両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



風人の

飛鳥時遊録



 真神原風人
飛鳥三昧



両槻会事務局長・真神原風人のマニアック飛鳥探訪記。
一般的な飛鳥観光コースから離れたマニアックな道中をご案内します。

特別回 忍坂街道探検レポート
第14回定例会 風人流レポート
甘樫丘東麓遺跡の現地見学会レポート
掃守寺妄想紀行
太子道踏破レポート
藤本山
真夏の特別展巡り
飛鳥川
定例会舞台裏
10 桜花咲く飛鳥ウォーク(第43回定例会事前散策)
11 飛鳥の地形を確かめてみましょう
12 芋洗地蔵
13 藤原京十一条二坊 ・四坊
Vol.42(09.1.30.発行分)までのぶらぶら探訪紀はこちら♪




【1】 「特別回 忍坂街道探検レポート」 (09.5.1.発行 Vol.50に掲載)

 4月18日、晴天の下で特別回「忍坂街道探検」を無事に終えることが出来ました。今回の「ぶらぶら散歩」では、そのレポートを書いてみようと思います。

 両槻会のイベントに参加される皆さんは、遅刻をしたり、ぎりぎりに来られる方はほとんどいらっしゃいません。余裕を持って集合していただいています。風人は、集合時間の40分前に受付設置のために行ったのですが、同じ電車に数名の方が乗っていらっしゃったし、すでに来られている方もいらっしゃいました。 ご挨拶の後、早速に受付開始です。当日スタッフの皆さんも、テキパキと動いてくださって、スムーズな出足となりました。

 今回は、桜井市の観光ボランティアガイドさんにご案内をお願いしました。風人も初めての場所があったので、ガイドさんが居てくださるのは、本当に心強いです。
 タクシー4台に分乗です。先頭車両にガイドさんに乗っていただき、一路「女寄峠・笠間辻バス停」に向かいました。20分ばかり掛かったでしょうか。下車後、軽く準備運動をして、いよいよウォーキングの始まりです。
 先頭は、ガイドさんにお任せして、風人は珍しく最後尾を歩くことにしました。

 少し下った所から、早速の山道です。一人なら、まず入らないだろうと思う分岐の方に折れました。特別回にして良かったと思いました。(笑)


 急坂を登って行くと、まず花山塚東古墳がありました。半壊しているようですが、磚積の石室が開口しています。榛原石を磚積にした古墳を初めて見ました。レンガ状に一定の大きさに加工してあります。もっとアバウトな加工だと思っていたのですが、とても綺麗でした。そこからさらに山中に入って行くと、西古墳がありました。国の史跡にも指定される有名な古墳ですが、ここまで見学に来るのは大変です。頑丈な檻に囲まれているのですが、崩壊や人的な損傷を防ぐには止むを得ない処置なのでしょうか。残念ですが、檻の外からの見学となります。写真では見ていたのですが、大きさを実感出来ないでいました。一見した感想は、「こんなに小さいのか!」でした。珍しいとされる奥室も、本当に小さく見えました。棺を入れられるのか?・・。ひょっとして火葬していたのか?・・。などとも思うようなサイズに見えます。繊細な感じの造りになっていました。漆喰が全面に塗られていたとのこと、彩色とか壁画は無かったのでしょうか。


花山塚東古墳

 再び国道166号線に戻り、西に下って行きます。この行程は、国道以外にルートはありません。宇陀市と桜井市を結ぶ幹線道路なので、交通量も結構有ります。注意しながらのウォーキングになりました。
 暫らく進むと、北から国道を潜り抜けて粟原の集落に抜ける道に出ることが出来ました。そこからは、集落の中の坂道を再び上ることになります。今回の忍坂街道探検では、このように粟原川の両岸の尾根上の遺跡や史跡を訪ねますので、喘ぎながらアップダウンを繰り返すことになります。ゼイゼイ言いながら辿り着いた粟原寺跡では、満開の八重桜が出迎えてくれました。新緑と八重桜に癒されます。


粟原寺跡の新緑と八重桜

 塔跡とされる礎石群の中に、一際大きな心礎がありました。動かされているのか、遺構の中心部分から外れているように見えますが、他の礎石が動いている可能性もあります。浅い切り込みの排水溝が付いていました。深い知識などありませんが、渡来系?などという疑問も起きたりしました。創建時期に流行っていた様式なだけかも知れませんが。(^^ゞ


塔心礎? 粟原寺跡

 金堂跡とされる礎石群は、かなり動かされているようです。というより、適当に四角く置かれたようにも見えました。角に在るはずの物が、真中付近に在ったりしています。散在していた礎石を集め置いたのではないでしょうか。付近を見てみると、人工的に造成された数段の平地があり、礎石も散見されます。塔・金堂以外にも何らかの堂宇が在ったようにも見えました。


粟原寺跡

 レンゲの咲く段々畑の道を下って、粟原地区の公民館広場へ戻ります。ここで、お弁当休憩です。懐かしい二宮金次郎の銅像がありました。今どき、本を読みながら歩く子供は、車に轢かれますから怒られます。参加者談(笑)
 それぞれに木陰を求めて、山桜の散る中でのお弁当になりました。ブランコ遊びやおやつの交換会の後(笑)、ムネサカ古墳へ出発です。
 運送会社の敷地を、お断りして通過。再び山中に古墳を探します。かなりの登りです。瞬く間に、国道がはるかに下方になりました。ムネサカ1号墳は、明日香村の岩屋山古墳と同じ規模の石室を持っています。内部は、蝙蝠が静かに寝ていました。そして、起こしてしまいました。(笑)立派な古墳です。ただ、岩屋山のような感動するほどの精緻さはありませんでした。石の表面加工の差だと思います。それは、被葬者のランクを物語っているのかなと思ったりしました。


ムネサカ1号墳

 国道に下ります。そして、反対側の尾根に在る越塚古墳を目指します。もう何度目の上りでしょうか。ふー!ぼちぼち、参加者の足取りが重くなってきました。大字下り尾の集落に上り始める頃に、粟原カタソバ遺跡群があります。当日説明は出来なかったのですが、5世紀後半から7世紀中頃にかけての長期間にわたる住居群があったようです。とりわけ飛鳥時代の建物跡は、石垣を伴う大型の掘立柱建物で、一般住宅ではない様相であるとされています。実は、後で知ったのですが、このカタソバ遺跡の発掘に、飛鳥遊訪マガジンの寄稿者として皆さんご存知の近江俊秀先生が関わっておられました。集落が、山深い、耕作地の少ない地区に営まれたことに注目されて、平野部と宇陀を結ぶ古道との関連を述べられています。もう少し早く知っておれば、より深い話を配布資料に収録出来たのにと残念に思いました。風人の勉強不足です。m(__)m ごめんなさい。

 粟原カタソバ遺跡に関連する古墳群の2基に寄道をして、越塚古墳に向かいました。最後の坂道は、まことに体力を奪いました。
 再び蝙蝠の歓迎を受けつつ見学した石室は、3段に持ち送りされており、天井の高い立派なものでした。棺底と思われる石が2枚残っています。また、組合せ式石棺の一部と思われる石材も残っていました。


越塚古墳

 天王山古墳へと、集落の道を下りました。この辺りで、2本目のペットボトルが残り僅かになりました。頭の中は、ウォーキング終了後の生ビールで占められ始めました。(笑)

 天王山古墳は、古墳マニアならずとも知る崇峻天皇陵だとされる古墳です。45mほどの一辺を持つ方形の古墳で、石舞台古墳の小振りなものと思えば良いかと思います。暗殺された天皇として知られる崇峻天皇ですが、事変の黒幕・馬子の墓よりも規模が小さいというのは、物悲しさを感じてしまう部分でもありますね。
 三度蝙蝠の歓迎を受けつつ、石室内も見学しました。有名な綱掛突起のある石棺も見てきました。実物ならではの迫力を感じます。


天王山古墳

 この後は、舒明天皇陵・鏡女王墓・大伴皇女墓と巡りましたが、これらは宮内庁の管轄や多武峰談山神社の管理下に置かれ、柵の外からの見学に終わりました。ただ、舒明天皇陵は、その名(段ノ塚古墳)のごとく、台形状の3段の上に2段の八角形の墳丘を積み上げているのを確認しました。側面から見ると、八角 (円墳状)の上部2段がよく見えます。
 鏡女王墓では、満開の八重桜が墳丘を飾っていました。



 石位寺の拝観予約時間が迫っていたので大急ぎとなりましたが、ほぼ時刻どおりに着くことが出来ました。他の団体さんが見学されていて、収蔵庫は開けられた状態になっていました。三角おにぎり様の石仏を見るのは久しぶりです。以前に拝観した時とは、かなり印象が変わりました。粟原流れと言い、額田王の念持仏と言われ、白鳳時代に作られた最古の石像浮彫像だと言われます。貴重な物を拝観出来た良い機会でした。

