両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第45回定例会

両槻会主催講演会

さらば飛鳥
―平城京の宅地からみた氏族社会解体へのみちのり―



事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2014年7月19日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
定例会関連年表 万葉集にみえる居宅と所領 族を喩す歌 他 長屋王のもう一つの邸
遷都にかかわる歌 住居にかかわる墓誌銘 飛鳥時代の邸宅について 飛鳥宅地マップ
藤原氏系図 大伴氏系図 天皇家・藤原氏・橘氏相関図 天皇家系図
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会 -


この色の文字はリンクしています。

定例会関連年表
天皇 和暦 西暦 主 な 事 柄
孝徳 大化元 645 乙巳の変。難波遷都
 藤原鎌足、大錦・内臣 
大化5 649  大伴長徳、大紫・右大臣
白雉5 654 孝徳天皇崩御。
 鎌足、大紫官
斉明 斉明元 655 皇極上皇重祚(斉明天皇)
天智 天智8 669  鎌足、大紫冠・内大臣・藤原の姓を賜う・没。
天武 天武元 672 壬申の乱
天武5 676 新城、予定地の荒廃により造営を断念
天武10 681 律令・帝紀などの撰定・編纂を開始
天武11 682 宮内官大夫ら新城の地形を視察。天皇、新城に行幸
天武12 683 天皇、京内を巡行。副都・難波での宅地請求を命じる
難波の複都宣言と宅地班給
大伴馬来田・負吹、没
天武13 684 天皇、宮室の場所を定める。八色の姓を制定
大伴氏、宿禰を賜る
朱鳥 686 天武天皇崩御
持統 持統3 689 藤原不比等、直広肆・判事、草壁皇子より黒作懸佩刀を賜る
草壁皇子薨去
持統4 690 鵜野讃良皇女(持統天皇)即位。高市皇子、太政大臣
高市皇子、藤原の宮地を視察。天皇、宮地を視察
持統5 691 新益京にて地鎮祭。新益京の宅地配分を行う
持統6 692 天皇、新益京の大路を視察。藤原の宮地の地鎮祭を行う
天皇、藤原の宮地を視察
持統7 693 造京司に造営中に掘り出された屍の供養を命じる。
天皇、宮地に行幸
持統8 694 藤原遷都
持統10 696 高市皇子薨去
持統11 697 軽皇子(文武天皇)立太子
文武 文武元 697 持統天皇譲位。文武天皇即位
 不比等、黒作懸佩刀を軽皇子に献呈
文武2 698 藤原氏、神祇官中臣氏との分離
文武4 700 不比等ら、律令を撰定
大宝元 701 大宝律令完成
首皇子(聖武)誕生。光明子(安宿媛)誕生
 大伴御行没・右大臣追贈。
 不比等、正三位・大納言。大伴安麻呂、従三位
大宝2 702 持統上皇崩御
慶雲2 705  穂積親王、知太政官事。
 藤原武智麻呂(南家祖)、従五位下
 藤原房前(北家祖)、従五位下
元明 慶雲4 707 文武天皇崩御。不比等、黒作懸佩刀を賜る。
阿閇内親王(元明天皇)即位。王・貴族で遷都の審議
和銅元 708 平城遷都の詔
大伴手拍を造営卿に、他の平城京司らも任じる
菅原の民90戸余の移住に際し布・穀を与える。平城宮の地鎮祭を行う。
 不比等、正二位・右大臣。 大伴安麻呂、正三位・大納言
和銅2 709 天皇、平城京に行幸
造平城京司に造営中に見つかった墳墓の供養を命じる
遷都による人民の動揺を抑えるため、今年の調と祖を免じる
 長屋王、従三位・宮内卿
和銅3 710 平城遷都
山階寺を平城京に移し興福寺とする
 大伴旅人、正五位上・左将軍
和銅4 711 蓄銭叙位法を定める。この頃、宮の大垣は未完成 
 旅人、従四位下
和銅5 712 太安万呂、『古事記』を撰上
和銅6 713 諸国に『風土記』の編纂を命じる
和銅7 714 首皇子立太子
 安麻呂没・従二位追贈
元正 霊亀元 715 穂積親王薨去。元明天皇譲位。氷高内親王(元正天皇)即位
 旅人・武智麻呂、従四位上。房前、従四位下
霊亀2 716 大官大寺を平城京に移す。光明子、皇太子妃となる
 長屋王、正三位。宇合、遣唐副使
養老元 717 左大臣・石上麻呂没
