【1】 「特別回 忍坂街道探検レポート」 (09.5.1.発行 Vol.50に掲載)
4月18日、晴天の下で特別回「忍坂街道探検」を無事に終えることが出来ました。今回の「ぶらぶら散歩」では、そのレポートを書いてみようと思います。
両槻会のイベントに参加される皆さんは、遅刻をしたり、ぎりぎりに来られる方はほとんどいらっしゃいません。余裕を持って集合していただいています。風人は、集合時間の40分前に受付設置のために行ったのですが、同じ電車に数名の方が乗っていらっしゃったし、すでに来られている方もいらっしゃいました。
ご挨拶の後、早速に受付開始です。当日スタッフの皆さんも、テキパキと動いてくださって、スムーズな出足となりました。
今回は、桜井市の観光ボランティアガイドさんにご案内をお願いしました。風人も初めての場所があったので、ガイドさんが居てくださるのは、本当に心強いです。
タクシー4台に分乗です。先頭車両にガイドさんに乗っていただき、一路「女寄峠・笠間辻バス停」に向かいました。20分ばかり掛かったでしょうか。下車後、軽く準備運動をして、いよいよウォーキングの始まりです。
先頭は、ガイドさんにお任せして、風人は珍しく最後尾を歩くことにしました。
少し下った所から、早速の山道です。一人なら、まず入らないだろうと思う分岐の方に折れました。特別回にして良かったと思いました。(笑)
急坂を登って行くと、まず花山塚東古墳がありました。半壊しているようですが、磚積の石室が開口しています。榛原石を磚積にした古墳を初めて見ました。レンガ状に一定の大きさに加工してあります。もっとアバウトな加工だと思っていたのですが、とても綺麗でした。そこからさらに山中に入って行くと、西古墳がありました。国の史跡にも指定される有名な古墳ですが、ここまで見学に来るのは大変です。頑丈な檻に囲まれているのですが、崩壊や人的な損傷を防ぐには止むを得ない処置なのでしょうか。残念ですが、檻の外からの見学となります。写真では見ていたのですが、大きさを実感出来ないでいました。一見した感想は、「こんなに小さいのか!」でした。珍しいとされる奥室も、本当に小さく見えました。棺を入れられるのか?・・。ひょっとして火葬していたのか?・・。などとも思うようなサイズに見えます。繊細な感じの造りになっていました。漆喰が全面に塗られていたとのこと、彩色とか壁画は無かったのでしょうか。
 花山塚東古墳 |
再び国道166号線に戻り、西に下って行きます。この行程は、国道以外にルートはありません。宇陀市と桜井市を結ぶ幹線道路なので、交通量も結構有ります。注意しながらのウォーキングになりました。
暫らく進むと、北から国道を潜り抜けて粟原の集落に抜ける道に出ることが出来ました。そこからは、集落の中の坂道を再び上ることになります。今回の忍坂街道探検では、このように粟原川の両岸の尾根上の遺跡や史跡を訪ねますので、喘ぎながらアップダウンを繰り返すことになります。ゼイゼイ言いながら辿り着いた粟原寺跡では、満開の八重桜が出迎えてくれました。新緑と八重桜に癒されます。

粟原寺跡の新緑と八重桜 |
塔跡とされる礎石群の中に、一際大きな心礎がありました。動かされているのか、遺構の中心部分から外れているように見えますが、他の礎石が動いている可能性もあります。浅い切り込みの排水溝が付いていました。深い知識などありませんが、渡来系?などという疑問も起きたりしました。創建時期に流行っていた様式なだけかも知れませんが。(^^ゞ

塔心礎? 粟原寺跡 |
金堂跡とされる礎石群は、かなり動かされているようです。というより、適当に四角く置かれたようにも見えました。角に在るはずの物が、真中付近に在ったりしています。散在していた礎石を集め置いたのではないでしょうか。付近を見てみると、人工的に造成された数段の平地があり、礎石も散見されます。塔・金堂以外にも何らかの堂宇が在ったようにも見えました。
