風人の
飛鳥ぶらぶら探訪記
真神原風人
飛鳥三昧
両槻会事務局長・真神原風人のマニアック飛鳥探訪記。
一般的な飛鳥観光コースから離れたマニアックな道中をご案内します。
Vol.003(07.12.21.発行)~Vol.42(09.1.30.発行)記事収録
つづきは、好評連載中のこちらへ
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【1】 「厩坂寺跡?」(07.12.21.発行 Vol.3に掲載)
私が飛鳥を訪ねる時には、主に二つのコースをたどります。一つ目は、橿原神宮前駅で下車し、東へ歩くコースです。ほとんどは、剣池を過ぎたところから住宅地を抜け、和田池から豊浦に出るコースを歩きます。二つ目は、飛鳥駅から歩くコースです。桧隈から栗原を通り、朝風峠から稲渕の棚田に出ます。ほぼ、毎週どちらかのコースを歩いています。
このコーナーでは、皆さんがあまり寄らないであろうマニアックな飛鳥スポットに光を当ててみようと思っています。
第一回目は、一つ目のコースで気になる場所をご紹介します。橿原神宮前駅東口を出て、丈六(じょうろく)交差点を越えて進みますと、左手にファミリーマートがあります。このファミマの裏(北側)に、なにやら土壇のようにも見える大きな高まりがあるのに気付かれた方はいらっしゃるでしょうか。古代寺院の基壇跡ではないかと思えなくもない風情です。丈六という交差点の地名も、大きな仏像(丈六仏)をイメージさせます。
南東から |
東から |
ひょっとして、ここは厩坂(うまさか)寺の跡かも知れません。厩坂寺や厩坂宮は、橿原市大軽町や石川町付近に在ったのではないかとされています。この一段高くなった土地がそうだと言う根拠は全くありませんので、私の話だけでは、あまり信用されないようにお願いします。(^^ゞ ですが、こんなお話もいつしか本当になるかもしれません。それも飛鳥の楽しさの一つでしょうか。
厩坂寺と言うのは、天智天皇8年(669)に藤原鎌足の病気平癒を願って、その夫人の鏡女王が京都山科の私邸に「山階寺」を草創し、鎌足の子不比等 によって藤原京の時代に飛鳥に移って厩坂寺と称したことに始まります。古代の幹線道路である山田道に沿って所在しますので、大寺院であったのかも知れませんね。
厩坂寺は、その後、平城京遷都に合わせて移築されることになります。それが興福寺です。言わば厩坂寺は本興福寺と言えるかもしれません。
厩坂宮は、舒明(じょめい)天皇が640年4月から10月までの半年間使われた宮です。その宮の跡地にお寺を建てたのかも知れません。
明日香村へ行こうとしている人にとっては、ここはただ通過するだけの場所。バスに乗っていては、気付きもしない場所かもしれませんね。そんな所にも、ちょっと好奇心を向けてみては如何でしょうか。
この記事を書いた後に知ったのですが、産経新聞の連載コラム「大和時空散歩」が、この土壇を厩坂寺伝承地として写真掲載し、執筆者の和田萃先生が、ウラン坊遺跡や丈六の地名を紹介されていまいました。(10月17日記事)ひょっとしたら・・・。(笑)
【2】 「馬子塚五輪塔」(08.2.15.発行 Vol.10に掲載)
皆さんは、入鹿首塚をよくご存知だと思いますが、馬子塚と伝承される五輪塔があるのを知っておられるでしょうか。もちろん馬子は、蘇我馬子のことです。
馬子塚五輪塔 |
前回は厩坂寺のお話を書きましたが、そこから東(明日香村方向)に少し進み、南(右)へ石川町の集落の中へと曲がります。路地を縫うように行きますと、小さな本明寺という浄土宗のお寺に行き着きます。このお寺の本堂の左に、大きな五輪塔(高さ230cm)が立っているのです。五輪塔の多くは、鎌倉時代・南北朝の頃に作られたそうですが、この馬子塚五輪塔も本当はその頃の物だとされているようです。
ところで、この本明寺は、「石川精舎」の跡に建てたと伝える由緒を持っています。薄れて読みにくくなっていますが、本殿の柱に掛けられた案内板によれば、「石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇十三年(584年)、蘇我の馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。仏法の初まりは茲より作れりという。」
日本書紀敏達天皇13年条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初、茲より作れり」とあり、案内板の文章はこの記事を参考にしたものなのでしょう。「大和志」「和州旧跡幽考」などもこの説を採り、石川精舎の場所をこの本明寺としています。
石川精舎が造られた頃は、未だ廃仏派とされる物部氏や中臣氏の勢力も強く、さすがの馬子も本格的な寺院の建設が出来ず、私邸に仏殿を造ったのかも知れません。
