両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第九回定例会

主催講演会レポート

木簡から見た飛鳥 − 近年の出土事例から −


     講演会概要           
この色の文字は、リンクしています。

 講演会がある時、事務局員&サブは会場班と散策班に分かれ、それぞれ役割が課せられています。今回も私は会場班と言う事で散策は途中までとなり、後は会場である飛鳥資料館のホールで、机や椅子の配置、配布資料の用意、会場の受付等をさせて頂きました。梅雨明け直前と言う事で、朝から茹だる様な暑さの中、散策班は遺跡めぐりをされていて、涼しい会場の中で過ごせているのがとても申し訳ない気分に浸りつつ、極楽を経験させて頂きました。(笑)

 暑さで顔を真っ赤にして散策班がご到着、また、散策されずに直接会場入りされた方もおられ会場は大賑わいになりました。名前とお顔を確認しながら私は<参加証>と<講演資料>を手渡しました。この参加証、毎回絵柄が違っています。毎回お題に副った絵を風人さんが描いてくれています。これを頂くこともまた参加する楽しみのひとつとなっています。

 いよいよ市先生のお話。一言も聞き逃さないぞと、会場はさっきの賑やかさとは真反対にシーンと静まり返っていた中、市先生のご登場。思っていたよりずっと若くて素敵な先生でした。先生の開口一番は「みなさん、木簡を実際にご覧になられた事のある方いらっしゃいますか?」で、さすが歴史好きさんが多い会場は、沢山の手が上がり、その数に先生は少し驚いておられました。本当の木簡は、たった一度しか目にする事がないからです。その唯一の機会は遺跡の発掘調査の現地説明会だから、そんなに現地説明会に足を運んでいるのかと驚かれたようです。私は悲しいかな歴史にはあまり触れない人間なので、現地説明会は数えるくらいしか行ってませんので勿論本物を目にしたことは一度もありません。

 飛鳥池遺跡を、飛鳥寺関連の木簡が出土した北地区と富本銭など工房関連の木簡が出土した南地区と分け、私が興味を持ったのは南地区でした。頂いた資料の中の図面を眺めつつ、高所から低所にかけて段々畑のように作られた水溜りは<ゴミ箱>の役目も果たしていて、上澄みが次の水溜りを作り、またその上澄みが次の水溜りを作るように設計されているのだと市先生の説明があり、昔の人の知恵は凄い!って思いました。もうその頃にはそんな技術や知恵があったのですね。その沈殿したゴミの中に多数の木簡も捨てられていたようです。その南地区で発見された木簡の327点の内、142点は木簡を削った削りクズだったそうで、その削りクズにも様々な文字が残されていて、そこから断片的に見えてくる当時の暮らしや人間の思いみたいなのが感じられて面白くて、先生の話にますます引き込まれました。木簡は文字を記すだけではなく、見本(様:ためし)として様々な姿をしているのを初めて知りました。釘を注文する時は釘の型に、お米を注文(納品)した時は俵型にしていたようで、写真などが無かった当時ですが、こんな手法で一目で判別出来る仕組みになっていたのですね。

 両槻会の講演会で一番良いところは、先生との距離がとても狭いこと。手を出せば先生が・・・ではありませんが、質問がとてもしやすい事です。今回も歴史を知らないと言うことを前提に先生へ初歩的な質問をさせて頂きました。

 Q1.本や資料でみる木簡の文字は判別出来ないが、先生はどうやって判別されていますか?
 A1.出土したばかりの時は本や資料よりも鮮明ですが、判読不明な部分も多いのは確かで、そんな場合は赤外線で文字を読みます。シミや陰、凹みなども反応してしまうので、必ず人間の目で確かめながら判読しています。どうしてもわからない部分は、過去の木簡などと照らし合わせて、同じ文字の使い方をしていないか調べています。木簡の文字には法則のようなものが存在している事が多いので、ある程度判読出来ます。

 Q2.出土した木簡は、その後どんな保存をされていますか?
 A2.水分を含んだ粘土質に埋まっていた木簡を、空気に触れさせると一瞬にして老朽が進み朽ち果ててしまうので、ホウ酸と砂を混ぜた水(ホウ酸ホウ砂)で保存しています。一年に一度、最近は夏休みに学生がアルバイトで水を替えています。これが大変な作業なのです。40年以上も大切に保存されている木簡もありますよ。