 粟原寺跡 |
レンゲの咲く段々畑の道を下って、粟原地区の公民館広場へ戻ります。ここで、お弁当休憩です。懐かしい二宮金次郎の銅像がありました。今どき、本を読みながら歩く子供は、車に轢かれますから怒られます。参加者談(笑)
それぞれに木陰を求めて、山桜の散る中でのお弁当になりました。ブランコ遊びやおやつの交換会の後(笑)、ムネサカ古墳へ出発です。
運送会社の敷地を、お断りして通過。再び山中に古墳を探します。かなりの登りです。瞬く間に、国道がはるかに下方になりました。ムネサカ1号墳は、明日香村の岩屋山古墳と同じ規模の石室を持っています。内部は、蝙蝠が静かに寝ていました。そして、起こしてしまいました。(笑)立派な古墳です。ただ、岩屋山のような感動するほどの精緻さはありませんでした。石の表面加工の差だと思います。それは、被葬者のランクを物語っているのかなと思ったりしました。
 ムネサカ1号墳 |
国道に下ります。そして、反対側の尾根に在る越塚古墳を目指します。もう何度目の上りでしょうか。ふー!ぼちぼち、参加者の足取りが重くなってきました。大字下り尾の集落に上り始める頃に、粟原カタソバ遺跡群があります。当日説明は出来なかったのですが、5世紀後半から7世紀中頃にかけての長期間にわたる住居群があったようです。とりわけ飛鳥時代の建物跡は、石垣を伴う大型の掘立柱建物で、一般住宅ではない様相であるとされています。実は、後で知ったのですが、このカタソバ遺跡の発掘に、飛鳥遊訪マガジンの寄稿者として皆さんご存知の近江俊秀先生が関わっておられました。集落が、山深い、耕作地の少ない地区に営まれたことに注目されて、平野部と宇陀を結ぶ古道との関連を述べられています。もう少し早く知っておれば、より深い話を配布資料に収録出来たのにと残念に思いました。風人の勉強不足です。m(__)m ごめんなさい。
粟原カタソバ遺跡に関連する古墳群の2基に寄道をして、越塚古墳に向かいました。最後の坂道は、まことに体力を奪いました。
再び蝙蝠の歓迎を受けつつ見学した石室は、3段に持ち送りされており、天井の高い立派なものでした。棺底と思われる石が2枚残っています。また、組合せ式石棺の一部と思われる石材も残っていました。
 越塚古墳 |
天王山古墳へと、集落の道を下りました。この辺りで、2本目のペットボトルが残り僅かになりました。頭の中は、ウォーキング終了後の生ビールで占められ始めました。(笑)
天王山古墳は、古墳マニアならずとも知る崇峻天皇陵だとされる古墳です。45mほどの一辺を持つ方形の古墳で、石舞台古墳の小振りなものと思えば良いかと思います。暗殺された天皇として知られる崇峻天皇ですが、事変の黒幕・馬子の墓よりも規模が小さいというのは、物悲しさを感じてしまう部分でもありますね。
三度蝙蝠の歓迎を受けつつ、石室内も見学しました。有名な綱掛突起のある石棺も見てきました。実物ならではの迫力を感じます。

天王山古墳 |
この後は、舒明天皇陵・鏡女王墓・大伴皇女墓と巡りましたが、これらは宮内庁の管轄や多武峰談山神社の管理下に置かれ、柵の外からの見学に終わりました。ただ、舒明天皇陵は、その名(段ノ塚古墳)のごとく、台形状の3段の上に2段の八角形の墳丘を積み上げているのを確認しました。側面から見ると、八角 (円墳状)の上部2段がよく見えます。
鏡女王墓では、満開の八重桜が墳丘を飾っていました。
石位寺の拝観予約時間が迫っていたので大急ぎとなりましたが、ほぼ時刻どおりに着くことが出来ました。他の団体さんが見学されていて、収蔵庫は開けられた状態になっていました。三角おにぎり様の石仏を見るのは久しぶりです。以前に拝観した時とは、かなり印象が変わりました。粟原流れと言い、額田王の念持仏と言われ、白鳳時代に作られた最古の石像浮彫像だと言われます。貴重な物を拝観出来た良い機会でした。