石川精舎の候補地は、この本明寺以外にも、同町の大歳神社付近の西側ウラン坊遺跡などがありますが、どれも確証のあるものではありません。ウラン坊遺跡は、7世紀後半の古瓦が出土しており、厩坂寺かともされます。
橿原神宮前駅から明日香村までのバス路線沿いは、石川精舎や大野北塔や豊浦寺が並び、飛鳥時代初期の仏教揺籃期にあっては、その中心的な場所であったように思います。またそれは蘇我氏の勢力圏を示しているようにも思います。
馬子塚五輪塔も、そのような土地柄の中に生まれた伝承の一つなのではないでしょうか。なお、石舞台の他に馬子のお墓と伝えられるものには、河内飛鳥の叡福寺南側の西方院付近の石塔などもあります。
この五輪塔には、越智氏所縁のものとする説もあるようです。
【3】 「軽寺」(08.3.21.発行 Vol.14に掲載)
前回お話しました石川精舎(本明寺)の五輪塔の辺りから西を見ますと、窪んだ地形の向こうに台地があり、やや南の方向にこんもりとした森が見えます。
この森が大軽町の春日神社の森で、境内には第15代応神天皇軽島豊明宮跡(古事記には、軽島之明宮)の伝承地碑があります。また、傍らには万葉歌碑もあります。
天飛ぶや
軽の社の 斎槻 幾代まであらむ
隠り妻そも 巻11-2656
(軽の社の槻のように、いつまで人目を憚って隠しておかねばならない
妻なのであろうか)
今回のテーマにしました軽寺は、この神社とそれに接するようにある法輪寺というお寺の付近に在ったとされています。
現在の法輪寺は、浄土宗のお寺で、本尊として阿弥陀如来坐像を祀っています。丈六の交差点を南に向かい、見瀬と書かれた交差点の次の信号から南東の住宅地の中の道を進みます。次の辻を左に(東)に折れ、大軽町の路地からこのお寺に行き着くことが出来ます。本堂前には割れた礎石のような石が散見されます。庭石として利用されているようでした。
伽藍様式などは、はっきりとしたことは分からないようですが、法輪寺境内に金堂及び講堂と推定される土壇が残っているとされています。現実には地上の建物によってよく見ることが出来ないのですが、北側にある春日神社などから見ると、法輪寺本堂の下は一段高くなっており土壇のようにも見えます。伽藍は、残された土壇からの推定によれば、回廊内の左に塔、右に金堂が建つ法隆寺式ではないかとする説があるようです。(橿原市教委)
軽寺の創建年代は明確にされていませんが、付近から飛鳥時代後期、あるいは白鳳時代前期と思われる古瓦(素弁八弁蓮華紋=軽寺式と呼ばれている軒丸瓦)が発見されていることから、7世紀後半の建立であると思われます。
橿原市教育委員会作成の案内板によれば、創建者は賀留大臣玄理で、推古天皇の時、唐から持ち帰った薬師如来像を本尊として軽寺を建てたとされています。渡来系の氏族「軽氏」の氏寺であったのでしょうか。
軽寺が最初に文献に登場するのは、日本書紀朱鳥元年(686)8月条で、軽寺に食封百戸を施入した記事になります。創建からかなりの年月を経過していますが、その間、軽寺がどのように存在していたかは分かりません。
白鳳・奈良時代を過ぎ、次に軽寺が姿を示すのが、第七回定例会のテーマになります「道長が見た飛鳥」とも関連するのですが、道長が最初の吉野参詣時のこととなります。御堂関白日記には次のような記載があります。
寛弘四年(1007)8月5日の条、 「終日雨降、宿軽寺、御明・諷誦、信布十端」。
付近には、飛鳥はもちろんのこと、久米寺や大窪寺などたくさんのお寺があるにもかかわらずこの軽寺を宿泊地に選んだのは、軽寺が規模を備えながら衰えることなく存続していたことを示しているのではないかと思われます。
さて、軽寺跡からは、見瀬丸山古墳や植山古墳が近くに在ります。そこから菖蒲池古墳などを回って、明日香村に入るのも面白いコースになると思います。
【4】 「田中宮・田中廃寺」(08.4.18.発行 Vol.18に掲載)
今回は、橿原神宮前駅と明日香村を繋ぐ山田道から、北に逸れた橿原市田中町付近をご紹介します。皆さんは、田中町に足を踏み入れられたことがありますでしょうか。甘樫丘から北西方向を見ると白く大きな建物と森が見えます。
その辺りが田中町になります。この集落には、舒明天皇の田中宮やその後に建てられたという田中廃寺が在ったとされています。
舒明天皇の主たる宮殿は岡本宮ですが、636年8月、岡本宮に火災が起こったために宮を移すことになります。その地が、この田中町付近であるとされています。仮の宮であったのか、本格的な宮地を定められなかったのか、この後、舒明天皇は厩坂宮や百済宮に移られ、そこで亡くなられました。
この集落には、興味を引かれる土壇と思われる場所が二ヶ所あり、それは、舒明天皇の宮殿や蘇我氏の一族である田中臣(稲目の子・馬子の兄弟)に関わる寺院の痕跡ではないかとされています。
