近から産出する珪灰石と考えられることなど、川原寺には近江の寺院との共通点が多くあげられます。これらのことから、川原寺の造営は、天智朝に開始されたと考えることができるようです。

 このほか、川原寺式伽藍配置と同じように東西に相対する塔と金堂を配する寺院(観世音寺式伽藍配置)に、太宰府・観世音寺や陸奥・多賀城廃寺などがあげられます。なかでも、川原寺との同笵瓦が出土している観世音寺は、川原寺と同様に斉明天皇の菩提を弔うため天智天皇の発願によるとする説があり、川原寺の天智天皇創建説を裏付けることになるようです。


奈文研 藤原宮跡資料室展示品

 川原寺の創建軒丸瓦は、「川原寺式」と呼ばれます。川原寺式軒丸瓦は、同系品は南滋賀廃寺や穴太廃寺、同笵品が崇福寺から出土しており、出土瓦からも、川原寺と大津京との関連が窺えます。また、美濃・尾張地方などにもその影響が濃厚なことから、こちらは壬申の乱の功労者に対する報酬だとして、天武朝との関係を示すとする説があります。これらのことから、川原寺は、天智朝から壬申の乱を挟んだ天武朝にかけて造営が行われたと考えることができそうです。


『菅笠日記 (6日目) 
川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とて。ちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。真白にすくやうなるが一ッ。堂のわきなる屋の。かべの下に。なかばかくれて見ゆるは。げにめづらしきいしずゑ也。尋ねてみるべし。里人は観音堂といふ所にて。道より程もちかきぞかし。


万葉集歌 ・川原寺(河原寺)
 世間を厭ふ歌二首
生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも (16‐3849)
世の中の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも (16‐3850)
河原寺の仏堂の裏に、倭琴の面に在り

川原寺略年表
和暦 西暦 事   柄
白雉 4 653 僧・旻の死に際し作らせた仏像を川原寺に安置(或る本には山田寺)
斉明元 655 飛鳥板蓋宮火災。飛鳥川原宮に遷る 
飛鳥川原宮に遷居す。後、川原寺を作る(『扶桑略記』)
斉明7 661 斉明天皇崩御。飛鳥川原宮にて殯
天武 2 673 初めて川原寺で一切経を写す
天武14 685 天皇、川原寺に行幸
天皇の病気平癒の為、三日間大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経
朱鳥元 686 川原寺の伎楽を筑紫に運ぶ。 天皇の病気平癒のため川原寺で薬師経を説く
川原寺で百官による盛大な斎会。 悉く川原寺に集い天皇の病気平癒を請願
大宝 2 702 四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で斎会
大宝 3 703 太上天皇のため、四寺(大安・薬師・元興・弘福)で斎会
霊亀元 715 弘福・法隆の二寺で斎会
天平 6 734 水主皇女、大和国広瀬郡広瀬荘の水陸田三十六町を川原寺に施入
宝亀 2 771 川原寺で田原天皇(志貴皇子)の忌日の斎会
延暦17 798 十大寺の三番目に列せられる
(大安寺・元興寺・弘福寺・薬師寺・四天王寺・興福寺・法隆寺・崇福寺・東大寺・西大寺)
大同 2 807 伊予親王・母藤原吉子、川原寺に幽閉・獄死
弘仁11 820 大安寺僧・勤操、弘福寺別当
承和 2 835 空海の弟子・真雅、弘福寺別当
天慶 3 879 聖宝(真雅の弟子)、弘福寺別当
9C中頃~後半 ・・・この頃、火災に遭い焼亡。
承暦元 1077 川原寺、初めて東寺の末寺であることを自称する。
建久 2 1191 火災に遭う。 『玉葉』



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川原寺裏山遺跡

 川原寺跡の北西、板蓋神社の所在する丘陵の南西側斜面に位置します。1974年と2011年の調査から、丘陵斜面に掘られた長径約4m、短径約3m、深さ約2mの楕円形の穴中に、火災に遭った寺院の仏像や荘厳具などが埋納されていたことが分かりました。   


塼仏出土状況

迦楼羅頭部出土状況
明日香村埋蔵文化財展示室 2007年秋の特別展
「川原寺裏山遺跡-発掘された飛鳥の仏たち-」展示パネルより

 出土した遺物は、塑像片が約1400点・塼仏片が約1500点、瓦片が約1500点、その他にも緑釉塼の破片など寺院・仏教関連の遺物が約14000点出土しました。出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。特に天部や迦楼羅像の頭部断片は、美術的にも価値のあるものだとされています。


川原寺裏山遺跡出土
三尊塼仏
明日香村埋蔵文化財展示室 収蔵品
 遺物の中に、承和2年(835)初鋳の銅銭・承和昌宝が含まれていたことから、これらは平安時代の火災の際に埋納されたものだと考えられるようです。また、出土した塑像片や塼仏片には、7世紀中頃の特徴が認められることから、川原寺の創建に際し堂宇に用いられたものであると考えられます。

 川原寺裏山遺跡出土の方形三尊塼仏と同じ図柄のものが、橘寺からも出土しています。橘寺出土の塼仏の大きさを100%とした場合、川原寺の塼仏の大きさが96%になることから、橘寺の三尊塼仏から取った型から再び塼仏を製作するという踏み返しの技法により、川原寺の三尊塼仏が制作された可能性が考えられるようです。