忍坂街道探検も、石位寺を出ると、残すところは忍坂古墳群の移築公園だけとなりました。朝倉台住宅の外側を回りこむように駅に向かうと、小さな公園の外周部分に4基の古墳が移築されていました。珍しい石室平面を持つ8号墳・9号墳を見るのを楽しみにしていたのですが、破壊されたものを移築しており、残念ながら雑草も生えていることもあって、一角がかろうじて分かる程度でした。その角度から六角形であることを想像するには、もはや疲れ過ぎていたかもしれません。
午後4時20分頃に、近鉄朝倉駅に到着しました。アップダウンが多く疲れましたが、本当に楽しい特別回となりました。最後になりましたが、ご協力くださいました桜井市観光ボランティアガイドさんに、心よりのお礼を申し上げ、レポートを終了することにします。ありがとうございました。
遊訪文庫内 飛鳥咲読 の 忍坂街道探検 を参照ください。
yukaさん作成のレポート
sachiさん作成のレポート
P-saphireさん 作成のレポート
【2】 「第14回定例会 風人流レポ」 (09.5.29.発行 Vol.52に掲載)
第14回定例会も、たくさんの参加者を得て、盛会の内に終えることが出来ました。資料やレポートもサイトに掲載しましたので、どうぞご覧下さい。
さて、今回の飛鳥話1ですが、風人が見た「野守は見ずや 名柄の遊猟」を書いてみようと思います。ご存知の方は多いと思いますが、両槻会のスタッフは趣味や視点がバラバラです。だからこそバラエティー溢れる企画が生まれるのですが、風人の場合、全く植物関係には疎く、古代史や考古学の方面に興味がいきます。そこで、今回のテーマを風人が扱ったらどうなったかということをお話してみたいと思います。
薬学や利用法としての今回の資料は、仲間が言うのはどうかと思いますが、大変良く出来ています。ところが、風人の趣味に関してだけ言えば、少し物足りないところがありました。
まず、資料の中で示された「両」「斤」などの度量衡の単位についてです。「牛膝十三斤」と書かれた木簡資料を例にとると、「牛膝(ゴシツ)」という生薬名と「十三斤」という量が書かれています。風人は、「牛膝」の説明は定例会資料で分かるのですが、「十三斤」とはどの程度の量なのかが分かりませんでした。それで、木簡に書かれた文字の説明としては、上手く実感することが出来ませんでした。
そこで、藤原京の時代の度量衡を調べてみようと思いました。資料として探せるのは、大宝律令になります。大宝律令そのものは残っていませんが、一部が逸文として令集解古記などの他文献に残存しており、また757年に施行された養老律令が大宝律令を継承しているとされています。
大宝律令の規定によれば、単位として「斤(きん)・両(りょう)・銖(しゅ)」などがあったようです。
資料に使われた「十三斤」を例にとって説明してみます。実際の大宝律令には、黍(きび)百粒の重さを一銖とし、二十四銖で一両、十六両で一斤としているようです。ですから、「十三斤」は、100×24×16×13になりますから、「黍499,200粒の重さ」と言うことになりますが、やはりこれでは実感出来ませんでした。(^^ゞ
大宝律令では、一両は、中国隋代(唐代初期か)の一両に準じて、おおむね41~42gくらいであったそうです。(唐代になり減少し37.3gとなり、後に日本でもこれに近い値となったとされています。)
では、これで計算してみましょう。41g×16×13=8,528g(約8.5kg)になりました。ちなみに一銖(黍100粒)は、約2.93gになります。