1990年に病院建設に伴う発掘調査が行われており、田中廃寺と呼ばれる古代寺院の存在が確実になりました。この調査では、南北棟の総柱建物や東西棟の四面廂をもつ大型建物、また回廊状の建物が想定できる柱穴列なども検出されたそうです。フイゴの送風口・坩堝・鉄くず・銅くずなどの鋳造関係遺物や瓦が大量に出土した土坑なども検出されました。出土した瓦には、単弁蓮華文軒丸瓦(田中廃寺式)や単弁有子葉蓮華文軒丸瓦(山田寺式)重孤文軒平瓦の組み合わせが使用されていたようです。そのことなどから、創建は七世紀中頃ではないかと推測されています。また、田中廃寺は藤原京建設によって、その寺域を条坊に合わせて縮小していることも分かったそうです。
しかし、創建当初の伽藍や寺域は不明な点が多く、集落内に在る土壇がおそらくは金堂や講堂など中心伽藍ではないかと思われます。この土壇がある竹薮は、「天王藪」または「弁天の森」等と呼ばれています。また集落の東に在る法満寺と言うお寺には、塔心礎とも伝えられる礎石が残っています。
田中町の南では、近年、橿原神宮前駅付近と明日香村を結ぶ新しい道路建設が進められており、それに伴う発掘調査も頻繁に行われています。現在も、藤原京右京十一条三坊に該当する場所で、発掘調査が行われています。調査の結果、南北方向の道路遺構が見つかっており、西三坊坊間路と思われます。この道路をまっすぐ北に延ばしていくと、本薬師寺の南門の正面に行き当たります。天武天皇の発願による本薬師寺の下層にもこの道路の延長が存在したことで、藤原京の建設計画や建造が天武天皇の手によって始められたことの証明とされている道路になります。
ここから和田廃寺跡などを訪ねて、明日香村に向かうのも良いかもしれません。レンタサイクルなら、それほどの迂回にもならないように思います。そうそう、この時期は、田中町からまっすぐ東(明日香村方向)に向かうと、大きなレンゲ畑に出会えます。今年もレンゲの絨毯を見られるかも知れません。
【5】 「古宮土壇」(08.6.20.発行 Vol.24に掲載)
橿原神宮前駅から東への道筋(山田道)を辿り、明日香村に入ると、すぐに豊浦の集落に行き着きます。その少し手前左側(北)の田んぼの中に、一本の木が立っているのをご存知の方も多いと思います。バスだと豊浦バス停(広い駐車場)の付近になります。木の根方は土壇になっており、独特の趣を感じさせます。古宮土壇として知られるものですが、周辺を含めて古宮遺跡と呼ばれます。
6月上旬には、田植えのために周辺の田に水が張られます。近年、田植えを挟んで数週間の間、この場所はある時間帯に賑わうようになりました。夕景の撮影です。夕陽に染まる早苗田と古宮土壇のシルエットは、とても魅力的な被写体となります。
古宮土壇夕景 |
上の写真は、風人が撮りました2004年の写真です。どうぞご覧下さい。この頃は、まだ撮影に来る人もほとんどありませんでしたが、今は列が出来るほどです。狭い畦道ですので、農作業の邪魔や畦を壊さないようにしてくださいね。
さて、この古宮遺跡ですが、以前は小墾田宮跡ではないかと言われてきました。現在も推定地の一つとして案内板に書かれています。小墾田宮というのは、推古天皇が603年「豊浦宮」からこの「小墾田宮」へ移られ、628年に崩御されるまでの25年間を過ごされた宮です。小墾田宮は、宮の構造が推測できる初めての宮と言えます。書紀には、608年に隋の裴世清が来朝した際、宮の「庭」に迎えて、外交儀礼を行なったことが記されています。宮には、南門を入ると「庭」(朝廷)があり、その左右には「庁」(朝堂)が数棟建っていたことが分かります。
また、庭の奥には大門があり、さらに奥には大殿があったようです。天皇の住まい(内裏)と朝堂(朝堂院)が分離する原形だとも言われています。
しかし、1987年に行われた雷丘東方遺跡の発掘調査により、奈良時代から平安時代にかけての井戸跡が検出され、そこから「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器が出土しました。このことから、小墾田宮は、古宮土壇から飛鳥川を東に越えた雷丘東麓であるとする説が有力となりました。ただし、確認されたのは、奈良時代の小墾田宮ではあるのですが。
では、古宮遺跡は何だったのでしょう。周辺は、1970年に発掘調査が行われています。土壇の南側からは、7世紀初頭を中心に、7世紀前半にかけての遺構が検出されています。石組の小さな池と、そこから流れ出るS字状をした25m以上続く石組溝や、その周辺を囲む石敷きを含む庭園遺構が確認されました。これらの庭園遺構は、規模や様式からみて、宮や豪族の邸宅に相応しいものだと思われます。時期的にも、これらの遺構は、推古天皇の時代と矛盾するところはなさそうです。また、西側の駐車場周辺では、8世紀前半の掘立柱塀による大規模な区画施設と掘立柱建物群が検出されています。山田道が南を走る点など、小墾田宮とする状況証拠はあるようにも思われます。しかし、最近では古宮土壇を含むこの遺跡は、地理的に豊浦と隣接することや出土瓦の検討などからも、蘇我氏邸宅の苑池跡ではないかとする見方が有力となってきました。