 忍坂街道探検も、石位寺を出ると、残すところは忍坂古墳群の移築公園だけとなりました。朝倉台住宅の外側を回りこむように駅に向かうと、小さな公園の外周部分に4基の古墳が移築されていました。珍しい石室平面を持つ8号墳・9号墳を見るのを楽しみにしていたのですが、破壊されたものを移築しており、残念ながら雑草も生えていることもあって、一角がかろうじて分かる程度でした。その角度から六角形であることを想像するには、もはや疲れ過ぎていたかもしれません。

 午後4時20分頃に、近鉄朝倉駅に到着しました。アップダウンが多く疲れましたが、本当に楽しい特別回となりました。最後になりましたが、ご協力くださいました桜井市観光ボランティアガイドさんに、心よりのお礼を申し上げ、レポートを終了することにします。ありがとうございました。

 遊訪文庫内 飛鳥咲読 の 忍坂街道探検 を参照ください。

 yukaさん作成のレポート
 sachiさん作成のレポート
 P-saphireさん 作成のレポート



【2】 「第14回定例会 風人流レポ」 (09.5.29.発行 Vol.52に掲載)

 第14回定例会も、たくさんの参加者を得て、盛会の内に終えることが出来ました。資料レポートもサイトに掲載しましたので、どうぞご覧下さい。

 さて、今回の飛鳥話1ですが、風人が見た「野守は見ずや 名柄の遊猟」を書いてみようと思います。ご存知の方は多いと思いますが、両槻会のスタッフは趣味や視点がバラバラです。だからこそバラエティー溢れる企画が生まれるのですが、風人の場合、全く植物関係には疎く、古代史や考古学の方面に興味がいきます。そこで、今回のテーマを風人が扱ったらどうなったかということをお話してみたいと思います。

 薬学や利用法としての今回の資料は、仲間が言うのはどうかと思いますが、大変良く出来ています。ところが、風人の趣味に関してだけ言えば、少し物足りないところがありました。
 まず、資料の中で示された「両」「斤」などの度量衡の単位についてです。「牛膝十三斤」と書かれた木簡資料を例にとると、「牛膝(ゴシツ)」という生薬名と「十三斤」という量が書かれています。風人は、「牛膝」の説明は定例会資料で分かるのですが、「十三斤」とはどの程度の量なのかが分かりませんでした。それで、木簡に書かれた文字の説明としては、上手く実感することが出来ませんでした。

 そこで、藤原京の時代の度量衡を調べてみようと思いました。資料として探せるのは、大宝律令になります。大宝律令そのものは残っていませんが、一部が逸文として令集解古記などの他文献に残存しており、また757年に施行された養老律令が大宝律令を継承しているとされています。

 大宝律令の規定によれば、単位として「斤(きん)・両(りょう)・銖(しゅ)」などがあったようです。
 資料に使われた「十三斤」を例にとって説明してみます。実際の大宝律令には、黍(きび)百粒の重さを一銖とし、二十四銖で一両、十六両で一斤としているようです。ですから、「十三斤」は、100×24×16×13になりますから、「黍499,200粒の重さ」と言うことになりますが、やはりこれでは実感出来ませんでした。(^^ゞ
 大宝律令では、一両は、中国隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41~42gくらいであったそうです。(唐代になり減少し37.3gとなり、後に日本でもこれに近い値となったとされています。)
 では、これで計算してみましょう。41g×16×13=8,528g(約8.5kg)になりました。ちなみに一銖(黍100粒)は、約2.93gになります。

 「牛膝8.5kg」をもう少し見てみましょう。「牛膝」はイノコズチの根から採れる生薬の名前ですから、乾かした根だけの重量となると、8.5kgは、かなりの量になるのではないかと思います。とても個人が使う量ではないでしょうね。そのことが、重要な推測を生むかもしれません。
 「一斤」=656g、「一両」=41g、「一銖」=2.93g 

 さて、今回扱った木簡資料の大部分は、飛鳥藤原京発掘調査の第58-1次調査で出土した木簡です。藤原宮西面南門の内側の大きな溝から発見されています。


第58-1次木簡出土地点付近(北から)

西面南門復元柱列(南から)

 両槻会でも講演をしていただきました市大樹先生は、これらの多くの木簡は、物資の通行証とも言うべき、「門牓(もんぼう)木簡」であるとされ、物資を宮外へ搬出する場合、中務省が門衛府の門司に宛てた門牓を必要とする仕組みであったとされています。では、十二門ある藤原宮の門の内、なぜこの西面南門の付近から薬草名の書かれた木簡が出土するのでしょうか。そのことに、非常に興味を覚えます。

 大宝律令では、医薬の制度が布かれ(医疾令)、その中には大学があり、また典薬寮を設け、薬園師、薬園生の官がおかれています。診療は医師・針師・按摩師のほか、呪禁師も居たようです。
 平安宮では、典薬寮は西南部に置かれており、平城宮でも同様に西南部に置かれていたことが推測されているようです。藤原宮でも、やはり同様に配置された可能性があるように思えます。それが上記した「重要な推測を生む」にあたります。 第14回定例会で扱った木簡の他にも、同調査からは薬用に用いられたと見られる鉱物名「石流黄□」・「黒石英十一斤」などと記した木簡や、「病」・「外薬□(外薬寮=典薬寮の前段階の役所名)」と書かれた木簡も出土しています。この西面南門付近に、典薬寮という官衙が在ったのではないでしょうか。

 藤原宮内裏東外郭に沿う大きな南北溝からも薬草名が記された木簡が出土し、また宮の北方には「テンヤク」という小字名が残っているようです。役所が移転しているのかもしれませんね。
 同溝からは、今回の定例会でも取り上げました「受被給薬/車前子一升○西辛一両/久参四両○右三種∥・多治麻内親王宮政人正八位 下陽胡甥」の木簡も出土しています。
 多治麻内親王は、父・天武天皇と母・氷上郎女との間に生まれた皇女です。高市皇子の妻であったとされることが多いのですが、書紀には関連する記述は無く、万葉集からの推測によるものです。異母兄弟の穂積皇子との不倫関係がよく取りざたされますね。
 木簡から読み取れることによれば、多治麻内親王の宮に仕える執事のような存在の「陽胡甥」が典薬寮に薬を請求しています。「車前子=オオバコ」「西辛=ウスバサイシンなど」「久参=クララ」の三種を請求したわけですが、薬効を見てみると、消炎・利尿・止瀉・鎮痛・麻酔・平喘・鎮静・健胃・解熱・駆虫剤となります。腹痛とも思えますが、風邪の初期症状にも効きそうですね。如何なものでしょうか。単位が「両」なので、大した量ではないようです。

 このように見てくると、風人にはより取っ付きやすいのです。(^^ゞ その上で、植物その物を実際に見てみると、いよいよ分かりやすくなります。これは、植物が苦手な風人 の戯言であります。
 いろいろな見方やアプローチがあって良いのだと思います♪ だから両槻会は楽しいのですよ♪



【3】 「甘樫丘東麓遺跡の現地見学会レポート」 (09.7.4.発行 Vol.56に掲載)

 今回の飛鳥話1は、飛鳥咲読とも関連させて、先日行われました甘樫丘東麓遺跡の現地見学会の模様をレポートしようと思います。

 6月21日、前日までの雨予想が覆り、晴れ間も出て蒸し暑い一日となりました。甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第157次調査)現地見学会の現場は、木立に囲まれており、蒸し風呂のような状態の中で大汗をかきながらの見学となりました。
 マスコミ報道では、「蘇我邸の城柵跡?奈良の遺跡で7世紀の石垣35mが出土」・「蘇我入鹿邸の“城柵”」か!甘樫丘東麓遺跡から新たな石垣」など、いつもながらにセンセーショナルなタイトルが目立ちました。

 11時からの現地見学会には、終日で1,100人の見学者があったそうです。風人も見学会の1時間前には会場を訪れ、今回注目された石垣を興味深く観察しました。


石垣

  今回の調査区のほぼ中央付近に、幅8m、深さ1.2mの谷地形があり、石垣は、東側の岸に積み上げられていました。南端部では50度の勾配があり、高さは約1mを測ります。クランクする部分や階段状の石列、開口部20cmの水口施設がありました。この石垣は、2006年度に検出された石垣の延長部で、総延長が約34mであることが分かりました。石垣は、今回の調査で検出された部分で途切れており、最南端だと考えられました。
 石垣は、7世紀中頃に大規模な整地によって埋められています。このあたりが、歴史ファンにとっては、蘇我本宗家の滅亡時期と相まって、興味が尽きない部分であるわけです。

 また、石垣の他に調査区の南東部分には、石敷遺構がありました。幅1.5~3m、長さ8~9m分が検出され、西側には底石の無い溝が沿い、東の山側は、端を揃えて縁取り状に石が並べられていました。北西方向に尾根に沿って遺構が広がることが予測されています。