「牛膝8.5kg」をもう少し見てみましょう。「牛膝」はイノコズチの根から採れる生薬の名前ですから、乾かした根だけの重量となると、8.5kgは、かなりの量になるのではないかと思います。とても個人が使う量ではないでしょうね。そのことが、重要な推測を生むかもしれません。
「一斤」=656g、「一両」=41g、「一銖」=2.93g
さて、今回扱った木簡資料の大部分は、飛鳥藤原京発掘調査の第58-1次調査で出土した木簡です。藤原宮西面南門の内側の大きな溝から発見されています。

第58-1次木簡出土地点付近(北から) |

西面南門復元柱列(南から) |
両槻会でも講演をしていただきました市大樹先生は、これらの多くの木簡は、物資の通行証とも言うべき、「門牓(もんぼう)木簡」であるとされ、物資を宮外へ搬出する場合、中務省が門衛府の門司に宛てた門牓を必要とする仕組みであったとされています。では、十二門ある藤原宮の門の内、なぜこの西面南門の付近から薬草名の書かれた木簡が出土するのでしょうか。そのことに、非常に興味を覚えます。
大宝律令では、医薬の制度が布かれ(医疾令)、その中には大学があり、また典薬寮を設け、薬園師、薬園生の官がおかれています。診療は医師・針師・按摩師のほか、呪禁師も居たようです。
平安宮では、典薬寮は西南部に置かれており、平城宮でも同様に西南部に置かれていたことが推測されているようです。藤原宮でも、やはり同様に配置された可能性があるように思えます。それが上記した「重要な推測を生む」にあたります。 第14回定例会で扱った木簡の他にも、同調査からは薬用に用いられたと見られる鉱物名「石流黄□」・「黒石英十一斤」などと記した木簡や、「病」・「外薬□(外薬寮=典薬寮の前段階の役所名)」と書かれた木簡も出土しています。この西面南門付近に、典薬寮という官衙が在ったのではないでしょうか。
藤原宮内裏東外郭に沿う大きな南北溝からも薬草名が記された木簡が出土し、また宮の北方には「テンヤク」という小字名が残っているようです。役所が移転しているのかもしれませんね。
同溝からは、今回の定例会でも取り上げました「受被給薬/車前子一升○西辛一両/久参四両○右三種∥・多治麻内親王宮政人正八位 下陽胡甥」の木簡も出土しています。
多治麻内親王は、父・天武天皇と母・氷上郎女との間に生まれた皇女です。高市皇子の妻であったとされることが多いのですが、書紀には関連する記述は無く、万葉集からの推測によるものです。異母兄弟の穂積皇子との不倫関係がよく取りざたされますね。
木簡から読み取れることによれば、多治麻内親王の宮に仕える執事のような存在の「陽胡甥」が典薬寮に薬を請求しています。「車前子=オオバコ」「西辛=ウスバサイシンなど」「久参=クララ」の三種を請求したわけですが、薬効を見てみると、消炎・利尿・止瀉・鎮痛・麻酔・平喘・鎮静・健胃・解熱・駆虫剤となります。腹痛とも思えますが、風邪の初期症状にも効きそうですね。如何なものでしょうか。単位が「両」なので、大した量ではないようです。
このように見てくると、風人にはより取っ付きやすいのです。(^^ゞ その上で、植物その物を実際に見てみると、いよいよ分かりやすくなります。これは、植物が苦手な風人 の戯言であります。
いろいろな見方やアプローチがあって良いのだと思います♪ だから両槻会は楽しいのですよ♪
【3】 「甘樫丘東麓遺跡の現地見学会レポート」 (09.7.4.発行 Vol.56に掲載)
今回の飛鳥話1は、飛鳥咲読とも関連させて、先日行われました甘樫丘東麓遺跡の現地見学会の模様をレポートしようと思います。
6月21日、前日までの雨予想が覆り、晴れ間も出て蒸し暑い一日となりました。甘樫丘東麓遺跡(飛鳥藤原第157次調査)現地見学会の現場は、木立に囲まれており、蒸し風呂のような状態の中で大汗をかきながらの見学となりました。