川原寺裏山遺跡出土品
明日香村埋蔵文化財展示室 2007年秋の特別展「川原寺裏山遺跡-発掘された飛鳥の仏たち-」にて撮影



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橘寺

 仏頭山の北麓に位置し、県道155号線を挟んだ北には川原寺が所在します。橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を機に建てられたと伝承されます。正史での初見は、『日本書紀』天武天皇9年(680)にみえる「橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた」になり、この頃にはある程度の伽藍が完成していたことが発掘調査からも窺うことが出来ます。また、奈良時代に記されたとされる『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「橘尼寺」の名が見え、既に奈良時代には、橘寺が推古朝に建立された寺院だと考えられていた様子が記録から窺えます。
 
奈良時代には、聖徳太子信仰に熱心であった光明皇后と橘寺の善心尼の存在が橘寺の繁栄を築いたようです。ことに善心尼は、造東大寺司への経典の貸し出しや、法華寺阿弥陀堂浄土院の造営への寄附が記録に残っており、当時の橘寺が教学面・経済面でも充実していたことを物語っています。平安時代には、罹災後も国家の援助を受けて復興がなされ、治安3年(1023)には、藤原道長が高野山参詣の途上に立ち寄るなど、貴族らの信仰も深かったようです。 罹災・衰退と復興を繰り返した橘寺は、明応6年(1497)の火災によって、伽藍を全て焼失してしまいます。しかし、その後の長年にわたる復興によって近代的な伽藍として整備され、現在まで聖徳太子信仰を護り伝えています。


 伽藍は、東面する一塔一金堂形式(四天王寺式伽藍配置)と考えられていました。しかし、講堂跡の北東外側に西面が揃う凝灰岩の石列が検出されており、これを回廊跡の一部と考え、回廊が金堂と講堂の間で閉じる山田寺式伽藍配置であるとする説もあります。


 北門は、川原寺の南門に合わせ奈良時代に整備され、両門の間には、幅約12.6mの東西道が走っていました。2012年度に行われた橘寺第20次調査により、寺域の東限に関わると推定される南北溝が検出され、調査区周辺に「東門」の小字があることから、東門の位置が推定されています。また、西側に残る小字から、西門の位置が検討されています。現西門の西側からは、鍛冶炉6基と廃棄物を処理する土坑3基などが検出されており、付近に橘寺に附随する金属工房があったと考えられています。

 塔心礎は、基壇上面の下1.2mに据えられており、約1.9m×2.8mの長方形の花崗岩の中央が一段高く作り出され、そこに直径約89cm・深さ約9cmの円形柱座に添柱穴が三ヶ所造り出されています。このような添柱穴を持つ様式は、野中寺や若草伽藍などのものが知られ、古い様式であると考えられています。

 塔は、一辺約12.3mの基壇上に初層一辺約6.9m・高さ約36mの五重塔として、7世紀の中頃に創建されたと推定されています。8世紀頃に改修を受け、久安4年(1148)に落雷により焼失したのち、13世紀中頃に三重塔として再建されたようです。基壇幅は、再建時に約13.3mに拡張されましたが、位置や初層の平面規模は創建時のものを踏襲していることが発掘調査で判明しています。鎌倉時代の橘寺の僧・法空が残した『上宮太子拾遺記』によると、再建された三重塔には、豊浦寺塔の四方四仏が移入されたと記されています。

 橘寺は、伽藍配置や塔心礎の形状などから、遅くとも7世紀半ばには造営が開始されていたと考えられます。瓦の出土は川原寺式軒瓦が最も多いため、創建伽藍は瓦葺きではなかったとも言われていましたが、少量ではあるものの7世紀前半の飛鳥寺式に酷似する瓦が出土していることから、金堂は7世紀前半には創建されたと考えられています。また創建時の塔内の荘厳には、磚仏が用いられていたとされています。橘寺出土の塼仏と同形式のものが、多数の寺院跡で確認されています。このことから、先述した川原寺と同様に、橘寺の塼仏が原型とされ各地に拡散していった様子が読み取れるようです。

『菅笠日記 (6日目)
つぎに橘寺にまうづ。川原寺よりむかひにみえて。一町ばかり也。此寺は今もやゝひろくて。よろしきほどなる堂もありて。古の石ずゑはたのこれり。橘といふ里も。やがて此寺のほとりなり。

万葉集歌 ・橘
橘の島の宮には飽かねかも佐田の岡辺に侍宿しに行く (2‐0179)
橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣 (7‐1315)
橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか (16‐3822)