石敷き

 調査区の北端では、土器を廃棄した土坑があり、ほぼ完形な物を含めて50点を超える土師器・須恵器が出土しています。これらの土器は、その形式から7世紀中ごろの物だと判断されています。


出土土器

 このほかには、7世紀後半の長さ12mの石組溝や土器埋設遺構や柱穴列も検出されました。

 奈文研公式サイト内学術情報リポジトリのページ(PDF形式)を参照してください。

 さて、この甘樫丘東麓遺跡が、本当に蘇我入鹿の邸宅であって、石垣が日本書紀に書かれる“城柵”であるのかどうかを、少し考えてみたいと思います。甘樫丘東麓遺跡は、これまでの発掘調査で、遺構の年代をI期(7世紀前半)、II期(7世紀前半から中頃)、III期(7世紀末)に3区分して考えられています。その間には、大規模な造成が繰り返し行われており、特に7世紀中頃には、建物の建て替えなどを含めた度重なる土地利用の変更が行われたようです。


遺構変換・参考図

 これらのことは、645年の乙巳の変(大化改新)の影響を受けたものだと考えられます。これまでの調査では、焼土や壁土や炭化した木材などが検出されており、伝えられる蘇我邸炎上を思い起こされます。

 しかし、これまでの調査では、甘樫丘東麓遺跡が蘇我氏の邸宅であるとは断定出来ていません。
 その一つの要因は、墨書土器や木簡などの文字資料が未だ検出されていいこと。また、遺跡全体が谷地形を含む傾斜地であり、その複雑な地形を大造成して繰り返し利用していることにも大きな要因があります。例えば、検出した遺構がどの時期区分(地層)に含まれるのかだけをとっても、マスコミ発表のように簡単ではないようです。

 状況証拠は、かなり蘇我邸の一部である可能性は高まってきました。7世紀前半から中頃にかけて、飛鳥のこの地域に大造成を行える人物は限られています。焼土や豊浦寺や飛鳥寺と同范の瓦が出土すること、石垣建設に渡来系の技術が使われたとの指摘なども、その状況証拠の一つであるのかも知れません。

 しかし、この遺跡を含む丘が、本当に甘樫丘であるのかという疑問すらあるのです。(1970年頃までは、豊浦山と呼ばれていたようです。)今は、誰しも甘樫丘として馴染んでいますが、それを断定出来る文字資料などは無いのだそうです。風人は、この丘が甘樫丘だと思うのですが、他に適当な丘が思い浮かばないと言った理由にしか過ぎません。(^^ゞ

 さて、その丘ですが、かなり広いのです。一般的には、豊浦展望台付近のみを甘樫丘としてイメージしますが、公園化されている遊歩道一周で、充分1時間は掛かるほどの規模があります。参考に公園化されている部分を中心に描いてみました。入り組んだ谷をたくさんに持っていることが分かります。この内、実際に発掘調査が行われた場所は、僅かに二ヶ所(平吉遺跡・甘樫丘東麓遺跡)です。
 
 甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥の中心部が見えません。川原寺西の丘陵が北に張り出しているからです。日本書紀の記述を見ると、蘇我邸から飛鳥宮や中心部が見えるのは蘇我氏の横暴であるとするような記事がありますので、蘇我氏邸宅の中心施設は、別の場所に無くてはなりません。東側の北部に「エベス谷」と呼ばれる小字があり、有力な候補地の一つとされますが、この谷は小さく、邸宅を建てるスペースとしては不向きです。案外、近世にでも「恵比寿さま」をお祀りした祠でもあったのかも知れませんね。(笑) 

 風人は、東麓遺跡の北側にある「南山」という場所が以前から気になっています。ここからなら飛鳥の中心部が見通せます。間口の広い谷地形をしており、住環境としても良いのではないかと・・・。もちろん妄想でしかありませんが、いずれ奈文研さんが調査をしてくださるのではないかと、心待ちにしています。
 考古学は、長いスパンで楽しまなければなりません。結果を追い求めがちですが、我流の謎解きも楽しいことだと、風人は思っています。

  今回の見学会で疑問に思ったことを箇条書きにしてみます。
   ・石垣の傾斜が、前回(70度)と異なること。今回も、北側と南側では、
    異なるように見えること。
   ・北と南では、石の積み方が違うように見えること。
   ・南端が曲がらずに、そのまま終わってしまうこと。囲まないのか?
   ・石敷遺構は、何を目的にしたものなのか。何を区切っているのか。
   ・検出された柱穴は何なのか。

 風人の妄想

  今回の石垣は、蘇我邸の増設に伴う造り掛けなのではないかと・・。645年に彼等は死ぬとは思っていないわけで、勢力の絶頂期に、より甘樫丘全体を邸宅化・要塞化するために、南側を中心に造成途中であったのではと思いました。石垣の尻切れトンボさ、石垣がある造成地なのに顕著な建物がない点などです。石垣の反対側(西)に、倉庫などがあり、計画的な配置とも思えない点も、増設途上の可能性を物語っているのと。妄想ですので、何の根拠もありません。(笑) きっと明日には違う妄想を楽しんでいると思います。



【4】 「掃守寺妄想紀行」  (09.10.2.発行 Vol.63に掲載)

 今回は、飛鳥地域を離れて、葛城市を歩いたお話を書かせていただきます。皆さんは、掃守寺というお寺をご存知でしょうか。現在地上にそのお寺は存在しませんが、7世紀末から8世紀初頭に創建された長六角堂という他に例のない建築物を有します。また尾根を隔てた南北に伽藍が分かれるという珍しい構造を持つお寺です。所在地は、二上山の東麓にあり、東西に伸びる谷の奥に位置しています。(葛城市加守)

 半月ほど前になりますが、飛鳥遊訪マガジンでもお馴染みの近江俊秀先生が、「掃守寺と石光寺-大津皇子の供養堂はどちらか?」という講演会を掃守寺の地元である葛城市で行われました。これまでに5回の発掘調査が行われていますが、近江先生も直接この遺跡の調査にたずさわっておられました。

 講演は午後2時からでしたので、それまでの時間を利用して現地を見ておこうと、加守に出かけることにしました。妄想紀行ですので、近江先生の講演内容から逸れるのはご容赦ください。

 近鉄二上神社口駅で下車、10分弱ばかり西に緩やかに上った所に掃守神社があります。
 神社からの眺望はありませんが、付近からは大和盆地が見渡せ、東に大和三山の姿も視認できました。
 地図などを見ると掃守神社と書かれているのですが、この神社は、三社が祀られていて、掃守神社は摂社となっているようです。真中には、葛城倭文坐天羽雷命神社が、そして、もう一社二上神社があります。
 倭文(しとり)や天羽雷などの名は、どちらも織物に縁のあるものだ思われますが、これが今回の近江先生のお話に関連するのではないかと、風人は妄想に浸っています。(^^ゞ 

掃守神社

 さて、肝心の掃守寺跡ですが、神社を北に出て、少し西に上った所にありました。二上山の雄岳の裾と言ってよい場所です。仰ぎ見るように雄岳が迫っていました。現在は、四天王堂という小さなお堂が残るだけですが、その西側に段状に連なる平地があり、長六角堂はそこに建立されたようです。

西から長六角堂跡を見下ろす

 掃守寺は、南北に伽藍が分かれていますが、谷の奥まったところに長六角堂を建てたため地形の影響を受けたのでしょう。後に、塔を建立し伽藍を整えるには、このような配置にならざるを得なかったのかも知れません。東には緩やかに傾斜する地形が広がっていますので、広い土地を求めようとすれば出来たでしょう。二上山のより奥懐に建てるという拘りがこのような伽藍を造り出したように思えてなりません。
 吉野龍門寺や龍蓋寺(岡寺)などと共に義淵僧正創建と伝わる龍本寺(龍峰寺)が掃守寺とされるのも、地形的にも肯けるところがあります。また義淵との繋がりは、この付近から出土する岡寺の物と酷似する五葉や六葉複弁蓮華文軒丸瓦や葡萄唐草文軒平瓦から考古学的にも裏付けられるようです。

 鎌倉時代に書かれた醍醐寺本「諸寺縁起集」には、掃守寺は掃守司に造らせて義淵僧正に施されたものであると書かれているそうです。また、近江先生が講演で紹介されました「正倉院文書」などの記載から徐々に官寺的な色彩を帯びてくる様子などが窺え、謀反の罪で刑死した大津皇子を供養しようとする機運が国家的に高まって行った様子が感じられます。それは、大津皇子への後ろめたさや恐れであったのでしょうか。大来皇女の創建とされる昌福寺(夏見廃寺)が、同時期に大きな伽藍増築がなされたのも、それを物語っているように思えます。