阿倍仲麻呂・吉備真備、玄昉、遣唐留学生として入唐
行基の活動を禁圧。不比等ら、養老律令の選修
養老2 718 法興寺(飛鳥寺)・薬師寺を平城京に移す
 舎人親王一品
養老4 720 舎人親王ら『日本書紀』を撰上
 旅人、征隼人特節大将軍
 不比等、黒作懸佩刀を首皇子に献上・没、正一位太政大臣追贈
 舎人親王、知太政官事。新田部親王、授刀舎人事
養老5 721 元明上皇崩御 
 長屋王、従二位・右大臣
 武智麻呂・従三位・大納言。房前、従三位・内臣。旅人、従三位
養老7 723 三世一身法施行
 宮子、従二位。 太安万侶没
聖武 神亀元 724 元正天皇譲位。首皇子(聖武天皇)即位
貴族・裕福な民に瓦葺家屋建築を許可。蝦夷反乱、多賀城を築く
長屋王、正二位・左大臣。武智麻呂・房前、・旅人、正三位
神亀4 727 基王誕生・立太子
神亀5 728 基王没
天平元 729 長屋王の変。宇合、式部卿として長屋王邸を包囲
 光明子、立后。 小治田安萬侶没
天平3 731 三位以上の者の邸で大路向けて設けた門は、三位以上の者が死亡した場合、撤去するように定める
 旅人、従三位・没
天平4 732  葛城王、従三位。大伴古麻呂、遣唐留学生
天平6 734 難波京での宅地班給
 武智麻呂、従二位・右大臣。宇合、正三位
天平7 735 吉備真備ら、唐から帰国
 新田部皇子薨去。舎人親王薨去
天平8 736 葛城王、臣籍降下し橘諸兄と改名
天平9 737 天然痘流行、藤原四子没
天平10 738 阿倍内親王、立太子
 橘諸兄、正三位・右大臣。広嗣、太宰少弐に左遷。大伴家持、内舎人
天平11 739 諸兄、従二位
天平12 740 藤原広嗣の乱
 (死罪26人冠位剥奪5人流罪47人徒罪32人杖罪177人)
恭仁京遷都の詔
 諸兄、正二位。仲麻呂、正五位上・前騎兵将軍
天平13 741 広嗣の乱の連座者を赦免。国分寺建立の詔
 仲麻呂、従四位下。吉備真備、東宮学士。橘奈良麻呂、従五位下
天平14 742 紫香楽宮造営。大宰府廃止
天平15 743 墾田永年私財法制定。大仏造立の詔。恭仁京造営中止。
 諸兄、従一位・左大臣。豊成、従三位・中納言。仲麻呂、従四位上
天平16 744 難波遷都。 安積親王薨去
天平17 745 大宰府復活。平城還都。旧皇后宮を寺(法華寺)とする
 仲麻呂、従四位上。大伴家持、従五位下
天平20 748 元正上皇崩御
 豊成、従二位・大納言。仲麻呂、正三位
孝謙 天平勝宝元 749 聖武天皇譲位。阿倍内親王(孝謙天皇)即位
皇后宮職を紫微中台と改名
 諸兄、従一位。豊成、右大臣。仲麻呂、大納言・紫微中令兼中衛大将
天平勝宝3 751 『懐風藻』完成
天平勝宝4 752 大仏開眼供養。
遣唐大使藤原清河・遣唐福使大伴古麻呂、入唐
天平勝宝6 754 大伴古麻呂、鑑真を伴って帰朝
天平勝宝8 756 橘諸兄、左大臣辞任。聖武上皇崩御。道祖王立太子
天平宝字元 757 橘諸兄、没。道祖王廃太子。大炊王立太子
橘奈良麻呂の乱
 (豊成、右大臣罷免、大伴古慈斐・流罪、大伴古麻呂・獄死)
養老律令施行
 仲麻呂、紫微内相
淳仁 天平宝字2 758 孝謙天皇譲位。淳仁天皇(大炊王)即位
藤原仲麻呂、恵美押勝と改名。 
恵美押勝、太保(右大臣)
天平宝字3 759 唐招提寺建立。
 この頃、『万葉集』成立か
天平宝字4 760 光明皇后崩御。 淳仁天皇、小治田宮へ行幸
天平宝字5 761 孝謙上皇による道鏡の寵愛始まる
天平宝字7 763 仲麻呂暗殺計画漏洩
 (藤原良継(式家)、解官・姓の剥奪。大伴家持・石上宅嗣、翌年左遷。佐伯今毛、解官)
称徳 天平宝字8 764 藤原仲麻呂の乱
淳仁天皇廃帝・淡路に配流。称徳天皇即位(孝謙上皇重祚)
 道鏡、大臣禅師。 豊成、従一位・右大臣に複す
天平神護元 765 墾田永年私財法停止
 道鏡、太政大臣。豊成没。
天平神護2 766 道鏡、法王就任
藤原永手(北家)、正二位・左大臣。吉備真備、従二位・右大臣
神護景雲3 769 宇佐八幡宮神託事件。和気清麻呂、配流
光仁 宝亀元 770 称徳天皇崩御。白壁王立太子・即位。(光仁天皇)。井上内親王立后。
 道鏡、造下野薬師寺別当(左遷)。和気清麻呂、帰京