マスコミ報道では、「蘇我邸の城柵跡?奈良の遺跡で7世紀の石垣35mが出土」・「蘇我入鹿邸の“城柵”」か!甘樫丘東麓遺跡から新たな石垣」など、いつもながらにセンセーショナルなタイトルが目立ちました。
11時からの現地見学会には、終日で1,100人の見学者があったそうです。風人も見学会の1時間前には会場を訪れ、今回注目された石垣を興味深く観察しました。

石垣 |
今回の調査区のほぼ中央付近に、幅8m、深さ1.2mの谷地形があり、石垣は、東側の岸に積み上げられていました。南端部では50度の勾配があり、高さは約1mを測ります。クランクする部分や階段状の石列、開口部20cmの水口施設がありました。この石垣は、2006年度に検出された石垣の延長部で、総延長が約34mであることが分かりました。石垣は、今回の調査で検出された部分で途切れており、最南端だと考えられました。
石垣は、7世紀中頃に大規模な整地によって埋められています。このあたりが、歴史ファンにとっては、蘇我本宗家の滅亡時期と相まって、興味が尽きない部分であるわけです。
また、石垣の他に調査区の南東部分には、石敷遺構がありました。幅1.5~3m、長さ8~9m分が検出され、西側には底石の無い溝が沿い、東の山側は、端を揃えて縁取り状に石が並べられていました。北西方向に尾根に沿って遺構が広がることが予測されています。

石敷き |
調査区の北端では、土器を廃棄した土坑があり、ほぼ完形な物を含めて50点を超える土師器・須恵器が出土しています。これらの土器は、その形式から7世紀中ごろの物だと判断されています。

出土土器 |
このほかには、7世紀後半の長さ12mの石組溝や土器埋設遺構や柱穴列も検出されました。
奈文研公式サイト内学術情報リポジトリのページ(PDF形式)を参照してください。
さて、この甘樫丘東麓遺跡が、本当に蘇我入鹿の邸宅であって、石垣が日本書紀に書かれる“城柵”であるのかどうかを、少し考えてみたいと思います。甘樫丘東麓遺跡は、これまでの発掘調査で、遺構の年代をI期(7世紀前半)、II期(7世紀前半から中頃)、III期(7世紀末)に3区分して考えられています。その間には、大規模な造成が繰り返し行われており、特に7世紀中頃には、建物の建て替えなどを含めた度重なる土地利用の変更が行われたようです。

遺構変換・参考図 |
これらのことは、645年の乙巳の変(大化改新)の影響を受けたものだと考えられます。これまでの調査では、焼土や壁土や炭化した木材などが検出されており、伝えられる蘇我邸炎上を思い起こされます。
しかし、これまでの調査では、甘樫丘東麓遺跡が蘇我氏の邸宅であるとは断定出来ていません。
その一つの要因は、墨書土器や木簡などの文字資料が未だ検出されていいこと。また、遺跡全体が谷地形を含む傾斜地であり、その複雑な地形を大造成して繰り返し利用していることにも大きな要因があります。例えば、検出した遺構がどの時期区分(地層)に含まれるのかだけをとっても、マスコミ発表のように簡単ではないようです。
状況証拠は、かなり蘇我邸の一部である可能性は高まってきました。7世紀前半から中頃にかけて、飛鳥のこの地域に大造成を行える人物は限られています。焼土や豊浦寺や飛鳥寺と同范の瓦が出土すること、石垣建設に渡来系の技術が使われたとの指摘なども、その状況証拠の一つであるのかも知れません。
しかし、この遺跡を含む丘が、本当に甘樫丘であるのかという疑問すらあるのです。(1970年頃までは、豊浦山と呼ばれていたようです。)今は、誰しも甘樫丘として馴染んでいますが、それを断定出来る文字資料などは無いのだそうです。風人は、この丘が甘樫丘だと思うのですが、他に適当な丘が思い浮かばないと言った理由にしか過ぎません。(^^ゞ