 加守の集落を抜け、掃守寺の北遺跡に向かいました。大きな灌漑用に使われている池の北西畔に塔はあったようです。

塔跡が検出された場所付近から二上山雄岳を見上げる。

 付近から出土した瓦には、官寺的な性格が強いとされる興福寺に使用された軒丸瓦がありました。
 先に書いたように、塔の造営段階では官の影響を色濃く受けていると言えるようです。
 午後から行われた近江先生の講演によれば、このタイプの軒丸瓦は、新田部親王邸跡や舎人親王邸跡からまとまって出土したそうで、天武天皇の皇子の邸宅に使用されていた可能性が強いということでした。
 奈良時代、瓦は寺院や役所、最上層の貴人邸など限られた建物にしか葺かれることはありません。また、地方豪族の氏寺では興福寺式軒丸瓦が使われることはほとんどなく、この事からも掃守寺が単なる掃守氏の氏寺ではないことが分かります。また、天武天皇の皇子である大津皇子との関連を窺うことも出来るでしょう。
 塔の大きさは、薬師寺と同規模で、塔だけを回廊で囲む「塔院」と呼ばれる様式であったそうです。

 二上山と大津皇子に思いを馳せながら、次の目的地「石光寺」に向かいました。百日紅や寒牡丹で皆さんもよくご存知の古刹です。天智天皇の頃の創建と伝承されますが、このお寺も大津皇子菩提寺説があります。

 もう、紙面がありません。
 この後、只塚廃寺跡を見学し、講演会場へと向かいました。近江先生の講演は、いつもながらに楽しいお話でした。

 肝心なことが書けないのは、風人のいつものことですが、続きは又の機会と言うことに。m(__)m



【5】 「太子道踏破レポート」   (09.11.27.発行 Vol.67に掲載)

 11月22日、法隆寺が主催する「太子道をたずねる集い」があり、150名の参加者と共に、法隆寺から橘寺までの24kmを歩いてきました。一行には、第16回定例会で講師を務めてくださった清水昭博先生が同行して、解説を加えてくださいました。3ヶ所だけでの解説で、風人には物足りない思いもありましたが、なにせ長距離ですから仕方がありません。

 太子道は、聖徳太子に由来するといわれる古代道路で、斑鳩と飛鳥を結びます。聖徳太子が、斑鳩宮より小墾田宮に通われた道とされることから通称「太子道」と呼ばれるようになりました。奈良盆地を斜めに一直線に走るため「筋違道(スジカイミチ)」とも呼ばれています。
 明確な記録はありませんが、法隆寺や斑鳩宮を中心にした地割りの方位が、太子道の方位に合致する点などを考えると、太子道の敷設は、斑鳩宮が造営された推古9(601)年頃であろうと推定されます。南北三道や横大路も、同様にこの頃に計画をされたのではないかと、風人は思っているのですが、どうでしょうか・・。

法隆寺にて

 法隆寺を朝8時30分に出発、太子が晩年を過ごされたとされる泡波葦垣(あくなみあしがき)宮ではないかと推定される「上宮(かみや)遺跡」を通り、太子伝承が色濃く残存する三宅町に至ります。「太子腰掛の石」や、愛馬黒駒を繋いだとする「駒繋ぎの柳」、また地名にも、太子の風除けとして屏風を立てたことに由来する「屏風」などがあり、後世の聖徳太子信仰の名残も感じることが出来ました。太子様にも1400年ぶりに腰掛石にお座りいただいて、風人もここで昼食をとりました。

腰掛石の太子様

 三宅町の皆さんは、この太子道を誇りとされているようで、地場産業の靴下のお土産や太鼓や踊りで、一行を温かく歓迎してくださいました。温かい赤米のお粥は、とても美味しかったです♪

 昼からも、ひたすら太子道を南下します。黒田大塚古墳や保津・宮古遺跡を過ぎ、多神社に到着する頃には、疲れが見え始めた方もいらっしゃいました。先頭を歩く方が代わるのか、歩行スピードが急に変わり、列の後ろでは調子を合わせるのが大変です。長距離走で、ふるい落としの駆け引きをされているような気さえしました。(^^ゞ  多分、天候を心配されてのことだったのでしょう。


 多神社は、古事記の編纂に携わった太安麻呂でも知られる「多氏」の本拠地にあり、奈良時代には大神神社に次ぐ経済力を持っていたとされるそうです。このような古代豪族の本拠地を通過するという事実も、太子道を考える上で重要なことなのかもしれません。多神社からは、バスに乗車、橿原市今井町の「華甍」まで移動しました。しかし、乗車したバスが渋滞につかまり、雨に遭遇してしまうことにもなりました。(>_<)

 今井町からは、飛鳥川に沿って明日香村に向かいます。この頃から小雨が降り始めました。最後の4キロばかりは、傘をさしてのウォーキングす。疲れた方には、お気の毒でした。雷丘の西麓あたりで、清水先生から小墾田宮のご説明をいただき、第17回定例会と合わせて、小墾田宮探査の面白さを改めて感じていました。どこに在ったのでしょう?皆さんも、この謎解きにご参加されませんか。(笑)

 最終目的地の橘寺到着は、午後4時20分くらいだったでしょうか。ほぼ予定通りの到着となりました。橘寺さんでも温かい飲み物をご用意いただき、疲れた身体が癒されるようでした。
 24キロというと長距離ウォーキングになりますが、両槻会にご参加いただいている仲間たちと楽しく歩いていると、風人は特に疲れを感じることもなく、踏破することが出来ました。解説の清水先生から、いろいろ示唆にとんだお話を伺え、本当に楽しい一日となりました。古道歩きは、楽しいです♪清水先生、お疲れさまでした。

 今回とルートは若干違っていますが、よろしければ風人が以前歩きました太子道の地図をご覧下さい。


参考:太子道地図



【6】 「藤本山」   (12.10.12.発行 Vol.145に掲載)

 久しぶりに飛鳥話を担当することになりました。よろしくお願いします。m(__)m

 さて、今回は、定例会でも二度訪れました「藤本山」の話をさせていただきます。もう皆さん、ご存知ですよね。飛鳥の真神原に立つと、真東に見えている三角錐の綺麗な形をした山です。


 岡寺の在る山ということで「岡寺山」と呼ぶ方も居られるようですが、山頂には「藤本山 470m」と書かれた標識が有りますので、それに倣って、ここでは「藤本山」と書くことにします。

 この山頂(万葉展望台)からの眺望は、真下に飛鳥を望めることもあるのですが、何と言っても180度の大パノラマを見ることができることです。それも、日本誕生の歴史舞台を眺望できるわけですから、感動もひとしおです。藤原宮跡はどこだろうとか、紀路はどう続いているのかなど、飽きることのない見晴らしは、ここを訪れる最大の魅力になっています。
まず、そのパノラマをご覧いただきます。


 如何でしょうか。条件が整えば、西は六甲の山並み、北は京都愛宕山を肉眼で捉えることも出来ます。

 ところで、風人は、この藤本山が、ほぼ下りだけで行ける点が気に入っています。(笑) 470mですから、登っても大丈夫なのですが、登りの苦手な私にとって、こんな良い山は他にありません♪ そうです、多武峰談山神社までバスで上がれば、西門からだらだらと下って山頂に着けるのです。ですから、度々ここを訪れます。そのようなことから、とても条件の良い日にも巡り合うことが出来るのです。


 8月25日も好条件が重なった一日でした。冬がなんと言っても遠望が利くのですが、この日は前日の激しい雷雨が空気中の塵を落としてくれたのか、夏にしては珍しく澄み切った空気でした。遠くは流石に靄っていましたが、それでも、今までに見たことのない所まで確認が出来ました。

 一つは、斑鳩三塔をカメラに収めたことです。肉眼では流石に見えることはありませんが、それでも写真を通して見えることが分かり、一人興奮をしていました。(笑)

斑鳩

 左から法隆寺、法輪寺、法起寺です。
 大きく撮った写真をトリミングして、分かりやすく加工しましたので、画質は荒れています。しかし、飛鳥から、目で確かな方向を追えたことは、とても嬉しい事でした。距離感も、実際の目で見た距離を感じることが出来て、一人山頂でニマニマとしていたのでした。(笑) 他の人が登ってきたら、怪しい奴だと思われたかも知れませんね。(^^ゞ

 もう一つ、わくわくさせてくれた方向がありました。それは、大阪港の辺りの建物を特定できたのと、大阪湾の海面を確認できたことです。

 斑鳩と同じように写真をトリミングして、見やすいように加工を加えてみました。


 写真の左の高いビルは、地図と照らし合わせて、大阪咲洲のコスモタワーであることが分かりました。
 その視線の先には、大阪湾が見え、対岸の芦屋市と神戸市の辺りが見えています。背後の山は六甲山系の麻耶山付近ではないかと思われます。ここまで、見えているのですね。肉眼でも、コスモタワーは確認が出来ました。少し右には、生駒山から信貴山に掛かる山並みを越えて建設中の「あべのハルカス」と思われる高層ビルも見えていました。