古宮遺跡が庭園遺構だとするならば、古宮土壇は何なのでしょうか。庭園にあの土壇は不似合いのような気がします。
この土壇も発掘査が行われており、築造時期は、12世紀末ごろと判明しているそうです。平安時代末から鎌倉時代初期ということになります。土壇の周辺からは、1879年に金銅製四環壺が掘り出されています。現物は宮内庁が収蔵しているようですが、7・8世紀に作られた火葬蔵骨器と推定されるそうです。想像でしかありませんが、12世紀末に土壇は墓として作られ、当時は木の代わりに、五輪塔が建っていたのかも知れません。もし、五輪塔が残っていたならば、蝦夷塚などと、今日呼ばれていたかも知れませんね。
このようなことに心を遊ばせながら、古宮土壇の夕景を楽しむのも一興かと思います。皆さんも如何ですか。
【6】 「ヒフリ山」(08.8.1.発行 Vol.27に掲載)
まずは、下の写真をご覧下さい。
この小さな山(丘)が何処に在るか分かった方は、いらっしゃいますか?明日香村大字豊浦にあります。前回お話した古宮土壇の道路を隔てた南側の竹薮ですと言った方が分かりやすいかもしれませんね。和田池の北東に在る小山で、通常はバス道路(北)から見ますので、写真の景色とは全く違ったように見えます。
さて、今回この小山を取り上げるのは、この山の名称が気になるからです。「火振山」または「摩火振山」と呼ばれているようです。
飛鳥地域には、「ヒフリヤマ」「火振山」「フグリ山」「張山」「火振塚」やそれが転訛した地名がたくさん存在しています。これらは、何を意味するものなのでしょう。
両槻会第五回定例会「講演‐両槻宮をめぐる諸問題‐」において相原先生がお話くださった「倭京の”守り”‐古代都市 飛鳥の防衛システム構想‐」のお話を思い起こされた方もいらっしゃると思います。
「ヒフリ」の地名は、飛鳥を取り囲むように点在します。またそれらの多くは、重要な幹線道路を見下ろすように存在しています。
660年に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅びた後、百済遺臣の鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の動きが起こります。また、倭国に滞在していた豊璋王を擁立しようと、倭国に救援を要請します。我国の実権は中大兄皇子にあり、総数42.000人の大部隊を派遣しますが、大敗を喫します。
663年、この大敗を受けて、我国は軍事的な緊張感が高まります。北部九州の水城や防人の配置、また瀬戸内海の沿岸には、山城が次々と築かれます。そして、都は近江に移されることになります。
また、時代が過ぎて、壬申の乱後の天武政権は、「政の要は軍事なり」との記載もあることなどを考えると、飛鳥にも何らかの防衛上の施設があったことを想定するのは、容易いことのように思えます。
南の紀路方面には、桧前上山遺跡や森カシ谷遺跡など、軍事的な意図を持ったと思われる施設の遺構が発見されています。
豊浦火振山は、古代の官道「山田道」を見晴るかす位置にあり、飛鳥の北西端にあります。北から北西に視界が開け、飛鳥の喉元を押さえる重要な位置に存在します。 この豊浦の「火振山」は、飛鳥を取り囲む烽火台の一つだったのかも知れませんね。
風人のぶらぶら飛鳥散歩では、このような烽火台のネットワークも取り上げてみようと思っています。
(ただ、雨乞いの神事の中に、火振と呼ばれるものがあり、在所の山頂付近で松明を振る神事もあります。「ヒフリ山」の全てが、烽火台であったかどうかは、確証が持てない部分もあります。)
参考ページ :両槻会第五回定例会レポート
【7】 「豊浦寺」(08.9.5.発行 Vol.30に掲載)
風人の飛鳥ぶらぶら散歩も、漸く明日香村に入ってきました。今回は、豊浦寺にまつわるお話を書こうと思っています。
両槻会では、9月13日に、いよいよ第二回飛鳥検定を実施するのですが、この記事はその問1と他の数問の大ヒントになると思います。
ところで、両槻会でいうところの飛鳥時代は、推古天皇が豊浦宮に即位された592年から、藤原京の期間を含めて、710年の平城遷都までとしています。この約120年間は、我国が国家として成立して行く激動の時代であったと言えます。考古学や文献史学の研究成果から、私達はその一端を垣間見ることが出来、そこに1400年前と共鳴する心のときめきを覚えるのだと思います。
それでは、飛鳥時代の第一幕を覗いてみましょう。
明日香村の西端からバス路線を離れて、豊浦集落の路地に入ります。(橿原神宮前駅から飛鳥に向かわれる方には、狭いバス路線を歩くより、和田池畔を通るルートがお奨めです。)
路地に入るとほぼ同時に、豊浦寺跡に立つ向原寺の本堂の屋根が見えてきます。このルートを通ると、豊浦寺の裏(西)と甘樫坐神社との間の道に出てくることになります。