橘寺略年表
和 暦 西暦 事   柄
推古14 606 天皇は皇太子に請うて、勝鬘経を講じさせた
推古15 607 天皇・上宮太子、橘寺を作る 『法隆寺伽藍并流記資財帳』
天武 9 680 橘寺の尼房で失火があり十房を焼いた
天平~天平勝宝 ・・・橘寺・善心尼、造東大寺司や内裏に経などを多数貸し出す。『正倉院文書』
天平勝宝 4 752 藤原仲麻呂、経十巻を橘寺に施入
天平勝宝 5 753 橘寺・善心尼、東大寺写経所に写経さす。『正倉院文書』
天平勝宝 8 756 光明皇后、仏像及び嶋宮の御田十一町を橘寺に施入
延暦14 795 この頃、橘寺炎上。 朝廷より大和国稲2000束が復興財源として橘寺に施入
天長 4 827 淳和天皇、故伊予親王のために仏像・経を橘寺に施入
治安 3 1023 藤原道長、山田寺・飛鳥寺・橘寺を訪れる『扶桑略記』
承暦 2 1078 橘寺金堂の四十九仏を法隆寺に移管
久安 4 1148 橘寺、雷火により五重塔焼失。三重塔を造る
嘉禎年間 1235~38 豊浦寺の四方四仏を橘寺に移入
永享10 1438 橘寺、戦火により焼失
明応 6 1497 橘寺焼失
永生 3 1506 橘寺、多武峰宗徒によって焼亡
明和 9 1772 本居宣長、橘寺などを参詣



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飛鳥川

 高市郡明日香村南東部の竜門山地を源に、明日香村を北西に向けて縦断するように流れています。その後、橿原市・田原本町を流れ、奈良県磯城郡川西町で大和川へと流れ込む総延長約22.3kmの大和川水系の一級河川になります。上流は急勾配のため浸食も激しく、多くの滝や淵が見られます。冬野川と合流する明日香村祝戸付近からは、やや緩やかな流れとなります。

 飛鳥川の詠み込まれた歌は、万葉集中に24首あります。(巻10―2210は「葛城」の文字がみえること、また巻14―3544・3545は東歌とされていることから、奈良・飛鳥の飛鳥川を詠んだものではないとも言われています。)
  
 これらの万葉歌から、古代の飛鳥川の様子を垣間見ることが出来ます。
 巻2-109や巻11-2701などから、飛鳥川には石橋や打橋と言った橋が架かっていたことが分かります。石橋は、川底に大きめの石を並べ置いたもので、古代には浅瀬の橋として多用されていたのかもしれません。今では、稲渕にある飛び石が有名ですが、東橘でも昭和初期頃までは、「飛び越え」と呼ばれる石橋が実際に使用されていたそうです。


稲渕の飛び石

東橘の飛び越え石の名残?

 「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」と、古今和歌集に詠まれていることから、飛鳥川は、淵と瀬が頻繁に変わる暴れ川であったことが分かります。万葉集巻10-1878には、春雨によって水量が増した様子などをみることができます。

 飛鳥川は、飛鳥時代には水量も多く、小規模な水運にも利用されたようです。

 静かな淀と浅い瀬、蛇行する川筋を持った飛鳥川は、雨による増水で度々その姿を変化させたようです。

飛鳥京跡苑池遺跡での飛鳥川氾濫原

 飛鳥川東岸では、飛鳥寺西方遺跡の西や明日香村埋蔵文化財展示室の西、飛鳥京跡苑池遺跡など、また飛鳥川西岸でも雷丘の南方(平吉遺跡北方)などの場所で、発掘調査により飛鳥川の氾濫原が確認されています。『日本書紀』天武天皇5年(676)に、南淵山・細川山の樹木伐採の禁止の詔が発せられたとあります。これは、飛鳥川の氾濫を少しでも抑えるため、上流の山々の保水機能の維持を図るためのものだったのかもしれません。

 11世紀の史料『「大和国高市郡司刀禰等解案」』には、飛鳥川に設けられた7つの堰(木葉堰・豊浦堰・大堰・今堰・橋堰・飛田堰・佐味堰)がすでに見え、さらに時代を遡ることが可能な堰もいくつかあるようです。飛鳥地域にとっての飛鳥川の治水・利水問題は、最重要課題だったと思われます。


万葉集歌 ・明日香川
飛ぶ鳥の 明日香の川 上つ瀬に 生ふる玉藻は ・・・(以下略) (2-0194)
飛ぶ鳥 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す ・・・(以下略) (2-0196)
明日香川しがらみ渡し塞かませば進める水ものどにかあらまし (2-0197)
明日香川明日だに見むと思へやも我大君の御名忘れせぬ (2-0198)
明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに (3-0325)
今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ (3-0356)
君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く (4-0626)
年月も今だ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし (7-1126)
明日香川七瀬の淀に棲む鳥も心あれこそ波立てざらめ (7-1366)
絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに (7-1379)
明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに (7-1380)
明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ (8-1557)
今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を (10-1878)
明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし (10-2210)
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも (11-2701)
明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ (11-2702)
明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ (11-2713)
明日香川高川避きて来しものをまこと今夜は明けずも行かぬか (12-2859)
葦原の 瑞穂の国に 手向けすと 天降りましけむ ・・・(以下略) (13-3227)
春されば 花咲きををり 秋づけば 丹のほにもみつ ・・・(以下略) (13-3266)
明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも (13-3267)
阿須可川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも (14-3544)
安須可川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば (14-3545)
明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ (19-4258)