 木簡と言うのは、古代の人が木に書いた物を言うのだろうと思っていましたが、先生は「木簡は特別な物だと思われがちですが、現代の人が木に文字を書いて埋めた物が掘り起こされたとしても、木簡と言うんですよ。例えば、自宅の表札(木に墨で書いた苗字)を土に埋めたとして、それを誰かが掘り起こせば、それは木簡なのですよ。」私にとって遠い存在だった<木簡>がグンと身近に感じられた一瞬です。歴史・・・決して遠い存在の難しいものじゃなく、もっと身近で面白く感じられるものなのかも知れないと、また少し歴史に一歩足を踏み入れるキッカケを下さった市先生に感謝申し上げます。楽しい講演をありがとうございました。

レポート作成 両槻会事務局 P-saphire



 講演会概要

この記事は、両槻会第九回定例会の講演において、講師の市大樹先生がお話くださったことを元に、事務局員風人が理解したことを記したものです。間違った聞き取りや理解が及ばなかった点もあることをお断りしておきます。

     (文中の「」で囲った木簡の文字の中にある 『 □ 』 は、判読できない文字を示します。)

 大規模工房を伴った生産遺跡である飛鳥池遺跡からは、大量の木簡が出土しています。総数は、約8.000点に上り、飛鳥における木簡の総出土点数約14.000点の6割近くを占めています。(全国の出土木簡の総数は、350.000点とされています。)木簡が書かれた時期は、七世紀前半から8世紀初頭と飛鳥時代のほぼ全てに及びますが、大半は天武・持統朝の物と言えるようです。

 飛鳥池遺跡は、中央の最も狭い部分で掘立柱塀によって南北に区画されているのですが、木簡の出土状況からも、南北の性格の違いが浮き彫りになってきます。
 飛鳥池遺跡の木簡出土状況は、北地区からは、飛鳥寺・東南禅院に関わる木簡が多く、「観勒」・「智調」など高僧の名を記した木簡も出土しています。また、「天皇」と書かれた木簡が出土して注目を集めました。
 南地区からは、工房に関わる木簡が出土しています。南地区からの出土木簡は、数が少なく、谷筋の水溜を中心に327点を数えるのみです。

 今回の両槻会主催講演会では、主に南地区の出土木簡から見えてくる飛鳥池遺跡のお話が中心となりました。
 この大規模な工房は、出土木簡から天武7年頃に本格的に操業を開始したのではないかと考えられるようです。その根拠となるのは、「丁丑年」(天武6年)・「己卯年」(天武8年)・「甲申年」(天武13年)・「丁亥年」(持統元年)」などの紀年銘木簡の出土です。
 また、最小の地方行政単位である「サト」と書かれた木簡の表記が、「里」よりも「五十戸」(五十戸は、天武10〜12年頃まで使用された。共にサトと読みます。)と書かれたものの方が多数出土している点などから推測されるようです。
 さらに北地区の南北溝が、天武6年に埋め立てられ、工房の改修が行われたと考えられ、飛鳥寺の寺院工房から官営工房へと変わる過程を示すものとして、この説を補強しているように考えることも出来るようです。

 飛鳥池遺跡では、有名になった「富本銭」の鋳造の他、金属・ガラス・玉・漆・瓦など実に様々な製品が、主に南地区の丘陵斜面に設けられた工房で製造されました。
 木簡から見たそれらの製品を見てみることにします。

 圧倒的に多いのが鉄製品で、特に「釘」が多く、種類も豊富にあったことが分かりました。木簡の記載によれば、「卑志釘」・「小切釘」(種類)や、「大釘」・「釘三寸□」(大きさ)、また「難釘」・「堅釘」(強度)を示した木簡も出土しているとの事です。