一般観光コースには入らないと思いますが、この甘樫坐神社境内には、飛鳥の謎の石造物「豊浦の立石」があります。大きな板石のように見えますが、何のためにいつから在るのかも含めて、全くの謎としか言いようもありません。ここでは、毎年4月に古代に所縁を持つ「盟神探湯神事(くがたちしんじ)」の再現が行われています。
神社に寄り道をしてから、向原寺を訪ねてみましょう。
向原寺 |
豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられており、境内の発掘調査から、下層に古代寺院の存在が明らかになっています。境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦落の集会所付近に存在したことがほぼ明らかにされています。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置的に塔と確定するには疑問も残ります。
これらのことにより、豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、塔の位置などから、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと私は思っています。
豊浦宮跡碑 |
豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13年(552)10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが書かれています。
また、元興寺縁起併流記資材帳によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、15年には桜井寺と改称し、推古元年(593)等由羅寺へと変わって行ったとされています。 両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。 |
推古11年(603)冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。
創建時講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元できるようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、特殊な建物であったことが容易に想像ができます。
バラス敷は、講堂の下層全面から金堂下にも及んでいたようです。また、この遺構時期と思われる6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されています。
これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が大きいものと推測できます。また、向原の家の一端を見せているのかもしれません。
豊浦寺遺構 |
向原寺本堂横には、この推古朝遺跡の案内が書かれており、本堂横から見学が出来るようになっています。遺構面を見られる貴重な場所ですので、飛鳥周遊の中心地ではありませんが、ぜひ行き帰りに立ち寄られることをお奨めします。 |
参考ページ:豊浦宮 ・ 豊浦寺跡
【8】 「芋峠・宮滝行 1」(08.12.5.発行 Vol.37に掲載)
11月22日、明日香村大字島庄の嶋宮跡を出発して、芋峠越で吉野宮滝までの20数キロの旅をしてきました。今回から2~3回の予定で、そのレポートを書いてみます。
歴史に興味をお持ちの方は直ぐにお分かりになると思いますが、この旅は壬申の乱の序曲となる天武天皇の吉野落ちを追体験する行程になります。
天智10年(671)8月、天智天皇は病に倒れました。行く末に不安を抱く天智天皇は、10月17日大海人皇子(天武天皇)を呼び、譲位を打診します。大海人皇子は病と称して、「皇位は皇后に、皇太子は大友皇子に任せるべきものです。私は今日出家して、天皇のために祈ります。吉野に籠もって修行したい。」と告げました。
この一連の経緯には、様々な意味合いが隠されているようでもあります。天智天皇や大海人皇子、またそれを取り巻く者達の真意は推測するしかないわけですが、ここに時代の大転換期の予兆を感じ取ることが出来ます。
壬申の乱を正史として書きとどめる書紀の編纂が、天武天皇の命によって始まっていることも考慮されるべきだと思いますし、表現を変えれば天武天皇の正統性の強調こそが書紀編纂の大きな課題の一つだったようにも思われます。そのことを充分に考慮しなければならないのですが、しかし、そこに展開される大スペクタクルドラマは、後世の私達の心をも熱くたぎらせるものがあります。
天智10年(671)冬10月17日、皇位に就くことを辞した大海人皇子は、即日出家して僧形となり、武器を官司に納めます。19日には、病に伏した天智天皇の近江大津宮を去りました。左右の大臣など近江朝廷の人々が宇治まで見送っていますが、中には「虎に翼を着けて放すようなものだ」と言う人もあったと書紀は伝えています。