 何とかと煙は高い所が好きだそうですが、私も同じ類かも知れません。何処まで見えていたかで、感動しているのですから。(笑)

 しかし、こういうことで養った地理感覚も大事なんじゃないかと思いますし、方向感覚や距離感は、こうして身に付いていくように思います。

 地図を作ってみました。興味を持ってくださった方は、リンクを飛んでください。
 http://goo.gl/maps/N0Y1b

 標高が100m高くなるごとに、気温は0.6℃ずつ下がるのだそうです。藤本山は470mですから、飛鳥真神原からの高低差は、約370mになります。2.2℃ばかり涼しいことになりますね。山頂は、風が通りますので、その2.2℃も随分と涼しく感じました。

 皆さんも、季節の良い間に、是非行ってみてください。満足されることと思います♪ 行き方などは、両槻会定例会の第4回・第31回定例会のレポートや参考資料集をご覧ください。

 第4回定例会レポート
 第31回定例会参考資料
 第31回定例会レポート



【7】 「真夏の特別展巡り」   (13.8.23.発行 Vol.168に掲載)

 皆さん、暑いですね! 仕事や用事でもない限り、外出はしたくないで
すね。36℃~40℃なんて、我国の外気温だとはとても思えません。まだまだ残暑も続くようですから、皆さんご自愛ください。
 さて、そうは言っても毎日クーラーの利いた部屋に閉じこもってはおれません。そんな時には、涼しい博物館巡りをしてみては如何でしょうか。風人も、そんな一日を過ごしてきました。
 只今、飛鳥地域では、飛鳥資料館の「飛鳥・藤原京を考古科学する」と題した夏期企画展と、橿原考古学研究所附属博物館の「大和を掘る31」-2012年度発掘調査速報展-が開催されています。

 飛鳥資料館では、普段、私達が目にする機会が少ない科学機器が紹介されています。様々な分析機器や調査機器を使って、研究・発掘調査が行われていることを再認識する機会だと思います。
 地中探査にも電気探査やレーダー探査があり、様々な特徴を持った調査が行われるのだそうです。展示では、電磁波を発して、その反射の強さや時間によって地下の遺構を調査するレーダー探査の実例が示されていました。パネルには、電磁波によって確認された飛鳥西方遺跡の石敷溝が見事に示されており、実際の発掘調査が行われた後の写真と比較できるようになっていました。

 また、三次元レーダースキャナーが置かれており、飛鳥の岩屋山古墳での計測事例が紹介されていました。石室に用いられた石の加工状況までデーターが取れるのだそうです。凄いな~! こういう機器に疎い風人は、ただただ感心するだけでした。(^^ゞ 計測値を元に三次元プリンターを用いたら、簡単に立体模型などが出来てしまう時代も来るのでしょう。(もうあるのかな?) 縮小拡大なども出来るでしょうから、研究や展示公開にも役立つでしょう。面白そうだ!

 展示には様々な工夫がされていましたが、その一つが木片の樹種の判定に使われるマイクロスコープを実際に使えるようになっていたことです。ヒノキとブナがサンプルに置かれており、見学者が使えるようになっていました。風人も使ってみたのですが、確かに細胞の密度などが違って見えました。このマイクロスコープ、エステでお肌の状態を調べる物だそうで、本来このような用途に作られたものではないそうです。(^^ゞ 研究者の知恵が光ります。

 また、夏休みらしく子供さん用でしょうか、ワークシートが置かれており、展示に関する5つのクイズが用意されていました。全ての問題は展示を見れば分かるようになっており、風人が見学している間にも数名の子供さんが楽しそうにチャレンジをしていました。それと、質問メモが置かれていて、学芸員さんに疑問や感想が書けるようになっていました。こういう工夫は良いですね。私には苦手分野なのですが、興味深く見学が出来ました。会期は、9月1日までです。

 橿考研博の「大和を掘る」は、恒例の速報展です。風人が子供の頃からやっていたように思うほど(笑)以前からある真夏のイベントです。たぶん、3回目とかに行った記憶が有るのですが・・・、あやふやです。(^^ゞ 
 今年は、昨年度に実施された発掘調査から37遺跡が紹介されています。飛鳥地域の遺跡では、阿部山遺跡群、史跡・名勝 飛鳥京苑池(第7次調査)、飛鳥寺西方遺跡、史跡 橘寺境内、史跡 檜隈寺跡があります。阿部山遺跡群は、前回定例会で行きました観覚寺遺跡の東、キトラ古墳の南にあたり高取町との境に位置します。

 両槻会でお世話になっている先生方が担当された遺跡としては、岡田雅彦先生の脇本遺跡、石田由紀子先生の薬師寺食堂、大西貴夫先生・青木敬先生(11月定例会講師)の東大寺法華堂などがありました。もちろん、藤原宮関連の調査も幾つか報告されています。また、中ツ道の調査なども興味を引きました。

 「大和を掘る」には、土曜講座という発掘担当者が調査報告をする講座があります。現説から時期を経て、まとまった発掘成果を聞けるのでとても魅力的です。今号のメルマガ発行後の8月31日(土)にも行われますので、皆さんも聴講されては如何でしょうか。
 31日は、薬師寺食堂と東大寺法華堂、また筒井城の調査報告が予定されています。石田由紀子先生、大西貴夫先生という、両槻会ではお馴染みの先生が発表されますので、風人も聴講したいと思っています。

 最後にもう一つ面白い展示がありますので、ご紹介します。奈文研平城宮跡資料館の「平城京どうぶつえん」です。夏休みならではの子供さん向けの展示ですが、充分大人の鑑賞に堪えられる展示です。様々に趣向が凝らされており、担当の学芸員さんの力の入れようが目に見える展示内容になっています。見て、作って、遊べる企画は、風人にも楽しいものでしたよ。お子様、お孫さんを連れて行ってあげてください。きっと、ご自分も楽しい時間となるでしょう。

 現在、飛鳥寺西方遺跡、飛鳥京跡苑池、甘樫丘東麓遺跡の継続調査が再開されています。その発掘成果に、期待が高まります。飛鳥は楽しい♪




【8】 「飛鳥川」   (13.9.20.発行 Vol.170に掲載)

 おかげさまで、第40回定例会も無事終了しました。参加の皆さん、また来場してくださった皆さん、ありがとうございました。

 今回の定例会1部では、見学ポイントの「弥勒石・木ノ葉堰」に関連して、飛鳥川流域の開拓史という新しいテーマを持つことが出来たように思います。大変興味深い飛鳥へのアプローチの一つになるのではないかと思っています。

 そんなことで、飛鳥の水系について調べることにしました。まず、「飛鳥川」というキーワードを検索するところから始めたのですが、なんと全国には5本の一級河川としての「飛鳥川」があることを知りました。いきなり本題を外れてしまうのですが、驚いたので記載しておくことにします。

 近つ飛鳥と呼ばれる大阪府南河内郡太子町から羽曳野市を流れ、石川から大和川に合流する「飛鳥川」は知っていました。

  明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし (10-2210) 

 この万葉歌も明日香村の「飛鳥川」ではなく、河内飛鳥を流れる「飛鳥川」だとされているようですね。

 しかし、後の3本の河川は全く知りませんでした。まず、所在を上げてみます。

  飛鳥川 : 福島県石川郡石川町を流れる阿武隈川水系の今出川支流。
  飛鳥川 : 岐阜県揖斐郡揖斐川町を流れる木曽川水系揖斐川支流
  飛鳥川 : 青森県青森市を流れる飛鳥川水系本流。

 ウィキペディアでは、青森市を流れ陸奥湾に流れ出す「飛鳥川」は書かれていませんが、津軽半島の東付根の辺りを流れている河川があります。

 飛鳥川が本当かどうか、マップで探している時に気付いたのですが、全国には「飛鳥」という地名もたくさんあるようです。

  青森県青森市飛鳥
  青森県三戸郡南部町大向飛鳥
  山形県酒田市飛鳥
  岩手県二戸市浄法寺町飛鳥
  宮城県名取市高舘熊野堂飛鳥
  三重県熊野市飛鳥町
  和歌山県新宮市阿須賀町
  広島県東広島市豊栄町安宿
  スウェーデン エステルイェトランド県アスカ村
  インド オリッサ州アスカ

 下の2つは、おまけですが、結構在るものですね。また、東京の「飛鳥山」、奈良市高畑町や紀寺町界隈は「飛鳥」と呼ばれるようで、現在も奈良市立の飛鳥小学校や飛鳥中学校があります。細かく探せば、更にこの数は増えて行くでしょう。

 さて、肝心の明日香村を流れる「飛鳥川」ですが、芋峠付近を源流として大和川に合流する全長24kmの河川です。奥飛鳥栢森集落付近で入谷や畑方面からの支流を集め、稲渕・祝戸を経て、石舞台南(玉藻橋付近)で細川谷から流れる冬野川と合流します。