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甘樫丘

 標高148mの豊浦展望台をピークとし、明日香村豊浦から川原にかけて南北約1kmにわたって広がる丘陵になります。頂上に設けられた展望台からは、飛鳥京跡や藤原京跡、大和三山をはじめ、生駒山・二上山・葛城山・金剛山などの山並みを一望することができます。

 『日本書紀』によると、允恭天皇4年(416)9月に、甘樫丘で盟神探湯を行ったことが記されています。この故事に倣い、甘樫丘の北西麓にある甘樫坐神社では、毎年4月の第1日曜に盟神探湯神事が再現されています。

 『日本書紀』皇極天皇3年(644)11月には、蘇我蝦夷・入鹿が甘樫丘に家を並べ建て、それぞれを上の宮門、谷の宮門と言ったと記されています。1994年から始まった甘樫丘東麓遺跡の発掘調査では、谷部から7世紀後半から藤原宮期にかけての大規模な整地と、7世紀中頃の焼土層と大量の土器片や焼けた壁土、炭化した木材などが発見されました。これを皮切りとして継続して行われた発掘調査では、7世紀代の掘立柱建物や、掘立柱穴列、石垣なども検出されています。蘇我氏の邸宅跡と推定できる建物跡などの検出は、未だありませんが、遺跡の位置が乙巳の変に際し、中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代などが一致することから、周辺に蘇我氏の邸宅が存在していた可能性は十分にあると考えられています。

 『万葉集』には、「甘樫丘」が詠み込まれたものは見られません。「神岳」や「神南備山」などと詠まれたうちの何首かが、甘樫丘のことであるという説があります。甘樫丘の中腹には、犬養孝先生揮毫による志貴皇子の万葉歌碑が立っています。明日香村が開発の波に飲まれようとしていた昭和40年代に、明日香村保全の一助になればと建立された歌碑だそうです。この歌碑が他の万葉歌碑と違うところは、目立たない場所にひっそりと佇んでいること。これは、飛鳥の景観の邪魔には、決してならないようにという犬養先生のお心を受けた結果なのだそうです。



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水落遺跡

 飛鳥川東岸に位置し、北は石神遺跡、南は槻の樹の広場に接することから、飛鳥時代を通してその折々に重要な意味を持った施設が置かれたものと考えられます。
 『日本書紀』斉明天皇6年(660)に、「皇太子(中大兄皇子)がはじめて漏剋(水時計)をお造りになり、民に時を知らせた。」という記事があります。この漏刻を据えた時計台ではないかとされる遺構が検出され、小字名を採って「水落遺跡」と呼ばれています。

 遺跡の中心は、貼石のある方形土壇上に、礎石建ちの24本の柱が確認されています。水落遺跡では、1階に漏刻が置かれ、2階には時を告げる鐘や鼓(太鼓)が置かれていたと考えられています。しかし、地下には地中梁も見られ、堅牢な総柱の楼状建物であったことが窺えることから、2階には水槽が置かれ石神遺跡に設置された石人像や須弥山石の水源になっていたとする説もあるようです。


水落遺跡 漏刻台図 斉明・天智朝

 遺構中央には、花崗岩切石を台石にして1.65m×0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡があり、建物の東からは木樋暗渠が伸びて、水時計への給水に用いられたと考えられます。また、水時計を構成する部材だと思われる枡、銅管やラッパ状の銅管なども検出されています。
 水落遺跡に設置された水時計(漏刻)は、唐の技術に倣ったもので、7世紀前半に呂才によって開発された4つの水槽を重ねて水位の変動をおさえる仕組みが導入されていたと考えられます。時期的には、白雉5年(654)の第3次遣唐使によって持ち帰られたものとするのが有力なようです。

 水落遺跡には、水時計の遺構だけが注目されがちですが、前後する時期の遺構も検出されています。


水落遺跡 皇極・孝徳朝図

水落遺跡 天智・天武朝図

 まず、皇極・孝徳朝には、長廊状の建物に囲まれた四面に庇が付く規模の大きな掘立柱建物が検出されています。この一画の正殿であることは間違いがありませんが、その性格については確証のある説はこれまでに出されていませんでした。宮殿クラスの規模を持つ建物なのですが、次の斉明・天智朝になると消えてしまいます。そのあたりも、この建物の性格を考える上で重要になるのかも知れません。

 次に、天智・天武期には、大規模な整地が行われた後、2時期の遺構が確認されています。隣接する石神遺跡の天智・天武期が、飛鳥浄御原宮の北方官衙群、または小墾田兵庫だとすると、水落遺跡の同期の建物群は、それに関連する建物であったことも推測されますが、2期の庇を持つ大きな掘立柱建物は、東に続く建物群の正殿的な役割を担っていたのかも知れません。あるいは、近江朝廷の飛鳥京留守司であった可能性も高いと思われます。
 水落遺跡に隣接する石神遺跡では、斉明・孝徳朝の饗宴施設が取り払われ大造成が行われた後に、天武朝の官衙(小墾田兵庫)が置かれました。水落遺跡でも中心的な建物を含めて、周辺の建物群は全て柱を抜き取られ、抜取穴の特徴や埋土の様子から、石神遺跡と同時期に解体されたことが判明しています。また、石神遺跡斉明・天智朝の建物(長廊状建物)は火災にあっており、同時期の水落遺跡の柱抜取穴の埋土には炭化物や焼土が含まれ、石神遺跡同様火災で廃絶した可能性も指摘されています。水落遺跡の建物群も、この火災に巻き込まれた可能性は無視できません。
 『日本書紀』天智天皇10年(671)に、「漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。」と記されています。遷都後4年も経てから、新京に漏刻が設置された理由は、飛鳥の漏刻が延焼により消失し、近江京の漏刻は新たに作られたものだと考えられるかもしれません。

 皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも (4-0607)
 時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し (11-2641)

 これらの万葉歌からは、奈良時代の律令制下では、時を告げる漏刻の鼓や鐘の音が日常の中に溶け込んでいた様子が窺えます。時守とは、陰陽寮に属する役人で、漏刻を守り時刻を報ずることを司ります。(さらに詳しい水落遺跡については、第42回定例会資料をご覧ください。)



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飛鳥寺跡

 

 石神遺跡の南、飛鳥宮跡の北に位置します。伽藍は、一塔三金堂形式(飛鳥寺式伽藍配置)で、五重塔を中心に中金堂・東金堂・西金堂、その周りを回廊がめぐり、回廊外の北側に講堂が置かれていました。寺域は、東西約200m、南北約300mの規模を持ちます。

 『日本書記』によると、用明天皇2年(587)に馬子の立てた誓願により翌崇峻天皇元年(588)に、衣縫造の祖・樹葉の家を壊し、造営が開始されます。この年、造寺に必要な工人らが百済から派遣され来朝しています。その後も『日本書記』には、飛鳥寺造営の様子が詳細に記録されており、飛鳥・藤原時代を通して、歴史的に重要な場面で、飛鳥寺は度々正史に登場します。

 平城遷都から8年を経た718年に奈良の地へと移築され、やがては壮大な伽藍を誇る一大寺院「元興寺」としての歴史を刻み始めます。現在の奈良・元興寺極楽坊には、創建飛鳥寺のものと思われる瓦や部材の一部が残されています。飛鳥に残された飛鳥寺は、「本元興寺(または法興寺)と呼ばれ、元興寺の管轄下に置かれますが、「本元興寺」の名がその後の史料にも多数見られることから、旧都飛鳥で大きな勢力を保持した時期もあったようです。しかし、鎌倉時代に入った建久7年(1196)に、雷により伽藍の殆どを焼失したままその復興はならず、草庵一坊のまま飛鳥大仏は半ば野晒し状態であったそうです。江戸末期の文政9年(1826)にやっと建立された仮の堂宇が、現在の安居院へと繋がることになります。

 飛鳥寺の塔は、建久7年(1196)の焼失以後、再建されていません。焼失の翌年には、舎利が掘り出され再埋納されたことが、東大寺の僧・弁暁の残した『本元興寺塔下掘出御舎利縁起』によって知られています。そこには、「建久八年三月廿四日戊戌、大和国本元興寺の塔の心礎より掘出し奉るところの御舎利、その数百余粒、ならびに金銀器物等の本縁の事」とあり、百粒あまりの舎利と金銀の容器があったことが記されています。

 1957年の発掘調査により、地表面近くの塔基壇中央から、花崗岩2個を組み合わせた石櫃・木箱・金銅製舎利容器が入れ子状態で発見され、木箱に書かれた墨書きから、これが建久8年に再埋納されたものであることが判明しました。

 心礎は、地表面から約2.7m下で発見されました。約2.6m×2.4mの五角形に近い平面形の上面に方形柱座が作り出され、柱座の中心には一辺約30cm・深さ約21cmの穴が穿たれています。さらにこの穴の東壁の中央下には、一辺約12cmの方形の穴が横向きに穿たれていました。この方形の穴の内部には朱が塗られていることから、この部分が舎利埋納用の穴であったと考えられています。

 石櫃や木箱の内外、心礎上面からは、勾玉、管玉、ガラス小玉などの小玉類、金・銀延板、金銅飾金具、金環、銀環、青銅製馬鈴、蛇行状鉄器、挂甲、刀子など、舎利とともに埋納したと思われる遺物が多数出土しています。このうち、青銅製馬鈴、蛇行状鉄器、挂甲など武具・馬具類は、古墳への副葬品とも共通することから、古墳時代の思想の名残ともされていましたが、近年、これらは立柱の儀式に伴う鎮壇具として埋納されたものだとする説もあります。

 飛鳥寺では、創建時に使用された瓦の種類は約10種あり、蓮弁の先に切れ込みの入る「花組(弁端切込式)」と、弁端に珠点を置く「星組(弁端点珠式)」との大きく2つのグループに分けることが出来ます。


花組(弁端切込)

星組(弁端点珠)
明日香村埋蔵文化財展示室 収蔵品

 これらの文様は百済の軒丸瓦にもみられることから、祖形は百済に求めることができるようです。この2つのグループは、瓦当文様だけではなく、製作方法などの技術面においても細かく違いが認められます。これは、花組と星組が別個の職人集団として造瓦に携わっていた証とされています。


