両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第九回定例会



木簡から見た飛鳥


− 近年の出土事例から −





2008年 7月 12日
両槻会第九回定例会講演会前散策資料


この色の文字は、リンクしています。

見学史跡目次

  石神遺跡
  槻の木の広場
  弥勒石
  飛鳥京跡苑池遺構
  飛鳥宮跡
  飛鳥京跡エビノコ郭遺構
  入鹿首塚
  飛鳥京跡北限遺構
  飛鳥池
  第九回定例会講演会前散策ルートマップ
  定例会公式レポート
  講演会概要レポート



 

石神遺跡

石神遺跡は、飛鳥川東岸の水落遺跡の北、飛鳥寺の寺域北限とされる道の北西方向に位置します。遺跡名は、明治時代に須弥山石・石人像などが発見された遺跡南東端の小字名を取って付けられました。

1981年から奈良文化財研究所による継続的な発掘調査が行われており、昨年末で20次を数えます。現在までに遺跡の南・北・東の限りが明らかになってきました。

石神遺跡発掘調査図


 石神遺跡は、古墳時代から平安時代までの複合遺構ですが、主要な遺構は飛鳥時代の3期に分かれると考えられています。
  それらは、7世紀前半〜中頃・7世紀後半・7世紀末〜8世紀に大別することが出来、最も整備されたのは7世紀中頃と判断されています。これらの遺構の時期は、それぞれに、斉明期・天武期・藤原京期と考える事が出来るようです。

 7世紀中頃の遺構では、水落遺跡との間に遺跡の南限を示すと思われる低い基壇を持つ東西掘立柱塀跡が発見されています。また、この東西塀より北に180mの地点で北限施設と考えられる2条の東西方向の石組溝と掘立柱塀跡が発見され、石神遺跡の主要な遺構の範囲がおよそ南北180m、東西130mであることが分かりました。

 遺跡の西側は、外周規模が東西70.8m・南北106mと推定される廓状建物で囲まれた空間があり、内部には、計画的に配置されたと思われる建物群がありました。
 東側の南端では、東西50m以上・南北40mに及ぶ石敷き広場がありました。この石敷き広場より北には、井戸と東西建物、そのまた北にはロの字型に配置された四棟の細長い建物とその中に正殿・前殿と考えられる建物が整然と配置されていたことが分かっています。

 これらの施設は、石敷きの広場に噴水装置を持つ石造物を配置した「迎賓館的な建物群」だと考えられています。この地において、外国の使節団の饗応や服属儀礼が行われたのでしょうか。

 また、北限施設付近では総柱建物跡が検出され、迎賓館で用いる様々な物資を蓄え準備する倉庫群の可能性が指摘されています。

 その後、天武期には、南にある飛鳥浄御原宮との関連や出土する遺構や遺物(特に木簡の種類)などから、官衙的な役割を持った区画へと施設の性格が変わっていったと考えられます。律令体制への準備や中央集権の政策を実施するためには、飛鳥浄御原宮内郭だけでは、その事務処理を賄い切れなかったのでしょう。外郭を越えて、宮の外にも官衙を配するようになって行くようです。

 その傾向は、藤原京の時代には、さらに強くなっていったと考えられます。遺跡の南西端では、7世紀末から藤原宮期にかけての掘立柱塀による方形区画があり、藤原宮内裏東官衙施設との類似から官衙的な施設があったのではないかと推測されています。

 7世紀以前には沼沢地であったと思われる北限施設よりも北では、幅6mの東西溝や最大幅16mの南北溝など、7世紀後半の遺構が確認されています。また、この北側の地域からは、大量の木簡が発見され、有名な物では16次調査出土の元嘉暦による持統3年(689年)3月と4月の暦日を記した最古の「具注暦木簡」とよばれるもの(二次加工により円形)、18次調査出土の「己卯(つちのと う・きぼう)年八月十七日」(天武8年・679年)と記載のある観音経木簡、「評 五十戸」木簡を始め、文書木簡や習書木簡、仕丁関連のものだと思える木簡など多数出土しています。また、木製品では文書に罫線を割り付けるために用いられただろう定規や鋸なども出土しています。

 まだまだ謎が多く、今後の継続調査も含めて、興味をそそられる遺跡だと思います。今年度中には、第20次調査区の南側を、第21次調査として発掘することも予定されているようですので、その成果を含めて今後の展開を見守りたいと思います。