さて、その丘ですが、かなり広いのです。一般的には、豊浦展望台付近のみを甘樫丘としてイメージしますが、公園化されている遊歩道一周で、充分1時間は掛かるほどの規模があります。参考に公園化されている部分を中心に描いてみました。入り組んだ谷をたくさんに持っていることが分かります。この内、実際に発掘調査が行われた場所は、僅かに二ヶ所(平吉遺跡・甘樫丘東麓遺跡)です。
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甘樫丘東麓遺跡からは、飛鳥の中心部が見えません。川原寺西の丘陵が北に張り出しているからです。日本書紀の記述を見ると、蘇我邸から飛鳥宮や中心部が見えるのは蘇我氏の横暴であるとするような記事がありますので、蘇我氏邸宅の中心施設は、別の場所に無くてはなりません。東側の北部に「エベス谷」と呼ばれる小字があり、有力な候補地の一つとされますが、この谷は小さく、邸宅を建てるスペースとしては不向きです。案外、近世にでも「恵比寿さま」をお祀りした祠でもあったのかも知れませんね。(笑) |
風人は、東麓遺跡の北側にある「南山」という場所が以前から気になっています。ここからなら飛鳥の中心部が見通せます。間口の広い谷地形をしており、住環境としても良いのではないかと・・・。もちろん妄想でしかありませんが、いずれ奈文研さんが調査をしてくださるのではないかと、心待ちにしています。
考古学は、長いスパンで楽しまなければなりません。結果を追い求めがちですが、我流の謎解きも楽しいことだと、風人は思っています。
今回の見学会で疑問に思ったことを箇条書きにしてみます。
・石垣の傾斜が、前回(70度)と異なること。今回も、北側と南側では、
異なるように見えること。 ・北と南では、石の積み方が違うように見えること。 ・南端が曲がらずに、そのまま終わってしまうこと。囲まないのか? ・石敷遺構は、何を目的にしたものなのか。何を区切っているのか。 ・検出された柱穴は何なのか。
風人の妄想
今回の石垣は、蘇我邸の増設に伴う造り掛けなのではないかと・・。645年に彼等は死ぬとは思っていないわけで、勢力の絶頂期に、より甘樫丘全体を邸宅化・要塞化するために、南側を中心に造成途中であったのではと思いました。石垣の尻切れトンボさ、石垣がある造成地なのに顕著な建物がない点などです。石垣の反対側(西)に、倉庫などがあり、計画的な配置とも思えない点も、増設途上の可能性を物語っているのと。妄想ですので、何の根拠もありません。(笑) きっと明日には違う妄想を楽しんでいると思います。
【4】 「掃守寺妄想紀行」 (09.10.2.発行 Vol.63に掲載)
今回は、飛鳥地域を離れて、葛城市を歩いたお話を書かせていただきます。皆さんは、掃守寺というお寺をご存知でしょうか。現在地上にそのお寺は存在しませんが、7世紀末から8世紀初頭に創建された長六角堂という他に例のない建築物を有します。また尾根を隔てた南北に伽藍が分かれるという珍しい構造を持つお寺です。所在地は、二上山の東麓にあり、東西に伸びる谷の奥に位置しています。(葛城市加守)
半月ほど前になりますが、飛鳥遊訪マガジンでもお馴染みの近江俊秀先生が、「掃守寺と石光寺-大津皇子の供養堂はどちらか?」という講演会を掃守寺の地元である葛城市で行われました。これまでに5回の発掘調査が行われていますが、近江先生も直接この遺跡の調査にたずさわっておられました。
講演は午後2時からでしたので、それまでの時間を利用して現地を見ておこうと、加守に出かけることにしました。妄想紀行ですので、近江先生の講演内容から逸れるのはご容赦ください。
近鉄二上神社口駅で下車、10分弱ばかり西に緩やかに上った所に掃守神社があります。
神社からの眺望はありませんが、付近からは大和盆地が見渡せ、東に大和三山の姿も視認できました。
地図などを見ると掃守神社と書かれているのですが、この神社は、三社が祀られていて、掃守神社は摂社となっているようです。真中には、葛城倭文坐天羽雷命神社が、そして、もう一社二上神社があります。