『菅笠日記 (6日目) 
飛鳥の里にいたる。飛鳥でらは里のかたはしに。わづかにのこりて。門などもなくて。たゞかりそめなる堂に。大佛と申て。大きなる佛のおはするは。丈六の釈迦にて。すなはちいにしへの本尊也といふ。げにいとふるめかしく。たふとく見ゆ。かたへに聖徳太子のみかたもおはすれど。これはいと近きよの物と見ゆ。又いにしへのだうの瓦とてあるを見れば。三四寸ばかりのあつさにて。げにいとふるし。此寺のあたりの田のあぜに。入鹿が塚とて。五輪なる石。なからはうづもれてたてり。されどさばかりふるき物とはみえず。飛鳥の神社は。里の東の高き岡のうへにたゝせ給ふ。麓なる鳥居のもとに。飛鳥井の跡とて。水はあせて。たゞ其かたのみのこれる。これもまことしからずこそ。石の階をのぼりて。御社は四座。今はひとつかり殿におはします。此御社もとは。甘南備山といふにたゝせ給ひしを。淳和のみかどの御世。天長六年に神のさとし給ひしまゝに。鳥形山といふにうつし奉り給へりしよし。日本後紀にみえたり。されば古。飛鳥の神なみ山とも。神岳ともいひしは。こゝの事にはあらず。そこはこゝより五六町西のかたに。今いかづち村といふ所也。かくて今の御社は。かの鳥形山といふ所也。さればこそ。かの飛鳥寺をも。てうぎやう山とはなづけゝめ。今もわづかに一町ばかりへだゝれゝば。いにしへ寺の大きなりけんときは。今すこしちかくて。此御山のほとり迄も有つる故に。さる名は有なるべし。


『元興寺縁起并流記資財帳』
「塔露盤銘」
難波天皇(なにわのすめらみこと/孝徳天皇)の世(みよ)、辛亥(かのと・い)の正月五日、塔の露盤の銘を授けたまう。
 大和國(やまとのくに)の天皇(すめらみこと)、斯歸斯麻宮(しきしまのみや)に天下(あめのした)治(しら)しめしし名は阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等(あまつくにおしはるきひろにはのみこと)の世(みよ)、巷宜(そが)名は伊那米大臣(いなめのおおおみ)仕え奉りし時に、百濟國(くだらのくに)の正明王(聖明王)上啓(もうしふみ)して云う、「萬(よろず)の法(みち)の中に佛法最も上(すぐれ)たり」と。 ここをもちて天皇・大臣ともに聞こしめして宣らさく、「善哉(よきかも)」と。 則ち佛法を受けたまいて、倭國(やまとのくに)に造り立(まつ)りたまいき。 然れども天皇・大臣たち報(むくい)の業(わざ)を受け盡(は)てたまいき。

 故(かれ)、天皇の女(ひめみこ)、佐久羅韋等由良宮(さくらいとゆらのみや)に天の下治しめしし名は等己彌居加斯夜比彌乃彌己等(とよみけかしきやひめのみこと)の世、及び甥の名は有麻移刀等刀彌ゝ乃彌己等(うまやとととみみのみこと)の時に、仕え奉れる巷宜(そが)の名は有明子大臣(うまこのおおおみ)を領(かみと)として、及び諸(もろもろ)の臣たち讃(たたえごと)して云いしく、「魏ゝ乎(たかきかも・たかきかも)、善哉ゝゝ(よきかも・よきかも)」と。 佛法を造り立つるは父天皇・父大臣なり。 即ち菩提心を發し、十方の諸佛の衆生を化度(けど)し、國家大平ならんことを誓願して、敬しみて塔廟を造り立てまつらん。 この福力に縁りて、天皇・大臣及び諸の臣等の過去七世の父母、廣く六道四生(ろくどうししょう)の衆生(しゅじょう)、生ゝ處ゝ十方浄土に及ぶまで、普(あまね)くこの願に因り、皆佛果を成し、以って子孫、世ゝ忘れず、綱紀を絶つなからん爲に、建通寺と名づく。

 戊申(つちのえ・さる)。始めて百濟の王名は昌王に法師及び諸佛等を請う。 故、釋令照(りょうしょう)律師・惠聰(えぞう)法師・鏤盤師(ろばんのつかさ)將?自昧淳(しょうとくりまいじゅん)・寺師(てらのつかさ)丈羅未大(だらみだ)・文賈古子(もんけこし)・瓦師(かわらのつかさ)麻那文奴(まなもんぬ)・陽貴文(ようきぶん)・布陵貴(ふりょうき?)・昔麻帝彌(しゃくまたいみ)を遣わし上(たてまつ)る。 作り奉らしむる者は、山東漢大費直(やまとのあやのおおあたい)、名は麻高垢鬼(またかくき?)、名は意等加斯費直(おとかしあたい)なり。 書ける人は百加(ひゃっか)博士、陽古(ようこ)博士。 丙辰(ひのえ・たつ)の年の十一月に既(な)る。 爾して時に金作らしめる人等は意奴彌首(おぬみのおびと)、名は辰星(たつほし?)なり。 阿沙都麻首(あさつまのおびと)、名は未沙乃(みさの?)なり。 鞍部首(くらつくりのおびと)、名は加羅爾(からに?)なり。 山西首(かわちのおびと)、名は都鬼(つき?)なり。 四部の首を以て將(おさ)と爲し、諸の手をして作り奉らしむ。