槻の木の広場

 中臣鎌足と中大兄皇子が劇的な出会いをした場所として知られます。また、皇位を継いだ孝徳天皇が、群臣を集めて忠誠を誓わせたのも、この「大槻の下」であったとされています。壬申の乱の際には、飛鳥古京の留守司は、槻の木の広場に軍営を敷いていました。また、飛鳥浄御原宮の時代には、度々饗応の宴が催されており、石神遺跡の迎賓館的な役割を引き継いだのかも知れません。

 槻の木というのは、ケヤキの古名だそうです。枝を伸ばした欅の巨木は、神聖なものとされてきたのでしょう。軽市にもシンボルとして大きな槻の木があったことが知られています。

 入鹿の首塚から西、中つ道推定延長線に重なる道路の東側に、小字「土木」があります。もしこの小字名が「ツキノキ」の転訛だとすると、「槻の木の広場」がこの付近に在ったことを有力に裏付けるように思います。

 また、飛鳥寺の西門が北・東門より若干大きいこと、溝が暗渠になっていることなども、飛鳥寺西門の西には、公的な場所があったことの裏付けだとも考えられます。

 入鹿首塚と呼ばれる五輪塔は、槻の巨木の記念碑である可能性を指摘する説もあるようです。




弥勒石

 信仰と親しみを込めて、地元では「ミロクさん」と呼ばれ、下半身(特に女性)の病気が治ると伝えられていますが、この石造物が元々は何であるのかは不明です。

 石造物の所在が、小字木ノ葉であることから、飛鳥時代から在ったとされる「木ノ葉堰」の水門などの施設に用いられていた石材の一部とする説もあるようです。また、橋脚の一部とする説や、条理制の境界を示すものとする考えもあるようです。



 伝承としては、飛鳥川の中に有難い石があったので、村人が引き上げて祀ったとされているようです。その日が8月5日であったため、今日もその日にお祭りが行われるということです。




飛鳥京跡苑池遺構

 飛鳥京苑池遺跡は、飛鳥京の西から北西にかけて、飛鳥川対岸南西に川原寺や橘寺を望む場所にあります。 飛鳥宮の所在する場所からは、飛鳥川に向けて一段低い地形に存在し、南北に飛鳥川に沿って造られています。


 1999年からの橿原考古学研究所による4次に渡る発掘調査が行われ、渡堤で区切られた南北2つの池の存在が明らかになりました。遺構規模は、周辺の地形などを考慮に入れると、南北230m東西100mに及ぶと推定されるようです。
 発掘された南北両池は、ともに数段の石組み護岸をもちます。

 南池は平石によって水平に造られた池底で、水深は浅く、池中央に中島や島状石積みなどを持ちます。遺構南端からは、二つの石造物も出土しており、これらは大正15年に偶然発見された石造物(通称:出水の酒船石)と直線状に並ぶ事から、南側から水を流して最終的には噴水のように池へ流水させる装置だったと推測され、南池は苑池と呼ぶに相応しい様相を呈していたと思われます。


1999年6月20日 飛鳥京跡苑池遺構現地説明会


 出水の酒船石のレプリカは、飛鳥資料館の前庭で、また噴水装置の石造物は、橿原考古学研究所(研究棟入口)にてご覧になれます。

 一方、北池は擂鉢状で水深も深く、北側には水路、南池との間の渡堤には北に向けて下がる木樋が通されるなど、南池とは異なる性格を担っていたようです。

 北の水路からは、130点余りの木簡が出土しています。丙寅(ひのえとら・へいいん)年(666)・戌寅(つちのえとら・ぼいん)年(678)など紀年銘木簡が4点、「松羅」という生薬名や「西州続命湯」と呼ばれた生薬の処方に関わる木簡(これらの生薬は、現在も漢方薬として処方されているようです)、「造酒司・・」など酒の醸造に関するものなど、幾つかのまとまりを持った内容になっているようです。

 また、検出された種子や花粉などからナシ・ウメ・モモ・スモモなどが栽培されていたことも判明しています。遺跡の全体像として、観賞用の苑池というだけに止まらず、薬草園・果樹園などの機能もはたしていたと考えられます。