 ここまでは、渓流のように流も早く、淵となる場所も何ヶ所かで見ることが出来ます。また、上流部では、滝となる所もあります。

 両槻会特別回奥飛鳥滝巡り

 冬野川合流後は、皆さんもご存じのゆったりと流れる現在の「飛鳥川」の姿になります。
 飛鳥の中心部では、溜池を見かけることは有りません。宮殿や寺院が立ち並び、溜池を造ることは有り得ないのですが、現在万葉文化館になっている場所が溜池だったのは、その遺跡名「飛鳥池遺跡」の名で知られるのみです。これとて、古代に遡ることが無いことは、飛鳥池遺跡の存在が示しています。また、島庄遺跡の方形池が、用水にも利用されたのではないかとも考えられるのですが、規模から限定的な範囲にとどまったでしょう。

 さて、飛鳥中心部に宮殿や寺が建ち始める直前には、どのような景観が広がっていたのでしょうか。
 蘇我氏の台頭と時期を同じくして、飛鳥周辺地域の大規模開拓が始まったように思えます。田を耕すには、水が必ず必要になります。その水は、どのように確保されたのでしょうか。
 飛鳥北部や北西部への導水は、井堰を持って行われたと考えられます。また、和田池や石川池(現在の池名)や軽の池など、どのような役割を担っていたのでしょうか。何処まで時代を遡れるのでしょうか。

 飛鳥時遊録では、しばらくシリーズとして追いかけてみたいと思います。
 まだまだ調べ始めたばかりですので、読者の皆さんと一緒に勉強出来ればと思っています。




【9】 「定例会舞台裏」   (13.11.1.発行 Vol.173に掲載)

 いよいよ明日は、第41回定例会の実施日です。参加していただく皆さん、また今回はご参加いただけない皆さんにも、飛鳥話の枠を借りて、少しだけ事務局の普段の活動を知っていただこうと思います。

 定例会に来てくださる方々から、「どうやって講師の先生を探してくるの?」とよく聞かれます。事務局には、考古学も文献史学も専門に勉強した者、勉強している者は居ませんので、不思議に思われるのかも知れませんね。他の会の中核で活動されていて、常に講師探しに苦労されている方々は、そのノウハウを聞きたいに違いありません。

 はい!これには秘密の手法が有るのです。嘘です! そんな方法が有れば楽なのですが。地道にお願いする以外にはありません。 

 もう一つ、皆さんから聞かれることが多いのが正確な時間進行です。おそらく、ウォーキングの回を含めて、終了時間が5分と違うことは無かったと思います。「何度も歩いて練習しているの?」と聞かれる方もあるくらいです。

 実は、参加の皆さんにはお渡ししないのですが、事務局スタッフにはタイムスケジュール表が配られます。これには、綿密な予定が書かれています。異様なのは、その数字です!

 橘寺到着:11:53 などと書かれているのです。11:55や11:50 ではなくて、53分なのです。(笑) 普通は、お昼頃橘寺到着で良いのですが。この時も、誤差1分程度で到着したと記憶しています。

 第41回定例会の事前散策でも、古代池北東岸(大藤原京左京5条8坊 中嶋遺跡)着10:37になっています。(^^ゞ 参加して、実際にどのくらいの誤差が生じるのかを見極めるのも、定例会の見所の一つかも知れません。(笑) 一度、スタッフに声を掛けていただいて、タイムスケジュールをご覧になってください。

 また、このスケジュールを守るために、タイムキーパーと呼んでいる係を作っています。先導者に、正確な時間経過を伝える役目です。

 さて、なぜ、ここまで正確に進行するのかというと、飛鳥の場合、帰りのバスの便や電車の便が悪いからなんです。下手に遅れると1時間近くバスを待たないといけないこと、また、次の目的地へのバス利用などが有るからなんです。欲張った予定には、正確な時間管理が必要になってくるのです。

 さて、そのような緻密なタイムスケジュールは、どのように作られているのでしょう。(^^ゞ
 第41回定例会を例にとると、まず、私が机上プランを作ります。現在は、Googleマップを使って作成しています。予定コースの総距離や訪れるポイントをチェックして、ルートを描き込んで行きます。まずは、そこから機械的に時間を把握して、説明ポイントやトイレ所在地、また昼食場所を決めます。今回は、テーマが「飛鳥時代の土木技術」ですので、それに見合った遺跡や場所を選択しました。これは、7月に行いました青木敬先生との打合せを受けての決定です。事前散策としての適切な距離の検討や、コースの難易度、昼食場所などを考慮して、ここまでは、私がほぼ独断で作業を進めます。

 それを受けて、10月5日(土)に事務局から参加可能なスタッフが集まり、下見を行いました。予定どおりの進行で、大福駅から吉備池へ、ゆっくりしたペースで歩き始めました。これが大事なのです。大勢で歩くと、必ず時間が掛かります。信号を一度に渡れなかっただけで数分の遅れになりますし、列の間隔が広くなってしまうと収拾のつかないことになってしまいます。ですから、間隔を空けないでくださいと煩く言うのです。m(__)m

 吉備池では、歌碑や風景も眺めながら、吉備池廃寺の塔跡や金堂基壇跡に向かいました。今回は、想定以上に時間が掛かりました。青木先生の現地説明も有りますし、吉備池を一周することになっていますので、ゆっくりと時間を取ることになりました。後の調整で、ここでは40分の時間を取ることになっています。

 下見では、ここから磐余池跡か?と報道された古代の池の堤跡を目指しました。重要なのは、その間の時間経過とポイントでの説明場所です。遺構は埋め戻されていますので、現地説明会時の記憶を頼りに、出来るだけ近い場所を選ぶことになります。現地説明会に参加するのは個人的な興味も大きいのですが、埋め戻された後でも位置が分かるようにするためです。下見当日の予定では、古代の溜池の造り方などの参考になるかと、広池の堤防を歩いて奈文研飛鳥藤原都城発掘調査部の建物に向かったのですが、道路の状況が散策には適さないことが分かり、この間を大幅に変更することになりました。机上プランの恐ろしさ! 充分に注意しないといけません。

 両槻会には雨天中止が有りませんので、昼食場所の確認が重要です。今回の雨天時には、奈文研調査部の軒先をお借りすることになりました。降り方にもよりますが、南側の軒ならば濡れずに座れそうです。下見では、食事をしていません。これには、深い訳が。(^^ゞ (定例会当日と時間が違う。)

 そこからは、大官大寺跡を目指しました。交通量などもチェックポイントです。また、中の川の流路なども地形と共に記憶に残しました。大官大寺跡からは、中の川沿いに奥山廃寺を目指します。この辺りは、次回定例会にも関係する場所になります。風景を、頭に刷り込むことも大事なのです。

 事前散策の下見終了後は、総距離・総時間や説明ポイントの選定、疲れ具合、コース変更、雨天コースの設定などを話し合った後、再び私が修正コースを作成することになります。

 ポイント間のラップタイム表を作成し、説明時間、昼食時間、トイレ休憩時間、多人数でのロス時間などを考慮して、タイムスケジュールを決定します。この匙加減は、経験が全てです。これで、微妙なコントロールをしています。そして、さらに事務局内のチェックを経て、予定が完成しています。

 今回は、飛鳥資料館到着12:38の予定です。(笑) どの程度の誤差に収まるでしょうか。
 両槻会定例会には、こんな楽しみ方もありますよ!(笑)
 では、明日、お会いしましょう♪




【10】 「桜花咲く飛鳥ウォーク(第43回定例会事前散策)」  
                                (14.2.21.発行 Vol.182に掲載)

 第43回定例会まで1ヶ月ほどになっていますが、日本列島はすっかり雪に埋もれてしまっています。関東地方や中部地方では、被害も大きいと聞いています。お見舞いを申し上げます。

 こうも寒いと表記の事前散策タイトルが不安になるのですが、そのような中でも確実に春は近づいているようです。先日、蕗の薹をフライにした物をいただきました。口中がほろ苦い春の香りに満たされ、外に残る雪景色を暫くの間忘れることが出来ました。蕗の薹などの山菜は、天ぷらにして食べられることが多いと思いますが、フライの方が表面がパリッと揚がって私は好きです。これから5月くらいまで山菜のフライが楽しめると思うと、より一層、春の到来が楽しみです。

 さて、第43回定例会の講演会事前散策は、「桜花咲く飛鳥ウォーク」とタイトルを付けました。天候や花期をタイトルにするのは気候不順が当たり前になってきた昨今、主催者側には冒険になるのですが、今回は賭けてみることにしました。これまで、開花時期に定例会を行ったことが無かったのですが、第43回定例会の実施日が決まった瞬間に、是非皆さんに飛鳥の桜をご紹介したいと思ったのです。

 もちろん、第43回定例会のメインテーマは、「塔はなぜ高いのか ―五重塔の源流をさぐる―」という向井佑介先生の講演であるのは言うまでもありませんが、その事前散策ルートを工夫することで、飛鳥でも屈指の桜の名所を巡ることが出来ることに気付きました。