万葉集歌 ・飛鳥寺
 大伴坂上郎女、元興寺の里を詠む歌一首
故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも(6‐0992)


飛鳥寺略年表
和暦 西暦 事  柄
用明 2 587 蘇我馬子飛鳥寺建立を発願
崇峻元 588 飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家をこわして、はじめて法興寺を造った
崇峻 3 590 山に入って寺の用材を伐った
崇峻 5 592 仏堂と歩廊の工を起こした
推古元 593 仏舎利を仏塔の心礎の中に安置した。塔の心柱を建てた
推古 4 596 飛鳥寺落成
推古14 606 飛鳥寺金堂に銅の丈六釈迦像を安置
(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では推古17年(609))
天智元 662 道昭、飛鳥寺に東南禅院を建立『日本三代実録』
(『類聚国史』には天武11年(682))
大宝 2 702 斎会を四大寺(大官・薬師・元興・弘福)で行う
大宝 3 703 太上天皇(持統天皇)のため、四大寺(大安・薬師・元興・弘福)で行う
大宝 4 711 飛鳥寺・東南禅院を平城京右京四条一坊に移築(禅院寺)
養老 2 718 飛鳥寺を平城へ移築(元興寺)
天平 7 735 飛鳥寺(本元興寺)で斎会
天平20 748 飛鳥寺で元正天皇初七日の誦経
治安 3 1023 藤原道長、山田寺・飛鳥寺・橘寺を訪れる『扶桑略記』
建久 7 1196 飛鳥寺焼失
建久 8 1197 飛鳥寺塔の舎利、掘出され再埋納される
寛永 9 1632 飛鳥大仏に仏堂が寄進され、安居院となる


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大野丘北の塔

『日本書紀』敏達天皇14年(585)9月に、「蘇我大臣馬子宿禰は、塔を大野丘の北に建てて、斎会を行った。」とあります。これは、日本初の塔建立の記録といえるかもしれません。

 大野丘北の塔の所在地は、橿原市和田町の住宅地の北端に「大野塚」と呼ばれる土壇を中心として広がる寺跡・和田廃寺だと考えられていました。


和田廃寺 塔土壇

 しかし、発掘調査によって土壇の版築土から出土した瓦などから、塔の時期は、7世紀後半であることが判明し、この土壇を馬子建立の大野丘北の塔とするには、無理があることが明らかとなりました。 

 では、「大野丘」と呼ばれたところはどの辺りになるのでしょう。現在、明日香村周辺で大野と呼ばれる地名は残されていません。

橿原市五条野町にある植山古墳は、推古天皇と竹田皇子の合葬墓だとする説が有力となっています。『日本書紀』には、推古天皇が合葬を希望した竹田皇子の陵墓名は記されていませんが、『古事記』によると「大野岡の上にありしを、後に科長の大陵に遷す也」と、竹田皇子の墓が大野岡の上(大野岡上陵)にあったと記されています。

 植山古墳がこの大野岡上陵だとすれば、周辺が大野岡、もしくは大野と呼ばれた可能性が考えられ、大野丘北の塔も、この近隣に建てられたと想定することも可能かもしれません。
 

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関連年表

西暦 日本 中国大陸 朝鮮半島
(高:高句麗 百:百済 新:新羅)
1C末   後漢:仏教伝来?  
67   後漢:洛陽に白馬寺建立  
    …後漢末頃、笮融、徐州に大寺(浮図祠・浮図寺)建立  
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ―五胡十六国時代―  
317   東晋建国  
346   …4C中頃・莫高窟の造営開始 百済建国(都:漢城)
356   新羅建国(都:金城)
372     高:秦より仏教伝来
375     高:肖門寺・伊弗蘭寺建立
384     百:東晋から摩羅難陀を招来
385     百:百済仏寺建立
386   北魏建国  
392     百:仏教信仰を国内に布告
393     高:平壌に9寺を建立
420   東晋滅亡。宋建国  
427     高:平壌に遷都
439   北魏:華北統一            ―南北朝時代― 新:この頃仏教伝来?
  北 朝 南 朝  
446   北魏:太武帝による廃仏    
460   北魏:沙門・曇曜「曇曜五窟」を開く
  (雲崗石窟の造営開始)
   
475       百:熊津へ遷都
477   北魏:この頃京内に100寺    
479   北魏:思遠仏寺建立 斉建国  
494   竜門石窟の造営開始    
502     梁建国  
516   北魏:洛陽永寧寺建立    
519   北魏:永寧寺九重木塔完成    
527     梁:同泰寺建立 百:大通寺建立
新:興輪寺建立
528     梁:武帝代後半
  仏教最盛期
新:仏教公認
534   北魏:東魏・西魏に分裂  
538 仏教公伝①     百:泗泚へ遷都
550   東魏滅亡。北斉建国    
552 仏教公伝②      
553       新:皇龍寺建立
556   西魏滅亡。北周建国    
557     梁滅亡。陳建国  
574   北周:武帝による廃仏    
577   北斉滅亡。北周華北を統一   百:王興寺建立
581   北周滅亡。隋建国    
585 大野丘塔建立      
588 飛鳥寺造営      
589   隋:陳を滅ぼし南北統一  
618   隋滅亡。唐建国 …7C前半
百:弥勒寺・帝釈寺建立
645     新:皇龍寺木塔完成
 ①『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』、『上宮聖徳法王帝説』  ②『日本書紀』