 さて、苑池が造られた時期ですが、飛鳥京第3期遺構とほぼ対応する7世紀中頃〜後半にかけて築造されたと推測出来るようです。その時期は、斉明天皇の後岡本宮が存在した時期にあたります。7世紀末頃には改修が施されており、この時期が天武天皇の飛鳥浄御原宮に該当するのかもしれません。藤原・平城遷都後も存続したものの9世紀頃には廃絶、13世紀には完全に埋没してしまったようです。

 飛鳥苑池遺跡は、『日本書紀』天武14年11月条の「白錦後苑・シラニシキノミソノ」であろうとの見方も示されています。 

飛鳥宮関連図





飛鳥宮跡

 飛鳥宮に関しては、発掘調査が進む以前には、井戸遺構を中心にして伝飛鳥板蓋宮跡と呼ばれていました。(伝飛鳥板蓋宮として史跡指定されているためだと聞きます) 現在では、時期の異なる宮殿遺構が重なって存在することがわかっており、飛鳥京または飛鳥宮と呼ばれることが増えてきています。


 この飛鳥宮遺跡は、時期区分として3層の遺構に分かれているとされています。 最上層の遺構は前半と後半に分けて考える説が有力で、次のように該当する宮が推定されています。


 1期は舒明天皇の飛鳥岡本宮、2期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮、3期A(前半)は斉明天皇の後飛鳥岡本宮、3期B(後半)を天武天皇の飛鳥浄御原宮と考えらてれます。  

 最上層の3期は、内郭とエビノコ郭と外郭と呼ばれる宮域から構成されるのですが、内郭だけで構成されていた時期区分を3期A(前半)と呼び、後飛鳥岡本宮とし、また内郭を継承しながらエビノコ郭と外郭を造営した時期区分を3期B(後半)、飛鳥浄御原宮だと考える説が有力です。

 1期の舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられる遺構からは、日本書紀の記載と合致する火災焼失の痕跡と思われる焼けた柱や炭や焼土痕などが検出されています。 また、この時期は、建物の方位が正方位を向いていなかったようです。 2期の飛鳥板蓋宮も655年に火災に遭っていますが、同様の痕跡が見つかっています。また、飛鳥板蓋宮は、北東方向に少しずれて存在したようです。

 第3期の内郭は、南北約197m、東西152〜158mの台形をしており、周囲を屋根付きの掘立柱塀で囲んでいます。
 内郭は、東西の三重構造の掘立柱塀によって、南北に性格の異なる二つの区画に分けられているようです。

 南の区画には、南門と前殿があり、全体にこぶし大の礫が敷き詰められていました。前殿の東には、2列の南北の掘立柱塀で隔てられた南北建物跡があり、これを朝堂院とする説もあるようですが、確定されていないのが現状です。

 北区画には、内郭中心線上に乗る位置に、東西八間、南北四間の大型建物が検出されています。この建物の東西には、小殿風の建物が配置され、廊状の建物によって繋がっています。 西の建物は、ある時期に撤去されて池に作りかえられていました。

 また、この建物の四隅には、より建物を荘厳に見せるためにか、幡竿を立てる施設がありました。 建物の前面には、人頭大の石が敷詰められた広い広場が存在しました。 建物の規模や宮内での位置関係などから、この建物が内郭の正殿であると考えられています。 その後、類似した建物が、すぐ北からも検出され、内郭南正殿・北正殿と呼ばれています。

 北正殿と南正殿の間には、内郭域では一番広い石敷き遺構が検出されています。 
  この正殿と呼ばれる建物は、切妻建物であること、建物規模が八間と偶数間であることなど、建物の性格を考える上で、まだ解明されていない問題もあるように思われます。

 日本書紀の記述を拾ってみると、飛鳥浄御原宮には、内裏(おおうち)・後宮(きさきのみや)・朝堂(ちょうどう)が存在し、大極殿(だいごくでん)・大安殿(おおあんどの)・外安殿(とのあんどの)・向小殿(むかいのこあんどの)・御窟殿(みむろのとの)・西庁(にしのまつりごとどの)・南門・西門・南庭・東庭・などの名前を見ることが出来ます。

 これらの名前を持つ建物が、検出されたどの建物に当て嵌まるのかは、現時点では確定的なことは言えませんが、第3期の後半に、内郭がより私的な空間に変わって言ったことが想像されます。 南正殿の西の小殿が、池に造りかえられたのもそのような事情の中でのことではないかと思われます。