倭文(しとり)や天羽雷などの名は、どちらも織物に縁のあるものだ思われますが、これが今回の近江先生のお話に関連するのではないかと、風人は妄想に浸っています。(^^ゞ
さて、肝心の掃守寺跡ですが、神社を北に出て、少し西に上った所にありました。二上山の雄岳の裾と言ってよい場所です。仰ぎ見るように雄岳が迫っていました。現在は、四天王堂という小さなお堂が残るだけですが、その西側に段状に連なる平地があり、長六角堂はそこに建立されたようです。
掃守寺は、南北に伽藍が分かれていますが、谷の奥まったところに長六角堂を建てたため地形の影響を受けたのでしょう。後に、塔を建立し伽藍を整えるには、このような配置にならざるを得なかったのかも知れません。東には緩やかに傾斜する地形が広がっていますので、広い土地を求めようとすれば出来たでしょう。二上山のより奥懐に建てるという拘りがこのような伽藍を造り出したように思えてなりません。
吉野龍門寺や龍蓋寺(岡寺)などと共に義淵僧正創建と伝わる龍本寺(龍峰寺)が掃守寺とされるのも、地形的にも肯けるところがあります。また義淵との繋がりは、この付近から出土する岡寺の物と酷似する五葉や六葉複弁蓮華文軒丸瓦や葡萄唐草文軒平瓦から考古学的にも裏付けられるようです。
鎌倉時代に書かれた醍醐寺本「諸寺縁起集」には、掃守寺は掃守司に造らせて義淵僧正に施されたものであると書かれているそうです。また、近江先生が講演で紹介されました「正倉院文書」などの記載から徐々に官寺的な色彩を帯びてくる様子などが窺え、謀反の罪で刑死した大津皇子を供養しようとする機運が国家的に高まって行った様子が感じられます。それは、大津皇子への後ろめたさや恐れであったのでしょうか。大来皇女の創建とされる昌福寺(夏見廃寺)が、同時期に大きな伽藍増築がなされたのも、それを物語っているように思えます。
加守の集落を抜け、掃守寺の北遺跡に向かいました。大きな灌漑用に使われている池の北西畔に塔はあったようです。
塔跡が検出された場所付近から二上山雄岳を見上げる。
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付近から出土した瓦には、官寺的な性格が強いとされる興福寺に使用された軒丸瓦がありました。
先に書いたように、塔の造営段階では官の影響を色濃く受けていると言えるようです。
午後から行われた近江先生の講演によれば、このタイプの軒丸瓦は、新田部親王邸跡や舎人親王邸跡からまとまって出土したそうで、天武天皇の皇子の邸宅に使用されていた可能性が強いということでした。
奈良時代、瓦は寺院や役所、最上層の貴人邸など限られた建物にしか葺かれることはありません。また、地方豪族の氏寺では興福寺式軒丸瓦が使われることはほとんどなく、この事からも掃守寺が単なる掃守氏の氏寺ではないことが分かります。また、天武天皇の皇子である大津皇子との関連を窺うことも出来るでしょう。
塔の大きさは、薬師寺と同規模で、塔だけを回廊で囲む「塔院」と呼ばれる様式であったそうです。
二上山と大津皇子に思いを馳せながら、次の目的地「石光寺」に向かいました。百日紅や寒牡丹で皆さんもよくご存知の古刹です。天智天皇の頃の創建と伝承されますが、このお寺も大津皇子菩提寺説があります。
もう、紙面がありません。
この後、只塚廃寺跡を見学し、講演会場へと向かいました。近江先生の講演は、いつもながらに楽しいお話でした。
肝心なことが書けないのは、風人のいつものことですが、続きは又の機会と言うことに。m(__)m
【5】 「太子道踏破レポート」 (09.11.27.発行 Vol.67に掲載)