大海人皇子に付き従ったのは、鸕野讃良皇女(持統天皇)・草壁皇子・忍壁皇子と、朴井連雄君・村国連男依・和珥部臣君手など後に将軍となって活躍する者を含め、近親に仕えた舎人達おおよそ30名ばかりと、身の回りの世話をした女孺達が10名ばかりであったと思われます。総勢50人ほどであったでしょうか。
大海人皇子の一行は、当日19日夕には嶋宮に入ります。翌20日には、吉野宮滝に到着していますが、嶋宮・吉野間の行程に関しては、書紀は何も伝えていません。
旧暦10月20日は、今年は11月17日にあたりました。22日は5日遅れになりましたが、同じ季節の中で芋峠を越えてみようと思いました。
万葉集に天皇御製歌とされている歌があります。
万葉集 巻1-25
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
この歌は、実際にはいつ誰が詠んだものか確証がないそうですが、天武天皇が吉野への峠越えの心境を詠んだものだとされています。彼等は、どのようにして、どの峠を越えて行ったのでしょうか。
明日香島庄から吉野宮滝への道は、竜在峠・芋峠・壷阪峠・芦原峠などを越える方法と、巨勢を迂回する車坂峠越えなどが考えられますが、芋峠越はその最短ルートとなります。
嶋宮・宮滝関連地図(クリックで拡大) |
近江からの追手があるかも知れない状況ですから、迂遠な巨勢ルートを通るとは思われません。また芦原・壺阪の両ルートも、さしてメリットがあるとも考えにくいように思います。一方、竜在峠は、冬野に登ってからの南下となることと(入谷経由竜在峠越え説もあるようです)、標高差が大きいなどの理由で、やはり芋峠ルートには劣るように思えます。全ルートを実際に歩いてみて、地理的な要素だけでルートを選択するなら、やはり標高差はややあるものの最短の芋峠越えを選ぶのではないかと風人は思っています。
午前9時40分、石舞台前でバスを降りた風人は、まずは栢森を目指して歩き始めました。 (つづく)
【9】 「芋峠・宮滝行 2」(09.1.4.発行 Vol.40に掲載)
前回に引き続き、芋峠道の話を続けます。
一般的に奥飛鳥というと、稲渕の棚田や女綱くらいまでという認識だと思うのですが、明日香村は吉野町と境界を接していますので、南東部は予想外に深く広いのです。芋峠は、吉野町との境界にもなっていますので、南東方向にだらだらとかなり登って行くことになります。
栢森集落の奥までは棚田風景や飛鳥川の瀬音を聞きながら、足の調子を整える準備運動区間になります。石舞台から祝戸・阪田・稲渕・栢森と集落を抜けて行きます。この間、おおよそ4キロになります。
当日は、飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社前の紅葉を期待していたのですが、まったく紅葉せず枯れて行くようでした。淵に覆いかぶさる紅葉は、さぞ綺麗だろうと思うのですが、まだ一度も見る機会はありません。栢森集落の加夜奈留美命神社に到着したのは、午前10時30分過ぎでした。良いペースです。神社には寄らず、そのまま小峠の取り付きを目指します。集落を抜けると紅葉のトンネルがあるのですが、こちらは黄色くなる種類のようです。時期的に遅かったのか、ほとんどがすでに落葉していました。
芋峠旧道を越えるには、まず小峠を越えなければなりません。これが結構きついのです。取り付きから突然の急坂です。真直ぐな登りがあり、登りきった所からいよいよ山道に掛かります。この日は雪も雨も無く(^^ゞ、絶好のハイキング日和なのですが、登っていると汗が吹き出てきます。大汗かきの私には予期していることなので、身体にはタオルを当てて汗を吸収するようにしています。汗冷えが嫌なのでこのようにしているのですが、小峠を登りきるとそのタオルもぐっしょりでした。峠頂上で一息入れることにしました。ここからは全く見通しはありません。ただ高取山の山容が僅かに見えるだけです。しかし、その姿に登ってきた高さをうかがう事が出来ます。
小峠頂上 |
小峠からは一旦下り、車道との合流地点にある役行者像の所に出てきます。せっかくきつい登りを過ぎたのですから、下りたくはないと思うのですが仕方がありません。行者像からは、また車道と分かれて山中の細い道を登ります。小峠ほどの斜度は無く、のんびりとした山歩きの風情となります。途中の平坦なところには、この芋峠道の往来が盛んだった頃の名残の「峠の茶屋」の痕跡があります。三軒の茶屋が在ったようで、人々の足を休めさせたのでしょう。湧き水の井戸跡も残されています。ここまで登ってくると頂上はもう一息です。正確に言うと、現在の旧道芋峠道には峠らしい切通や頂はありません。はっきりとしないのです。直ぐ下に県道が造られ、地形が変わっているように思います。芋峠頂上の道標はあるのですが、行ってみても何処がそうなのかはよく分かりません。尾根道は、東に竜在峠へと登って行きます。