 第3期後半の外郭について、若干触れてみることにします。 日本書紀の記述から行政機関と思われるものを抜書きしてみますと、大学寮(ふみやつかさ)、陰陽寮(おんようのつかさ)、外薬寮(とのくすりのつかさ)、大弁官(おおともいのつかさ)、民部(省)(かきべのつかさ)、膳職(かしわでのつかさ)、大政官(おおまつりごとのつかさ)、法官(のりのつかさ=後の式部省)、理官(おさむるつかさ=後の治部省)、刑部(省)(うたえのつかさ)などなどを見つけることが出来ます。

 また、日本書紀の天武4年5日の条には、「占星台を建てた。」という記事があります。陰陽寮に属するのでしょうか、または独自の役所が存在したのでしょうか。 
 律令制度の導入を目指して我が国最初の法律である飛鳥浄御原令を編纂した天武政権には、外郭もすぐに手狭となったことでしょう。

 石神遺跡の天武朝期の出土遺物や木簡などから、石神遺跡を迎賓館的性格から改装して政務の行政機関の一部を置いたことが伺えます。また雷丘近くに在ったと思われる忍壁皇子邸の火災が民部省に延焼した記事があることなども、外郭を越えて飛鳥の各地に行政機関が置かれていたことを示しています。




エビノコ郭

 エビノコ郭は、第3期後半に増設された新たな区画です。南北に55.2m、東西に92〜94mの区画になり、内郭と同じように屋根のついた掘立柱塀が取り囲んでいます。


エビノコ郭正殿(大極殿)跡地


 エビノコ郭の中心には、宮域の発掘調査の中では最大規模の建物が見つかっています。東西9間、南北5間、桁行方向の柱間も宮域の他のものより大きな寸法になっています。建物は、土間式の四面庇付建物のようで、飛鳥浄御原宮における「大極殿」とみて間違いはなさそうです。

 エビノコ郭正殿の建設は、いつ頃であったのかは明確には記されていません。最初に大極殿の名が見えるのは、天武10年(681年)2月25日の記事の中です。「天皇と皇后とは、ともども大極殿におでましになった。」 

  エビノコ郭の正殿(大極殿)は南に向いて建てられているのですが、この区画の門は南側には無く、西側にあります。 日本書紀には、天武天皇の時代に、「西門の庭」で、儀式が行われた記述が何度も書かれており、エビノコ郭の西門付近の空間がそれに当て嵌まるのかも知れません。




入鹿首塚  五輪塚五輪塔

 俗称「入鹿首塚」と呼ばれる五輪塔が、飛鳥寺西門のすぐ西にあります。乙巳の変の折、切られた蘇我入鹿の首が南東約600mの飛鳥板蓋宮から飛んできたのだといわれています。伝承には違いが無いのでしょうが、このような話が、すでに江戸時代には庶民の口に上っていたことは、菅笠日記などでも明らかになっています。


 入鹿首塚として祀ることに異を唱えるのではありませんが、元々は何であったのかには、興味が起こります。

 飛鳥寺の真西に在ることなども考慮に入れると、次のような推測が出来るのではないかと思われます。

1:入鹿首塚説
2:飛鳥寺創建頃の高僧である恵慈・恵聡の墓説
3:安居院再興の尼僧の墓説
4:槻の木の広場にあった槻の巨木の記念石塔説

 また、この五輪塔の水輪が逆さまになっているとする考えや、火輪が別の五輪塔の物を使っているのではないかとの指摘があります。全体のバランスとして、あまり良いとは言えないようです。これらのことにも、五輪塔の謎を解明する手掛かりがあるのかもしれませんね。

こちらのページを参考にしてください。「入鹿の首塚考」「もう一つの入鹿の首塚考




飛鳥京跡北限遺構

 2007年2月7日に現地説明会が行われた「飛鳥京跡第157次調査」において、飛鳥京内郭正殿から北に約400mの地点で精巧な石組み溝が出土しました。この東西溝は、北側に同時期の建物跡がほとんどなく、飛鳥浄御原宮の北端を示すとみられます。


東西溝遺構から西(飛鳥川方向)