 飛鳥は、あまり知られていませんが桜がとても綺麗なのです。というか、桜を含んだ風景が魅力的なところです。量的には石舞台公園が最も多いのですが、ここも石舞台公園から見上げるのではなくて、東の丘の高台から見下ろす景色がとても綺麗です。遠くには、春霞に煙る二上山や畝傍山を背景に、石舞台公園の桜が一望に出来ます。事前散策では訪ねることは出来ないのですが、またの機会に訪ねてみてください。


 そして、最も人気の桜は、甘樫丘豊浦展望台の桜です。展望所をぐるりと囲む桜のドームや、その枝下から見える大和三山を含めて、華やかで且つロマンに満ちた飛鳥桜の風情を楽しめます。360度の桜の展望を、第43回の事前散策では楽しんでいただけるものと思います。


 今回のウォークの中で私が好きな桜は、橘寺の桜です。橘寺には、三つの桜が目立つのですが、一つは大きな翼を広げたような東門の桜です。大きな桜で、東門を包み込むように見えます。境内には蓮華塚桜が有り、本堂を背景に大きく枝を伸ばしています。また、その奥には枝垂桜が有り、少し濃い色の花を咲かせますので、色の対比も楽しめる桜です。西門外には、左近の桜と書かれた桜が有ります。まだ若い桜ですが、西から見る橘寺にアクセントを与えています。


 飛鳥川左岸の遊歩道には、桜並木が作られています。岩場となるこの付近の飛鳥川の流れと相まって、花吹雪の後まで綺麗な光景を見せてくれます。この桜並木は、一旦途切れるのですが、甘樫丘から北側にも続き、北接する橿原市の中心地まで桜並木が続きます。特に尊坊の桜と呼ばれる部分では、桜のトンネルとなり、圧倒的な景色を作り出します。


 最後に、飛鳥資料館の桜も忘れてはいけません。ここには、枝垂桜と山桜が有り、復元された石造物を華やかに飾ります。


 如何でしょうか。第43回定例会では、飛鳥の塔跡を見学しながら、桜見物も楽しみになって来ませんか? 是非、ご一緒に花見を楽しみましょう。お申し込みをお待ちしております。ご参加になれない方も、どうか定例会と桜の花期が合うように祈ってくださいね。

 追記
 飛鳥へお越しに際は、是非藤原宮跡まで足を延ばしてください。醍醐池北側の菜の花と桜のコラボレーションを見ながら、1400年のタイムトラベルを楽しんでいただければと思います。
 




【11】 「飛鳥の地形を確かめてみましょう」  (14.5.2.発行 Vol.187に掲載)

 186号に掲載しました「吉野川分水用水路から私考する飛鳥の水系シリーズ-伝飛鳥板蓋宮跡あたりのほうが八釣より高地なの?-(つばきさん)」の記事について、関心を持たれた方も多いのではないかと思います。しかし、テキストだけでは分かりにくいかも知れないと思い、マップとデータを作成してみました。

 確かに、八釣橋と飛鳥宮跡では八釣橋付近の標高が高いと思ってしまいます。なだらかな傾斜と急な傾斜での錯覚が原因だと思うですが、ここは確実なデータを元に地形を把握してみよう思います。そこで、休日を利用して現地に向かいました。まず、明日香村在住の知人数名に、八釣集落の西端と飛鳥宮跡では、どちらが高いと思う?と聞いてみました。全員が、八釣と答えました。なら、吉野川分水が流れているのは何故かと追及すると、あやふやな返事しかありません。住んでいる方々だからこそ、この錯覚も定着してしまっているのかも知れませんね。

 資料マップを見てください。


クリックで拡大します。

 マップには、吉野川分水路と明日香村の幾つかのポイントの標高を書き込んでみました。明日香村は、南東が高くて北西が低いと、定例会でもしばしば言ってきましたが、その傾向が分かっていただけると思います。25000分の1のマップを参考にしていますので、緑色の濃さは、1色ごとに10mの標高差になります。マップを文字で埋めたくなかったので、寺名や地名をほとんど書きませんでしたが、大よそ分かっていただけるのではないかと思います。

 マップ左上の110m標高ポイントは、雷丘です。右下の145.4mポイントは、石舞台古墳になります。左下角が定林寺、右上が山田寺跡です。飛鳥宮跡は第III期Bと呼ばれる飛鳥浄御原宮を描きました。お寺は、伽藍配置でお分かりいただければと思います。

 さて、八釣集落の西端に吉野川分水路に掛かる八釣橋があります。


八釣橋付近から西を撮る

 上の写真をご覧ください。
 八釣橋からは、西に甘樫丘が見えています。その手前が大字飛鳥の集落で、かなり低い位置にあるように見えますね。左中央付近を通っている道が、古山田道と考えられる道路の名残である竹田道です。この道路の傾斜が一段落する地点(マップ参照)の標高が104.3mですので、八釣橋との標高差は10mばかりになります。実際に歩くと、結構勾配を感じます。

 一方、飛鳥宮跡付近の吉野川分水路を見てください。


飛鳥宮跡付近の吉野川分水路 北北東(八釣橋)方向を撮る

 分水路上から、八釣集落の方向を撮りました。竹藪に挟まれた濃い緑色の丘陵が、飛鳥坐神社のある丘(鳥形山)です。大字八釣の集落は、その向こう側になります。吉野川分水路は、万葉文化館の南で隧道となり、丘を貫通して北側で再び地上に姿を見せます。そこが、先に書きました八釣橋付近となるわけです。

 飛鳥宮跡付近のこの位置の標高は、114.5mになります。八釣橋との標高差は僅か70cmですが、こちらが高いのです。
 だから、水が流れるのですね。知っていて歩いてみても、やはり八釣集落が高いと感じました。一度、吉野川分水路を辿って歩いてみたいですね。隧道内は歩けませんけど。(笑)

 隧道は、こんな感じです。


八釣橋付近の吉野川分水路隧道

 現在、水は流れていませんが、6月には滔々と流れています。

 さて、目を転じて南側を見てみましょう。
 参考マップを再び見てください。橘寺の南西が、低くなっていますね。明日香村健康福祉センター(太子の湯)の辺りが低くなっているのは、バスに乗っていても分かります。そのあたりの標高が、115.3mです。仏塔山や橘寺の下層を潜り抜けた分水路が再び姿を現すのが、飛鳥川と交差する地点です。その地点での標高は、116mになります。標高差70cmですが、流路の先行が高いことになります。ですから、前号でつばきさんが紹介したポンプが必要になるのですね。


橘寺ポンプ小屋

 自分で地図を作り、歩いて、やっとこの不思議な水の流れが腑に落ちました。(笑) そして、並行して遺跡・史跡の地形や標高に興味が出てきました。
 飛鳥話では、つばきさんが水系のシリーズを引き続き書いてくれるようです。私も楽しみにして、時折、こうしてデータやマップでフォローして行きたいと思います。

 マップには、第42回定例会で注目しました「古山田道」の標高も追記しました。石神遺跡東側の微高地が数字として現れています。




【12】 「芋洗地蔵」  (14.9.19.発行 Vol.197に掲載)

 皆さんは、芋洗地蔵というお地蔵さんが在るのをご存じでしょうか。橿原神宮前駅の東口から東進し、丈六交差点を左折、国道169号線を4~5分も北上すると、次の信号のある三叉路交差の東側に有ります。

 芋洗地蔵の場所
 

芋洗地蔵

 現在、このお地蔵さまは、暫くの間移転されています。なぜかと言うと、周辺一帯が発掘調査されているからなのです。しばし、仮住まいでご辛抱をいただいているという事でしょう。
 調査は、今年春から始まっているのですが、現在も引き続き行われています。その調査の中間発表として、作りかけのまま遺棄された「修羅」が発見されたことが報じられました。出土した修羅は、鎌倉時代から室町時代の物だと考えられるそうです。
 詳しくは、こちらを参照してください。↓
 藤原京右京十一条四坊・下ツ道 C1-2発掘調査中間報告(橿原考古学研究所)

 根が付いたままの姿で出土した「修羅」から、修羅がどのように作られたかがよく分かりますね。二股の一木が使われたらしいと以前から言われていたそうですが、まさにその姿のままです。私は知識が無かったので、「修羅の橇部」は何となく二本の木を組み合わせた物だと思っていたのです。近つ飛鳥博物館で「三塚古墳」から出土した修羅を見ているのですが、それでも構造物だと思っていました。よく見ていなかったのですね。(>_<) そのようなこともあり、この「修羅」の出土ニュースを面白く読みました。

 「修羅」は、自然流路(河川)跡から見つかったそうで、その河川は、幅18m以上、深さ約1.8mの谷地形を流れる細流の一つで、蛇行気味に西に流れていたそうです。自然流路は、縄文時代の遺物も発見されているようで、初めは多くの水量が有ったようですが徐々に埋まり、最終的には中世に埋没したようです。