芋峠頂上 |
峠頂上付近の日当たりの場所を選んで、昼食にすることにしました。11時25分でした。おにぎり2個の簡単な昼食です。大海人皇子達は、もっと早い時間に出発し、昼には峠をとっくに通過していたことでしょう。この頃には、もう吉野川に出ていたかも知れませんね。
芋峠頂上は、標高約500mを測ります。二上山雄岳とおおよそ同じ高さになりますので、低山登山の雰囲気なのです。峠からは、尾根伝いに高取城方向に林道が伸び、高取城までのハイキングも吉野の山々を見ながらの良いコースになります。特に秋には、高取城の紅葉と合わせて素晴らしい秋風情を楽しむことが出来ます。
昼食後、汗で濡れてしまった下着をすっかり着替えて再出発です。下りコースは旧道が分からないので、県道を吉野町千股に向かって下っていたのですが、途中から西の谷に下りる道があるようだったので行ってみる事にしました。以前から芋峠の西側に急峻な峠道があったという話を聞いていたのですが、どうもその谷筋に途中から下りて行く感じです。地形図を見ていても、山の感じを見ていても、手入れされた山ですから林道や山道が在るような雰囲気です。取り付きには案内の立て札がありました。降りると手入れされた山道で、あっけなく谷の林道に出ることが出来ました。ただ、この道が芋峠道かどうかは分かりません。下流ではそうかも知れないとも思いますが、上部は別のルートであったように感じました。感じでしかありませんが。(^^ゞ
谷筋の薄暗い林道です。陰鬱な感じがしました。県道を歩くと吉野の連山が遠望出来、歩くにはアスファルト路面で嫌なのですが、のんびりウォーキングを楽しむには県道が良いように思いました。ただ、吉野落ちの追体験には、薄暗い谷道が似合っているのかも知れませんね。
林道を進むと千股観音堂付近で、県道と合流することが出来ました。ここで少しお茶タイムです。12時30分。さて、最大の難関芋峠を越えました。 次号では、いよいよ宮滝に向かって足を進めます。 (つづく)
【10】 「芋峠宮滝行・最終回」(09.1.30.発行 Vol.42に掲載)
芋峠道宮滝行もいよいよ最終回です。
標高500mの山道を越えてきた足は、やはり疲れが出てきます。千股観音堂の横は公園になっていて、休憩するには格好の場所となります。長い休憩は必要ありませんが、ペットボトルのお茶を一口飲み、ラップタイムの記録を携帯にメモ書きするくらいの休息を取りました。
ここからは、だらだらと吉野川に向かって下って行くのですが、千股の名が示すように道路が交差しています。千股の地名は、「チマタ=衢・巷・術」を表していると思います。
参考地図1 |
今回の宮滝行でも、この後の道の取り方は大きく分けて二つあります。吉野川に出て、川に沿って東に進む方法と、現津風呂ダム湖付近に出て山越えで宮滝に入る方法があります。 参考地図2の(3)で示したコースになります。
参考地図2 |
実は、このコースは明日香村史が宮滝入りのルートとして掲載しています。この道を歩くことも考えたのですけど、脚力に自信がないので、今回は吉野川に沿うルートを歩くことにしました。
吉野を発って東国に出立する時に、日本書紀は津風呂川の記事を書いています。津風呂湖が無かったときには、ダム湖の辺りの低地が川であったのでしょう。宇陀方向に抜けるとするなら、菜摘から津風呂川に出たのは肯けます。
しかし、宮滝へ向かうのであれば、当時の吉野川の状況が分からないので想像でしかないのですけど、やはり吉野川沿いの道が自然ではないのかと私は思います。一度長い下り道を降りてきて、低いとは言え再び山の中を歩くでしょうか。それよりもスピードアップ出来る川沿いの平坦なコースを選ぶのではないかと思うのです。川沿いに、ある程度整備された道があったと仮定しての話ではありますが。宮滝は古くから離宮的な存在として整備されています。かならず、川沿いに平坦な道路もあっただろうと思っています。
単調な道を下り、漸く上市の町外れに着きました。参考写真のお家は、前を東西に走る伊勢南街道の旅籠「角屋」さんです。
上市町外れ |
伊勢南街道は、紀州街道や和歌山街道などとも呼ばれる街道で、吉野川・紀ノ川に沿って紀州藩の参勤交代道であった道です。この街道を左(東)に向かい、まずは大名持神社を目指します。
背山妹山 |
川を挟んで立つ山は、(写真参照)右(左岸)が背山、左(右岸)が妹山と名づけられています。歌舞伎や浄瑠璃の人気演目として知られる「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の舞台となる場所です。「妹背山婦女庭訓」は、蘇我入鹿など乙巳の変に関わる飛鳥時代の者達が登場します。ただし、かなり好い加減な設定や人物像となっています。