東西溝遺構から東方向


 石組み溝は、河原石を並べた構造で幅1・7メートル、深さ0・7メートル。巨岩と小石を積み分けた2段構造で、水流調整のため溝と溝の合流地点で深さを変えるなど高度な設計が施されていました。飛鳥京から飛鳥川への排水路と考えられています。

 これによって、飛鳥浄御原宮外郭の範囲は南北約800m、東西最大約500mとほぼ確定したと報じられました。(西側では、飛鳥川に沿う形になっていたものと思われます。)




飛鳥池遺跡

 飛鳥池遺跡は、飛鳥寺の寺域南東隅に接し、酒船石遺跡のある丘陵と飛鳥寺瓦窯のある丘陵との間の「入」の字形をした谷にあります。

 1991年には飛鳥池埋立の為の試掘調査、1997年から1999年までは万葉文化館建設に伴う事前調査が、奈良文化財研究所によって行われました。つまり、現万葉文化館が建っている所=飛鳥池遺跡ということになります。
 遺跡は、東西の丘陵の間が最も狭まったところに設けられた掘立柱塀によって、南北に分けて考えられています。


万葉ミュージアム内の南区再現遺構


 日本初の鋳造貨幣として注目された富本銭以外にも、金属・ガラス・玉・漆・瓦など実に様々な製品が、主に南区の丘陵斜面に設けられた雛壇状の工房で製造されていました。また、東の谷の底部には、7個の水溜が設けられ、先の雛壇工房から出る廃棄物の沈殿浄化槽としての役割を担っていたようです。南区最北端の水溜からの水は、北区との境である掘立柱塀の下の暗渠を通って北区へと入り、北区のほぼ中心を走る南北溝から石組方形池へ、そして最終的には、遺跡外の東にある大溝へと流れ込んでいたと考えられています。

 左の写真は、飛鳥資料館ロビーに設置されていた古代飛鳥復元模型の飛鳥池遺跡の部分です。上が南になっています。上部中央は、亀形石造物のある石敷き遺構で、下部の塀は、飛鳥寺の南東部になります。

 飛鳥池遺跡では、8000点にも及ぶ木簡をはじめ、金属・鉱石・木製品など、多数の貴重な遺物が出土しています。

 左写真は、奈良文化財研究所より掲載の許可を取った写真です。
無断の転用や転載は固くお断りします。


 北区では、「庚午年(かのえうま・こうご)」(670・天智9)、「丙子年(ひのえね・へいし)」(676・天武5)「丁丑年(ひのとうし・ていちゅう)」(677・天武6)などの紀年銘木簡、天皇号成立で話題となった天皇木簡や新嘗祭に関わる次米(主基米すきのこめ)木簡などの他、寺名や僧名入り・経典の貸借に関する木簡や瓦など、北にある道昭の創建とされる飛鳥寺東南禅院と関連するのではないかと推測される物が出土しています。

飛鳥寺の寺域の南東部分で7世紀後半の建物群が検出されています。『続日本紀』に日本法相宗の祖とされる道照が、飛鳥寺の東南に禅院を建て、教えを広めたことが書かれています。道照は遣唐使として入唐し、玄奘三蔵について同室に寝起きし学んだと伝わっています。また日本で最初に火葬された人物として、日本書紀にも記録を残しています。


北区遺構


 南区では、工房での製造に関わる金や銀をはじめとする金属類、ガラス製造に関わる坩堝や原料(長石・石英)などが出土しています。また、「舎人皇子」「百七十」などと墨書された「様(タメシ)」と呼ばれる物も出土しています。例として挙げた文字は、釘に書かれているのですが、発注元や数量と考えられ、「様」は、発注指示書と製品見本を兼ねた物だとされています。

 これらの遺物から南区の工房は、7世紀後半の天武期に本格的に生産が開始され、奈良時代頃には終焉を迎えたと推定されています。また、北区は上層遺構(7世紀末〜藤原宮期)保護の為にそれ以前の遺構の詳細は不明です。

 掘立柱塀で遮蔽され、北は飛鳥寺付随施設・南は官営工房跡と区別されて考えられる飛鳥池遺跡ですが、上記のような一連の排水の行方を追ってみると、違った側面が見えてくるようにも思えます


第九回定例会 講演会事前散策ルートマップ



資料作成 両槻会事務局 もも風人

第九回定例会レポート

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