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仏教の伝播経路




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中国大陸・朝鮮半島の国々
5世紀後半頃



6世紀中頃


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参考図


塔・相輪の各部名称




桜の万葉歌

飛鳥周辺の桜の歌

03-0257 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木の暗茂に 沖辺には 鴨妻呼ばひ 辺つ辺に あぢ群騒き ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には 楫棹も なくて寂しも 漕ぐ人なしに

03-0260 天降りつく 神の香具山 うち靡く 春さり来れば 桜花 木の暗茂に 松風に 池波立ち 辺つ辺には あぢ群騒き 沖辺には 鴨妻呼ばひ ももしきの 大宮人の 退り出て 漕ぎける船は 棹楫も なくて寂しも 漕がむと思へど


他地域の桜の歌

05-0829 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

06-0971 白雲の 龍田の山の 露霜に 色づく時に うち越えて 旅行く君は 五百重山 い行きさくみ 敵守る 筑紫に至り 山のそき 野のそき見よと 伴の部を 班ち遣はし 山彦の 答へむ極み たにぐくの さ渡る極み 国形を 見したまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道の 岡辺の道に 丹つつじの にほはむ時の 桜花 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参ゐ出む 君が来まさば

06-1047 やすみしし 我が大君の 高敷かす 大和の国は すめろきの 神の御代より 敷きませる 国にしあれば 生れまさむ 御子の継ぎ継ぎ 天の下 知らしまさむと 八百万 千年を兼ねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山 御笠の野辺に 桜花 木の暗隠り 貌鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋さり来れば 生駒山 飛火が岳に 萩の枝を しがらみ散らし さを鹿は 妻呼び響む 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし もののふの 八十伴の男の うちはへて 思へりしくは 天地の 寄り合ひの極み 万代に 栄えゆかむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代の ことにしあれば 大君の 引きのまにまに 春花の うつろひ変り 群鳥の 朝立ち行けば さす竹の 大宮人の 踏み平し 通ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

07-1212 足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで

08-1425 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも

08-1429 娘子らが かざしのために 風流士の かづらのためと 敷きませる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
08-1430 去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも

08-1440 春雨のしくしく降るに高円の山のはいかにかあるらむ

藤原朝臣広嗣、桜花を娘子に贈る歌一首
08-1456 この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな
 娘子が和ふる歌一首
08-1457 この花の一節のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや

08-1458 やどにある桜の花は今もかも松風早み地に散るらむ

08-1459 世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも

09-1747 白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで
09-1748 我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし

09-1749 白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに あらずとも 君がみ行きは 今にしあるべし
09-1750 暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを

09-1751 島山を い行き廻れる 川沿ひの 岡辺の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しか 一夜のみ 寝たりしからに 峰の上の 桜の花は 瀧の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 名に負へる杜に 風祭せな

09-1752 い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも

09-1776 絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ

10-1854 鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ

10-1855 桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ

10-1864 あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも

10-1866 雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも

10-1867 阿保山の桜の花は今日もかも散り乱ふらむ見る人なしに

10-1869 春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり

10-1870 春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも

10-1872 見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも

10-1887 春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく

11-2617 あしひきの桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる

12-3129 桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く

13-3305 物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをもぞ 汝れに寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 汝が心ゆめ

13-3309 物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝れをぞも 我れに寄すといふ 我れをぞも 汝れに寄すといふ 汝はいかに思ふや 思へこそ 年の八年を 切り髪の よち子を過ぎ 橘の ほつ枝をすぐり この川の 下にも長く 汝が心待て

16-3786 春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも [其一]
16-3787 妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに [其二]

17-3967 山峽に咲けるをただ一目君に見せてば何をか思はむ

17-3970 あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも

17-3973 大君の 命畏み あしひきの 山野さはらず 天離る 鄙も治むる 大夫や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ

18-4074 桜花今ぞ盛りと人は言へど我れは寂しも君としあらねば

18-4077 我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね

19-4151 今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上のかく咲きにけり

20-4361 花今盛りなり難波の海 珪箸覽椶吠垢海靴瓩垢覆

20-4395 龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに


桜皮(かには)の歌

06-0942 あぢさはふ 妹が目離れて 敷栲の 枕もまかず 桜皮巻き 作れる船に 真楫貫き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南嬬 辛荷の島の 島の際ゆ 我家を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 漕ぎ廻むる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈も置かず 思ひぞ我が来る 旅の日長み





  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
川原寺跡 川原寺裏山遺跡 橘寺 飛鳥川
甘樫丘 水落遺跡 飛鳥寺跡 大野丘北の塔
関連年表 仏教の伝播経路 中国大陸・朝鮮半島の国々 参考図
桜の万葉歌 当日レポート 飛鳥咲読 両槻会



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