11月22日、法隆寺が主催する「太子道をたずねる集い」があり、150名の参加者と共に、法隆寺から橘寺までの24kmを歩いてきました。一行には、第16回定例会で講師を務めてくださった清水昭博先生が同行して、解説を加えてくださいました。3ヶ所だけでの解説で、風人には物足りない思いもありましたが、なにせ長距離ですから仕方がありません。
太子道は、聖徳太子に由来するといわれる古代道路で、斑鳩と飛鳥を結びます。聖徳太子が、斑鳩宮より小墾田宮に通われた道とされることから通称「太子道」と呼ばれるようになりました。奈良盆地を斜めに一直線に走るため「筋違道(スジカイミチ)」とも呼ばれています。
明確な記録はありませんが、法隆寺や斑鳩宮を中心にした地割りの方位が、太子道の方位に合致する点などを考えると、太子道の敷設は、斑鳩宮が造営された推古9(601)年頃であろうと推定されます。南北三道や横大路も、同様にこの頃に計画をされたのではないかと、風人は思っているのですが、どうでしょうか・・。
法隆寺を朝8時30分に出発、太子が晩年を過ごされたとされる泡波葦垣(あくなみあしがき)宮ではないかと推定される「上宮(かみや)遺跡」を通り、太子伝承が色濃く残存する三宅町に至ります。「太子腰掛の石」や、愛馬黒駒を繋いだとする「駒繋ぎの柳」、また地名にも、太子の風除けとして屏風を立てたことに由来する「屏風」などがあり、後世の聖徳太子信仰の名残も感じることが出来ました。太子様にも1400年ぶりに腰掛石にお座りいただいて、風人もここで昼食をとりました。
三宅町の皆さんは、この太子道を誇りとされているようで、地場産業の靴下のお土産や太鼓や踊りで、一行を温かく歓迎してくださいました。温かい赤米のお粥は、とても美味しかったです♪
昼からも、ひたすら太子道を南下します。黒田大塚古墳や保津・宮古遺跡を過ぎ、多神社に到着する頃には、疲れが見え始めた方もいらっしゃいました。先頭を歩く方が代わるのか、歩行スピードが急に変わり、列の後ろでは調子を合わせるのが大変です。長距離走で、ふるい落としの駆け引きをされているような気さえしました。(^^ゞ
多分、天候を心配されてのことだったのでしょう。
多神社は、古事記の編纂に携わった太安麻呂でも知られる「多氏」の本拠地にあり、奈良時代には大神神社に次ぐ経済力を持っていたとされるそうです。このような古代豪族の本拠地を通過するという事実も、太子道を考える上で重要なことなのかもしれません。多神社からは、バスに乗車、橿原市今井町の「華甍」まで移動しました。しかし、乗車したバスが渋滞につかまり、雨に遭遇してしまうことにもなりました。(>_<)
今井町からは、飛鳥川に沿って明日香村に向かいます。この頃から小雨が降り始めました。最後の4キロばかりは、傘をさしてのウォーキングす。疲れた方には、お気の毒でした。雷丘の西麓あたりで、清水先生から小墾田宮のご説明をいただき、第17回定例会と合わせて、小墾田宮探査の面白さを改めて感じていました。どこに在ったのでしょう?皆さんも、この謎解きにご参加されませんか。(笑)
最終目的地の橘寺到着は、午後4時20分くらいだったでしょうか。ほぼ予定通りの到着となりました。橘寺さんでも温かい飲み物をご用意いただき、疲れた身体が癒されるようでした。
24キロというと長距離ウォーキングになりますが、両槻会にご参加いただいている仲間たちと楽しく歩いていると、風人は特に疲れを感じることもなく、踏破することが出来ました。解説の清水先生から、いろいろ示唆にとんだお話を伺え、本当に楽しい一日となりました。古道歩きは、楽しいです♪清水先生、お疲れさまでした。
今回とルートは若干違っていますが、よろしければ風人が以前歩きました太子道の地図をご覧下さい。

参考:太子道地図 |
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