両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


 神仙境竜門寺を訪ねる 

    
第一回・第七回定例会関連オフ会レポート (2008年 4月 29日)


 都が飛鳥から藤原京、平城京、平安京へと遷っても、古京飛鳥への望郷の思いは当時の都人にまだ色濃く残っていたに違いありません。
 第1回両槻会の定例会は、そうした視点で、平安時代の殿上人が目にし、心に抱いた飛鳥はどんなものだったのかを、限られた文献資料から読み解いてみようと いう試みになりました。奈良大学文学部の滝川先生に、これまで2回の定例会で菅原道真や宇多上皇、また藤原道長一行が辿った飛鳥を取り上げていただきました。

 この両講演会の中で、一行はいずれも飛鳥から吉野川右岸の竜門山中にある山岳寺院を訪ねています。神仙境として立ち去りがたい思いを抱かせたという「竜門寺」とは、どのようなところなのか、一度、みんなで訪ねてみたくなり、希望者を募ったところ、19名の方が参加してくださいました。いつもの事務局員も滝川先生も初めて訪ねる寺跡だけに、興味津々のオフ会になりました。

 新緑が眩い4月29日の休日は爽やかな快晴で、絶好のウォーキング日和となりました。
 近鉄吉野線「上市駅」に集合し、11時25分発のバスで「立野口」まで乗車。平日であれば、麓の山口集落までコミュニティーバスが運行されているのですが、休日は吉野川沿いの立野口から徒歩となります。
 立野口でバスを降りると、すぐ目の前に大名持神社のある妹背山の一方峰「妹山」が見えています。この山を右手に見ながら川沿いの県道を先ずは吉野山口神社を目指して歩き始めました。およそ1時間ほどの道のりです。
 緩やかに上る車道歩きは足が疲れますが、山々が新緑と常緑の緑のモザイク模様を描いて、この季節ならではの光景を見せてくれます。

 車道を辿るとほどなく橋の袂の道端に「忘冠橋」と書かれた葛野王の遊竜門山の漢詩碑が見えてきました。懐風藻に所載された五言詩で、日頃の政務のわずらわしさも忘れるほど竜門山の仙境の素晴らしさを詠み上げています。

  葛野王の漢詩
  命駕遊山水    
駕を命じて山水に遊ぶ
  長忘冠冕情    
長く忘る冠冕(くわんべん)の情
  安得王喬道    
安(いづく)にか王喬(わうけう)の道を得て
  控鶴入蓬瀛    
鶴を控(ひ)きて蓬瀛(ほうえい)に入らん

 葛野王は壬申の乱で敗れた大友皇子の子で、母は大海人皇子の皇女十市皇女です。政争と複雑な血筋の中で生きた王ですが、正四位式部卿に任ぜられ、そこそこの地位にはあったようです。しかし政務は忘れたくなるわずらわしさだったでしょうね。

 道はやがて右に折れると津風呂湖に近づき、信号を湖とは反対の旧街道に入ります。しばらく山口の集落を歩くと正面に鳥居が見えてきました。吉野山口神社です。大山祇神を祀る神社で、古くから天候をつかさどる神として信仰されてきた神社です。この神社の境内には、竜門山頂にあった高鉾神社が祀られています。 農耕、安産、縁結びの神として崇敬されているそうですが、命ごいという珍しいご神徳があるようです。殿社の中央にある灯篭に文亀3年(1503年)の銘が あり、500年ほど前に今の吉野山口神社に遷座された神様です。


 この両社を合わせて竜門郷の総社として崇められています。
なお、神社の横を通る街道は、高見越えの伊勢街道(紀州街道)として参勤交代の大名行列の江戸往還にも使われていました。神社の拝殿前には八代将軍徳川吉宗が往還の無事を願って寄進した二基の石灯篭があります。

 拝殿と本殿の間は、階段や斜面で閉ざされている神社が多いのですが、この神社には間にかなり大きな広場が設けられています。拝殿と本殿の間でも何か祭事が行われる拵えになっているようでした。

 山口神社を後に、いよいよ山中に入ります。渓流に沿った林道は良く整備されていて、せせらぎの瀬音が足の疲れを癒してくれるように心地よく響いてきます。 ここから竜門寺跡までの山路はそれほどの勾配もなく、渓流に導かれるように辿る絶好の散策路です。歩き始めた立野口から寺跡までの標高差は200メートルほどになっています。
途中でいろんな山野草に出会うことができました。ナルコユリや稚児ゆりも咲き、わらびやゼンマイが随所に萌え出ていました。


 渓流の水音に耳を傾けながら心地よい山路を歩いているうちに、そろそろお腹が空いてきました。もうそろそろ1時は過ぎている頃合です。体内時計に急かされていることに気づいたときにちょうどいい具合に龍門の滝の標柱が眼に入りました。
滝の見学の前に腹ごしらえとなりました。渓流の傍で思い思いの場所を見つけて弁当を広げます。こういう山中で食べるお弁当は、たとえコンビニ弁当であってもやはり格別の味わいがあります。何か得したような気分でした。

 お腹も落ち着いたところで、さて龍門滝です。標柱を見ると、清澄な滝水は里人の暮らしを支える「やまとの水」に選定されているようです。麓にあった山口神社の手水舎も、かっては竹樋でここから引かれていたといいます。
 ところが滝壺に降りる小道がなんとも物騒で、特に取り付き口の傾斜が急で、うっかりすると滑り落ちそうに険阻でした。結局、参加者の何人かは下まで降りることを躊躇い、断念したほどです。