 へぇ~っと報告記事を読んでいたのですが、突如、面白い妄想が沸き起こってきたのです。この谷筋が、元々1本の大きな川だったらとしてなのですが、ちと妄想が過ぎますね!(^^ゞ
 読者の皆さんには、お許しいただいて話を進めます。それは、芋洗地蔵に纏わる伝承に関わっています。

 『今昔物語』本朝仏法部巻十一第二十四
 久米の仙人。はじめて久米寺を造りたる話
「今は昔、龍門寺という寺がありました。寺には二人の僧がいて、仙人になる修行をしていました。その仙人の一人は、あづみと云う人で、もう一人を久米といいました。あづみは仙人になっていて、空を飛んでいました。久米もやがて、仙人になって、空を飛んでいたのですが、吉野川の川岸で若い女が衣服を洗っていました。洗濯をしていたのですから、衣服をまくり上げていましたので、透きとおるような肌の白さが久米の目にとまり、心が穢れて、その女の前に落ちました。その後に、その女を妻としました。・・・・」

 実は、地元の伝承では久米仙人の落下した場所が、この芋洗地蔵が祀られている場所だとされているのです。今は、この地は橿原市石川町なのですが、近隣には久米町があり、仙人は久米寺創建にも関わるとされています。久米町には、久米御縣神社が在り、天孫降臨や神武東征にも活躍をした古代軍事氏族の久米部に関わる地ではないかと考えられるようです。仙人も、その一族に関わる出自を持つのかも知れませんね。

 私は、古代の河川という事から、この久米仙人が落ちた川ではないかと妄想してみました。女性は、この川で洗濯をしていて、魅力的な脹脛を曝したのかも知れませんね。(笑)

 さて、両槻会は、特別回で久米仙人が修業をしたという龍門寺(吉野町)へ行ったことがあります。龍門寺に在った搭の跡です。


龍門寺 塔跡

 搭から山の上の方にかけて、金堂跡や僧坊跡と書かれた場所も探し出し、当時は若かったのか山中を走り回った探検特別回として、今尚、記憶に鮮明に残っています。当時のレポを参照してください。

 神仙境龍門寺を訪ねる

 そして、この龍門寺の近くには、久米仙人が修業した岩窟という石碑が有りました。私達が行った当時には崩れており、石碑だけが傾きながらも残っていました。特別回のレポに写真が有りますので、上記リンクを飛んでご覧ください。

 そして、この龍門寺は、両槻会第24回定例会にも登場しています。義淵上人創建の五龍寺の一寺として、紹介したことがありました。また、そもそも、第1回定例会と第7回定例会に関連して企画した特別回です。結構、縁が深いと言えるかも知れませんね。

 深山幽谷の気配が漂う龍門寺ですが、そこで修行しても、やはり女性の色香には惑うのですね。我々俗人ならば、それも致し方ないのかも知れません。(笑) 

 この話には、続きが有ります。脹脛美人と俗人として生活を始めた久米元仙人は、「高市の新都造営の際、素性を監督官に知られ、材木を飛ばして運ぶように命じられます。道場に籠もって食を断ち、7日7晩祈り続けると、8日目の朝に山から材木が工事現場に飛んできました。これを聞いた天皇は、久米復活仙人に田30町を与え、そこに建てたのが久米寺である」と書かれています。

 そのような面白い場所なのですが、今も発掘調査が続いています。場所柄、下ツ道東側溝が検出されるものと推測され、おそらくはそれを求めての調査が行われるものと思います。

 下ツ道は、側溝の心々間で23m、路面幅19mの規模であったと思われます。東側溝が検出されると、下ツ道の広さが実感出来ることになるでしょう。調査の進展に期待がかかります。

 長くなってしまいましたが、もう少しお付き合いください。
 「芋洗い」は、「疱瘡祓い(いもはらい)」の転訛したものだと考えられます。古来「芋」と言えばあばた・疱瘡のことを表し、「いもあらい」とは疱瘡に罹患した際には神仏に祈願し、水で洗った事に由来するそうです。東京の芋洗坂や京都府久御山町一口(いもあらい)など、各地に名を残すのですが、謂れは同じだと考えられるようです。芋峠などもこれに類する地名なのかも知れませんね。つまり、致死率の高かった天然痘を恐れ、地蔵尊にすがろうとした証なのかもしれません。時代は違いますが、奈良時代の藤原四兄弟が思い起こされます。




【13】 「藤原京十一条二坊 ・四坊」  (14.12.12.発行 Vol.203に掲載)

  今回の飛鳥時遊録は、11月24日に行われました「藤原京十一条二坊
 ・四坊現地説明会」に関連した話を書きたいと思います。

 以前の飛鳥話でも、この現場(特に四坊の方)を、芋洗い地蔵の話としてご紹介したことが有ります。
 芋洗地蔵・風人の飛鳥時遊録(飛鳥遊訪マガジン197号掲載)

 実は、この調査を担当されている先生方の中に、第48回定例会の講師である河村卓先生や、前回定例会(11月15日開催・第47回定例会)に参加してくださった佐々木芽衣先生も居られました。主担当をされていた鈴木一議先生とも面識があり、両槻会事務局としては、とても気になる発掘調査でした。

 第48回定例会では、河村先生の講演をメインに据えていますが、その他に、この発掘調査について、担当されました佐々木先生に30分程度のミニ講座をお願いしています。実際に調査を担当された先生のお話ですので、とても楽しみです。

 飛鳥を丹念に歩いておられる方はご存知だと思うのですが、橿原神宮前駅東口から飛鳥に向かう道路は狭く、車のすれ違いも難しいような狭い道路が通っています。その緩和策なのでしょうか、北側に東西道路が建設されています。飛鳥側の雷丘や古宮土壇の北側では、造りかけの道路が通っているのをご存知の方も居られると思います。歴史的にも興味深いところを通りますので、工事に追われるように発掘調査が先行して行われてきました。今回の発掘調査も、その一環として行われたものです。

 十一条四坊の現場では、前回も書きましたが、下ツ道に沿った場所でしたので東側溝が検出されるだろうと予測されました。ところが、報道された内容は流路や溝や土坑などがあるだけで、肝心の東側溝は上記の溝や流路によって削られてしまったのか、あるいは当初から無かったのか、検出されませんでした。正直に言うと、私はその時点でがっかりしてしまいました。

 公開された調査内容は、こちらを参照してください。
 藤原京十一条二坊 ・四坊 現地説明会資料

 文中に出てくる「しがらみ」とは、辞書によると「水流をせき止めるために、川の中にくいを打ち並べて、それに木の枝や竹などを横に結びつけたもの。」ということになります。「世間のしがらみ」などという表現にも使われます。また、修羅の話は、197号の飛鳥時遊録で書きました。

 それで、興味は終わり!と思ったのですが、某Y新聞が報道した記事が腑に落ちなくて、再び興味を持つことになりました。流路の水の流れを逆に報じてしてしまっていたのですが、ふと、この水は何処から流れてきたの? という疑問です。

 現在も古来の流路を踏襲するかのように農業用水路が在るのですが、その水路を追ってみました。現在、暗渠になっている部分も多くありますので、実際に歩いてみないと分からない地点も有るのですが、大きく間違っていることはないと思います。まず、マップをご覧ください。

 Aが十一条四坊の現場、大型建物が検出された十一条二坊の現場がBになります。水路は、主に二つの水源池から流れ出したものでした。緑色の水路は石川池(剣池)、水色の水路は和田池を水源にしたものです。

 『日本書紀』には、「第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣池、厩坂池と共に剣池を造った。」とありますので、古代からこの水の流れは、大きく変わることなく現在まで続いているのかもしれません。

 この水路の先は、橿原公苑内で高取川と合流し、さらにその先では蘇我川となって北流して行きます。

 蘇我川?と、また引っかかる私です。(笑) ここからは、妄想です。蘇我氏は、本拠地(橿原市曽我町)からこの川の流れを遡って東進し、飛鳥に至ったのか?
 というか、こういう水系を整備しながらその支配地域を拡大していったのかなと思ったりしました。和田池の水は、その背後の大野丘や甘樫丘の水を集める一方、飛鳥川に設けられた豊浦井堰からも水を引いています。古代はどうであったかわかりませんが、木の葉井堰と同様に、飛鳥時代にも同地に前身となる池があり、豊浦井堰からの水を集めていたのかもしれません。

 今回は、飛鳥時代に直接関わる遺構の検出はありませんでしたが、十分に妄想を膨らませてくれ楽しむことが出来ました。やはり、飛鳥は楽しいですね。

 第48回定例会では、製塩土器に関する講演がメインになりますが、こちらのミニ講座も、是非ご期待ください。お二人の若い研究者の発表が、とても楽しみな風人です。


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