妹山は、妹山樹叢として天然記念物の指定を受けており、原始のままの姿を残しています。植林された山を見慣れている目には、様々な樹木で鬱蒼とした妹山の姿は独特の姿とともに異様にさえ見えます。この山が原始の姿を残せたのは、妹山は忌山(いみやま)だったからだと言われます。忌山というのは、入ることをタブーとされていた山ということだと思われます。
山の麓には大名持神社が鎮座し、山を神域としています。祭神は、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)・須勢理比羊命(すせりひめのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
この日、境内は銀杏の黄色と紅葉の真赤な色合いがとても綺麗でした。写真を撮りながら少し足を止め、秋の風情を満喫しました。(13時25分)
神社の東側から、妹背大橋を渡りました。本来は、参考地図2(1)の吉野川右岸を歩きたいのですが、歩道の無い国道になってしまいます。材木運搬の大型車なども多いので、左岸の(2)の道を歩くことにしました。こちらの道は、時折車が通る程度でマイペースで歩けます。しかし、最大のリスクは、バス路線を外れることです。リタイアが出来なくなるので、最初の宮滝行では、この道を選択するのに随分悩みました。
幾つかの集落を通って東に進みます。進行方向左側が吉野川になるのですが、川はあまり見えません。
暫らく進むと、関西電力の吉野発電所がありました。水力発電所の激しい水音が聞こえてきます。ときたま景色が開けると、眼前に吉野川の景観が広がり疲れを癒してくれます。宮滝に近づくにつれ、次第に川の様子が変わってきます。大きな岩が川中に見えたり、蛇行が大きくなっているのも分かるようになりました。宮滝までの最後の集落を過ぎると、関西電力の水路橋がありました。約60m×5mの隋道です。大滝の辺りから繋がっているようですけど、唐突に大きな建造物を見ると驚きます。
小さな曲がり角を出たとたんに、宮滝の川淵が見えました。来ました~♪ついに宮滝まで来ました。ここまでの疲れも飛んで行ってしまうくらいの景観です。吉野川独特の緑の水、巨岩の川岸、松の緑・・。見れど飽きぬ宮滝です。(14時25分)
持統天皇を筆頭に、飛鳥から奈良からたくさんの天皇やその供人がこの地に通いました。何故彼等がこの地を訪れたのか、その一端が垣間見えたような気がしました。きっと飛鳥人達も、旅の疲れを忘れてこの景観に見とれたに違いありません。
宮滝の淵瀬1 |
もちろん、彼等がこの地を訪れたのは、景観ばかりがその目的ではなかったでしょう。しかし、大きな理由の一つであったに違いありません。それは万葉集などに残した彼等の歌を見れば一目瞭然です。
展望所で足の疲れを癒してから、柴橋を渡りました。なんという絶景でしょう。手すりにもたれて、橋の上からまたまた宮滝の渕瀬を飽きずに眺めました。
宮滝と言いますが、いわゆる滝はありません。滝と言うのは、水が滾(たぎ)る瀬のことです。「滾る」は、辞書を引くと「水などがわきかえる」、「激しく流れる」、「さかまく」と言う意味になっています。ですから、宮滝は水が滾る宮処という意味だと思います。宮滝を神仙郷に例えることもありますが、まさにその趣のある場所です。大海人皇子も供人達も共にこの景色に一瞬ではあるでしょうけど、全てを忘れて見入ったことでしょう。
帰りのバスの時間には、たっぷり一時間以上の時間を見ていたので、橋の反対側も充分に堪能しました。西側とはまた違った趣を見せています。こちらは静かな淵を作っています。深い緑の水が、巨岩の間を静かに流れています。
宮滝の淵瀬2 |
私が訪ねた時期は秋も深まった時期ですが、四季折々に、きっとまた違った姿を見せるのでしょう。シーズンを変えてまた訪れようと心に決めました。30回を超える訪問を記録した持統天皇も、心のどこかでは、そのように思ったのかも知れません。
参考地図3 |
宮滝の集落を歩いてみることにしました。遺跡は、集落の下層に広がります。所々に石柱と説明板が立てられていました。集落の中は、いたって普通の田舎です。往時を偲ぶのは想像力を掻き立てる以外にはありません。バス停で時間を確認してから、吉野歴史資料館に向かいました。
15時45分、充分に宮滝を堪能した後、バスに乗車しました。9時40分に明日香村島庄を出発した旧道芋峠越え宮滝行は、約6時間(ラップタイム4時間45分)
約20kmの旅となりました。
「歩いて実感する」をテーマに続けている私の古道歩きも、2度目の旧道芋峠越え宮滝行を経験することが出来ました。だから何が分かったのかと聞かれますと、返答のしようも無いのですが、自分が得た充実感は何ものにも代えがたい体験でした。ただそのためだけに、これからも古道を歩きたいと思っています。
長い旧道芋峠越え宮滝行を読んでいただきまして、ありがとうございました。
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