 滝は落差が24メートルほどあるそうですが、滝壷の下にも岩走る流れがあり、落差ってどこからどこまでを言うのかと無粋な疑問を誰にも言えず、口の中だけでもごもご♪
滝壺の傍らに芭蕉の句碑がありました。芭蕉もこの地を訪ねていたのかと妙に関心。その句が二句刻まれています。



 龍門の花や上戸の土産(つと)にせん

 酒呑みに語らんかかかる滝の花




 思わずTOMさん、風人さん、伏見さんの顔が浮かび上がる冗句かと思いきや、酒はともかく花にはあんまり縁がない朋友かと、にんまり楽しませていただきました。ま、風流とはおよそ縁のない人生が長すぎた太古ですからあしからずです(*^^)v

 新緑と流れ落ちる滝の清々しさに打たれたあとは、この滝の岩頭にあるという塔跡の探索です。山岳寺院の竜門寺は、わずかな平坦部を開削して多くの伽藍が建てられていたとされています。平安期に最盛期を迎え、室町時代の兵火等によって廃寺となったこの寺の塔跡は、昭和28年に寺跡の保存、顕彰のため奈良県教育委員会によって発掘調査が行われています。その報告書によると、塔跡は竜門滝右岸の真上にあるとされています。

 ちょうど昼食を摂った直ぐ近くに案内板があり、その案内板を上ると、錆付いた鉄柵に囲まれた塔跡がありました。山の斜面を開削して整えられた塔の基壇は 6.3メートル四方という狭さです。中央に心礎と四隅に側柱の礎石が残っていますが、東南隅の一個は滝に転落していたものが引き上げられました。この狭隘 な地に建てられた三重塔の姿は、その立地的制約からやや趣をことにした塔であったように思われます。

 みんなで基壇に立ちましたが、礎石も柱穴も堆積した腐葉土に埋もれています。足や枯れ枝で腐葉土を取り除くと、可愛い柱穴が確認できました。だれかが舎利 はないかとまだ彫っていますが、発掘された遺物は古瓦と塼仏が中心で鉄製の風鐸が一個出土しています。塼仏は山田寺や橘寺と同類のもので白鳳時代から奈良時代初期のものだそうです。


 発掘調査はこの塔跡しか行われていませんが、わずかな平坦地を削平して多くの堂塔が点在していたと考えられています。

 そこで、探検隊は手分けしてその他の伽藍跡を求めて山中を徘徊しましたが、それらしき平坦部にも痕跡が見当たりません。諦めかけていたころに、やはり塔跡の直ぐ近くに本堂跡の石標が見つかりました。林道から見上げる位置に、薄暗い樹間に今にも転げ落ちて来そうに本堂跡の文字が見えたのです(*^^)v

宿坊跡碑 本堂跡碑

 回り込んで上ってみると、わずかな平坦部が跡をとどめています。しかし本堂跡とする標柱以外に礎石らしきもは不明で、崩落部にそれらしき石が認められる程 度でした。険しい山岳寺院の在りし日の佇まいに思いを馳せるしかありませんが、この地が仙境として仙術の修業に勤しんだ仙人の草堂があったとする雰囲気は 確かに感じ取ることが出来ました。仙気というものでしょうか、清和天皇をはじめ多くの堂上人を通わせ、去りがたい思いを抱かせたこの空間に、今はせせらぎ の瀬音と樹幹から洩れ来る日の光だけが、はるかな栄光の歳月をささやきかけています。

 短い探訪が終り、再びもと来た道を引き返します。
 すでに時のかなたに埋もれつつある名刹跡は、人の営為のはかなさとともに、あえてこの地に堂塔伽藍を築き上げた往古の人の思いに、わずかでも触れる機会となりました。

 最後に忘れていた旧跡があります。
 来るときには気づかなかったのですが、かの久米仙人が穴居した石窟跡の標柱が今にも崩落しそうな形で留まっていました。林道からその下を見ても、どこに石窟があるのか検討がつきませんでした。
 飛行仙術中に眼下で水洗いする乙女の白い脹脛を目にして、仙力を喪い墜落したというユーモラスな伝承を持つ久米仙人が、この竜門で穴居した跡をぜひ見てみたいと林道下の川原まで降りて、石柱が示す岩を見上げましたが、それらしき岩窟を確かめることが出来ませんでした。おそらく崩落しているのかもしれません。


 滝川先生にいただいた芙桑略記に久米仙人に関する次のような記述があります。
古老相伝ふ、本朝往年三仙人あり。龍門寺に飛ぶ。所謂、大伴仙、安曇仙、久米仙也。大伴仙の草庵、基あれども舎なし。余仙の室、今に尚ほ存す。但し久米仙飛びて後更に落つ。其の造精舎大和国高市郡に在り。……久米寺是れ也。

 「但し久米仙飛びて後更に落つ」という記述に、仙境で修業に励んだ久米仙人の人間的な側面は、何を語っているのか、可笑しみ以前に興味を引かれる伝承です。

 今回の流れのままの短いオフ会レポートはこれで終りです。
 ご一緒いただきましたみなさん、ありがとうございました。
 山中に寺の痕跡を探して駆け回った思い出は、記憶に残る楽しいものでした。
 また、機会があれば探訪に出かけたいものですね。

 この後の押し競饅頭のような居酒屋談義も楽しかったです♪

  参考写真ページ


2008年 4月29日

製作担当 両槻会事務局  
河内太古 

第七回定例会レポート    事前散策レポート

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