 釘以外の鉄製品では、「小刀」・「針」・「鉾」・「鑿」・「閂金具」や、材料として「□里鉄」と書かれた荷札木簡などもあります。
 その他の製品としては、「金」と書かれた習書木簡や、「玉」と書かれた付札、富本銭や銅製品の原料の一つである「白錫」と書かれた記録木簡、瓦の枚数・日付を記した削屑6点も出土しているそうです。
 飛鳥池遺跡南地区から検出された瓦窯からは、飛鳥寺東南禅院から出土した複弁八弁蓮華文軒丸瓦と同じ物が出土しており、東南禅院の瓦窯と考えられているそうです。

 飛鳥池工房での生産の流れはどのようなものであったのでしょうか。これも木簡から推測されるようです。現在でも同じですが、注文主が工房の管理施設へ注文を出します。そうすると管理施設は、各工房へ生産指示を伝達します。生産が行われ、記録が残されます。飛鳥池工房では、この過程が木簡で行われていました。

 発注伝票といえる木簡には、注文主や所属や特別な用字が書かれているものがあります。「詔」・「内工」・「散支宮」や「大伯皇子宮」・「穂積皇子」・「舎人皇子」・「石川宮」などは、皇族や宮中に関連する発注元を示し、「大伴」は貴族、「鉦」・「瓦」は、寺院を示しているものだと思われます。
 管理施設は、注文を受けると、工場へ生産指示書を出します。飛鳥池遺跡では、この過程での特殊な木簡が出土しています。
 例として説明のあったものでは、釘の発注に関する「様(ためし)」と呼ばれる木簡でした。製造する釘の実際の大きさや形を木製品で作り、それに注文主と数量が書かれています。生産指示書と製品見本を兼ねた物と言えそうです。また、他の木簡では、この「様」をくくりつけるためではないかと思われる穴が開いたものが出土しているようです。

 組織的な生産を行う場合、原材料の管理は重要な要素になってきます。資材管理が上手く行えるということは、生産の安定を図れる分けですから、飛鳥池工房でも同様であったことでしょう。製品に使用原材料の量が書かれた木簡が出土しています。「小刀 □二斤」・「以二斤二作」など数点が例として挙げられました。
 また、生産管理の観点からか、工人の生産状況の把握に用いられたと思われる木簡も出土しています。「十月十二日飛鳥□麻呂二出」・「十月三日佐支ツ三出」などです。 
 また、備中国夜加評・伊予国湯評の仕丁が、飛鳥池工房に出仕していたことが分かっているようです。

 飛鳥池遺跡から出土した木簡には、工人の名前も多くありました。その名前の多くは、渡来系氏族(東漢氏の配下が中心)であったと思われます。とりわけ注目されるのは、葛城の工人の名前が見えることだとのお話でした。「麻佐ツ麻人□留黒井」・「佐備四」などの葛城地方の地名を持つ人名を記した木簡があります。(麻佐ツ麻=朝妻、佐備=佐味。) 葛城地方には、葛城襲津彦らが新羅遠征の際に捕虜を連れ帰って住まわせたとする邑があります。桑原・佐備・高宮・忍海の四邑がそうですが、鍛冶に関わる工人の集団であったとされています。サビは、朝鮮語では、鋤や剣を意味するとされます。また、常陸国風土記には、佐備大麻呂という者が剣を作ったとあるそうです。

 これらの葛城の工人は、最初は豪族葛城氏に属していました。やがて葛城氏が滅ぶと、彼らは蘇我氏の配下となって行きます。蘇我氏は、ある時期盛んに自分たちの出身を葛城氏の同族であることを主張し始めます。高い技術力を持つ渡来系氏族を掌中のものとするためであったのでしょうか。結果として、蘇我氏は渡来系氏族を配下とし、政権の高みへと駆け上がって行くことになります。
 さらに一転して、乙巳の変では蘇我本宗家が滅び、東漢氏は天皇家に服属することになりました。天武6年6月、天武天皇は東漢直が犯した7つの罪を糾弾した上で、罪を許しています。前にも書きましたが、飛鳥池工房の本格的操業の時期を控えて、工人を統括する東漢氏の全面的な協力が改めて求められた為ではないかと考えられます。
 飛鳥池遺跡で発見される木簡に、葛城の工人の名が見えるのは、このような歴史の動乱を経た結果であると推測することが出来るとのお話でした。