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万葉集にみえる居宅と所領

長屋王
08-1638 あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも
右は、聞くに「左大臣長屋王が佐保の宅に御在して肆宴したまふときの御製」と。


長皇子(佐紀)
寧楽宮
長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にてともに宴する歌
01-0084 秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上
右の一首は長皇子


大伴氏
佐保
04-0525 佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか
04-0526 千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは
04-0528 千鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば
右、郎女は佐保大納言卿が女なり。初め一品穂積皇子に嫁ぎ、寵を被ることたぐいひなし。しかして皇子の薨ぜし後に、藤原麻呂大夫、郎女を娉ふ。郎女、坂上の里に家居す。よりて族氏号けて坂上郎女といふ。

また大伴坂上郎女が歌一首
04-0529 佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね

04-0649 夏葛の絶えぬ使のよどめれば事しもあるごと思ひつるかも
右、坂上郎女は佐保大納言卿が女なり。駿河麻呂は、この高市大卿の孫なり。両卿は兄弟の家、女と孫とは姑姪の族なり。ここをもちて、歌を通して送り答へ起居を相聞す。

天皇に献つる歌一首 大伴坂上郎女、佐保の宅に在りて作る
04-0721 あしひきの山にしをれば風流なみ我がするわざをとがめたまふな

大伴坂上郎女、姪家持の佐保より西の宅に還帰るに与ふる歌一首
06-0979 我が背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで

大伴坂上郎女が柳の歌二首
08-1432 我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも
08-1433 うち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも


大伴坂上郎女が歌一首
08-1447 世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ
右の一首、天平四年の三月の一日に、佐保の宅にして作る。


坂上
大伴宿禰家持、同じき坂上の家の大嬢に贈る歌一首
04-0403 朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ

大伴宿禰駿河麻呂、同じき坂上の家の二嬢を娉ふ歌一首
03-0407 春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ

0576~0579 左註
右、田村大嬢は、ともにこれ、右大弁大伴宿奈麻呂卿が女なり。卿、田村の里に居れば、号づけて田村大嬢といふ。ただし、妹坂上大嬢は、母、坂上の里に居る。よりて坂上大嬢といふ。時に姉妹、諮問ふに歌をもちて贈答す。

17-3927 題詞
大伴宿禰家持、天平十八年の閏の七月をもちて、越中の国の守に任けらゆ。ここに姑
大伴氏坂上郎女、家もちに贈る歌一首

19-4220・4221 左註
 右の二首は、大伴氏坂上郎女、女子大嬢に賜ふ


田村
大伴の田村家の大嬢、妹坂上大嬢に贈る歌四首(0756~0759)
04-0756 外に居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計りせよ
04-0757 遠くあらばわびてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ
04-0758 白雲のたなびく山の高々に我が思ふ妹を見むよしもがも
04-0759 いかならむ時にか妹を葎生の汚なきやどに入りいませてむ
右、田村大嬢は、ともにこれ、右大弁大伴宿奈麻呂卿が女なり。卿、田村の里に居れば、号づけて田村大嬢といふ。ただし、妹坂上大嬢は、母、坂上の里に居る。よりて坂上大嬢といふ。時に姉妹、諮問ふに歌をもちて贈答す。


竹田
大伴坂上郎女、竹田の庄より女子大嬢に贈る歌二首
04-0760 うち渡す竹田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは
04-0761 早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ

大伴坂上郎女、竹田の庄にて作る歌二首
08-1592 しかとあらぬ五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
08-1593 隠口の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
右は、天平十一年己卯の秋九月に作る。

大伴家持、姑坂上の郎女が竹田の庄に至りて作る歌一首
08-1619 玉桙の道は遠けどはしきやし妹を相見に出でてぞ我が来し


跡見
大伴坂上郎女、跡見の庄より、宅に留まれる女子、大嬢に賜ふ歌一首并せて短歌
04-0723 
常世にと 我が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも 有りかつましじ
04-0724 朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれぞ夢に見えける

典鋳正紀朝臣鹿人、衛門大尉大伴宿禰稲公が跡見の庄に至りて作る歌一首
08-1549
射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため

大伴坂上郎女、跡見の田庄にして作る歌二首
08-1560 妹が目を始見の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ
08-1561 吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ



天皇に献つる歌一首 大伴坂上郎女、春日の里に在りて作る
04-0725 にほ鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね
04-0726 外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを

十一年己卯に、天皇、高円の野に遊猟したまふ時に、小さき獣都里の中に泄走す。ここにたまさかに勇士に逢ひ、生きながらにして獲らえぬ。すなはち、この獣をもちて御在所に献上るに副ふる歌一首 獣の名は、俗に「むざさび」といふ。
06-1028 ますらをの高円山に迫めたれば里に下り来るむざさびぞこれ
右の一首は、大伴坂上郎女作る。ただし、いまだ奏を経ずして小さき獣死ぬ。これによりて歌献ること停む。



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族を喩す歌

20-4465
久方の 天の門開き 高千穂の 岳に天降りし 皇祖の 神の御代より はじ弓を 手握り持たし 真鹿子矢を 手挟み添へて 大久米の ますらたけをを 先に立て 靫取り負ほせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国求ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に 宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける 天皇の 天の日継と 継ぎてくる 君の御代御代 隠さはぬ 明き心を すめらへに 極め尽して 仕へくる 祖の官と 言立てて 授けたまへる 子孫の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鏡にせむを 惜しき 清きその名ぞ おぼろかに 心思ひて 空言も 祖の名絶つな 大伴の 氏と名に負へる 大夫の伴

20-4466 磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
20-4467 剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ

右は、淡海真人三船が讒言によりて、出雲守大伴古慈斐宿禰、任を解かゆ。ここをもちて、家持この歌を作る。

【口語訳】
(ひさかたの)天の岩戸を開いて、高千穂の峰に天下った、皇祖たる神の御代以来、はじ弓を手にお持ちになり、真鹿児矢を手に挟んで添えて、大久米のますらをたちを先に立てて靫を負わせ、山川を磐根踏み分け通って国を求め、荒ぶる神を降伏させ、従わぬ人をも軟化させて掃討しお仕えもうして、(あきづ島)大和の国の橿原の畝傍の宮に、宮柱を太く立てて天の下をお治めになった皇祖たる天つ神の後継者だと、受け継いで来た大君の御代ごとに、隠れなき忠誠心を皇室に示し尽くして、仕えて来た先祖以来の役目である」と明言して授け給うた、その子孫たちが次々と伝えて、見る人が語り継ぎ、聞く人が模範にするだろうよ。貴重で高潔な名であるぞ。いい加減に心に思って、かりそめにも先祖の名を絶つな、大伴氏の名を負うているますらおたちよ。

(磯城島の)大和の国に名高い名を負うている一族の人たちよ、心して努めよ。
(剣大刀)いっそう心を研ぎ澄ますべきだ。昔から高潔な一族として負うて来た大伴の名であるから。



一族の宴

大伴坂上郎女、族の宴する日に吟ふ歌一首
03-0401 山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結ひの恥しつ

大伴宿禰駿河麻呂、即ち和ふる歌一首
03-0402 山守はけだしありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも

大伴坂上郎女、親族を宴する歌一首
06-0995 かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りゆく


天皇に献まつる歌

天皇に献つる歌一首 大伴坂上郎女、佐保の宅に在りて作る
04-0721 あしひきの山にしをれば風流なみ我がするわざをとがめたまふな

天皇に献つる歌一首 大伴坂上郎女、春日の里に在りて作る
04-0725 にほ鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね
04-0726 外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを

十一年己卯に、天皇、高円の野に遊猟したまふ時に、小さき獣都里の中に泄走す。ここにたまさかに勇士に逢ひ、生きながらにして獲らえぬ。すなはち、この獣をもちて御在所に献上るに副ふる歌一首 獣の名は、俗に「むざさび」といふ。
06-1028 ますらをの高円山に迫めたれば里に下り来るむざさびぞこれ
右の一首は、大伴坂上郎女作る。ただし、いまだ奏を経ずして小さき獣死ぬ。これによりて歌献ること停む。





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懐風藻 長屋王のもう一つの邸

初春於作宝楼置酒
 長屋王

景麗全谷室 年開積草春 松烟双吐翠 桜柳分含新
嶺高闇雲路 魚驚乱藻浜 激泉移舞袖 流声韵松筠


初春作宝楼において置酒す
 
景は麗し全谷の室 年は開く積草の春 松烟双びて翠を吐き 桜柳分つて新を含む
嶺は高し闇雲の路 魚は驚く乱藻の浜 激泉舞袖を移せば 流声松筠に韵く

今、金谷の室の景色は麗しく、年は春、草は重なり繁っている。松も霞もともに緑にけぶり、桜や柳もそれぞれ新鮮である。峯は暗くたなびく雲の彼方に聳え、魚は重なりただよう藻の中に跳る。激しく湧く泉のほとり袖を翻すと、水の調べは松と竹に調和する。






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遷都にかかわる歌

和銅三年庚戌の春二月に、藤原の宮より寧楽の宮に遷るときに、御輿を長屋原に停め、古郷を廻望して作らす歌  一書には 太上天皇御製といふ
01-0078 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ

或本、藤原の京より寧楽の宮に遷る時の歌
01-0079 大君の 命畏み 柔びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲の穂に 夜の霜降り 岩床と 川の水凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ
  反歌
01-0080 あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな
右の歌、作主いまだ詳らかにあらず。



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住居にかかわる墓誌銘

太安麻呂 墓誌 (画像:文化遺産オンライン
墓誌銘文  「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」


小治田朝臣安麻呂 墓誌 (画像:文化遺産オンライン
墓誌銘文  「右京三條二坊従四位下小治田朝臣安」
        「萬侶大倭國山邊郡都家郷郡里崗安墓」
        「神亀六年歳次己巳二月九日」



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飛鳥時代の邸宅について

 飛鳥の地に営まれた邸宅は、未だ確実なものはほとんど有りませんが、分かっている物を取り上げます。
 蘇我馬子の嶋の宅、稲目の豊浦の宅、蝦夷・入鹿の甘樫丘の宅など、蘇我氏の邸宅の一部と思われるものが発掘調査により検出されています。ただし、いずれも正殿クラスの遺構は未検出です。

  相原嘉之先生は、東橘遺跡の廊状建物を中大兄皇子の宮(邸宅)の一部ではないかとされています。また、帝塚山大学の清水昭博先生が、有間皇子の邸宅が軽衢(かるのちまた)丈六遺跡付近に在ったのではないかと推測されています。
 
 他には、万葉集の歌に詠まれる地名や情景から、高市皇子の香具山宮の可能性が高いと言われる香久山の西麓(奈文研調査部下層)や、雷丘付近に在ったとされる忍壁皇子の宮(雷丘北方遺跡か)、また、舎人皇子は高家や細川周辺に、弓削皇子は南淵山周辺に、そして、新田部皇子は八釣山周辺(竹田遺跡か)に宮を構えたのではないかと推測されています。

  逆に、邸宅遺構が検出されている事例を見てみると、飛鳥資料館近くの「奧山リュウゲ遺跡」、橿原市の植山古墳に近い尾根上にある「五条野内垣内遺跡」・「五条野向イ遺跡」、大原神社付近の「小原宮ノウシロ遺跡」や「東山マキド遺跡」の建物跡(中臣氏関連? 五百重娘邸?)などがあります。さらに、名前の書かれた木簡の出土から、穂積皇子の宮が香具山北麓周辺(横大路・中ツ道交差点付近)に在ったのではないかと考えられるようです。


五条野内垣内遺跡

五条野向イ遺跡

竹田遺跡 (新田部皇子邸か?)



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飛鳥宅地マップ



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藤原氏系図



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大伴氏系図



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天皇家・藤原氏・橘氏 相関図



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天皇家系図


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