 飛鳥池遺跡出土木簡のお話で、予定の時間を大幅に過ぎてしまったのですが、両槻会事務局のリクエストでもありますので、延長してお話を続けていただきました。


 引き続いては、石神遺跡出土木簡のお話です。
 石神遺跡は、斉明天皇の頃の迎賓館だとして知られますが、天武天皇の頃には官衙としての色合いが強くなってきます。藤原京の時代になると、その傾向はさらに強くなるものと思われます。それらのことは、出土する木簡が雄弁に物語っているようです。

 (石神遺跡の土地利用に関しては、事前散策資料を参照ください。)

 出土する木簡は、多彩な内容を持っています。全国からもたらされる様々な「貢進木簡」、行政の場であったことを示す「文書木簡」や「記録木簡」、難波津の歌・論語・九九などを練習した「習書木簡」、飛鳥の玄関口であったことを示す「過所木簡」や「御垣守木簡」、我国最古の暦である元嘉暦(具注暦)木簡、時刻制を示す木簡、また、規則的な文章作成に用いられた定木、封緘なども出土しています。

 石神遺跡は、天武天皇の飛鳥浄御原宮中枢からは北に1キロ弱ほど離れているのですが、この周辺にも官衙域が伸びてきていたものと思われます。出土した木簡は、役所が近くにあったことを示しているようです。

 元嘉暦というのは、中国の宗の時代に採用された暦です。(445年施行) 我国には、百済を経由して伝わったとされていますが、この暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料であります。
 石神遺跡から出土した暦は、元嘉暦を基にした具注暦と呼ばれるもので、吉凶判断のための様々な注が具に記載されています。

 出土した部分は、板状の物を円形に切り取り、壺の蓋などに二次利用していた物と考えられています。暦の部分には、持統天皇3年3月8日〜14日、裏面に同年4月13日〜19日の暦が書かれていました。4月13日は、万事が凶とされる「九坎日」と書かれています。書紀によれば、この日は皇太子草壁皇子が亡くなった日でありました。具注暦は、皇子の死を予期していたのでしょうか、偶然の一致なのでしょうか。

 もう一つ、有名な木簡の説明がありました。「己卯年八月十七日白奉経」・裏面「観世音経十巻記白也」。観世音経十巻の転読や書写を依頼した木簡ではないかと考えられ、大がかりな読経や法会が想起されることから、近隣に皇族・貴族の邸宅があった可能性をお話していただきました。


 最後に、質疑応答の時間を作っていただきましたが、この時間を利用して、いわゆる「不比等木簡」の説明をお願いしました。

 藤原京東面大垣の北門外の溝で、出土(1979年9月−80年3月の調査)した木簡に、右大臣を示す「右大殿」と書かれていたことを市先生が解読されました。出土状況を含めて、「右大殿」が藤原不比等を示す可能性が高いと判断されました。不比等にかかわる木簡が藤原京跡で確認されたのは初めてのことです。

 木簡は縦24・1センチ、横2・5センチ。赤外線写真の分析で「右大殿荷八」と記されており、別勅賜物(天皇からの賜り物)を宮外へ搬出する際の送り状であったと思われます。これが宮城門で回収され、投棄されたのではないかというお話でした。

 不比等が右大臣に任用された和銅元(708)年の年号を書いた木簡も同じ場所で数点出土しており、「右大殿」が不比等を示す根拠となりました。平安時代の文献は不比等邸が宮の東側に位置していたことを示しており、邸宅が付近にあったと推定できるそうです。 (城東第・宮城東第) 
平城京跡では宮の東側の不比等邸跡に法華寺が建立されていますが、藤原京跡北東方向には橿原市法花寺町があり、不比等邸との関連が推測されます。


 質疑応答を含めて、160分近い講演をしていただいた市大樹先生に、心よりのお礼を申し上げるとともに、会場をご提供くださいました飛鳥資料館の杉山先生をはじめとする皆さんに、深く感謝を申し上げます。また、暑い中を参加くださいました皆さんに、お礼を申し上げます。ありがとうございました。

レポート作成 両槻会事務局 風人



第九回定例会講演会前散策資料

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